江戸おまんすし

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『鯛百珍料理秘密箱』レシピ一覧 


江戸おまんすしのレシピ


江戸おまんすしは、江戸時代の1785年に出版された『鯛百珍料理秘密箱』に掲載されている85番目のレシピである。『鯛百珍料理秘密箱』原文には以下のような説明がある。

【 鯛百珍料理秘密箱 】江戸おまんすしのつけよう
江戸にては、塩小鯛の骨をさりて、きらずを入れ、すしにする也、また若狭小鯛にても、又はなまの小鯛に、塩をきかして漬るもよし、但しきらずのかげん大事なり、右、きらずに、醤油に酒のかげんして、ずいぶんからりと煎、よくさましをきて、鯛のせぼね、血合のほね、うすみをとりて、きらず二漬候て、おし石は見合にかけ申候なり。


鯛百珍料理秘密箱

江戸おまんすし:新日本古典籍総合DB


【 江戸おまんすしの仕方 訳文 】
江戸においては塩小鯛の骨を取り去って、おからを入れて鮓にする。若州小鯛でも、または生の小鯛でも、塩を効かせて漬けて置いたものを使っても良い。ただし、この場合はおからの加減が大事である。おからに醤油と酒を加減をして味付けし、からりと乾燥するまで煎ってからよく冷ます。鯛は背骨、血合いの骨、薄身を取って、おからに漬け込む。上にのせる重石は見合った大きさのものを選ぶ。



レシピ解説

おまん鮓とは、『鯛百珍料理秘密箱』にも説明されているように、おからを使った鮓のことを言う。寿司の超名著とされる『すしの本』を記した篠田統(1899年 - 1978年)も、この本の第1篇10に「卯の花ずし」という項を設けて、おからを使った鮓を説明している。その本の中で以下のような卯の花(おから)ずしを篠田統は挙げている。

 ・ からずし(山口県)
 ・ おまんずし(岩見)
 ・ コノシロずし(出雲)
 ・ 吹雪ずし(富山)
 ・ とうのすし(伊勢)
 ・ まるずし(伊予)
 ・ おかべずし(長崎)

これらは全ておからを使った鮓である。ここで篠田統は「おまん」なんて語源の検討もつかないと書いている。そうは言っても篠田先生、『すしの本』のなかの他の箇所でしっかりと「おまんずし」の起源について考察を述べている。
わたしも「おまんずし」についての文献を調査すると様々なことが分かったので、この寿司について、歴史的な観点から起源に関する説明を記しておきたい。


おまんずしの由来

おまんずしという名前の由来について最も古い文献は、1767年(明和4年)自序が成立した『江戸塵拾』である。その3巻に「おまんずし」の項があり、以下のように説明されている。

【 江戸塵拾 】
京橋中橋の間にて是をうる名物なり江府の兒子夕日の雲に映じ紅なるを見て京ばし中ばしおまんがべにとうたふこのたわむれをとりておまん鮓と名付ける宝暦の初めすし屋長兵衛是をはじめたり

【 訳文 】
京橋中橋で「おまん鮓」という名物が売られている。江戸の子供が夕日の雲が紅色に染まる様を見て、「京橋中橋おまんが紅」と唄う。このたわむれから「おまん鮓」と名付けられた。これは宝暦の初めに長兵衛が始めたすし屋である。


おまんずしという名前の由来について、宝暦年間(1751~1764年)の初めに「おまん鮓」というすし屋が、長兵衛という人物が京橋中橋に開業したと述べている。ここから考えて、おまん鮓は1750年代ぐらいに始められたすし屋だったと考えられる。
さらにその名前が、子供たちの「京橋中橋おまんが紅」という唄から付けられたと説明されている。

