山焼鯛

『鯛百珍料理秘密箱』一覧 


山焼鯛のレシピ


山焼鯛は、江戸時代の1785年に出版された『鯛百珍料理秘密箱』に掲載されている57番目のレシピである。『鯛百珍料理秘密箱』原文には以下のような説明がある。

【 鯛百珍料理秘密箱 】山焼鯛
ばん州め賀といふ浜辺の名物。
大小ともにうろこをふき、ゑらより、はらのさうもつを取出し、水にて能くあらひ、鯛のまん中を二ツに切、しばらく塩にまぶし、水にて洗ひ、はまぐりを煮出し候汁にて、鯛を煮るなり、出し申ときに、生醤油に、生姜のしぼり汁をかけて出すなり、家内にて遣ふには、蛤の中へ鯛を入、喰也、此所の神事にては、右の鯛をやきもの二す、此めがの名物なり、此浜は漁師多く、魚沢山なる所なり、此ははまぐりの汁にて煮る事、丼に鯛のかしらと、尾とわける事、布賀明神の謂あることなり。


鯛百珍料理秘密箱

山焼鯛:新日本古典籍総合DB


【 山焼鯛 訳文 】
播州の布賀という浜辺の名物。
大鯛、小鯛ともに鱗を取り、エラから腹の臓物を取り出して、水でよく洗い、鯛の真ん中を二つに切って、しばらく塩にまぶしておいてから、水で洗い、はまぐりを煮だした汁で鯛を煮る。 出す時には、生醤油に生姜の絞り汁をかけて出す。家内で使う時は、ハマグリの中に鯛を入れて食する。 この地の神事では鯛を焼き物にする。この料理は妻鹿の名物である。この浜には漁師が多く、魚が沢山獲れるところである。 はまぐりの汁で煮ることや、丼に鯛の頭と尾を分けることには、布賀明神に謂れがあるとされている。



レシピ解説

山焼鯛は「播州にある布賀めがという浜辺の料理である」と書かれている。『料理百珍集』原田信雄 校註・解説の注釈によると以下のような解説がある。

【 料理百珍集 】
布賀は現在の兵庫県中南部、姫路市の妻鹿。市内の河口東岸にある漁港町である


ここでいう布賀とは、妻鹿めがのことであるとしている。この妻鹿は、兵庫県姫路市飾磨区妻鹿が該当する地域である。市川という川の東岸に妻鹿と呼ばれる地区があり、まさにここが山焼鯛という料理の生まれた場所であると考えられる。妻鹿の南側は海だったが、現在では埋立が行われ工業地帯となっている。昭和初期の地図を見ると妻鹿地区は河口にあり海に面した場所だったことが分かる。

また妻鹿地区の東側には御旅山があり、この山は南から宮山、法蓮山、北山で成り、これらを統合して御旅山と呼ばれている。この山を中心に山中からは14の古墳(御旅山古墳群)が発見されており、御旅山は太古から儀礼や神事と関係した神聖された山だったことがうかがえる。

兵庫県姫路市飾磨区妻鹿

兵庫県姫路市飾磨区妻鹿


山焼鯛は布賀明神に関係した料理と記されているが、現在の妻鹿地区を調べてみても布賀明神という神が祀られている社は場所は存在していない。
しかしこの妻鹿地区には御旅山八幡神社、元宮八幡神社、御幸岩神社という神社が存在している。またこの妻鹿地区の隣の松原地区には天平宝字7年(763年)創建と伝えられている松原八幡神社がある。この山焼鯛を解き明かすためにも、まずはこの四社について述べておきたい。


松原八幡神社

松原八幡神社は「灘のけんか祭り」が行われる神社で有名で、各地区が繰り出す屋台や三基の神輿を互いにぶつけ合う激しい奇祭として知られている。「灘のけんか祭り」は「妻鹿めがのけんか祭り」とも呼ばれ、灘にある七地区の色分けされた氏子によって担われている。松原は赤色、東山は桃色、八家は柿色、木場は緑色、宇佐崎は黄色、中村は水色、そして妻鹿は朱色といった具合である。これら各地区からは屋台が出され、年番に当たる地区だけは屋台を出さずに三基の神輿を担ぐことになっている。

松原八幡神社

播磨名所巡覧図会 5巻:国立国会図書館


この松原八幡神社と妻鹿の関係は深く、『松原八幡神社記』によると、目賀(妻鹿)の漁人の久津理くつり(倶釣とも表記される)が、海中から拾い上げた八幡大菩薩と書かれた一尺余の紫檀の霊木を妻鹿漁港の大岩の上にお祠りしたとある。当時、疫病が流行していたが妻鹿村はこれにより疫病の難を逃れることができたので、この霊木を国司の許可を得て、松原と妻鹿の境にある宮山(御旅山南の小山)の頂に祀ったとされている。その後、天平宝字7年(763年)になって神の夢告によつて現在の松原の地に移り、現在の松原八幡神社が創始された。


