虎大尽の虎料理

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虎大尽と呼ばれた男、山本唯三郎やまもと たださぶろう


 山本唯三郎(1873年11月8日 - 1927年4月17日)は、明治から大正にかけて活躍した実業家である。山本唯三郎は松昌洋行という貿易商社を設立して石炭や材木の貿易に従事していたが、第一次世界大戦の開戦を見て船舶輸送業を強化する。するとこれが見事に当たり、巨万の富を築きあげることになる。最盛期の資産は約4千万円だったとされており、戦争で大儲けした「成金」としても有名である。

山本唯三郎


 『美味求真』で述べられている「虎大尽の虎料理」は大正時代には有名な話であったと思われる。しかしこの言葉に関する詳しい説明はなされていないので、この項で掘り下げて解説してみることにしたい。

 大儲けした「成金」山本唯三郎は、1917年(大正6年)に朝鮮半島で大規模な虎狩り行う。その規模は、マスコミ関係者が19名、松岡洋行の本社および支社の社員10名、他にも8班の射手24人、その助手やポーターを含めて150名の大所帯での行軍である。こうした大人数を連れて虎狩りを行ったので、山本唯三郎は虎大尽と呼ばれるようになる。

虎狩りの成果


 この時の虎狩りのことが『虎征記』の中で写真入りの記録として残されている。この『虎征記』であるが、写真がかなり多くて、自分の功績を宣伝するための写真集のような作りになっている。
 1か月間の成果は虎2頭、その他豹、猪、鹿など貨車1両分になったという。


虎料理


 虎狩り終了後、帰国前にまず京城(現在のソウル)の朝鮮ホテルで、山縣伊三郎朝鮮総督府政務総監らを招き、虎などの獲物の試食会を行っている。試食会のメニューは以下の通りである。

虎肉試食会メニュー(ソウル)
 ・雁擂身濁羹
 ・鱒蒸煮注汁
 ・野猪漬肉冷羹寄
 ・虎肉洋酒煮蔬菜
 ・山羊蒸焼生菜
 ・松實氷菓


 数日後の日本帰国後、大正6年(1917)12月20日の午後5時から、東京の帝国ホテルで大々的な虎肉試食会が行われた。参加者は清浦奎吾枢密院議長、田健治郎逓信大臣、仲小路廉農商務大臣、渋沢栄一、大倉喜八郎といった著名人を含めて200余名の参加と記録されている。

 当日は食堂の内外に虎狩りにちなんだ竹林が配され、そこに獲物の虎、豹、熊、鹿などの剥製が展示され、山本唯三郎自身が虎狩りの実演談を語り、更に舞台では「虎狩踊り」「山姥」「ローシーの歌劇」などが披露されている。

虎肉試食会メニュー(東京)
 ・咸南虎冷肉(にこみ、トマトケチャップ、マリネ)
 ・永興雁スープ
 ・釜山鯛洋酒むし(注汁)
 ・北青岳羊油煎(野菜添え)
 ・高原猪肉ロースト(クランベリーソース、サラダ)
 ・アイスクリーム(小菓子)
 ・果もの、コーヒー


 虎料理は1種類だけである。しかもこの虎料理、捉えてからも時間がたっており、肉は固く試食に耐えられるものではなかったという。
 『虎征記』には、来賓一同、舌鼓を打ち非常に好評であったと記されているが、実際は、その肉はあまり旨いものではなかっただろう。その理由は、あらゆるものを食べる中国料理の中で、虎肉はまったく重用されていないからである。世界的に見ても、犬を食べる地域はあっても、猫を食べる地域はあまり無い。虎もネコ科なのでそれと同じことが言えるのではないだろうか。ただし例外として、中国では豹胎「豹の胎児」を珍重する傾向が昔からある。これは「八珍」にも入っており非常な美味であるとされている。豹は、哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属なのでネコの範疇にはあると言える。世界的にもネコを食べる習慣のあるところはあまり聞かないので、中国の豹胎はかなり例外的な食材であると言えるだろう。

 『虎征記』には、残りの虎肉は先輩と知人で分けたとある。しかしこの肉を自宅で調理するは、かなり難しかったのではないかと推測される。また「骨はその精を取り『虎骨精』と名付けて同じく分かつ」とある。こちらの骨の方は、精力剤として使われ、効果の如何は問わず、そのイメージからかなり好評だったのではないだろうか?

山本唯三郎が同志社大学に寄贈した剥製



成金エピソード


 山本唯三郎には巨万の富にあかせて大散財したエピソードが残されている。

 函館の料亭で大散財の後に玄関で履物を履こうとしたところ暗くて良く見えないため、懐から百円札(現在価値で30万程)の束を取り出し火をつけた。芸者は驚いて消そうとしたが、「よせよせ、そんな物ならいくらでもやる。鼻紙なんか何にするか」とカバンから更に百円札の束を取り出し、鼻水が出てもいないのに鼻を拭く真似をしてみせたという。
 お金を燃やす山本唯三郎は、風刺画に描かれているが、子供の頃に自宅にあった図鑑にこの風刺画が載っていて、印象的だったことを覚えている。