他にも同様の説明が1803年(享和3年)に朋誠堂喜三二が記した『後は昔の物語』に以下のようにある。

【 後は昔の物語 】
おまん鮓は宝暦の頃よりと覚ゆ京橋中橋おまんが紅といふより居所の地によりておまんずしと云たるなるべし此ころまでも当座鮓を売事は稀也 鮓売りといふは丸き桶の薄きに古き傘の紙をふたにしていくつも重ねて鯵の鮓 鯛の鮓とて売ありきしは数日漬込んだる古鮓也。(蒟庭)菊賀三味 夕ばへに おまんをほめて とをり町 つめておし合ふ みせのすし売

【 訳文 】
おまん鮓は宝暦年間の頃から、「京橋中橋おまんが紅」として知られた場所で鮓を売っていたので「おまんずし」というようになった。この頃は当座鮓を売っているのはまだ稀で、鮓売りは丸い桶に、古い傘紙でフタをして幾つも重ねて「サバの鮓、鯛の鮓」と云って売っていたのは数日間漬け込んだ古鮨であった。

菊賀三昧きくがざんまい(蒟庭)の狂歌に次のようなものがある。
  夕はてに おまんをほめて 通り町
     つめておし合ふ 見勢のすし売


『後は昔の物語』では、おまん鮓の由来が、「おまんが紅」として知られた京橋中橋(現在の八重洲)に店があったので「おまんずし」というようになったとある。

この「おまんが紅」が何かに関しては様々な見方がある。先ほどのように夕焼雲の童唄とする見方もあるが、他にも京橋中橋(現在の八重洲)は、享保年間(1716年‐1736年)の頃から、京橋中橋の於満稲荷神社で売られていた紅粉(口紅)が有名だった。於満稲荷神社は、現在は日本橋3丁目のビルの間にひっそりとある小さな神社だが、徳川家康の奧御前の養珠院(於満様)に由来する歴史ある神社である。ちなみにこの於満稲荷神社のある通りは現在、養珠院通りという名前になっている。

於満稲荷神社の入り口には「神社の縁起の説明書き」があり由来が説明されている。それによると「此の地に幕府のご休憩所があり、信心深い養珠院(於満様)一行が神仏寄進のために日本橋界隈に物資調達にお立ち寄り、商業に多大な貢献をした養珠院様ゆかりの地として商人たちによって神社が建てられた」とある。

養珠院が消費(買物:物資調達)を行ったことから、京橋中橋の界隈は江戸の商業地となったのである。こうした商業地で売りはじめられた紅粉も大変有名になったようである。
浮世絵師の奥村利信が、歌舞伎役者の佐野川市松が「べにうりおまん」に扮した絵を描いているが、それほど紅粉(口紅)はおまんが紅と結び付けて知られていたのだろう。

おまんが紅

『佐野川市松のべにうりおまん』
奥村利信 作:東京国立博物館


奥村利信の作画は1730年前後の十数年に集中しており、1743年(寛保3年)には35歳で没しているので、ここから「べにうりおまん」の絵が描かれたのもその頃であると考えられる。つまり「おまん鮓」が創業する少し前から既に口紅も知られたエリアだったということになるだろう。京橋中橋には、於満稲荷神社があり、おまんが紅と呼ばれた口紅が有名であった。また夕焼雲をうたった童唄もおまんが紅として知られていたことから、長兵衛という人物はこの鮓を「おまん鮓」と名付け創業したと思われる。


『江戸名物詩』

「おまんずし」の由来には別の説もある。1836年(天保7年)に方外道人が記した『江戸名物詩』初編には以下のように書かれている。

【 江戸名物詩 】
紀伊國屋 於満鮓  上槙町新道
何歳初開鮓屋店連綿数代市中鳴海苔玉子塩梅妙知是女房於満情

【 訳文 】
紀伊國屋 おまんずし  場所:上槙町新道
何年だったかは不確かであるが、初めて開かれた鮓屋の店である。連綿と数代続き市中で有名である。海苔、玉子が良い塩梅である。女房だった於満おまんで知られた店である。


