野邊地尚義のべちなおよし


野邊地尚義の経歴



 『美味求真』で、野邊地尚義は、紅葉館という料亭の主人であると紹介されている。この項では、なぜ野邊地尚義が紅葉館の主人になったのかの経緯を述べておきたい。個人的にも野邊地尚義がそこに至るまでのキャリアと、紅葉館という料亭そのものの存在に興味があり、彼の人生と紅葉館とを合わせて説明することにしたい。

野辺地尚義 (中央)、山屋他人(右側) (明治42年元旦)


 『大日本人名辞書. 下卷 1926刊』には、野邊地尚義についての記録が記されており以下にそれを引用しておく。

野邊地尚義
 陸中南部藩士、文政八年陸中国亀ケ森に産る 嘉永年中二十二歳にして江戸詰となりしが時事に感ずるところあり三十二歳の折に脱藩して幾くもなく大村先生の門に入り蘭学を修むる事三年 姓名を変じて菊池久紀と称せり
 この間師として往来せし諸先輩には松田成卿、杉田玄瑞、大鳥圭介、勝安芳(勝海舟)等あり 後 毛利藩邸の学塾に聘せられて蘭学を教授す 木戸孝允、伊藤博文等の知遇をうけたるも実に此時にあり
 当時天下の形勢漸く穏やかならず毛利邸を辞して密かに旧藩の為に力を尽くし約一年の後 藩命により帰藩したるが讒者の為に誣いられ途にして江戸に抑留せられ将に死を賜らんとするに際し、旧師大村氏の救う所となりしが維新の大業成や藩を辞して京都に至り府員を命ぜられ其の後 府立 英、仏、独三語学校の監督を任ぜられ次に明治三年に始めて女学校を同府に起こすや更に日本女学校の嚆矢となす
 其の後職を辞し東京に来たり 紅葉館創立の事務に参同し十四年開業以来二十九年間之に従事す 四十二年三月三日逝く年八十五


 上記に基づいて補足も交えながら、野邊地尚義の経歴について述べておきたい。

 野邊地尚義は、文政8年(1825年)、陸奥国稗貫郡亀ヶ森村(現在の岩手県花巻市)に生まれる。
 22歳の時に南部藩・江戸詰めとなるが、安政3年(1856年)、32歳の時に脱藩し、長州藩士であった大村益次郎が、江戸の麹町三番町に同年11月に開いた、私塾・鳩居堂で蘭学を学び始める。ここで勝海舟松田成卿、杉田玄瑞、大鳥圭介らと交友しており、その後、江戸・長州藩邸内で蘭学教授となると、木戸孝允や伊藤博文との親交も始まる。

 またその後、萩長州藩邸で蘭学と英学を若手藩士に教えたが、その時の生徒のなかには1863年からロンドンに留学することになる「長州ファイブ」と呼ばれたメンバーである、伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉が含まれていた。
 讒言によって命を落としかけたが、大村益次郎によって救われている。
 また日本で最初の女学校である「新栄学院 女紅場」を京都に創設し、英語を導入した教育を始め、10年間、校長を務めた教育者として大きな功績を残した。

 こうした英学者、教育者として歩んできた野邊地尚義に、転機が訪れる。読売新聞初代社長となった実業家の子安峻。三菱の岩崎弥太郎。日本鉄道会社社長となった小野義眞からの勧誘があり、紅葉館の総支配人になるよう求められたのである。彼らは「当時の上流社会の人々のために優雅な遊び場所をつくろう」と考えており、サロンの設立・運営を野邊地尚義に託すことになる。


紅葉館の設立


 この紅葉館は昔の料理関係や宴会関係の書物を読んでいると良く出てくる料亭である。紅葉館は、1881年(明治14年)2月15日に設立された、東京の芝区芝公園20号地、現在は現在の東京タワーの建っている場所に存在した300名限定の会員制料亭であった。しかし1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失し、紅葉館は64年の歴史に終止符を打っている。

芝・紅葉館

 ここで野邊地尚義が築き上げたサロン、およびネットワーカーとしての活動には興味深いものがある。紅葉館は単なる高級料亭として料理を出していただけではなく、むしろ、文化、芸能、政治、外交をクロスオーバーに結びつける為の「空間」を提供しようとしていたと考えた方が良さそうである。そしてそれを支えうるだけの明確なコンセプトに基づいたプラットフォームを野邊地尚義は亡くなるまでの29年に渡ってコントロールし続けていたと考えて良いだろう。

