現代に残る古代菓子

 奈良にある春日大社では、神饌として米粉でギョーザのような形を作り、胡麻油で揚げたもの「餢飳(ぶと)」と呼び、長年作り続けられている。春日大社の神饌「ぶと」は、神職によって作られており、その作り方は口伝とされている。美しい形が作れるようになるまで3~10年はかかるらしく、上手にできなければ一人前の神職ではないといわれるほど「ぶと」を作ることは重要視されている。

 

 「ぶと」には幾つか漢字があり「伏莬」あるいは「餢飳」と記されている。
 文献史料を見ると平安時代から「ぶと」に関する記述が幾つか残されており、そこから製法・形状を探ることが出来る。

 

文献史料に見られる「ぶと」

 「ぶと」については『和名類聚抄』、『色葉字類抄』、『類聚雑要抄』等で言及されており、その料理法について言及されている。

和名類聚抄わみょうるいじゅうしょう
 蒋魴切韻に云わく、餢飳部斗二音、字亦た䴺𪌘に作る、和名布止、俗に云う伏菟、油で煎った餅の名也

 

 『和名類聚抄』は、平安時代中期の承平年間(931年 – 938年)に作られた辞書である。ここで「ぶと」の漢字が「餢飳」「䴺𪌘」「布止」「伏菟」というように記載されている。そのものは油で煎った餅というように記されている。

色葉字類抄いろはじるいしょう
亦た䴺𪌘に作る、油で煮た餅也。 餢飳・竜舌・伏兎已上同俗之を用いる。

 『色葉字類抄』は、橘忠兼が平安時代末期に編纂した古辞書である。ここでも油で煎った餅というように説明されている。

類聚雑要抄るいじゅうざつようしょう
 餅。四十八枚。各長八寸。弘二寸六分。厚一寸。三並十六重。
 伏菟。廿四枚。各長八寸。弘二寸六分。厚一寸。三並八重。
 䬲 。丗二枚。各長八寸。弘四寸。太五分。二並十六重。

 『類聚雑要抄』は、恒例・臨時の儀式、行事における調度について、指図(見取り図)によって詳しく記した記録である。1146年(久安2)頃に完成され四巻から構成されているが、作者は不明である。平安時代のいろいろな調度についての研究に貴重な資料となっている。

 保延2年(1136)12月「内大臣殿廂大饗差図」を見ると、「伏莬(ぶと)」は「餅」や「まがり」と並んで「菓子」として認識され、その他「大柑子・小柑子・橘・栗・串柿」と共に「菓子八種」のひとつとして数えられている。
 「菓子八種」のうち最初の3つは唐菓子で、後の5つは果物である。
 餅は説明するまでもないが、「伏莬(ぶと)」と、もうひとつの「䬲(まがり)」は、米や麦の粉をこねて形作り、油で揚げたものであった。「䬲(まがり)」は紀貫之の『土佐日記』にも、4年間の任務を終えて京に帰る途中のなかで言及されている。そこでは

土佐日記 
けふのようさりつかた京へのぼるついでに見れば、山崎の小櫃の繪もまがりのおほちの形もかはらざりけり。

とあり、紀貫之が京に戻る途中、西暦935年2月16日の山崎あたりの店頭風景が綴られている中で「まがりのおほちの形」を見たことが記されている。これは「まがりと書いてある看板」と解釈されているように(諸説あり)、当時もてはやされた唐菓子のひとつである「まがり」は、人々に売られていたことが伺えるのである。

 『和名類聚抄』でも「糫餅まがり」というように漢字で記されており、「形は藤葛 (ふじかづら) の如きものなり」と説明されているので、形は生地を草木の蔓のように曲げて作られたものであったらしい。

 

ぶと饅頭

 奈良にある江戸時代創業の萬々堂通則の銘菓に「ぶと饅頭」というものがある。これは春日大社の神饌「ぶと」を、大社の許可を得て今様にアレンジして奈良の銘菓としたものである。
 本当の「ぶと」は、米粉を水で練って蒸したものを成形してごま油で揚げたものであり、「ぶと」の中には具が入っていない。
 これに対して萬々堂通則の「ぶと饅頭」には、中には国産小豆を炊いたこし餡を入れ、皮は小麦粉を主体とし、コーン油で揚げ、仕上げにグラニュー糖がまぶして、現代向けにしてあると言えるだろう。

唐菓子

 古代の日本では果実や木の実などを総称して「くだもの」と呼んでいたが、漢字が伝来し「くだもの」に対して「菓子」あるいは「果子」の字があてられるようになった。
 奈良時代から平安時代にかけて中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが「唐菓子」と呼ばれるようになる。このような加工食品としての菓子が伝来して以降、果物については「水菓子」と呼んで区別するようになっている。

 現代では、伏莬のような唐菓子は作られなくなってしまっているものが多いが、奈良時代から平安時代から神社で続く神饌の中に、いまだに存在しており、古の食(菓子)がどのようなものであったかを伺い知ることが出来るのである。