宇佐津比古ウサツヒコ宇砂都比売比古ウサツヒメヒコ


神武天皇へのもてなし


 宇佐津比古と宇砂都比売は、宇佐の国造であった宇佐氏の祖である。宇佐という読みは、他にも菟狭という漢字に置き換えられて、『古事記』では、菟狭津彦ウサツヒコ、および菟狭津媛ウサツヒメと記載されている。
 宇佐津比古と宇砂都比売(以降はウサツヒコ、ウサツヒメと記載する)については『古事記』および『日本書紀』の神武天皇の東征の箇所で言及されている。『古事記』には以下のような記載がある。

【 古事記 】
 到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣、二人。作足一騰宮而、獻大御饗。

【 訳文 】
 豊の国の宇沙に着いたとき、宇沙の住民である宇沙都比古と宇沙都比売の二人が足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って大御を献上した。


 また『日本書紀』には以下のように記載されている。

【 日本書紀 】
 時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。

【 訳文 】
 そのとき菟狹国造の祖先の菟狹津彦ウサツヒコ菟狹津媛ウサツヒメが、菟狹の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って奉り、宴会を行った。そのとき菟狹津媛を(神武天皇の)家臣である天種子命(アメノタネコノミコト)に娶らせた。天種子命は中臣氏の遠い祖先である。


 このように神武天皇の東征の際に、彼らがもてなしを行ったことが『古事記』および『日本書紀』の両方に記録されている。


もてなしの場所:足一騰宮アシヒトツアガリノミヤ


 『古事記』には足一騰宮。『日本書紀』には一柱騰宮とあり(共に読み方はアシヒトツアガリノミヤ)、ここでウサツヒコとウサツヒメが、神武天皇(イワレビコ)と、神武天皇の兄で長男であった五瀬命イツセノミコトをもてなしたことが述べられている。

 本居宣長は『古事記伝』で足一騰宮の由来について、「宮の一方は宇佐川の岸に片かけて構へ、一方は流れの中に、大きなる柱を唯一たてるなり」と注釈し、その建物が岸から川に張り出したような、川床のような場所であったとし、また騰宮とされているのは、一方は山岸である為、川側からみるとがっているように見える為に、騰宮と名付けられたのだと説明している。

 このように本居宣長は、建築的な視点からその外観やそこからの眺めは珍しいと見てきたかのような註釈を記しているのだが、実際のところそれが正確かどうかは不明である。実は他にも足一騰宮については様々な見解があり、「一足で上がれる宮」、「テントのように中央に一本の柱がある宮」、「簡易に建てられた宮」などといった様々な建築が名前の由来であると考えられている。

 その時にどのような料理が出されたのか?
 残念ながら、記紀には宴があったことについては書かれていても料理内容については何の記載も残されていない。しかしながら『美味求真』で木下謙次郎は、

【 美味求真 】
 宇佐津比古と宇砂都比売比古が、一足で上ることができるような簡単な宮殿を造って大宴会を開いたときに、菟田縣(ウダノアガタ)の長であった弟猾(オトウカシ)が、牛の肉と酒を献上して皇軍をねぎらう宴会を開いた事から、この当時は牛が食べられていたことを理解できる。


と述べているのである。しかしこの木下謙次郎の説明は間違いである。
 実際は、菟田縣の弟猾が宴会を開いたのは、現在の奈良県宇陀郡であって大分県の宇佐ではないからである。多分であるが、木下謙次郎は、菟田ウダ菟狹ウサとを勘違いした為にこのような説明をしてしまったのだと思う。正確には、宇佐(菟狹)の足一騰宮で、どのような料理が供されたかの説明はどこにもないのである。


二人の関係性


 宇佐津比古と宇砂都比売はどのような関係だったのか、夫婦、あるいは兄妹などの諸説がある。ただ『日本書紀』には、続く記述で菟狹津媛は、神武天皇の家臣である天種子命(アメノタネコノミコト)と結婚したとあるので、妹であったと考えるのが理に適っていると言えるだろう。

