天正10年5月19日
安土饗応における能の不手際への考察①

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 天正10年5月19日
 安土饗応における能の不手際への考察


本論の趣旨


 天正10年(1582 年)5月の徳川家康の上洛にともない、安土において織田信長が家康をもてなした饗応では数々の不手際が起こったことが記録されている。
 この饗応は「本能寺の変」による信長の死のわずか 2週間前に行われたものであり、かなり意味深い出来事であると言える。しかし料理においては明智光秀が担当していた饗応役から急遽外され、丹波長秀と安土三奉行の堀秀政・長谷川秀一・菅屋長頼に交替となった。宿舎においては『川角太閤記』にも記しているように、明智光秀邸から堀秀政邸、あるいは大宝坊所へと徳川家康の宿舎が代わっている。また能と舞の席では、梅若大夫の能がひどく、体をなさないほどだった為、信長が折檻・叱責したとまで記録されている。
 本論ではこの一連の不手際のなかで能を演じていた梅若大夫に焦点を当て、この梅若大夫が何者だったのか。またなぜこの梅若大夫は信長に折檻されるほど体をなさない能を演じてしまったのかを、梅若大夫の置かれていた状況的・背景から推し量り、それと合わせて饗応の手配をすることになっていた明智光秀の意図がどのようなものであったのかについて考察してみる事としたい。


能が披露された背景


 天正10年(1582年)5月19日、織田信長は一連の饗応のなかで安土御山総見寺に家康を招いて舞と能を鑑賞する席を設ける。しかしこの席での梅若大夫の猿楽がひどく、体をなさないほどの大失態とな った為、織田信長が、梅若大夫を折檻したことが以下に引用する各書には記録されている。

 この会に出席していた堺の茶人、津田宗及は『宗及他会記』で以下のように記している。

「五月十九日 於安土惣見寺 参州之家康ニ御舞・御能見物させられ候、上様被成 御成、本堂ニ而御見物、城介様各御壹門ノ御衆、何モ被成 御出、舞能御見物、堺衆十人斗參候、始ニ而幸若八郎九郎兩三人、長龍露拂、本舞たいしよくわん、こいまひふしミ、ときわ、其芙已後、即、丹波梅若太夫御能仕候、脇ノ能見もすそ、次ニめくらさたといふ能いたし候、其時、上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候、太夫罷歸候へ之由被 仰出候」


 『宇野主水日記』にも天正10年5月の出来事が以下のように綴られている。

「五□□(月十)五日 徳川、穴山安土へ爲御禮被罷上訖。十八日於安土惣見寺、幸若大夫久世舞まひ申候。其次ニ、丹波猿樂梅若大夫御能仕候。
 幸若ハ一段舞御感にて金十枚當座ニ被下之。梅若大夫御能わろく候て、御機嫌ハあしく御座候つれども、これにも金十枚被下之。」

※『宇野主水日記』では18日の出来事と述べてあるが、実際は19日の間違いである。


 さらに太田牛一の記した『信長公記』にも同様に、梅若大夫があまりに不出来であったので信長が怒って折檻したと以下のように述べられている。

「五月十九日、安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山梅雪・長安・長雲・友閑・夕庵。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。
(中略)
 梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず


また『川角太閤記』には以下のような記述がある。

 御能梅若大夫に被仰付候まひは幸若大夫と相聞申候、幸若八郎九郎まひ殊の外家康卿感被成さらは幸若今一番仕候へと楽屋に御使を被立候其舞は和田さかもりをまひ申候、右より猶出来とて金子百両帷子五十被遣候、梅若にも御音物は同様なり、乍去梅若能不出来故重而どふわすれなと仕候其頸を可被成御刎と後に宿へ御使被立候と承候事


『宗及他会記』、『宇野主水日記』、『信長公記』、『川角太閤記』いずれも共通して、梅若大夫の能によ って信長が機嫌を悪くなり、梅若大夫を折檻・叱責したと述べている。


信長に折檻された梅若大夫とは何者か?


 さて家康を招いての重要な宴で、そこまで信長を怒らせてしまった「梅若大夫」とは一体何者だったのだろうか。この「梅若大夫」とは丹波を本拠地とした梅若家の猿楽師(能楽師)の芸称である。よって梅若大夫は、梅若家の者が代々継承する呼び名であるので、これが必ずしも特定の個人を表わしているという訳ではない。
 現在でも梅若家は56世・梅若玄祥へと引き継がれている能家である。こうした現代に至るまでの梅若家の存在を踏まえ、まずは初期から戦国時代までの梅若家の歴史を紐解くことにより、この梅若大夫が一体どのような人物であったのかについての考察から始める事としたい。


歴代の梅若大夫


 天正 10年(1582年)5月の能を演じた梅若大夫が誰かを考えるに先立ち、まずは梅若家および、梅若家につながる人物たちを取上げて説明しておく。
 梅若家の系譜は『大日本人名辞書』を参照とした。


初代:橘諸兄


 梅若家の系譜は、奈良時代の橘諸兄(たちばなのもろえ)から始まっているとされているが、あくまでもそれは伝承のレベルでしかない。この頃はもちろん、後代に見られるような猿楽師としての家の性格はまだ持ち合わせていない。


10世・梅津友時(? ~ 888年)


 その後、10世の友時が梅津姓(従五位下梅津兵庫頭友時)を名乗るようになり、ここから「梅」の字が使われるようになる。(ただまだ姓は梅津である)
 友時は、山城の国梅津村(現在の京都市右京区梅津)に住んでいたが、その後に丹波の国大志麻(綾部市大志麻)に移り住むことになる。10世・梅津友時の法名は『真光院殿浄雲徳行大居士』であり、仁和4年(888年)5月3日卒となっている。

※梅若の者は、何世かが表記によって異なっていることがある。これは橘諸兄から数える場合と、10世の梅津友時から数える場合があるからである。本文では初代とされている橘諸兄からの世数に統一して記載することにする

 丹波猿楽梅若の名が最初に文献に出ているのは『看聞御記』で、応永23年(1416年)3月9日の条に「仙洞に猿楽あり梅若仕る」とある。よってこの頃からこの一族は猿楽師として知られて、既に活動をしていたと思われる。