御旅山八幡神社

社殿は松原と妻鹿の境にある宮山(御旅山の南)の山頂に建てられている。妻鹿の久津理が、八幡大菩薩と書かれた霊木を見つけ、松原八幡神社に安置される前に仮に御旅山に置かれていたことから、1636年(寛永13年)か1694年(元禄7年)に社殿が建てられたとされているのが、現在の御旅山八幡神社である。

「灘のけんか祭り」では、松原八幡神社に各地区の屋台、神輿が宮入りした後、屋台と神輿は御旅山を登ることになっている。御旅山(宮山)の山麓の広畠にはコロシアムのような場所があり、ここで神輿のぶつけ合い、屋台の練り合わせが繰り広げられる。山麓で練り合わせを行った後、屋台と神輿は御旅山(宮山)を登り、山頂にある御旅山八幡神社を目指してそこに集合し、夕暮れ前に山を下り祭りは終了となる。

現在の御旅山八幡神社は「灘のけんか祭り」の屋台と神輿が集合するお旅所でもあるのだが、かつてはこの宮山の山頂からさらに北、御旅山をさらに登った場所(北山と思われる)に元宮と称される神社あって、神輿は細い登山道を通ってさらにその山頂に向かって登ったとされている。つまり御旅山は神輿を担いて上がるような神聖な山であって、こうした神事の中で「山焼鯛」は用いられたのでないかと考えられるのである。


元宮八幡神社

先の御旅山八幡神社が御旅山(宮山)の山頂に建てられるまでは、妻鹿の街中にある元宮八幡神社がその元宮であった。松原八幡神社の社記には、妻鹿の久津理が、八幡大菩薩と書かれた霊木を見つけ、目賀川の末の大岩の上に安置してたが、後に目賀の御旅山(北山)に仮殿をつくり安置したとある。その後、この霊木の御神体は、現在の松原地区にある松原八幡神社に移して祀られるようになったが、御旅山(北山)に残された仮殿は妻鹿に下り、元宮八幡神社として建てられたということになる。松原八幡神社の元宮的存在に当たるので、元宮八幡神社と呼ばれているのがこの神社ということになる。


御幸岩神社ごこういわじんじゃ

姫路市飾磨区妻鹿1392-1にあるのが御幸岩神社である。妻鹿の「久津理会」が昭和44年に発刊した『妻鹿郷土史シリーズNo3』には以下のような説明が記されている。

【 妻鹿郷土史シリーズNo3 】
神功皇后三韓を討ち無事御帰朝の御時播州妻鹿の浦に船を寄せられたり、時真夜中にして海の様子知れざりければ如何せんと思召したまふに神の助か一人の漁人御船の燈火あまりに光るに怪み御座船に近づきければ、皇后水の深浅を尋ねたまふ、漁人かしこみ妻鹿の里ごいな落としに導きしに 軍卒船より下ることごいなを落とすが如し、その故に今に其地をごいな落しと言う、漁人皇后の徳を慕ひ奉りて一祠を建つ、今の元宮八幡神社是也、後又皇后の海面をみそなわれし一大岩上に一祠を建つ、今の御幸岩神社是也、後元宮八幡宮を御旅山上に遷せしが淳仁天皇の御代御神夢により更に松原村に遷せり、今の松原八幡神社是也、云々


また姫路市教育委員会発行の『文化財見学シリーズ』には御幸岩神社について以下のような説明がなされている。

【 文化財見学シリーズ 】妻鹿地区をたずねて
住吉神社の名で知られるが、公には御幸岩神社。明治44年に本殿と拝殿を建立。神功皇后が岩の上に立って水路を眺めたという伝説から、神社前の海中にあって干潮時に露出する岩を御幸岩とよんだ。今は埋め立てられ、その一部が東海公園にある。


このように御幸岩神社の縁起は、先に述べた三社とは異なり、神功皇后に由来したものとなっている。三韓征伐を果たした神功皇后が妻鹿に寄り、神功皇后が立った大岩の上に祠が建てられたものが、御幸岩神社となったというのである。今では埋め立てが進み、内陸の神社になってしまっているが、明治期には御幸岩神社は海に面していて、神社前の海には御幸岩と呼ばれる干潮時になると露出する大岩があったとされている。この岩の一部は移されて東海公園に残されている。

興味深いことに、御幸岩神社の縁起では先の三社の縁起も神功皇后にゆかりのあるとの説明がされており、神功皇后の徳を慕って建てられたのが元宮八幡神社、そしてそれが山上に移されたのが御旅山八幡神社(後元宮八幡宮)、そして御旅山からさらに淳仁天皇の御代(733年-765年)に移されたのが松原八幡神社であるということになっている。

