美味求真

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序・緒言

美味の真


緒言 : 木下謙次郎 - 貴族院・衆議院議員、『美味求真』著者

序文 : 北里柴三郎 - 医学者・細菌学者

解説 : 河田容英 - 『美味求真』について

註釈 : 本書に基づく参考意見


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緒 言

著者 木下謙次郎


 本書は食品調理、およびこれに関係した人類食膳方面の一切の事を論じ、合わせて食品、動植物類の食味習性等を述べているものであり、従来の普通の料理書と異なるところは、主に調味の真髄を究明して、その原理を捉え、直にこれを各料理および一般的な食事に応用し、併せて料理をひとつの芸術、または学問として取り扱おうという試みである。いわゆる眼高手低所思を尽すことができないという残念さはあるものの、志はこの各界に新しい一面を開き、趣味と実益の改善を期待し、生活を豊かにすることへの貢献にある。

 次に食品、動植物類の習性等については、その書はかなり多く、特に西洋流の博物書では主旨が明瞭ではあるのだが、論理に偏り、事実に疎いため、江村如圭えむらじょけいのいわゆる「儒者家多不識田家之物農園民終不識詩書之旨二者無繇参合」(儒学者の家には農家にある知識は多くはなく、農家には詩書の良さが無い。この両方を混ぜても役には立たない)という言葉が正に至言であると思わされるものがある。著者は農家の物事を知っているとは言えないが、多少の経験とそこから得た感覚を頼りに記述を行っており、時としては現代の学者の論も採用することしている。
 また参考書として、維新以来、捨てられて顧みられてこなかった中国各分野の古書からの参照も多く行っている。そのため、奇をてらっているように見えるかもしれないが、実際は必ずしもそうであるとも言えない。なぜなら我が国の生物は、中国のものとその系統と性質を同じくするものが多く、かつ人文の上においても古来からの特殊の関係にあるため、東洋の事は、まず東洋の学術によって研究を試みるというのは理にかなったことであるという信条だからである。ただ中国の格物論は例の中国人特有の想像力によって虚誕俘妄によるものが少なくなく、なるべくこうした弊害を避けるように努めているが、時として非科学的になってしまう場合があることも了解頂きたい。

 著者はある政党党員であり、文筆家ではない。また何ら学術にも関係はしていない。日夜、政党界の煩雑な用事に追われつつ、時に少ない空き時間を見つけては愉しんで執筆したものであるために、もとより孟波杜撰の批判は免れないだろう。加えて最初の起稿の際には動植物の全般にわたって記述する想定であったが、途中から出版を急ぐ事情があり、魚類やその他の動物類を一部だけの記述になってしまったのは、著者の本意とはかなり違ったものとなってしまった。よって残りの穀類、果実、野菜、山獣、山禽、家畜類等については続編として、後日、再び書き始めることとして、本書の不備は、またその時にでも補正できるように期待したい。

大正十三年十二月

著者 木下謙次郎きのした けんじろう



序 文

北里柴三郎


 美味求真の著者は、美食道にかけては傑出した人物である。至味の三味において悟りをひらいた道士と言っても良いだろう。世の中に食道楽の者は少なくない、趣味の集蒐癖も稀ではない。しかしこの問題にこの著者ほど真摯な研究を積み、これ程まで博学な知識をたくわえている者は比類がないだろう。よく読み、よく研究し、最終的には美味を天然に求め、庖丁の技を自然に探究しようとするのは、この著者にして始めて言う事ができるところである。天下の味覚はこの著者によって大いに啓発されることだろう。

 かなり膨大な本著はすでに目の前に広げられた食膳のおもむきすらある。しかし巻頭の至味礼賛から始めて古今の料理論、東西饗宴競、美味の常道、美食の珍、悪食の奇、最後の魚類篇に至るまでを八章七百項のなかでことごとく唱えられているのを感じることが出来る。さらには垂涎を禁じても溢れるほどの驚くべき豊富な材料が興味深く味わいの深い趣をともなって叙述されてもいる。誰もが読書後において始めて飽満を感じるほどの出来栄えである。

 大味に撤する著者は、自ら味を知るだけでなく、他の者にも味わうための道を教える術も心得ている。鼈を捌くのに天下一品の技術を有する著者は容易に世間の紛糾を片付ける手腕をもっているであろうし、自ら魚を調理するのに慣れた手には、どのようなものに塩梅を施すのも難しくはないはずである。著書の中にも書いてあるように美味いものを食べさせれば世の中の人の心は静穏になるに違いない。この時節柄、著者の美味によって世の人民も満足させたいものである。

 著者の趣味はかなり広い。古今東西の書籍を読んでおり、政治、文芸、博物、地理、歴史、医療等に至るまで選ばれており、栄養学の学説まで俎上に載せている。なお著者は体験を重んじており和漢洋の珍味をことごとく掌握しているようである。古典的な龍肝鳳髄の話も面白いが、現実の美食の解説が非常に真にせまっており興味深い。その中でも最も脂の乗っているところは鼈の項である。深淵の水をすくって鼈が何匹生息しているかを霊感するのは著者自らの話であるかのようにも読める。このカ所がこの本におけるいわゆるシュンであろう。次いで味の出てるのは河豚チリのところで「天界の玉饌魔界の奇味」と称賛するあたりは、著者の耽美的態度の躍如として現われている。