『江戸名物詩』には、先に紹介した『後は昔の物語』には無い情報が記されている。まずここでは屋号が紀伊国屋であること、そして通称あるいは提供されている鮓が「於満鮓:おまんずし」であるということを記している。

さらに場所について言うと、『後は昔の物語』では京橋中橋とあり、こちらの『江戸名物詩』では上槙町新道とあるので場所が違ってように思われるかもしれない。しかし実はこのどちらの地名も於満神社付近(中橋:現在の八重洲)の地域を指しているので、両方の本に書かれているのは同じ鮓屋であることが分かる。

由来については、『江戸名物詩』の方は、お満(あるいは、お万)という女房が有名であったことから「おまん鮓」が有名であったという新たな情報が記されている。このお満、かなりの美人だったようで、当時人気絶頂の歌舞伎女形役者の瀬川菊之丞(二代目)に似ていることも評判の理由だったとされている。

おまんが紅

瀬川菊之丞 (2代目)


二代目の瀬川菊之丞(1741年 - 1773年)は、16歳で二代目・瀬川菊之丞を襲名した。26歳の時に渋い色の茶染めの衣装を着て演じたところ、これが大評判になり、菊之丞の俳名・路考(ろこう)から取ってこの色は「路考茶」と呼ばれ、女性の着物の色で大流行することになった。他にも帯の結び方の「路考結び」、髪型では「路考髷」、簪(かんざし)は「路考櫛」と呼ばれている。このような菊之丞のフッションを江戸の女性たちはこぞって真似をしたという。よって瀬川菊之丞は、押しも押されぬ江戸のファッションリーダー的な存在だったということになるだろう。

瀬川菊之丞は男色家だった平賀源内とも恋仲にあったことでも有名で、その美貌から川柳に「金玉の あるのが路考 不足なり」と詠まれた程である。しかし美人薄命とは言ったもので、1773年(安永2年)に33歳の若さで亡くなってしまった。この時代の瀬川菊之丞の人気にもあやかってか、おまんずしは女房の美貌が評判になり、江戸でも評判の人気店になっていったというのである。

しかしおまんが瀬川菊之丞に似て美人だったとする文献記載を探したが、これがどこにも見つからない。『江戸名物詩』は1836年(天保7年)に出版された本で、瀬川菊之丞の亡くなってから63年も後になってから出された本である。そうなると女房のおまんが瀬川菊之丞似の美人で「おまん鮓」となったという説は非常にあやふやなものに思えてくる。


『恋紅染』

「おまん鮓」を調べていると1762年 (宝暦12年)に和祥が書いた『恋紅染』という書籍が見つかった。実はこの本の装丁には『おまんが紅』とあるが、これは間違いで、中に書かれている序文を見ると『京橋 中橋 恋の紅染』というのが正しいタイトルであることが分かる。以下にこの本の内容をまとめておく。

中橋の水茶屋亀屋のおまんは、石町の紅屋幸介と惚れた仲であった。そのおまんを悪者の地車が口説こうとするが中橋のおまんは拒む。
京橋の名代の香具店「おまん油」のおまんも、紅屋幸介と浅からぬ仲であったが、紅屋幸介が中橋のおまんを連れて恵方参りしているところに京橋のおまんと会い、いがみ合うことになる。これに石町の釣鐘弥左衛門が間にはいり、2人のおまんに双六を打たせ、勝った中橋のおまんを紅屋幸介と夫婦とした。中橋のおまんに惚れていた地車が邪魔するために、祝言の場へ水を掛けに来るが、釣鐘に踏みのめされ逃げる。
地車は、嫉妬する京橋のおまんに鬼面を渡して、中橋のおまんを取り殺すように言う。京橋のおまんはその般若の面を付け、中橋のおまんの寝所近く忍び入るが、釣鐘が怪しんで一刀に刺し殺すと恨みの心火が燃え出る。中橋のおまんを奪いに来た地車らは恐れて逃げる。
それ以降、毎夜、京橋中橋では恐ろしい首が数多雲の内より現れ、石町の方へ飛び巡った。雲が紅で染めたように赤く恐ろしいので、これは京橋のおまんの一念として、子供たちは「京橋中橋おまんが紅」と口ずさんだのである。
しかし浅草のあん随上人が石町で空に十念を与えると、赤い雲は紫雲となり、飛び廻った首も消え失せた。そこで紅屋幸介とおまんの夫婦は紫雲に現れた地蔵菩薩像を刻ませ、谷中三崎に新あん随院を建立した。阿弥陀経1万巻の法事の時、地車らが喧嘩を仕掛けたが、釣鐘弥左衛門が開帳の立札で3人を滅ぼし、紅問屋の笹屋幸介は長く栄えた。