 天種子命は、中臣氏の遠い祖先であると『日本書紀』には説明されている。

 天種子命には、天児屋命(あめのこやねのみこと)という別名があり、岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出している。また天孫降臨の際にはニニギに随行しており、記紀の重要なシーンに登場している神である。

 『古事記』は三巻に分かれていて、まず上巻は神々について書かれている神代記である。宇佐津比古と宇砂都比売比古に関するエピソードは、続く中巻の最初に出てくるが、ここから各天皇の歴代紀が始っており、『古事記』では、この兄妹について「土人」であると説明している。つまり、これまでは神々についての記録で、登場人物もすべて神であったが、ここから始めて人間が記録に登場する事になる。本居宣長も、『古事記伝』の中で、土人は久述毘登クニビトと訓読みすると述べており、宇佐津比古と宇砂都比売は宇佐の国人(その土地の人間)であったと説明している。

 天種子命と宇砂都比売比古の結婚には、神と人間との結婚というところに大きな意味があったと考えられる。では次に、その子孫である宇佐氏が辿った変遷に注目してみることにしておきたい。


宇佐氏と宇佐神宮


 大分県宇佐市にある宇佐八幡宮は、全国約40000社ある八幡社の総本社である。実は、記紀に残された宇佐津比古と宇砂都比売は、この宇佐八幡宮とは深いつながりを持っている。

 『日本書紀』には、神武天皇が船で東征を行った時に「菟狹うさの川上」でウサツヒコとウサツヒメがもてなし宴会が行われたとある。この事から船で川を遡った内陸の場所に足一騰宮はあったと考えられている。
 逵日出典の著書、『八幡宮寺成立史の研究』によると

 菟狹川は現駅館川であることは周知の通りであり、その川上というのであるから安心院周辺と見るのが妥当であろう。


と説明している。
 実は、足一騰宮があったのではないかとされている場所は、現在の宇佐市大字拝田、宇佐神宮の下宮、そして妻垣山の三か所が挙げられているのだが、やはり逵日出典の説明している大分県宇佐市安心院の周辺(妻垣山説)が最有力説のようである。なぜなら安心院は宇佐氏の本拠地であり、その安心院で宇佐氏は、比咩神の鎮まる妻垣山の祭祀を司った一族であったからである。
 宇佐氏の本拠地である安心院には、妻垣山つまがきやまという山があり、この山を宇佐氏は神聖視していた。妻垣山がどのような山であったのか『安心院町誌』に、その謂れが次のように述べられている。

【 安心院町誌 】
 菟狹津媛を侍臣天種子命に嫁がせ、垣を廻らして結婚の式を挙げられたのが都麻垣つまがきとなったという地元の古伝承と、上代男女相会し歌謡で応酬した妻定めの古俗の転化とする二説がある。いずれにせよ比咩大神は宇佐宮奉斎以前に安心院の里に生まれ別倉東方高岳、すなわち妻垣山(共鑰山ともかきやま)に在しましたとの古伝があった。


 かつて宇佐津比古と宇砂都比売は、安心院に住んでいて、その子孫である宇佐氏は、後代になって妻垣山を御神山とした祭祀を執り行う中心的な存在となった。この妻垣山(御神山として呼ぶときは共鑰山)の由来も、神武天皇の東征にまつわる、宇砂都比売の結婚が関係しているので、ここから宇佐津比古と宇砂都比売、そして子孫とされている宇佐氏の深い関わり合いを読み取ることができる。

妻垣山(共鑰山)


 妻垣山の山麓には妻垣神社があり、その始まりは神武天皇を迎えたことを縁起としている。そしてこの妻垣山には神武天皇の御母玉依姫命を祀る磐座があり、その石そのものが足一騰宮であるとしている。
 古代の日本は、アニミズム(巨岩や山などに神霊が宿る)信仰が盛んであった。よって足一騰宮も、その磐座信仰に基づいたものであると言えるだろう。こうした妻垣山における女神信仰は安心院の宇佐氏によって守られてきたが、時代が下がると宇佐氏は安心院から宇佐平野にへと移動し勢力を拡大するようになる。こうした経緯によって宇佐平野にある御許山おもとさんの祭祀にも宇佐氏が関係するようになっていった。

