細川幽斎ほそかわゆうさい


細川幽斎について


 細川幽斎(1534年6月3日~1610年10月6日)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。将軍・足利義藤(後の足利義輝)から字を賜り、細川藤孝を名乗る。本能寺の変以降、剃髪して幽斎と名乗るようになった。幽斎は雅号でもあり、歌人でもあった幽斎は重要な文化人でもあった。

細川幽斎(細川藤孝)


 幽斎と名乗るようになるのには「本能寺の変」が関係している。
 もともと細川幽斎と明智光秀は非常に仲が良く近しい関係にあった。また息子の忠興は、明智光秀の娘の玉(ガラシャ)と結婚しており親族関係にもあった。しかし「本能寺の変」の際には、明智から援軍の要請があったにも関わらず幽斎は援軍を送ることはなかった。そこには政治的な思惑もあったに違いなく、明智の要請を断るために、剃髪して、細川藤孝から細川幽斎へと名前を変えて、家督を息子の細川忠興に譲り、隠居するというかたちで明智への援軍を行わなかったすじを通している。
 結果、明智軍は山崎の戦いで敗れ、俗にいう三日天下に終わるのだが、この事はその時代の空気を読むことにも細川幽斎は長けていた事を現していると思われる。

 織田信長の死後、豊臣秀吉が天下人としてその勢力を伸ばすようになるが、一旦隠居して幽斎となったこの人物は、力量の高い文化人として利休と共に重用されてゆくことになる。後でも述べるが「筒井筒」という重要文化財の茶碗があるが、これにも細川幽斎は関係している。
 他にも幽斎は歌人であり、古今伝授という秘伝を受け継いだ唯一の人物であった。
 細川幽斎は、三条西実枝から古今伝授を受け、その子・三条西公国とさらにその子・三条西実条に返し伝授するまでの間、二条派正統を細川幽斎は継承していた。
 この古今伝授とは平安時代の勅撰和歌集・古今和歌集の解釈であり相伝により伝えられた文化的に重要なもので、現代まで伝えられているが、細川幽斎の死により一時期は断絶の危機を迎えたこともある。それが次に述べるエピソードである。

 秀吉の亡き後、細川家は豊臣家を見限り、徳川家康に組するようになる。(この辺も時代の機運を見る幽斎の能力のためかと思われる) 1600年6月に家康は会津征伐を行うが、息子の細川忠興は殆どの兵を率いて家康に加勢し東国での戦いに参戦していた。この間に近畿一帯の家康の武力の影響力が薄れたのを見計らい、石田三成が挙兵し徳川派に攻撃を仕掛ける。

 この時、大阪の屋敷にいた、細川忠興の妻、細川ガラシャは人質となることを拒んで死に、屋敷を爆破する。

 一方、細川の居城である、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市)に、細川幽斎がおり、三成の西軍1万5千の軍勢に囲まれてしまう。この時、田辺城には5百の兵しかおらず、1/30の兵力だけで立て籠り50日間も持ちこたえた。
 ただしこの城が簡単に落ちなかったのには理由がある。理由はふたつある。
 ひとつは、西軍の中には、当代一の文化人でもある幽斎を歌道の師として仰いでいる諸将も少なくなく、攻撃にも積極性を欠いていた為ある。これは幽斎の文化人としての才能が、戦にも有利に働いた特異な例である。
 もうひとつの理由は、当時唯一、古今伝授を相伝されていたのは細川幽斎だけであり、弟子の一人である八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇は幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れてい為である。八条宮はそのことを案じて、開城するように薦めたが、幽斎は討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続する姿勢を示す。最終的には天皇が、幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じた。開城を頑なに拒んでいた幽斎であったが、勅命には従い、9月13日に田辺城を明け渡すことになった。

 これは歌人として幽斎が稀有な存在あったことを示すエピソードである。
 しかし、一方では幽斎が単なる文化的な歌人ではなく、戦略や知略においても優秀な人物であったことを示すエピソードなっていないだろうか。

 まず籠城が出来るだけ長く持ちこたえるところに幽斎は勝機を感じていたはずである。つまり息子の忠興が家康と共に東国から戻ってくるならば戦況は大きく変化することが分っていた。さらに「古今伝授」の相伝者としての自分の立場も理解し、それを有効に使おうと考えていたとも思われる。西軍には弟子である指揮官が少なからずおり、彼らが唯一の相伝者である幽斎の討死を望むはずがない。こうした理由から7月19日から始まった攻城戦は、7月末には落城寸前となっていたのにもかかわらず、そこから約40日間以上も落ちなかったのである。

 また籠城中、八条宮が幽斎に開城するように薦めた時には、これを謝絶し『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上することで籠城戦を継続し討死の覚悟をアピールしている。これにより時間稼ぎが出来ただけでなく、天皇を動かして介在させ、勅令を発せるように仕向けたとも考えられなくもない。だれもが幽斎の討死を望んでいない事が分かっていた上で、討死覚悟で籠城する意思を、巧みなパフォーマンスで示したのではないだろうか。文化人として貴重な人材である幽斎を殺させない為、公家や天皇が動き、時間が使われたはずである。

