『随園食単』は袁枚えんばいの記した著書である。著者の袁枚は清代の大詩人で、食通としても著名な人物である。『随園食単』は料理の作り方を記した書物であり、ブリア・サヴァランの『美味礼讃』と美食に関する書籍の東西の双璧を為している名著である。

 袁枚(1716年~1797年)は字は子才、号を簡斎、別の号として随園である。袁枚は1739年に24歳で科挙で進士科に及第したエリートであったが、優遇されず地方を転々とし、父親が亡くなった後に1749年の春に33歳( ※ウィキペディア等の他の資料では38歳と記載されている )で官職を辞し隠居生活に入ってしまう。

 辞職後、南京の城西にあったずい氏の別荘を住居として、隋氏の姓からそこを「随園」と命名した。引退後はこの庭園のある邸宅で隠遁自適し、読書や執筆また美食に耽溺して日を送るようになる。袁枚は詩において大きな名声を得ていたため、多くのパトロンがおり、その文章による収入は莫大であった為に、豪奢な生活が支えられていた。

袁枚 肖像

 

 袁枚は、その生涯で30余種の著書を残したが、『随園食単』は1792年(乾隆57年)に刊行されたということなので、袁枚が76歳頃の著作という事になる。( ※ ちなみにブリア・サヴァランの『美味礼讃』が刊行されたのは70歳の時、1825年の死の2ヶ月前である )

 『随園食単』の内容は、味つけや取り合わせを知ることなどの予備知識について20項、材料の浪費や味の混濁を戒める警戒事項14項を述べてから、海産物9項、川魚6項、豚肉43項、獣類16項、鳥類47項、有鱗水族17項、無鱗水族26項、精進47項、小菜43項、点心55項、飯粥2項、茶酒16項の、料飲について作り方、飲み方についての説明を記載している。40年をかけてこれらを招待を受けた先の主人や料理人たちから収集して編著したものである。

 

料理哲学に関して

 『随園食単』第一巻の「須知單」にある先天須知で、まずは知っておくべき事として「天の与えた性質を知ること」を説いている。その中で、司廚之功居其六,買辦之功居其四と述べ、料理の素材が悪ければ、料理人が調理しても駄目であり、美食の功績は、料理人が6割、素材の購入4割であるとしている。これは『美味求真』でも強調されており、木下謙次郎も『随園食単』にその料理哲学の多くの部分を負っていると言えるだろう。

 また『美味求真』では本味を濫りに用いるべきではないと強調しているが、『随園食単』でも先と同じく第一巻の「須知單」に變換須知という項が設けられていて、一物有一物之味,不可混而同之と述べて様々な素材の本味を混ぜて調理することを戒めている。この点も木下謙次郎が『随園食単』から引用し、かつ指摘する大きな要素となっている。

 これらの料理哲学は不変のものであり、現代においてもその方向性は何ら変わるものではない。

 『随園食単』では禁止事項として耳餐じさん目食もくしょくを戒めている。耳餐とは価格の高い珍物であると聴いて喜ぶようなご馳走の事であり、 口で味わうという点で優れた料理ではないものを言う。また目食とは品数の多さを誇るような眼のご馳走であって味の料理ではないものを意味している。 『随園食単』ではこうした傾向を戒め耳餐目食を非難している。

 例えばさもしいレストランではキャビアとフォアグラとトリュフといった高級食材をやたらと使おうとしたり、しかもあろうことか、これらの食材を組み合わせて出してきたりする場合がある。また旅行で内陸地にある宿に行っても何故か食事に伊勢海老を入れて出して来るような所もある。これらは高級食材で豪華さを演出しようという耳餐としての行為に他ならない。もてなす側はこれを行うべきでは無いし、食べる側もそれを有り難がるのようでは味を理解しているとは言い難いのである。
 このように食材の向き不向きや、なぜそれをここで食べるのかを理解せずに、こうした食材を濫りに用いることは避けなければならない事である。
 さらに確かに珍しい食材は美味で価値があるものであるが、それを混濁して用いるのは、耳餐という過ちだけでなく、本味を濫りに乱用するという間違いまで犯してしまっている事を理解していなければならない。またこうした高級食材が入っているだけでそれを有り難がるのも耳餐に値すると言えるだろう。例えばキャビアはパーティーの席などでフィンガーフードにほんの数粒、申し訳程度にふりかけてあったりするが、それが何ら味に効果がある訳では無いし、しかもその品質は大体は最低のものである。悲しいかなキャビアが使われているという事だけが重要であり、その味はまったく顧みられていないのは嘆かわしいばかりである。

 目食を有り難がるひとの食事に関して言えば、これはもうお子様ランチと同じであるとしか言いようがない。料理の品数が多いからと言ってそれが美味と直結している訳ではないのに、料理を数多く並べることに豪華さを感じる人は多い。
 我々日本人は目でも食べるといって、盛り付けの美しさも重視するが、これは目食を意味するものでは無い。盛り付けによって食材の味そのものが際立たせられていれば、それは良いのである。ただ過剰な装飾によって、味では無く、豪華さだけが演出されているような料理は目食であると言わざるを得ないであろう。
 そんなに一度に食べれもしないのにテーブルの上にやたらを料理を持ってきて並べられることがある。そうなると先に出てきた料理は冷えてしまい、刺身は乾燥して表面には潤いがなくなってしまう。味を損なうだけでなく、料理を出す順番から生じる味の演出も、調和も無く、まさに食い散らかすと表現するしかない様子の食卓となってしまうのである。

 たまに「貧乏くさい料理」というような料理に優劣をつけるような表現をする人があるが、貧乏くさいのは自分の料理に対する感性の方であって料理ではない。豪華な料理よりも、むしろメザシの一本に真味が潜んでいることもあれば、里芋の土のミネラル感の高さにこそ旨さの真髄が溢れていることもある。これらを理解もしないで料理の云々を語る者こそが大概に耳餐目食の誤りに落ち込んでしまっているのである。これを『随園食単』は戒めており『美味求真』もまた同様にこうした行為を避けるように戒めている。

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美味求真
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