御幸岩神社以外の三社では、八幡大菩薩と書かれた霊木を久津理が見つけたことが縁起とされているが、御幸岩神社では神功皇后そのものに縁起があるとしているところが御幸岩神社と他三社との大きな違いだといえるだろう。しかし、やがては御幸岩神社を含む四社でそれぞれのエピソードが混濁を生むようになり、さまざまな異説が語られるようになっていったように思われる。

例えば神功皇后が船で妻鹿に入ったときに、漁師が「ごいな落とし」に導いたとある。ごいなとは牡蠣のことで、神功皇后の船が岩場を抜けて妻鹿に着した様子が、船底に付いた牡蠣を落とすようだったことから「ごいな落とし」という地名になったと説明されている。現在、松原八幡神社のけんか祭りで、三基の神輿をぶつけてこすり合わせるが、これが「ごいな落とし」と呼ばれており、神功皇后のエピソードを暗に示すものとなっているように思われる。

また、神功皇后の船を妻鹿に導いた漁師というのが、久津理(倶釣)であるとする説明もあり、これもふたつのエピソードが混濁した結果であると思われる。さらに言うと、妻鹿の漁師の久津理が見つけた霊木に書かれていた文字は、「八幡」あるいは「八幡大菩薩」という異なる説明があり、ここにも表記の揺れが見られる。全国八幡社の総本社は大分県宇佐市にある宇佐八幡であるが、この宇佐八幡は、祭神である八幡神が仏教に救いを求めたことから神仏習合が進められた神社である。よって仏教由来の大菩薩が霊木に書かれていたとしても不思議ではないのだが、説明によって表記にブレがあることは非常に気になるところである。

山焼鯛の説明では、布賀明神に由来する料理であると紹介されているが、明神という名称も、仏教から見た神に対する名称のことである。実際に妻鹿には布賀明神の祀られている神社は存在していないが、八幡神社が神仏習合を進めた神社であることを考えると、布賀明神と説明されている神社は、実際には八幡社のことであったのではないかと推測できるのではないだろうか。


御神体の移動経緯

上記の四社の縁起をまとめると、現在の松原八幡社に祀られている霊木の御神体がどのような経緯で移動したかを辿ることができる。

 ① 場所:御幸岩神社
   料理の久津理が霊木を発見して河口の大岩に祀る。
   あるいは神功皇后が、大岩に立った。

 ② 場所:御旅山八幡神社あるいはさらに先の山頂
   河口から山に移して祀られた。

 ③ 場所:松原八幡社
   国司に夢でお告げがあり、山を降りて現在の松原地区に移動。
   天平宝字7年(763年)創建。

海で見つかった御神体が河口の大岩の上で祀られ、それが現在の御旅山で祀られ、それがやがて浜辺の松原八幡社で祀られるようになったというのが経緯である。ここで考慮すべきなのは、なぜ御神体が一時的にわざわざ山で祀られたのかということである。何故ならこのことが山焼鯛と大きく関わっているように思われるからである。

山焼鯛とは、ハマグリの汁で鯛を煮るという煮物料理である。それにも関わらず山焼鯛と名付けられているのはなぜか。北大路魯山人は『星岡』の中で、山焼鯛は妻鹿の漁師料理で、漁の後に浜に戻ってみんなで囲んで、楽しまれていた料理である。年に一回の山の神社のお祭りには、一旦、ハマグリで鯛を煮て、そこからさらに表面を火であぶって、食べずに奉納していたと述べている。つまりここから山焼鯛という料理名が付けられたことが分かる。

そうであるならば、山の神社と山焼鯛、さらにはなぜ山の神社に海のものであるハマグリで煮た鯛を焼いて奉納したのかという起源がどのようなものであったのか非常にわたしには気になるのである。


宇佐八幡社と山

妻鹿から移動した松原八幡社を始めとして、妻鹿には八幡社がいくつかあり、八幡神とは深い関係性のある地域となっている。妻鹿の八幡神には御旅山が深く関係しているのではないかという仮説を元に、本社である宇佐八幡社と山の関係を述べておきたいと思う。

宇佐八幡社は大分県宇佐市に位置する全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。本宮は小椋山という小さな山の上に築かれている。ちなみに最初に勧請された京都にある岩清水八幡社も男男山(鳩ヶ峰)という小さな山上に位置しており、八幡社の山の関係がうかがえそうな立地条件になっている。妻鹿では始めに御神体が御旅山(北山あるいは宮山)に安置されたことも、この事とは無縁では無いように推測することも出来るかもしれない。

八幡総本社の宇佐神宮 (上宮)
画像をクリックで境内の様子が見えます。


宇佐八幡社に話を戻すと、宇佐八幡社の由来を調べると、神宮の東南方向に約6㎞離れた場所にある御許山(おんもとさん)との関係を切り離して考えてはならないことが明らかになってくる。神宮では別名で大元山と呼ばれており、御許山の山頂には大元神社がある。大元山という名前には八幡宇佐宮の元宮という意味が含まれているのであろう。実際に山頂には3つの磐座があって、祀神の比売大神は、この磐座を依代にして降臨したとされている。

