竹内始萬
竹内始萬という人物について
竹内始萬(本名:順三郎)は1898年(明治31年)静岡県生まれ。国民新聞社学芸部長を経て1933年(昭和8年)に退社し、雑誌『水之趣味』の創刊に携わる。
その後に、中国に渡り新聞社局長、新聞社社長を歴任し、終戦後の1946年(昭和21年)帰国。
1949年(昭和25年)3月1日に佐藤垢石の後を継ぎ、つり人社を設立。同社の社長となった。
『水之趣味』の創刊
竹内始萬はそれまで働いていた国民新聞を辞めたのは30歳頃である。それから後、釣りの雑誌の為に、布津純一が社長である啓成社に所属することになる。
啓成社は『大字典』という漢字辞典を軸とした出版社であり、重版が続くこの辞典だけでもかなり安定した経営が行われていたようである。よって『水之趣味』は、その中でも本流というよりは、余技あるいは試作的なものであったのかもしれない。
啓成社が釣りの雑誌を出版しようとしたのは、代表者であった布津純一の趣味が釣りだったからである。しかし布津純一のプロデュースにより、この時、すでに啓成社は『美味求真』というベストセラーを世に送り出しており、新しいジャンルの出版物を手掛けようという挑戦も行っていたのかもしれない。
布津純一は、『水之趣味』の発行される前年の1932年(昭和7年)に、啓成社の取締役と、国民新聞取締役と総務局長を兼任していたようである。そのため同じ国民新聞に所属し働いていた竹内始萬を、釣雑誌発刊のために啓成社にリクルートしてきたのかもしれない。
30歳の竹内始萬が、大手の新聞社を辞めて、まだ認知されていない趣味的雑誌の刊行に携わるようになることは人生の一大転機であったとする見方もある。しかし考えようによっては、元勤務先新聞社の先輩で、取締役の安定した経営している会社に転職して、趣味の釣り雑誌の創刊に携わることは、趣味と実益を兼ねた自然な流れだったのではないだろうか。
『水之趣味』創刊号
竹内始萬は啓成社に入り釣り雑誌の編集に携わるようになる。こうして『水之趣味』が1933年(昭和8年)11月号として創刊された。四六倍版、約100ページ、写真入りで、表紙は幸田露伴が提供したアイザック・ウォルトンの『釣魚大全』第一項の挿絵が表紙に使われている。この絵は鷹匠、ハンター、釣り人が出会い、道連れになるというシーンで、それが『水之趣味』というこの雑誌のタイトルを暗示している。題字は幸田露伴によって書かれたものである。
雑誌の表紙を見ただけでは、釣り雑誌と分かりにくかったようであり、「釣魚雑記」とわざわざタイトルの上に表記されている。『水之趣味』は釣り雑誌というよりも、むしろ文芸雑誌の趣がある。これも竹内始萬のセンスが発揮された結果であろう。
The Complete Angle : Izaak Walton
アイザック・ウォルトンの『釣魚大全』からの表紙絵の引用とは非常に示唆的である。ウォルトンは「静かなる時を学べ」という金言を残している。
ある本によると、知識人の趣味は「料理」か「釣り」に集約されると書いてあるのを読んだ記憶があるが、どこに書いてあったか出典の記憶が曖昧である...。いずれにしても言いたいのは、「料理」と「釣り」のこのふたつの趣味における高尚さである。
それは西洋であれば、ブリア=サヴァランの『美味礼賛』とアイザック・ウォルトンの『釣魚大全』であるかもしれないし、中国であれば、袁枚『隨園食単』
と、太公望のような並列関係であるかもしれない。
『つり人』社の設立
佐藤垢石は、1946年(昭和21)7月号から釣り雑誌『つり人』創刊号を発行。その数年後の1951年(昭和26年)に、佐藤垢石から竹内始萬は『つり人』を受け継ぎ、つり人社の社長となる。
竹内始萬は、それまで啓成社の『水之趣味』の編集を手掛け、その後は役員にもなっていたので、ライバル紙である『つり人』の経営を竹内始萬が行うことには軋轢があったのではないかと思うが、その後も東大釣友会の顧問を、布津純一と竹内始萬で勤めていたようなので、大きな問題ではなかったのかもしれない。
『つり人』は現在でも発行されている釣り雑誌であるが、その礎としての、初期における佐藤垢石、そして竹内始萬の功績と存在感は今でも大きいのである。
参考文献
『釣魚大全』 アイザック・ウォルトン
『行雲流水記紀行編』 竹内始萬