美味求真

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第七章


悪食篇


序   : 悪食篇 序

第一節 : 虫類の奇味

第二節 : 飛翔類の奇味

第四節 : 獣類中の珍味

第五節 : 土食および木食

第六節 : 動物の陰茎および胎盤

註 釈 : 註 釈

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飛翔類の奇味


▲ ミザゴ(鶚)

 『詩経』に「關關雎鳩、在河之洲」とある。雎鳩しょうおうとはミザゴのことであり、その名前には優しそうな響きがあるが、実際はなかなかの猛禽で、空中で鳥を捕らえる鷹と、水中から魚を捕らえるミサゴは並んで語られる。『漢書』鄒陽伝には「鷙鳥絫百,不如一鶚」( 猛禽をいくら集めても、ミサゴの一羽には及ばない:どれだけ無能な者がいくら集まっても、一人の有能な者には及ばないという喩えである )とある。また韓愈の『夜會聯句』には「推選閱群材,薦延搜一鶚」の句があるように、鳥類の中でも俊敏で抜群のものであるとされている。
 『事物異名考』には「青鵬は遼東に生息いしているが、最も素早いものを海東青カイトウセイというとあり、この海東青というのはミサゴの別名である。
 『本草綱目』で、沸波ふつはと言われているものは、この鳥が水上を飛行して、その羽風で魚を水上に引き上げるというのでその名が付けられている。
 また『日本書記』には「至上總國、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲」( 現在の千葉の、海路(ウミツジ)から淡水門(アワノミナト=東京湾浦賀水道か房総半島の館山湾)を進んでいると、このときに覺賀鳥(カクカノトリ)の声を聞こえた )とあるが、この覺賀鳥とはミサゴのことである。

 ミサゴは皮をはいで、肉を油で炒めたから、とろ火で煮るとカワウなどよりも味が良い。中国の『食物本草』には「ミサゴの肉は生臭さがあり食べるべきではない」とあるが、必ずしもそうではない。『天中記』にはミサゴを炙ったものを熊掌や豹胎と並べて、海北八珍のひとつに挙げている。サゴを炙ったものが 八珍 の珍味に値するものかどうかは分からないが、ミサゴ寿司といってミサゴが作った魚寿司は確かに奇味であると言える美味なものである。
 ミサゴは餌を狙って岩の上から、深淵を覗き込むと水中に素早く飛び込み、視線を遮るものがあれば、電光石火の勢いで水上に浮き上がり、一撃で魚の肝臓をえぐって高々と吊り下げて巣まで運ぶ。食べて満腹すれば、尿をかけて獲物を貯蔵するという習性がある。そしてこの貯蔵した魚をミサゴ寿司と言う。ミサゴの尿には塩分があり、また酸味を帯びているので、非常に良く腐敗を防止する効果がある。巣の多くは断崖絶壁の間にある。よってその巣を取るには多くの縄梯子を使って近づくしかなく、いわゆる「赤壁の賦」にある棲鶻の危巣を登るという状態である。

 ミサゴの貯蔵してあるのが雑魚であれば特に価値は無いが、季節が当たり、鮎の寿司であれば、鮎の内臓の苦ウルカとミサゴの尿の作用によって、内側も外側も防腐されており、芳しくその味わいは人間の作るものとは異なっているので、好奇心のある人々に非常に珍重されている。

【 備考 】
 ミサゴずしについては種々の記録がある。
 伊勢貞丈の随筆の『赤鳥巻』には、「西海にある崖の上の窪地に時折、ミサゴ鮓がある。海上の人はこれを探り当てて珍味としている。これは海鳥が小魚を岩窪に蓄えて、潮に漬けられて自然に熟したものであると言われている。また動物園の説では、ミサゴ鮓とはミサゴの肉で作った鮓の事であるとされているが、この両方の説は誤りである。
 『本朝食鑑』には、ミサゴは水上を飛んで魚をと捕らえて食べ、また石のゴロゴロしている目立たない陰の場所に魚を多く積み重ねて置おく。これをミサゴ鮓と言い、冬期の貯えの為にこれを行う。もし人が、重ねてある下の方の魚を取ると、後から新しく魚を運んできてまた積み重ね、もし積み上げた上から魚を取ると、もう魚を運んで来なくなってしまう。また樹木の茂った所に柴を敷いて、その上に魚を積み上げるミサゴもいる。これらの鮓は時間が経っても腐ることはなく、人が取って賞味すると書かれている。


 ミサゴ寿司の探求は先述したように、非常に困難であり、これを入手することは容易ではない為に、鮎のミサゴ寿司を人工で作る工夫が行われるようになっており、しかもその味は本物に引けを取らないと言われている。それは鮎の青竹鮓である。(鮎の部 料理法参照)味を求める皆さんは是非一度試るべきであろう。

 ミサゴ寿司の鮎が賞味されている理由のひとつは、鮎は雨天の多かった年、または洪水の時に捕獲されたものは良くないとされている。(雨の多い年は鮎の餌である苔の発育が悪いためである。また洪水の時は石苔は流されてしまい餌が少なくなる為、鮎はその代わりに砂を食べることがあるからである)
 よって、ミサゴ鮎を捕らえる時には、晴天が続いた後か、または干ばつで水量が減り、かつ水が澄んでいる時に限って行い、雨天が続いて水が濁っているときは、ミサゴの鮎を獲るべきではない。このようにミサゴの獲った鮎は、品質の良いものに限った方が良いだろう。


カラス

 人の住まないところにはカラスが居る事はなく、人の居る所には必ずカラスがいる。多くは人里に近い森林に住みかとしている。現に、北海道の奥地は以前は鳥が住んでいなかったが、漸次開拓されるに従い、人と共に繁殖し、現在では北海道中で鳥のいない所はない。カラスは貪欲で非常に横着である。北海道のように冬期に積雪し、食物を得ることが出来ない所では、ソリに米を積んで運ぶと、ソリにも馬にもカラスが黒山のように群がって、一里を進む間に数升の米が盗んで食べられてしまうのではまだしも、時には厩に入ってきて、大胆にも馬の頭を突き始め、ひどいのになると馬を殺すこともある。生き馬の眼を抜くのは、昔から江戸っ子の得意とすることであるが、生き馬の肉をついばむのは、カラスだけの芸当であると言えるだろう。またカラスは異変を察知して群れをなして鳴き騒ぐ特性がある。人はそれを見て、雨を予想したり、さらには吉凶を占う。
 カラスの鳴き声に憂慮するのは日本の習慣だけではないようで『酉陽雜俎』には

   烏鳴地上無好聲
   人臨行,烏鳴而前引,多喜

とある。この意味は、地上でカラスが鳴くのは凶、道を行くときに鳴きながら先導するのは吉であるという事である。
 『日本書記』には神武天皇が東征を行い、紀州から大和に入ろうとするが、山中で迷い進路を決めかねていた時に、八咫烏ヤワタガラスが現れて誘導し、その向かう所を追って、ついに菟田下県に到達したとあるのは、この伝説を裏書きした事実であると言えるだろう。

 日本のカラスは学術上では6種類に分類されるが、一般では単にふたつに分けて、小型のものを里鳥と言い、体も嘴も大きなものを山鴉やまがらすと言う。山鴉の肉は白色を帯びていて、一見すると非常に美味であるようだが、実は一種の白粉の臭いがあり、非常に不味い。里鳥の方は、臭気が少なく、油で炒めるとかなりの美味である。信州の上田地方では良くカラスが賞美されている。この地方のカラス料理は、蝋燭焼と言われるものである。熱く焼けた火箸を鳥の肛門から突き入れ2~3度ねじ廻してから引き抜けば、腸は火箸に付着してすべて引き出される。こうして料理すれば臭気がないと言う。中国人は日本の里鳥を慈鳥と呼び、この鳥は成長したのち、親鳥の口にえさを含ませて、養育の恩に報いるとしているが、山鴉の方は鴉鳥と呼び親の恩に報いない鳥であるとしている。そして慈鳥の肉は食べるが、鴉鳥の肉は食べることが無い。『本草綱目』には慈鳥の肉は、無毒で酸味や塩味がマイルドであり、五味が調和しており炙って食べると旨い。
 鴉鳥は無毒であるが、肉の味は渋臭であり食べるべきではないとされている。色は慈鳥も鴉鳥もまっ黒であり、オスもメスも同じ形をしているが、「誰かカラスの雄雌を知らんや」の言葉があるように、誰もがその雄雌を見分けることが出来ない。
 大群の中には色の異なるものが混じっており、時には色い鳥もいる。これは昔から珍しいものであるとされており、韓昌黎の『二鳥の賦』にも白鳥の句がある。『続日本書記』にも聖武天皇の天平11年に越中から白鳥が献上されたとある。新井白石の『采覧異言さいらんいげん』には、中国の南方には白色または半白色のカラスが多く、タイのカラスは皆白色であると書かれてあり、南方では珍しくはないようである。赤ガラスの事も古代史には散見される。聖武天皇の時代には出雲から赤ガラスが献上されたことがある。また文武帝、元正帝の時代にも赤ガラスの事が『続日本書記』に見られる。中国の『呂氏春秋』には文王の時に赤ガラスが社の周りに集まると記してあり、『拾遺記』には越王が国に入る時に赤ガラスは王を挟んで飛ぶとある。伊世珍の『琅環記』には、黒キジの母鳥が、赤ガラスの巣に入ると夢を見てキジを生む。故にその名をカラスと言い、墨で道をなすとある。ただし、現代では赤ガラスを見た人はいないようである。実際には存在するものかどうかは知られていない。


タカ

 鷹の肉はある種の臭いがあり味は良くないため、食品としてはあまり好かれていないが、鷹の獲った禽類は特別に賞味されている。昔はキジでも雁でもその個々の名前で呼ばずに「お鷹」と呼ばれ、饗宴の献立のなかの第一におかれている。(大草流料理書)
 こうした鷹の獲物を珍重しているのは日本だけでなく、中世にはヨーロッパでも同様であった。ただし放鷹は最も贅沢な遊戯であり、身分の高い人でなければ行うことが出来ないものであるので、いつの間にかその獲物を有り難がる風潮が生じたのである。『鷹経』には、「鷹は動きの俊敏な鳥である。北斗七星の柄の部分にある先端の星( 揺光星:アルカイド[Alkaid] )の精気を受け、天性の力強さが備わり、その雄姿は世に広く知られている。君子の娯楽であり、厨房の食材をもたらす」と称賛されている。また鷹を褒め称える詩歌には後京極殿鷹三百首、定家卿鷹三百首、公経卿鷹三百首、慈鎮和尚鷹三百首などがあり、その他も数え上げることが出来ない程である。

 鷹狩で使う鷹を仕込むには、まず巣にいる子鷹を捕らえて、数日間、水だけを与えて籠の中に閉じ込めておいてから、少しずつ仕込みを始める。まずは腕に止まらせることを教え、次に野鳥の肉を羽で包んで鳥の形を造ったものを投げて飛びつくように教え、そこから生きた鳥を紐につないで、それを捕らえるように練習させる。十分に熟練したところで、生きた鳥を飛ばして捕らえるように教え込む。もし鷹が命令に従わない時は、食料を与えず、飢餓状態にしておき、努力すれば必ず餌にありつけるという確信を持たせるようにする。このようにしてある程度の修行が済んだならば、鷹を野外に連れ出して実戦に臨ませるのであるが、常に目隠しをしておき、狩場でキジや雁などの目指す獲物が現れた時に始めて、目隠しを外して放つようにする。

 鷹の雛を捕らえることは非常に困難である。断崖絶壁の間に草叢をかき分け、鶻の棲む高き梢の巣の所までも登らなければならない。『後赤壁賦』からの引用)
 これについては中国にひとつの奇談がある。その話は『太平廣記』で述べられている。唐代の永徽年中に、萊州の人で劉聿という者がいた。もともと鷹を好きで罘山の断崖にいる鷹の雛を捕えようとして綱で上から降りたが、その巣に達しようとしたその時に、綱が切れてしまい、劉聿はわずかに木の枝の間に引っかかり墜落を免れたのだった。しかしそこは高さ250mはあろうかという断崖絶壁であり、登ることも降りる事も出来ず、そこで死を待つ他なかったのだが、親鷹が肉を運んできても、巣のすぐ下に劉聿がいるのを恐れて、上空から肉を巣の中に落としていた。そこで劉聿は手を伸ばして肉を受け取り、その一部を鷹の雛に与えて、あまりは自分で食べて辛くも餓死には至らなかったが、そうして50~60日が経過して、雛は成長し巣立ちするようになったところで、劉聿は着衣を裂いて小さな綱を作って各々の鷹の足に繋いで、鷹六羽をパラシュートのように利用して地上に舞い降りることができたのである。劉聿はそのまま鷹を連れて家に帰ったと言う。

 鷹狩の始まりは中央アジアで、東洋には中国、韓国を経て日本に伝わり、西洋では最も早くギリシャに伝わり、4世紀の頃から欧州全体に広がり、中世には最も飼われ、男性だけでなく、女性も鷹を飼い、公共の場所にも鷹を腕に止まらせて外出することを誇りとしていただけでなく、上流社会では生前には鷹を従えている肖像画を描かせ、死んだ後は鷹が足元にいるところを彫刻させて墓に立てることを人生の理想としていたようである。西暦1615年に出版されたある書によると、ルイ13世は特に鷹狩を好み、鷹の飼育係が100人いたと書かれている。その後、1500年代から欧州でも鷹狩は衰えていったが、かれは小銃の発明によって鳥の捕獲が容易になった為である。ただしアラビア人やペルシャ人などは今でも盛んに鷹狩をおこなっており、カモシカ等を上手く捕らえている。『マルコポーロ旅行記:東方見聞録』の中にもペルシャの鷹が俊逸であることが記されており、胸と腹と尾の下が赤く、飛ぶスピードが速いためにどんな鳥も逃れられないとある。また同書には鷹狩の事も記されているが、皇帝の鷹狩の際には1万人の護衛兵に守られ、鷹匠の一隊が随行し、鷹、ハヤブサの類は言うにおよばず、鷲も鷹も同様に仕込んだものを放って、ライオン、ヒョウ、狼、山猫の類を捕獲したとあるので、驚くほど大仕掛けのものであったことは想像に難くない。鷹狩はインドでも流行していたが、この国は鷹を腕にして象に跨ることで正装することが盛んであったと言われている。

 日本では神功天皇后の47年に百済の王が始めて鷹を貢ぎ、その後、仁徳天皇の時に、百済から来朝した酒君という人物が鷹を飼っており、雉を取らせたことがあった。これは日本での鷹狩の始めである。  そこから流行し始め、足利時代から徳川時代にかけて最も隆盛を極め、貴族や大名の間で、鷹は刀剣、茶器を同じくらい貴重な贈答物とされ、秀吉、家康などは鷹を飼育することに関して、沢山の人を殺してきたとある。元和元年、御小人頭の稲垣権左衛門は御鷹に行き当たったという理由だけで処刑されてしまった。このような事例は枚挙がなく、徳川家康は将軍の期間中でも最も道楽に傾く人物では無かったが、鷹狩についてだけはその生涯を通じて熱愛が止まることがなかった。当時は鷹の餌を取る為であれば、餌やりは勝手に何処でも入り込み自由に振る舞っていたので、市民にとってはかなりの迷惑だったようである。その後、鷹狩は次第に衰え、今日ではわずかに宮内省のあたりで行われているのを耳にするぐらいである。

 中国でも古代から中世の時代に鷹狩は盛んに行われていたようであるが、日本が主に鳥を追わせたのとは異なり、アラビア、ペルシャ等と同じように鳥は第二で、主として兎狩りや狐狩り等に使われていたようである。李斯が処刑されてようとする時に、その息子に向かって、「わしは故郷の上蔡の東門を出て、猟犬を連れ、お前と兎狩りによく出かけた。また狩に出かける夢は、もう適わないのだな」と語り、『西京雜記』には

 以鷹鷂逐雉兔
 鷹を以てキジやウサギを追う

と言っている。また古詩に「狡兔應還愁窟穴當鳩那敢央蓬蒿」の句にあるのを見てもそのことが分かるだろう。

 鷹の種類は中国では鷹、隼、鷂、鶻、鵰の五種類に分類し、日本もこれとほぼ同じである。イギリスではホークプロパー、ゼルホーク、ゴスホーク(Goshawk)、スパローホーク(Sparrow -hawk)の4種類に分類され、捕獲されたものによってその用途が異なっている。この種類の鳥はいずれも勇猛活発で、一度飛び放てば一撃で獲物を捕らえる有様はかなり壮快である。こうした勇ましい奮闘ぶりに関して『孔氏志』には楚の文王の鷹の故事が記されている。このように述べられている
「昔、楚の文王は狩を好み、名だたる名狗や快鷹を集めていた。ある日、雲際に何か飛翔する鷹のような物がおり、白い色は分かるがその形がどのようなものかは誰も見極められない。文王の鷹が、羽をすぼめて昇る。そのスピードは飛竜のようである。一瞬で雪の様に羽が落ちてきて、血は雨のように注がれた。それからしばらくして大鳥が地上に落ちてきた。その両羽の長さを測ると広さは数十里にもなった。口ばしの辺りは黄色であるが、誰もその名を知る者がいなかったが、一人の博識な者がおり、これを大鵬の雛鳥であると教えたと言い、この事から鷹は良く鵬を制すという言葉が生まれた」と述べている。

 それでは鵬とはどのような鳥なのかと言うと、『荘子』の語るところによると、「北冥に魚がおり、その名を鯤と言われていた。鯤の大きさは幾千里あるかわからないほどだ、この魚は変化して鳥となった。その名は鵬である。怒って飛べばその翼は天に垂れこめた雲のようである。この鳥が北冥から南冥の池に渡ろうとするときには三千里の水面を打ち、九万里の空へと上昇する」とある。ここからもその巨大さを理解できるだろう。この種の巨鳥が果たして存在するのかはさておき、鷹が自分の体の5倍も10倍もある鶴や雁を狩ることを非常に易々と行う。よって鷹は中国の詩人から

  杉鶏竹兎不自惜
  溪虎野羊俱辟易
         作者:杜甫


又は

  砉然勁翮翦荊棘
  下攫狐兔騰蒼茫
         作者:柳宗元

など、その残虐性が歌われている。ただ奇妙なのは鷹の残虐性は日本でも中国でもこれを認めながら、別の一面では義鳥としてその徳を称賛している。『朝野僉載』には日本でも俗に「ぬくめ鳥」と言われているが、極寒の際に鷹が鳩を捕まえて夜間に爪を温める事があるが、翌朝にはその恩に感謝して放すということが書かれている。柳子厚はこの説を記して次のように述べている。冬の夕に鷹は、鳥を捕らえてその爪を温めながらも傷つけないようにしながら左右交互に掴み、日が昇るとそれを放し、首を伸ばして逃げた方向を見極めて、その鳥が東に逃げればその日は東に向かわず、その鳥が西に去れば、その日は西に飛ぶことがないと、その義を重んじる姿勢を称賛している。また『三才圖會』には鷹が獲物を掴んで、その獲物がもし懐妊していれば殺すことがないとある。中国の古書『埤雅』にも「隼憫胎義也」と書かれている。