この比売大神は、宗像三女神である多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命であるとされているが、実際には地元の豪族であった宇佐氏が古くから信仰してきた土着的な女神であったとも考えられている。宇佐氏はもともと現在の安心院町から宇佐に進出した豪族だった。この宇佐市は安心院では妻垣山でその比売大神を祀っていたと考えられる。妻垣山にも御許山と同様に磐座があり、そこに比売大神が天下ったという縁起が残されている。 この宇佐氏が、安心院から宇佐に移動するに伴い、御許山でも祀った比売大神が宇佐神宮でも祀られるようになったようである。

宇佐八幡は、神功皇后や比売大神=宗像三女神を祀る事から海洋系の由来があるように思われるが、実は山の神とも非常に深い関係にある。この関係性には海洋民族だった安曇氏がどのような地域に定住していったかという事に深い関係があるとわたしは推測しているのだが、ここではそのことについての説明は控えておく。ただ宇佐の宇佐神宮と、安心院の妻垣神社や妻垣山の関係に関して興味のある方は、ぜひ「宇佐津比古,宇砂都比売比古」の項を参照して頂きたい。


妻鹿と御旅山

宇佐八幡の経緯を見て行くと、わたしには妻鹿や松原にある八幡社と御旅山の関係にも何か深いものがあるように思えてならない。宇佐神宮と御許山にあるような関係性が、松原八幡社と御旅山にはあるのではないだろうか。

先にも述べたが妻鹿にある御旅山には14もの古墳の存在が確認されている。特に6号古墳と名付けられた御旅山の現在は鉄塔が立ってしまっている場所にあった古墳は、全長48メートルの前方後方墳と御旅山古墳群の中でも最大のものである。こから考えても御許山は太古から神聖視された、何か特別な場所だったと見なすことが出来だろう。

御旅山古墳群

『姫路市史第 七巻下』より


御旅山の他にも、妻鹿の北側には国府山がある。ここにはかつて山城が築かれていて、黒田官兵衛が姫路城を秀吉に明け渡してから一時期は居城にしていた場所でもある。この国府山の山中には磐座があり、太古にはここで祭祀が行われていた可能性も考えられる。いずれにしても妻鹿を囲むようにある山々は、いずれも神聖な領域として見なされていたような場所であり、このことが海で救い上げられた御神体を山上に安置したことに繋がっているように思える。

また妻鹿や松原という地域と、宇佐八幡とのつながりも興味深いものであることも指摘しておきたい。まず妻鹿には八幡神系の神社がいくつか存在している。このことからも八幡神への信仰が強く、また八幡神とのつながりの強い地域であったことが考えられる。この地域の主たる神社は妻鹿から御神体を移した松原八幡社であるが、その創社は『播磨鑑』が引用した社記によると天平宝字7年(763年)に御神体が海から引き上げられたことに端を発している。京都にも有名な八幡社の石清水八幡があるが、これは860年(貞観2年)に清和天皇が石清水寺の境内に社殿を造営したのが創建であるので、松原八幡社はそれよりもさらに早期から、宇佐八幡から勧請し、八幡神への信仰を始めた場所であるということになる。

またこの地域の主たる神社である松原八幡社がある松原には宇佐崎という地名が存在している。その名前の由来として『村名故事記』『里翁説』あるいは『播磨鑑』には「後に別宮の由縁宇佐の名をかりて宇佐崎に改む」と記されている。つまり宇佐八幡社のある宇佐から名をかりて宇佐崎と名付けられたというのである。このような地名の付けられ方を見ても、この地域が宇佐八幡と関係が深かった、あるいは八幡神に対する信仰が深かったことが感じられる。それゆえ総本社の宇佐神宮が御許山との関係から土着的な比売大神を祀ったと同じように、妻鹿においても古墳群がある御旅山、そしてもしかすると国府山も祭祀における重要な場所であるとみなしていた可能も考えられるのである。


妻鹿めがという地名

妻鹿めがという漢字は読みを知らなければとても発音できない呼び方である。なぜ妻鹿という地名が付けられたのか、その由来には様々な説がある。江戸時代に著された「播磨鑑」には以下のように記されている。

【 播磨鑑 】
神功皇后麻生御座の時大己貴(おおなむち)の託にて三頭の鹿あらわれ丹き鹿は嶋山へ走る、この所を丹鹿島といい、妻の鹿はこの所に止る、これにより妻鹿という


また同じ説明が平成13年に発刊された『松原八幡神社史』でもされている。

【 松原八幡神社史 】
どうしてこのような地名がついたかについては、古代の鹿にまつわる神話伝承によるとして大同小異の何通りかの起名伝説が伝えられているが、ここではそのうちの一つを紹介する。“神功皇后、麻生山に御座の時、大己貴命(おおなむちのみこと)の託宣により、穴師(阿成)の海中より白・丹の両鹿あらわれ、丹(あか)き鹿は島に走り、白き牝鹿(めじか)はこの地の山に入る。これにより妻鹿・丹鹿(男鹿)の称あり”