 最終的には勅命を受け入れて幽斎は9月13日に田辺城を開城する。その2日後の慶長5年9月15日に関ヶ原の戦いとなるが、田辺城を攻めいてた西軍1万5千はこの間、この場所に釘付けにされていた為、本戦に参加できなかったのである。結果、この田辺城での幽斎の籠城が、関が原での西軍の兵力を削ぐことに大きく貢献したのである。そしてこれは明らかに幽斎が意図したことであるに間違いない。そうした意味でも幽斎は単なる文化人ではなく、戦略や政治力にも長けた人物であることが認められる。
 この辺りの武功は歴史にも詳しいので、詳細はこれ以上述べないが、この記事では以降、細川幽斎との文化や食に関係したところに焦点をあてて、述べてみたいと考えている。


庖丁の腕前


 ジョアン・ロドリゲスの著書『日本教会史』の中では、支配階層が身に付けるべき「能」(実践的な教養)として「弓術・蹴鞠・庖丁」を挙げている。細川幽斎はこれら全ての能においても非常に優れた人物であった。
 その一つ庖丁に関しても卓越した腕前を持っていたことが、鯉料理に関する以下のような記録から理解できる。

 まずは文禄3年5月4日の『言経卿記』にある記録を見ると

【 言経卿記 】
「家康、吉田兼見の許を訪れる。言経・柳原淳光・幽斎・山名禅高、その他碁打等同席。幽斎、鯉庖丁披露」


とあり、幽斎が徳川家康の前で鯉庖丁を披露したことが記されている。
 この文禄3年は西暦1594年にあたり、関ヶ原の戦いの6年前である。『言継卿記』を見ると、この頃には既に幽斎は豊臣家から離れて、徳川と親密になっていたようで、頻繁に家康と食事している記録を見ることが出来る。

 また関ヶ原の年に当たる、慶長5年(西暦1600年)5月4日にも鯉の庖丁を披露したことが『耳底記』に記されている。

【 耳底記 】
「光広、吉田に幽斎を訪れる。菊亭晴季同席。乱舞あり。幽斎・西王母の太鼓を打つ。晴季・光広に、智仁の古今聞書を見せる。鯉の庖丁も披露」


 このように幽斎は卓越した庖丁人としての技術を身に着けていたことが分かる。いずれの記録も庖丁式で鯉を捌いているというのも重要なポイントである。これと対照的なのが、同時代に料理人として活躍していた生間流である。生間流の項目でも記してあるが、この時代に生間流は鮟鱇釣庖丁しか行っておらず、鯉庖丁は全く行えていない。(これには身分あるいは庖丁人としての格式的な事柄が関係していると考えられる)そうなるとこの時代で細川幽斎は最も高い庖丁技術をもった庖丁人のひとりであったと言えるだろう。

 『耳底記』のこの箇所には「智仁の古今聞書を見せる」と記されてあるが、この智仁とは、幽斎が「古今伝授」を伝えた八条宮智仁親王はちじょうのみや としひとしんのうのことで、智仁親王と細川幽斎は歌道の師弟関係にあった。智仁親王は歌だけでなく、造庭の才にも優れた人物である。元和6年(1620年)から下桂村に別業を造営し始めるが、この桂御別業が現在の桂離宮となっている。こうした謂れのゆえに八条宮智仁親王は後に桂宮と呼ばれるようになった。

 さてここで再び生間流である。この庖丁流派は八条宮智仁親王から仕え始め、以来お抱えの料理人となる。それは明治になりこの宮家が断絶するまで続けられており、現在は萬亀樓に引き取られて続けられている。
 八条宮智仁親王を主人として仕えた生間流庖丁流派(この時代は生間兼秀が当主であった)は、細川幽斎の庖丁をどのように見ていたのだろうか。幽斎は自分の仕える智仁親王の歌の師匠である。それだけでなく自分たちの専門分野である庖丁においても抜群の技術をもった人物である。とても生間兼秀は、細川幽斎の前で、鯉庖丁を披露することなどできなかったに違いない。(実際にこの時代には生間流は一度も鯉庖丁を披露しておらず、鮟鱇釣庖丁しか行ってか行っていない)
 こうした関係性を考えると、細川幽斎の庖丁流派は、まずは生間流に基づいたものではあり得なかっただろう。細川幽斎は庖丁をどこから学んだかについては、後で述べるので参考にして頂きたい。


 他にも細川幽斎の鯉庖丁に関するエピソードは幾つかある。『名将言行録』には「六条門跡が、細川幽斎に川鱸の庖丁を所望したところ、幽斎は川鱸を海鱸の作法でさばいた。その誤りを問うた人に対して、この川鱸は六条川原院にて塩釜に移された魚であるので、海鱸の作法でさばいたのであると幽斎が応じると、人々はその敏さに感服した」と述べてある。