 ただし鷹が義鳥であるとして称賛しているのは中国と日本だけで、西洋ではこうしたことはない。古代ギリシャの文学者ヘシオドス著『仕事と日々』の中にある鷹と夜鳴鶯(ナイチンゲール)のエピソードで、夜鳴鶯が鷹に捉えられてその非道を呟くと、鷹がそれに答えて、強い事は正義であると理屈を並べてウグイスを食べた述べて、鷹は狂暴残忍そのものものとして認められていることが分かる。ここからも東西で思想に違いがあることが伺える。


▲ 鵜の鳥

 日本にいる鵜は4種類に分けられるが、その居場所や習性などには大きな違いは無い。愛知県知多郡師崎付近の鵜が最も捕魚に適しているとされている。この鳥の肉は油で炒めて煮込むならば悪くない味である。中国ではこの鳥を鸕鷀と言いあまり食べる事を好まない傾向にある。『本草網目』には肉の味は「酸鹹冷微毒」とある。

 鵜の取った魚を食べるのは中国も日本も同じである。本来この鳥は嘴の先が釣り針の様に曲がり、魚を引掛けるのに適していて、食道は長くて大きく、中に魚を貯蔵することが出来るようになっている。雛は親鳥の喉の奥の中に頭を突っ込んで魚を食べる習性がある。これを利用して日本でも中国でも鵜飼の漁法が行われているのである。我国の鵜飼が神代から盛んに行われてきたことは歴史に散見されている。出雲朝廷の天孫降臨の饗宴で鵜飼が魚を獲ったことが記されており、『日本書紀 日本雄略記』には「使鸕鷀沒水捕魚」(鵜を使い魚を捕る)とありその起源が古いものであることをが分かる。また職員令大膳職の下には雑供戸ざふくことあるのは、鵜飼、江人網曳き等の類を言う事が『令義解』にある。
 現在でも鵜飼は各地で行われており、中でも最も有名なのは長良川の鮎漁である。ここでは漁舟一艘につき一人の鵜飼と、もう一人が舵を取りの二人で漁を行い、一人の鵜飼が12羽の鵜を操縦する。舳先にはかがり火を焚き、5艘から7艘の舳先を並べて中流に乗り出せば、かがり火が水面に反射して煌々としている。薄暮れ時に魚は半分は眠り半分は覚醒している状態にあるが、眼前の光明に鮎は光に引き寄せられて舟に群がってくる。鵜は勇躍一番、自在に水中に潜りつつ目に入る魚は飲み込むので食道がすべて一杯になると鵜飼は舟に引き上げて魚を吐かせて、また水上に放つ。12羽の鵜が交互に呑み込む事と吐く事を繰り返すこと5度、7度、混雑はしていても水底の鵜と、舟上の人との呼吸が合って、進退にも節度があり一糸乱れず、4m程の縄に輪をつくって鵜の首にかけて巧みに操縦する様は非常に珍しい光景であると言えるだろう。中国の鵜飼も日本と同じように縄で操縦するところもあるが、中国人独特の長所ともいうべき動物使いの技術によって縄を使わず、指先だけで巧みに操縦するところもあると言う。杜甫の詩に

  家家養鳥鬼 頓頓食黃魚
  すべての家々で鳥鬼を養っており、毎度、黄魚を食している

という句がある。鳥鬼とは鵜の別名である。揚子江一帯の地方には民家各戸に自家用の鵜が養われていたものと思われる。またかわうそを飼って 魚を捕る方法も行われていたようで『酉陽雜俎』には

  唐元和末,均州勛鄉縣有百姓,年七十,養獺十餘頭。
  捕魚為業,隔日一放。將放時,先閉於深溝斗門內
  令饑,然後放之,無綱舌之勞,而獲利相若。
  老人抵掌呼之,群獺皆至,緣袷藉膝,馴若守狗。
  戶部郎中李福親觀之。

とある。獺を飼って魚を捕ったならば面白く思われるが、その捕まえた魚を人が手に入れることは非常に難しい、この方法の説明が無いのが残念である。また鵜の用途は漁獲のためだけではなく、古代にはその羽根で屋根を葺いていたようである。『日本書紀』神代篇に、神武天皇の父である鸕鷀草葺不合尊うがやふたあへずのみことの名前の由来は、浜辺に建てられた豊玉姫の産屋が草葺きではなく、すべて鸕鷀の羽根で葺かれていたからであるとある。
 屋根を葺くのに鵜の羽根を使うのは良い思い付きであると言える。軽くてよく水を弾く点から屋根には理想のものであると言える。また日本の神代には鵜が多くいたこともここから想像できる。


▲ ペリカン

 この鳥の肉は少し癖があるが食べるのには十分耐えられる。『食物本草會纂』には「其味鹹温滑無毒」(※実際には「其味鹹温滑微毒」である) とある。嘴の下に大きな袋があり、程よく伸縮してこれによって巧みに魚をすくって食べる。またこの袋は魚を入れる魚籠びくにもなる。袋は優に水90ℓが入る。インド、フィリピンおよび欧州南部の沼地、河川に多くいる。大風の時などは稀に日本にも来ることがある。日本では伽藍鳥がらんちょう、また矜羯羅鳥こんがらちょうと言い、ペリカン(Pelican)とは英語である。中国では鸕鷀と言い、また別名を逃河と言うのは、肉を盗んだ者が逃げて河に入ってこの鳥になったという俗説に起因している。またペリカンの母鳥は自分の胸を破ってその血を子に飲ませると伝えられているが実は例の袋になかば消化されて暗紅色となった食物を吐き出して子供に与えているのである。


▲ わし

 我国在来の鷲は、尾白鷲、大鷲、狗鷲の3種である。肉は無毒であるが上味ではない。昔はその尾羽を使って弓矢が作られていたのは日本でも中国でも同じである。我国では尾羽の真ん中が黒色で、その両端が白色のものを中黒と言い、最上のものとされている。羽に黒班があり、真ん中が白色のものを中白と言い、これを次の品質であるとしている。また羽が薄く白色が多く黒色の少ないものをウスビョウと言う。若鳥の尾で、下品なものをこのように言う。  中国の弓矢の羽根のことは『天工開物』 弧矢の項に次のようにある。

「以鵬防為上似鷹而大長趨短角鷹次之鴻鵝又羨夕南方造箭者願無望焉即廬鶴亦難得之貨意用塞乾即以雁銅甚至鵝翎亦為之矣凡雕翎簫行疾過鷹蘊銅十餘步而端正能抗風吹北房羽箭多出此科廬鹽翎作法精工亦悅惚焉若鵲雁之質則釋放之特手不應心而過風僻言者多矣南箭不及比由此汾也」

と弓矢をかなり詳しく説明されており、鷲羽が貴重であることは認められていたが、小銃の発明以来、今日では遊戯用の他、矢の用途はまったく途絶えてしまっている。しかしながら中国人は鷲の羽根で高価な扇を作り、実用を超越した装飾品を貴重なものとする。蒙古の高原地は鷲の名産地である。毎年、このために狩猟に幾千人がいくのかわからないほどである。その狩り方はまず馴らした鷲を携えて行き、目的地に達すると2,3カ所に巣をつくってそこの鷲のオトリをつなぎ、周囲に魚肉をまき散らしておく。やがて餌に飢えた山鷲がそれを見つけると、近寄って餌を食べオトリと遊ぶのを見て、物陰に隠れている捕手は一気に網をかぶせて難なく生け捕りするのである。

 鷲は禽鳥の中でも勇猛であり、その力は虎や狼に匹敵すると言われている。『説郛』( ※ 実際の出典は『五雜俎』である )に、「今北方鷙鳥如周 者,亦能搏獐鹿食之。鷲則彌大,能攫牛、虎矣」とあり、韃靼、 ペルシャ等では、鷲を、鷹の様に仕込んで、山野に連れていって猛獣狩りに用いるとされている。また鷲が戯れ弄ぶことは知られていることである。例えばライチョウのような獲物を捕らえた時に、一旦かなり高い空まで上昇してその獲物を放す。その獲物には関心が無いように空中に輪を描くように2,3回飛翔しているが、突如として急降下して獲物が地上に落下する瞬間に簡単にそれを掴み去る。こうした戯れを何度か繰り返した後、断崖の上で獲物を食べるのである。鷲の巣は海抜300m以上の高地にある。1月あるいは2月に巣を修繕し、3月中旬までに雌鷲は2個の卵を産み温め、5月始めに孵化、雛は9週間で巣離れする。餌は主にライチョウ、兎、狐などである。


▲ とんび

 鳶の肉は炙って食べる。また油で炒めて、煮込みにしても良い。ただし数が少ないので捕獲することは難しい。中国では昔からこの鳥が、他の鳥の雛を食べるので非常に嫌う傾向にある。周公の「鴟鴞」という詩は『詩経』にあり、「鴟鴞鴟鴞、既取我子、無毀我室」(鴟鴞よ、鴟鴞よ、お前は私の子を取った、わが室を壊すことなかれ)と詠んでいる、漢代の賈誼も鵩鳥賦ふくちょうのふを作ってこの鳥について悪く述べている。 ( ※ ここで言う鴟鴞とは、鳶と云うよりもフクロウの方が正しいと考えられる )
 また『酉陽雜俎』には鳶(䲻)の脳髄を酒に混ぜて飲ませればその酔いが醒めないとしている。また人の記憶をなくさせるとして肅宗の后であった張皇后が権力を振るっていた時に、皇帝に酒を進める度に、鳶の脳髄を混ぜて飲ませたとある。

 日本では鳶が人の頭上や服に糞をすれば、その人は必ず災いに合うため、世間では酒で顔を洗うと言い、またむやみに鳶の巣を壊すと必ず火災にあうとも言われている。(『日本食鑑』)

 西洋人は鳶の肉を食べない。旧約聖書(レビ記11:14)にはモーゼの食法によってこれを食べる事は禁じられている。

 この鳥には高いところを飛ぶ習性がある。晴天の日にはいつも長く鳴きながら高く飛び、雲際にまで至る。そこで中国では別名を風伯と言い、『詩経』には「鳶飛戻天魚躍干淵」という詩がある。朝に鳴けばその日は大雨、夕に鳴けば翌日は快晴であるとして、世間でにこれをもって天候を占うことは日本も中国も同じである。性格は非常に狡猾であるうえに、視力がかなり鋭敏であるので高所から地上の食物を発見する特徴がある。時として人の持っていつ魚や肉等を不意に掴み取って逃げ去り、空高く舞い上がって人を愚弄するように鳴くのは憎らしいものである。

 『日本書紀』によると神武東征の長髄彦ながすねひこを攻撃する勝つことが出来ずにいた。その時に忽然として金色の靈鵄が神武天皇の弓弦に止まると、その光が流星のように輝き、長髄彦の軍は眩しさのあまりに戦う事が出来なかったというのは、古代史上の有名な事績であることから、日本軍の軍人の名誉の表彰で金鵄勲章が与えられるのは、この故事に意匠を得たものだからである。


▲ かもめ

 肉に多少の生臭さがあるが油で炒め、よく煮たものであれば食べられるようになる。中国の『繪像食物本草會纂』には「肉味は甘寒無毒である。五味に漬け込んだものを炙って食べれば様々な病気に対して効果がある」と記されている。日本でも昔は良く薬用として用いられており「鷗だだあまなく毒なしかはき止め、おもはず物にくるふにぞよき」と詠まれている程であるが、これは中国の考えが伝来したものであると思われる。

 この鳥は見かけが非常に優雅であり、野卑でなはい。色い姿を波に点々と浮かべ、悠々と波と風に漂うに任せるこの鳥の詩的な様子は、多くの文人たちの関心を引き、古来から詩歌に詠まれているものが数多くある。『伊勢物語』では都鳥と述べられている。業平朝臣の吟詠にも

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥
      わが思ふ人はありやなしやと

とあり、最も人口に膾炙している句である。この鳥は中国においても名声があり、『清異錄』に随の官者で劉繼詮という人物が芙蓉鷗を24羽を献じたところ、帝が非常に喜び北海のなかに放して「鷗の字は三品鳥である。碧海舍人に任命するべきである」と言った。鷗の別名の三品鳥および碧海舍人はここから起こっている。和漢詩人がこのように讃美があるが、この鳥はかなりの悪食・貧食であり、一日中、海中の小魚や貝類、虫類、汽船などから捨てられた残飯などをあさって食べる。またよく魚群の場所を見つける習性があることから、漁師は海上に白鷗が群れて飛んでいるのを絶好の目標として、その辺で漁を行い、魚の大群を発見することが良く行われている。かつて欧州での大戦の時、アメリカ人のA・ディベンツ博士の考案により鷗を訓練してその習性を利用して敵潜水艦の所在を発見する方法で功を奏したことがある。その方法は時々、味方の潜水艦で魚を撒いておくと、鷗が潜水艦のあるところには餌があると信じこませ、これによりこの鳥が潜水艦がいるのを発見する度に、その上に群がり飛ぶように訓練する方法である。


▲ ふくろう

 梟は高騰火に暗黄色の斑紋がある。頭は丸く、嘴は短くて尖っている。両頬には淡黄色の部分があって、その中に猫の目に似た眼がある。尾は鳶に似て短く、脛は青白色である。卵は淡黄色であり、これに赤褐色の大斑点が散在している。
 夜に飛んで餌を漁る。梟の外見は醜悪で、その鳴き声が怪異なことから、中国の『五雜俎』という書では「梟は幽魂の使者であり、福建省の人(閩人)はこれを最も嫌っている」とある。『清異錄』にも「梟は天毒の産む、これを見聞きする人には必ず災厄にあう。しかしその時にこの魔鳥に向かって13回は唾を吐けば免れられるとして「唾十三」という別名がある」と述べている。

 『周禮』には「硩蔟氏(官名)掌覆夭鳥之巢」とあり、註には「悪鳴の鳥にして鴞鵬や鬼車(中国に伝わる怪鳥)に属するようなもの」であるとあり、梟は古くは周代から悪鳥の扱いをうけていたことが分かる。
 また前漢の『郊祀志』には古の天子春、黄帝を祀るために梟と破鏡を用いたとある。『漢書補注』郊祀志には註釈として「梟とは鳥の名前であり母を食う。破鏡は獣の名前で父を食べる」とある。破鏡は狼の一種で日本には生息していない。梟のことは『本草綱目』に、「この鳥は成長するとその母を食う、不孝の鳥である。故に古人は夏至になるとこの鳥を磔にする。つまり梟の字とは、鳥の首部が木の字の上にある(磔の上に鳥を置いて梟)という事に由来している」とある。このように悪鳥として極端に嫌われているにも関らず、人類に何の害も与えることは無く、却って益鳥として山林や田畑の大敵である野ネズミを捕食し駆除している。梟は鼠や小鳥を捕食すれば、骨、羽毛のような消化できないものは胃の中で団子のように丸めて吐き出す習性がある。よって梟の生息地には必ずこれらの珍団子はあちらこちらにあるのを見る事ができる。かつてワシントン市の某家の屋根に巣を構えていた梟が雛を保育して去った後に、残された454頭分の鼠の毛玉をカウントしたとあるので、いかに梟が多数の鼠を捕食するのかを十分に知ることが出来るだろう。また中国南方では、網で梟を生け捕りにして家で飼って鼠を捕らせ、猫の代用とすると云う。

 梟の肉は悪くない。炙っても良いく、汁にするのも悪くない。淡白で佳味である。中国人はこの肉を賞味する。『三才圖會』に「漢武の時代に、毎年東郡から梟が送られてくる。5月5日はその羹を作り百官に賜う」とある。
 『爾雅疏』( ※ 原文では詩義疏とあるが間違い )には「其肉甚美,可為羹臛,又可為炙。漢供禦物,各隨其時。鴞冬夏常施之,以其美故也」とある。(その肉は炙っても、羹にしても良い。その美味の故に漢代には供物として冬と夏に供されていた)  『前涼錄』、『格物総論』などそれぞれで梟の炙り肉の美味が述べられており、『荘子』には「見彈而求鴞炙」と云い、『晉書』には「王義之好鴞炙」(書聖とされた王義之は梟の炙りが好物であった)と記されており、その味が尋常でない事が分かる。梟の外観は肥満しているように見えるが、割合に肉と骨格は痩せている。これは軽い羽毛で全身が覆われており、飛ぶ際になるべく羽の音がしないようして、不意に獲物を襲うのに便利だからである。


▲ 駝鳥だちょう エミュー鳥

 駝鳥もエミュー鳥も古代のローマで良く食用にされていた。聖書の『レビ記』『申命記』ではこれらは忌まわしきものとされているので、ユダヤ人は食べる事はないようである。卵は鶏卵の24倍の大きさがあり、少し大味であるが必ずしも不味いものではない。西洋人はオムレツにしてこれを食べている。卵の殻はコップや菓子の器として使われている。

 この鳥の原産地はアフリカ、アラビア等であり原住民はラクダや馬で駝鳥を追跡し。落とし穴や投げ網を使い生け捕りにすることに巧みである。あるいは水辺に隠れて水を飲みに来るところを射殺したり、または巣の中に隠れて親鳥は返ってきたところを射殺する。近年は南アフリカおよびアメリカ南部地方で人工飼育が広がっている。ただしその目的は肉用にする為ではなく、羽毛を採取して帽子・衣服などの装飾用である。中国で駝鳥が知られるようになったのは漢の武帝の時代である。当時、各地の珍しいものが長安に集まっていた。その中に大雀と呼ばれるものがあったが、これが駝鳥が中国で知られるようになった始まりである。また『漢書』に「西域鳥の大卵を献じられた。大きさは甕のようである。天子は大変悦ばれた」とあり、これが駝鳥の卵である。中国の『本草網目』には、駝鳥は西戎に産まれ、高さは七尺、足は駱駝のようであり日に三百里を進み、鋼鉄を食い、また炭火を食べるとある。


▲ 啄木鳥きつつき

 肉は無毒である。味は平凡であり癖が無い。『本草網目』には「その肉を食べれば痔瘻や虫歯を治す」とある。その舌先の力の強さから思いついたようである。この鳥の種類は多くあり、形の大小、毛色など各々異なっているが、いずれも脚2本の足指は前方に向かっており、2本は後ろを向いている対趾足(たいしそく)であるので2本腕に相当し、幹に止る時には尾で体を支える必要から尾の羽は非常に硬く、かつ楔型をしている。中国の『爾雅注疏』には「啄木,口如錐,長數寸,常斲樹食蟲」(啄木鳥の嘴は錐のようで長さは数寸、木に穴を穿ち虫を食べる))とあるように、樹木の下に潜む虫類を捜索して餌とするので、嘴が硬いのは言うまでもなく、その舌は細長く、舌骨は後頭部の上まで彎曲して、かつその舌先には鋭い鉤がある。木に穴を空けてどこまでも虫を探し出すのに便利である。舌よりは粘着力のある唾液を分泌して、それが虫の体に付着すると離れない。よってどんなに樹木の奥深くに潜んでいる虫も逃れることが出来ないのである。

