荆楚歳時記けいそさいじき


 美味求心にはこの出典が単に『歳時記』としか記載されていないのだが、正式な記載である『荆楚歳時記』として本文には記することにしてある。

 「12月8日に豚酒をもって竈神を祭る」という内容は以下の2ページで確認できる。
 1ページ目:左側のページに12月18日について述べられている。
 2ページ目:右側のページに「其日竝以豚酒祭竈神」とある。

 「其日竝以豚酒祭竈神」つまり、その日に豚酒をもって竈神を祭るようにという記載がある。文脈から言うと12月18日に祭祀を行うのであるが、実際には23日に行うのが通例になっている。この竈神に関しては、掘り下げるとかなり深くなってしまい底がみえなくなるので、詳細は竈神の項目を見て理解を深めて頂きたい。 (竈神に関する詳細)

 さてこの『荆楚歳時記』であるが、名前にあるように、楚の国にある荆州という南方蛮夷の辺境の一地方で始まった歳時記、つまり季節の行事録である。なぜここに記された習慣が、中国全土、ひいては我々の住み、生活している現代の日本の習慣にまで入り込んで来ているのだろうか?
 例えば12月23日に竈を祭るとか、屈原の項でも説明したが5月5日に粽を食べることは皆、『荆楚歳時記』から記されていることなのであるが、これらは元々は一地方の行事でしかなかったはずである。柳子厚(宗元)の項でも述べたが、左遷されて、こうした南方蛮夷に送られた中央の政治家たちは冷ややかにこうした異郷の習慣に接していたようであるし、どちらかというその文化に対しては否定的な姿勢であった。そう考えると、なぜこのようなローカルルールがグローバリゼーション(東南アジアや韓国、日本を含む)を獲得したのか?という疑問が生じる。そのことに関して説明を以下、加えたいと思う。


荊楚歳時記けいそさいじきとは何か


 『荆楚歳時記』は中国の年中行事やしきたりをまとめた最古の書である。原著者は宗懍そうりん(保定年間の人で64歳没)であり『荊楚記』という書を記している。
 この『荊楚記』に対して、大業年間に杜公膽とこうせんが詳細に注釈を施してから『荊楚歳時記』と呼ばれるようになった。荊州は 春秋戦国時代(前770~前221)の楚国に位置し その地方を荊楚と言っていた。他の項目で述べてある屈氏一族はまさにその時代に活躍した家系であり、屈原は楚の宰相としてもさらには「離騒」を記した文学者として一族の中で最も有名である。

 さて、この地方の『歳時記』を収集して『荊楚記』を記した杜公膽は、それに全面的に補足をほどこし、同時に、南方と北方の風俗の違いを徹底して比較した内容を加えたものを『荊楚歳時記』とした。これによって「荊楚」と冠してはいるものの実際には中国全土の風俗の集大成を記録する歳時記が編纂されたのである。

 この『荊楚歳時記』が我が国に伝えられたのは 奈良時代初期の頃であり、朝廷は『荊楚歳時記』に習って年中行事を定めた形跡がある。また後代の平安時代に書かれた『本朝月令』、更に後の鎌倉時代に編纂された『年中行事秘抄』も『荊楚歳時記』を参考にしたものであった。

 日本は欧米の影響を受ける明治維新までは 千二百年以上に亘って中国の影響を受け続けて来たので、古代から伝わる習慣・習俗は、中国からきたしきたりを取り入れたものが非常に多い。そのうちで最も古く永い期間にわたって影響を及ぼして来たのが『荊楚歳時記』であったのである。

 このように我が国における『荊楚歳時記』の影響は非常に大きく、今でもそれに基づいた行事は我々の生活に数多く残っている。例えば正月元旦の食事や門松飾り、七日の七草粥、十五日の小正月に小豆粥にお餅を入れて食べること、三月三日の雛祭り、四月八日の潅仏会、五月五日の端午の節句、七月七日の七夕、旧暦八月十五日の観月会、等が今でも行事として普通に行われている。

 現代では欧米文化の影響が大きくなっていて、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンはもう日本の社会に定着している。日本人は外部からのものを内部に取り入れて自家薬籠中の物とすることに長けている民族なのであるが、この部分は今も昔も変わらないということを示していると思う。 しかもそれを自分たちの文化に取り入れる際に、うまくコンバート(変換)して、自分たちの文化にあるようにアジャスト(調整)してフィット(適応)させるのである。それはあたかも昔から行われていたかのようなスムーズさである。

 その例として、欧米のクリスマスは家族で過ごす大切な日であるが、日本では恋人同士が愛を育む日として、クリスマスさらにはクリスマスイブを重要視する習慣に変えてしまっている。またバレンタインデーにはチョコレートを贈る習慣も日本式である。さらにハロウィンも日本ではコスプレ文化と融合させてお祭り化したため、むしろ外国人がこの時期に渋谷にハロウィン仮装を見に来るという程、上手く自分のものとしてしまっている。 これらはいずれも日本特有の外部文化の取入れ方である。


荊楚歳時記 ~ 日本歳時記


 『荊楚歳時記』以来、実に千年後の江戸時代になってから養生訓の著者である貝原益軒の指導のもと、甥の貝原好古が『日本歳時記』(全七巻 貞享五年 1688年刊)を編纂する。 貝原益軒は中国に『荊楚歳時記』があるように、日本にも日本なりの歳時記が必要だと感じていたと思われる。もちろんその編纂にあたっては、日本に導入されてからすでに千年ほど経過した『荊楚歳時記』を意識せずにはおれなかっただろう。よって結果的に、日本的に消化された中国伝来のしきたりも 進化したり咀嚼されたりしながら『日本歳時記』に数多く採用されることになった。

 『日本歳時記』の編集方針として貝原は、公家の本である『延喜式』『』「西宮記」『江家次第』『北山抄』といった宮中の礼法を中心としたものではなく、広く民間の生活に分け入ってしきたりを紹介し、その由来を内外の古典から引用する方法を取っている。これは『荊楚歳時記』と同様の編集方針である。加えて本書は、十二ヶ月に分けて、我が国の草木・魚鳥・虫獣類まで紹介し、その食用や薬用の解説まで施しているところに特徴がある。こうしてた庶民向けのエンサイクロペディア(生活百科典)としての機能も持たせることで、各方面に多大な影響を与えたのである。

 いずれにせよ、この『日本歳時記』の編纂により、我々の生活に根差した各行事は、さらに我々の文化に深く固定されたのであり、それをたどると『荊楚歳時記』の存在は現代の我々にとっても非常に重要に思えてくるのである。

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