 さらに同じ『名将言行録』には「ある時、細川幽斎が鯉料理を披露することになったが、くだらない事をする者が鯉に火箸を通しておいた。当然ながら、包丁では火箸を切ることはできない。その者は幽斎がどうするのか楽しみに包丁さばきを見ることにした。幽斎は包丁で鯉をさばき刃先が火箸にあたったと見るや、刀でそのまま鯉を切り落とした。鯉に通した火箸とまな板もろとも真っ二つになった」と記してある。

 さらにこのようなエピソードもある。
「ある時、細川幽斎は鯉料理をご馳走になることになった。その屋敷の料理人の鯉料理の作法がなってなかったので、豪華な木箱と薄紙を持ってこさせ、木箱の上に薄紙を敷きその上に鯉をおいて、包丁で鯉をさばいた。切り口は見事でありながら、木箱どころか薄紙にも傷ひとつついてなかった」


細川幽斎の才能


 細川幽斎の庖丁技術は非常に優れたものであったが、どのようにその庖丁技術を身に着けたのだろうか。それを検討するにあたり、まず細川幽斎どのように様々な芸事を習得し、その師匠がどのような人物であったのかを挙げておく。

 まずは歌詠みに関してはどうだろう。
 先にも述べたように細川幽斎は「古今伝受」の相伝者ともなった人物である。古今伝受とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えられるもので、本来ならば三条西家だけが代々、一家相伝で守らなければならないものであった。しかしその当時、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行ったのである。イレギュラーにも相伝者となったのであるが、細川幽斎が選ばれ「古今伝受」が伝えられたということは、歌詠みにおいても細川幽斎が非常に高い才能を持っていたことが理解できる。

 武術は剣豪の塚原卜伝つかはらぼくでんから学び、弓は波々伯部貞ははかべさだひろから天正八年(西暦1580年)五月七日に相伝を受けており、騎射に関しては慶長九年(西暦1604年)弓馬軍礼故実を伝えてきた若狭武田氏の武田信直から継承を依頼されている。
 幽斎には、京都の路上で突っ込んできた暴れ牛を角を掴んで投げ飛ばした、あるは織田信雄の屋敷の門番が取り押さえようとすると、門番が悲鳴をあげるほど手を握り潰したというエピソードもあり、単なる文化人ではなく武人としても桁外れに優れていたことも理解できる。

 幽斎にはそれぞれの芸事には、それぞれの師匠がおり、その優れた才能と技術によって、数々の故実に基づいた技が相伝されていったようである。

 細川幽斎は、弓馬はいふに及ばず、和歌・連歌・鞠・包丁・打ちはやし」といった諸芸までも「其道の極にいたる迄」通じていたと松永貞徳の戴恩記たいおんきで評されている。
 細川幽斎はあらゆる能に才能を発揮し、文武両道においても卓越した凄い人物であったことが分かる。


庖丁の技術はどこで学んだのか


 このように細川幽斎は、故実という伝統に基づいた「能」において師匠のものとで学び、それを体得している。幽斎は何ごとも我流で行うのではなく、師匠についてその道を究め、文武のあらゆる分野で相伝者となっていったようである。そうであれば庖丁においても、それと同様に故実に基づいた仕方で、必ず誰かに学び習得したに違いない。

 残念ながら、歌や武芸と異なり、記録の中ではどこにも庖丁における師匠に関しては記されていない。しかしながら私は幽斎が庖丁を学んだのは「大草三河守公重」からだと推測している。よって幽斎の鯉庖丁の技術は大草流に基づいたものであったに違いない。なぜ私が幽斎の師匠が大草三河守公重と考えているかを少し説明する事にしたい。

 まず、細川氏も大草氏も共に三河から出た氏族である。こうした地理的な繋がりから両家は昔から近しい関係にあった。
 細川氏は鎌倉時代から三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)が拠点であり、三河を始祖の地としていた。
 一方の大草氏は三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町周辺)から始まった氏族であり、家康の祖父の松平清康に敗れ、娘を嫁がせて松平一門に入ることになったが、それでも松平大草氏として始祖の地を守り続けていた。
 ちなみに徳川氏の祖である松平氏の拠点は松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)でありこれも同じ三河である。よって松平、細川、大草は勢力争い・婚姻関係も含めて、同じ三河という地理的な理由で結ばれてゆくことになる。この同郷の出であるという事が、徳川の時代になったときに優遇や信頼につながり、後の時代になると細川氏、大草氏は重用されることになる。

 また細川幽斎が足利義輝の元で仕えていた時、大草三河守公重も時の将軍であった足利義輝に側近として仕えていた。つまりふたりは同僚という関係にあったのである。また足利義輝が謀反により殺されると、足利義昭に仕え将軍擁立に奔走することになるが、こうした苦境にも共に当たった仲であった。
 この大草三河守公重は、先に述べた三河を拠点とした嫡流の平松大草氏ではなく、青郷を本拠地に移した庶流である。しかしこの大草氏こそが、大草流庖丁道(将軍の儀式での料理を担当・料理に関する作法・故実や調理法を継承発展させる)の家元であった。
 しかも、大草三河守公重は、後にかつての同僚だった細川幽斎に招かれ丹後田辺に移り住み、そこで没することになる。このような深い関係性をみると、細川幽斎は庖丁技術を大草三河守公重から学んだと考えざるを得ない。