赤と白の鹿が現れ、そのうちの白い雌鹿が山(御旅山と思われる)に入ったことから妻鹿と呼ばれるようになったされている。しかしこの説に対して『播磨名所巡覧図会』は「この説信ずべからず」と述べている。その理由として「鹿」の字は「賀」の字を音で当てたものであること。またもし丹鹿、白鹿の伝説が地名の由来であれば、英鹿とあるのはむしろ男鹿と呼ぶべきであるとして、妻鹿と対になっていないことを指摘している。

実際に妻鹿について記されている記述を見ると、妻鹿という漢字だけでなく、布賀、目賀という漢字でも文献には記されている。こうした漢字表記にブレがあることから、妻鹿という地名は、使われている漢字よりはむしろ「めが」という音にこそ本来的な意味があると考えるべきだろう。そしてこれは『播磨名所巡覧図会』の妻鹿の地名の由来が、鹿に由来するという説を否定するのと同じ方向性であると言えるだろう。

ここからはわたしの仮説であり、文献による裏付けはない考えでしかないのだが、妻鹿という場所でいち早く八幡神が祀られるようになったのは、海洋系の一族の安曇氏などに関係しているからではないだろうか。妻鹿には神功皇后にまつわるエピソードが残されており、これは瀬戸内海の各地に見られる現象である。(広島県三原市幸崎町能地の浮鯛についても神功皇后にまつわるエピソードがあり、興味のある方は「鯛」神功皇后と鯛の項をご確認頂きたい)

八幡神の祭神は通常、主神に応神天皇、第二神に神功皇后が祀られている。妻鹿における八幡神信仰の発展には、地元に残る神功皇后のエピソードがあったことが関係していることは間違いなさそうである。神功皇后の諱は息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと)である。息長氏の一族は、その息長という名前から、息が長い、風を吹くという意味が含まれているとして、潜水を専門とする海人、あるいは風の神で製鉄の民であるとも推測されているが、その始まりは謎である。だがいすれにしても神功皇后が息長氏の出身であるということは、妻鹿と海洋の民の関係を暗に示唆するものであることは考えられる。

また住吉神社との関係も考慮できるかもしれない。妻鹿にある御幸岩神社は別名の住吉さんの方が知られている神社のようで、主祭神の八幡神と共に住吉神も祀られている。全国にある住吉神社の総本社は大阪にある住吉大社で、4つある宮に以下の神々がそれぞれ祀られている。


住吉大社

 ・ 第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
 ・ 第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
 ・ 第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
 ・ 第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう)

住吉神は、海上交通の守護神とする信仰で知られている。底・中・表と海洋の水深によって神を祀ったような名前が付けられていることからも、海の民に深く関係した神々であると推測されるが、これに神功皇后が加えられ、その諱が息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと)であることには深い意味があると考えて良いだろう。第一本宮〜第三本宮までは千木が縦に切られているが、神功皇后を祀る第四本宮だけは千木が横に切られており、ここからも神功皇后を特別に祀る、あるいは異なる経緯で祀られたことがうかがえるようになっている。

また第一本宮〜第三本宮では祭神が三層構造になっていることも海洋民の特徴であると言えるのではないか。同じく海洋の神を祀る大社が福岡県の宗像大社である。宗像大社は日本各地に七千余ある神社(宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社)の総本社であるが、ここでも住吉大社と同じような構造で祭神が祀られている。


宗像大社

 ・ 沖津宮 : 田心姫神(タゴリヒメ)
 ・ 中津宮 : 湍津姫神(タギツヒメ)
 ・ 辺津宮 : 市杵島姫神(イチキシマヒメ)

宗像大社は、沖ノ島に沖津宮、筑前大島に中津宮、宗像市田島の辺津宮というように、宗像の地から沖に行くほど神聖な領域になっている。沖・中・辺とあり、住吉大社が水深に関係しているのと同じく、宗像大社では海里が関係した海洋神であることが見て取れる。神功皇后も三韓征伐の際ここに航海の安全を祈っており、ここからも神功皇后と海洋神の関係の深さがうかがえる。

妻鹿は神功皇后が立ち寄ったとされる土地であり、漁師(久津里)が深く関係し、信仰を集めた場所である。それゆえに八幡神や住吉神との関係も深く、こうした神々が地元の漁師によって信仰されてきたという歴史があるのだろう。『鯛百珍料理秘密箱』でも山焼鯛の説明のなかで「この料理は妻鹿の名物である。この浜には漁師が多く、魚が沢山獲れるところである」と述べて、漁業が盛んな土地であったことと、布賀明神という神に言及する事でそれが信仰とも関係するものであった事を示唆している。