37世・梅若景久(1465年 ~1528年)


 文明13年(1481年)正月20日、まだ16歳であった37世・梅若景久が、御土御門天皇のために禁中で『蘆刈り』を披露して紫下白幕を下賜され、「若」の一字を賜ったとされている。これにより以後「梅津」→「梅若」と改姓し、以降、正式に梅若を名乗ることになった。

 この経緯は、「後土御門天皇口宣案」という文書に以下のように述べられている。

 吾祖従五位梅津友時ヨリ二十八世之孫兵庫頭景久当時梅津ヲ氏トス。景久若年ニシテ乱舞之妙ヲ得タル事叡聞くニ達シ畏クモ御土御門天皇文明十三年正月二十日禁内ニ召サレテ芦刈之舞曲ヲ奉奏ス。歳甫シテ十六。皇上景久之若齢ニシテ能ク其技ニ通スルヲ御感賞アラセラレ右少弁藤原俊名ニ命シテ若之一字ヲ下シ賜ル。爾後梅津ヲ改メテ梅若ト称ス。又図ニ示ス所之菊之御紋付紫下白御幕ハ其時御賞辞ト共ニ下シ賜ハリシ也。


 また『何鹿郡誌』にも以下のように梅若家の歴史について言及されている。

 中筋村なれど今知れず。梅若氏は能樂の名家なり。其祖は井手左大臣橘諸兄より出づ。諸兄十世の孫友時、山城葛野郡梅津村に住し、梅津氏と改称す。後承平中(九三一~九三七)丹波國に移住し、何鹿郡大志麻の庄を領す。友時二十八世の孫を景久という。景久幼にして乱舞を好み、其の技天稟に出づ。文明十三年正月二十日(一四八一)紫宸殿の御能に召されて、芦刈を演ず。時に年十六。後土御門天皇、その技を賞し、菊の御紋附下白の幕及若の一字を賜り、梅若大夫という。これより姓を改めて梅若と称す。


 37世・梅若景久は特に猿楽の才能を有していた人物であった。よって景久の代から改姓して「梅若大夫」と名乗り、その後、梅若は猿楽師として知られた一族になっていったようである。

 梅若景久の位牌には、享禄元戊子年(1528年)七月十三日卒とあるので、64歳程で亡くなったことになる。現在の京都府船井郡世木村字殿田には関殿山宗源寺(曹源寺)があり、そこには今でも梅若景久の位牌が残され、法号は「徳称院梅永若賜景久大居士」と記されている。
 梅若景久が氏神としていた「梅若大明神」は、現在の京都府綾部市大島町の「梅の森」と呼ばれる場所にあり猿田彦命が祀られている。「梅若大明神」は、もともと京都太秦の梅若大社から分霊された社である。(梅若大社は、梅若家の先祖とされる橘諸兄の母に由来する神社である)その後、福田神社の境内に移されており、籠堂の南隣りに現在でもその社が残っている。


38世・梅若家久(? ~ 1541年)


 38世は、梅若景久の子であるとされている梅若家久という人物である。曹源寺にある位牌によると「春応院梅真静雲浄源居士、天文十三甲辰正月十三日歿」とある。

 『猿楽伝記下』には以下のような言及がある。

 梅若太夫は其家一流にて先祖信玄の大夫也 太閤の御代御先祖以来の知行故丹波に在し権現様御代になり四座の家立猿楽も相極候由承り及び江戸へ罷出被召出度よし頭ふ所四座と太夫も定まりたる上なれば百石被下観世座のツレ被仰付一族同名余多にして本家は梅若九郎右衛門也。


 ここに「梅若大夫は其の家一流にて、その先祖は信玄の大夫なり」とある。武田信玄が甲斐で家督を継いだのは天文十年(1541年)六月であるので、その時期の前後に該当する梅若家久、および次に紹介する39世・広長は、一時期、武田信玄に仕えていた可能性があるのかもしれない。


39世・梅若広長(? ~ 1583年)


 家久の子、39世・広長(初め家久と称す)は美聲で知られ、妙音大夫と呼ばれた。上林(現在の京都府南丹市美山町宮脇)に住んでいたとされている。梅若広長の位牌には「宝岸院梅応治慶妙音大居士」天正十一年(1583年)癸未六月二日歿と記されている。この死亡の原因については後ほど詳しく述べたいと思う。

 広長の父親に関しては、先に述べた「梅若家久」であるという説と、「梅若直久」であるという説があり非常に錯綜している。それだけでなく広長は家久と名乗っていたという時期があったり、広長は家久の孫で二人の間には父親となるもう一人(直久?)いたりする説もあるので、かなり混乱させられる。
「広長、家久、直久」を梅若家のなかでどのように位置づけるかは、重要なポイントであると考えている。なぜならこれこそが天正十年の信長の饗応で、体をなさない能を披露して信長に折檻された「梅若大夫」が誰だったのかという事と関係しているからである。
 能の披露は5月19日の出来事であったが、その日について言及している先に紹介した4冊、『宗及他会記』、『宇野主水日記』、『信長公記』、『川角太閤記』のいずれもが単に「梅若大夫」とだけ記しており、それが何世の誰だったのかに関して具体的な情報は一切記されていない。


天正10年5月19日に能を演じた梅若大夫は誰なのか?


 昭和 2年に出版された『天田・加佐・何鹿三郡人物誌』には以下のように記してあり、この梅若大夫が誰だったかについて述べている。

 家久天正十年五月織田信長に召されて、江州安土の総見寺にて幸若太夫と能を演ず。信長家久の技の拙きをせめて折檻す。後家久本郡上林の荘に転住し、子広長は戦死せり。後広長死せし時、其の妻は幼児を抱いて流浪せしが長して氏盛といふ。また猿楽をよくし家康に見出されて、大阪の茶臼山にて初めて楽を演ず。慶長七年家康に仕官し、同十四年九月永代禄として、丹波国船井郡上稗村全部百十七石を賜ふ。