このような内容の草子になっており、中橋のおまんと、京橋のおまんをめぐる三角関係の恋や、ホラーと勧善懲悪の荒唐無稽なエンターテイメントストーリーとなっている。やはりこの核は「京橋中橋おまんが紅」と子供たちが口ずさんだ唄にあったのだろう。この本が出版された頃が、ちょうど「おまんずし」が開店した頃にも当たり、こうした話も影響があったものと考えられる。


『富貴地座居』

謂れは様々あるが、それでも「おまんずし」の人気の理由は、味に対する高い評価にあったことには間違いなさそうである。なぜなら1777年に出版された『富貴地座居』料理之部には、掲載されている江戸の料理屋31軒のなかでも、上上吉として「おまんずし」が同列5位にランク付けされているからである。


『江戸町中喰物重宝記』

その10年後、1787年(天明8年)に出版された『江戸町中喰物重宝記』には、おまんすしとして、本店と支店(出店)のふたつの店を御膳一流として評価している記述がある。ただここには店主が「ふしや利右衛門」(藤屋利右衛門)とあり、本店が堺町通元大坂町、そして支店が浅草並木町にある店と記されている。つまりこれは今まで説明した「おまんずし」とはまったく別の店である。
『江戸町中喰物重宝記』の同じページには、もうひとつ於満おまん御膳として「きのくにや屋藤ゑもん」(紀伊国屋藤衛門)の店が御鮓所として記されている。こちらの住所は、日本橋南通4丁目西新道(中橋、於満稲荷神社:現在の八重洲)とあるので、場所からこれが元々「おまん鮓」を始めた店の方である事が分かる。

1785年に『鯛百珍料理秘密箱』、その2年後の1787年に『江戸町中喰物重宝記』が出版されている。宝暦年間(1751~1764年)に始まったと考えられる「おまんずし」は、この両方の書が出版された頃は創業後15〜20年ぐらいだったと考えられる。この頃には「おまんずし」という名称は、特定の屋号を指したものではなく、おからで漬けた鮓という一般的な食べ物の名称として人々に認知されるようになっていたのではないだろうか。この時代になって、数店の「おまんずし」を掲げる店が存在していることは、それを裏付けるものとなっているように思われるのである。


『絵本江戸爵えどすずめ

1786年(天明6年)に出版された『絵本江戸爵』には、おまんずしに関する、次にようなふたつの狂歌が記されている。

【 絵本江戸爵 】
 夜や冷えし 人にやなれし 通り町
    ゆき合いの間も 鮓や売るらん
       白川与布祢 作

 夕はてに おまんをほめて 通り町
    つめておしあふ 見勢のすし売
       菊賀三昧 作


これらの狂歌は共に「通りちょう」の風景が詠まれている。「通り町」とは日本橋通町のことで、現在の中央区日本橋1~3丁目のエリアに当たる。日本橋から中橋までの現在の中央通りに沿って両道脇の左右の幅10間(約18m)が「通り町」であった。つまり通町は目抜き通りに面した商業地だったのである。日本橋に近い所が通町1丁目で、下がって中橋の所が通町4丁目になっていた。


