ちまき

  •  
  •  


日本における粽


 日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事である。
 日本では季節の変わり目である端午の日(5月5日)に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていて、急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多かったため、健康増進のための行事として端午の節句は定着していった。

 こうして人々は5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や粽を飲食して健康増進を祈願したのである。

 今でも「五月病」と呼ばれる精神的な病が五月には日本で見られるようになる。これは新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状で、新人社員や大学の新入生や社会人などに見られるということになっているが、昔からの習慣と照らし合わせると、「五月病」は単に精神的なものだけでなく、季節の変わり目による身体的な影響も考えられなくない。
 端午の節句のような習慣は、体の変調に備えるために、そして意識的に健康増進に気をつかうように促す点において、重要な行事としていま尚、我々の生活に根付いているのだろう。そうした意味で、粽を食べることは日本人の習慣において季節を感じ、体調管理の大事さを思い起こさせるものとなっているのかもしれない。



京都の粽


 京都では祇園祭の時期に、八坂神社から「厄除けちまき」を持ち帰って玄関口に吊るし翌年の祇園祭まで「厄除け」として飾る習慣がある。 この「ちまき」は笹の葉で巻かれイグサで縛られ束にしたもので、笹の葉を開いても餅などは入っておらず、笹の葉ばかりで出来ている。 束ねられた「ちまき」には短冊状の札が付いていて、そこには「蘇民将来之子孫也そみんしょうらいのしそんなり」と書いてある。この粽は「厄除け守り」なのである。

京都の粽

 このちまきの由来は以下のようなエピソードにもとづいている。
 八坂神社(祇園社)のご祭神である素戔鳴尊(スサノヲノミコト)が南海に旅していたとき、一人の貧しい旅人のような姿で、 将来家の二人の兄弟に、一晩泊めて貰えるようお頼みになられた。
 貧しい旅人のなりで現れたスサノヲを見た、裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は宿泊を断ってしまったが、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しい生活を送っていたにも関わらず、その旅人のために粟殻を敷いて招き、粟の粥でもてなしを行い暖かく迎え入れたのであった。次の朝、蘇民将来の真心に喜んだ貧しい姿の旅人は名を明かした。
 「我は素戔鳴尊(スサノヲノミコト)である。後世に疫病が流行した時、蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰につけていれば災厄を免れることを約束する。」
 そしてその後、疫病が流行り、巨旦将来の子孫は死に絶えてしまったが、蘇民将来の子孫は茅の輪をつけ疫病を免れ、代々繁栄し続けたと言い伝えられている。

 この故事に因み、素戔鳴尊のご利益の護符とされる「茅の輪」には「蘇民将来子孫也」と記されている。「茅の輪」は「茅」を束ね「巻」かれたものであることから、「茅巻(ちまき)」と「粽(ちまき)」の音を担ぎ、祇園祭には「蘇民将来子孫也の札をつけた厄除けチマキのお守り」をつくって、門口に吊り下げられるようになったという。
 「夏越祓」なごしのはらえが神社で行われるが、その折に行われる 疫除けの 茅の輪くぐり はこの蘇民将来伝説に由来していて、それが現代でも行われている。



茅巻き、茅の輪


 京都の八坂神社の粽は、ユダヤにある「過越しの祭り」の習慣を思い起こさせる。 この祭りは、昔、ユダヤ人の祖先たちがエジプトで奴隷状態にあったときに遡る。 奴隷状態からの解放を求めて、ユダヤ人の指導者であったモーゼは、ファラオとの交渉において 「十の災い」をエジプトにもたらす。ナイル川が血に変わったり、雹が降ったり、イナゴの害、ぶよの発生といった最悪をエジプトを襲うが、 最後の十番目の災いが「エジプト中の長男」が死ぬというものであった。 ただし、家の戸口に子羊の血を振りかけておくならば、その家の長男は死ぬことがなかったのである。 当然、ユダヤ人の家には戸口に子羊の血を振りかけていたため、長男が死ぬことはなかったが、エジプト人の長男は次々に亡くなり、 ユダヤ人の祖先たちは、エジプトから解放されたのである。 家の戸口に粽を飾ったり、茅の輪くぐりの行事はこれを思い起こさせるものである。 また鳥居が朱色に塗られていることの関係しているのではないかという説もある。

参考サイト:日本とユダヤのハーモニー



屈原と粽


 屈原は秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、石を抱き汨羅江べきらこうに身を投じて没した人物である。

屈原:横山大観 画


 入水自殺のあと屈原の無念を鎮めるため、また人々は亡骸を魚が食らわないように魚のえさとして笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったのだが、これがちまきの由来と言われている。

 屈原の死後、千年ほど後、六世紀に書かれた『続斉諧記』の五花絲粽には次のように記されている。 屈原の入水後、その死を悼んだ里人は、命日の五月五日に供養として竹筒に米を入れ、汨羅の淵に投げ込んでいた。しかしある時、屈原の霊があらわれ、こう訴えたのである。 「淵には蛟龍(こうりゅう=龍の一種)が住んでおり、投げ込んだ供物を食べてしまう。厄除けに楝樹(せんだん)の葉で包み、五色の糸で巻けば蛟龍は食べないであろう。」 それから里人は教え通りに供物を作るようになったのである。

 こうした謂れがあり、屈原の命日と言われる五月五日にちまきが食べられるようになった。 そして現代の日本においても、端午の節句には粽を食べているので、屈原のこの出来事がいまだに我々の生活に深く浸透していることを感じることが出来るだろう。

詳しい屈原に関する情報





参考文献


『春秋期の屈氏について 』  山田崇仁