この世が始まって以来、人には求めて止まない何らかのものがいつも存在する。その真実を求める心は知識となり、善を求める心は信仰となり、美を求める心は芸術となるのである。さらにその美は言語文字となって現れれば文学となり、色彩、線、点となって現れれば絵画・彫刻・建築となり、音律になって現れれば音楽となり、四肢身体の動作となって現れれば舞踊となる。さらに美を求める対象が異性となればそれを恋愛と言い、美を求める心が食味にある時、これを至味というのである。
味覚は元来、科学ではなく人の感情に属するものであるので、人によってはその食味の好き嫌いが別れてしまうことはしかたがない。昔、 文王 は菖蒲の漬物を好んでいた。そのことを聞いた孔子はそれに習って首をすくめてまで無理して食べて、ようやく三年目になってこれを克服したと言っている。このことから例え同じ聖人であったとしてもその趣向には違いがあるのだということを理解できるだろう。 屈到 は
開国し西洋との交易を始めた頃、西洋人が鶏の骨付きロースを手掴みでしゃぶり、油と血で歯を染め、唇に滴せる有様を見て、日本人たちは鬼畜の飲食であると身震いしたそうである。他方、西洋人は日本人たちが箸で生魚を食べているのを見て、猫族の類ではないかと怖気付いたという。こうした事は生まれながらの食習慣や食文化に基づくものの違いであって、日本人でも西洋の食に慣れている者であれば蛆のわいたチーズの味わいの本質を知っているし、西洋人でも日本食に慣れている者ならばウルカの塩辛に美味しさを見いだすことが出来るはずである。つまり至味はすべての食品に存在しているのである。これは作品により深みと軽妙さをあわせ持つシェークスピアの小説を読むことにも似ている。その作品は読者の知的レベルに応じて、その妙味をますます深く感じとる事が出来るからである。それと同様に、深い味覚を味わおうとする人には、よりその至味が深みを増すのを感じることが出来るが、味覚が浅い人は感じることが出来ないために浅い程度にしか味わえないのである。
このように時として味についての判断は独断と偏見に陥ってしまうことがある。しかしだからと言って味覚の求真を拒避するならば、音楽や美術に対しても同じ理由でその探求を拒避しなければならなくなるだろう。ゆえに随園はその著書 『随園食単』 において、「自分の好みの味覚を天下に無理強いして認めさせることは出来ないとしても、斧の柄を取って斧の柄を切れば寸法はあまり違わない」と述べ、また孟子は「味覚においては天下は
【 参考 】
師曠は周時代の音楽家。楽師として音楽を極め、琴で悲曲を演奏した際に、白雲が西北から起こって屋根瓦が飛び周囲の人々は恐怖や不安で顔が真っ青になった。
哲学の多くは科学を基礎とした技術に基づいているとしても、究極的にはその人の高い自己が映し出された聡明な思想の表現であると言える。故にカントにはカントの哲学があり、老子には老子の主義があり、各自が論じるところは必ずしも一致する事はないのである。これは科学が客観的なデータを重視するのに対し、哲学は主観的な判断である直感に基礎がおかれているからである。味覚も同じように感覚的判断を基礎としているという理由から、美味求真とは料理の哲学であると結論づけたいと思うのもある意味正しいと言えるのではないだろうか。ゆえに管仲は、「食事と休息が心の静養には必要であり、聡明さをもって事にあたるのは生の徳である。
この為、聖人は食事に精通し、時に休息を取り、六氣の変化に対応し、放蕩に身を任せることをしない。体に悪いことを行わず、嘘を口にすることもなく、整然とした生活を送ることを決めているのは清らかで尊いことである 」と述べ、食と思想・心の関係について説明している。
料理は決して容易なものではない。極めて繊細で巧みな技術が求められるだけでなく、細やかで多種の異なる味の好みが人にはあるため、それを口で説明することはもとより、文章で伝えることもできないのである。そのため『詩経』では
