細川勝元ほそかわかつもと

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細川勝元について


 細川勝元(1430年~1473年)は第11代細川京兆家当主で、応仁の乱の東軍総大将として知られている人物である。この京兆家が、細川氏一族の嫡流(本家)であり、摂津・丹波・土佐などの守護職を世襲したと同時に、代々室町幕府の管領職として重要なポジションにあった。

 細川家には他にも有名な人物として、『美味求真』の中では細川幽斎について味を理解する者として述べられているが、この幽斎は細川家の嫡流ではない。

 『美味求真』の中では、細川勝元に関して「味への追及が一種の偏食の極にまで陥ってしまった人物」としてネガティブに捉えられている。特に細川勝元は鯉料理においてかなりの拘りをもっていたようであり、いくつかのエピソードをここで紹介しておきたい。


細川勝元の鯉


 あるとき、勝元の料理人が鯉料理を膳にあげたが、勝元は一口食べたきりで箸を置き、苦い顔でこう言った。 「これはよその鯉であろう。鯉は淀川産に限る。このことしかと心得よ。」

 このように細川勝元は鯉は淀川産以外に口にしなかったとされ、『美味求真』では偏りがあるとしてある。他にも細川勝元は鯉の産地を言い当てたとも言われている。

【 塵塚物語  四 】細川勝元淀鯉料理之事

 管領右京大夫勝元は、一家無雙の榮耀人にて、さまざまのもてあそびに財寶をついやし、奢侈のきこえもありといへり、平生の珍膳妙衣は申に及ばず、客殿屋形の美々しき事言語同斷なりと云々。 此人つねに鯉をこのみて食せられけるに、御家來の大名、彼勝元におもねりて、鯉をおくる事かぞへがたし。

 一日ある人のもとへ勝元を招請して、さまざまの料理をつくしてもてなしけり、此奔走にも鯉をつくりて出しけり、相伴の人三四人うやうやしく陪膳せり、扨鯉を人々おほく賞翫せられて侍るに、勝元もおなじく一禮をのべられけるが、此鯉はよろしき料理と計ほめて、外のこと葉はなかりけるを、勝元すゝんで、是は名物と覺え候、さだめて客もてなしのために使をはせてもとめられ候とみえたり、人々のほめやう無骨なり、それはおほやう膳部を賞翫するまでの禮也、切角のもてなしに品をいはざる事あるべうもなし、此鯉は淀より遠來の物とみえたり、そのしるしあり、外國の鯉はつくりて酒にひたす時、一兩箸に及べば其汁にごれり、淀鯉はしからず、いかほどひたせども汁はうすくしてにごりなし、是名物のしるし也、かさねてもてなしの人あらば、勝元がをしへつること葉をわすれずしてほめ給ふべしと申されけるとなり。

 まことに淀鯉のみにかぎらず、名物は大小となく其德あるべきもの也、かやうの心をもちてよろづに心をくばりて味ふべき事と、その時の陪膳の人の子あるひとのもとにてかたり侍るとぞ。


 上記の塵塚物語の内容を現代語で説明すると。

 幕府管領である細川勝元は、一家無双の栄耀人であり様々な遊興に財宝を費やし奢侈であった。普段の珍膳・妙衣は言うまでもなく、客殿屋形の美しさは、言語道断であると言われた。
 勝元は常に鯉が好物で食していたので、家来の大名たちは勝元に気に入られようと、数えきれないほどの鯉を贈っていた。
 ある日、とある人が勝元を招き、様々の料理を尽くして饗し、この時も鯉料理が出された。この時同席した3、4人が、恭しく陪膳していた。さてこの鯉料理を人々は多く賞翫し、それを素晴らしい料理であるとばかり褒めたのだが、それ以外の言葉がなかった。勝元も料理に一礼を述べ、そこからさらに言葉を進めて
「この鯉は、名物であることが分かります。きっと客へのもてなしのため、人をやり遠くから求められたのでしょう。それに対して、この場の人々の褒め方ではあまりに無骨です。それはおおむね、膳部を賞翫するまでの有り様についてです。折角のもてなしに、その素材について語らないのは、あって良いはずがありません。
 この鯉は、淀より遠来したものであると見ました。その証拠があります。他の国の鯉は、捌いて酒に浸すと、一度箸を入れればその汁は濁ってしまいます。しかし、淀の鯉はそうではありません。どれだけ浸しておいても、汁の色は薄く、濁りがありません。これこそ名物である淀の鯉の証拠です。
 皆さんの中で、重ねてこのような饗しを受ける人が有れば、この勝元の言葉、忘れないようにして料理を褒められますように」と申された。

 誠に淀の鯉のみに限らず、名物は大小となくその徳のあるべきものである。こういった心を持って、様々なことに心配りをして味わうべきであると、その時、陪膳した人の子という人物が、ある人の所で語ったという。


 このように『塵塚物語』では細川勝元が、鯉の産地を当てたことが述べられている。また細川勝元は鯉が好物であったため、多くの鯉が贈られていたとあるので、鯉の味には当然うるさく、また知識も経験も有していたに違ない。


鯉という食材の位置づけ


 この当時、鯉は最上級の魚であった。こうした高級な食材に通じていた細川勝元はグルメな人物であったと言えるだろう。
 鯉の位置づけに関し徒然草でも説明されている。

【 徒然草 118段 】

 鯉ばかりこそ御前にてもきらるゝ物なれば、やんごとなき魚なれ、鳥には雉さうなきものなり、雉松茸などは、御湯殿の上にかゝりたるも苦しからず、其外は心うき事なり


とあり、鯉が高尚で高級な魚として扱われていたことが分かる。また料理の素材の格式に関して『四条流庖丁書』のなかでも以下のように述べられている。

【 四条流庖丁書 】

 美物(びぶつ、美味しいもの)の上下の事 上は海の物、中は川の物、下は山の物。一応そうした定めがあるが、雉に関しては別に決まりがある。川の物を中にしているが、たとえ海の物でも、鯉にまさる海の魚はいない。ただ鯨は鯉より先に出してもいいが、それ以外は鯉を上位にして置くべきである


 細川勝元は、鯉料理などにも精通していただけでなく、禅僧の横川三景に教えを請い、禅の修行に励み龍安寺や竜興寺を建立している。さらに儒学にも精通していたので太田道灌から『孟子』を教えてほしいと頼まれるほどであった。
 また自ら医術を研究して和漢の医学書をまとめて『霊蘭集』(序文は禅の師である横川三景による)を著している。さらに和歌では、当時の一流歌人である東常縁に師事し学んでいる。他にも絵画にも優れた才能を持つとされており、荒くれの戦国大名という印象よりは、明らかに文化人として非常に優れた人であった。

 『美味求真』で木下謙次郎は、偏食の極にまで陥ってしまった人物として挙げているが、私はそれとは異なった印象を細川勝元に対していだいている。淀川の鯉を見分けた『塵塚物語』のエピソード以外で言及されている「淀川の鯉以外は食べようとしなかった」あるいは「様々な鯉の産地を言い当てた」というようなエピソードの確かな出典先を、私は見つけることができなかった。これは私の予想であるが『塵塚物語』のエピソードが核としてあり、そこから後者のエピソードが後から膨らまされて生まれたのではないだろうか。
 『塵塚物語』のなかでの細川勝元は、淀川の鯉を見分けているだけであり、さらにその質の高さを理由を述べて評価している。よってこれだけで勝元が偏食の極にあったとは言えないだろう。むしろ細川勝元は、文化を知る者は、味を知る者でもあることを示した人物であったと私は考えている。

 私は細川勝元を、味を理解する者として評価したい。