神事の料理

山焼鯛は、普通に妻鹿の地で食べられていた料理であるが、同時に神事で奉納されていた料理でもある。しかし神事に用いられる場合は一旦煮た鯛を焼くという手間が加えられていた。それが神に捧げられていたと説明はされているが、その神社の場所については布賀明神とあるだけである。しかも妻鹿には布賀明神という神を祀る神社すら無いのである。 しかし山焼鯛は、その名前から明らかに山の神社に奉納された鯛料理である事であることには間違いない。ゆえに山焼鯛という名前が付けられることになったと考えるのは自然なことだろう。神事で用いられるこの料理の特徴を記しておくと以下のようになる。

 ・ ハマグリの汁で鯛を煮る。
 ・ 煮た鯛を焼く。
 ・ 頭と尾で真っ二つに切って盛る。

これらの山焼鯛の調理方法は、すべて神事と関係する重要な要素であったと考えられる。しかしなぜこのような仕方で料理するのかの意味についてどの文献も全く言及されておらず、その理由については調査を分析・推測したその意味を記しておきたい。


祝祭の料理

山焼鯛を考えるにおいて、フランスの文化人類学者,クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)に照らし合せて考慮することにしたい。 『食卓作法の起源』でレヴィ=ストロースは「料理の三角形」として以下のようなモデルを提示している。


上記の図のようにレヴィ=ストロースは「生もの」「火にかけたもの」「腐ったもの 」を三つの頂点とする料理の三角形モデルを呈示し、このモデルについて次のように説明を加えている。

① 焼くこと
焼くことは、肉を、文化的な道具も、空気も、水も媒介とせずに、変換させるもの「火」に直接かける過程である。この過程は部分的なものに過ぎない。焼肉は部分的に調理されたものに過ぎない。

② 煮ること
煮ることは、生の食物を、自然の腐敗に類似した、変質した状態に変える過程であるが、煮ることは水と、文化の物体である容器という媒介を必要とする。

③ 燻製
燻製は緩慢ではあるが完全な調理の過程であり、しかも文化的な道具の媒介をともなわずに、空気の媒介によって行われる。

レヴィ=ストロースは、料理とは、三頂点が《生もの》《火にかけたもの》《腐ったもの》のカテゴリーにそれぞれ対応するような三角形をなす意味の場の中に位置を占める一つの体系を前提とするとしている。また《火にかけたもの》は《生もの》の文化的変形であり、これに対して《腐ったもの》は《生もの》の自然の変形であるとして、文化と自然の二項対立があることを示している。

さらにレヴィ=ストロースは、この図式に関して、論文『料理の三角形』(1969)の中で、「料理体系の中では、グリル焼は、ただ焼くことから区別され、蒸気で蒸すことは、煮ることから区別され、さらにフライにすること(これは水の代わりに油を用いるという点で煮ることの一形式である)というカテゴリーが加えられている」として、料理の方法には、さらに複雑なモデルがあることを示している。

このようにレヴィ=ストロースは他の分野で用いてきた、二項対立の構造を、料理の分野にも持ち込んで説明しようと試みている。料理に関してレヴィ=ストロースが提唱するその二項とは「文化と自然」である。確かに我々は、モノを食べることにより、文字通り日常的に、われわれ自身(文化)と、食物(自然)との同一化を成し遂げるための行為を続けていると言えるだろう。つまり料理するという事は「自然」を「文化」に変形させるための普遍的な手段と言える訳である。
このような見方をすると、料理や物を食べるということは、無意味な行為ではなく、食べるという事以上の深い何らかの意味を有していることに気付かされるのではないかと思う。つまり儀礼や祝祭のような、特別な日(ハレの日)には、食べるものが昔から決められていたり、ある食べ物は男性のみ、またある食べ物は女性のみに適しているとされていたりするのは、調理して食べるという行為そのものが、文化的なバックグランドに関係した、何らかの意味を有するということの現れなのである。

Claude Lévi-Strauss


こうした料理の意味についてレヴィ=ストロースは、煮たものではなく、焼いたものが、高い社会的地位に結びついていることは、普遍的な文化的特徴であり、このために、煮た食物は、比較的民主的な型の社会においてのみ高く評価されると説明している。またさらにレヴィ=ストロースは、焼いたものと、煮たものの違いを次のように述べている。

【 料理の三角形 】
煮ることは、肉とその汁とをまるまる保存する手段を与えるが、これに対して焼くことは破壊と損失を伴っている。このように、一方は節約を意味し、他方は浪費を意味する。後者は貴族的だが、後者は庶民的である。