『周易』には鼎亨という言葉があり、『書經』には塩梅について述べられている。(『書經』に若作和羹、爾惟鹽梅とある)
『書経』には「和羹を
陳平は「天下を治めることは、肉を取り分けるようなもので、料理は政治と同じで無益な干渉を避け、自然の節理に従い自由と平等を基調とすべきである」と語っている。中国においては宰人(料理人)の宰は、宰相の宰と同じ文字を当てており、我が国でも料理の文字は往々にして天下を料理するというように使われることがある。
ヨーロッパでも カール5世 の時代には、国務省の往復文書中に帝室料理の献立が記載されていて、政治と美食が同じものとして扱われていた事が分かる。(H.Gウェルズ 世界文化史)
また周代には、内閣総理大臣(天官家宰)は、自らが飲食調理のことを司らなければならないという官制が敷かれていた。(周礼)
こうしたすべての例は、おしなべて料理の技術と政治の要所には共通点があるという事を表している。
ギリシャの最盛期には王侯貴族が自ら手を下して料理を行うことを誇りとしており、それは社交的な芸術として行われていた。我が国でも平安時代には賓客饗宴の席で主人は自ら俎板の前で座り、右手に庖丁、左手に魚箸を持って調理することを誇りとしていて、もし主人がそれを行えない場合は、調理の巧みな者に代理をさせていたとさえ言われている。
【 備考 】
『宇治拾遺物語』には
世の中に食べることを楽しむ人は多く、美食の愛好家も少なくない。しかし味を理解する者に至っては極めて少ない。『中庸』にも「飲食をしない人はいないが、味を知るものは少ない」とあり、『易経』には 「酒食貞吉,以中正也」 (酒食の貞吉とは、中正なるをもって良しとする)とあり、『佛書』 には、仏だけが備えている完全な身体的特徴のひとつに長広舌があり、食べるものは皆上味とある。『典論』には、一世の長者は家屋に凝るが、三世の長者は服や食に凝る。家屋を飾り立てて、建築物を広大で立派にしようとすることは成金のいかにもやりそうなことであるが、服や食に関しては代々名門の長者でなければ易々と身につくものではないと明らかにしている。
また食べることが好きな人が、必ずしも味を好む人であるという訳ではない。いわゆる大酒飲みで大食漢の
それに加えて美味を好む人が、必ずしも美味を理解する人であるという訳でもない。中国においては齊の桓公、ヨーロッパでは カール5世 、日本では 細川勝元 が有名だが、彼らは皆一様に、味への追及が一種の偏食の極にまで陥ってしまい、桓公は人肉の蒸し焼きを嗜むようになりカール5世は鰻のパイを偏愛し、勝元は淀川の鯉でなければ口にしたくないとまで言うようになったのである。
味を理解する者であれば、決して彼らのようにはならないだろう。むしろ味覚の正しい位置をわきまえ、味覚の幅を持ちながら、珍しいものばかりに強い関心を示すことなく、偏食を行うことなく、すべてのものに美味の真を求めようとするのである。
歴史にそのような人物を求めようとするなら、中国には
【 備考 一 】
トルコ人は水を飲むことにおいて世界一の国民であり、舌の先で何処のものかを判定することが得意であるという。
我が国においても文化年間に煎茶が流行した時代、好奇の面々が度々集まって敷瓶煎茶を出して置いて、水の出どころは玉川だとか隅田川だとか、また井戸水だとかを当てる事と、茶の銘柄を判別することを誇っていたという。
中国でも李徳裕、陸羽、蒲元といった者たちが皆、水の味を見分けたとして有名である。蒲元は涪水と江水をまぜたものを飲み、これ以上は涪水、これ以下は江水のものであると言い当てたと伝えられている。