 上記文書では「梅若大夫」が38世・家久であると述べてある。後半には、その息子の広長は戦死、孫の氏盛が家康に仕えたと述べている。

 また先に引用した『津田宗及茶湯日記』の天正 10年の饗応のくだりの部分について、松山米太郎 評註(昭和12 年出版)には以下のようにある。

 (丹後梅若太夫)丹波ハ基本国ナリ此梅若太夫名ヲ家久ト称ス


 ここでも天正10年の能は「梅若家久」が能を演じたという説を採用し、そのことが註釈で説明されている。

 では信長に折檻された梅若大夫は、38世・家久だったのだろうか。

 まず『天田・加佐・何鹿三郡人物誌』の記載によると、家久の子は広長であると記されている。よってここで述べられている梅若大夫は明らかに38世・家久のことを指しているのだが、梅若家の菩提寺である曹源寺にある位牌には「春応院梅真静雲浄源居士 天文十三甲辰正月十三日歿」とある。よって天正10年に行われた饗応の38年前に、梅若家長は既に死亡していたので、38世・家久が能を披露することはあり得ない。

 この時代に生きていたのは翌年の天正11年に戦死することになる、梅若広長だけであった。
 よってこの場で能を披露した「梅若大夫」とは、実際には梅若広長のことであるという可能性は非常に高い。実際に梅若広長は始めの頃は、家久とも名乗っていた時期もあると言われているので、これが混乱の原因になっているのかもしれない。

 混乱の要素は他にもある。存在がはっきりしていない直久という人物についても語られているからである。
 『何鹿郡誌』(加藤宗一・昭29)には以下のように書かれている。

 中筋村なれど今知れず。梅若氏は能樂の名家なり。其祖は井手左大臣橘諸兄より出づ。諸兄十世の孫友時、山城葛野郡梅津村に住し、梅津氏と改称す。後承平中(九三一~九三七)丹波國に移住し、何鹿郡大志麻の庄を領す。友時二十八世の孫を景久という。景久幼にして乱舞を好み、其の技天稟に出づ。文明十三年正月二十日(一四八一)紫宸殿の御能に召されて、芦刈を演ず。時に年十六。後土御門天皇、その技を賞し、菊の御紋附下白の幕及若の一字を賜り、梅若大夫という。これより姓を改めて梅若と称す。
 其の子直久天正十年(一五八二)の初め、織田信長に召されて、江州安土城にて幸若大夫と能を演ず。信長、直久の技拙きをせめて折かんす。直久、上林に住せしが、孫の氏盛にいたり、慶長七年(一六〇二)はじめて家康につかえ、同十四年九月(一六〇九)丹波国船井郡にて永代緑百石を賜う。子孫代々観世流のツレ師たり


 ここでは「直久」が信長に折檻されたとある。
 ただこの直久の存在は確かでなく、この時代の梅若家の菩提寺である曹源寺にも、この人物の位牌はない。よってこの「直久」とは誰か他の人物であると考えるか、あるいは梅若家の誰かの別名であると考えるべきであろう


直久とは誰のことなのか?


 菩提寺の曹源寺にある記録から、歴代の梅若家の代々を年代順位並べてみると以下のようになる。

  37世・梅若景久 1528年死去(63歳)
  38世・梅若家久 1541年死去(年齢不明)
          ← 梅若直久?(年齢不明)
  39世・梅若広長 1583年死去(年齢不明)
  40世・梅若氏盛 1663年死亡(年齢不明)

 こうして並べてみると38世と39世の間に、直久なる、広長の父親となる人物が存在していたとしても年代的に見ても不自然さはない。
 ただ梅若家の世代的配列では37~40世はきちんと該当者がおり埋まっているので、もし直久という人物が存在するとしても、梅若家の当主を務めた人物で無かったのは間違いない。

 直久について語られている『何鹿郡誌』を読み込んで行くと、その息子が誰かについては語られていないが、孫に 40 世・氏盛がいることになっている。もしそうであれば、直久=38 世・家久ということになるだろう。しかし、先に述べたように天正十年の時点で 38 世・梅若家久は既に亡くなっているので直久=家久はあり得ない。この当時に生きていた梅若家の者は誰かということになるが、39 世・梅若広長だけが唯一、能を演じることが出来る年齢であったことを考えると、実際は直久=39 世・広長であると考えるべきだろう。(そうなると直久という人物は創出された人物ということになるが、なぜそのような名前が出てくることになったのかについての考察は後に述べることにしたい)


織田信長に折檻された梅若大夫(39世・梅若広長)


 39世・広長が信長の前で能を披露した梅若大夫であるという事になると、それはそれで大変興味深い。 39世・梅若広長は能楽師でありながら、明智光秀の領地の丹波の一地域の豪族でもあり、自身も丹波に領地を有していた人物である。こうした立場ゆえ39世・広長は、明智光秀に従って、山崎の戦いに参戦し、その戦いで傷つき翌年の1583年6月 3に死去したとされている。

 改めて梅若広長のスケジュールを整理すると、広長は天正10年(1582年)5月19日に、信長と家康の前で能を舞って信長に折檻され、その 2週間後の6月2日に本能寺の変が起き、さらに 2週間後の6月13 日、14日の山崎の戦では明智光秀に従って参戦したことになる。

 この梅若広長という人物に関して、後代の子孫である52 世梅若六郎(1828年~1909年)が書いた『梅若家日記』の中に非常に興味深い部分がある。
 以下、その日記を引用する。

【 梅若日記 5巻 】 明治27年11月 P258
一、本日諸家ヨリ右能ニ付き紅葉館の座敷種々之品展覧会ニ付自家ヨリ出品之書付左之通。
「徳川家康公御黒印」

慶長十四年家康公愛宕御登山之時吾祖三十三世梅若太夫氏盛陪従仕旧領之所領御問アリシカバ天安天慶之比ヨリ数百年間丹波ニ所領アリシモ又梅若広長天正十一年討死之後領地混乱シテ弁スヘカラス。サル旨言上セシニ家康公携フル所之杖頭ニテ山上ヨリ丹波地之一地域ヲ指画シ以来所領ニナスヘキ旨仰セラレ其証書ヲ作ラシメ氏盛ニ授ケ同年九月(且従臣権田小三郎ヲシテ)駿府城帰城之後御前ニ於テ黒印排領仕候也。


