栴檀樹耳せんだんじゅじ

  •  
  •  


ブッダ、最後の食事


「栴檀樹耳」はチュンダという弟子が供えた、ブッダが最後に取った食物である。そしてこの食物こそがブッダの死因と関係があるとされているのだが、この「栴檀樹耳」が何を表しているかに関しては過去から色々な説が唱えられてきた。

明治の初めまで、日本においてはブッダは背中の痛みによって涅槃に入られたとされており、チュンダは八石の米を供養したというような説明が行われてきた。
しかし、19世紀初頭から仏典の研究が進み、パーリ語の『大般涅槃経だいはつねはんぎょう』(サンスクリット: महापरिनिर्वाणसूत्:Mahāparinirvāṇa Sūtra、マハーパリニルヴァーナ・スートラ)の翻訳が進み、チュンダが供養した「栴檀樹耳」、つまり Suukala-maddava(スーカラ・マッダヴァ)という食事は、スーカラは「野豚」、マッダヴァとは「柔らかい」と訳されることから「やわらかい豚」であるという解釈がなされるようになった。
この見方が日本に伝わった当時の仏教徒は、大きなショックを受けたようである。なぜなら肉はなまぐさものであり、肉食はしないと考えていた仏教の開祖(ブッダ)が、肉を食べ、しかも豚肉に当たって死んだということは何としても受け入れ難かったからである。

しかし、その後も解釈の研究が進み、スーカラ・マッダヴァが「豚が好んで土から掘り出して食べるキノコ」であるという解釈がなされるようになる。今ではチュンダが供養したのは、豚肉ではなくキノコの煮物であったという説もまた有力視されるようになっている。

トリュフ:truffe


こうした解釈の進展にから「栴檀樹耳」は「豚が好んで土から掘り出して食べるキノコ」つまりトリュフあるいは、それに類するキノコ類であると考えることができる。ブッダの再度の食事がトリュフ料理であったということになると、世の中のグルマンたちの関心は非常に高まるのではないだろうか。


チュンダについて


ブッダへの最後の食事を供養したチュンダとはどのような人物であったのか、またどのような経緯で、チュンダはブッダに食事を提供することになったのだろうか。

チュンダは、純陀(じゅんだ、ちゅんだ、ちゅんだか、サンスクリット:चुन्द Cunda)、漢訳では准陀・淳陀・周那と音写し、妙義と訳されている。クシナガラ(現ビハール州カシアー)に住んでいたチュンダは、鍛冶工の子であったとされているが、他にも鏡を磨く職人だったとの説もある。彼は非常に敬虔な仏教徒であった人物として伝えられている。
さてある日、チュンダは、自分の所有する果樹園に高齢の釈迦とその弟子一行が休まれていることを知り、一行を自分の家に招いた。チュンダは手厚くもてなし、翌日の朝食を準備する意向を伝えると、ブッダはこれを快諾し、翌朝、弟子達と共にチュンダの家を訪れた。そこでチュンダはブッダに「栴檀樹耳」を供したのである。
その後、ブッダに激しい食中毒様の症状が現れる。ブッダはサーラの林に横たわり、こうしてそのまま入滅した(この世を去った)とされている。

涅槃図:栴檀樹耳を持つチュンダ



傷んだ食品に気付けなかったブッダ


残念ながら、弟子のチュンダが差し出し、ブッダの食べた「栴檀樹耳」は食当たりを誘発する程まで傷んでいたのかもしれない。しかし、こうした腐敗や、腐敗から来る不味あるいは異臭になぜブッダは気付けなかったのだろうか?

この点については 佛書 で説明してあるので、詳しくはそちらを参考にして頂きたいが、ここでもその点に関しての説明を加えてみたいと思う。

『大智度論』には三十二相のブッダ(仏)の特徴が示されている。32カ所の全ての特徴は 佛書 の項目で確認して頂きたいが、ここではその中の「26」番目の特徴に触れておきたい。

ブッダの特徴の26番目に「味中得上味相」がある。これは「何を食べても食物のその最上の味を味わえる」ということである。つまりこの特徴によって、ブッダは修行においてあらゆる信徒の供養する、いかなる食べ物でも最高の味わいを感じて、えり好みすることなく美味しく食べることが出来たのである。また修行中の粗食も、そこに最高の至味を感じることが出来たということである。


粗食の至味について


ここで少し脱線するが、子母澤寛が1957年刊の『味覚極楽』に、「冷や飯に沢庵」という章がある。これは増上寺大僧正だった道重信教からの聞書きで、印象的な話だったので引用しておきたい。