 またこの鳥は枝葉の上にいる虫を決して食べる事はなく、終日、根気よく木を啄き、努力によって樹から舌鉤で引き出した虫だけを食べる。したがってある種異様の本能があり、樹木の外側から気蟲の潜伏している場所を認知して、穴を空ければ百発百中で虫を捕らえる事が出来る。中国人はこの千里眼的な能力に加えて、『博物志』には、「この鳥の嘴で文字を書けば、樹に潜んでいる虫が自ら出てくるとして、閩、廣、蜀の方面の人はその符字によって疾病治療をすることが記されている。王元之の詩に「淮南啄木大如鴉,頂似仙鶴堆丹砂」(淮南の啄木鳥は大きくカラスのようであり、その頭頂は鶴のように赤い)とある。啄木鳥の一部に赤毛があることを詠んだものであるが、中国ではカラスのように大きなものもあると云う。


▲ 蝙蝠こうもり

 中国では伏翼と言う。昼間は休み、かつ翼があるためである。『繪像食物本草會纂』には、その血を目に滴すると、人は眠くなくなり、かつ夜中でも眼が見えるようになるとある。『抱朴子』には「千歳の蝙蝠はその色は雪のような白さであり、集まって、逆さまにぶら下がるのは脳が重い為である。蝙蝠を得たならば、陰干しにしたものを食べれば寿命は四万歳まで生きる」とある。また『水經』には、「交州の丹水にある洞穴が非常に深く、その深さは測れない。穴の中の蝙蝠の大きさは鳥のようである。多くは逆さまにぶら下がっており、捕らえて食べれば神仙のようになる」とある。これらの珍説の正誤は別として、中国南部、インドおよび南洋の地方では蝙蝠の肉は好んで食されている。春にその味が最も良くなると言われている。西洋人は蝙蝠は食べないが、旧約聖書『申命記14:18』でエホバがモーセに告げた食法では、特に蝙蝠の名前をあげてこれを食べる事を禁じている。

 蝙蝠は哺乳類に属している獣類である。そして哺乳類の中で飛ぶことが出来るのはただ蝙蝠だけである。ムササビ、モモンガの類はある距離の空間を飛ぶことは出来ても、それは前足と後足の間にある皮膚を伸ばして羽翼のようにして跳躍するだけであり、実際には飛んでいるという訳ではない。

 日本の内地にいるものは、すべて小さいが、小笠原島、沖縄、台湾にいるものはかなり大きいものがいる。しかし大蝙蝠がいるのは中国の南方やインドである。その中でもインドには最も大きなものがおり、その両翼を広げると1.5mに及ぶものもある。そしてその食味は大きいほど良いとされている

 その顔は狐に似ているとして西洋では飛狐(Flying-Fox)と呼び、中国ではもっぱら鼠の様であるとして時に飛鼠という別称で呼ばれる。東洋・西洋でその呼び名は似ているところがあると云えるだろう。その性格は闘を好む。時には奇声を発しながら互いに噛みあい、また鉤爪で戦う様子は猿の喧嘩のようである。インドの大蝙蝠は、日中はは樹木の枝に逆さまにぶら下がり、数百の大群が一本の樹木に生息し、薄暗くなれば次第に活気づいて枝から枝に這いまわり、さらに枝を離れて飛行を始め、終夜あちらこちらを飛び回りながら時々、果実を求めて食べると云う。


▲ 杜鵑ほととぎす 郭公かっこう

 日本では単にホトトギスと言うが、別名もかなり多く、子規、杜宇、郭公、蜀魂、怨鳥、小雋、不如帰、その他種々の呼び名がある。或人の著者では和漢の名前で200余りを挙げている。鵯(ひよどり)と大体は同じ大きさで、背は灰色、腹部は白色の中に黒い斑点がある。嘴は黒く、足は黄色であり4本の指がある。2本は前に2本は後ろ向きである。ヨーロッパにもこの鳥は多く、習性もまた日本のものに似ている。英語のではカックー“cuckoo”( ※ 現代の発音ではクックーが近い )と呼ばれている。アメリカにはこの種の鳥はいないようであり、アメリカでクックーと呼ばれているものは全然習性の異なる別種のものである。他にもカウバーヅと呼ばれる鳥がいて卵を他の鳥の巣に産み付ける習性があるのはホトトギスに似ているが、これは燕雀類の一種でありホトトギスではない。

 ホトトギスは夏に現れ、秋の始めから姿が見られなくなることから、その出所に関して種々の異説がある。中国でも日本でも共に人の住まない山奥に隠れ棲んでいるとされ、『淵鑑類函』にも「冬月則藏蟄」と書かれており、『本草綱目』にも「冬月則藏蟄」(冬は地中に籠る)とある。『日本鳥類図譜』には、この鳥は晩春に日本の諸州に渡ってきて、夏の間に他の鳥の巣に産卵し、初秋には南方に去るとある。しかし日本から赤道直下付近の間を去来する様子などが明らかでないので、渡り鳥なのか、地面に籠るのあるのかは断定しがたい。しかし夏季の活動期間中も日中は山中にいて、日没後になると人里に近づいて行き来していることは明らかである。奇妙なことに薄暮れになり山を出ると、谷をひとつづつ順番に降りてくるが、夜明けになり山に去る時に幾谷を越えて一気に帰るようである。かの後醍醐天皇が「杜鵑啼きつる方を眺むれば」と詠まれているのは、この帰途の情景を懐かしんで述べたものであるとされている。

 この鳥の鳴く声が非常に詩的な情緒があるとして日本でも中国でも共に夏季に吟詠するのに絶好の題材として古来から詩人の間でもてはやされる余り、食味についての研究は全く着手されていないが、実際は肉味は非常に美味であると言われている。『本草綱目』には「味,甘,平,無毒」とある。『呂氏春秋』には肉の美なるものに「雋觾之翠」とある。また伴蒿蹊ばんこうけいの記した『閑田次筆』には「高野山上でその地方の人はホトトギスを焼き鳥にして食べる」とある。ただし我国では古来から一般に食用にされることはない。従ってその肉味はなおざりにされてしまっていると言えるだろう。しかしこの鳥の鳴き始める初夏の頃と、初鰹が東海の沿岸を回遊する頃と季節が同じであるので、俳句にも

  目に青葉 山ほととぎず 初鰹
  誕生の 指は鰹と ほととぎす

等とあり、ホトトギスの声と鰹の味とは江戸の趣味で貴重なものとされていた。そしてその心臓の奥底から絞り出したような悲壮で哀愁のある鳴き声に浸ると人は断腸の感情を抱くため、古来から血に啼く声、血を吐く声などと形容されている。中国の『格物總論』の中には、嘴に血があり草木にひたすと記されているのは、口内が深紅であり、嘴を開いて鳴いているのが血潮が滴っているかのようだからであると述べられている。
 その鳴き声も国によって様々であり、日本では「本尊かけたか」と聞こえると言い、中国では木に止って鳴く時に「謝豹思帰楽」と鳴き、その音は「不如帰去」と響くと言い、ついに不如帰がこの鳥の別名となった。英語ではこの鳥を“Cockoo”と呼んでいるのもまた、その鳴き声による名称である。中国ではこの鳥の声を聴くと、別れの苦しみが感じられると言い、日本でも「此鳥八千八聲を啼きて死す」と言い、いずれも悲哀の感情を帯びた鳥であると捉えられている。これらは皆、古代中国の伝説に起因したものである。古の蜀の王であった望帝は、自分の徳の無さを恥じて、帝位を丞相であった鱉霊に譲り、ついに死んで子規(ホトトギス)となった。国の人々は望帝の志を悲しんで、杜鵑の声を聞いて断腸の思いをすると言う。また杜鵑の習性として自分では巣を作らず、また自分で子を育てず、他の鳥の巣を探し、その中に産卵する。他の鳥は自分の卵と間違えて育てることを、今では誰でも良く知っているが、我国でも古くは奈良時代からすでにこの事は知られていたようであり、『万葉集』にも「鶯のかひこの中にほととぎす独り生まれて己れ父に似ては啼かず己れ母に似ては啼かず」とある。大江匡房おおえまさふさ『江談抄』にも、杜鵑は鶯の子として出ている。また『本草綱目』には、「不能為巢,居他巢生子」(巣を作ることが出来ず、他の鳥の巣に卵を産む)と記してある。中国人はこの事実に望帝の故事を付け足して、ホトトギスは望帝の魂であるが故に、その子を他の鳥の巣に産んだとしても他の鳥はあえて怒らず、苦労してそれを育てるのは、「義」をもって帝魂に仕え、体としては古王に奉仕する為であると説明している。この事を表している中国の詩に

杜鵑行:杜甫作
  君不見昔日蜀天子,化作杜鵑似老烏
  寄巢生子不自啄,群鳥至今與一作為哺雛
  雖同君臣有舊禮,骨肉滿眼身羈孤

この詩は読者は、悲しみいたむ感や孤独感を感じさせられずにはおられない。

 ホトトギスが果たして望帝の化身であるかどうかは知らないが、ただ我が子を他の鳥に養育させるという習性は非常に変わっているのは間違いない。この事について博物学者等の研究によって今日までに明らかになったところを挙げると、この鳥はかなり大型であるが、その卵は割合に小さく、椋鳥、鶯、ひよ鳥などの巣に産卵したとしても特に目立つことはない。中には軽率なカッコウがいて時として水鳥の巣に産卵するが、こうした場合は孵化後に水かきを持たないのでその雛は、もちろん親に従う事が出来ないので育てられない。また杜鵑と全く異なる餌を取る鳥の巣に産卵した場合も雛の成長は難しいのである。今日では84種類の別々の種類の巣に産卵することが分かっている。郭公かっこうが他の鳥の巣に産卵する方法は、まず地上で産んでこれを口に含んで他の鳥の巣に落とし込むという説と、この鳥は外観が鷹に似ている事から小鳥を威嚇することが出来る為、他の鳥が巣で卵を抱いている時に迫ると、鷹の襲来と勘違いして巣を捨てて飛び去る。横暴にもこの鳥は、悠々とその巣に産卵するという説もある。両方の説のどちらが正しいかはさておき、非常に興味深いのは産卵する際に、巣の中の卵を一瞥し、その本能を働かせて、同色の卵を産み落とすことである。しかもその卵は元から巣にある卵と同時に孵化し、その成長も非常に早く、孵化後、1時間ぐらいでその凶悪性を現し、盲目で裸毛の雛が、後ろ足で他の雛を巣の外に蹴りだし、あるいは足を広げて嘴を突っ張り、あるいは他の雛の下に潜り込んで跳ね上げて後ろ向きになって巣の縁に昇ったりして、ついに元からいた子供を全部追い出して殺害し、自分ひとりだけ悠々とその家を占拠し、親鳥の持ってくる3~4羽分の餌を独占して横着にも貧食するのである。一方の親ではない親鳥は我が子の敵とは露知らず、一日中、山野を苦労して餌をあさり、夜には翼の下で賊子を護り、ある時は死を賭して害敵に立ち向かい、骨と皮だけになり果てて何とか育て上げても、養育の恩もなく、この不孝な子は「不如帰」の一声を後に残して巣立ちする憎らしさである。ただし地中海やインドでは他の雛に混ざって育成するものもある。また一部は自分の巣に産卵し、一部は他の鳥の巣に産み落とすものもあり、必ずしも全部が他の鳥の巣に産むのではないようである。よって昔は巣を作って自ら雛を養っていた習性が、次第に無くなり遂に今日に見られるような横暴性に進化したのではないだろうか。とにかく杜鵑の習性に関してはまだまだ研究すべき問題が少なくないのであると言えるだろう。


▲ つばめの巣および燕の肉

 ツバメの巣とは中国南部からインド洋諸島の海燕の一種が海藻を材料として、これを自分の唾液で固めて作った巣である。種類は官燕と呼ばれる白色のものと、毛燕と呼ばれる黒色を帯びたものの二種類ある。白色の方は半透明で、非常に綺麗であるが、黒色の方は変色したもので種々の不純物なども混ざり、価格も白色のものと比べても1/10に過ぎない。巣の外部層は、幾日月の努力を重ねて作り上げられた痕跡を示すものである。巣の多くは断崖絶壁の間にあり、なるべく光を避けた洞窟の中に有る。したがってそれを取る事は中々に容易ではない。ボルネオの奥部に有名な燕巣の本場がある。ここの採取権は原住民のある種族が世襲財産として占有している。採取には少年時代から専門的に訓練を積んだ幾年物経験のある熟練者が行うものとされている。その方法は、まず藤かづらの足場を洞穴の上に架け渡し、ここから4~5mの藤蔓の梯子を垂らして、職人が四ツ叉の棒にロウソクを付けたものを持って、梯子をおりて洞穴中から巣をもぎ取れば、他のもう一人がそれを受取、籠に納め木の皮に包んで市場に出し、こうして中国人の手に渡るものである。中国人は古来より珍味として燕巣を貴び、中国料理の中でも最も重きを置いている。料理として、多くは吸物(清陽燕窩)として使われている。  つまり燕窩75gを熱湯の中に入れて良く洗い、針でその中にある黒糸を取り去り、これに鶏のスープとハムのスープを加えて、とろ火で一時間程煮て、細かく切った35g程の香葷を入れて、20分程煮て碗に盛る。この他にも氷砂糖製の燕巣の羹、魚肉入り燕巣スープおよび雉肉の燕巣羹などいずれも賞味されている。但し燕巣は「食味中至清」であるとされており、油ものと合わせることを禁じられており、ただ雉と𩼚魚だけが混ぜられることを許されている。日本でも中世には中国から輸入されていたようである。藤原氏の時代から足利尊氏の時代にかけて、貴族の大饗宴の献立の中に燕巣を見ることが多い。現代では西洋人もだんだんとこれを嗜好する者が増えていると言う。味は清淡にして寒天に似ている。

 なお燕巣に似てはいるが、全く異なるもので中国南部に燕辱蔬えんじょくそがある。これは海燕が香草を拾い集めて巣にしたもので、煮て食べれば野菜のなかでもこれに及ぶものが無いと言う。また『泉南雜志』に閨浙方面の近海に金絲燕きんしえんと名付けられた小鳥がいる。砂浜近くを飛びながら蚕に似た虫を餌としている。この虫は消化されるが、その繊維は消化されない為、燕は自分の唾液と一緒に吐き出したものをつないで小さな巣を石の上に作る。この中で雛を育て翼が一人前になると母子で一緒に飛んで海に入るようになると、人はこれを拾い取って食べると美味とある。いずれも燕巣の一種である。

 日本では燕を食用にすることはないが、中国人は時折、これを食する。よって『博物志』には、「燕肉を食べた時には水に入ってはいけない、蚊龍に呑まれる恐れがある」と述べられている。『文昌雜錄』には、「昔、京から東行の時、開河の岸が崩れて冬ごもりしていた無数の燕を捕らえて食べたとあり、かつ実際に蟄燕を目撃した上で、燕は意味を渡って春に来て秋に去るのではない」と論じている。また『苕溪集』でも燕の渡り説を否定しており、李時珍の『本草綱目』も同様に渡海説を間違いであると論じている。

 日本でも昔は燕の渡海説は知らなかったので、冬期は土の中に蟄するものと信じた学者は少なくない。小野蘭山の『本草啓蒙』にも神戸六甲山の燕のことを述べて、土の中に蟄することを主張している。

 燕の特徴は翼と尾が、その体と比較して著しく長く、その飛行力は遥かに他の鳥を凌いでおり、一時間は優に150km以上を飛ぶと言われている。またその視力の鋭さも特徴のひとつであるとラッザロ・スパッランツァーニ (Lazzaro Spallanzani) という人の説によると100mぐらいの遠方の昆虫を見つけることが出来ると述べている。我国の燕は三月の初旬に南方から九州方面にやって来て、次第に東北方面に進み、思い思いの場所に落ち着き、多くの人家の軒先に巣を構え、通常5~6個の卵を産む。やがて12~13日目に孵化した雛を注意深く保育して、翼が整うのを待って、まずは羽ばたき、次に飛行、次に飛行しながら小虫を捕食するなど、順次に稽古・実習を行った後、ようやく一羽前の成鳥に達してから天気快晴の吉日を選んで巣立ちをする。このようにして秋風の吹き始めた頃になると、大群をなして南方はるか彼方に飛び去り、ニューギニア辺りの熱帯地に寒さを避けて移動して、来春を待ってから昨年の秋に巣立ちした故郷に帰ってくる。

 燕が翌年になって帰ってくると、果たして巣立ちしたのと同じ人家に帰ってくるのかどうかについては昔から色々と確認の試みが行われてきたようであり、冷泉為相の歌に

  あはれ身の後の春まで残りけり
       燕の足につけし糸すじ

と詠み、頓阿は「この春も古巣尋ねて山かつの、宿を忘れぬつばくらめかな」と詠み、中国に伝わる『燕賦』には、燕が旅立とうとするにあたり、その爪を切って(剪って)放したところ、翌年の春になって燕が帰ってきたという記載がある。また于濆の詩に

【 對花 】唐・于濆
  花開蝶滿枝,花落蝶還稀。
  惟有舊巣燕,主人貧亦歸。

  花が咲けばチョウは、枝にいっぱいになり、
  花が散れば、チョウがもどってくることはない。
  ただ、昔から棲み着いているツバメだけは、
  主人が貧しくなっても、また帰って来る。

の句がある。西洋でもドクトル・ジェンナーという人によって爪を切っておいた燕が、古巣に帰ってきたことが報告されており、この点から見るとこの鳥は古巣に回帰することは確かであるように思われる。中国の古書には燕の事を燕燕と書いてある。『詩経』には「燕燕干飛」と詠じてあり、漢の成帝の時の俗謡(出典『漢書』五行志)には「燕燕尾涎涎」と歌われている。これらは皆、燕の事である。また『呂氏春秋』に、「肉の美なるもの、窩燕の翠」とある。陸機の註釈には杜鵑ほととぎすとあるが、『通雅』では燕は胡蛇燕の類であり杜鵑ではないと述べている。果たしてもしそうであるとすれば、古代は燕を食べていたのかもしれない。『太平廣記』はこの鳥の性質について次のように記してある、「ある燕が軒下に巣をつくり、数匹の雛を雄と雌で育てていたが、ある日、雌の燕が猫に食われてしまい、雄は悲嘆のあまり、日夜、鳴くことも忘れてしまった程であるが、たまたま新しい妻を得て、また以前と同じように養育を続けていたが、数日もしないうちに雛は次々に地面に落ちて死んでしまった。雛たちの腹を割いて調べると、毒物が胃の中にあったと言う。これは継母によって殺害されたのである」としてある。