最初の狂歌、「夜や冷えし...」からは、冬の夜でも大勢の人出で賑わう通り町の熱気のようなものがうかがえる。この通りは日本橋から中橋まで商店が連なる商業地である。年越しの買物だろうか、日が暮れても人々が行き交う姿が目に浮かぶようである。その人出を狙ってか、その中を人々の雑踏に交じって鮓を売る呼び声がこだましている。そこで売られている鮓は、当然、この通り町で有名な「おまんずし」だったはずである。


それを受けるかのように、ふたつめの狂歌、「夕はてに...」の方では、それが「おまんずし」であることを明示している。この歌でも日が暮れてもまだ大勢の人で賑わう通り町の様子が描かれている。「おまんをほめて」とあるので、おまんずしを覗くか、鮓を買ってのことだろう。また「見勢のすし売」とあるのも、おまんの美貌に引かれて客が集まり、鮓がどんどん売れていく様子が目に浮かぶ。


川柳に詠まれるおまんずし

『川柳の史的研究』には、1757年に詠まれたとされる以下のような川柳が収められている。

 餅屋かと聞けばおまへは鮓屋也


「餅屋だと思っていたら、すし屋だった」という内容である。現代ではこの面白さは分からなくなっているが、先ほどから「おまん鮓」について読んで頂いている読者の方であれば、この意味がはっきり分かるだろう。おまんという名前から餅屋(まんじゅう屋)と勘違いしていたということである。転写間違いからか、「餅屋と聞けばおまんは鮓屋也」というように書かれている場合もあり、こちらは、もっとはっきりと「おまん鮓」について言っている。

他にもこれに関係して見ておくと面白い、次のような川柳もある。

 鳥飼も鮓もおまんはわるくなし


これも現代人の我々には少し意味がわかりにくい川柳である。1777年(安永6年)に出版された『土地万両』の餅菓子之部には「本町の鳥飼和泉の九重まんぢう」とある。つまりここで言う鳥飼とは饅頭屋のことである。
また『新版御府内流行名物案内双六』にも「本町 鳥飼」とある。この双六は18850年頃に作られたものなので、この時点で少なくとも創業から70年以上も鳥飼は続けられていたことになり、江戸でも良く知られた有名な饅頭屋だったことが分かる。

さてこの川柳の意味は、鳥飼のまんじゅうも、おまん鮓の鮓もどちらも美味いということで、まんじゅうと鮓はまったく異なる食べ物なのに「おまん」の言葉で洒落ているのである。つまりこの川柳の面白みは中橋にあった「おまん鮓」、本町にあった「鳥飼」を知らなければ全く理解できないことになる。

鳥飼和泉があった本町は現在の日本橋2,3丁目、室町2,3丁目のエリアである。「おまん鮓」は中橋(現在の八重洲のエリア)にあったので日本橋を境に川を挟んで北と南にそれぞれ位置していた有名店同士ということになる。このように当時詠まれた川柳からも、おまん鮓の存在と、評判の高さが非常に良く分かるようになっている。


『絵本東わらは』

1750年頃に創業した、紀伊國屋「おまんずし」はその後も名店であり続けたようで、1804年に出版された『絵本東わらは』には、いくつもの江戸の有名店のなかに名前を連ねている。

【 絵本東わらは 】
サァおごらばござれ、深川八幡二軒茶や、向島にあらひ鯉、王子のゑびや、下屋の浜田屋、古川の森月庵、魚藍のゑびすや、江戸橋のますや、中橋綿や、京橋柴屋、新橋の佐倉屋、大和田うなぎ、鈴木の蒲焼、真崎の田楽、洲崎のざるそば、鈴木町のあんかけうどん、両国の油揚酒屋、親仁橋の芋酒屋、水道橋の鯰のかばやき、中橋のおまん鮓、吉原の蛇の目鮓