【 味覚極楽 】「冷や飯に沢庵」
飯じゃがね、これはつめたいに限る。たきたてのあたたかいのは、第一からだに悪いし歯にもよくないし、おまけに飯そのものの味もないのじゃ。本当の飯の味が知りたいなら、冬少しこごっている位のひや飯へ水をかけて、ゆっくりゆっくりたくあんで食べて見ることじゃ、この味は恐らくわしのような坊主でなくては知るまいが、うまいものじゃ。


現代の日本人はご飯は温かい方が美味いと考えているところがあるが、それはあくまでも思い込みでしかなく、この道重僧正の言うように冷えた飯にこそ米の美味さの神髄があるのかもしれない。そもそもかつて日本では、一日に一回だけ米を炊いて、それをその日のうちに食べ切るのが一般的な食習慣であった。

1853年刊の『守貞謾稿』第28編を見ると、江戸時代の京坂(京都・大坂)では昼に飯を炊き、江戸では朝に飯を炊くとある。さらに夕飯は江戸も京坂も冷飯に茶、香の物を添えたものを食べる記されている。つまり温かいご飯は一日一回だけで、あとは冷や飯を食べていたのである。

 

現代では弁当まで温めて食べるのが当たり前のようになっているが、これは電子レンジなどの調理機器が登場して便利になってからである。実は1970年代になるまでは弁当は一般的に温かくないものが食べれれていた。この時代に「ほか弁」などが大きくシェアを広げ、コンビニエンスストアでも弁当の販売が一般的に行われるようになったことで、弁当は大きく変化した。この時代に日本は高消費型社会になり、1980年代のバブル景気の影響で、食のライフスタイルは大きく変化したのである。
今ではコンビニで弁当を買うとごく普通に温めるか聴かれるが、以前は弁当を温めることの方が違和感のある行為だったはすである。そもそも弁当というものは冷えた飯とおかずを食べるためのものであり、実はそこにこそ弁当の美味というものがあったはずである。

 

さて道重大僧正に話を戻すと、彼の語る冷や飯と沢庵の美味さは何とも魅力的であり、粗食の美味の極みであるように思える。こうした美味を味われるのは僧侶ならではの食生活にある者が感じることのできる感性なのだろう。ブッダの特徴の26番目に「味中得上味相」とは、正にそうした美味を味わうことが出来る能力(感性)が含まれているのだと言っても良いのである。

しかし、こうした長所であるはずの特徴ゆえに、それが逆に災いして、傷んだ「栴檀樹耳」を、ブッダは美味しく頂いてしまったという可能性がある。よく「腐りかけが美味い」というような表現があるが、こうした観点からはブッダの最後の食事は、最上の味わいであったことは間違いように思われる。なにしろトリュフ × 腐りかけ × 味中得上味相で、最強の味わいが実現された可能性があるからだ。ということであれば、すべてを美味く食べることが出来るというブッダの長所が、意外なところで仇になってしまったという事になる。もし仏陀が凡人であれば、臭いを嗅いだり味の変化を感じて、それを食べることは無かったはずだろう。

三十二相では嗅覚に関するブッダの特徴は語られていない。仏の特徴をさらに詳細に記した八十種好というものもあるが、そこでは「鼻高不現孔」という特徴、つまり鼻が高く、孔が正面からは見えないというルックス的な長所のみしか語られていない。つまり、その嗅覚の鋭敏さについては何も語られてはいないのである。よって嗅覚に関してはその長所が欠けていたた為に腐敗臭に気づけず、さらに何を食べても最高の味覚を感じるという長所ゆえに、チュンダの差し出した、傷んだ「栴檀樹耳」をブッダは食べてしまったのかもしれない。

ミルク粥を差し出すスジャータ

ミルク粥をブッダに差し出すスジャータ
アジャンタ石窟にあるレリーフ


『大般涅槃経』では、ブッダが仏教を成道する直前に「ミルク粥」を供養したスジャーターと、死の直前に「栴檀樹耳」を供養したチュンダを並べて価値ある供養を行なった人物として取り上げている。これはブッダの人の生死観と食事が深く結びつけられたものであった捉えることが出来るだろう。

 




参考文献


『スーカラ・マッダヴァについて』  前田龍彦

『栴檀について』  東元多郎

『パーリ文Mahāparinibbānasuttanta における世尊の死因』  吉次通泰

『大般涅槃経における仏弟子チュンダとその供養』  佐藤直美

『味覚極楽』  子母澤寛

『守貞謾稿』第28編  喜田川守貞