 これは梅若実(52世・梅若六郎)が書いた明治27年11月3日の日記である。背景を簡単に説明すると、東京の芝にあった紅葉館での展覧会のために梅若家が所有する書画を出品したことが述べられており、その出品物として、家に伝わる「徳川家康公御黒印」と、その文書の内容を記載している。この御黒印には「数百年間に渡り丹波に領地を所有していた梅若広長が天正11年に討死した」と述べてあり、梅若広長が山崎の戦いに参戦したことを裏付けるものとなっているように思われる。

 明智光秀の側に付くという梅若広長の決断は、結果的には、梅若家の凋落を引き起こすことになった。その後、広長の妻は幼児(後の40世・氏盛)を抱いて流浪したとあるので、39世・広長が明智光秀に従い、山崎の戦いに参加したことで一族は大変な不遇の時代を過ごしたことになる。 しかしその後、息子の40世・氏盛が「細川幽斎」の助力によって徳川家康に取り立てられ、能楽師としての梅若家を再興することになり、その謂れが「徳川家康公御黒印」という文書となって残った。

※細川幽斎とその息子の忠興は、「本能寺の変」以降、結果的に明智に組みしなかったが、その後に明智側の家臣を召し抱えたり、助けたりしている記録が見られる。最後まで光秀に従っていた七騎のひとり「進士貞連」も後細川家に仕え忠隆付きになるが、梅若家も同様に細川幽斎に助けられたと言えるだろう。

 こうした記録に向き合うと、天正10年5月19日に安土御山総見寺で行われた信長と家康の宴で、梅若大夫の演じた能には、何か生々しいものがあるように思われてくる。次に改めてその時のことを更に深く検証してみる事としたい。


天正10年5月19日 能と舞を検証する


 田中義成博士(1860年~1919年)は『織田時代史』のなかで以下のように、当時の能がどのように行われていたかについて言及している。

「信長幼より歌舞を好む。天正十年五月安土の総見寺に於て、幸若太夫を召して舞を演ぜしむ。当時四座の衆を召すを常とせしが、此の時は餘り珍しからずとて、新に丹波の猿楽梅若大夫を召しぬ。然るにこの時、梅若太夫の楽不出来なりしかば、見苦しとて折鑑すること大方ならず。而して幸若太夫にはよく舞へりとて黄金十枚を与ふ。さりながら、梅若にも能の不出来なるにも拘らず、猶金子十枚を与へたり。これ金を吝むに似たりとの嫌あるを慮りてのことなりき。この幸若、梅若の二家は所謂四座の外なり。幸若はもと桃井直常の子孫なり。桃井系図によるに、当時本名を八郎九郎義重といひ、名人の聞えありて信長の寵を受く。今家に伝ふる所の宝物は多く信長よりの拝領物なりといふ」


 室町時代、能は四座と言い大和猿楽の四つの団体、つまり、結崎ゆうざき(観世)、外山とび(宝生)、坂戸さかど(金剛)、円満井えんまんい(金春)の四家だけで占められていた。しかし天正10年の信長の饗応はこの四座からの参加者はおらず、幸若と梅若の二家だけで行われる舞と能の異例の披露となった。

 『信長公記』にある「此の時は餘り珍しからずとて、新に丹波の猿楽梅若大夫を召しぬ」とある一説をみると、珍しい趣向として、梅若大夫が呼ばれ、例外的に猿楽を披露することになったかのような背景が伺えるが、単に物珍しさだけの理由でこうした構成で演じられたとは考えにくい。小林正信著『明智光秀の乱 - 天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』では、家康を招いてのこの饗応において、織田信長は光秀に※「御成」をさせようとしていたのではないかという興味深い仮説が述べられている。

※将軍(時には大御所)が、臣下の邸宅を訪問することを特に御成という。世間に主従関係を知らしめるための機会であり、それを受ける各藩は名誉と受け取っていた。御成は将軍だけが受ける事の出来る特権事項であった。

 この仮説に基づいて考えるならば、「御成」のような儀礼に基づくコンサバティブな方法で饗応が手配される必要があったにも関わらず、なぜ5月19日の能の鑑賞においては大和四座の猿楽師が舞台に上がることがなかったのか?という疑問が生じることになる。
 以降、その理由についても考察し説明してみることにしたい。


なぜ丹波の梅若大夫が呼ばれたのか


 もともと織田信長は、天正10年のこの饗応手配を明智光秀に手配を任せていて、その指図のもとに料理および宿舎の手配が進められていた。
 こうした手配は饗応の全体を包括しており、料理や宿舎だけに限定されず、結果的に19日に総見寺で行われることになった能の手配にまで及んでいたのではないだろうか。

 戦国時代の御成について、浜口誠至博士は「将軍が有力大名の館を訪れ、饗膳や猿楽による饗応を受ける幕府儀礼である」と述べている。つまり猿楽も「御成」のなかの重要な部分を占めていたのである。よって家康への饗応は猿楽も含めたものであったに違いなく、家康への饗応を任された光秀の手配のなかには当然、猿楽が含まれていたと考えるほうが自然である。
 実際に室町時代に行われていた過去の「御成」では、必ず別記が設けられ、そこには料理の献立だけでなく、贈答品の詳細や、能の演目や出演者の詳細が記されている。つまりこれら全てが包括されて「御成」が成立していたということになるだろう。

 さて饗応における信長の意図と、それに対する光秀の反応を小林正信博士は以下のように述べている。

【 明智光秀の乱-天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊 P340-341 】
 当初信長が意図した計画とは、安土城にある明智光秀邸に家康を招いての自身の「御成」だったのではないのか、と考えることができます。亭主である光秀がこれを直前になって拒否したことは、前代未聞のことで信長の権威を大きく貶めるものであったことは論を待たないところです。


 小林正信博士は、信長が光秀に「御成」をさせようと考えていたのではないかと論じている。
 もしそうだとするならば、安土の饗応においても、これまでに将軍が行ってきた「御成」としての儀礼に基づいて大和四座のものが呼ばれ、能の舞台に上げられる必要があったことだろう。しかし実際に5月19日の舞台においてはそのようになっていないところに、明智光秀の信長が行おうとした「御成」に対する拒否あるいは抵抗のようなものを感じることが出来る。
 何故ならば光秀は「御成」は将軍だけに許された特権である事を理解していたし、それを信長が踏み越えることを良しとはしていなかった。よって大和四座からではなく、自身の領地の丹波から梅若大夫をよび、彼に猿楽を演じさせることでよって正統な「御成」の成立を阻もうとしたのではないだろうか。