 また中国人には燕と、女性の妊娠に何らかの関係があると信じている人が多い。この迷信の起源は、かなり古くからあるものであり、『呂氏春秋』の伝える所によると、「昔、娀氏のもとには二人の美しい娘がいた。九成の台をつくって飲食の時には鼓を演奏させていた。或る時、神は燕を遣わしてこの女たちを見ようとしたところ、二人の娘たちはその鳴き声の良さを愛して、我先にとこの鳥を捕らえて手箱に入れてしまった。後からこれを見ようとして箱を開いてみると、燕は二つの卵を残して飛び去ってしまった。この二人の女性は惜しんで、燕が飛び去る歌を作って、歌うようになった」と述べられている。

 また『烈女傳』に、簡狄かんてきは、中国神話上の帝王であったこくの第二妃であったが、ある時、彼女が姉妹と共に水浴びをしていると、玄鳥があらわれ五色の卵を産み落とした。互いに卵を得ようとして競ったが、ついに簡狄が手に入れ、その卵を呑み込んだ為、せつ(殷王朝の始祖といわれる伝説上の人物)を生んだのであると説明されている。

 これらの伝説が、『詩經』にある、「天命玄鳥、降而生商、宅殷土芒芒」の詩となり、『禮記』月令の、「玄鳥至。至之日,以大牢祠于高禖。天子親往」の儀礼となり、『史記』に、「簡狄詞於高襍有玄鳥遣卵呑之生契」の正史となり、『玉燭寶典』には、「春分之日玄鳥至又五日雷乃發聲又五日始電玄鳥不至婦人」と書かれており、『京房易占』には、人は白燕を見ると貴女を生む、ゆえに燕の別名は天女である言われていると記している。
 これらの伝説は遂に中国人に、燕と妊娠とは不可分の関係にあるかのような信念を抱かせることになったようである。ちなみに玄鳥とは燕の別名である。


▲ もず

 四季を通じて日本に住み、夏は山奥深くに引きこもって巣をつくり、卵を孵化させて雛を育て、晩秋から人里近くにおりてきて餌をあさり、近郊の至る所の樹木の上で尾を振りながら鳴く様子は所々で見ることが出来るが、飛ぶときはかなり低く飛び、止まる時には必ず周囲を見渡せるような高い所にある梢をとまる習性がある。形はツグミよりも小さく、首は大きく、雄は頭と背は茶褐色で、両羽は淡黒青で黒と白の斑点がある。喉と腹は白色、胸は赤褐色で浅い小波模様があり、脚は黒い。雌は背中と尾は茶褐色であり、翼には白点はない。

 この鳥は分類上、燕雀目に分類されるものであるという説であるが、その形態・習性とも確かに猛禽である。眼の辺りは黒く鋭く、鷹のに似ている。嘴は淡黒色で鉤状であり、他の小鳥、昆虫、カエル、トカゲ、小魚類を捕らえて食べる。生来からの特殊技能があり良く百鳥ももとりの鳴き声を真似るので、別名で百舌もずとも言われている。小鳥を捕えようとする時には巧みに百舌の鳴き声で小鳥が仲間の声と間違えて慕って来たとこに不意に襲って捕食すると言う。また昆虫その他の小動物の食い残しを決して地面に捨てず、必ず木や竹類の先端に刺しておき、他の日、食物が欠乏した時に備える習性がある。鵙の速贄はやにえ、又は刺餌というのはこの事である。鵙はかなり残忍な性格の為、古来の中国人の評判はかなり悪く、曹植の『令禽惡鳥論』に「鵙聲嗅嗅,故以名之。感隂而動,殘害之鳥也」とある。また『通雅』には、「この鳥に別名で姑悪とあるのは、嫁が姑のために苦しめられて死んで、この鳥になった故にこの名になった」と記されている。『禽經』には、「鵙鳴則蚓結」とあり、『丹鉛餘錄』には、「能撃鷹百鳥畏之也」とある。小鳥が鵙を恐れるのは事実であるが、鵙が鷹を撃つようなことは聞かない。また鵙の一撃で蛇が縮こまるのを聴くこともない。これは中国流の誇張であると見ておくべきであろう。

【 翻訳者註 】
 『禽經』に「鵙鳴則蛇結」とあると記してあるが、実際に『禽經』提要を見てみると「鵙鳴則蚓結」と記されている。つまり「蛇」ではなく「蚓」(ミミズ)について述べているのであり、蛇を鵙が撃つというのは翻訳上の間違いであるように思われる。『美味求真』で使われた引用本がどの版かは分からないが、この部分に誤植があり、それを木下謙次郎は引用したのではないかと私は考えている。


 鵙は憎まれた鳥であったが、現在は農業・林業では有害な昆虫類を捕食・退治するという理由から益鳥として法律によって保護される幸せ者となったが、その鳴き声は高く鋭く変化して、男性的であるとしてこれを好む人は多い。『梵書』(一切經音義)にはこの鳥の名を舍羅というのは、その声から来た名前のようである。中国人は好んで鵙を飼って色々な芸を仕込んで、鳴き合わせ会を催している。我国でも四国地方、特に高知県でもこれが盛んに行われているようである。

 鵙を獲るのには、まず飼っている鵙の両眼を縫って開かないようにして囮として野外に行き、撞木の上に止まらせて、その下には取糯をぬっておき、鳴き声を出させて誘い獲る。

 鵙の味は猛禽の割には良い。炙ってつけ焼にするか、肉と骨を叩き潰して肉団子を作って羹にするのも良い。ただ保護鳥なので日本ではこれを捕獲できない。

【 備考 】
 梵書の舍羅を九官鳥と解する人がいるが、これは間違いである。舍羅は鵙のことであり、インドにもこの鳥は多くいるようである。




獣類中の珍味

 犬、猫、ネズミ、モグラモチ、ライオン、ヒョウ、カバ、ラクダ、ゾウ、ヤク、狐、狸、猩々、猿、狒々


▲ 犬

 犬は家畜中で最も古く、その起源は有史以前にある。石器時代の人類が動物を飼い馴らしていたのは犬が最初である。この時代、犬が人類にとっての良きパートナーであったことはバビロン、エジプト、ペルーなどの古代の妃に犬の彫刻が多くあることからも分かる。犬の原種については種々の異論がある。インドのコルスン、マレー半島およびその付近に産するアチャック、アジアの中央部ならびに黒龍江地方に産する山犬を原種とする学者がいるが、これらはあくまでも想像説に過ぎず何等根拠のあるものでは無い。最近はオーストラリアのディンゴ(Dingo)、ヨーロッパの南東部からインドにかけて分布しているパリア(Pariah)は原種に近いと言う学説に傾きつつある。

 犬は世界各国で飼育されており、愛玩、番犬、狩猟、牧畜なと用途が多い。いずれも飼い主に対して非常に忠実であり、主人の命じることは死も辞さず、時には猛獣と血戦することすらある。また恩によく応え義理堅い習性は愛されてきた。よって古代から犬に関する忠節武勇、報恩、殉難などの美談や伝説は枚挙にいとまがない。そうではあるが古来から犬をもって下劣・不義の比喩に引用して、スパイのことを犬と呼ぶのはまだしも、犬死、犬侍、犬も食わないなどと言うに至っては矛盾も甚だしいと言えるだろう。

 中国の『本草綱目』には、犬を三種類に分類して、長毛で獣を追うものを猟犬とし、短毛で良く吠えるものを番犬とし、短足で体の肥えたものを食犬とするとある。西洋では食犬というものはなく、その種類は20余りに分かれており、ニューファンドランド犬、エスキモー犬は橇用に使われ、ポメラニアン、プードル、テリア、スパニエルは愛玩用に、グレーハウンドは兎狩りや狐狩りに、レトリーバーは鴨猟に、ポインター、セッターは雉や水禽猟に、シェパードは羊の番に、ブルドックは番犬に、セントバーナードは軍用または救護用に用いられてる。日本でも従来から番犬、猟犬、闘犬、愛犬に分かれていた。愛玩犬としては「ちん」は日本の特産であり世界的にも有名である。近年、猟犬・番犬は西洋種が占めるようになっており、純粋な在来種はほとんど断種しつつある有様である。闘犬としての土佐犬は今より約50年前、日本の在来種に西洋種のセントバーナード、マスチフ、ブルドック等を交配した雑種である。本来の日本犬は闘争の時には非常に俊敏であるが、敵から咬まれれば、簡単に悲鳴を上げ、ともすると敵に後ろを見せる癖がある。土佐犬は日本犬の長所を基礎にして、これに西洋犬の耐久力と執拗性と骨格とを加えたものであり、闘犬としてはほぼ理想に近いものであるとされている。

 犬の肉は昔、ギリシャでもローマでも食用とされており、特に若犬の肉は美味であるとして珍重されていた。南洋のイゴット島の土人は、犬を無上の珍味であるとして賞味し、毎日開かれている犬市場で売買されていた。韓国人、エスキモー人、ギニア人、サンジバルの原住民など、犬食人は非常に多いが、犬食の本場は中国こそが一番である。「羊頭を縣て狗肉を売る」という言葉にあるように、犬肉は下等であるように見えるが、実はそうではない。『周禮』『周禮』には犬を六牲の一つとして国家最高の式典に御料として供え、また犬の肝で作った米の粥は、いわゆる「周代八珍」の一つとして王室の食事に加えられている。  また『禮記』孟秋紀には、天子は白駱に乗り、白旗を戴いて、白衣を着て、白玉を身に着けて、犬を食うとある。仲秋、季秋にも同様に、麻と犬を食べることが定められていた。  >『食物本草會纂』には、「肉味鹹酸温無毒」とあり、色は黄犬が上物、次は黒犬、次は白犬であると記してある。『古今註』には犬を黄羊と呼び、『本草綱目』の記載によると、齊人はこれを「地羊」と呼ぶとある。料理法としては『三才圖會』に、一般的に肉については、豚は炙りが良く、犬肉は羹に適しているとある。犬を羹にするのはその血も賞味するためであり、『禮記』の犬羹の献立に起源がある。『本草綱目』には、犬は血を取り去れば人に効用が無いと書かれているところを見ると、犬料理は血を使用する工夫こそが重要なようである。また食犬はその肉だけでなく、蹄肉、乳汁、脂肪、肺、腸、心臓、腎臓、陰茎など全身各部分のすべてが食べられるとして、ひとつひとつその用法と効能を明らかにしている。また中国では犬の別名を虎酒とも言うが、その根拠は、『癸辛雜識』に、「虎は犬を食べれば酔う。犬は虎の酒である」とあることに起因している。犬は虎の酒であるだけでなく、人間も犬酒を造って飲み、それは滋養強壮の効果があると信じられている。犬酒は「戌戍酒」と言い、黄色の犬肉を2時間余り煮てから砕いてドロドロにしたものを作り、一方で糯米を炊いて麹をいれたものに、その犬肉を混ぜ合わせ、普通の方法で酒を醸して作られる。分量は黄犬肉1匹分に対して、糯米45kgが決まりである。

 日本では古来から犬肉を一般的に日常食とするこをはなかったが、一部の人がかなりの珍味であるとして食べていた事が古い記録の中に所々散見される。『料理物語』に、犬は鷹にも与え、人も食べるとある。『文談抄』にも同様の記事がある。また寛文四年の高橋清兵衛版の『料理物語』には犬の料理法は吸物、かいやきとある。日本料理の吸物にはあまり獣肉を使わないが、犬の吸物とあるのを見るともしかすると中国風の模倣なのかもしれない。大道寺友山の『落穂集』には、「我々が若い頃には当地方には犬は滅多に見当たらなかった、それは武家も町家も犬を食べ物としていたからであり、冬の頃合いになれば打ち殺して食べていたからである」と記している。また蜀山人の『一話一言補遺』の中には、「薩摩では犬の子を捕らえて腹を割いて内臓を取りだし、水で良く洗い、腹の中に米を詰めて針金でくくって、そのまま竈の焚火に入れて焼く。始めはなかなか焼けないようであるが、しばらくすると犬の脂が焼けて黒くなる。その時になって引き出し針金を解いて腹を開けると米は良く蒸し米となっており、その色は赤くなっている。これをそば切り料理において汁をかけて食べると非常に美味である。方言で「ゑのころ飯」という。高貴な人だけでなく薩摩候にも薦められている。ただし候の食には赤犬だけが使われている」とある。今でも東京で夜間に出る路上の屋台で焼き鳥と言っているものは犬肉が少なからず混じっていると言う。また地方によっては青年会の宴会では犬料理が供されていると聞く。中国は黄犬を上等とするが、日本においては赤犬を第一とし、白犬を最階位においている。犬を捌くのに特に秘法は無いが、内臓を傷つけないように注意することが重要である。牛馬と違い犬猫の糞は臭気が強く、ともすると肉に移りやすい恐れがある。東北地方においては犬の脳味噌の黒焼きが梅毒の特効薬であると云い伝えられており、肝臓は癪、溜飲に効果があるとして乾燥して保存すると言う。味は馬肉よりも良い。季節は2~3月が最高である。


▲ 猫

 猫の歴史はあまり明らかになっていないが、インドでは約3000年前から飼われており、エジプトではさらに古く4000年の歴史があるとされている。古代のエジプト人は猫を敬愛し、むしろ神聖視した事は、ギリシャの歴史家ヘロドトスが紀元前5世紀の頃にエジプトに旅行してその風俗を目撃した紀行文によって確認できるように、現代において猫のミイラや、墓の壁画に猫の像を見かける事が多い。ヨーロッパでは十字軍の時にその帰還兵が連れ帰ったと伝えられているが、その以前には英国の修道院で既に飼育されていたという実例もあるが確かなことは不明である。中国に猫が入ったのは紀元前4世紀の頃と言われており、日本には仏教徒来の時に、経巻と仏像の保護のために一緒に輸入されたという説が多くある。平安時代の前に遡ると文献にはあまり言及されていないが、『更級日記』『枕草子』『源氏物語』のなかには猫のことが書かれており、当時の上流階級の女性に可愛がられていた事が分かる。

 猫の元祖に関しては様々な異説があるが、エジプトの野猫から次第に各地に広がりさらにその他の野猫と混血が進み、各地固有の猫になったとの説が有力で、現在、世界において猫はおおまかに9種類に分類されている。フランス種、シャム種、中国種、ペルシャ種、ロシア種などが有名な種類である。猫はその特性から暖かい場所を好み、暗い場所で活動する。温かみさ柔らかさが薄く、暗いところを好み義に薄く、人間との関わりが少なくないにも関わらず、美談に乏しく、鍋島騒動や有馬の猫騒動のように怪談として伝えられることが多い。

 また猫の習性として、夫婦関係が非常に薄く、雄は発情期に交尾するだけで、雌が分娩したあともかなり保育に苦労するにも関わらず全く無関心である。ただし親としての雌猫の愛情はまめであり、自分の子供の糞尿は、そのつど舐めて綺麗にしている。こうした天性の潔癖のゆえに体や寝床などを決して汚すことはない。おおむね4~5匹の子供を生み、最初は乳で保育する。やがて子猫は飯、魚肉などを雑食するようになり、その後は親が鼠を捕って子供に与え、鼠獲りを奨励するなどかなり用意が周到である。

 猫は鼠を捕ってペストを防ぎ、その毛は筆となり、皮は三味線の胴に張られ、その腸で作られた糸は傷口の縫合糸になり、バイオリンの絃に使われるなど、種々の用途に用いられいる。しかし多くは愛玩用として飼育されており、食用の為ではない。しかしその肉は意外に美味であるとされている。中国人が猫を食べるのは普通であり、日本でも好んで猫を食べる人もあった。三毛猫は一番美味であると言われている。皮を剥ぐと肉色は清澄であり、水晶のように非常に綺麗である。歯切れは良くないが肉の味は淡白でありその色彩風味は河豚のようである。よって猫を食する愛好家の間で言われる「岡ふぐ」の呼び名は猫の事なのである。猫の肉を煮る時にはさかんに泡立つのであるが、塩加減を行う時に少量の味噌を入れるとすぐに泡は消える。『本草綱目』には、「肉味甘酸温無毒」とある。『本朝食鑑』には猫の味は甘鹹である、これを煮れば脂が浮いて小さな団子状となる。その色は深青澄徹玉のようであり、その味も非常に甘美である」と記されている。また『倭本草』には猫が他の獣と異なる特徴を挙げており、一つ目は手で顔を洗う事。二つ目は喜ぶときに嘆息すること。三つ目には気が盛んなときに爪を研ぐ事、四つ目は他の子にも乳を与える事、五つ目は朝、昼、夕に眼のかたちが変わる事、六つ目は鼻が冷たい事、七つ目は喉を撫でると喜んで首を伸ばす事、八つ目は死ぬときに隠れる事、九つ目は藤やマタタビを好んで食べしきりに体に塗り付ける事。このように九つの点を挙げたが、この他にも注意すべき特徴は少なくない。三毛猫に雄猫はいないことや、赤猫に雌猫はいない事、純白の猫は決しておらず、万が一いてもその猫の多くは金目銀目の変わり猫(左右の瞳の異なる猫を金目銀目と言う)であることなど、他の獣にはない特徴がある。また雌猫が何かの機会に子供を失う様な場合には悲哀のあまり他の所から子猫を盗んできて育てることは良くある事のようであり、中国では韓退之は『猫相乳』で猫が他の子にも乳を与えることを述べ、司馬温公は『猫虪傳』を書き、猫は他の子供を愛することを説明している。

 西洋では兎の子や、貂の子などを保育した事実までも記載してある書籍は少なくないが信憑性は低い事である。ただ不思議なのは子どもを失った場合には、我が子を追慕する心は本能上の変化を促して、次第に恋心へと変化し、再び雄猫の接近して再度、子供を産んで育てるようになることはよく見られ、これもまた他の動物と異なる習性であると言えるだろう。


▲ ねずみ

 その種類は非常に多く、世界中で260種余りが数えられており、日本に生息しているもので36種にのぼると言われているが、普通に見られるのは家ネズミとドブネズミの2種類である。家ネズミは主に人家に住み、形は小さく毛色は一般には薄黒く、腹は背よりも幾分薄い。ドブネズミはドブや溝の中に棲んでおり、体が大きく、背は褐色で腹は白色または薄ネズミ色である。ネズミは我々人間と深い関係にある動物で、現在、人間の居る所にはネズミのいない所は無いと言っても良いだろう。