このように「中橋のおまん鮓」が挙げられている。しかし「おまんずし」が好まれたのはこの時代から少し後までだった。なぜなら1824年(文政7年)に両国尾上町(東両国)回向院前に小泉与兵衛が華屋の屋号で創業した寿司屋がイノベーションを起こすことになるからである。いわゆる江戸前握り寿司の誕生である。その後の江戸の寿司は一気に現在のような握り寿司のスタイルに一変してゆく。よって「おまんずし」とは、現在の握りずしの型が完成するまでの間までの人気の鮓だったということになるだろう。握り寿司の誕生後、卯の花(おから)の鮓は廃れてしまい、江戸からは姿を消してしまったのである。


現代に残るおまんずし

江戸の「おまんずし」は廃れてしまったが、おからを使った鮓は、岩見に伝えられ伝統料理として現在でも残っている。なぜ岩見なのかというと、石見銀山の関係で江戸に出てきていた者が、当時の江戸で大流行していた「おまん鮓」のスタイルを岩見に持ち帰り、それが岩見で広まったからだと言われている。

作家の檀一雄の著作『檀流クッキング』の中で「コハダずし」の項がある。これが「おまんずし」と同じく、おからで作られる寿司である。檀一雄のレシピは、コハダを使う握り寿司となっているが、おからを炒めて酢飯の代わりに使うあたりは『鯛百珍料理秘密箱』のレシピと同じである。これは岩見の「おまんずし」か、あるいは『鯛百珍料理秘密箱』のレシピを参考にしたものではないか。

また子母澤寛の著作『味覚極楽』の「長崎のしっぽく ‐ 南蛮趣味研究家 永見徳太郎氏の話」の項で、長崎料理に、骨を抜いて開いたイワシでおからをくるんだ鮨「おかべ」が紹介されている。豆腐は白いので、別名でおかべという訳である。実際に使われているのはおからだが、これも「おまんずし」の異なるバージョンのひとつであると言えるだろう。

これら岩見の鮨も、長崎のおかべ鮨も、篠田統は『すしの本』の中で取り上げて紹介している。また江戸の「おまんずし」についても寿司の歴史を説明する中で、おまんが紅が童唄であったことから付けられたのではないかと言及しており、やはり寿司に関する必読書として流石であると感心させられる。現代では「おまんずし」は聞きなれない寿司ではあるが、実際に江戸の文献やその後の様々な書籍を当たると、幾つもの「おまんずし」に関する記述や評判が書き残されているのを見ることができる。このことはかつて「おまんずし」がいかに人気を博していたのかを証するものだろう。


調理方法

ここからは「おまんずし」の調理方法を考えてみることにしたい。先にも述べたように、いわゆる握り寿司というものが誕生したのは、1824年(文政7年)に小泉与兵衛が華屋を創業してからである。それまでの寿司(鮓)は、発酵させて長期間漬け込んで作られる成れずしか、あるいは関西から伝えられた押し寿司、箱寿司のようなスタイルしかなかった。

興味深いことに先に引用した、1786年(天明6年)に出版された『絵本江戸爵』には、おまんずしがどのようなものだったかを示す挿絵が描かれている。


この挿絵には、屋台に並べられた鮓と、その後ろに鮓を作りための木型を持った人物が描かれている。ここから「おまん鮓」はおからを木型に入れて、その上に魚を乗せて蓋をして押して固めた、いわゆる上方風の押し寿司のスタイルだったことが分かる。

先に引用した『後は昔の物語』では、この時代はおまんずしのように当座鮓を売っているのはまだ稀であったと述べている。当座鮓というのは馴れ鮓のように発酵させて時間をかけて作る鮓ではなく、すぐに食べられる鮓のことである。ただ、おまんずしについては「鮓売りは丸い桶に、古い傘紙でフタをして幾つも重ねて「売っていたのは数日間漬け込んだ古鮨であった」と説明されている。つまり当座鮓といっても数日間は圧して発酵させてから食べられたものであることがここから分かる。