舞台における明智光秀の配慮


 ただ「御成」を阻もうとする光秀の思惑があったとしても、饗応手配においては最大の配慮を払っていたと感じさせられるところが少なくない。最大限、饗応役という務めを確実に果たしながらも、ぎりぎりのところで「御成」の成立を阻もうとする光秀の思惑のようなものがあったのではないかと感じられる要素が幾つも見られる。

 その最初のポイントは、舞を勤めたのが、幸若大夫だったというところである。この幸若大夫は信長のお気に入りの舞手である。しかも信長は猿楽(能)よりも、舞を好んでおり、自分でも幸若舞の「敦盛あつもり」を舞う程であった。「敦盛」の一説は以下のようなものである。

思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ


 信長はこの「敦盛」を好んで舞っていたと言われている。実際に、『信長公記』には、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城にいた信長は、まず『敦盛』のこの一節を謡い舞ってから出陣したという記録もある。
 また、田中義成博士は『織田時代史』のなかで、武田信玄が美濃の天永寺の僧であった天澤と面会した際の会話を引用している。そこで信玄が「信長は何が数寄すきか?」と尋ねると、天澤は「舞と小唄とか数寄にてそうろう」と答え、あるいは「幸若にても来るや?」という問いに天澤は「信長は敦盛の一番以外は舞わず、その一番の中でも、人間五十年、下(外)天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、との一説を歌い舞われる」と述べており、信長が舞を、特に「敦盛」を好んでいた事を述べている。
 このように舞では、信長お気に入りの幸若大夫を起用することで、光秀は配慮を示したのではないだろうか。幸若大夫が舞台にあがり、信長と家康の前で舞を披露すると、信長は大いに喜んで幸若大夫に褒美を与えている。


猿楽(能)の配役はどのように行われたのか?


 舞のあとに猿楽(能)が行われるのが正統である。そして能を演じたのが梅若大夫(広長)である。梅若大夫の地元は丹波であり、この丹波は明智光秀の領地でもある。
 また梅若広長は単に能楽師というだけではない。丹波に領地を有してそこを治め、戦があれば参戦する能楽師でもあった。そこには間違いなく明智光秀との主従関係という浅からざる繋がりがあった。よって、こうした関係から光秀は梅若大夫が舞台に上がることになったのではないかと推測できる。

 ただ光秀と梅若大夫の主従関係という理由を押し出して、大和四座を差し置いてまでこの舞台に梅若大夫を上げたとなれば、明らかな「御成」潰しと受け取られる可能性もある。よって梅若大夫の起用には、何らかのきちんとした表向きの必然性があったと考えるべきである。それは信長の嫡子である織田信忠と梅若大夫との関係だったのではないだろうか。以下その理由を述べることにする。

 信長の嫡男である織田信忠は、非常な猿楽狂いで、自分でも猿楽を舞い、しかも「手前見事」と表現されている程の腕前であった。そのことが後代の編纂物である『当代記』に次のように記されている。

【 当代記 】
 此此、城介信忠能を好まる。自身これを行い給い、手前見事の曲、上下云云。信長これを聞き給い、武将たる者、強いてこれを好むべかざる由と曰う。甚だ興なし。
 即ち城介の能道具悉くこれを召し寄せ、丹波猿楽の梅若太夫に下さる。舎弟伊勢国主信雄、同北伊勢かんべの三七主も此道これを好まると雖も、信長これを知り給わず。

※ 城介とは信忠の別名


 ここでは信忠の能好きについて述べられている。
 しかし父、信長は信忠と異なり「武将が能を好むべきではない」として、息子が能を行うのを好意的には思っていなかった。そのため息子の信忠には能を辞めさせ、信忠の使っていた能の道具を丹波猿楽の梅若大夫に下賜したと『当代記』天正 9年3月9日の項には記されている。具体的にはどのようなものを譲ったのかまでは記されていないが、シテである梅若家の役割を考えると、能面等の道具一式が含まれていたのではないだろうか。しかも能を好んでいたのは信忠だけでなく、信長の他の息子たち、次男の信雄、三男の信孝も同様であった事。またそのことを信長は知らなかったとまで述べてある。

 その記述と調和して、天正9年8月、伊勢松島で、信忠・信雄・信孝兄弟が代わる代わる舞楽を行ったことが『勢州軍記』には述べられている。以下、引用である。

【 勢州軍記 】
 松嶋舞楽事  天正九年辛巳秋八月。織田三位中将、信忠卿。神戸三七信孝。到松嶋城為遊興。信忠、信雄信孝、御兄弟。替々為舞楽也。貴賤群衆而見物之。君達好舞楽 信長公非之也。凡舞楽者費金銀。忘家業。乱國之本也。主将好不可用之云々。


 ここでは天正9年8月に松ヶ島城において遊興し、信忠・信雄・信孝兄弟がかわるがわる舞楽をした事。またそれを貴賎みな集まって見学した事。さらに信長は息子達が舞楽を好むのを嫌っており、舞楽は金銭を費やし家業を忘れて国を乱すもとであるため、主将は好んでこれを行ってはならないと考えていたことが記されている。
 これは信忠が能を禁止され、能道具を梅若大夫に引き渡した後である。それでも信長の息子たちは、信長の眼の届かない所では、父の意に反して憚るところなく度々舞っていたものと思われる。

 さらに信忠がどれほど猿楽に入れ込んでいたかを示すもうひとつのエピソードがある。それは信忠が家康を通じて世阿弥の能の書を入手していたということである。そのことは残されている能書の奥付きから解っている。

【『風姿花伝』中『花伝第七別紙口伝』の観世宗節による写本奥書 】
此本十良大夫方之を書写也 又此家之本も有 同之 以上十ヶ条少もちかハす 十良かたの書は家康に御所持也 二札の外あるへからす 秘伝々々 於遠州写之 天正六年十月吉日 宗節(花押) 後花伝抄 信忠様家康へ御懇望なされ御所持候 乍去大事之書物ハ御残し候て不参候