 また細川幽斎は、大草氏に対してかなり肩入れをしていたようである。
 大草公重の息子である大草公政は牢人(主君を失った失業者)となるが、後に徳川秀忠に召し出され、江戸幕府から上級旗本に列せられることになる。これには公重の長女(公政の妹)が大草局と称されて力を発揮するようになった為である。その長女は徳川秀忠室(江姫)に仕え、また三女は豊臣秀次の妾となるが、そこには細川幽斎からの推挙があったようである。
 さらに大草公政には男子の子がなく、細川氏の仲介により、大館晴忠の次男「公継」、三男「公信」、四男「高正」をそれぞれ養子として家督を継げるように助けている。

 こうした大草氏へのサポートの背後には、細川幽斎の、大草三河守公重という式庖丁における師弟関係における恩義があったからではないかと私は考えている。「芸は身を助ける」という言葉があるが、正にその通りではないか。(但し、この時代の芸と、現代の芸の趣は大いに異なってはいるが…。)


細川幽斎は美食家だったか?


 どの記録をみても細川幽斎が庖丁において高度な技術を持っていたことは間違いない。しかし庖丁技術を有している事と、味を理解する者であることとは別である。木下謙次郎も『美味求真』では、庖丁流派について論じるのではなく、味そのものの追求を論じるべきであると述べている。

 細川幽斎に関するエピソードは多いが、実際に史実では庖丁の技については記されていても、美食家であったかどうかに関するエピソードは残されていない。むしろ『美味求真』で偏食に陥ったとしてカール5世や桓公と並べて否定的に評価されている細川勝元と比較すると、彼の方が味の追求者としてふさわしいエピソードの持ち主なのではと思える程である。

 確かに細川幽斎が美食家だったかどうかを示すエピソードは、その庖丁技術と比べると乏しいとしか言いようがない。それでも以下の2つのポイントから、細川幽斎の食味に関する力量はおし計ることが出来のではないかと考えている。

 ① 細川家の記録に残る食事内容から判断
 ② 幽斎の文化的な総合的な力量から判断

 以下、その2点から考察してみることにしたい。


① 細川家の記録に残る食事内容から


 細川幽斎は千利休らと何度も茶会を開いていたので、茶はもとより、それに付随して行われた茶懐石にも通じていたものと思われる。さらに信長、秀吉、家康といった当時の権力者と近しい関係にあったため、宴に参加したり、また個人的な会食にも頻繁に出席しているので、当然のように美食には通じていたであろう。

 残念ながら幽斎の日常の食に関してはあまり記録を見つけられていない。しかしながら『大日本近世史料』細川家史料には、幽斎の息子の細川忠興(雅号 三斎)の食について詳細に記録されているので、ここから細川家の食卓の様子を垣間見ることが出来そうである。
 この記録で述べられている細川忠興も、父・幽斎に劣らず、武人でありながら文化人としての高い力量を持った人物であった。
 まず細川忠興は、利休の奥義を尽くした「茶人」として「利休七哲」のひとりに数えられている人物である。さらに千利休が秀吉の勘気に触れて堺に蟄居を命じられた際には、淀の川辺で、忠興と古田織部のふたりが見送っているので、利休とは非常に深い関係にあった事が解る。

 細川忠興の食については『細川家史料にみる近世大名の「食」に関する一考察 - 細川忠興の書状を分析して-その 2』:八田茂樹の論文に分析されており、興味深い内容である。以下、主要部分を引用する。

 忠興は、寛永10年から寛永18年までに296の食物を贈られている。頻度数の多い物が忠興の好物と考えられる。頻度数5以上の食物は次のようになる。魚介類では、鮭・海鼠腸・鮎・海苔・飽・鯛・ふぐ・海月・筋子・貝である。鳥獣肉では鶴と鴨。果実では蜜柑。茸・野菜では瓜と松茸。酒では諸白と樽。穀飯では鮓と餅。調味料では味噌である。このうち最も多いのが鮭となっている。当時、鮭は遠賀川でも獲れたため、今日、東の鮭・西の鯛といわれるような地域性を示す「年取り魚」としてのイメージよりも西日本で食べられているように思われる。


 ここに指摘されているように、細川家では多くの食品が食されていたようである。これらは季節に準じたものであるだけでなく、現在でも高級食材とされているものが含まれているので、こうした記録を見るとやはり食通であったことが伺える献立内容である。