容器の違い

容器の説明が丸と四角で異なっている。これは初期段階では丸容器だったものが、やがては四角に変化したと考えるべきだろう。容器は丸桶の方が、明らかに長期発酵させてつくる馴れずしのイメージである。現代でも馴れずしは丸い桶に漬けて発酵させられている。

これに対して四角い容器は、長期発酵させる鮓である生成から離れたスタイルの鮓で用いられている。四角い容器になってから変化したことは推蓋がついたことである。これは鮓を作る過程で、上から押して圧をかけることはできるが、生成鮓のように長期間の圧力をかける必要がなくなったことが理由である。
丸桶 → 四角箱に代わったのは、単に形を変えただけでなく、鮓がつくられてから食べられるようになる時間がかなり短縮されるようになったことを意味している。推蓋で重さをかけてから、鮓は2,3日で食べられるようになったのである。

その後、鮓に酢が使われるようになり、発酵によるすっぱい味が、酢飯で表現されるようになると、箱寿司の場合だと数時間で食べられるようになった。こうした酢でつくった酢飯を使う鮓を早鮨というが、こうした鮨が一般化するのは、『鯛百珍料理秘密箱』が書かれてから半世紀を待たなければならなかった。

「おまんずし」もはじめの頃は丸桶だったのが、時代が下がると関西の押し鮓・箱鮓が江戸に伝えられ、やがては四角箱に入れられて売られるようになったと考えられるのである。


若州小鯛

『鯛百珍料理秘密箱』には、若州小鯛を使っても良いとある。若州小鯛とは若狭で取れるやや黄色をおびた薄紅色の小鯛であり、現在では小鯛のささ漬けにするなどしても食べられている。小鯛ささ漬とは、小鯛を三枚におろして薄塩にし、酢に漬けた後、樽詰め等にしたものである。これは『鯛百珍料理秘密箱』の65番目の料理の「若州名物小鯛漬」

絵本江戸爵

小鯛のささ漬け


このような事前に塩などで味付けされた鯛も用いても良いとしているが、その場合には「おからの加減が大事である」としている。これは、おからにも醤油と酒で味付けするので、鯛も身にある塩味と、おからの塩味のバランスを取る必要があるためだろう。

またおまんずしは、握り寿司のように酢を使う早馴れのスタイルではない。実際にレシピを見ても酢は一切使われておらず、おからと小鯛を漬け込んでから日にちを置いて発酵させることで馴れさせる必要があったと考えられる。少なくとも数日間は漬けて重石をしておき、生成にしてから店で提供さえていたものと考えられる。


現代のレシピ

江戸おまんずしを現代ではどのように調理するのか、そのレシピを記しておくことにしたい。本来であれば生成にするために数日間は置いておくが、酢を用いて早馴れにすることで、数時間で食べられるようにした。

子鯛を三枚におろし塩をしてから酢で〆て置く。
 ↓
おからに少量の塩と醤油を加えて軽く炒める。
炒めたおからに酢を混ぜて、常温になるまで置いておく。
 ↓
木型におからを詰めて、その上に〆た鯛をのせる。
 ↓
フタをして上から押す。重石をのせる。
重石をおいて1~2時間ほど寝かせて置く。
馴染んだ頃に木箱から取り出す
 ↓
切って提供する。






参考資料



『鯛百珍料理秘密箱』 器土堂主人

『江戸塵拾』 跋:柳亭種彦

『後は昔の物語』 朋誠堂喜三二

『江戸名物詩』 方外道人

『絵本江戸爵』 日本風俗図絵刊行会

『恋紅染』 和祥

『富貴地座居』 国書刊行会 編

『江戸町中喰物重宝記』 神宮司庁

『絵本東わらは』 

『檀流クッキング』  檀一雄

『鮓・鮨・すし』 吉野曻雄

『川柳史伝』 木枯庵檉風