 織田信忠は家康を通じて『風姿花伝』を手に入れていたことが記されている。家康は若いころから世阿弥の家系に連なる三世・観世十郎大夫に学び、自ら演じていただけでなく、能の故実にも通じていた。家康は同じく能を好む信忠のために、自分の所有していた世阿弥の能の書を譲ったのではないだろうか。こうした能に関する稀覯本を入手していた事からも信忠の能への傾倒ぶりが見てとれる。

 他にも世阿弥の芸談を次男の元能が記録した『申楽談儀』が「細川十部伝書」として現存しており、そこには細川幽斎が徳川家康から借りて書写したとの奥書(転写)がある。
 このように家康は、能に通じた人物であったことは間違いなく、自分でも能を舞いつつ能の故実にも通じた能マニアであったと考えても良い。よって能を介して、家康と、能狂いの信忠との間では交流が行われていたと考えるべきである。
 家康は、安土入りをする前日の天正10年5月14日に番場ばんばに滞在して、丹羽長秀のもてなしを受けているが、この日に信忠も番場に立ち寄り、休息してから当日のうちに安土に帰還したと『信長公記』の記録にある。同日に同じ場所にいた家康と信忠が会っていないとは考えにくく、もし会ったのであれば二人の間で能談義のようなものも行われたのではないだろうか。信忠の立場から言えば、能を演ずることを嫌った父親、信長のいる安土で、家康との能談義を行うことは非常に憚られることであったに違いない。よってこの二人の14日の番場における曖昧な面会を感じさせる記録は、能マニアの家康と、能狂いの信忠の、安土では許されない趣味の共有・情報交換の場であったのかもしれない。
 ただこの日に家康と信忠が実際に面会したかどうかについては史実として残されていないので、果たしてそうであったかについてはあくまでも推測の域を出ないことは念頭に置いておくべきである。ただそうであっても様々な文書から、信忠を始めとした、信長の息子たちが猿楽にのめり込んでいた事は間違いない事実であると言えるだろう。

※信長の三男の信雄も、能の名手と伝えられている。文禄2年(1593年)、秀吉が主宰した天覧能を観た近衛信尹は、「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」と織田信雄の能に対する感想を残している。また『徳川実紀』には聚楽第で披露された信雄の能について、「殊に常真(信雄)は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」と記されており、兄の信忠と同様に能の名手であったことが記されている。

 もうひとつ、信忠と家康の能に関するエピソードを挙げておきたい。

【 日々記 】
 二十六日 雨降。今日十合十荷可遣候由候へ共、清水にて能有之。城介、徳河、あな山ニ城をくわんふるまい也。暮帰り也。明日之由候。下ニ御番ニ参候。


とあり、天正10年5月26日に織田信忠、徳川家康、穴山梅雪が清水で行われた能に参加したことが勧修寺晴豊の日記である『日々記』に記されている。その晴豊は、親王から5月25日に十合十荷の角樽(酒)を信忠に届けるように指示されるが、それを届けようとした翌日の26日は上記のように清水で能が行われる日だったため、延期して明後日の27日に届けている。しかし27日に届けても、村井貞勝が受け取っただけで信忠には直接会えなかったことが記されており、親王からの進物が軽く扱われていることに対する不満のようなニュアンスも感じ取れる。もともと26日に届けるはずが、27日に延期したのは、信忠が能狂いであり、能舞台の日に十合十荷の角樽(酒)を届けても印象が薄れてしまうと晴豊は感じたからかもしれない。(結果的には延期して 27日に変更しても同じ状況だったが)
 いずれにしても26日に届けなかった理由が能であったというところに、信忠の能に対する熱心さと、能を介した信忠と家康の関係を伺い知ることが出来るのではないか。ちなみに信長が上洛して本能寺に入るのはその後の5月28日であった。つまりここでも信長が上洛する前、目の届かない所で能を楽しむ信忠の姿を読み取ることが出来る。


織田信忠 - 梅若大夫の師匠関係の可能性


 「手前見事」と評される程、能を上手く演じることができた織田信忠が、我流で能を演じていたとは到底考えられないので、そこには誰か信忠を指南した者がいたに違いない。道具が梅若大夫に譲られたという経緯から考えると、やはり梅若大夫が信忠の指南を行い、「手前見事」と評される程までに能の腕を上げたと推測するのは可能であると思われる。 例えば現在でも、茶道や、華道を始める場合には、師匠の口利きで道具を揃えることになるが、信忠の能においても同じようなことが行われたと考えられないだろうか。そうであれば、信長の反対による道具の引き取り先は、道具を手配した梅若大夫であることが必然である。そうであれば、信忠の能の師匠は梅若大夫であったということになるだろう。

 さらに、梅若大夫と信忠は昔から面識のある間柄であった。信忠の生まれは弘治元年(1555年)又は弘治3年(1557年)とされていて誕生とされている年には2年間の誤差がある。よって信忠が11歳~13歳の頃になるが、その頃既に梅若大夫(39世・広長)の能を鑑賞したと考えられる出来事が『甲陽軍鑑』に記されている。以下はその部分の引用である。

【 甲陽軍鑑 】
 秋山伯耆、岐阜に於いて信長公馳走被成七五三の御振舞 初日には七度御杯出て七度ながら伯耆守に御引給り三日目に梅若大夫能を仕候て其後は岐阜の河にて鵜匠をあつめ鵜をつかはせ伯耆守にみせ給ふ 伯耆守乗舟をも信長のめし候舟のごとくになされみせ給ひ鮎の魚上中下を信長公御覧じよらせ伯耆守に信長直に仰渡され甲府へ御越被成候 秋山伯耆守七月初に罷蹄信玄へ様子申上候以上


 永禄10 年(1567)に、信長の子城之介(信忠)と武田信玄の娘の松姫との婚約話が成立したので、翌年の永禄 11 年(1568)六月上旬に祝言の品を届けに秋山信友(伯耆守)が信玄の使者として岐阜城へ赴いている。信長の秋山信友に対する接待はかなりのもので、七五三本膳料理が供され、しかも信長が自ら、信友の盃に酌までしている。三日目には梅若大夫の能を特別に演じさせ、長良川で鵜飼いの実演を披露するが、その際も、秋山信友の川に浮かべる見物用の船を、信長専用の船と同じ豪勢な仕立てにし、催しの最後には信長みずから獲れた鮎を持ってきて披露し土産として持たせている。