 まずはどのように野邊地尚義が、紅葉館に関係することになったのでかを説明することから始めたい。

 先にも述べたように読売新聞初代社長となった実業家の子安峻。三菱の岩崎弥太郎。日本鉄道会社社長の小野義眞は、野邊地尚義に紅葉館の総支配人になるよう勧誘したことから始まる。
 1881年(明治14年)2月15日から紅葉館は始まっているが、合資会社としてスタートしたのはそれから12年後の1893年(明治26年)11月16日である。その事が『日本諸会社登記録. 第1巻』に記録されている。この合資会社の出資者は以下の14人、資本金は42000円であった。

 8500円 小野義真    東京府北豊島郡南千住町元地方橋場1380番地
 7700円 三野村利助   東京市深川区深川西大工町18番地
 4200円 川崎八右衛門  東京市本所区千歳町46番地
 3500円 喜谷市郎右衛門 東京市京橋区大鋸町6番地
 2600円 安田善次郎   東京市本所区横網町2丁目7番地
 2100円 中澤彦吉    東京市京橋区南新堀町1丁目4番地
 2100円 山中隣之助   東京市京橋区南伝馬町1丁目17番地
 2100円 小西孝兵衛   東京市京橋区南新堀町1丁目8番地
 2100円 野邊地尚義   東京市芝区公園第20号地1番
 1700円 本野盛享    東京市麻布区東鳥居坂町2番地
 1500円 乙部 鼎    東京市芝区白金三光町81番地
 1400円 飯田文男    東京市小石川区西江戸川町18番地
 1400円 山本直成    東京市麹町区紀尾井町3番地
 1100円 稲葉正邦    東京市芝区三田3丁目35番地

 以上14名が出資者である。そしてこの中に、野邊地尚義も出資者として含まれている。ただし紅葉館設立した、3人のうちの2人、三菱の岩崎弥太郎と読売新聞初代社長の子安峻は、合資会社となった1893年以は既に亡くなっており出資者として含まれていない。

 紅葉館に関する記事によっては、出資者は13名であるというものがあるが、その場合は「乙部鼎」が含まれていない。しかし業務担当社員として、乙部鼎と野邊地尚義の2人が書類上登録されており、『日本諸会社登記録. 第1巻』にも乙部鼎が出資者に含まれ、かつ出資額も明確になっているので、14人が正しい出資者人数であると思われる。
 乙部鼎は、1872年(明治5年)に旧松江藩と旧明石藩が創刊した『公文通誌』という新聞で、後に『朝野新聞』の発行人でもあり、社主を勤めていた人物であった。

 

 『日本諸会社登記録. 第1巻』には会社の目的が以下のように述べられている。

【 会社ノ目的 】
 貴顕紳士ノ集会共遊所トシ会員ヲ定メ其需メニ応シテ席室ヲ貸付シ及ヒ酒食ヲ調進スルヲ以テ営業トス 又会員外ノ求メニ応シテ休憩遊覧セシムルモノトス


 このように料理を出す事と共に、紳士のためのコミュニティスペースを提供することもそも目的に含められていることが明確に示されている。ではこの紅葉館ではどのような饗応が行われていたのかを次に詳しく説明しておくことにしたい。


紅葉館のおもてなし


 紅葉館では紅葉の装飾を施した豪華な内装の和風建築と、紅葉をあしらった着物姿の美人女中たちの接待が評判だったとされている。よって紅葉館では女中の採用が特に厳しく、美人であることはもちろん、教養のある旧武士の子女を採用して芸事の特訓をすることでより魅力あるものとしていた。
 その芸事とは「紅葉館踊り」であり、外国の高官たちは、そのあでやかな姿と踊りに見とれたと言われている。この女中たちの特訓の総指揮は野辺地の役目で、京都の女紅場での経験が買われ英会話の教育も女中たちに実施しており、外国人の来客にも対応できるようにしていたようである。

紅葉館踊り


 明治44年に発行された『東京風景』には紅葉館で披露されている手踊りの写真が納められている。その写真の解説に「是は芝公園内に在る有名の割烹店紅葉館嬢子手踊の嬌態なり、其演舞の優麗なる、艶妖にして春柳の風に靡くが如く窈窕として秋月の遠山に登るが如し、楼屋の美酒肴の佳、是れ顧客を喜ばすの主なるものならんも、嬢子一曲の手踊も亦客足を曳くの好磁石なり」とあり、ここからも芸妓の踊りが有名であったことが分かる。