また江州堅田の医師、北村祐庵は、その味によって魚類鳥類の産地を言い当てたと伝えられ、中国にも同様の記録が多くみられる。『三秦記』には符朗鵞鳥を炙ったものを食べてことごとく毛色の黒白を言い当てたとある。これもまた味感の敏感であるのを伝える話しである。
【 備考 二 】
ペトロニウス はローマ時代のネロの寵臣であり、宮廷での宴会係の長官であった。風刺小説を二十冊。大饗宴記等の著書があり、紀元六十六年、ライバルのガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスの讒言によって自殺した。
至味を求めようとするならば、まず美味とされている名産品を食べてみるべきである。これは必ずしも奇食玉膳四海の珍味を食べ尽くさなければならないという意味ではない。試しにこれを以下に挙げてみる。
鳴門の鯛、壱岐の鮑、琵琶湖の鰉(ひがい)、霞ケ浦のワカサギ、江の島の栄螺、鎌倉の鰹、天城の山葵、鳴門のワカメ、長崎の豚、神戸の牛肉、
北海道の山鳥(雷鳥)、北上川の鮭、朝鮮の山七面鳥、台湾のキョン(鹿の一種)、金剛山(朝鮮)の岩茸、京都の松茸、光州(朝鮮)の林檎、
大邸の梨、岡山の梨、琵琶湖の鮒、淀の鯉、山口馬関の河豚、篠山の猪肉、柳川の鰻、日田の鮎、北筑の鶏、
名古屋藩 | 鮎鮓、氷餅、上條瓜、干柿、美濃柿、大根、海鼠腸、雁、鶴 |
---|---|
和歌山藩 | 釣瓶鮓、氷餅、宮崎粉、素麺、大和柿、鯨、蜜柑、新忍冬、粕漬鯛 |
西條藩(伊与) | 鯛子塩辛、素麺、鯉 |
水戸藩 | 葛粉、初鮭、二番鮭、三番鮭、四番鮭、五番鮭、鮟鱇、甘漬鮭、鶴 |
津山城主(美作) | 塩鴨、漬蕨、鯛、 |
福井藩 | 鮮鯛、 |
松江藩 | 鮮鯛、十六島苔、 |
前橋藩 | 熟瓜、梨子、栗、枝柿 |
明石藩 | 鮮鯛、塩引 |
会津藩 | 正月鮭子籠、暑中 |
金沢藩 | 鯛、鱈、海苔、 |
大聖寺(加州) | 蒸鰈、刺鯖、瀬越塩辛、葛粉、干鯛、塩鴨 |
鹿児島藩 | 砂糖、漬 |
仙台藩 | 鯛、鱈、 |
宇和島藩 | 宇和島 |
熊本藩 | 桑酒、濱漬鯛、砂糖漬梅、銀杏、加代板干鯛、砂糖漬天門冬、粕漬鮒、朝鮮飴、 |
福岡藩 | 氷砂糖、博多素麺、 |
広島藩 | 干鯛、西條枝柿、同串柿、三原酒、塩鮎鮨 |
萩藩 | 塩鯛、鮑切漬、塩小鯛、雲丹、塩鶴、鯖切漬、 |
佐伯藩 | 干鯛、 |
佐賀藩 | |
岡山藩 | 糟漬鯛、 |
彦根藩 | 鮒鮓、紅葉鮒鮓、 |
津藩 | 鯛、寒漬鴨、葛粉、大和柿、塩鶴、雁、濱塩鯛 |
久留米藩 | 筑後蜜柑、 |
盛岡藩 | かたくり粉、鮭、鶴、菱喰、白鳥、 |
松山藩 | からすみ、山つぐみ、干鱧、小麦粉 |
桑名藩 | 白魚目刺、塩引鰡、蘆久保煎茶、三度栗 |
忍藩(武州) | 岩茸、黒大豆、栗芋、辛味大根、干ゼンマイ |
木幡藩(上州) | 葛、挽抜蕎麦 |
郡山藩(大和) | 南都酒、吉野葛、粕漬鮎、大和柿 |
田中藩(駿州) | 興津鯛、塩引鰡、蘆久保煎茶、三度栗 |
膳所(江州) | 鮒鮓、粕漬鮒、塩蕨、塩松茸 |
飯山(信州) | 塩蕨、蕎麦、 |
小田原藩 | 小梅、干鯵、里芋、甘鯛、蜜柑 |
淀藩(山城) | 鯉、鮒鮓、葛粉、鴨 |
臼杵藩(豊後) | |
二本松藩 | 雉子、菱喰、白鳥、漬蕨、鶴 |
棚倉藩(奥州) | |
館林藩 | |
佐倉藩 | 蒟蒻、うどん粉、胡麻、鴨 |
對州府内藩 | 人参、干鯛、塩鰤、豹皮 |
土浦藩 | 筍、栗、銀杏、雁、白鳥 |
笠間藩(上州) | 黒大豆、寒晒、松茸、小豆、網掛鶴、上芋、枝柿 |
高崎藩 | 黒大豆、葛粉、鰹塩辛、大根その他 |
島原藩 | 干鯛、 |
西尾藩(参州) | 岩蟹、葛粉、 |
府内藩 | 干鯛、粕漬梅、粉糠漬鮎、銀杏 |
亀山藩(丹波) | 塩松茸、葛粉、山椒、栗 |
高遠藩(信州) | 寒晒、蕎麦、麦、黒大豆 |
浜松藩 | 枝柿、葛粉、浜納豆 |