 さらに、細川幽斎・忠興の親子の子孫であり、17代目の当主である細川護貞(息子は細川護熙)は『魚雁集 細川家に残っている手紙』,思文閣出版,237p (1990)という著書を出版しているが、そこでも細川忠興の食について論考を加えている。
 細川護貞は『大日本近世史料』の細川家史料、慶長16年7月4日から寛永7年11月3日までの138通の細川忠興の書状を分析して、そこに記載されている、筑前境の鮭に言及していることや、細川忠興はぬか味噌にうるさかったこと、さらに米の炊き方も良く知っていたことを指摘している。

 息子の忠興の「食」の記録についてであるが、この時代の細川家として考えるならば、父親の幽斎の「食」も同様の水準にあったものであると推測できるのではないか。


② 幽斎の文化的な総合的な力量から


 細川幽斎は「弓馬はいふに及ばず、和歌・連歌・鞠・包丁・打ちはやしといった諸芸までも其道の極にいたる迄、通じていた」と松永貞徳の戴恩記たいおんきで評されている。
 細川幽斎はあらゆる分野で才能を発揮し、文武両道においても卓越した凄い人物であったことが分かる。庖丁に通じていた細川幽斎は、やはり味覚においても優れていたと考える事ができるのではないだろうか。


古今伝授

 細川幽斎の才能は特に歌詠みにあったとも言って良いだろう。
 歌詠みに関しては、先に述べたように「古今伝授」をその時代に受け継いでいた唯一の人物であった。この「古今伝授」の相伝者であるが故に、討死させてはならない人物であるとして朝廷が動き、50日間の田辺籠城を可能にし、それが関ヶ原の東軍勝利の間接的な要因となるのである。そしてこれをすべて、私は細川幽斎が戦略的に行ったと考えている。

 細川幽斎が相伝者であった「古今伝授」については、それが元々、秘伝であったことからあまり詳細が明らかにされてこなかった。これはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』で描かれている、秘儀が特別な人のみに封印されている事と共通している。こうした特別な知識は一部の特権的な人々にだけの閉鎖的なものだったのである。
 しかし、現代ではこうした情報が開かれるようになっており、あらゆる過去の秘儀ですら情報はインターネットで閲覧することが可能になっている。要するに我々の側が、興味をもって、こうした知識にアクセスしようとするか否かというだけである。よってこうした知識へのアクセスを可能にした現代のインターネットというのは、すごい知識アーカイブであることに、私は個人的にいつも驚嘆させられている。だれでも人は望めば象牙の塔に入って行けるのでわけある。

 さて「古今伝授」に話を戻そう。インターネットにおける知識公開のひとつとして伝心集でんしんしゅうをここに示しておきたい。これは細川幽斎によって書かれた「古今伝授」に関する説明と註釈であって重要な秘儀が含まれている。

 「古今伝授」とは『古今和歌集』の解釈を中心に、歌学およびそれに関連する諸説を口伝、切紙、抄物によって、秘伝として師から弟子へと伝えることを言う
 広義には、中世前期からおこなわれた歌道の伝授をも含めていうが、狭義には、室町中期以降の伝授形式が定まって、二条宗祇流、二条堯恵流による『古今和歌集』の本文と特定の語句を特定の者を選んで伝えていき、他の者には秘密にした秘伝のことを言う。

 以下にその「古今伝授」の重要な秘儀を引用したい。

 三木は、おがたまの木、めどに削り花、かはなぐさ
 三鳥さんちょうは、よぶこどり、ももちどり、いなおほせどり
 三木は三鳥より重し



 古今集の歌の中には、こうした物名(木の名前や、鳥の名前)が織り込まれている。それに加えて三木が三種の神器に対応するというようなペダンテック(衒学的な)知識体系派生しているようである。

 三木とは
 ・ 御賀玉木 (おがたまのき) = 八咫鏡
 ・ 蓍に削り花 (めどにけづりはな) = 八尺瓊勾玉
 ・ 川菜草 (かはなぐさ) = 天叢雲剣

 三鳥とは
 ・ 呼子鳥 (よぶこどり)
 ・ 百千鳥 (ももちどり)
 ・ 稲負鳥 (いなおうせどり)

 古今集にある、このような物名が織り込まれている歌を以下に示す。

御賀玉木 (おがたまのき)
  みよしのの吉野の滝にうかびいづる泡をかたまゆとみつらむ
  紀 友則


川菜草 (かはなぐさ)
  うばたまの夢に何かはなぐさまむうつつにだにもあかぬ心を
  清原深養父



細川幽斎の歌

 古今伝授に通じた幽斎は、自身でも同様に物名を織り込んだ歌を詠んでいる。その幽斎の歌は三木ならぬ、「幽斎公十木の御詠」といわれる歌である。以下がその歌である。

 必ずとちぎりし君がまさねば
    ひて待つ夜の過ぎ行くは


 上記の和歌には十の木の名が隠されている。

 か【なら】ず【とち】【きり】【しきみ】【かき】≪まさ≫≪≫≪
   【しい】て【まつ】よの【すぎ】【】【くは】うし


 こうした歌をみても細川幽斎の才能の一端を垣間見ることが出来るだろう。そしてなぜ、このような暗号めいた方法で歌が詠まれていたのか。幽斎は、この歌によって、わが国の重大な秘密を伝える古今伝授が、暗号の解き方を教えるものであることを暗示しているのではないかと言われている。