紅葉館内での踊り



紅葉館の建築


 紅葉館の敷地面積は、約6479㎡という広さであった。当時の「地図」から紅葉館の場所を確認できる。建物は楓山の脇にあり、眺望がすばらしかったようで、『東京百事便』には

 楼上又品海より総房二州の美景其他箱根より連々富士山峯に至るの間一目の中にあり


 上記のように房総半島から箱根、富士山までが見渡せたことが記されている。
 また明治22年に出版された『東京漫遊独案内』には、明治6年から増上寺の境内の山が整備されて、桜の時期や、紅葉の時期に遊観できるよう公園が作られたこと、そのなかでも丸山と呼ばれていた高台に紅葉館が作られた事が述べられている。さらに同書では「市街を越してはるかに芝浦を望む風景は極まりなし」ともあるので、ここでも海まで見える絶景であったことが述べられている。
 私もこの近所(芝3丁目)に数年住んでいたことがあり、桜の時期には毎年、この近くで良く花見をしていた。ただし、ビル群が立ち並び、昔のような海まで見えるような眺望ではなくなっており、東京タワーに上らなければ海は見えなくなってしまっている。

歌川広重三代(左) 歌川国利(右)

 紅葉館は日本建築で建てられており、この当時の社交場であった鹿鳴館とは対照的であったと思われる。『新撰東京名所圖會』には間取りについて詳細な説明があるので引用しておきたい。

広間
 十五畳二間、十八畳ー間、別に十畳ー間、三間四枚なる絹張の襖には楓葉を金銀の模様に燎乱して、引手、釘隠に至る迄悉く楓葉を型とり、襴間に描けるしもみぢ葉は故是真翁の筆なり、鼈燈喚鈴数百顆花の如<苔の如く敷設し、床の軸、置物、挿花にも心喝して、違棚の 飾物まで一々名ある寶ぞかし、二階は十五畳二間、十八畳二間より成る、欄間の透彫(麻の葉に五三の桐)は豊太閤時代の作にして、伏見桃山御殿に在りしをこヽ にうつす、他に茶の間八畳、螺細の棚には茶道具ー式を飾り附けぬ、茶の間に隣りて八畳ー間は、給仕人の溜りとか聞きぬ。

茶室
 吉野櫻の床柱、墨書の一軸、古銅の花瓶には紫陽花を挿み、素枯れし萩葺の軒端長く、小庭に四ツ目垣を結ひ、枝折戸あり、栽籠茂く冬靑の古木など珍らし、石燈龍の雨にも壽れで、昨日今日風は湘簾を動かし、畳に賓梅の影重く閑群に床かし。

湯殿
 茶塞の背後に湯殿あり

利休堂
 湯殿を左に見て中廊下を行くべし、堂ば三畳敷こして一隅に千の利休の像を安置す、垂簾半ば卷きて身長三尺五寸程の木像なり、京都大徳寺の立像にして冠を頂き、手には竹杖を携えぬ。

新館
 築山に沿ふて廊下伝ひに行くべし、明治二十二年増設する所、床は檜木舞台にして畳間よりなり畳を除けば直ちに本舞台となるべし、三十五畳二間、二十八畳間よりなる。大宴会の際は三間押通にして殆ど百畳敷に□むとす、二階の間取も全く同一にして、室内の装飾更に一層の美を凝らしぬ。

便殿
 垣を結び栞門を設け、飛び石伝いに行くべし、明治十年上野公園地において第一回内国勧業博覧会を開くや、主上の行幸を仰ぎて便殿を営めり、博覧会閉場の後、紅葉館所有となりね、後京都知恩院に擬ひて椽を鶯張りに改築す歩一歩椽を歩む毎に春鶯噺ず。

能楽堂
 明治十四年紅葉館と同時建築に着手す、故岩倉右大臣外有志の華族六十名にて設立す、今日は能楽会において維持せり、紅葉館付属にあらず、一時便殿とともに管理を紅葉館に委任せしより、人は云う紅葉館の能楽堂と非なり。


紅葉館内間取り 一階(左) 二階(右)

