布津純一ふつじゅんいち


布津純一について



 布津純一は大分県の現在は宇佐市出身のビジネスマンである。啓成社の社長であり、啓成社は『美味求真』の出版元として書籍を世に送りだした。
 また釣りが趣味であり、釣り雑誌『水之趣味』を発行。またこの雑誌を分社化させた水之趣味社の中に、昭和22年7月、釣友同和会を結成し、布津純一は代表として釣りの普及活動を行う。


双葉山


 布津純一の郷里は大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)である。地名にもあるように布津家は名士であり、家業として米穀、醤油の醸造、質商を営む裕福な家であった。
 実はこの地元の宇佐郡天津村布津部は、大相撲において69連勝という未だ破られる事のない偉業を成し遂げた元横綱双葉山の出身地でもある。布津純一と、双葉山は25歳の年齢差があるので、地元での面識はなかったかもしれないが、実家はご近所という関係である。相撲界で頭角を現し始めた頃からは在京大分県人会を通じての繋がりがあったのではないかと推測している。

双葉山


 1939年 [昭和14年] 1月15日、双葉山は70勝目に挑むが、安藝ノ海に敗れてしまい、69連勝という記録でストップしてしまう。その日の取組後、双葉山は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席することになっていた。70連勝を阻止された当日の夜だったことで、急遽、その敗戦を慰める会の雰囲気になったのであるが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。
 布津純一は、大分県の中でも、まさに双葉山の地元中の地元の天津村布津部出身である。この日は、記録更新もからんだ双葉山の激励会であったので、大分県人会主催の激励会には間違いなく出席していたと思う。

 ちなみに、この日に双葉山の激励会を行っていた在京大分県人会 [両豊倶楽部] とは、後に大分市長となる上田保が、宇佐郡八幡村の出身で東京弁護士会長(後に最高裁判事)だった塚崎直義に働きかけ、それまで小グループで活動していた県人会をまとめた団体である。その上田保は常任理事として活動し、双葉山とも仲が良かったため、大分県出身で中学時代からの知り合いの福田平八郎、また彫刻家の朝倉文夫の自宅にも双葉山を連れて行っているくらいでる。双葉山との交友と、在京大分県人会で中心的な役割を担っていたことを考えると、この日には間違いなく上田保は激励会に参加していたはずであり、同郷の布津純一もまた、その場にいたであろうと考えられるのである。

 在京大分県人会 [両豊倶楽部]は同郷の大分県人の交流だけでなく、ビジネス面においても互いの人脈を通して活性化を図ろうという目的もあったようであるので、啓成社取締役として、布津純一もこの県人会に席を置いていたと考えられるし、それ故に上田保とも面識は当然あったであろう。
 さてこの上田保は、後に大分市長となり、木下謙次郎の甥にあたる、木下郁(大分県知事)と共に、大分県政・市政において大きな働きをする。大分城址公園に行くと、上田保と木下郁が並んで立つ銅像がある。
 また上田保は、後に大分県知事となる平松守彦と、上田保の娘(千鶴子)が結婚することから、その義理の父ともなるのである。

上田保と木下郁 像



布津純一の経歴


 『美味求真』は啓成社によって1925年 [大正14年] 1月8日に発行されている。『美味求真』の奥付を見ると、発行者として株式会社「啓成社」、そして代表者として布津純一の名前がある。以下、『帝国大学出身名鑑』にある布津純一の昭和7年までの経歴を引用する。

【 帝国大学出身名鑑 】
 大分県人布津紋吉の長男
 明治二十年五月二十二日を以て生る
 夙に中津中学第五高等学校等を経て
 大正二年東京帝国大学法科大学独法科卒
 大正四年帝国火災保険株式会社に入り
 名古屋支店長に就任す。
 同六年カブト麦酒会社に転じ販売課長
 同十年日本マグネシウム株式会社取締役
 同十五年之を辞し
 国民新聞社取締役兼総務局長となり
 啓成社専務取締役を兼て
 以て今日に至る


 布津純一は、東京帝国大学(現・東京大学)法科大学独法科を卒業し、国民新聞社取締役兼総務局長と啓成社専務取締役を兼任していた人物である。父親の布津紋吉の項に詳しい説明が『宇佐郡人物大鑑. 上巻』にあるので、以下に引用する。

【 宇佐郡人物大鑑. 上巻 】
 『一志能く貫かんと欲せば、須らく百折不撓の大精神を以て勇往邁進せよ、然らんには何物かを蠃ちえむ』と是古哲の金言にして萬人の以て箴とする金科玉条にあらずして何ぞ君は宇佐郡天津村の人、布津家は父祖累代、布津部の名門として知られ、祖父甚右衛門翁の頃から専ら米穀を商ひ傍ら清酒、醤油の醸造を業とし傍ら質商を営んで繁昌近郷に並ぶものがなかった、祖父甚右衛門翁歿後は父甚蔵翁家業を継いで営々孜々家業を精励し家運彌が上にも富み栄えた。

 君は年十五歳にして扇城に遊び碩儒大久保慶藏先生の門に入り漢学を修め、後十八歳の時笈を負ふて烏城(岡山)は赴き備前の洪儒の旦海先生の雲蒸学舎に入り漢籍の蘊奥を極め、詩文の才、超凡し旦海先生をして驚嘆せしめたほどの鬼才であった。君夙に天稟聡明、不屈不撓の大精神を以て一貫し胸奥才気煥発、稀に見る人物として春秋の将来を嘱望された、斯て雲蒸学舎に学ぶこと一年有餘学成り錦衣を郷關に飾って、翌十九歳、父甚蔵翁の後を承け家系を継いで名門布津家の當主となった。