 ここから先は衒学的な世界になるので、あまりここでは扱わず、別途いつかは「古今伝授」の項を作って、そこで深く掘り下げて解説することとしておきたい。

 ただ先に述べたように、細川幽斎が庖丁を学んだのが大草三河守公重であるという私の推測が正しく、その庖丁の方法が、大草流に属したものであるとするならば、やはり大草流に流れる衒学的な要素と、古今伝授に含まれている衒学的な知識構造に共通性があると考えられるのである。
 逆に考えるならば、大草流に衒学的な要素が含まれているという事は、細川幽斎はやはり大草三河守公重から庖丁を学んだ事の証であるとも言える。なぜならばこうしたペダントリーな知識体系の中には誰もが入れる訳ではなく、また理解する事すらできない知識だからである。私は「古今伝授」と「大草流包丁道」にはこうした衒学的知識体系において相関性があると考えている。このふたつの相関性や類似性、あるいはそのベクトルの同一性について書かれている研究や論文はまだ無いようであるので、この分野をいつか研究し論文にしてみたいと考えている。


味を解する者、細川幽斎

 細川幽斎の庖丁技術は、単に庖丁としての技術というだけでなく、実は故実こじつとしてこれに属するあらゆるものと繋がっているのである。よってそれが庖丁であっても、歌であっても、弓道であっても、共通した同じベクトル上にあるものと考えられる。

 あらゆる芸事に通じていた細川幽斎は、そうした共通項を十分理解しており、共通した要素がそこにあるが故に、そして、その共通部分を理解し表現することのエキスパートであったが故に、あらゆる分野で才能を発揮し得たのでないだろうか。
 細川幽斎の文化的な総合的な力量から、味を理解するものであるかを考えてきたが、細川幽斎がこうした勘所をのようなものを掴んでいるとすれば、それはやはり味への理解においても共通して示されたであろうことは間違いないようである。


井戸茶碗:筒井筒つついずつ


 「筒井筒」は重要文化財に指定されている茶碗である。

「筒井筒」 前後の両方向


 「筒井筒」は、始めは武将の筒井順慶つついじゅんけいが所有する井戸茶碗であった。この茶碗は深めで、高台が高いところから「筒井の筒茶碗」と言われ、その銘が付けられたと伝えられている。その後、筒井順慶は豊臣秀吉にこの茶碗を献上したのである。
 この茶碗にはひびが入っていて修復された跡がある。それは茶碗を、近侍の小姓が誤って取り落とし、五つに割ってしまったからである。その時、激怒した秀吉が小姓を手打にしようとしたが、居合わせた細川幽斎が、機転を利かせて次の歌を詠む。

 筒井筒 五つにわれし 井戸茶碗 とがをばわれに 負ひしけらしな


 こうした細川幽斎の機転の効いた歌詠によって、秀吉の不興がとけ小姓は救われたという逸話が残っている。当然、この歌は『伊勢物語』の「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」をもじったものである。

 興味深い事に、最初の「筒井筒」所有者である筒井順慶と細川幽斎には共通点がある。彼らはもともと明智光秀と近い関係(親族関係にあった)にあったにも関わらず、本能寺の変以降、共に明智光秀の側に組しなかったのである。

 本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀は、山崎の戦いに際し、筒井順慶と細川幽斎の両名に参戦を要請する。明智光秀は与力的立場にある近畿地区の大名たちであるこの二人が味方してくれるものと思っていたようであるが、彼らはその要請に応えることは無かった。筒井順慶は18万石(大和の与力を合わせると45万石)、細川幽斎は12万石の戦国武将大名であり、彼らの協力があれば明智光秀はその勢力を保てたかもしれない。しかも筒井氏、細川氏は名門であったので、もし彼らが光秀に組するのであれば、それを見た周りの武将も光秀加勢に加るようなこともあったかもしれない。よって筒井順慶と細川幽斎に背かれたことは光秀にとって大きな誤算であり、なおかつ大きな痛手となった。
 結局、光秀はその勢力を保てず、山崎の戦で秀吉に敗戦し、命を落とすことになったのである。

 このように筒井順慶と細川幽斎のふたりは共に、明智光秀と姻戚関係にある近い存在でありながら、光秀に組しなかった有力武将であったという点で共通している。しかし筒井順慶と細川幽斎は、光秀を見限り秀吉の側に立つことをアピールする方法が異なっていた。
 先に述べたように細川幽斎は、隠居して息子に家督を譲ることで光秀に組しない理由とした。これによって光秀にも、その後の豊臣秀吉に対しても角が立たないような上手い方法を取ったと言えるだろう。
 それに対して筒井順慶は、一度は明智側に従う姿勢を示して、山崎の南方にある洞ヶ峠ほらがとうげまで兵を進めはしたが、最終的にはどちらに付くか決めかねて日和見をしたという伝説が残されている。ここから日和見する事を、洞ヶ峠あるいは洞ヶ峠を決め込むと表現するようになったらしい。
 しかし『蓮成院記録』という史書では、明智光秀が山崎八幡・洞ヶ峠に着陣し、ここでむなしく順慶の支援を待ったという記載があり、実際には、この伝説は史実に反しているようである。

