柳楢悦やなぎならよし


柳楢悦やなぎならよしという人物について



 柳楢悦(1832年10月8日~1891年1月15日)は日本の海軍軍人・数学者・測量学者・政治家として活躍した人物である。海洋測量術の技術向上において大きな貢献をした人物であり、「日本水路測量の父」「海の伊能忠敬」と称されている。

 柳楢悦は、津藩の小納付戸役柳惣五郎の長男として江戸で生まれた。
 1855年(安政2年)、22歳の時に江戸幕府が開設した長崎海軍伝習所に、津藩からの留学生12名のひとりとして派遣され、西洋の数学を基礎とした近代的な航海術や海防に必要な測量術を第一期生として学ぶことになる。長崎海軍伝習所には、幕臣からとして勝海舟、川村純義、五代友厚。また第二期生には榎本武揚など、後に明治政府を築いてゆく人物たちが派遣されておりと共に学んでいる。このような経歴を経て柳楢悦は、後に海洋測量において大きな功績を残すことになっていった。

柳楢悦やなぎならよし

 柳楢悦は「食」にも興味を示していた人物で、その著書である『山陰落栗』は食にまつわる事が書かれた書物である。『山陰落栗』の出版された経緯には、真珠の養殖を成功させ実業家となった御木本幸吉(MIKIMOTO真珠の創業者)が貢献しており、その事は『山陰落栗』の序文に書かれている。

 御木本幸吉が取り組み始めた真珠業には大変な辛苦があったようだが、柳楢悦からの水産学的明識な指導や奨励により養殖に成功することになる。こうした功績から緑綬褒章を受けることになるが、その際に御木本幸吉は、柳楢悦に対する謝恩の記念として、柳楢悦の17回忌に合わせて『山陰落栗』を出版しその霊前に供えたとされている。

 つまり『山陰落栗』は、柳楢悦の死後に出版された本である。その際に柳家の遺族に許可を得て、遺稿の一部を出版したと序文には述べられている。実際には『山陰落栗』は全24巻あり、出版されたのは水産に関する第1巻目と、料理献立の第18巻目にあたる部分である。この原稿原本は現在、早稲田大学図書館の所蔵になっており、その本人の手書き原稿は「ここ」から確認して頂きたい。

山陰落栗:早稲田大学図書館蔵 原稿


 「山陰の むかし枝折 あととめて
       峯の落栗 ひろひあつめむ」

 『山陰落栗』の自序で柳楢悦は、上記の歌を詠んで締めくくっている。各地の飲食物を思い出しては書きとめ、尊き饗膳、賤しき食物、珍しい調理、田舎風のもの、現代風のもの、伝統的なものなどさまざま集まったと序文で記しており、その歌が書名の『山陰落栗』と対応したものとなっている。つまり歌にあるように枝を折って道が分かるように峯の山奥に分け入った、自身の「食」の足跡を辿る、あるいは振り返るという意味であろう。また「山蔭の...」という部分は藤原山蔭が意識されていたのかもしれない。後でも述べるが、柳楢悦が所属していた大日本食物會は会報を出しており、柳楢悦の論説が含まれている第一号には「伊達出自世次考抜抄 藤原山蔭公之伝」という古典的な日本料理に関連する雑記も含まれており、藤原山蔭に対する高い意識はあったと思われるからである。

 『山陰落栗』は2部で構成されていて、前半は鯛鼈甲漬、飛騨鰤、鰻加賀焼など50種類以上の全国各地の水産物や水産加工品の紹介や解説が行われている。後半は「菜単百珍」と題されていて1月から12月までの月ごとの会席料理の献立表が列挙されている。

 こうした「食」についての記述を、仕事とは別に生前から趣味的に行っていたところは、柳楢悦の通人たるところの一面を示しているように思われる。こうした審美眼のようなもの、あるいはセンスが後の子や孫にも引き継がれ、民芸運動やプロダクトデザインといった異なるジャンルにおいても花開いたのではないだろうか。


柳一族について



柳宗悦やなぎそうえつ

 柳楢悦を始め、一族は多方面で活躍することになる。まず三男の柳宗悦は、美術評論家として「民藝運動」の中心的な役割を果たす。バーナード・リーチ、浜田庄司、河合寛次郎らと、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、その審美眼で民藝品を美術の域まで高めた。