 ネズミはいつごろ、どこから日本に渡来してきたのかに関しては調査するための的確な情報がないが、ネズミ族は本来は中央アジアの原産であるので、中国を経て日本の渡来したことだけは明らかである。ヨーロッパでも古代においてはネズミのことは余り研究されていなかったが、12世紀の頃に中央アジア方面から次第に蔓延してきたものと伝えられる。ドブネズミがヨーロッパに侵入した記録は、1727年のカスピアン地方の大地震の頃にネズミの大群が、ヨーロッパに押し寄せたとあり(バルモラスに拠る)、また1732年にはインドから船に乗ってイギリスに移ってきた。ドイツの東プロシアに来たのは1750年であり、1753年にはパリに入り、1780年にはドイツ全土に蔓延し、スイスとデンマークに1809年には現れるようになっている。一方、アメリカに渡ったのは1755年であり、それからかなりの速度で全米に繁殖したと思われる。

 ネズミは4つ足のどれもに鋭爪があり、直立した壁面でも自由に上下できる特徴がある。口の周辺には長い髭があり、暗いところでも物を感知する働きをしている。上下に各々2枚の門歯はノミのような形をしており、良く物を噛む。この歯は絶えず伸び続けるので常に物を噛んで摩耗させなければ歯が伸びすぎてしまい、口の開閉がままならないようになる。食べ物を食べることが出来なくなり遂に死に至る。よってネズミがものを噛むのは生きる為であると言える。またこの動物の繁殖力は非常に強いので、これを学術研究の為に利用することで研究効果を上げている。例えば動物学上または医学上から遺伝に関する実験を行う場合は、短期間に世代を重ねて実験を行う必要があるため、繁殖の早いネズミを利用するのが最も好都合であるとされている。その他にもバクテリアと血清の研究またはガンの研究材料にも兎、モルモットなどと同様に利用されている。また感覚が非常に鋭敏であるのでガソリンの臭いを嗅ぎ分けて直ちに声を出して泣き叫ぶので潜航艇の内部でも飼われ、かなり必要とされるようになっている。

 『雨航雜錄』に、「ネズミは疑い深く、まず首を穴から出して進むべきか退くべきかを観望する」とある。つまり去就の進退が曖昧であるのを「首鼠両端」というのはここから出た言葉である。ネズミは猜疑心が深くその叡智の発達には驚くべきものがある。食物を盗む場合などは巧妙であり、護身の術に長けているのも誰もが知っている事である。『イソップ物語』にはネズミがライオンを助けたことが記されており、西洋ではネズミがラインを殺した事実もあり、ナポレオンでさえもネズミの為に思わぬ不覚を招いてしまったことがある。それは1816年6月7日某所での戦いの日の為の朝食を、前夜にことごとく平らげられてしまい、やむなく軍は空腹で戦闘を開始し、その為に十分な戦果を挙げることが出来なかったと伝えられている。

 また中国の『宣室志』にある記述を見ると、
 洛陽に李氏という人がいた。代々の家訓で、生き物を殺さないことになっており、ネズミを殺すことも忍びないととして家に一匹の猫をも飼わなかった。よってこの家にはネズミが多く、走り回るのも気にしていなかった。ある日、李の家で慶事があり親族が数十人集まり、今から飯を食べようという時に、門の外に何百匹という鼠の群れが現れて、後ろ足で立ち上がって前足を振って踊り狂う様子を奉公人が驚いてこの事を李氏に報告すると、これは不思議だとして、主人も客も珍しがってどやどやと先を争って座敷を出て門外に走り出た。ちょうどその時に古い家が突然に頽くずれ落ちたが一人も怪我をしなかった。これはネズミが李氏から受けた長年の恩に報いたものである。

 ネズミの肉は西洋では食べられていない。旧約聖書の『レビ記11:27』には、「ネズミを食う者はエホバの敵である」とある。ただし1870年~1871年の普仏戦争の時にパリの人々がかなりネズミを食べたと言う記録を見つけることができるが、このように食物が欠乏した時には欧州人もまた背に腹は代えられないと見える。日本人でもたまにネズミ肉を食べる者がいる。皮を剥いで内臓を取り去り、串に刺して照り焼きにすればその味は小鳥を彷彿させると言う。もし煮付けにする場合に、血生臭さを感じる人があるならば、味噌煮にすれば癖は消え去るが、なるべく炙りにする方が良いとされている。中国人はネズミを食べるのが最も得意であり、その肉は勿論、肝臓、脂、外腎、脳、脊髄、足、尾、皮、糞に至るまで、あるいは薬用として、あるいは食用にしてひとつも捨てる部位が無い。
 よって『本草網目』には、「小動物でありながら様々な部位にそれぞれの効用をすべて兼ねているのはネズミ以上のものはない」と言い、『本草網目』倦游放録には、ネズミの別名が家鹿と記されてある。

 親ネズミだけでなく、産まれたばかりの子ネズミが最も珍重される。一本の毛もなく、まだ眼の開いていない巣籠りのネズミをそのまま蜂蜜の中に投げ込んで、溺死するまで吸い込んだ蜜は内臓にまで浸みわたり、内側と外側からの相乗効果で非常に甘味なものとなる。これを小皿料理として食卓にのせ、そのまま箸でつまみ上げて頭から噛んで賞味する。また『楊升庵集』には、ネズミのまだ目の開いていない毛の生えていないものに蜜を塗り、生きながらに皿に供すると這いまわるのをそのまま箸で取って噛むと、唧々とした声で鳴くために、これを蜜唧みつしつと称して良く食べられていたようである。だたし蜜唧は南方の珍味であり、北方の人は食べられていなかったことは、蘇東坡が南方にいた時に、「薦以薰鼠燒蝙蝠。舊聞蜜唧嘗嘔吐,稍近蝦蟆緣習俗」(南方の人々は、紅蝙蝠を捕獲して媚薬としている。以前に蜜喞という名の食べ物のことを聞いて嘔吐したことがあり、少しずつ蝦蟇に慣れてきたのは、この土地の習俗に従って暮らしているからである。)と詠じてあることからも分かる。

 またネズミ料理は中国人だけのものではない。『南洋諸島巡行記』南洋ミナハサ地方では蝙蝠と野鼠が珍味で一番であると書かれている。しかもこの地方の野鼠は大きく狸のようであるので、猫の手には負えず、犬で狩って食用にするとある。


▲ モルモット

 モルモットは一般的にはケージの中で飼育されているが、元来モグラと同じように穴に住む動物で、尾から測ると全長は約45cmほどになる。この動物の特徴は社交的な性質である。穴は各家族で別れており、12か13匹の最近親者で集まって家族的な団体を組織する。穴の入り口には土堤を作り、雨水の流入を防ぎ、ここで外敵を見張る。この堤の高さは80cm程ある。性格は非常に用心深く妖しい事があれば直ぐに巣穴深くに退却する。草の根を常食している。寒い北部地方のモルモットは冬季の食料として草の根を貯蔵することがある。

 始めは愛玩用として飼育されていたが、近年は主に動物実験用または解剖用にされている。昔は某国王が愛玩していたモルモットをその家臣の者が誤って焼き殺したことにより、偶然にもその味が美味であると発見されたというお話もある位で、野生のものの味は非常に美味であり、鶏肉にも勝るとも劣らないと言う。中部アジア人は昔から非常にこの肉を賞美する習慣があった。刀約が契丹に遣わした時の詩が『古今詩話』にある。

 餞行三匹裂
 密賜十貔狸

 註に貔狸は形はネズミに似ており大きい。北方の辺境の民はこれを珍ずらしい食物としているとあるが、これはモルモットの事である。『澠水燕談錄』には、「契丹國產毘狸,形類大鼠而足短,極肥,其國以為殊味,穴地取之,以供國主之膳,自公、相下,不可得而嘗。常以羊乳飼之。頃年虜使嘗攜至京,烹以進御」とある。契丹から北京に持ち返り皇帝の食事として薦めているところを見ても、これが珍味であったことを知ることができる。またマルコポーロの旅行記では、韃靼人の好む食品で、小ウサギに似た動物がある。ファラオの小鼠(エジプト王のネズミという意味)と呼ばれ味も良いとあるがこれはモルモットの事である。
 日本にも中国にも野生のものはいない。しかし『本草綱目』の中に土撥鼠の項があり、「生西番山澤間,穴土為窠。形如獺。夷人掘取食之。甘,平,無毒。煮食肥美」とあるのを見ると、明代には既にモルモットが知られていた事は明らかである。


▲ モグラ

 『本草綱目』には鼹鼠とあり、『禮記』月令には田鼠とある。俗に土龍とも言う。炙って食べればその味はネズミと同じである。『食物本草』には、「この肉を炙って食べれば廱疽諸瘻(化膿性腫瘍やあらゆるデキモノ)に効果があると記されている。日本でも薬とされており『和方書』に土龍霜とあるのはこの動物で作った薬である。夏に田畑や野原の間に土が隆起していて細長く峰続きになっているのを見ることがある。これはモグラの土を掘ったあとである。モグラの身長は20~25cm程であり毛の色は灰色を帯びた褐色で光沢がある。毛の質は繊細美麗を極めていて、精巧なビロウド織のようでもある。毛は非常に柔らかで密生していて、かつ細くて短い為にどんなにプラッシングしても逆立つ事はない。これは地中を掘って前進する時に土が毛の間に入り込まない為である。

 この動物の前足は強固な爪で頑丈に武装されており、早いスピードで地中に横穴を掘りながら前進することが得意である。田園や牧場などの地下に穴を掘って生息する。穴は住宅用と貯蔵室に区別されている。部屋には多くの穀物等が貯えられており、貯蔵に適していないものは直ぐに食べられている。ミミズを貯蔵する場合は、殺せば腐敗するし、生かしておけば逃げてしまうので、死なない程度に頭部だけを噛み切って貯えて置く。臭覚が非常に敏感であり食物のありかを嗅ぎつけることに非常に敏感である。反対にその眼はいつも暗黒界にいるため発達はかなり悪くほとんど盲目同然である。よって日光を嫌い、まれに夜間に地上に出て帰路を失うか、または日中に穴から駆り出されるならば、すぐに目がくらむので容易に捕らえられる。『禮記』に田鼠が変化して鳥となるとあるのは、冬になると田鼠が地中深くに潜んで見えなくなることから鳥になったと誤解したことが原因である。

 モグラの特色は体の割に大食であることである。10日間くらい絶食すれば死んでしまう。同士討ちをした場合には勝者は直ぐに敗者の肉を食べる。この動物は穴を掘ることに長けているだけでなく、水泳も上手である。


▲ 獅子(ライオン)

 現在はアフリカと西アジアの一部に生息するだけだが、古代にはギリシャ、マケドニア方面から中央アジアにかなり繁殖していた。アッシリア、マケドニアの古代帝国の王が共に行ってきたのは、敵国の討伐と獅子狩りであったとようで、当時の石垣や城跡に残っているレリーフには獅子狩りの図、およびその功名談が多いことからもそれを理解できる。昔はインドにも多く生息していたようであり、経文の中に獅子の記録は少なくない。「獅子奮迅」という言葉は、『法華経』から。「獅子吼」とは『大蔵經』から出た言葉である。中国で獅子が知られるようになったのは漢和帝永元13年、安息王(イラン)満屈が獅子および大雀(ダチョウ)を献じたのが始まりである。その後、順帝の時に、疏勒しょろく王(東トルキスタン)が来て獅子を献じている。その後、魏武帝(曹操)が蹋頓トウトンを討伐した際に、白狼山で獅子に出くわし、勇士に格闘させたが捕らえることができなかった。多数の死者を出し、曹操が自ら勇者数百人を従えて打倒したという史実を見ると、その時代まではこの地方に獅子が生息していたことが理解できる。

 獅子は体長1.5mから大きなもので3mに達するものもある。尾の長さは60cmあまり。頭部は大きく四肢は力強い。オスは頭から胸の周辺まで長い髭を持ち一種の威厳がある。全身の毛色は砂色であり、砂地に住んでおり、時には川や泉の岸辺に潜んで、水を求めてくる動物を待ち伏せて、獲物が接近してくると一気に飛びかかる。鹿や羊は前足の一撃で直ぐに倒され、牛や野馬であれば首を咬まれて即死する。ただこの獣の特徴は本当に空腹の時だけ獲物を捕らえ、他の猛獣のようになぐさみ半分の無益の殺生をしないことである。

 獅子は古来から百獣の王を呼ばれ、王者の寛容と剛勇を代表する象徴として、宮殿や寺院などの壮大な建築物の彫刻に用いられ、かつ種々の文学上の記述や伝説は非常に多い。獅子に関する最も早く研究の記録が残されているものは、ギリシャのアリストテレスであり、その後、プリニウスも幾つか獅子に関して記述している。その中に、動物の危害にあったとしても、獅子だけは降参さえすれば危害を加えないとされており、また女性や子どもには害を加えないと書かれている。誰も事実として信じてはいなかったが、先年、イタリアのトスカーナ公の動物園で獅子が檻から抜け出て、フィレンチェの市街に逃げ込み市中を騒がしたことがある。この時に逃げ迷った人のなかに、小児を抱いた女性がいたが、狼狽してその子を取り落としてしまった。獅子は直ちに飛びかかり、噛み殺そうとする瞬間に、母親が引き返し、恐ろしさを忘れて獅子の前に大声を上げて子どもを返せと泣き叫んだところ、獅子はしばらく女性の顔を見つめていたが、子どもには少しの傷も付けずにそのまま地面において静かにその場を立ち去った事がある。人々はプリニウスの記述を思い出しそれを不思議に思ったと言う。

 またローマのアンド・ロクルスに関する伝説も有名である。昔、ローマの奴隷にロクルスという者がいた。その主人の虐待に耐えかねて、一日脱走して山林に隠れていた。その時に林の中から一匹の獅子が現れて、しきりに悲しげな鳴き声で何かを求めるようであった。彼は恐る恐る近寄ってその前足を見ると、足の裏に太い棘が刺さっていたので、手でそれを抜き取ったところ、獅子は喜び山の上に帰って行った。その後、ロクロスは捕らえられてローマの法律によって獅子の餌として刑場に投げ込まれたが、獅子は彼を見ると、耳を垂れ尾を振り手を舐めて甘える仕草を見せた。見ていた者たちは皆、不思議に思っていたが、その理由として山林の中の奇話を知りそれに感嘆しない者はいなかった。ローマ皇帝もそのように感じ、彼の罪を赦したと言う。

 獅子の肉味に関しては日本人で試みた人は少ない。若い野生の雌獅子の肉は非常に美味であり、羊肉のようであると言う。なかでもアメリカライオンと呼ばれているものの肉はかなり美味であるとしてスペイン人が嗜好している。


▲ 虎

 虎の肉は日本と韓国の交通が行われて以来、少なくなく食べられている。肉質は猫肉に似ているが、猫よりも大味であると言う。秀吉の朝鮮征伐の時に、朝鮮にいる将に命じて虎肉を塩漬けにして度々取り寄せたことが記録に残されている。

 また先年、成金が催した帝国ホテルでの虎料理も、同じく塩漬け肉であったと言う。我国ではことごとく塩漬けとして用いられているのは、途中の腐敗を防ぐ為であるが、虎肉は一度は塩を加えたものの方が鮮肉よりも味が良いとされ、中国の『本草會纂』※『本草綱目』にも、「鹽肉稍々可なり」とある。中国人はその肉よりも骨を貴重としていて、虎の骨を粉砕してその髄を取り去り、骨粉を使って酒を仕込み虎骨酒を造っている。精力補助の効果がありとして大変珍重されている。

 虎はアジア大陸にだけ生息しており、特にインドに多い。身長は3m、体重は230kgにも及ぶものがある。中国の『本草綱目』には、「山獣の君であり、形は猫に似て大きさは牛のようである」とある。日本に始めて虎の実物が渡来したのは宇多天皇の時代、寛平二年(西暦1550年)であり、中国の商船が虎の子を持ってきている。当時の我国では虎を皆、珍しく思い、この時代の画家である巨勢金岡こせかなおかが写生して、これによって虎が一時期、非常に流行したことがある。これより先に虎の皮は崇神天皇の時代に三韓から輸入されてきている。元正天皇の時代、六位以下の身分で虎皮を用いるのは禁じられており、『延喜式』には五位以上には虎皮が許されているが、この事は中国王朝時代の官服制度『管子』に倣ったものであり、当時の虎・豹の皮が貴ばれていたのが分かる。

 虎は昼間は藪や雑草もしくは森林の中に潜伏し、夜間になると活動を始め、鹿類、野猪、兎などを常食し、時に水牛などと格闘して倒す。人を見ると多くは避けて遁走するが、不意に人間に出会って驚いた場合、または追跡されて逃げ場を失った時は猛然として逆襲してくることがある。また何かの機会に一度でも人間を食べてその味を知ると、その後は進んで人を襲うようになると言う。

 加藤清正の虎狩りは有名で『太閤記』と『常山紀談』に記録がある。その当時は朝鮮にも虎は多くいたが、その後、段々と減少しているので、近年は虎を獲ることは簡単ではない。日韓合併以後も日本でも虎狩り隊を組織して、朝鮮に遠征したことは数回に及んでいるが、二頭を獲ったのが最大の成功であり、一頭も獲れなかったこともある。

 虎狩りの本場は昔からインドである。ヨーロッパ人の虎狩りは多くはインドで行われ、現在でも時々は大仕掛けで行われることがある。虎を生け捕りにするには、地中に3.5mの穴を掘り、その口を竹などで編んだもので覆い、その上に枯葉などを置いて、その側に小羊をつないで、虎が小羊に飛びかかる時に穴の底に落ち込むように落とし穴を構えて捕らえる。最近は虎穴を探り、親虎の不在を見計らって虎の子を捕え、牛乳や羊乳で育てることも行われている。

 虎の毛皮が古来の日本で貴ばれていたことは先にも記したが、普通は体の上部および両側は黄色であるが、淡黄色のもの、また黄褐色のものもある。腹部は白色で顔面にも多少の白色の部分がある。腹部の他は、漆黒の斑が全身を飾り、耳は黒く一個の大きな白斑がある。全体の色彩はかなり美麗であるが、枯草などの中に身を潜めれば保護色となり簡単に発見されることは無い。またかなり稀に黒色白色のものがある。白色の虎は1820年頃にロンドンの動物園で飼育されていたことがある。1902年にインドで捕らえられたもの、1899年にアッサムで捕らえられたものも白色であったと言う。黒色のものは今から145年前のインドの東北端、バングラデッシュのチッタゴンで発見されたと言う。

 中国の歴史では白虎、玄虎(黒虎)の現れた記録は少なくない。しかも非常に奇なことに白虎を神聖視する傾向があり、『瑞應図』には、「白虎者,仁而善,王者不暴則見」(白虎は仁にして善であり、王者として暴虐を振るわない)とある。『詩疏』にも『孝経援神契』にも同様の記載がある。

 歴史『南蠻西南夷列傳』によれば秦の昭王の時代に白虎が現れ、秦、蜀、巴、漢の境で被害者が出ていたので、昭王は賞金をかけて人を募り、虎狩りを行った事がある。また漢の宣帝の時代にも、南郡で白虎を捕らえ(『爾雅』)、晋の永嘉平の頃にも建平柿帰県に白虎が現れたとある。黒虎の記録も多くある。『山海經』にも、「幽都之山には玄虎が多い」とある。