 この饗応は信忠と、信玄の娘の松姫との婚約に関連したものであるので、全ての席に必ず結婚当事者の信忠も同席していたと考えるべきだろう。よって当然一連の饗応の中で梅若大夫が演じた能も鑑賞していたことは間違いないだろう。この時信忠は 11~13歳である。その後、信忠が能狂いとなることを考えると、この頃から梅若大夫と能を通じた何らかの関係が始まったのではないかと考えられる。


七五三本膳料理


 永禄11年(1568)の秋山信友への饗応で注目したいのは「七五三本膳料理」が供されたという事である。これは七膳で構成される格式の高い饗応スタイルであり、しかも「七度御杯出て七度ながら伯耆守に御引給り」とあるので本膳料理に入る前に、式三献と呼ばれる三杯酒を飲むことから始まり、そこから本膳料理に入り、その後、数献を重ねる儀礼に基づいた正統で格式ある饗応が行われたものと考えられる。

 ここでまずは、この当時の信長のバックグランドを確認しておきたい。

 永禄10 年、信長は本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。同年の11 月には沢彦宗恩から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめ、本格的に天下統一を目指すようになる。 尾張の一大名でしかなかった信長が、天下を目指すにあたり、武力以外の文化面においても力を入れ始めた時期である。秋山信友への饗応はそうした意味において、これから天下を取る過程において信長が身につけなければならなかった格式や儀礼(マナー)のようなものを示す機会でもあったように思われる。
 確かにこの時点で、武田との同盟は政治的に重要であったのは間違いない。しかし武田の一家臣でしかない秋山信友に対するこのような饗応はあきらかに過剰で行き過ぎた歓待でしかない。後でさらに触れるが、天正10 年の家康に対する饗応であっても七膳ではなく五膳の料理であった。(ただしこれは光秀が意図的に七五三本膳料理準備することを避け格式を落としたと考えている)
 秋山信友への信長の饗応からは、まだ歓待に慣れていない、あるいは外交におけるもてなしの程度をまだ十分に加減出来ていない雰囲気が感じられる。この饗応は秋山信友に対してというよりは、饗応する事そのものを喜んでいるというか、饗応のホストである自分自身に満足しているような、田舎大名の信長の姿が見え隠れするように思えてならない。行きすぎた過剰な歓待の理由はそこにあったのではないだろうか。

 七五三本膳料理は将軍に対して行う御成のための料理であり、秋山信友クラスに対しては明らかに行き過ぎた饗応である。残念ながらその時の献立は残されていないので、料理がどれほど七五三本膳料理のスタイルとして正統なものであったのかは知る由もないが、豪華な料理の数々が供されたことは間違いないだろう。
 さらに注目しておくべき点もある。それは七五三本膳料理でもてなしたということは、こうした本膳料理にまつわる儀礼に通じた人物が、この時期から信長の周りにいたということである。尾張から美濃に侵攻した信長が得たものは、単に領土や武力的なものだけでなく、このような京の雅や儀礼、さらには京の中枢部に繋がることの出来る人脈だったとも考えられないだろうか。永禄十年に岐阜に本拠地を移したばかりの信長の秋山信友に対する七五三本膳料理を用いた饗応は、その事の表出であったと考える事も出来る。

 『緜考輯録』には、永禄11年(1568 年)6月23日、足利義昭が信長に対して、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう細川藤孝と明智光秀を通じて要請しており、これが明智光秀が初めて史料に登場した記述である。(この史料は疑念があるとされるが、『信長公記』の永禄12年1月4日よりは光秀に関する言及が先であるという意味において初見とした)この記事には「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」という光秀の言葉も記されており、結局はこれを境にして、光秀は以降数年間、信長・義昭の二人の主人に仕えることになる。

 ここで光秀が仲介となり進めていた信長の上洛要請について検討しておきたい。足利義昭はこの 2年前の永録 9年には既に、信長に上洛を促していたことが『閏八月十八日付 氏家直元等書状』や、永禄9年8月28日付の足利義昭および側近が宛てた14通の手紙から明らかになっている。確かに永録 9年から11年にかけてこうした信長への働きかけは何度かあったようであり、足利義昭の側近たち、あるいは細川藤孝を使者として進められていたようだが外的な要因もあり上手く進行せず、最終的には光秀が取り次ぐことで信長の上洛は実現する事になる。
 このように光秀を仲介役とすることで上洛が決まっていった経緯からも、その当時の信長の光秀に対する高い評価と信頼が伺われる。上洛についての交渉・折衝は永禄11 年(1568年)6月23 日の岐阜での面会以前から、信長と光秀の間で進められていたに違いない。(実際に 2年前から信長の上洛に関する話は何度も持ちあがっていたのだが実現していない)
 この当時、光秀は、細川藤孝と共に足利義昭のために奔走していたと考えられる。よって6月23日の細川藤孝が岐阜にやってきて信長面会した日が、光秀が初めて信長に会った日であるという訳ではないだろう。(実際に細川藤孝は 2回目の使者として信長のもとに来ていた)
 しかも信長は、この過程を経たことを通して、光秀を家臣にしたいという意思を表明するようになっている。やはり光秀との折衝のなかから、光秀の才能や、有能さを理解する過程と十分な時間とがあったと思われる。

 こうした信長との折衝の過程を考えると、6月上旬の秋山信友に対する饗応に対しても、光秀は駆け引きの材料として何らかのアドバイスを信長に行っていたとは考えられないだろうか。この当時の信長とその配下の者たちには七五三本膳料理による饗応を執り行うことは不可能だったと考えられるからである。もしかすると、こうした饗応の過程における有職故実に基づいた知識があったことが、信長をして、光秀を家臣にしたいと思わせたひとつの要因となったのかもしれない。こうした饗応の知識を光秀がも っていることが、天正10年の家康饗応役においても光秀が任命されることに繋がっていったのではないだろうか。


リハーサルとしての饗応(秋山信友)→ 将軍への饗応(足利義昭)