 いずれにせよ、この方法は細川幽斎と比べて、あまり良い方法ではなかったようである。山崎の戦の後、筒井順慶は羽柴秀吉に拝謁したが、この際、秀吉から順慶は遅い参陣を叱責されることになる。『多聞院日記』は、この秀吉の叱責によって順慶が体調を崩したと述べてある。
 このように、明智光秀の謀反後の身の処し方が、筒井順慶と細川幽斎とでは少し異なっており、それがそれぞれの立場に微妙な影響を与えてゆくことになる。それは後年、細川氏が秀吉・家康に重用されたのに対して、筒井氏は関ヶ原の戦いで西軍に付き、断家させられてしまうことに象徴的に表されていたように感じられる。

 さて、筒井順慶は山崎の戦の後、秀吉に拝謁したタイミングで「筒井筒」を秀吉に献上したようである。それまでの明智派から豊臣派に鞍替えし、大和の領地を守るためにも、筒井順慶にとってこの秀吉との謁見は大きな意味をもっていた。よって「筒井筒」という貴重な名物を手放すことで、秀吉に対する忠誠を示そうとしたのであろう。この当時の茶器は一国の運命を左右する程に貴重なものとして扱われていたと言われているが、こうした局面で「筒井筒」は大きな働きをしたと考えられる。

 こうした名物を所有していた筒井順慶は、武将ではあるが、やはり文化人でもあり、茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であった。こうした点でも細川幽斎と共通点がありながら、その後が大きく異なってしまった両氏の違いを感じさせられざるを得ない。

 しかもこの筒井順慶が献上した「筒井筒」は割れてしまう。そしてその「筒井筒」は、その時、秀吉のところにいた細川幽斎による歌詠みのエピソードによってさらに後代において更なる名物となってゆく。ここにも何か象徴的なものが示されているように思わずにいられない。


千鳥の香炉


 『古今名物類聚』の名物記によれば、この香炉はかつて利休の師匠であった武野紹鴎が所持し、その後、豊臣秀吉、徳川家康と伝来、家康の歿後尾張家初代義直へと伝わったとされている。写真は現在の徳川美術館所蔵の香炉である。

千鳥の香炉


 この千鳥の香炉には様々なエピソードがある。どうも千鳥の香炉は複数存在していたようで、どの千鳥の香炉がどのエピソードと結びついているかがはっきり分かっていないようである。そのため所有者についても曖昧なところがったりそれぞれのエピソードが混濁しているようなところが見られる。しかし、それでも個々のエピソードは大変興味深いのでその幾つかを以下に列挙したい。

 『細川家記・六』『細川三斎茶集』『責而者草』には細川幽斎の千鳥の香炉に関する、以下のようなエピソードが記されている。

 仲秋というにふさわしい良夜と思われたのか氏郷が利休を誘って、玄旨法印(幽斎)の亭を訪れたことがった。幽斎は歓んで二人を饗応した。おりしも月が隈なく冴え渡っているのを眺めながら、しめやかに物語をしていた。そのとき、よい折と思ったのか氏郷が「兼て主の調度に千鳥の香炉名高き聞えあり。能き折なれば見まく欲し」と願った。しかし幽斎は「今宵は便なし、又、折もありぬべし」と答えて、千鳥の香炉を出そうとしなかった。それでも氏郷がぜひに見たいと強いて頼むので、幽斎は箱の中から香炉を取り出して灰を除き、氏郷の前に差し置いた様子は不興げに見えた。氏郷らは香炉を誉めそやしたが、幽斎ははかばかしい受け答えもしなかった。  氏郷は帰亭してからも、先ほどの幽斎の態度を不信と思ったが、思い当たるふしもなかった。

 ある時、このことを里村紹巴に対し「幽斎はきわめて仁愛和厚なる人であるのに、その夜の応対はまことに心得難い」と語った。紹巴は首をかしげて不思議そうな面持をしていたが「幽斎は常々まことの歌人であると私は思っていたが、さてさてこれほど優雅なるお人であろうとは」と云った。そしてこれは順徳院の御製に、

 「清見潟 雲も迷わぬ 浪の上に 月の隈なる 群千鳥かな」

という秀歌があるので「(明月の)今宵は便なし(具合が悪い)」と云われたのであろうと説明した。


 ここで引用された歌の意味は「清見潟には一片の雲もないが、千鳥の群れが波の上に月の影を落としている」という意味である。利休と氏郷が訪れたこの日は、満月であったので、影を落とすの意をもつ香炉の千鳥を見せるには、今宵は日が悪いということを幽斎は言いたかったのである。