 奇妙なことに中国では虎に関する伝説が多く、しかもその伝説は人が虎に化けるか、または虎が人に化けるかであり、何れも人間と通じるということである。伝説の中でも最も有名なのは、説淵が書いた『人虎傳』、あるいは宋代の蘇軾の『漁樵間話』などである。


▲ ひょう

 豹は木登りが上手で、また跳躍も得意であり、ひと飛びで12m位は難なくこなすと言う。性格は獰猛であり虎狩りよりも危険が多いと言われている位である。しかし豹は飼われると人に馴れやすく、インド、ペルシャなどでは猟犬の代用とされていた。鉄の檻に入れて猟場に連れてゆき。鹿を狙って放てば飽きるまで追い続けるので鹿と捕まえることは容易である。猟師は直ぐに獲物を引き離して、豹には褒美として足を与えるのが通例である。

 豹の肉は猛獣の中で第一番の美味であるとされている。ヨーロッパ人も好んでその肉を食べる。中国人が古来から豹肉を珍重していたことは、美味な肉のことを「豢豹の肉」と言うことからも理解できる。『洞冥記』には、「元封の時代に神明台を起こし、青豹の肚を炙る」とある。特に豹胎は中国の 八珍 のひとつとして古来から有名である。『韓非子』に、「象箸玉杯ぞうちょぎょくはいに合わせて菽藿しゅくかく(豆や豆の葉っぱ)を羹にすることはないだろう。必ず旄象豹胎ぼうぞうひょうたいが備えられることになる」とあるのを見ても、豹肉がいかに貴ばれ、その胎がいかに珍重されていたかを理解できる。

 『新五代史』で王彦章は、「人は死んで名を留め、豹は死んで皮を残す」と言い、『易經・革卦』には、「大人虎變,其文炳也君子豹變,其文蔚也」とある。これは豹は草むらや竹藪に隠れて良くその色を変え、容易にその居場所が分からないのと、その皮の美しさを述べているものである。『管子』によれば、「王族は虎衾こほう、卿太夫は豹飾(袖に使われる)、列大夫は豹幨(襟に使われる)」とある。また馬具の鞍には三位以上は豹皮、五位以上は虎皮を使って良いという制度があった。
 このように虎豹の皮は需要が高く多くの財産を使って購入される為、山間の住民は身内の敵討ちをするかのように、山林で猛獣を狩るとされている。当時の中国では豹虎の皮で官服の制度が設けられており、ある他、害獣駆除の政策として利用されていたようである。


▲ 河馬かば

 象に次いでの巨獣である。群れをなしてアフリカの湖沼を遊泳している。原住民あるいは西洋人に中にもその肉味を知る人は多い。その脂肉でハムが作られることが多いようである。脂に臭気がない為に珍重されている。昔はナイル河などに沢山棲んでいたようであり、エジプトでは俗にナイルの馬とも呼ばれている。ただし博物学上は馬属ではなく豚の種類に属するものであるとされる。河馬の頭は四角形で首は短く目と鼻だけが高く突起しているので顔面は非常に醜悪である。水中にいる時には突起した目と鼻だけを時々水上に出して呼吸を行い、体は全て水面に沈めて敵に発見されないようにしている。子供を愛するのは他の獣と違いはなく、多くはその背中に子供を乗せて歩行する。性格は憶病であり、人を見ると逃げ出すのであるが、時には激高することもあり非常に猛烈に反抗する為に人も船も粉砕されるようなこともあると言われている。従って河馬を生け捕りにすることはかなり困難である。よって捕獲するためには鉄砲か銛を使うしかない。鉄砲の場合はそれが命中したかどうかにかかわらず、獲物は一旦は水中に沈むため面倒であるが、銛を打ち込んだ場合はブイの位置で水底の獲物の場所が分かるので目的を達することは難しくない。河馬の生け捕りは困難であるので飼育するには動物園で生まれたものしかない。現に東京上野動物園のものはベルリン動物園から買い受けたものである。


▲ 駱駝らくだ

 非常に有益な動物であり、その肉は食用になり、その乳は飲料に、その毛は織物に、その骨は細工物になる。ラクダの肉を最も食べているのはアラビア人である。旧約聖書『レビ記11:26』でエホバはラクダを食べることを禁じているが、マホメットのコーランにはラクダを食べるようにとあるので、アラビア人がラクダを食べるのは当然であると言える。エホバがモーゼに告げた食法には全て反芻する獣は食べるべきものであると教えているのであるが、ラクダはその蹄が分かれていないので食べる事が禁じられている。その為かどうかは定かでないが今でもキリスト教国では一般にラクダは食べられていない。
 中国人は非常に良くラクダの肉を食べる。特にラクダのコブの炙りものを「駝峰炙」と呼び珍味として推奨している。
 中国人の詩には、

 玉屑故麻仙子饌  玉を砕いたものは仙人の食であり
 駝峰熊掌帝王筵  駝峰や熊の掌は帝王の食である。

とのべられている。また杜甫の詩にも

 紫駝之峰出翠釜  駱駝のこぶの肉がひすいの釜から取り出され
 水精之盤行素鱗  水晶のお盆に銀白色の魚の刺身が載せて出される

とあって駝峰の絶味を称賛している。また駝蹄の肉はなかなかに美味なようで、中国の 八珍 の料理に野駝蹄が数えられている。また駝蹄の羹を称賛する詩に、

 勸客駝蹄羹  客には駱駝の肉の羹を勧め
 霜橙厭千橘  橙の実がみかんの実の上にうずたかく重ねられている

などとある。
また 『事物異名錄』では、「陳思王製馳蹄為羹,一甌值千金,號為七寶羹」( 陳思王「曹植」は駝蹄の羹をつくったが、その料理は値千金であった為、「七寶羹 - 七宝石の羹」と呼ばれた )そして駝峰の美味な理由は、肉峰は脂肪の集まる部位であるので、飢餓、疲労または衰弱した時に、次第に縮小するが、健康で元気に溢れている時は、肉峰は高く立派に見えるので、肉峰はラクダの健康状態を知る標準とすることができる。肉峰は一個のものと二個のものがあり、前者をヒトコブラクダ(単峰駝)と言い、後者をフタコブラクダ(双峰駝)と言う。フタコブラクダの方が丈夫で体は大きい。ただしヒトコブラクダとフタコブラクダの雑種は必ずヒトコブラクダであるという。両方のラクダは毛色はほとんど同じであるが、中国人は紫駝しだと呼び、紫色のものの味が最も美味であると信じている。ラクダは他の家畜類と異なり、その外観は非常に異なっているだけでなく、牛馬豚羊と共に同じように有蹄類であるにもかかわらず、その蹄は上から分かれているように見えるが、その裏は繋がっていて一枚になっていて、砂漠を歩行するときは砂の中に踏み込んで、脚の自由を失うようなことはない。またラクダの胃の内壁には水襄と呼ばれる奥の襄が付着している。この襄中に水を貯えて炎天熱砂の砂漠を幾日も全く水を飲まなくても旅行することができる。よって大砂漠のただ中で全く水が尽きた場合、涙を吞んでラクダを殺し、その腹中の水襄の水によって何とか命を長らえることができるのは良く知られていることである。


▲ ぞう

 象の肉味は野生で若い象のものが非常に美味であるとされており、中国の古代およびインドの一地方では最高の珍味であるとされている。『爾雅』には南方の美味なものには梁山の犀象があると言い、『韓非子』喻老篇に、「旄象豹胎の美味」が述べられている。だだし象の体は非常に大きいので各部で味はそれぞれ同じものではない。『本草綱目』では陳蔵器が、「象具十二生肖肉,其本肉,炙食、糟食更美」(象肉には十二の部位があり炙って食べる。糟漬けにするとなお美味である)と述べているのを引用しており、『安南志略』には、象は牙筝と足の掌は最も佳味である」と論じており、その他にも蹄肉の美味を説明している書は多くある。よって『嶺外代答』( ※ 原文では『桂海虞衡志』とあるが間違い )と断定している。『北戶錄』には、「廣の属城の循州や雷州は象の産地で、牙は小さく紅色である。原住民はそれを捕獲して鼻を争って食べる。脂がのっており柔らかいので羹にするのに適している」と書かれており、また『呂氏春秋』の本味篇にも、「肉の美味なものに旄象の約」とある。約とは象の鼻のことであり、やはり象肉の美味な部分は鼻にあるというのは正しいようである。

 アメリカ大統領になったセオドア・ルーズベルトのアフリカ猛獣狩りの記事では、象の心臓が美味であると述べている。また肉の外皮には多くの水襄があり、牙は美術品の材料とされているのは有名であるが、古代では象牙がかなり貴重なものとされていたようであり、殷の紂王は象箸を作ったことから非難を受けている。( ※ 象箸玉杯という言葉が贅沢になる契機として戒められた ) ソロモン王は象牙の椅子を作りその当時の世界を驚かせたことも皆、歴史が伝えている事実である。『列王第一 10:16-18』参照 )

 象はアフリカとインドに生息しており、現世紀の獣類のなかでは最大である。その重さは3t~4tに達するものもある。食物は無花果や棕櫚の類を好み、米や芋も好物である。上野動物園の象の食料は一日分で、サツマイモ45kgの他にも草や藁75kg位を与えているという。アフリカ産の象は耳が大きく顎まで垂れているが、インド産の象は比較的小さいので、耳を見れば産地の区別を行うことができる。  性格は人に馴れやすく、背中に乗ろうとすると前脚を折り曲げて乗せ、綺麗な鞍を乗せれば喜んでいるかのようである。良く人の言動や挙動を理解するだけでなく、最近は文字を教えられる象もあるという。

 象が日本に始めて来たのは享保十三年、南京の大成廣南の小象のオスとメスの二匹が献上されたものである。六月七日に長崎に陸揚げされ、翌年の十四年三月十三日に長崎を出て、四月二十六日に京都に到着し披露された。それについての群臣の詩歌が少なくなく残されている。  それから京都を出発して、江戸に到着し、二十年余りして死んでしまった。日本における象の図や書、および彫像等の形が始めて定まることになった。当時、象は非常に珍しいものであった為に一般の人々の評判となり、象の道中、宿場の模様や、幕府の取り締まりや訓令などは今から見て滑稽に思えるものばかりであるが、これらは当時の著書である『象志』『視聴草』、『享保年中象渡来記』などに見られる。

 現代では象の養育は多くの産業で役立てられているが、古代は専ら軍事用であり、紀元前881年( ※ 紀元前280年が正しい )にエペイロス王国の王ピュロスがタレントゥムを支援してローマ人と戦った時、歩兵2万、騎兵3千、軍象20頭を率いていたが、始めて象を見るローマ人は巨大な怪牛の襲来と思い、なすところなく散々にピュロスによって打倒されたと言う。このピュロスの軍象はアレキサンダー大王が東征の際にインドから伝来したものであるとされている。しかしピュロスの第二回目の侵入の時にはローマ人はすでに象が火を恐れる習性を理解していたので、戦車の前に結びつけた鉄棒の先端に籠を吊るし、その中に猛火を入れて象の鼻先に突きつけると、軍象は狂ったように奔走して味方の陣に逃げ込んで散々に軍兵を蹂躙したためにピュロスの陣営はかなり乱れたと言う。

 またハンニバルのローマ征伐の時には、軍象37頭を率い、「ザマの戦い」では80頭が使用されている。こうした軍象がいかに敵軍を恐怖させたかについては、紀元前201年にカルタゴがローマの指揮官であったスキピオによって敗戦を認めさせられた時に、降伏条件の一ケ条に、カルタゴは今後は戦争に軍用象を使用してはならないとあることからも理解できる。このように軍象の使用はアフリカだけでなく、東アジア諸国でも早期から行われていたことは、アレキサンダー大王がインド侵攻の時に、インダス河上流の地域で、長身で勇敢である王でポーラトスという者がいて、この者が象の大群を率いてマケドニアの歩兵軍に対抗して激戦したという史実によっても知られている。

 中世になっても軍象の使用はところどころ歴史にあらわれている。中国では明の太祖高皇帝の21年、雲南、ミャンマーの蛮族が反乱して定遠を侵略した時に、30万の軍隊、象軍100頭を駆って戦った。軍象に甲を被せ戦櫓を背に負い、両脇に竹筒を掛けて鉾を設置し攻撃に備えたとの記録がある。このように象は武装されていたようである。しかし鉄砲の発明により象を軍陣に使用することは廃れてしまうが、近年ではインドでの英国駐屯軍が多くの象を養って運搬に利用していたようである。

 象は利口な動物である事からそれにまつわる伝説も非常に多い。『太平廣記』に、「寶曆の中循州河源に蔣武という者がいた。彼は体格が良く性格も豪勇な男であった。獨の山巖に住み世間とは交流を断ち、日夜、狩猟を行いその中でも弓が最も得意であり、ひとたび矢を放てば熊、虎、豹は打倒され、しかも必ず心臓が射抜かれていた。
 ある日、慌ただしく門を叩くものがあり、長らく訪問する者も無かった山荘に誰が来たのだろうと不思議に思いながら扉越しに様子をうかがうと、何とそれは白象に跨った猩々(猿)であった。蔣武は怪しんでその目的を聞くと、猩々は恐る恐る答えた。実は乗ってきた白象は、身に降りかかってきた災難があったので、人の言葉を解する自分が仲介して助けてもらおうと山深く訪ねてきたのである。この山の南方二百里あまり先の窟屋の中に巴蛇がいる。長さは数十メートル、目は爛々としており電光のようで、牙は剣の歯よりも鋭い。この地を通り過ぎようとする象達は全て飲み込まれてしまい、その数、実に幾百かも定かではない程である。象達はついにこの敵に対して万策尽き果ててしまった。よって蔣武の弓で巴蛇を殺して象達の恨みを晴らして欲しいと。象はその時、跪いて首をたれて流す涙が雨のようであった。
 蔣武は哀れんで直ちにその願いを聞き入れた。そこで直ぐに毒矢の準備をして、白象に案内させて山谷の奥深くに分け入ってゆくと崖の下に大蛇がいた。その眼光が鋭く数百歩以上も先から見通すが、猩々はこれが蛇の眼であると説明する。蔣武は弓を引き絞り、一撃でその目に当てると流石の凶蛇もたまりかねて崖の洞窟の奥深くへと逃げ込んだが、やがて雷の轟のような唸り声とともに大蛇は洞穴から躍り出て来て死に物狂いでのたうち回ったため、数百歩内の木々や草木は全部倒れてしまった。こうして蛇は最後には命を落としたようなので、その穴に近づいて穴の中を覗いて見るとそこには象の骨、象牙が山のように積まれていた。その時に十頭の象が現れて来て、各々が牙を鼻に巻いて蔣武に献じたのである。蔣武はひとつひとつを受け取って、先の白象の背に載せて我が家に帰り、一日にして大成金になった」と書かれている。


▲ やく

 野牛の一種で日本には生息していない。昔から肉の味が美味である事で有名である。『本草綱目』に、「甘粛省臨洮県の動物で、その形は水牛のようであり肉が非常に美味である」とある。『呂氏春秋』本味篇に「旄象の約」とあるのは旄肉と象の鼻肉とを並べてこれらの肉の美味さを表した言葉である。『山海経』には、「潘侯之山,其上多松柏。有獸焉,其狀如牛,而四節生毛,名曰旄牛」(潘侯山には松が多く、そこには牛のような獣がいるが、その獣には全身に毛がありその名を旄牛という)とあるのは、この動物のことである。

 また、「旄冠旌鼓為軍之標」ともある。『後漢書』には、「蠻夷出旄牛,一名童牛,肉重千斤,毛可為毦」とあり、中国では近年になるまで軍隊や武器の標識には全て旄の毛が使われていた。日本でも払子ほっす(僧の使う法具)もこの毛で製造するものとされている。

 旄は江戸時代に一度、中国から長崎に輸入されたことがあるが、そのまま日本では繁殖することがなかった。現在ではおそらく中国でも説滅したのではないだろうか。ヨーロッパの野牛は今から約300年前に絶滅している。イギリスに現存している特殊な野牛はその系統は不明であるが、普通の牛よりも体が小さく、角も異なっている。これは家畜として飼われたものが何らかの機会に山林に逃げ込み、年代を経て野生化したものであるのかもしれない。肉の味は普通の牛よりも上味であると言われている。アメリカに現存する野牛はこれとは全くの別種である。

【 備考 】

 中国人は「大牢」と言って昔から牛肉を食べており、周代には「牛人」という官位が設けられ、御料の牧場で専門の技師によって宮中用および祭祀用の牛が飼育されていた(『周官』
 インド人は牛を神聖なものとして食べる事はしない。日本も古代には一般的に食べられていたが、中世以降から仏教の伝来によって肉食がまったく行われなくなった。そして明治時代になり西洋と交流が盛んに行われるようになって肉食がまた広まり、維新以降は増々と盛んになっている。(第四章 日本の食事の変遷を参照)
 そして日本牛はその味が最も香美であるとして世界で有名である。現在の東京で屠殺されている牛は、主として江州牛、愛媛牛、都農牛であり、その中でも都農牛は肉量が多く、肉質も最も優れているとされている。神戸牛は最も美味であるとされているが、実はその産地ではなく、中国地方、九州、四国などから輸送され神戸で屠殺されたものである。近年は神戸に輸送される牛の中でも長崎牛が特にその名が知られ価値を高めている。