岸和田藩 | 飯蛸粕漬、鰡塩引、干鰈、生干甘鯛、和泉鱧、もずく、干鱧、 |
笹山藩 | 松茸、熟瓜、山椒、丹波栗 |
高島藩(信州) | 鮒、鮎、氷餅、寒晒蕎麦、干鯛、巣鶏、雉子 |
鳥羽藩(志摩) | 鰡、鯛、洗いわかめ、胡桃、大豆、干鰤、鰹ゆき、腹鮑子塩辛 |
福山藩(松前) | 熊皮、葛粉、若黄鷹、黒豆 |
人吉藩 | |
赤穂藩 | 焼塩、葛粉、 |
柏原藩 | 干鯛、干鱈、山椒、丹波栗、丹波小栗 |
芝村藩(和州) | 鯛、吉野葛、吉野蕨粉、串海鼠 |
田原藩(参州) | ワカメ、熟瓜、干鰤、干シラウオ |
藩によっては特別の産物がなく、献上されてないものもある。また献上物は多数あるが、どれも平凡であるか、または他藩のものと重複するものは省略してある。詳しくは『大成武鑑』を参照のこと。 |
もし、国内のご馳走だけに限定せず、それを広く大陸に求めるようという人がいるならば、『天中記』に記載されている中国の美味と称されているものを見て頂きたい。
江皋の綠籠の筍
洞庭の紫髭の魚
昆山の龍胎の脯(ほし肉)
玄圃の鳳足の葅(塩漬)
千里蓴羮萬丈の名膾 (蓴菜の吸い物と鱸のなます)
安定の噎鳩の麦
洛陽の董德の糜(おかゆ)
河東の長若の葱
隴西の舐背の犢(子牛)
抱罕の赤髓の羊
張掖北門の豉(味噌)
洞庭の負霜の橘
仇池の連蔕の椒(スパイス)
犓牛の腴、肥狗の和(まぐさかいし牛の腹肉、肥えた狗の吸い物)
熊蹯の臑、芍薬の醤(熊の手、シャクヤクの調味料)
薄耆の炙、鮮鯉の膾
秋黄のチーズ、白露の茄子
山梁の米、豢豹の胎肉
楚苗の食、安胡の飯
なお、これでもまだ飽きがこないようであれば、遠く古代まで遡って中国の味聖 伊尹 が理想とした食材をご紹介しよう、それは次のように挙げられている。
肉の美味なところは、猩々の唇、貛々の炙、雋燕の翠(ホトトギスの尾の肉) 、述蕩の孥、
旄象の約(旄は唐牛またはヤク、約は尾のことだが腎臓をも意味する)である。また流砂の西、丹山の南には沃民は食べている鳳の卵があるという。
魚の美味なのは、洞庭の鱄“毛の生えた亀”、東海の鮞“鮭の腹子”、醴水の朱鱉“すっぽん”と名つけられた六足をも持ちそこに珠のある生物。
雚水の鰩と名付けられた魚“トビウオ”、その形は鯉のようであり翼があるとされいつも西海から夜に飛んで、東海に移動する。
野菜の美味なものは、崑崙の
「そもそも三種類の食材の中で、水中にいるものの味は鼻に来る生臭さ、肉食の動物の味はアンモニア臭さ、草を食べる動物の味には特有の生臭さがある。肉にはこうした臭いがあるにも関わらず美味であるのには理由がある。本来、味の根本は水にあり、また調味や加熱を駆使する調理では火の扱い方が重要である。 ある時は短時間で、ある時は時間をかけて火による調理を行い、臭味を減らし、アンモニア臭さや生臭さを取り除くのだが、そうであっても材料の良いところは残すようにし、決して素材そのものの本質までも失うようなことがあってはならないのである。 調味に関しては必ず甘酸苦辛鹹の五味をもって行い、どの味を先に加えるか後に加えるか、またその分量と味のバランスの微妙さは、それぞれがみな理屈に基づいたのもでなければならない。 鍋の中での変化は精緻で微妙なものである為、これを言葉にして、うまく喩えることは出来ないが、 それは例えば巧みな手綱さばきで馬を制して弓を射るようなもの、あるいは陰陽の変化や四季の数と同じものであると言わざるを得ない。 それゆえに料理は長時間加熱しても材料の質を損なうことはせず、柔らかくても煮崩れず、甘くても濃くはなく、酸っぱくとも強烈ではなく、 塩辛くても元の味は損なわれす、辛くとも激しくはなく、淡白でも薄くはなく、濃厚であっても脂濃くはないのである」
とあるように、まずはこれらを吟味して会得すべきである。文字から学び文字から出て、法則から入って法則を越えた自己による主張の閃きを感じ取らなければならない。