例えば祝祭や儀礼的な場においては肉のロースト(丸焼き等)が供されるが、火によるこうした調理法は素材を著しく損壊する調理方法である。そしてこうしたロス(失われる物:Loss)の多い料理法こそが、特別なもてなしに通じているという普遍的な概念は、あらゆる地域において共通して見られる。故に、どのような地域であっても、火を伴うこうした料理法(ロースト:Roast)は、メインに位置付けられるような料理方法であると説明されている。
それに対して、煮るという料理方法は、その肉のもっている汁も含めて余さず鍋の中で失われるものが無く、取りこぼしの無いような調理方法である。それは権威を誇示するためのものではなく、むしろ皆と共有することを促進したり、コミュニケーションを通して協調することを目的としたものである。例えば日本には「鍋料理」があるが、これは皆で鍋を囲み、直箸で料理を取り、皆で和気あいあいと、互いが仲良くなるために食べる料理であると認識されている。故に、先に述べたローストのような料理と比べると、煮物料理は平等を期するための日常的で庶民的な料理とみなされているのである。

こうしたレヴィ=ストロースの説を裏付ける実例を挙げておきたい。イギリス人はクリスマスには七面鳥のローストを食べ、日曜日の昼には一番重い食事としてローストビーフを食べるのだが、これは食べ物と、特定の日が一括りにされていて、その食事に何らかの意味があることを象徴している。
かつて私が住んでいたウエストヨークシャー地方で、地元のローカル(労働者階級)な人たちは、昼食をディナー、夕食をティーと呼んでいた。これは昼食が一番重い食事であったことの名残である。そしてサンディ・ディナー“Sunday Dinner、Sunday Roast”、つまり日曜日の昼食こそが一番重要な食事になるのである。そしてこの日に、ローストビーフなどの肉を食べるという習慣になっている。

それとは対照的に、シチューやスープ、ボルシチや魚の煮付けのような煮込み料理は、あくまでも家庭的な料理であって、公式な場にあっては通常はメインデッシュとはなり得ない位置付けになっている。それはこうした調理方法であれば食材から失われるものが少なく、栄養も食材そのものの量も丸ごと鍋の中に保持されるからである。つまりロスの少ない経済的な料理であると言えるのである。


妻鹿の気質から山焼鯛を分析

山焼鯛は、煮てから、さらにそれを焼く料理である。しかも煮るときにはハマグリの煮汁で煮るという方法が取られる。つまり二重にロスする方法が取られているのである。それは最初に煮汁のためにハマグリを消費するという方法、そしてもうひとつは煮た鯛を焼くという方法においてである。そして駄目押しするかのように鯛を真っ二つに分断する。

日本人にとって鯛は特別な祝祭を意味する魚である。その理由について「鯛」の項で詳細を記してあるので興味のあるかたは参考にして頂きたい。
鯛は膳の主役を飾る料理であり、基本的に本膳に尾頭付で盛られる。料理方法としては刺身にされる場合は半身だけを下ろして刺身にして、頭の付いた身の方に刺身を盛る。これは大名盛りと呼ばれる贅沢な鯛の刺身料理である。あるいは塩焼きにして出されるが、こちらも頭と尾が必ず付いて出され、ヒレを綺麗に立てて焼き上げることが求められる。つまり鯛料理においては華やかさを演出するために、鯛の原型を可能な限り残して膳に載せられることが期待されているのである。

これに対して山焼鯛は、それを否定し損壊するかのようにぶつ切りにして盛られる。これは何を意味するのだろうか。
これをアメリカインディアンの儀礼のポトラッチ(英語:potlatch)に照らして考えてみたい。ポトラッチとは、公的な地位を誇示するために自分の富を分配する行為である。19世になるとポトラッチにおける等価交換の度が行き過ぎるようになり、片方が貴重な品を破壊するともう片方もそれと同じ価値の品を破壊するというふうに、分配された品物が受け取られた直後に破壊され、貴重な品の損壊を通して自分の富と力を誇示する競争が行われるようになった。これは消費のための消費、いや消耗のための消耗とも言え、消費、消耗、損壊こそが儀礼的な富と権力の誇示に繋がっていたと言えるだろう。

わたしはポトラッチと同じで無いにしても、山焼鯛にも何かこのような要素があったのではないかと考えるのである。ハマグリの煮汁で煮て、それを焼き、さらに鯛を真っ二つにするという損壊方法は、この妻鹿という土地ならではの料理だったと言えるのかもしれない。瀬戸内海に面したこの地では、昔から良質の鯛が多く水揚げされたと考えられ、祭りの際にはこうした鯛が大量に消費されたことだろう。神に捧げる供物としての鯛も、さらなる自然の恵みと豊漁を祈念して、莫大な消費という方法を通して表現されたと考えることができる。

山焼鯛のような調理方法は、そうした消費と損壊を通して、各地区や村々が競って捧げる供物の結果、妻鹿で生じた料理方法なのではないかとわたしは推測するのである。その理由として考えられるのが、この地域が豊かな漁場であり、魚が豊富に得られたであろうことが挙げられる。この地域の漁民もこうした豊かな海産物による経済的な恩恵を昔から得ていたと考えられ、消費的な地域の性格は培われていたのではないかと考えられる。