 御許山は比売ひめ大神が、山頂にある三個の巨石(三柱石みはしらいし)を目印に降臨したとされている山である。現在、山頂の巨石は、大宮司と六郷満山峯の行者だけが直接礼拝できるとされ、その場所は禁足地になっている。この御許山の9合目は聖域となっていて大元神社があり、この社こそが八幡社の総本社である宇佐神宮の奥宮となっている。

御許山おもとさん


 妻垣山と御許山の共通点は多く、まとめると以下のようになる。

 ① 比売ひめ神が降臨した御神山である。
 ② 山頂に磐座がある。
 ③ 両山ともに宇佐氏が関係している。

 このように宇佐の御神山の「妻垣山」と「御許山」を、地元の豪族である宇佐氏が中心的となって祀っていた由来は興味深い。実はもともと宇佐神宮は大神氏 辛島氏が祭祀を務める家系であり、宮司はこの氏族からしか任じられることはなかった。しかし、西暦769年に道鏡事件が起こるとこの両氏に代わり宇佐池守が宮司に任じられ、以降は宇佐神宮の宮司は宇佐氏の世襲職となる。宇佐氏は、到津と宮成の両氏に分かれ宮司職が続けられてきた。(近年、宮司職をめぐり問題が起きている)


宇佐神宮に祀られている神々


 宇佐神宮には以下の神々が祀られている。

 一之御殿:八幡大神 - 誉田別尊(応神天皇)
 二之御殿:比売大神 - 宗像三女神
 三之御殿:神功皇后 - 別名で息長足姫命

 一之御殿の主神は戦いの神である八幡大神、つまり応神天皇である。そして三之御殿の神功皇后は、応神天皇の母親である。
 そしてよく不可思議であるとされるのが、二之御殿に祀られている比売大神である。比売神とは女性神のことであるが、普通であれば○○比売神というように名前があるべきであるが、宇佐神宮の女神にはそれがなく、ただ比売大神とだけある。
 この比売大神は、宗像三女神である多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命であるとされているが、どうも後付けで宗像三女神としただけのようで、実際は、地元の古くから信仰されてきた土着的な女神であるとされている。そしてその女神を祀ってきたのが、地元の豪族であった宇佐氏なのである。宇佐氏は妻垣山と御許山で女神を祀っていたが、こうした女神が比売大神となり、宇佐神宮では祀られるようになったと考えられている。

宇佐神宮 (上宮)
画像をクリックで境内の様子が見えます。


 通常、神社の社殿は、主神が中央に祀られているのであるが、宇佐神宮は変則的で、拝殿に向かって左から順に一之御殿、二之御殿、三之御殿と並んでいる。つまり比売大神を祀る二之御殿が中央に位置しており、実はこの二之御殿に祀られる比売神こそが影の主神であるようにも思えるのである。上宮の拝殿の向きも、宇佐氏が神聖視してきた御許山の方を向いていることも注目すべき点である。実際に社殿にも窓枠があり、そこから御許山の山頂にある大元神社の方向を見て、拝することが出来るように「大元神社遥拝所」がある。先に述べたように大元神社は宇佐神宮の奥宮であり、宇佐氏の祀ってきた女神が降臨した場所であるがゆえか、八幡神よりも重要視されているようにも読み取れるのである。