 ― 略 ―

最後に尚逸することの出来ぬのは、君の令息純一君は曩に優等の成績を以て東京帝国大学法科を卒業し法学士の称号を蠃ちえて大日本麦酒株式会社に入り枢要な位置を占めていたが後東京啓成社に轉し現に専務取締役に挙げられ同社経営の衝に當り超凡の手腕と卓抜せる経綸の才を揮って東都実業界に活躍し新進の花形として春秋の将来を有している、二男立一君及び三男の両令息は現に早稲田大学に在学し秀才の誉が高い。


 父親の布津紋吉は非常に優秀な人物であったことが述べられている。さらには「米穀を商い、清酒、醤油の醸造を業とし傍ら質商を営んでいる」とある。こうした事業を経て富を築き、高額納税者となった人物として、父親の布津紋吉は紹介されており、布津家は非常に裕福であったことが分かる。

 布津純一の出身地は宇佐郡天津村、木下謙次郎の地元の安心院であること。さらには両家は宇佐という地域において名家であったことから、木下謙次郎と、布津純一は郷里を介して何らかの繋がりがあったか、あるいは同郷ということから、東京で親しくなったのかもしれないと推測される。
 こうしたコネクションから、布津純一が取締役を務める啓成社から『美味求真』が出版されるこになったのだろう。
 啓成社は『大字典』(この書籍は昭和9年まで初版から1700版も刊行)という漢字辞典を軸とした出版社で、どちらかというと堅い内容の出版物を中心とした出版社であった。現在とは異なり、これまで一般的なグルメ本というジャンルは出版界に存在していなかったので『美味求真』の出版は、ある意味において啓成社にとっては挑戦的で新しい試みであったに違いない。
 こうした先例のない、新たな試みにも関わらず、『美味求真』が出版された理由には、啓成社に布津純一という、同郷の士がおり、その力添えがあったことが理由として挙げられるのではないだろうか。結局は『美味求真』はベストセラーにとなり、利益を啓成社にもたらしたに違いないのだが、これは布津純一が優秀な編集者でもあり、彼に先見の明があったことを示すものに他ならない。


水之趣味


 布津純一が単なる同郷のよしみだけで『美味求真』を出版したのでは無い事は、他の手がけた出版物からも分かる。
 布津純一は釣りが趣味であった。(『帝国大学出身名鑑』には趣味演劇とあり、釣りが入っていないのが気になるが...)彼は釣友同友会の指導者として活動していた。また啓成社として、元々、国民新聞で勤務していた竹内始萬を支援して釣雑誌の「水之趣味」を編集させ、昭和8年11月号創刊として発売する。編集兼発行人は布津純一、編集者として竹内始萬、佐宗恵輔、青山浩が携わっている。それまでは「釣り」をテーマにした趣味的な雑誌は存在していなかったらしい。

『水之趣味』創刊号


 昭和10年に、佐藤垢石さとうこうせき竹内始萬たけうちしまんは、啓成社から「渓流の釣り」という本を共著で出版する。
 こうした繋がりがあり、その後、竹内始萬は、雑誌「つり人」に移り、創刊号から編集長であった佐藤垢石の後を引き継ぐことになる。
 これは推測であるが、木下謙次郎と布津純一は郷里を通して繋がっており、布津純一を通して、木下謙次郎は「釣り」のネットワークともつながり、こうして木下謙次郎は布津純一および竹内始萬を通して、佐藤垢石ともつながったのではないだろうか。
 まだ裏が取れていないが、三冊目の『続々美味求真』のゴーストライターを佐藤垢石が務めたという話も、事実であるとするとこの辺の人脈から実現した話であると言えるかもしれない。この点に関しては何としても今後は正確な調査を進めたいと考えている。


家族について


 もう一点、布津純一について指摘しておきたいのは『帝国大学出身名鑑』にある、家族についての記述である。

 妻 キワ 明治二七生、大分、帆足恒雄長女 大分県立高女出身


とあり、よもやと思い調べてみると、妻キワの父親である帆足恒雄は医師であり、また豊後三賢人(広瀬淡窓ひろせたんそう三浦梅園みうらばいえん、帆足万里)と呼ばれた、帆足万里の孫に当たる人物であることが分かった。帆足万里は江戸時代後期の儒学者・経世家・教育者であり、豊後国日出藩の立て直しをおこなった人物である。つまり、布津純一の妻キワは、帆足万里の曾孫にあたり、布津家は、帆足家とも親族関係にあったことが分かる。

 この帆足万里は、多くの門下生を抱えていたが、木下謙次郎の父親の木下雄吉も帆足万里の高弟子であった。

 帆足万里は、木下雄吉を始め、他にも多くの門下生を抱えていたが、その一人に下村御鍬みくわがいた。この下村御鍬は、御許山騒動に加担した勤王の志士で、のち三重県の郡長、大分中学教員をつとめ、大正8年76歳で没した人物である。
 下村御鍬は、最晩年の万里の門下生として学んだひとりであったが、万里からの強い思想的影響を受けたことが勤王の志士としての行動につながったと考えられている。
 この下村(木下)御鍬は、安心院の木下家の本家の人間であり、木下謙次郎とは従弟の関係にある。(家系図参照)

大分中学教員時代の下村御鍬:前列中央


 木下家が学んだ師である帆足万里の曾孫と、布津純一が結婚しているという事も、木下家と布津家の名家が、どこかで元々繋がっていたのかもしれないと考えられるだろう。

 いずれにせよ、こうした大分県での人間関係をベースが、『美味求真』は出版物として世に出ることになったと考えることが出来る根拠とすることが出来るだろう。





参考文献


『宇佐郡人物大鑑. 上巻』  網中春汀

『帝国大学出身名鑑』  校友調査会

『弁護三十年』  塚崎直義

『帆足先生的収蔵』  キントウン

『懐かしの別府ものがたり』