 日本建築で、かつ豪華な造りであったことが分かる。襴間には是真翁(柴田是真しばたぜしん)によって紅葉が描かれていたとある。柴田是真は江戸時代末から明治中期にかけて活動した漆工家、絵師・日本画家であり、装飾は紅葉をテーマにしながら細部まで美しく作り込まれていたものと見える。


紅葉館の料理


 調査してみると紅葉館の料理に関する記録は非常に少ない。よってどのような料理が出されていたのかについて、史料から多くを語ることは難しい。紅葉館の利用客および招待客にとっては芸妓の存在が印象に強かった為か、訪問客の多くは、外国人も含めて芸妓やその演目について書き残しているが、残念ながら具体的に料理の献立等についてはあまり触れていないのである。

 紅葉館の料理は、関西の会席料理であったことが、この当時の東京ではかなり特徴的であったようである。こうした料理とそれを実現する料理人の選定については、京都から東京に移動した、野邊地尚義の意向が大きく働いていたのかもしれない。それは京料理および関西料理をもって日本のトップであると考えていたからではないだろうか。


紅葉館と、辻徳光つじとくみつの始めた料理学校


 大正年間に、紅葉館の総料理長を務めていたのが辻徳光(1892-1968)であったことが、『全日本薬膳食医情報協会 情報誌Any 50号』に記されている。
 辻徳光が紅葉館で働いている期間中、来客から見事な料理の作り方を見せてもらいたいという要望に応えて、午後の休憩時間をさいて料理講習を始めると、それが評判になり参加するご婦人方で連日満員の大盛況となったようである。だがそのことがオーナー(この時代には野邊地はすでに亡くなっている)の耳に入ると、直ちに中止せよとの命令が下ることになるが、意見不一致のために辻徳光は紅葉館を自主退職してしまう。

辻徳光(右)夫人の辻千代子(左)

 その辻徳光が創設者となり、その後に発展していったのが、現在の「辻学園調理・製菓専門学校」である。辻徳光の息子は辻勲で、1959年に「辻学園日本調理師学校」を設立している。また娘の勝子の婿である、辻静雄は1960年に「辻調理師専門学校」を設立し、フランス料理研究においても大きな功績を残した人物である。
 現在では辻徳光から発展した料理学校と、辻静雄の設立した料理学校は経営母体も異なり、まったく異なる学校となっているが、辻徳光から始まる辻一族が料理教育において果たした功績は非常に大きいものがあると言えるだろう。

 さて、日本で最初の料理学校は1917年(大正6年)に辻徳光が創設した「日本割烹学校・日本割烹講習会本部」である。これは年代的に考えると。紅葉館で辻徳光が総料理長を務めていた時期に重なるものと思われる。日本割烹学校は、東京都港区麻布で創設されたとある。麻布と言っても広いのだが、私はその料理学校は東麻布辺りだったのではないかと考えている。なぜなら辻徳光は、午後の休憩時間を割いて教えていたとあり、紅葉館(現在の東京タワー)から道隔てた西側の東麻布のエリアであれば、行き来するには便利だからである。今でも東麻布は、一般的にイメージされる麻布十番や南麻布とはちょっと異なったローカルな感じが残るエリアである。紅葉館にも近く、かつ新規に教室を立ち上げるには良い場所だったのではないだろうか。
 日本割烹学校 → 辻調理師学校という変遷を経て、1990年に開校した辻徳光を創始者とする「辻ウェルネスクッキング」には以下のような草創期における興味深い説明がある。

【 辻ウェルネスクッキング 】
 明治20年(1887年)から大阪で食品問屋「たまや」を営む辻家始祖・辻岩松は、経営の傍ら料理を独力で勉強し、誰よりも料理技術に秀でていました。岩松の三男、辻徳光は父の影響を受け、料理修行を重ね、料理教育への道を切り開きます。大正6年(1917年)岩松や徳太郎(徳光の兄弟、辻家二代目当主・たまや主人)から資金援助を受け、日本で初めて、東京麻布に家庭料理学校・日本割烹学校を開校します。徳光は、家庭料理教育を続ける一方、昭和35年、徳太郎の資金援助を受け、プロ調理師養成機関、辻調理師学校を開校。岩松、徳太郎、徳光の食への熱き思いは、創立の教育理念「家族の健康は家庭料理から」として...今も輝いています。