 個人的には、柳宗悦が大分県の小鹿田焼に注目していたことや、イギリスのスリップウェアにその用の美を見出していた事などが印象的である。またイギリスの大学図書館で何気なく本を乱読していた時に、何気なく柳宗悦の民芸運動の本を手したことがあり、大分県別府の竹細工について写真入りで書かれていたのを見て、ふと郷里のことを懐かしく感じた思い出がある。後年、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を訪問した時にも、大分:湯布院の竹細工作家:野々下一幸の大きな作品が展示されているのを見た時に、大変感慨深いものがあったことも忘れられない。こうした日本のローカルな所謂、民芸品と呼ばれあまり顧みられてこなかったものを再評価し、そこに美的なものを見出した柳宗悦の視点は、現代人の我々の価値観にも、また海外にも大きな影響を与えたと言えるだろう。

ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にて
野々下一幸の作品:著者撮影

 民芸はイギリス人のバーナード・リーチとの交流によって、その価値観は日本だけでなく、世界にも通じるものであることが発信され、広く評価されるようになっていったと考えている。よって英国大学の図書館に柳宗悦の民芸運動の本があったり、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に展示されているのはその功績の賜物であることは間違いない。またスリップウェアに関しては、イギリス人自身よりも、その価値を認めるという点においては、柳宗悦や浜田庄司の功績が大きかったのではないかと私は考えている。

柳宗悦やなぎそうえつ


 柳宗悦が、父親の柳楢悦のことを綴った書籍に『柳楢悦小傳』がある。ここで「彼(楢悦)が特に興味を持ちしは料理なり。諸国の料理を学び自ら筆をさえとりて著書をなせり。遺本『山蔭の落栗』は其の一つなり」と記しており、柳楢悦と料理の関係について述べている。


柳宗理やなぎそうり

 孫にあたる柳宗理(父は柳宗悦)はプロダクトデザイナーとして活躍する。「バタフライ・スツール」は特に名作とされていて、2つの同型のパーツと1本の金属製コネクターだけのシンプルなプロダクトでありながら、国内だけでなく海外でも高く評価されており、パリのルーブル美術館、ニューヨークの近代美術館など、世界各地の美術館において永久コレクションとして選定されている。

バタフライ・スツール

 また柳宗理の親戚にあたる柳宗紀氏は「麺屋 宗」というラーメン店を経営しており、店内には「バタフライ・スツール」が置かれている。


柳楢悦やなぎならよしの「食」における活動



 柳楢悦は「割烹研究会」(後に「食物研究会」,「大日本食物會」と改称)という食物に関する研究会の中心的な人物であった。柳楢悦は海洋測量術において活躍しただけでなく、食の分野においても、積極的に他のメンバーと共に活動を行っていたようである。

 『美味求真』のなかで木下謙次郎はこの会のことを「日本食物會」と記しているが、正式には「大日本食物會」が正しい。また雑誌を発行していたことは記されているが、その雑誌名については述べられていなかったので調べてみると発行していた雑誌は『庖丁塩梅』であることが分かった。この『庖丁塩梅』は全37冊、1886年12月~1891年2月まで発行されていて、「大日本食物會」の活動や、料理専門誌という形で調理教育の役割を担っていたようである。

庖丁塩梅:第一集


 「大日本食物會」において、柳楢悦は特別会員として、そしてその設立にあたっては賛成者として名を連ねている。また1890(明治23)年5月17日には、偕楽園で「第一回月次小集会」が開催されているが、この時には柳楢悦が「食物会ノ必要ヲ論ス」というタイトルで講演を行っている。以下、「大日本食物會」のメンバーを挙げておきたい。

「大日本食物會」の主要メンバー

  創立委員 7名 
  河原田盛美 - 水産教育・水産技術の普及面で活躍した農商務省技術者
  陽其二 - 『家庭支那料理法』(1905)を出版した「支那料理大家」
  澤渡栄 - 発行兼編集人
  野邊地尚義(紅葉館) - 料亭、紅葉館の主人
  丸山清吉(平清) - 深川にある江戸で指折りの会席茶屋であった平清樓の主人。
  石井治兵衛 - 四條流「庖丁式」相伝の継承者
  藤松種十 - 『庖丁塩梅』の編集人