 この話には別バージョンがあり、利休のところに、幽斎と氏郷が訪問して、千鳥の香炉を見せてもらうというパターンもある。そのバージョンでは、蒲生氏郷が千鳥の香炉を見せてもらえるよう頼むが、利休はそれを良しとしない、それでも氏郷が頼むので不機嫌に香炉を見せるが、そこで幽斎が「清見潟の心ですな」というと、利休の機嫌も直り「いかにも。仰せのごとく」と答え、打って変わったご機嫌の体となった『茶話指月集』には述べられている。

 実は『洗心録』には千利休が新しく入手した香炉の、三つの足が不揃いだったのを、妻の宗恩が一分だけ切らせたところから、千鳥の香炉の名が生まれたという説が書かれている。この説に従うならば利休もこの香炉の所有者であったということになるので、そうであれば上記のエピソードの可能性もあったかもしれない。

 幽斎と利休が入れ替わり、氏郷がそれを解さない者(氏郷の立場だけが固定)として描かれているのだが、いずれにしても風流を解する者として、幽斎と利休が並んで同じレベルの人物であったというところに、このエピソードの入れ替わりの根幹はあるように思われる。それ程、幽斎の文化人および教養人としてのレベルの高さは、利休に肉薄する風流人として、後世の人に評価されていたということを示している一例であると考えて良い。

 文化というものは精錬され、極度に研ぎ澄まされてくると、ハイコンテクストにへと向かう傾向がある。俗に京都で言う「ぶぶ漬けでも...」というのは、こうした傾向による末梢の産物であるのかもしれない。
 この幽斎の示した態度は氏郷にとっては分かりにくかったかもしれない。ただ利休と氏郷だったからこそ、こうしたハイコンテクストな、つまり「推して知るべし」という態度で幽斎は伝えようとしたに違いない。つまりこの二人であればその背後の意味を悟るはずであるということを確信しての行為であったには違いない。
 その意図は、他の幽斎に関するエピソードから理解できる。
 ある時、幽斎は、家臣から「忠興様は何事にも厳しすぎて、これではお仕えできない」という訴えを受ける。その事を正すために幽斎は、息子の細川忠興を直接に諭すのではなく、古歌を二首与え、この心を悟るようにと示している。それが以下の二首である。

【 細川孝藤 古歌を以てその子を誡む 】

「逢坂の 関のあらしは 寒けれど 行方知らねば わびつつぞいる」
「真菰草 つのぐみわたる 澤辺には つながぬ駒も はなれざりけり」


 この古歌を通して「家臣に厳しくすることでガバナンスを利かせるよりは、むしろ家臣が自発的にそれを行うようにする方が良いのだ」ということを示そうとしたのである。

 幽斎はいつもこうした物の言い方をする人だったようである。それは当然、息子の忠興がこうした歌だけで、すべてを解する者である事への確信が、幽斎にあったからに他ならない。
 そして実際に、息子の忠興も、後に三斎という雅号を名乗るようになり、後世に名を遺すような文化人・風流人として知られるようになったのである。

 『武徳編年集成』によると、天正3年(1575年)3月16日に京都相国寺で今川氏真が千鳥の香炉を献じたという記録がある。よって今川家も千鳥の香炉の所有者として挙げられるだろう。ちなみにこの今川氏真は、同月20日に信長の前で蹴鞠を披露している。
 今川氏真は今川勝元の子であり、桶狭間の戦いで信長に敗れ、討死している。今川氏真にとって今後の戦乱の世を生き抜いてゆくためには信長に認められる必要があったに違いない。そこで信長と謁見するこの機会に、家宝の千鳥の香炉を献上したり、信長の求めに従い、自分の得意な蹴鞠を披露したのである。
 この辺りは、先に述べた筒井順慶が、秀吉に「筒井筒」を献上した下りと同じようなものである。今川氏真は「千鳥の香炉」を献上することで信長に気に入られようとしたのである。


細川幽斎という人物


 細川幽斎という人物が、どのような人物であったかについて述べてきた。戦国の世にあって幽斎は武将として優れていただけでなく、芸事においても卓越した才能を発揮していた人物であったことを理解して頂けたと思う。

 また味を知る者としても、細川幽斎は卓越した存在であったと、記録の端々から現代の我々は理解することができるのである。





参考資料



『古今伝授について : 細川幽斎所伝の切紙書類を中心として』 川瀬 一馬

『細川家史料にみる近世大名の「食」に関する一考察 : 細川忠興の書状を分析して(その2) 』 八田 茂樹

『細川幽斎年譜稿(一)』 林 達也

『細川幽斎年譜稿(二)』 林 達也

『細川幽斎年譜稿(三)』 林 達也

『紹巴富士見道記の世界』 内藤 佐登子

『古代からの暗号』 草野 俊子

『言経卿記』 山科言経

『耳底記』 烏丸光広