 このように大正6年(1917年)の日本初の料理教室の始まりで、父・岩松や、兄弟・徳太郎からの援助があったと述べられている。ただ麻布の料理教室の後は、数年間、全国を回り、一時期は陸・海軍の嘱託として軍隊でも集団給食の調理技術指導に当たったとされている。
 昭和9年(1934年)に「堂ビル割烹学院」設立し、その後、昭和34年に辻調理師学校を設立することになる。

辻家の料理学校構成

 家族構成を見て頂くと分かるように、その後、家族で個々に料理学校を設立し、現在のような有名な料理学校にまで育て上げている。日本で最初の料理教室が立ち上がった時期に、その立ち上げを行った辻徳光が、紅葉館と関係していたという事はかなり興味深い事実であると思われる。


外国人が記録した紅葉館の料理ともてなし


 紅葉館でのどのような料理が出て、どのようなもてなしがあったのかについて、アメリカ人の旅行作家キャサリン・バクスターが1895年に発刊された『In Bamboo Lands』に記録しているので紹介しておきたい。

  一膳目:茶
  二膳目:菓子:餡子餅、砂糖で擬した4枚の紅葉の葉(赤、緑)
  三膳目:日本酒:お燗
  四膳目:味噌汁
  五膳目:お作り:鯛、マグロ、赤貝、キュウリ、大根ツマ
   舞台:紅葉踊り
  六膳目:穴子、卵焼き、海苔、魚の梅煮込と鯉の活け造り
  七膳目:魚、芋、生姜細切り
   舞台:道成寺
  八膳目:御飯、あえもの、茄子(漬物)、汁、お茶
   舞台:五人囃子

 このような料理と舞台で構成されたもてなしが行われていたことを記している。

 また大森貝塚を発見したモース(Edward Sylvester Morse)も、明治15年(1882年)6月15日に紅葉館を訪問した時のことを『Japan day by day』で記録している。

菓子の折り詰め

 退出に際してモースは菓子と砂糖菓子とが入った箱を貰ったことを記して、「箱は八インチ四方で、薄い白木の板で出来、蓋についた持ち手は緑色の竹から切り取ったもの」と述べて図も描いている。これを見ると紅葉の葉をあしらった菓子が入っており、キャサリン・バクスターが紅葉館で食べたものと同じ菓子ではないかと思われる。


什器について


 空間や料理に合わせて、紅葉館で使われていた什器も一流のものが使われていた。そのことが『新聞集成明治編年史. 第四卷』に以下のように述べられている。

去十五日に開館式を行はれ、一昨十六日は子安君の催しにて同業諸子を招待あり、敝社よりも一兩名其席に連なりたり、扨その結構の樣を見るに木材の美、作事の巧みなるは云ふも更らなり、蒸襖(むしぶすま)張附その他の家具一式とも悉く紅葉の圖又は模樣を用ひ、欄間は是眞翁が筆、膳椀類は橋市の工(タクミ)、陶器は總て西京なる錦光山、幹山、幹山、六兵衞の手になれるにて、諸器物にまで斯く意を用ひられしは、諸氏の配慮もさこそと推量らる。


と述べられているように、膳椀類は橋市の匠によるもの、また陶器類は京都の以下の窯から取り寄せていた事が分かる。以下が紅葉館で使われていた陶芸作家である。


錦光山

 京焼の陶家である。正保年間(1644~1648)の頃に、初代の小林源右衛門が京都の粟田に開窯。1755年以降、将軍家の御用茶碗をはじめ、高級色絵陶器を製作している。紅葉館には年代的に、色絵金襴手を得意とした7代目錦光山の陶器が使われていたのではないかと考えられる。海外でも評価が高く輸出されていた。輸出の振興をはかり,欧米を視察して製品の改良につくしている。(技術は8代目に引き継がれたが廃業してしまっている)

錦光山


乾山伝七

 近江彦根藩の御用窯湖東焼にかかえられるが、文久2年京都に移住し清水に窯をきずく。明治5年以降から乾山伝七を名のるようになる。維新後西洋絵具の使用法をワグネルにまなび、洋風磁器を焼くようになる。
 1885年(明治18年頃)幹山陶器株式会社に組織を変更するが、種々の支障があり、1889年(明治22年)に会社を解散、工場売却する悲運に陥ることになる。乾山伝七はその後自宅で製作を続けたが、翌年2月28日に70歳で没した。現在は乾山伝七は継承されていない。