  賛成者 24名 
  四條隆平 - 四條家
  柳楢悦 - 海軍軍人・数学者・測量学者・政治家
  田中芳男 - 博物学者・農務官僚・貴族院議員
  米津恒次郎 - 凮月堂主人:洋菓子製造をアメリカ、ロンドン、パリで学ぶ。
  何禮之 - 日本の翻訳家・官吏・貴族院議員・教育者
  名村泰蔵、森順正、井上正一、有川純治
  宮島鈴吉、本木小太郎、中村健三、下田喜平
  西川忠亮、田村泰三、中里四郎、小野古治

 上記の計24名が中心になって、「大日本食物會」は運営されていたようである。その多くは料理に興味のある、社会的地位の高い人物であったが、料理関係者の中には注目すべき人物も含まれているので、数人を取上げておきたい。


四條隆平

 まず四條隆平は、公家で庖丁家でもある四條家の人物である。しかし正嫡とはならず、分家したので代は継いではいない。四條流に関してはリンクを参照の事。


石井治兵衛

 石井治兵衛は、四條流の庖丁流派に属し、江戸幕府諸藩料理師範で、明治になってからは宮内省大膳職庖丁師範を務めた人物である。また『日本料理法大全』という日本料理における重要な本を記している。

日本料理法大全


 『日本料理法大全』は、石井治兵衛と、息子の石井泰次郎の共著のようなかたちになっている。日本料理の沿革から記されており、続いて四条流の起源、発達、分派などから、料理法、包丁切形、大草流料理法、勅使・宮家の隅田川御遊覧の料理や日光山御法会など公式料理の献立集が紹介されている。その後に「いろは」別に膨大な料理が紹介され、それぞれに解説が付されている、日本料理におけるバイブル的な重要な書物であると言える。

 これはフランス料理で言うと、オーギュスト・エスコフィエが記した『ル・ギード・キュリネール:Le guide culinaire』に該当するものであると言えるだろう。こうした料理の本が、1900年代の前半に、西洋、東洋の双方で発行されていることは、この時代が料理文化のひとつの熟成期であったことを象徴的に表していると思わせるものがある。


米津恒次郎よねづつねじろう

 米津恒次郎は、明治の初め洋菓子をつくった米津凮月堂の番頭で、後に暖簾分けによって米津凮月堂を始めた米津松造の次男である。恒次郎は1884年(明治17)18歳の時に年洋菓子製造を学ぶ為に渡米し、その後、ロンドン、パリで菓子を学んで、1890年(明治23)に帰国している。
 留学前の1882年(明治15)10月7日の東京日日新聞は「法律,医学,種々の伝習家あれど,菓子研究のための渡航は、蓋し恒次郎氏を以って第一とすべし」と洋菓子修業のための最初の留学者であるとしている。現代ではパティシエを目指して、フランスを含め海外に留学して製菓を学ぶ者も多いが、それは米津恒次郎から始まった事もぜひ知ってたうえで、先人の苦労の上に成り立っていることも理解しておいて頂きたい。

 恒次郎は帰国後、サブレーやデセール、ワッフル、アップルパイなど現代では一般的になっている洋菓子を次々に世に出し、本格的なフランス料理や菓子を日本に導入した。大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会ではシュガー・ウェファース、チョコレート・ウェファース、マシュマロ、サブレー、カルルス煎餅などを出品して留学の成果を発表したとされている。


野邊地尚義のべちなおよし

 野邊地尚義は、紅葉館という料亭の主人を務めているが、そこにいたるまでの人生の変遷には興味深いものがある。

 まず野邊地尚義は、英学者でもあり、日本の「英学教育の始祖者」としても知られた人物であった。最初に江戸の蘭学塾・鳩居堂で蘭学を学ぶことになるが、この時には勝海舟らと交友しており、その後、江戸・長州藩邸内で蘭学教授となると、木戸孝允や伊藤博文との親交も始まる。
 またその後、萩長州藩邸で蘭学と英学を若手藩士に教えたが、その時の生徒のなかには1863年からロンドンに留学することになる「長州ファイブ」と呼ばれたメンバーである、伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉が含まれていた。
 また日本で最初の女学校である「新栄学院 女紅場」を京都に創設し、英語を導入した教育を始め、10年間、校長を務めた教育者として大きな功績を残した。