▲ きつね

 狐は鼻が尖っていて尾は太く長く垂れている。日中は穴に住み、夜に出て来て食べ物を探す。性格は非常に狡猾であるので世界各国で一様に妖獣であるとされている。旧約聖書『エゼキエル書13:4』には、「イスラエルよ,あなたの預言者たちは,荒れ廃れた所にいるきつねのようになってしまった」とある。また『仏典』には、「射干(狐の別名)貂犭就乃是恶」とある。中国の『説文』には、「狐は妖獣であり鬼神がこれに乗る」と書かれてあり、『事物異名錄』には、「狐を阿紫(紫紫)と言っているのは、昔に淫婦が紫姑に化けて狐になるという意味である」とある。『荘子』には、「諸行狐作㜸」とあり、『詩経』に狐綏綏とある句は狐が淫獣であることをあらわしたものである。『玄中記』には、「狐は五十歳になれば良く変化し、百歳になれば美女となり、神霊をのり移らせて丈夫に化けて女性と交接し、千歳になれば千里も離れた場所の出来事を知り、天と通じて天狐となる」と言っている。また『山海經』に、「青丘之山,有獸焉,其狀如狐而九尾」(青丘の山に獣がおり、その形は九尾の狐のようだ)とある。日本で金毛九尾の狐と呼ばれているのはここから来ているのかもしれない。日本でも狐に関する伝説は多い。中でも近衛帝の侍女であった玉藻前たまものまえが白狐になり、下野国の那須町にで正体が見破られ、ついに殺生石になってしまい、今もなお千年前の怪異の痕跡が残されているのを見ることができるほど有名な話である。このように狐を妖獣と見なすのは世界的に見られる傾向であると言えるが、一方では日本ではこれを神聖視して正一位稲荷大明神として祀り、禍を払い福を祈る風習がある。こうして狐を祀る理由の起源は明らかではないが、中国でもこれと似た習慣がある。『朝野僉載』の記すところによると、「唐は始まって以来、百姓の多くは狐神を祀り、房中の祭祀によって恩を乞い、飲食は人と同じものを供える。当時の諺に狐魅がなければ村を成さない」とある。これは日本の俗習が中国に渡ったものか、中国の俗習が日本に入ったものか、それとも偶然かは分からないが、狐に対する見方が同一であるのは奇妙であると言えるだろう。狐に対する見方が同じであるのはこの点だけではない。日本の冬期に信州諏訪の湖上の氷を渡るのは、先ずは狐が渡ったあとに人馬が始めて湖上を渡る事ができるようになると言われているが、中国の『述征記』には、「盟津、寒則冰厚數丈、冰始合,車馬不敢過,要須狐行,云此物善聽,冰下無水聲乃過、人見狐行方渡」(盟津は寒くなれば厚さ数丈の氷となるが、凍りはじめに馬車で渡ってはならない。狐が渡るのを待つべきである。この生きものは聴覚にすぐれ、氷のしたの水音がなくなってから渡るからだ。人は狐が渡るのを見てから渡るのである)とあり、日本と同様であると言えるだろう。

 狐は評判の良いところもあり、『禮記』には「狐は死んで丘首を正しくす」(狐は死ぬとき、生まれ育った丘の方に頭を向ける)とあり、柳子厚は詩を詠んで、首丘之仁類兮斯君子之所譽と詠じている。これは狐が死ぬときの様子で用いられ、住み慣れた小山の方に首を正しく向けることを褒め称えたものである。また実用面では狐の皮は非常に軽くて暖かく、かつ毛は美しい光沢があるのでとても珍重されており特に皮を取るために狐の養殖が非常に盛んになっている。世界的な養殖場はカナダが最も有名である。日本にも近年は北海道の樺太などに合計10カ所あまりの養殖場がある。狐の種類は毛色によってその呼び名が異なる。青狐のことは中国の正史『瑞鷹篇』に、「周文王拘羑里,散宜生詣塗山得青狐以獻紂,免西伯之難」(周文王が羑里ゆうりで幽閉されていた時に、紂王に青狐を得たので、それを献上して難を逃れた)とある。ここのあるように当時には青狐が貴重であるとされていた事が分かる。現在では青狐が最も価値が無く黒色のものが最も珍重されている。狐の皮が欧米でも珍重されるようになったのは近年であるが、中国では古代から非常に価値が高いものとされていたようで『詩経』にも、「君子至止、錦衣狐裘羔裘翱翔、狐裘在堂」とある。そして中国人が世界の珍宝として貴重なものとしているのは、狐の脇下の白い部分だけを縫いあわせて作る「狐白裘こはくきゅう」と呼ばれる衣類である。中国の書に、「千羊の皮は一狐の脇に届かない」と言い、また『禮記』には「士は狐白を着てはならない」とある。つまり士の身分では狐白裘が禁じられているのである。『晏晏子春秋』に、「晏公晏氏に狐白裘と玄豹の茈を賜う、その価値は千金である」と書かれている。また昔、齊の孟嘗君もうしょうくんが秦の昭王に囚われて殺されそうな時に、昭王の幸姫に狐白裘を贈れば逃れられると知った。しかし一つしかない狐白裘は既に昭王に献上した後なのでどうにもすることが出来ない。しかもすぐにでも処刑されそうなギリギリのところである。だが門下生で犬を真似て物を盗むのが上手い者がいた。秦の宝物庫に盗みに入り、すでに献上した狐白裘を盗み出してそれを幸姫に贈ることで、何とか逃れることが出来た、というところを見ても狐白裘の価値を知ることができる。こうして孟嘗君は秦の都を逃げ延びたのであるが、夜半に函谷関に差し掛かり、ここは法律によって鶏の鳴き声がしなければ門が開かない。一方の昭王は孟嘗君が騙して逃げたことを知り、追手を遣わして厳しく追跡させていた。ここでもその門下生に鶏の鳴き声が巧い者がいて、鶏の鳴きまねをすると、それにつられて皆な鳴き始めたので門が開かれ、孟嘗君は無事に齊の都に帰り着くことが出来た。世間で「鶏鳴狗盗」というのはこの事から起こった言葉である。

 狐の肉は少し臭気があるが、12月から2月頃の間は味が非常に良い。日本人は白粉に似た臭気があるとしてあまり狐を食べないのであるが、これは狐の旬を理解していない為である。旬を過ぎると臭気が強くなり味も良くなくなる。中国人は古来から狐肉を食べており、『禮記』には狐を羹にした料理が記されている。『本草綱目』には、「用狐肉一片及五臟治淨,入豉汁煮熟,入五味作羹,或作粥食。京中以羊骨汁、鯽魚代豉汁,亦妙」とあるが、狐の内臓の雑炊とはかなり珍料理であると言えるだろう。狐肉の他の部分も珍重されていたことを知ることができるだろう。


▲ タヌキ

 タヌキはアジアの特産でありヨーロッパには生息していない。ヨーロッパの [Badger] または [Raccoon Dog] をタヌキであると言う人があるが、専門家の説によると全然別種のものである。日本で普通に使われている「狸」という字はタヌキではない。中国で家猫を猫と言い、野猫を狸と言う。『和漢三才図絵』には狸は野猫とある。『日本霊異記』には狸をネコ(穪古)と読むと書いてあり、『本草綱目』に猫は、「別名で家猫、狸は別名で野猫」と説明されている。『莊子』に、「子獨不見狸狌乎?卑身而伏,以候敖者;東西跳梁,不避高下」とある。また楊萬里の詩(『誠齋集』第三十一巻)には、「拋詩巻步回廊狸奴幸自雙雙戲」という句がある。また陸放翁の『贈猫』の詩に、

 裹鹽迎得小狸奴 盡護山房萬巻書
 慙愧家貧策勳薄 寒無氈坐食無魚

 「訳文」
 塩を包んで(お金の代わりに)小さな猫(小狸奴)を迎え得た
 我が山房の万巻の書物を鼠からよく護ってくれた。
 残念にも家は貧乏なので、その労に報いてやることが出来ない。
 寒いときに敷く布団もなく、食べさせてやる魚もない。


とある。よって狸とは猫の別名であることは明らかなのである。我国でのタヌキは漢字の貉(むじな)に該当する。むじなは『本草綱目』には獾と同じであると書かれている。獾には二種類あり、猪獾と呼ばれるものは日本では穴熊であり、狗獾と呼ばれるものが狸つまり貉(むじな)の事である。我国でも貉の字を使う事があり、『日本書記』には「推古天皇三十五年春二月、陸奧國有狢、化人以歌之」(推古天皇の35年2月に陸奥に歌で人を化かすタヌキがいた)と述べられている。しかし狸の字の方が一般的になっているのでこれはもう修正する必要もないだろう。

 タヌキは狐と並んで妖術を使って化けて人になると言い伝えられている。しかしその化け方は淡白で無邪気で愛嬌がある。洒脱みがあるので狐ほどは評判も悪くない。腹鼓を打ち、睾丸を八畳にまで広げる芸当があるかどうかはさておき、『一休物語』の中で蜷川新左衛門の臨終の枕元に阿弥陀如来に化けて紫雲に乗って現れ、新左衛門の活眼によって化けの皮がはがされ一喝されて逃げていった事が『和訓栞』『燕石雑誌』には記載されているのはいずれもタヌキの失敗で、わずかに成功したのは山崎美成の『耽奇漫筆』に、「良怒というタヌキの描いた寒山拾得を荻生徂徠が所蔵し、白雲子というタヌキが書いた蘆雁を谷文晁が所蔵している」という位である。中国のタヌキもその化け方はほとんど失敗ばかりで成功したものは非常に少ない。
 『幽明錄』に、「漢の董仲舒嘗が帷子を下ろして独りで詠思に浸っていたところ突然に来客があった。その風貌には非凡なものがあり、試しに五経を論じてみるとその奥義を極めている。仲舒は漢代から続く名家であり交友は天下に広い。しかしこのような博学の人があるのを聞いた事がなかったので、もしかすると妖魔かと疑い、試しに

 巢居知風,穴居知雨。卿非狐狸,即是鼷鼠

と一喝すると、その人物の色がみるみる変わり、形が壊れて老タヌキとなり、騒然として走り去った」とある。

 またこれに似ているがさらに奇抜なものに晋の張華に関する伝説がある 。『搜神記』の伝えるところによると、「燕の恵王の墓地に千歳を経て変幻自在に化ける事ができる老狸がいた。晋の宰相であった張華は博学多才で良く知られていたが、この狸は彼を化かしてやろうとしてある青年に化けた。才容奇美にいざ馬に乗って門を出ようとする時、墓前の神木の精霊が狸を引き止めて尋ねるので、狸は張華を訪ねて議論するのだと答えた。この木の精霊は、張華の才学は並ぶものがないくらいの人物であるので妖術を使っても駄目だろう。そのような軽率な行動に出るならば狸の生命が危ないだけでなく、自分にも災難が降りかかると言い引き留めたのであるが、狸は一向に聞き入れようとせず得意げに、そのまま出かけて行った。
 役人を通じて狸は客として張華に会うことが出来た。そこで経文・詩文を論じ三日におよんでも屈しようとしない。張華は驚いてその正体が必ず人間ではないと察知し、表面上は敬意を払いながら引き止めつつ、その一方で門を固めて退路を塞ぎ、試しに猟犬を呼び寄せて論じてみてもこの客は平然としている。むしろかえって張華に向かって大笑いして、あなたは国家の宰相であり、臣民に食を備え、士を雇い、賢者を採用して能力のない者を退けるべきであるのに、このように自分の賢さを妬み、自分の才能が足りないのを認めず、かえって人を妖異の者として犬をもって試みるとは何事か!と放言して全くひるむことがない。これを聞いて張華は怒り心頭、これは間違いなく妖怪であると疑わなかった。百年ぐらいの妖怪であれば猟犬をけしかければ正体を現すが、千年の妖怪は千年の神木の火に照らして始めて正体を現すという。世では燕の恵王塚の前にある神木が既に千年を経ていると聞き、張華はこの木を使うしかないとして使いを走らせた。使いがその木に到着すると青い服を着た少年が現れて使いに向かって何故来たのかを訪ねた。使いがその経緯を答えると、少年が言うには老狸が無知にも自分の言う事を聞かず、しかもその災いが自分にまで及んでしまった。もう逃げる方法もないと大声で泣き、忽然として消えてしまった。使いがその木を切ると、切り口からは血が流れ出た。このようにしてその木を持ち帰りそれを焼いて、客を照らすとみるみるうちに老狸に変わったので、張華はそれを捕まえて煮た」と伝えている。( ※ この話は原文である『搜神記』を確認すると分かるが、狸ではなく狐についての話なのである。木下謙次郎は狸と狐を間違えてこのエピソードを引用している )

 タヌキ料理は昔は流行っていたようであるが、今はタヌキは少なくなっており昔のように一般的には食べられていない。旬は12月から2〜3月頃である。『料理物語』の中に、[たぬき汁]野ばしりは皮を剥ぐ。みたぬきは焼きはぎよし。味噌汁に仕立て候。古法は味噌汁にあらず候。大根、牛蒡ほか色々添える。酒の粕、酒塩を用いたりとある。また大草料理のむじな汁とはこの料理のことである。狸料理を称賛した貞徳の狂歌にも

  腹までもまだ入り足らずうましとて
    舌つづみ打つ たぬき汁かな

とある。

 中国ではタヌキの肉は特別に重んじられていて、『呂氏春秋』に、「味の美なるものは獾獾の炙である」と述べられているのはタヌキの肉のことである。『本草綱目』には、「タヌキは冬に肥満する山の珍味である」とあるように、広東の三蛇會料理にはタヌキの肉が欠かせないことは既に三蛇會料理の項で説明した通りである。中国人はタヌキの煮込み料理は痩せた人を太らせる効果があると信じているようである。これはタヌキが短足で胴体が太っていることからの思いつきから言っているだけのようである。


▲ 猩々しょうじょうおよび猿

 猩々は日本にはいない。『専志』には猩々の別名として紅人とある。『禮記』にも『山海經』にも猩々は巧みに言葉を話すとあり、昔の中国人は人間の同類と思っていたようであるが、この想像は全くの錯誤であるとも言えない。この種はいわゆる猿人類と名付けられているものであり、動物のなかでもその系統は人間に最も近いことは議論の余地がなく、偉大な学問のひとつであると言われる進化論は、究極的には人と猩々および猿の関係を基礎とした学問である。しかし人との隔たりは相当に大きく、進化の程度において200万年程の距離があると言われている。

 猩々は主にボルネオ島の低湿地の森林の中に住んでいるが、昔は南シナの交趾地方(ベトナム)にも生息していたようであり、『嶺表錄異』( ※ 『嶺表錄異』には以下の記載がなく『本草綱目』にある)によると、「封溪俚人以酒及草屐置道側,猩猩見即呼人祖先姓名,罵之而去。頃複相與嘗酒著屐,因而被擒,檻而養之。將烹則推其肥者,泣而遣之」(交趾(ベトナム)封溪縣の山中に多く生息しており、封溪縣の人は猩々を捕まえようとするならば、まず酒と草履を揃えて道に置いておくと、猩々はそれを見てすぐにその人の祖先の名前を罵倒して逃げ去る。それからまた戻ってきて酒を飲み始めるので酔ったところで捕らえる) とある。その肉は赤みを帯びていて、その味は猿の肉と変わりがないと言われている。『逸書』には猩々の肉を食えば「食之不昧不飢,令人善走,窮年無厭,可以辟谷」とある。『荀子』には「猩々は良く人の言葉を話し二本足で毛は薄く、人はその羹をすすり、その肉を食べる」とある。『水経注』でも猩々が美味であることが説明されており、『呂氏春秋』には「肉の美味なるものは猩々の唇である」と書かれている。また『事物紺珠』では猩々の唇を八珍の最初に挙げている、こうした記録をみてると中国人が猩々を珍味としていたことが分かるだろう。

 猩々の同類である猿は、日本でも食べられてきた。肉は柔らかで淡白である。炙って食べるのも良く、汁にするのも良い。中国人もこの肉を好んでおり、『臨海水士異物志』に「民皆好琰猴頭羹,雖五肉耀不能及之,其俗言曰:雷負千石粟,不願負猴頭羹」(猴頭の羹と、五肉の最も良い部分と比べたとしてもそれには及ばない。)とある位である。
 『粤志』『異物志』等でも何度も猿肉が美味である事が説明されている。

 猿には幾つかの異名がある。『史記』には沐猴、『説文』には為猴、『格子篇』には胡孫とある。また『莊子』は狙と言い、『倦游錄』に馬留、『焚書』には摩斯と書かれている。猿は日本にも多く生息しておりその習性も良く知られているが、鳴き声に哀愁があるのが特徴だからか、中国人はその鳴き声に感傷的になる傾向がある。唐代の良く知られた詩に

 【 水經注 】
  巴東三峡巫峡長
  猿鳴三声涙沾裳
  巴東三峡猿鳴哀
  猿鳴三声涙沾衣

  巴東にある三峡のうち 巫峡が最も長い
  猿が哀しく何度も鳴くと涙は裳を濡らす
  巴東にある三峡では猿が哀愁を帯びて鳴き
  猿が哀しく何度も鳴くと涙は衣を濡らす


とある。『宜都山川記』に、峡中で猿が鳴いているのを聞いて、峡を行く者は歌を詠み、「巴東三峡猿鳴悲、猿鳴三声聞者涙沾裳」というとある。これは唐の時代の詩を俗謡に作り替えたものである。巴東の三峡とは中国の揚子江を遡って巴蜀に入る辺り、巴蜀の入り口にある水流によってつくられた渓谷である。風箱峡、巫山峡、宜昌峡の三峡である。両岸は数百メートルの断崖で狭められており、揚子江の流れは激しく、舟の最大の難所である。ここを通り過ぎようとする者の詩に猿を詠まなかったものはいない。巴峡は中国では猿の名所である。李白の詩句にある「千里江陵一日還兩岸猿聲啼不盡輕舟已過萬重山」は良くその実景色を現したものである。

【 備考 】
『濳確居類書』には「羹以菜爲主,𦞦以肉爲主」とある。『廣志』には「晨,鳧肥而耐寒,宜為臛」とあり、『説文』には「羹は五味の調和である」とある。羹は日本では汁物であり、臛とは肉の煮込みのことである。



▲ 猅々ひひ

 原産地はエジプト、アビシニア、アラビア等である。昔は中央アジアにもいたようである。肉の味は少々、猩々に似ているようである。『本草綱目』には「甘、平、無毒。脯(ほしじ)にして食べると臓器を強くする」とある。猩唇は珍味として有名であるが、猅々は掌(てのひら)が珍味であるとされている。つまり猩々と猅々は珍味中の双璧であるとされている。東方朔の書した『神異經』には「西方深山に人のような獣がおり、身長は尺餘で短身である。蝦や蟹の類を捕らえて、火で炙って食べる。名付けて山臊と言う」とあるのは、猅々の事である。



土食および木食



 好んで壁土や木炭を食べる人はいるが、これは病的な作用であって、嗜好や食料としてではない。しかしながら世界中を見ると土食する民族がいる。試しにこれを列挙してみると、南洋のポリネシアのニューカレドニア島の原住民は土食をする風習がある。その食用土の中には微細な動物性成分を含んでおり、他の泥炭とは異なっていると言う。

 ジャワでも赤土の団子を食べる風習がある。しかもその団子は市場で売られており、食料品として取り扱われている。これを食べれば痩せることができると伝えられており、肥満に苦しんでいる女性が良く代価を支払って購入している。

 南米オリノコ河岸に住んでいるオットマッグという種族は常に土食する風習がある。彼らが食べている土には多少の鉄分が含まれている。原住民はこねて団子を作り、焼いて食べる。また時として魚肉、獣肉、野菜、果物を混ぜて、味を付けた餡入りの団子とすることもある。

 またマッケンジ河付近に生息している原住民も、嗜好品として土を食べると言われている。アフリカのニューギニア人も黄色の土を食べる事で有名である。しかし奴隷となってアメリまたはヨーロッパに移されても、故郷の土食の美味が忘れられなくて、ついに現在の居住先の土を取ってきてまで食べるようになったと言う。