乾山伝七


清水六兵衞

 1771年(明和8年)独立して五条坂建仁寺町に窯を開き、名を六兵衛と改め代々、六兵衛を名乗る。現在の清水六兵衛は八代目である。三代目の頃から海外にも積極的に出品し賞を受賞している。

四代目 清水六兵衞

 いずれも、海外に積極的に輸出され、海外での評価が高い窯元である。こうした高価な器が使われていたところにも紅葉館の高い美意識の現れであったと思われる。このように高価な器が使われていたので盗難が頻繁にあったことも『新聞集成明治編年史. 第四卷』で述べられている。

 殊に杯盤膳具の如き最も善美を盡くし、何れも髙價の品なるが、開宴の際盃の紛失すること數々なるにより、同館にても深く注意を加へ種々手を盡くして捜索さるゝとのことなれど、何者の所爲なるか今に判然せざる。


 とあるようにビジタ-として訪れる者が紅葉館の備品を失敬する事が多かったようである。特に杯は人気で、酔った勢いで持ち出した杯を2次会の新橋あたりの料亭において帰る者が多く、紅葉館もあまりの紛失ぶりに苦慮したらしいが、結局他の高級料亭に置いて行かれた杯も紅葉館の名をさらに高める効果をもたらしたようである。



紅葉館と能


 紅葉館に近くには能楽堂も併設されていた。その事について明治23年刊の『東京名所図絵』には以下のように記されている。

 紅葉館は本堂の西北に在り近年新築せしものにして会員およびその他の懇親睦等の宴席に供するものなり 傍らに能楽堂ありて能狂言を演ずる所とす事に貴顕紳士の遊楽を供すると云う。


 さらに『新撰東京実地案内』では、「閑雅幽静の風致たる処にして貴顕紳士の歓宴及び集会する好館なり。時々能楽ありて、天皇及び皇后陛下の行幸あらせらるることあり」と述べられており、江戸幕府崩壊後にパトロンを失った能存続のために芝能楽堂が重要な拠点としての役割を果していたことが伺える。
 この能楽堂は、紅葉館の一部と見られているようであるが、実際には能楽堂と紅葉館は異なる所有者の建物である。ただ同じ敷地に建てられた事や、紅葉館でも能が演じられていることから、能楽堂が紅葉館の一部であると混同されている場合があるようだ。

 明治維新後、能は存続の危機に立たされることになる。能家は江戸時代は徳川家から付置が与えられ保護されてきたからである。しかし徳川幕府の崩壊により、明治時代になるとその存続が危うくなり、いくつかの流派は消滅してしまったようである。
 こうしたなか、岩倉具視を中心とする華族が、能・狂言の後援団体設立に向けて動き始める。資金が集められ、能楽堂が芝に立てられ能保護が行われることで、能は存続し現代に至っている。この能楽堂を通して、能を保護しようと言う岩倉具視の力の入れようはかなりのものだったらしく、池内信嘉『能楽盛衰記 下巻』には岩倉具視が建築中の能楽堂を毎日のように訪れて、嵐窓の付け方、切戸の取っ手の彫り方といった細部に至るまで注文を付けたことが述べられている。

 このように岩倉具視ら、華族の働きによって、能はサポートを受け、現代に見られるような発展を遂げることが出来たのである。こうした能の保護と発展という観点からは、能楽堂と同じ芝にあった紅葉館が果たした役割も、かなり大きかったのではないだろうか。能楽堂の運営は資金的に非常に厳しかったようで維持管理や資金集めにおいても大いに苦労をしていた記録が残されている。ただ紅葉館でも能を演じることができるような施設があったようで、飲食する客のために、能楽師を招いて演ずる機会が設けられていたようである。実際に外国人が日本を訪れて紅葉館で能を鑑賞した記録が多く残されており、それまで日本のごく限られた貴人の為だけに演じられていた能が、世界的な評判や評価を得るにおいて、紅葉館の果たした役割も大きかったと考えて良いだろう。

芝・能楽堂および紅葉館で外国人に対して演じられた能演目

 1881年 ハワイのカラカウア王 『紅葉狩』『猩々』
 1882年 E.モース  『蚊相撲』
 1886年 ジョン・ラファージ  『猩々』 他
 1889年 ダグラス・スレードン
 1892年 ホセ・ラスコン メキシコ大使 『山姥』他
 1898年 ヒギンボサム 饗応能楽