 科学者がご馳走を食べつくした挙句の思案の成果は、味の素の発見となったが、この著者はいくら美味を研究してもそのような不自然な考えを起こすことはないだろう。 著者は科学者ではない、また味覚は科学ではないと主張している。テドロトキシンは河豚の肝と卵巣にあるというような事は科学者に任せておいて、河豚鍋の相手は橙に限るというようなことを専念して研究するのが著者の本領なのだろう。しかしこの本を通して見ると、著者には素質において科学者風の天分を豊かに備えていることは明らかである。動物、植物、古代生物学から最近のカロリーメーター、ビタミン、ピルケー氏のネム栄養説に至るまで脳裏に収めようとするのは驚くべき知識欲である。もし幼少からこの方面への志を立てていたなら偉大な自然科学者になっていたに違いない。著者が政界に身を投じてしまったのは誠に惜しむべきことで、人物経済上の一大損失と言わねばならないだろう。それは兎に角、政界で老いた著者が余興としてなお、その造形の深さを有しているのは全く敬服に値する。 幸いなことに、著者には将来が希望に満ちている。今後は益々科学の方面に力を注がれるならば、現代の科学に特殊の味付けをすることに成功するだろうし、世に役立つこといよいよ多くなるであろうと思う。それを切望する事に堪えない。

大正十四年一月

辱友 北里柴三郎



解 説

現代語訳および註釈 河田容英


 『美味求真』は博覧強記の書であると言われている。ここに記載されている和漢洋の「食」に関する広範な知識は驚嘆すべきものがあり、現代でも多くの美食家にとっての必読の書として読まれるべき内容と硬度を兼ね備えていると考えている。袁枚えんばいの記した『随園食単』や、ブリア=サヴァランの『美味礼讃』を読んだ方であれば、 木下謙次郎 の『美味求真』がそれに匹敵するほどの内容を有していることに気づかされれるに違いない。

 『美味求真』は、今から90年以上も前( ※1925年発行 )に出版された本である。しかし、これだけの時代の変遷を経ても、そこに記されている内容の価値は少しも低下していない。なぜならそこで語られていることは「食」を中心とした哲学であり、また文化だからである。また木下謙次郎をしてこれらを書かせた知識のバックグラウンドには中国思想の知の体系が存在している。もちろん日本古来の歴史や文化および思想、また西洋の文献や歴史もふんだんに盛り込まれているのではあるが、 木下謙次郎 の漢文および中国思想への造詣の深さには特に舌を巻く部分が多い。

 実際、日本料理の世界は、その根底に中国思想の大きな影響の痕跡を各所に見ることができる。 その思想的な背景に陰陽五行説が存在しており、我々日本人は無意識のうちにそれをごく自然なものとして受け入れているのである。 例えば日本料理では器のセットは三、五、七というように奇数で揃えられてるがこれは奇数が陽数であり、日本料理がアシンメトリー(非対称)を重んじるためである。 また、鮪やサバやブリのような青魚を刺身にする際には平造りといって包丁の陽の面を使って切る、よってバランスを取るために四角い陰の皿に盛られる。一方、ヒラメや河豚のような白身魚は薄造りにする際は包丁の陰の面を使って調理する、よってバランスを取るために丸い皿に盛られることになっている。 面白いことに現代でもスーパーマーケットに並べられているプラスチックのトレイ皿のようなものまでもが、必ずこの通りの盛り方になっている。 四角いトレイ皿と丸いトレイ皿があり、それぞれの種類の刺身が陰陽分けられて、該当するトレイに盛られるのである。丸皿も角皿も無くして統一した同じトレイにした方が合理的ではあるはずだが、それに従わないと我々日本人は何だか違和感を感じるのであろう。このようなコードのようなものが我々の文化の中には自然に埋め込まれていて、その先の根本には中国思想があるという訳なのである。

 今回『美味求真』を現代語にする過程において、中国思想の知の体系や、その知のシステマテックさとその深さに改めて気づかされる事になった。こうした点を註釈の部分で明らかにしながら『美味求真』という書物に対する理解を深めて頂く機会を読者にも提供できればと考えている。 またこのサイトにおいて『美味求真』本書を大きく超える分量で、註釈を付するようにした。 これは博覧強記の書である『美味求真』に対して、その上から、私なりの博覧強記で上塗りするという試みである。 これは確かに大変な作業であるが、様々な原典や資料を取集するという点では、過去の研究者に比べても格段の利便性が現代のインターネット時代に生きる我々にはある。実際に大量の知や情報がインターネットには包含されており、こうした情報アーカイブスは年々充実してきている。
 こうした大量の文献、あるいは出典先の原典をあたり、そこから自分なりの考えや思考を導き出すというプロセスは非常にスリリングであった。現代仮名遣いの『美味求真』および、註釈を通して、読者もこうした「知」に積極的に触れるための門口としていただければと切に願うところである。

 『美味求真』は再び我々が「食」の本質に立ち返り、至味とは何かを追求し、そこに到達するための手引きとして役立てることができるだろう。これが書かれた当時とは食に関するバックグランドや味の嗜好は異なっているには違いないが、本質においては我々は何ら異なることのないものをこの本から知覚できるに違いない。あらためて『美味求真』が多くの人に読まれ、理解されることを心から願う。

 平成二十六年六月二十四日

河田容英かわだ やすひで



註 釈