 永禄 11 年(1568)の 6月上旬の秋山信友に対する饗応の後、同月23日に光秀の取りなしにより足義昭を伴い、信長が上洛をすることが決定される。
 これを受けて7月13 日、足利義昭は越前を出発し美濃に向い、7月16日、近江 小谷城へ入り、22日、美濃へ到着したことが『多聞院日記』には記されている。
 一方の『信長公記』には7月25 日、越前まで出迎えた和田惟政と織田家の村井貞勝とともに、義昭が美濃の立政寺へ入ったこと。さらには織田家から末席に銅銭千貫文を積み、御太刀・御鎧・武具・御馬など様々な品物を進上され、御家来衆も手厚く歓迎したことが記されている。

【 信長公記 】
 公方様御成り、末席に鳥目千貫積ませられ、御太刀・御鎧・武具・御馬色々進上申され、其の外、諸侯の御衆、是れ又、御馳走斜ならず。此の上は、片時も御入洛御急ぎあるべしと、おぼしめさる。


 「御馳走斜めならず」という表現しか記されていないが、この饗応では七五三本膳料理が供されたと考えるべきだろう。『信長公記』には能に関しては配役・演目などの詳細も記してあるが、記録者の太田牛一は料理に関しては疎かったのか、どのような料理かの詳細については『信長公記』全編通して含まれていないのが常である。ただ前月の武田の一家臣に対する饗応が、七五三本膳料理で行われたのであれば、将軍である足利義昭に対しては、それ以上の饗応で歓待したことは間違いなく、それ以上の歓待ということであれば「御成」としての饗応が行われたと考えるのは至極当然のことである。

 もし御成クラスの饗応が行われたとするならば、6月上旬の秋山信友に対する以上の饗応料理に関する知識が求められたに違いない。足利義昭を上洛させるまでの手配で奔走していたのが細川藤孝や明智光秀であることを考えると、将軍・足利義昭を岐阜に迎えての饗応での下支えにおいても、彼らに何らかの働きがあったと考えた方が自然であるように思われる。
 明智光秀は出自が明らかでなく、その人生の初期は謎の多い人物であるが、小林正信博士が提唱するように、明智光秀=進士藤延(進士流庖丁道の後継者)であるとするならば、信長との折衝を行い、足利義昭を美濃に迎え入れ、そこから上洛を進めるという一連の働きにおいて、光秀のもつ料理における有職故実の知識、あるいは「御成」としての七五三本膳料理の手配は非常に重要であり、その知識がいかんなく活用されたに違いない。

 こうした永録11年の6月上旬~7月下旬の一連の出来事を注視すると、6月上旬に行われた秋山信友への過剰な饗応の意味が伺い知れるような気がする。6月23日の明智光秀による取成しによって、上洛が決まる前にから、信長が足利義昭を迎えての上洛を公表しないまでも、それを既に決めていたとするならばどうだろうか。この6月23日以前の明智光秀としての過去はまったく闇の中であるので何処にいたのかも含めてまったく不明で知る由もないが、もしその為の折衝のために既に光秀が岐阜に居た、あるいは度々訪れていたとするならば、秋山信友への行き過ぎた饗応(七五三本膳料理)においても、信長側は七五三本膳料理のための故実に関するアドバイスや関与を求めたとも考えられる。
 光秀の立場になって考えてみても、もしそういう要請が信長からあるとすれば、その後の交渉を円滑に進める為にも、進士藤延として生まれながらに一族に継承された饗応における有職故実の知識を進んで提供したとは考えられないだろうか。

 極論になるかもしれないが、こうした経緯を考慮すると、秋山信友への行き過ぎた饗応は、いわばその後に行われた足利義昭に対する「御成」へのリハーサルのような役割を果たしたとも推測されるのではないだろうか。そうでないとするならば天下布武の印を使い始め、天下人となることを決意した直後の信長の、自身の価値を下げるような武田一家臣に対する歓待の意味が見いだせないように思われるのである。
 これに関してはその後の信長の行動からも、秋山信友へ饗応に対する真意を推し量れるように思える。この饗応が行われてから7年後の天正3年(1575年)、織田と武田の同盟は決裂し、織田軍は、秋山信友の立て籠もる岩村城への攻撃を行う。こうした事態を受けて秋山信友は城兵の助命を条件に信忠に降伏した。それにも関わらず、信長は岩村城兵を殺害し、秋山信友を岐阜に連行し、同年の11月26日に長良川で磔に処したと『信長公記』に記されている。

 永録11年の饗応で、信長は秋山信友に対して、長良川で鵜飼いの実演を披露し、浮かべる見物用の船を、信長専用の船と同じ豪勢な仕立てにし、催しの最後には信長みずから獲れた鮎を持ってきて秋山信友に披露するというもてなしを行っていたが、それから7年後、それと同じ岐阜城の横を流れる長良川の河原で秋山信友を磔にて殺害したというのも残酷な話である。永録11年の信長の饗応の真意は、やはり秋山信友に対する心からのもてなしではなく、もっと表面的なものでしかなかったことを秋山信友に対するその後の扱いから理解できるのではないだろうか。

 さて永録11年の秋山信友への行き過ぎた饗応は、いわばその後に行われた足利義昭に対する「御成」へのリハーサルのような役割であるとするならば、そしてその饗応の影に明智光秀という有職故実に通じた人物の存在があるとするならば、それは信長にとって、来るべき足利義昭を美濃に迎え、将軍を奉じて行う上洛においても強い後ろ盾と自信を与えるものとなったであろう。

 光秀が傍らにいることが、中央との政治的人脈においても(一般的にはこちらだけが注目されている)、料理・茶道・能を含む文化的なコネクションや、それを理解する天下人に適う人物として振る舞うことが出来るようになるという意味においても必要であったに違いない。その故に信長は、明智光秀(進士藤延)を家臣にどうしても迎える必要があったと言えるだろう。よって『緜考輯録』にある、「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」という光秀の言葉は、信長が、姻戚関係を上回る以上の、大祿に見合うだけの高い価値が光秀にはあると感じており、ぜひとも家臣として召し抱えたいと熱望していたことを裏付けるものとなっているのではないだろうか。


つづく☛