 ロシアのカメンダ、アスロ辺りでも土食の風習がある。ただしこれは黄色の土であり非常に美味であるが、あまり食べ過ぎると往々にして病気を発することがある。

 しかし未開民族だけでなく、先進国の人々の間にもまた土食の風習があるのは奇妙であると言えるかもしれない。現にドイツの一地方ならびにスウェーデンの一部では、ある種の土を取り、バターの代わりにパンに塗って食用にすると言う。勿論、この採取は一定の場所に限られており、その土の中には動物性の成分が含まれ、独特な美味であるという。『本草網目』の中では土の種類を白堊土、甘土、東壁土 、太陽土などその他30種類に分けて、各々その産地や医療的な効果を明らかにし、かつ無毒であるとあるので、中国では飢饉の時には土食が史上に散見されているが、これらは事実であると認めるべきなのである。『南史』に「新野の太守であった劉忌はふさわしい応接において土を煮て粥とした」とある。日本でも九州の一部の地方では白色の粘土を食う所があると言われている。また北海道にも土食の地域があるという記述をかつて『學藝志林』のなかに見たことがある。

 ノルウェー人は木の皮を剥いで、それを粉末にしてパンのように焼いて食用にすると言う。木を食べるのはこれ以外には例がない。



動物の陰茎および胎盤 (附 人肉食)



 日本における肉食は明治維新以来しだいに一般的に行われるようになり、50年で隆盛を見るようになったのであるが、年代も浅くまだ極めつくされてはいないように感じられる。この点については流石に中国の料理法はすでに完成されており驚くべきものがある。あらゆる獣類の舌、心臓、腹、肝臓、胃袋、腎臓、脾臓、胛、胆、脳、髄、尾、頭、血液、喉、鼻、唇、骨、乳、蹄、胎盤など涎、尿、便、睾丸、陰茎に至るまで、全身の各部を残すところなく食用にするかあるいは薬用にしている。

 動物の睾丸料理は日本人とっても珍しい料理ではない。牛馬の睾丸を食べる人はいる。ここでは中国式の陰茎料理を数種紹介することにしたい。


▲ 驢馬の陰茎

 驢馬の陰茎は陽を強め、筋肉をつける効果があるとして用いられている。柔らかく味も良いが、中国料理店ではよくナマコの代用品として使われることが多い。ナマコは中国では貴重であり、値段も高いために驢馬の陰茎を代わりに使われるのである。そして上手な料理人の手にかかればほとんどその真偽の識別は難しいと言われている。


▲ 走狗の陰茎

 狗の陰茎は6月上旬のものが上等とされている。これを100日間陰干しにしてから他の肉と混ぜ、調味して食べる。男女ともに補精強壮の効果がある。


▲ 牛の陰茎

 黄牛、鳥牛、水牛すべて良いが、男性には特別に効能がなく、女性の子宮病患者や不妊に効くと信じられている。


▲ 野馬の陰茎

 野馬は肉に毒がるとされているが、陰茎は無毒で味も良いとされている。男子の陰茎病に効能があるという。


▲ 狐・狸の陰茎

 食用にしても美味であり、また薬用にも良い。薬用では炙って粉末にし、酒に混ぜて服用する、男女共に補精強壮の効果がある。特に女性の産後には特に効果があるという。


▲ 山獺(やまうそ)の陰茎

 山獺は中国に多く生息しているが日本にはいない、狸の種類である。この獣は多淫で、配偶者を得られない場合は樹木を抱いたまま死ぬという。女性が山中で獺を見つけると、獺が踊って来るので、それを扼殺して持ち帰り、その陰茎を取れば高価なものとして扱われる。木を抱いて死んだものの陰茎は特に高価である。よって本物がなかなか入手できないので世間では鼠璞、猴胎で作った偽物を売るものが多いという。
 試しにその真偽を判別しようとすると、女性の両掌の間で摩擦熱を起こして、山獺の陰茎を手のひらに置いて一声気合を入れるとその女性が発情してその衝動を自制することが出来なくなるという。しかも偽物ならば決してそのようなことは起きないという。果たして本当だろうか。
 貝原益軒の『倭本草』の中に膃肭臍(オットセイ)の精力増強の効果がある事を説明していることから、日本人にはこの説を信じている人が非常に多い。中国人は好んでオットセイの肉を食べるが、陰茎には特に貴重であるとは考えていないようである。


▲ 胎盤

 日本で胎盤を食べる習慣があるとは聞かないが、中国では所々でこの議論がある。その言うところによると胎盤は紅色のもの、紫色のもの、緑色のものなど種々あり、紫色のものが最上である。紫色のものの内、初生児のものが珍重される。次に無病で健康な女性のものも良い。調理方法は酒煮の方法、また甑蒸の方法など種々行われるが、董炳という人の論ずるところによると酒煮または火焙りの方法は行きでないとしている。こうした方法で調理するならば、多くの生児の育成に害があり、唯一、蒸擣むしつきの方法が最良であるとしている。李時珍の『本草綱目』の調理法によると、「まず精米のとぎ汁で洗浄した竹器の中に入れ、これを清潔な流水にさらして、筋膜などを洗い流し、再び乳香酒でっも洗い、駕籠に入れて乾かし、五味で調味して煮て調理する」とある。『隋書』には「琉球国では女性が子供を産むと胎盤を食べる」という記事がある。現在でもこの俗説の通りのことが行われているのかはどうかは分からない。また『正倦游雜錄』には「撩人は出産すると五味で胎盤を調理し近親者で集まり食する」とある。『正倦游雜錄』には、桂州の女性は子供を産むと胎盤を清水でよく洗浄して細く切り、五味で料理し近親者で集まって宴会を開いて食べるが、もし招待に漏れた者がいれば争いとなると言う。すべての獣類は子を産むと自分でその胎盤を食べる。人間が胎盤を食べるのはこのような獣性の現れと言うべきかもしれない。



附 人肉食について


 人肉は食用として論じるべきではないのは言うまでもないが、人類の凶暴性、または外界と遮断された環境の為に時として人肉を食べると言う不祥事が起こる事は抹殺してはならない事実である。ここでは歴史上において最も著名な事例を挙げて学術研究の資料として提供しておく。

 人類の祖先は遠く古代においてはどこであっても食人種であることは人類学者が証明しているところであり、有史以降でもバビロニアのバール教は紀元前二千年までは人間を犠牲として神に供えていた。また張華の記した『博物誌』には、中国の瑯邪にも臨沂県の東界の坎雖に大叢社があり、民はこれを食人社と言っている」とあり、これを見ても人身御供が行われていたことが分かる。

 人類は進化の行程を経て、兎にも角にも現在のような文化的な社会を作ってきたが、時にはこのような不祥事が生じるのは祖先から遺伝した潜在意識が何らかの機会に発動したからとしか説明できない。幸いにも日本においては戦争、飢饉などの非常事態の場合、または愚民の迷信によって行われた場合をのぞいてこうした不祥事は聞かれないが、諸外国ではヨーロッパでも中国でも食人の事例は非常に多い。特に中国では古来から口すっぱく倫理を説いて、人類を万物の霊長として神聖視しながら、人肉を食う事を別段、不都合とも感じていないようであり、陳臓器は著書の『本草拾遺』に人肉の項目を挙げて、公然とその用途を述べているように、史上至る所で人肉食いが行われていた惨状を見ることができる。中国の人肉食にこうとあるのは煮て汁物にすることである。とは日にあてて乾し肉にすることである。じょうとは蒸し焼き、臠とは刺身のようにして生食することである。かいとは塩と糀に混ぜ、美酒に浸し、百日間密封して作られる塩辛のようなものである。(孔子の弟子であった子路が殺されて醢の材料とされたことが『論語』に記載されている )[ ※ 論語にはこの話は記載されていないので誤りであり『孔子家語』にその記述がある ]

 現在でも人肉料理としての名称は残っており、男性の肉を「両脚羊」または「想肉」と呼び、女性の肉を「不美肉」と呼び、子どもの肉を「饒葩じょうは」と呼ぶと言う。

 中国の人肉食についての最も有名な事件を挙げると『帝王世紀』には、殷の紂王が文王の長男であった伯邑考はくゆうこうを煮て羹とし、これを文王に食べさせたという記述がある。当時、紂王は聖人はその子の羹は食べないと聞いていた。そこで文王が聖人かどうかを試験したのである。その時の文王は自分の子の羹だとは知らずに食べたのであるが、紂王は文王には聖人の価値が無いとして冷評したという。また『淮南子』には夏の桀王、殷の紂王が、北方の小国である鬼侯の女を醢にして、梅伯の亡骸を(つけもの)にして諸侯に賜ったとある。これを見ても当時の中国の風習では自分の子でなければ人肉を食べることが平気であったようである。また『史記』には紂王が、家臣の九侯を醢にした時、鄂侯の諫言に怒り殺して脯にしたとある。次に史上でも有名な例は、斉の桓公の人肉食である。桓公は日ごろから大変な美食家であり、すべての味を試し尽くしてしまったが、まだ人肉を試したことが無いので一度は試してみたいと注文すると、お抱え料理人の 易牙 は自分の子供を殺し、蒸て勧めたという。
 後漢の王が誅された時に、軍人が彼の身体を臠した( 刺身のようにして生食した )とある。(『王莽傳』
 欧陽修の記した『新五代史』には萇從簡という高官について伝えている。從簡はかつては屠羊を仕事にしていた為か、好んで人肉を食い、至る所から民間の子どもを捕らえて来て食べたとある。
 また『三国志』( ※ 三国志にはその記述はなく『輟耕録』に三国志が伝えているとして以下のエピソードが記録されている )によると「呉の武将であった高澧は、酒を飲み人を殺してその血を飲むのを好み日ごろから自宅の前を行く人を捕らえて食べていた」と述べている。
 また元の陶宗儀の記した『輟耕録』には「淮右の軍は人を好んで食べ、子供を最上として、女性がその次、男性がその後であるとしていた。またその料理法は鉄柵に座らせて生きながら炙る、あるいは手足を縛って熱湯をかけて湯がき、竹箒で外皮を削ぎ取る、あるいは袋に入れてそれを大鍋に入れ生きながらに蒸し焼きにする。男性ならば両腿を断ってその肉だけを取る。女性であれば両方の乳房をえぐり取るなど、残虐残忍の限りを尽くして食べていた」と伝えている。

 ヨーロッパでもまた中国に劣らぬ程、残忍酷烈を極めた例は少なくない。イギリスでは西暦1416年、ジェームズ2世の時代に猛烈な食人者がいた。かなり人肉を嗜好していたようで、年が若いものが美味であるとして常に子供を誘拐して食べていた。後にその事が発覚し夫婦共に焼き殺されている。また西暦1519年、イタリアのミラノにエリザベスという女性がいた。かなり人肉を好み、子供を盗んで殺してから塩漬けにして食べていた。(ダ氏人類学)
 また紀元800年代のウェールズの原住民のグーリーという者が人肉を好み、日々の食事はほとんど人肉だけに限られていていたが、土曜日を安息日とするユダヤ教徒であったのでこの日だけは謹慎して、他の6日間は毎日、男女各二人を屠殺して食っていたという。

 太平洋の島人について、鈴木経勲すずきつねのり『南洋探検実記』にドイツ人のレプマン氏の人肉食の発見談を載せている。レプマン氏がソロモン島に渡航した時に、たまたまこの島の原住民が海岸の砂場に集まって大宴会を開いており、その傍らに20人程の捕虜が繋がれて置かれ、ひとりひとり引き出してその泣きわめくのを聞き流し、生きながらその手足あるいは股を裂いて、鮮血したたる肉片に舌鼓をうって食べていたのを見たと述べてある。またニューギニアでは人体を吊るして置いて、下から火を焚いて油を取り、人油の揚げ物を食用にする風習があるという。

 このように食欲あるいは嗜好によって人肉を食べる以外、戦時中または飢饉などの非常時における人肉食いの歴史的な事実に至っては枚挙がない。ロシアにおける大干ばつの為に大飢饉に陥った為に人食いの惨劇が方々で行われたことは新聞報道で我々にも知らされた事実である。またダーリング氏の人類学によれば西暦1033年にフランスで大飢饉があった時、某は自分の子供を屠り、その肉で来客をもてなしたとされている。また同じ頃にアパートをもっていたある婦人は、その貸家を求めてくる17人を次々に殺して食べていたが、18人目の借り手はこの事を知り、逆にその婦人を殺して免れることが出来たという。また西暦1097年の第一次十字軍がアンチオークを包囲した時に、陣内の食物が尽きてしまいキリスト教徒のなかでも人肉食が行われ、またマーラ攻囲の時には敵の墓を暴きその屍を食べていたとある。歴史家のアルバートは十字軍の兵士はサラセン人の肉は犬肉より価値があるとしてよく食べられていたと記している。またローマとゴッス人の戦争の際に、ローマには公然と市場で人肉が販売されていたとあり、母親で子供を屠殺した者も多いとの記録がある。

 中国でのこの種の実例は少なくない。史上最古の記録は『左傳』に宣公の十年( ※ 十五年の間違い )に楚人が宋を攻囲した時、城内の食が尽きてしまい互いの子供を取り換えて食べたという記録がある。また魯の閔公の二年には狄人が衛を攻め、懿公を殺しその肉をことごとく食べたと『左傳閔公二年』にはある。
 また介子推は股を割いて重耳に食べさせた(韓詩外傳)
 続十八史略には明時代の庚申三年の飢餓および庚虎七年の飢餓の際に食人が行われ、子は父を殺し弟は兄を殺す者がいたとの記事がある。

 また日本でも『日本書紀』欽明記に欽明天皇の二十八年に郡国で飢饉があり人が食われたとある。『八幡愚童訓』には元寇の時に蒙古軍が食人を行ったとあり、また西南戦争では、日向から豊後に進出した賊軍の一隊が、豊後竹田で食人を行ったようであり、人肉は牛肉のように鋤焼きにして食べたとされている。これを見て当時の竹田の人の中にも好奇心から人肉を試食した人も少なくなかったようである。

 さらには嫌悪の念から、さらにはその敵愾心に駆られて、敵の肉を食ってしまおうという迄に激しい感情に至ることがある。文章中でもよく「彼の肉を食わん」という語が多く用いられることがあるのは誰もが知っていることである。有名な『胡澹庵』封事にも「人皆欲食倫之肉」という言葉がある。これに関し2,3の実際にあった出来事を挙げておくと、明の武帝の時代に劉瑾りゅうきんが処刑され首が晒されたが、害を被った人々が争ってその肉を取って食べたとある。
 また明の穀宗の時代に、李自成が洛陽を攻め落とし、福王常洵を殺したが、その際に王の肉と鹿肉を混ぜたものを煮て「福禄宴」という宴会を開いて食べた。(『鹿樵紀聞』 下巻)

 スペンサーの(Herbert Spencer)の社会学によると、オーストラリアの原住民は復讐の目的で、敵の肉を生で食べる風習があると記している。またフィジー史には、フィジーの酋長であったタノアが敵の従弟の腕を切り落としてその目の前で血を飲み、肉を料理して食べたとの記事がある。

 中国の戦国時代には、敵の肉を食べ、かつその頭蓋骨に漆を塗って日常的に盃として使っていたのであるが、日本でも戦国時代には凱旋の祝宴で、敵の生首を宴席に並べてそれを肴に酒を飲む風習があった。これに似たことはローマでも行われていた。ローマ皇帝のネロはシルラルとブロータスを殺した後、その首を御前に晒して嘲弄して得意になっていたという。またある時はキリスト教徒を宮殿内の庭園で焼き殺し、火の燃えるのを見ながら人燭と呼んで酒宴を行った。また、ある王は敵の遺骸の前で、仇敵の屍は常に好みの香りがすると喜んでいたとある。

 人肉を食べればその人の勇気と知能を受け継げるとの迷信を信じる人も少なくない。スペンサー社会学によるとアメリカンインデアンは虎を食べればその強さと勇気を得られると信じているという記事がある。日本でも朝鮮出兵の時に、秀吉が朝鮮に居る武将に命じて虎肉を送らせたのも、やはり虎を食い勇猛さを増そうとしたからである。ブラジル原住民の女性は小鳥を食べると生まれてくる子供は小さくなり、蟻を食べると子どもの鼻が大きくなるとして、こうしたものを食べる事を嫌っている。ニュージーランドの原住民は自分の勇気を増すために、敵の目を食べ、グユダ人は同じ目的のために敵の心臓を食べると言う。

 また中国の長髪賊の乱の時に、賊徒が上海に迫っていたが、城内に在留していたイギリス商人は、自分の中国人の使用人が、戦死者の心臓を持ち運んでいるのを見たので、その用途を問うと、それを食べて勇気の増進を計るためであると答えた事が記録に残されている。また『資治通鑑』( ※ 原文には『五代史』趙思綰傳とあるが間違い )には趙思綰が人を殺して食べ、饗宴の度に数百人を殺害した。その料理法は豚と異なるところはない。趙思綰はひとつひとつその肝を取って、酒を飲みながら肝を食べ、それが千個になればその勇敢さに比類する者はいないと公言していたと述べられている。

 最後に最も奇妙なのは死人に敬意を表するためにその屍を食べる場合である。これは先に述べた憎悪の復讐心から人肉を食べる場合と正反対の気持ちから来るものであり、尊敬する死者の遺体を腐敗させるのは、死者と親密な関係にあった人は忍びないとして、遺族一同で集まりその肉体を食い尽くすのである。この風習は古代のエジプトで行われており、他にもアーリア人が定住するようになる前の西ヨーロッパの一帯でも広く行われており、土塚の中に所々その証拠が発見される。現在でもアフリカの黒人の中には、まだこの風習を守っているところもある。(『世界文化大綱』H.G.ウェルズ)
 また中部アメリカのユカタレ人は、人が死ぬとその遺族が集まって死者の肉を分けて、各自で適当に焼きあるいは煮て食べる風習がある。ダーリングの人類学では、チベット人は死者の遺族が集まり死者の肉を食べて葬儀を行い、死者の頸骨を盃にする風習があると記されている。この他にも疾病治療に効果があると信じて人肉を食べる場合、また呪いの目的で食人する場合などの、奇習や怪俗は特に東洋で行われてきたものが少なくないが、その部分は本論の目的とするところではないので、すべて省略する。人肉の栄養上の価値や味の良し悪しについては、実際に経験のある人の説明を聞いたことが無いので、正確に説明することは困難であり、また説明すべき要領も得ない。ただ味については種々の異論がある。渋味があるという者もいれば、甘味があるという者もいる。日本で一般的に伝えられるのはザクロの味に似ていて半分は甘く、半分は渋いとある。ただし実際は実際は多少の渋味があるようだ。桓公が人肉を食べた時はその味が舌に適したようで、「易牙は自分の子を殺して主人を快くする」と『韓非子』で説明されていることから推測すると、桓公が人肉に美味を感じた事に疑う余地がないであろう。



註 釈