必ずや文字による法則の外へと超越し、自己の自由な見識に立つべきである。変化に柔軟に応じ、その良い部分を自分のものとしなければならない。俗に茶も出花とか、鬼も十八番といわれるように、すべてのもの事にこの出花をとらえ、すべてのものを青春のこの十八歳の香りに誘わなければならない。
この見方によって滋味の女神の居場所を理解し、力を尽くしてこれを求め、誠心誠意をもってこれを迎えるのである。
美味を求めるのに不自由を感じるのは金銭の不足ではなく、むしろ知識とセンスの不足の方にこそあると認識すべきである。
笱(竹で編んだ魚を捕まえるための粗末なとっくり形のかごで,魚が中に入ると出られなくなる仕掛けになっている)をもってそれを求めることに専心しようとしないのであれば、例え「龍脳鳳肝」のような珍味が存在するとしても、味神はたちどころに消え去ってしまい人はもっぱら残骨を舐るだけのことしかできないであろう。つまり味神は必ずしも富豪や貴族の食卓だけに現れるのではない。むしろ美味を愛して求め、趣味に富んだ質素である人の食卓にこそ現れるのである。
ひとつの南瓜にも至味があり、一尾の鰯にも味神は宿っている。
そうであるならば何物にもよらず各々の真味を発揮させて、ひとつひとつその長所を引き出すことが料理であるといえる。
言い換えれば、料理とは型式的には生物を殺すことであるが、思想的には食材として生物を活かそうとすることである。つまるところ料理人の包丁は殺す道具ではなく、命を吹き込む道具なのである。
このように料理とは必ずしも物質と富によって成し遂げられるものではなく、知識とセンスを基礎とした美味を求める心と、技術によるものであることを悟るべきである。これにあたり人の手で行えることには全力を尽くし、素材もつ力を大切にし、それを愛して求め、あらゆる天からの恵みに自分を委ねなければならない。味神は、愛する人の好みに合わせて自分の容姿を変える美女のように、全身にその装いを凝らしてあなたの食卓に現れ、必ずあなたの見識に応えて厚い待遇で報いてくれるに違いないだろう。
すでに美味の真を得て、その必然として最高の悟りを得たなら、あらゆる誘惑や多くの欲から離れて、徐々に味真への思索にへと進み、そこに立つようにしなければならない。 美味を理解する者として有名であった唐の蘇易簡は、かつて大宗の問いに答えて「味とは絶対的に定まったものではない」と述べている。 濃い味の後には、淡い味を求め、脂っこいいもの後にはさっぱりたとものを欲しくなる、脂肪分に飽きれば酸っぱいものを求め、辛いもののあとには甘いものを食べたくなる。まさにそのように物事には定まった絶対がなく、春夏秋冬のような移りゆく季節の巡りに似たものなのである。
鳳凰の肝がもし鶏の肝のようであり、龍の脳がもし陸鰻(中国人は蛇を陸鰻と言い、我が国では丘鰻という)のように容易に得られるものならば、鳳肝龍脳は必ずしも至味の権威を欲しいままに得ることは出来なかっただろう。
欲は手に入りにくいところに生じ、望みは無いものを得ようとするところに起こるのである。
鰯やサツマ芋は簡単に手に入れやすく、量が多いために軽んじられているが、それに対して
ゆえに『小笠原故寶聞書』には、山海の珍味というのは「蕨、梅干、クラゲである」として質素な食材を重要なものとして挙げている。
これは極端で言い過ぎであるとしても、また真実の一面も示していると言えるのではないだろうか。
言うまでもないが価格と栄養とは必ずしも釣り合っていない。
まさしく、その道は遠くにあるのではなく、近くにこそあるものだからである。
一日中、春を探して見つけられなかったにもかかわらず、自宅に帰り窓辺にある梅のひと枝に春を見出すという一句に気付かされるならば、それと同じく美食王国の巡礼者も回れば帰るもとの道であることに気付くべきである。