 上記の外国人客に対して、能演目が、芝能楽堂および紅葉館で演じられていることが記録に残されている範囲で分かっている。
 能楽堂の候補地としては上野公園なども挙がっていたようであるが、建設中の紅葉館に併設して建てられるようになった経緯にも、もしかすると野邊地を始めとするメンバー達が何らかのかたちで(出資あるいは寄付)関わっていたのからかもしれない。


能楽に通じた紅葉館の出資者


 紅葉館出資者の安田善次郎は、実業家であり、現在のみずほ銀行、損保ジャパン、明治安田生命保などの礎を築いた人物である。また東京大学の安田講堂、日比谷公会堂といった建物も安田善次郎の寄付によるものである。(ジョン・レノンと結婚したヨーコ・オノは安田善次郎の曾孫である)
 このように安田善次郎は成功した実業家であったが、能役者宝生九郎のパトロンとして文化面のサポートにも力を入れていた。さらに能を援助するだけでなく、自ら能についての造形も深く、安田善次郎氏旧蔵の「安田文庫」には、能・狂言に関する肉筆資料が数多く残されており、学術研究上でも評価の高い貴重なものが多数含まれている。
 早稲田大学の演劇博物館が所蔵する能楽関係資料は、安田善次郎氏旧蔵の安田文庫本を中心とする。謡本の部、注釈の部、伝書の部、付の部、史料の部、雑書の部、狂言の部に整理分類された約1,000点4,000冊に達する資料群であり、能楽研究、演劇研究、近世語研究に不可欠の基本資料であるとされている。
 このように安田善次郎は能に通じた人物であったので、紅葉館設立の流れのなかで、芝・能楽堂の建設においても何らかのサポートを行った可能性も考えられなくもない。


梅若実日記に見られる紅葉館出資者の名前


 能楽師の梅若実がこの時代に書き残している日記を読むと、紅葉館に出資した実業家の名前が良く出てきており、彼らに能を披露している。また梅若日記には1881年3月13日に紅葉館でハワイのカラカウア王の為に能を行ったことや、明治27年11月3日の日記には、紅葉館での展覧会のために梅若家が所有する書画を出品したことが述べられており、能、あるいは能楽師は、紅葉館とも深い関係があった事が分かる。


紅葉館は歌舞伎よりも能楽をサポート


 紅葉館が能との関係が深いことを示すエピソードを取上げておきたい。
 明治14年の『中立政党 政談』4月3日の記事には紅葉館の会員を申し込んだ市川團十郎と尾上菊五郎が、紅葉館から入会を断られたことが掲載されている。
 この記事のタイトルは「名優 團菊も畢竟 河原乞食:紅葉館員に加入を拒絶せらる」というもので「紳士と俳優は今日の世の中では同じ太鼓持ちの類でしかなく、炭と墨との差もない」と、市川團十郎と尾上菊五郎の入会を拒絶した紅葉館の対応を批判的に論じている。

 新聞には書かれていないが、紅葉館が歌舞伎役者たちの入会を断った理由は、もっと深いところで能楽との関係にこそあると推測できるのではないだろうか。能と歌舞伎の歴史的な背景を比べると、能が室町時代から朝廷や幕府の庇護のもと続けられてきたのに対して、歌舞伎は戦国~江戸時代からの庶民を中心として盛んになった伝統芸能である。
 こうした格式のようなものの違いを考えてると、能楽をサポートしている紅葉館としては、そこに歌舞伎役者を受け入れるには難しさを感じたのではないだろうか。


能を推す権力者、歌舞伎を推す権力者


 明治時代の初期には、新時代における伝統芸能の首座をめぐり、政界を巻き込んだ抗争が繰り広げられており、日本を代表する伝統芸能として「能」と「歌舞伎」のどちらがふさわしいのか、また外国人供応芸能としてどちらを推すのかについて争われていた。


岩倉具視いわくらともみ

 先に述べたように岩倉具視は、海外視察を通して西洋ではオペラが文化外交で大きな役割を果たしていることに注目しており、日本でも海外に発するべき文化コンテンツとして「能」がふさわしいと考え、能の再興と、普及に力を入れていた。

岩倉具視(1825-1885)


井上馨いのうえかおる

 それに対して、明治政府で大臣職を歴任した井上馨は、欧米に負けない国劇の創造を目指した演劇改良運動の後援者として歌舞伎を推していた。そのために自らの私邸を天覧歌舞伎の会場として提供したり、また歌舞伎役者の九代目市川團十郎がかつての養家から泣きつかれて背負いこんだ経営不振の河原崎座の借財整理に協力してもいる。