百円を燃やす山本唯三郎


 ある料亭では座敷一面に豆腐を敷き詰め、大勢の芸妓に揃いの衣装を着せて、青く塗った箸を苗に見立てて豆腐に植えさせる田植え遊びをした。

 箱根では芸妓を総揚げして裸の分列行進をさせたり、貸切の特別列車に芸妓を大勢乗せて東京から京都に繰り出し風紀を乱すとして非難された。

 越中ふんどし1万本を携え欧米を漫遊して「気を引き締めてもらうため」と称し、各地に在住の日本人に贈呈した。


佐竹本三十六歌仙絵巻


 山本唯三郎の成金ぶりを示す、次のようなエピソードもある。
 1917年、山本唯三郎は旧秋田藩主佐竹家が手放した佐竹本三十六歌仙絵巻を35万5000円で購入する。これは先ほどの計算から云うと10億円以上の金額になる。山本唯三郎は料亭で豪遊中に、この絵巻を一瞥しただけで購入を決めたそうである。貯金で4000万円(現在価値で約1200億円)あった山本唯三郎にとって、35万5000円(現在価値の約10億円)は、はした金だったのかもしれない。
 しかし購入の翌年、1918年になると第一次世界大戦が終了し、不景気になるとともに事業の凋落が始まる。戦争終了による船舶輸送の需要は激減し、傭船に莫大な投資を行っていた松岡洋行の経営は苦境に追い込まれる。
 そのため購入から2年後の1919年には、もう佐竹本三十六歌仙絵巻を手放さざるを得なくなった。しかし高価な絵巻を1人で買い取れる収集家はどこにもおらず、買い取り先を探していた古物商が三井物産社長の益田孝(号:鈍翁)のところへ相談に行った。しかし大コレクターの益田もさすがにこの絵巻を一人で買い取ることはできず、彼の決断で、絵巻は歌仙一人ごとに分割して抽選でバラバラに譲渡されることになった。
 この佐竹本三十六歌仙絵巻は国宝級の価値のある絵巻とされている。バラバラになった現在でも、それぞれが重要文化財に指定され、美術館に所蔵されていたり、個人で所有されたりしている。

佐竹本三十六歌仙絵巻の一枚


 抽選会は、益田の自宅で1919年12月20日に行われている。抽選会が行われた建物は「応挙館」と呼ばれ、丸山応挙の襖絵がある。現在は品川から東京国立博物館の構内に移築されてる。
 応挙館に私も行って畳の上に寝転んで応挙の絵(現在は応挙の襖絵はコピー)を見た事がある。ここで佐竹本三十六歌仙絵巻の抽選が行われたのかと思うと、非常に感慨深いものがあった。

 この頃から成金で鳴らした山本唯三郎も下坂になってゆく。佐竹本三十六歌仙絵巻を手放さなければならなくなった翌年、1920年に再び衆議院議員選挙に出馬するも再度落選してしまう。さらに第一次世界大戦終了後すると、財産をほとんど全て失ってしまい、かつての成金としての羽振りの良さは鳴りをひそめてしまうことになる。
 池上本門寺に隣接した池上村堤方に「池上御殿」と称された1.3万坪もの恵影山荘(幸運をもたらした保有船名に因む)も、数十万円で買った「千駄ヶ谷御殿」(現在の新宿にあるJR東京総合病院の敷地の邸宅)も手放し、最後は吉祥寺でわびしい生活を送ったという。
 1927年に自宅で胃痙攣のため急死。まさに「盛者必衰の理をあらわす」である。


虎狩りの背景


 1916年(大正5年)衆議院の補欠選挙が岡山県で行われ、山本唯三郎は出馬する。この頃は山本唯三郎の絶頂時である。しかし選挙は、山谷虎三に敗れ落選してしまう。世間では、虎三と虎をかけて腹いせのために本物の虎を狩る決断したと揶揄されていた。
 当選したこの山谷虎三であるが、彼が衆議院だったとき、『美味求真』の作者、木下謙次郎も大分選挙区選出の衆議院であった。政党は異なっていたが、同じ期に衆議院議員を勤めているので、もしかすると何らかの面識があったかもしれない。第11回衆議院議員総選挙のリストを見ると、岡山県に山谷虎三、大分県に木下謙次郎の名前があるので確認して頂きたい。
 一方の山本唯三郎は1916年の選挙に続き、1920年(大正9年)にも再び衆議院選挙に出馬するが、再び落選している。仮にもし選挙で当選していたとすると、第13回衆議院議員総選挙のリストを見ると、木下謙次郎も当選しているので、同時期の衆議院議員になっていたかもしれない。結局は一回も当選しなかったので、巨万の富を築いた山本唯三郎でも、選挙はどうにもならなかったようである。

 山本唯三郎の選挙に関連して、同じ岡山県選挙区での印象的なエピソードがある。
 それは2007年の第21回参議院議員通常選挙のことである。この選挙は、年金問題、相次ぐ閣僚の不祥事等が重なったことが原因で自民党が大きく議席を減らし大敗した選挙であった。
 かつて山本唯三郎と山谷虎三が争った岡山選挙区で、90年後、新人の姫井由美子が、自民党前職で自民党参議院幹事長を務めていた片山虎之助を破って初当選することになる。
 姫井由美子は、選挙運動の際に「姫の虎退治」をキャッチフレーズに活動しており、しかも大物とされていた片山虎之助を破った為、「姫の虎退治」というキャッチーなコピーと共にこの参院選の象徴となった。

姫の虎退治


 同じ岡山県ということもあるが、虎退治を掲げる辺りのセンス、またその後の凋落ぶり(姫井由美子は不倫、有印私文書偽造行使疑惑、選挙費用の水増し請求のスキャンダルが報道された)を見ても、なんだか両者に共通するものがあるような気がしてならないのである。





参考文献


『瀬戸内の経済人』 赤井克己

『カネが邪魔でしょうがない 明治大正・成金列伝』 紀田順一郎

『征虎記』 山本唯三郎

『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』 馬場あき子