アビシニア王子の教えを待つまでもなく、萬方一如(すべてのものは同じである)という言葉が示すように、物事に上下を決めるのは容易ではないことを理解するようになるに違いない。
ローマのセネカ(ネロの教師)の書には「人の渇望を満たすために、他国を攻め囲む必要も、海に乗り出す必要も、野を越える必要もない、自然に必要とするものを得るのは難しいことではなく、すぐに手に入るように近くに存在するのである。食料が平等主義の精神によってだれにでも分配されている事は、自然に向かって感謝すべきことなのである」と述べている。
以上、説明したように、味覚に絶対を求めることは難しいとしても、味神は往々にしてこれを求める人のセンスと探求に応じて、その姿を現すものであることも知っていなければならない。 しかしもしその至味を、どこにでもあるような一般の料理店で探求しようというのならば、それは「木によって魚を求める」ようなものだろう。こうした料理店が愛して迎えるものは味神ではなくて沢山のお客でしかないからである。そうした客の多くは酒をのみ、芸姑と戯れることを目的とするだけである。そうでなくても所詮は耳餐目食、いたずらに奇を追って、珍しいものを求める事に満足しているだけで、味の真否を問うことようなことはない。よって凡庸な料理は小細工の技巧に陥ったり、うわべを飾るだけのつまらない細部への拘りに走ったりするのである。こうして結局は砂糖や出汁を乱用し、本味を濫りに用いるだけである。技術や食材の持ち味の最善を尽くすような誠意もなく、天の恵みを侮蔑して気に留めようともしない。 そのために料理の皿数がいくら多く目の前に並べられていても物足らず、緊張感がないため、そこに美味を求めようとしても難しいのである。
【 註 】
耳餐、目食とは中国人の料理の言葉で、耳餐とは価格の高い珍物であると聴いて喜ぶようなご馳走の事であり、
口で味わうという点で優れた料理ではない。
目食とは品数の多さを誇るような眼のご馳走であって味の料理ではないものという意味である。
ギリシャのペリクレスは品格高い哲学者のような政治家であったが、その数十年の長きにわたる政治家としての生活中、親友の招待にも、社交場の饗宴にも、どのような娯楽の招待にも応じることはなく、どのような者とも晩餐を共にすることはしなかった。その生涯における唯一の例外として、甥のユープトレスの結婚式に出席したことはあるが、それでも儀式の済むのを待って早々に引きあげ、晩餐には出席はしなかったのである。このような無愛想な態度について世の歴史家は、それが威厳と品格を保つためであったのではないかと推測しているが、異なる面から考えてみると、それは食の趣味が理由であって、ありふれた食事をとらなければならないのを苦痛に感じ避けていたとは考えられないだろうか。
晋の大常であった
【 備考 】
庖丁に関しては、我が国では種々の誤り伝えられていることがある。
現に『日本百科大事典』も『料理大全』も皆その解釈を間違えている。中には庖は厨と読んで台所のことである。
丁は厨房ではたらく使用人の丁であって、庖丁とは料理人の事であるなどと注釈を付けたりしている。
酷いものに至っては、物を割く庖刀と混同しているようなものもある。
庖丁とは『荘子』の養生篇および『呂氏春秋』の精通篇に出ている人名である。篇中には
「宗の庖丁という者が巧みに牛の切り分け好んで牛を解体したという。
始めは牛そのものを見ていたが、三年を経て牛を見ることなく解体できるようになり、刀を使って十九年になるが、
刃は研いだばかりのようであるのは、天理に従うが故に、刃が大なる隙間に進み、
大なる空隙に導かれ、その自然に適っているからである」とある。この章では韓退之の論を引用しておいたが、庖丁とは、この人物のことであると理解しておいて頂きたい。