井上馨(1836-1915)

 よって岩倉具視と井上馨の意見の違いが、能と歌舞伎の伝統芸能における首座めぐる争いにも大きな影響を及ぼすことになったのである。こうした影響が、紅葉館の会員になろうとした市川團十郎と尾上菊五郎の拒絶にも表れていると考えるべきだろう。
 よって紅葉館の立場も、能に近いものであり、実際に能を紅葉館でも披露することが行われたのである。この選択にも、あまり表面にでない野邊地尚義、あるいは出資者の資本家の意図が反映されているはずであると考えるのは間違いないだろう。
 江戸で発展したものよりも、どちらかと言えば、京都や上方の雅な文化を紅葉館ではコンセプトの根源として吸収し、発信し、もてなしの根幹としようとしていたと考えられる。



ネットワーカーとしての野邊地尚義


 野邊地尚義は紅葉館の幹事として、その運営に29年間に渡り携わっている。会社の登記録を確認すると野邊地尚義の住所は、紅葉館の住所となっているので、その敷地の一部に屋敷があり、そこに住んで運営を行っていたものと思われる。
 そうしたことを理解すると、紅葉館には、野邊地尚義の美意識なようなものがアトモスフィアーのように存在し、そこに満たされていたのではないかとすら思われる。そうしたものを野邊地尚義は把握したうえで完全にコントロールしており、こうしたサロンとしての美意識が、多くの文化人、政治家、事業家、芸術家を引きつけていたのではないかと考えられる。

 紅葉館と同じ時代に、北大路魯山人が運営していた星岡茶寮・美食倶楽部の存在も忘れてはならないだろう。

   北大路魯山人 - 星岡茶寮
   野邊地尚義  - 紅葉館

 実は大正十二年、魯山人は「花の茶屋」を紅葉館のすぐ近所(港区芝公園4丁目6-13)で開業しており、この経営を経て、大正十四年に「星岡茶寮」を開業している。こうした距離感であるから、当然、魯山人も紅葉館には何らかの意識があったことであろう。よって上記の対比を行う事で、あらためて紅葉館の位置づけ、さらには野邊地尚義に対する再検証・再評価が行われる必要があるのではないかと感じている。

 さらに国賓や外国の外交官を接待するためのサロンとして建てられた、1887年に開館した鹿鳴館が7年間しか続かなかったのと比較して、64年間も続いた紅葉館には、鹿鳴館を上回る何らかの魅力、あるいは長所があったものと思われる。

 官主導で行われた鹿鳴館と、民間主導で行われた紅葉館という図式でそれを理由づけることは易しいが、それ以上に長年継続した本質的な理由は、やはり野邊地尚義の美意識や、ブレないコンセプトのようなものに支えられていたことになるのではないだろうか。
 現代の東京においても、京都はどこか憧れのある特別な場所となっているようである。明治時代においても野邊地尚義はそれを意識していたのか、紅葉館の料理には関西系の懐石料理にしたし、それを演出する器の数々も京都から取り寄せている。 そういう意味において、野邊地尚義はサロンという「場」の持つ意味が、ハードウェアではなくソフトウェアにこそあることを理解し、日々それを高めることで、集まる人々の質を高めることになると確信していたのではないかと考えるのである。

 こうした日本におけるサロン文化という視点からも、野邊地尚義に対する再評価が行われることも今後は期待したい。





参考文献


『料亭東京芝・紅葉館』  池野 藤兵衛

『Alice in Asia: The 1905 Taft Mission to Asia』  Smithsonian:Arthur M. Sackler Gallery

『King Kalakaua in Japan』  photoguide.jp

『In Bamboo Lands, New York, 1895』  Katharine Baxter

『The Maple Club, Tokyo, c. 1920』  Old Tokyo

『外国人の目に映った能楽の明治維新 : 海外に伝えられた能狂言のイメージ』  スラボフ・ペトコ(Slavov Petko)

『紅葉館と外国人に紹介された能楽』  スラボフ・ペトコ(Slavov Petko)

『Japan day by day』  Edward Sylvester Morse

『帝劇出演問題にみる改良劇場と能楽堂の関係について』  奥冨 利幸

『能楽堂の誕生』  横山太郎

『明治能楽小史』  小林 責