 宇佐宮最古の文書、『宇佐八幡宮御記宣集』には

 今坐宮号菱形小椋山也、比咩神ひめがみ大御神前住、国加都玉依比咩たまよりひめ命也、又住都麻垣つまがき比咩大御神也、本坐宇佐郡安心別倉東方高岳也


 とある。
 小椋山とは宇佐八幡宮本殿の建っているところで、この山は他にも亀山、小倉山、菱形山とも呼ばれている。西暦725年、ここに神殿が遷座され八幡神を祀ることになったのだが、実はもともとこの小椋山には宇佐氏の比売神が祀られていた場所であったのだ。
 宇佐神宮の縁起を読むと、小椋山に八幡神が祀られた8年後の733年。神託によって二之御殿が建てられ、宇佐の国造である宇佐氏がここに比売大神を祀ったとされているが、実際はこの比売神は始めからこの地にずっと居た神であったということになる。しかもその神は『宇佐八幡宮御記宣集』によると、安心院の都麻垣山(妻垣山)に居た神であるとも述べられている。よって宇佐神宮に祀られている比売神とは、宇佐氏が安心院の地で祀ってきた土着の比売神であることは間違いないだろう。

 それをさらに裏付けるように、安心院の妻垣山の山麓には「妻垣神社」がある。この社殿は、天平神護元年(765)閏10月8日、宇佐宮の八幡大神が「我はすでに共鑰山(妻垣山)に示現しているので社殿を設け祀るように」との御神託を下され創建されている。こうした神託を受けて、石川豊成という人物が社殿を造り、比咩大神・八幡大神を祀ったのが妻垣神社の始まりである。つまりここからも宇佐神宮と妻垣神社の強い繋がりが理解できる。
 さらに天長年間(823~834)には宇佐宮から神功皇后も勧請されることになる。こうして宇佐神宮とまったく同じ三神が祀られるようになり、宇佐宮八ヶ社の一社として妻垣神社は現代まで続いている。


安心院という町


 木下謙次郎は、豊前宇佐郡安心院町木裳あじむちょうきのも(大分県宇佐市安心院町木裳)出身である。この場所は、妻垣山に近く、正に地元の山であると言える。しかも町から山の見晴らしは良く、木下謙次郎は、毎日のようにこの山を見て育ってきたに違いない。
 よって足一騰宮のところで、菟田と菟狹を間違えてしまっているのは、あってはならない大失敗である。なぜならば、宇佐津比古と宇砂都比売、足一騰宮は必ず理解しておかなければならない地元の歴史だからである。また、安心院は木下謙次郎にとって、自身の支持基盤の選挙区であった。地元神社に関係するこの間違えは、選挙区の支持層に対してもちょっと問題あったのでは...と思ってしまうのである。


御許山騒動


 余談であるが「御許山」は安心院を地元とした木下家のファミリーメンバーにも深く関係する山であった。木下家の系図の中でも説明したが、木下謙次郎の従弟にあたる人物に下村御鍬(木下御鍬)という人物があり、その下村御鍬は御許山騒動に加担した勤王の志士であった。彼の号は牧山ぼくざんというが、それは御許山の別称である「馬城峯まきのみね」(周辺の山々を含む)をもじったもので、そこからも御許山に対する思いのようなものが窺える。

 御許山騒動とは、明治元年1月14日(1868年2月7日)に、佐田秀さだひずるを中心とした討幕派が、花山院隊と称して単独で挙兵。同日、宇佐の四日市にある幕府の陣屋を襲い、宇佐神宮の奥の院である御許山に錦旗を掲げて立て篭もった事件である。リーダーの佐田秀は、豊前宇佐の尊王派志士で、長府報国隊に所属していた人物であり、この佐田と共に、下村御鍬は倒幕運動に参加した。

 この挙兵隊がなぜ花山院隊と称したのかには理由がある。挙兵にあたり、尊攘派公家である花山院家理を推戴して豊前に入ってもらい、朝廷の後ろ盾を得ようとしていたからである。
 この花山院家理を豊前に呼び寄せる時に、下村御鍬が重要な役割を果たす。下村御鍬は京都に上り、咸宜園で共に学んだ同窓の児島長年(児島備後介)に頼んで花山院家理の豊前入りを口説いてもらい成功したからである。花山院家理はそれを受けて、慶應三年12月10日に周防国久賀村まで下向してくる。しかし九州へ渡る直前に、周防室積において拘禁され、京都へ護送されることになる。その後、花山院家理は篠山藩に幽閉されてしまう。