現在、妻鹿を含む灘の地域では、先に述べた「けんか祭り」が盛んに行われている。この祭りでは屋台を練り合わせたり、神輿をぶつけ合ったり、投げ落としたりするので壊れて金具などが飛び散ることもあるという。またこうした神輿の下敷きになり、これまで幾人かの死亡者が出ていることも報告されている。また祭りの際に御旅山の山麓にあるコロシアムのような場所で、神輿のごいな落としが行われるが、この漢客席のために各地域の氏子たちは数十万を払って場所を確保するようである。この「けんか祭り」は妻鹿の人々にとって非常に重要な行事であり、祭りが終わったときから、翌年の祭りの準備が始まるとまで言われている程、祭りに占める比重は大きいのである。

漁師町の性格から、この祭りは荒っぽいものになっていったのではないかと思われるが、それだけでなく非常に消費的・破壊的(建設的な意味で)な性格を持っており、これらは妻鹿を含むこの地域の人々の気質を反映したものであるのかもしれない。よって山焼鯛も、こうした妻鹿の気質を反映した料理だったのかもしれず、ハマグリの煮汁を使うことや煮た鯛を焼くこと、さらにその鯛が切断されたのはその現れだったのではないだろうか。


調理方法

魯山人は「貝という物は、総じて良いだし汁が出るが、反面、魚自体のだし汁を殺してしまう場合があり注意を要す」と述べている。山焼鯛はハマグリの煮汁で鯛を煮るが、鯛の真味を活かしつつ、ハマグリの出汁と合わせることでシナジーを成すような頃合いを見謀る必要があるだろう。

ハマグリは煮込みすぎると身が縮んでしまうので、最初にある程度ハマグリを煮て、熱が入って直ぐの身が膨らんでいる頃合いで鍋からハマグリを取り除き、その汁で鯛を煮るのが良いだろう。そして最後の盛りつけの直前に再び鍋にハマグリを加えて熱を入れて皿に盛りつけて出す。

こうすることでハマグリの旨味で、鯛の真味を損なうことなく、またハマグリ自体も、煮込んで出がらしになり身が縮んでしまった状態のものではなく、身のふっくらとした状態でハマグリそのものも美味しく食べることができる。


現代のレシピ

鯛の鱗を取り、エラから腹の臓物を取り出して水でよく洗う。
鯛の真ん中を二つに切って、しばらく塩にまぶしておく。
 ↓
ハマグリは塩水に1時間ほど浸けて砂抜きしておく
ハマグリの殻をこすりあわせるように洗う
鍋に水を張り、昆布とハマグリを入れて煮る。
煮汁が煮立つ前に昆布を除く。
煮立ち少ししてからハマグリを取り除く。
(ハマグリはあまり煮込まないようにする)
 ↓
鯛の身を洗い塩を除く。
ハマグリの煮汁に鯛を入れる。
味醂、酒、醤油を加える。
おとしぶたをして中火で5~10分煮る。
 ↓
鯛が煮えた頃合いを見計らって、除いておいたハマグリを加える
ひと煮立ちさせてから皿に鯛とハマグリを盛りつける。
 ↓
生醤油に生姜の絞り汁をかけて提供する。






参考資料



『料理百珍集』  原田信雄

『山焼鯛の模型公園風を楽しむ』  模型公園

『第1182回 魯山人風 布賀大明神タイを楽しむ。模型公園風』  模型公園

『第832回 魯山人風 山焼タイの勉強をする。模型公園風。』  模型公園

『播磨名所巡覧図会 5巻』  村上石田 著[他]

『妻鹿郷土史シリーズNo3』  郷土史研究グループ : 久津理会

『文化財見学シリーズ』妻鹿地区をたずねて  姫路市教育委員会文化部文化課

『文化財見学シリーズ』白浜町をたずねて  姫路市教育委員会文化部文化課

『姫路市立公民館だより』令和2年12月号 御幸岩神社  妻鹿公民館

『姫路市立公民館だより』令和2年6月号 妻鹿の古墳  妻鹿公民館

『姫路市立公民館だより』令和2年9月号 妻鹿の漁業  妻鹿公民館

『日本の奇祭』  合田一道

『前賢故実. 巻第9』妻鹿(長宗)孫三郎  菊池容斎

『日本伝説叢書』播磨の巻  藤沢衛彦

『松原八幡神社』  兵庫県神社庁

『御旅山八幡神社』  兵庫県神社庁

『御幸岩神社』  兵庫県神社庁

『YAMAP』妻鹿駅~甲山~御旅山~妻鹿駅  しみけん

『旧宇佐崎村』旧宇佐崎村の由来  旧宇佐崎村有志

『播磨国内鎮守大小明神社記』  射楯兵主神社史編纂委員会編

『日本の奇祭』  合田一道

『榊原本八幡の本地(上)』  黒田 彰 他

『榊原本八幡の本地(下)』  黒田 彰 他