 こうした英学者、教育者として歩んできた野邊地尚義に、転機が訪れる。読売新聞初代社長となった実業家の子安峻。三菱の岩崎弥太郎。日本鉄道会社社長となった小野義眞からの勧誘があり、紅葉館の総支配人になるよう求められたのである。彼らは「当時の上流社会の人々のために優雅な遊び場所をつくろう」と考えており、サロンの設立・運営を野邊地尚義に託したのである。
 この紅葉館は昔の料理関係や宴会関係の書物を読んでいると良く出てくる料亭である。紅葉館は、1881年(明治14年)2月15日に設立された、東京の芝区芝公園20号地、現在は現在の東京タワーの建っている場所に存在した300名限定の会員制料亭であった。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失し、紅葉館は64年の歴史に終止符を打っている。

 「当時の上流社会の人々のために優雅な遊び場所をつくろう」というコンセプトのもとで運営されており、鹿鳴館なき後の、外国人の需要にも応えうる社交場ともして料亭はサロンとして野邊地尚義によって運営された。この時代の美食・サロンというと、魯山人の「星岡茶寮」が挙げられるが、紅葉館の対比で考えてみると興味深いサロン文化の一面が見えてくる。詳しくは紅葉館の項(野邊地尚義)で、その解説を行うことにしたい。


丸山清吉

 丸山清吉は平清樓(平清)の主人であった。平清樓は深川にある江戸で指折りの会席茶屋で八百善とならび有名であったが、1906(明治 39)年8月31日に廃業している。丸山清吉は平清樓の最後の主人である。

江戸高名会亭尽 深川八幡前:平清楼


 寺門静軒が天保3-7年に出版した、『江戸繁昌記 5巻』には平清樓について深川の割烹の有名店であることや、店構えや食器が良く、料理も美味であるというように述べている。また喜田川季荘の記した『守貞謾稿. 巻5』でも平清が文化年間(1804年~1818年)から始まった料理屋として取り上げられている。


明治時代のグルマン達



 このように大日本食物會は、明治時代の確かなグルマン(Gourmand)と言えるような人々で構成されていたことが分かる。この時代は、日本料理だけでなく、西洋からの新しい料理が流入し、同時に肉食も盛んに行われ始められたので、食の多様性が一気に広がった時代であった。こうした時代背景を考えると、食における知識を「大日本食物會」というかたちで編纂し、発信することには大きな意味があったと考えられる。

 柳楢悦は「食物会ノ必要ヲ論ス」というタイトルで講演を行ったとあるが、まさにこの時代に「日本の食」を論じることは必要なことだったと考えられる。「大日本食物會」という方法を通して、食文化や、食そのものの重要性が哲学的に論じるられることで、一種のサロンがそこに形成されていたことこそが最も重要な点であると考えている。こうしたサロンを通して文化は成熟し、人的なネットワークは成長するからである。

 このように「食」を仲介にしたサロンのような存在が、現代には存在するのかについては考えさせられるところがある。美食(グルメ)についての情報はウェブやSNSを通して溢れるほどに存在しているが、それが情報や自己の食体験の発信にのみ止まっており、それが文化的なものや、哲学的な視点にまで到達し難い状況になっているのではないかと考えさせられる今日この頃である。柳楢悦のような洗練されたグルマン(Gourmand)が、これからの現代日本に益々増加することを心から願うのである。





参考文献


『山陰落栗』  柳楢悦

『明治中期の専門料理人と「割烹熱心家」による食物調理に関する研究会にみる男女両性の調理教育 1』  今井美樹

『明治中期の専門料理人と「割烹熱心家」による食物調理に関する研究会にみる男女両性の調理教育 2』  今井美樹

『日本料理法大全』  石井治兵衛

『雑誌「庖丁鹽梅」に現れた調理教育 : 料理人による男女両性への啓発』  杉田浩一, 今井美樹 他

『柳宗悦の章の壱』  葭の塾

『柳楢悦とは』  海図アーカイブス