 結局、長州藩によって花山院隊は鎮圧、首謀者である佐田秀は斬殺された。こうして御許山騒動は数日のうちに終息してしまった。
 一方の下村御鍬は、その後も生き、維新後は内務省に出仕し、のち大分中学教師として77歳の生涯を終えた。

 ここで注目しておきたいのは、首謀者である佐田秀も、下村御鍬も共に安心院の出身であるということである。

 佐田は安心院町内川野の出身であり、そこには墓も残されている。佐田秀は、歌人としても優れた人物で、約4000首にも及ぶ万葉集の全歌を暗誦していたとされている。
 また佐田秀は、物集高世もずめたかよに師事して歌や国学を学び、その明晰な頭脳と卓越した記憶力から「万葉以後の名人」と師匠から激賞されている。

 下村御鍬は豊後の三賢人として挙げられている、帆足万里の門下生として学んだひとりであったが、万里からの強い思想的影響を受けたことが勤王の志士としての行動につながったと考えられている。 また咸宜園の同窓である児島長年(児島備後介)に花山院家理を説得してもらったとあるので、三賢人のもう一人である広瀬淡窓の創設した学校で学んでいたことにもなる。

 つまり、佐田秀も下村御鍬もかなりのインテリでかつ文化人であった。
 こうした若者たちが勤王の志士として行動を起こしたということが、この騒動の重要な注目点であると私は考えている。そして、この安心院出身のふたりが挙兵する場所として錦の御旗を掲げたのが、御許山というのは、やはりこの山に地元の人間ならではのかなり強い思いがあったからに違いないだろう。


安心院という地名の起源


 最後に安心院であるが、安曇(あずみ)が転化して安心院(あじむ)になったという起源説もある。安曇族とは古代日本の海人族である。福岡県東区の志賀島を本拠地として九州から東北まで、古代海上交通の最重要路を把握し、造船技術、航海技術、漁業能力に優れ、古くから天皇家と婚姻関係を結んで強い権力を持っていたとされる。
 安心院は現在は山々に囲まれた内陸であるが、昔には盆地の裾にあたる宇佐平野のかなり内陸まで周防灘が入りこんでいた為、安心院は安曇族の漁業基地だったとも考えられている。
 そうなると神武天皇の東征で、舟で川を遡り、足一騰宮でもてなしを受けたのは妻垣であるとする説に、俄然、説得力が出てくるのである。

 宇佐津比古、宇砂都比売から、足一騰宮について考察してみたが、記・紀にあるこの記録は木下謙次郎の地元である安心院との関係があることを改めて理解していただけたのではないかと思う。この安心院はスッポンの産地であり、木下謙次郎が記した安心院の駅館川でのスッポンの取り方は、北里柴三郎が評した通り、『美味求真』のなかでも非常に秀逸な部分である。
 『美味求真』が、どのようなバックグランドで育った人物によって書かれたかを理解するためにも、このすっぽんについての記述はぜひ読んで頂きたい。そうして大分県にある安心院がどのような土地であるのかをより知って頂ければと願うのである。(鼈の名産地 安心院)





参考資料


『古事記伝』  本居宣長

『『八幡宮寺成立史の研究』』  逵日出典

『八幡宮創衵の位置について』 中野幡能

『司祭者の分裂』  中野幡能

『道鏡天位託宣の社会的背景』  中野幡能

『八幡宇佐宮御託宣集』託宣・示現 年表   山口大学

『八幡宇佐宮御託宣集』第四章 豊前、豊後の勤王倒幕  清原芳治

『懐かしの別府ものがたり』  今日新聞社

『明治維新と大分県』記念講演  佐藤節

『御許山に錦旗が立った』小浦村庄屋「雑話録」より  入江秀利