5月5日には粽(ちまき)を食べる習慣がありますが、日本ではいつ頃から粽が食べられるようになったのでしょうか? 

 931年-938年に編纂された『倭名類聚鈔』に、粽(ちまき)が和名で「知萬木」として記載されています。製法として、もち米を菰の葉で包み、これを灰汁で煮込むと記載されていて、さらには5月5日にそれを食べるとも書かれています。よって平安時代の始めごろには既に粽は食べ始められたと考えて良いでしょう。

 その後、京では餅の中に餡を包み込んだり、餅を葛餅に替えるなど様々に変化を遂げて現代に至っています。

 

京都の老舗、川端道喜

 京都の粽の老舗と言えば、「川端道喜」です。創業は今から500年以上前、室町時代の文亀三年(1503年)から粽などの菓子を作り続けています。この菓子店、川端道喜が特別なのは、室町時代から御所に餅を毎日届け続け、それが明治時代になり天皇が京都から東京に移動するまで三百年間以上続けられてきた事にあります。

 今でも京都御所には、道喜門(リンクから門を見ることが出来ますが残されていています。

 室町時代後期、応仁の乱によって京は荒れてしまい、御所の財政も逼迫していました。しかし天正5年(1577年)に京に上洛した織田信長が御所の修復を命じます。この時に大きな働きをして修繕に貢献したのが、初代の川端道喜とその息子でした。現在、道喜門と呼ばれている門は、実はその当時、川端道喜が、工事を監督する工事奉行として資材搬入の勝手口として使っていたものです。その様子の絵が「川端道喜文書:家の鏡」に残されています。

天正5年 信長の命により御所の修繕が行われた。

 

 この門は工事後も閉じられることなく、代々の川端道喜が御所に餅を献上する為に使われました。餅は御朝物(おあさもの)として、後柏原天皇の在位の頃から、毎朝、御所に届けられていました。室町後期の御所は、財政的に苦しかったため川端道喜が献上する餅を後柏原天皇は待ちわびていたという記録もあります。献上の時の様子が描かれた絵が「川端道喜文書」のに残されていますが、その様子を見ると御所も所々荒れていて手入れされていない様子も描かれています。

餅献上の様子:塀が壊れ草が生えている

 

 こうした背景を考えると、川端道喜から献上される餅は、天皇にとっても大きな楽しみであったに違いありません。またそれを300年間以上も続けた代々の川端道喜の当主もすごいです。

餅献上の様子:御所の屋根も傷んでいる

 

 さて、献上された餅は塩餡を餅でくるんだものだったようです。その当時は、砂糖などはまだ希少価値で高価なものでしたので、餡は少しの塩で炊いた小豆餡でした。それを餅を包んだものを6つ、毎日献上していたようです。

 朱塗りの器に餅が入れられ、それがもうひとまわり大きな朱塗りの器に入れられます。さらにそれらが唐櫃に入れられて、唐櫃の両端に晒布を輪にしてかけ、青竹を通して二人で、御所の庭まで運んでいきます。絵を見て頂くとその様子が分かると思います。御所に着くと、それを長橋の局(勾当内侍)という女官の長に渡し、六個の中の二個が天皇の食卓にのぼることになります。

 時代がさがると、献上された餅は食べられる事はなくなりますが、朝食の前には、お餅を眺めるという『朝餉の儀(あさがれいのぎ)』という儀式が行われるようになり、明治時代まで毎朝、天皇は川端道喜の餅を眺めるのが儀礼として組み込まれるようになりました。このように初代、川場道喜が禁裏に貢献したことが認められて、それが代々受け継がれて、儀式化したということも大変興味深い話であると思います。

 

川端道喜のちまき

 現在の川端道喜は『水仙粽』と『羊羹粽』の2種類を販売しています。
 『水仙粽』は吉野葛と砂糖のみで作られていてシンプル、『羊羹粽』は吉野葛に小豆こしあん、砂糖を合わせたものとなっています。「半返し」の状態の葛生地を、一本につき5枚の笹の葉で包んで、藺草(イグサ)で束ねて茹でて作られます。茹でたときに発する笹の葉の香りも、粽を引き立てる重要な要素です。

 川端道喜は、5本の粽をひとつに束ねて販売しています。
単に粽といっても、川端道喜の粽は恐ろしいぐらい手間がかかっています。笹の葉の準備から、餡の練り方、粽の湯がき方、また湯がき方によって甘さを引き算してちょど良いところにもってゆく技術などを知ると、安い粽ではないのですが、これほどの手間をへて作られる粽がこの値段(3.900円
)であることに頭の下がる思いです。さらにまたそれを口にすると、今度はその美味さ、香りと、喉越しに、参ってしまい再び頭を垂れてしまいます。

 

川端道喜の初期

 川端道喜の始まりは、1503年であるとされています。文献の初見は1512年の『室町幕府奉行人奉書』にあります。ただここには、川端道喜としてではなく京餅座の権利を得た「餅座」に対しての文書です。しかし、この文書が川端家に残されていることから、かつての川端道喜が、この時代から権利を得ていたことが分かるという訳です。

1512年の『室町幕府奉行人奉書』

 

川端道喜文書

 川端道喜には『川端道喜文書』が残されているので、その文献から歴史を調べることが可能です。

 現在は川端道喜となっていますが、川端を名乗ったのは四代目からで、それまでは渡辺の姓を用いていました。渡辺という家は元は武士で、渡辺進が京都の南の方の鳥羽で餅屋を始めて、後に、御所の近くに移り商売を始めます。

 渡辺進は同じ鳥羽村の中村五良左衛門を婿に迎えて、そしてこの五良左衛門が剃髪して道喜を名乗ったことから、代々、子孫が道喜を名乗るようになりました。川端の姓は京に移り住んだ御所の近くに川が流れており、その川端に店があったことから川端姓を名乗るようになりました。現在の当主は16代目ということですが1937年に出版された『立入宗継文書・川端道喜文書』には家系図が掲載されていますので、掲載しておきたいと思います。


++++初代   道喜
++++二代目  道初
++++三代目  宗柳
++++四代目  道怡(この頃から川端姓を名乗るようになる)

++++五代目  常悦
++++六代目  温勝
++++七代目  義知
++++八代目  有蕃
++++九代目  愼政
++++十代目  正珍
++++十一代目 正秀
++++十二代目 正興(この時代に遷都)
++++十三代目 正路
++++十四代目 正房
++++十五代目 道夫
++++十六代目 伸政

 

 川端道喜の歴史を紐解くと、織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康、千利休との関係性が明らかになってきます。この辺の詳細に関しては、『美味求真』のサイトで近日、記事を公開する予定です。