柳子厚 (柳宗元 )
『美味求真』の中では、柳宗元が述べた「奇異、小虫、水 草、櫨梨、 橘柚によって、苦、塩味、酸、辛を味わい、唇を刺し鼻を裂き舌を縮め歯を渋くした」という文章が引用されているが、この出典は『柳宗元全書』卷二十一·題序である。何故、柳宗元はそのような味について語ったのかについて本稿では掘り下げてみたいと思う。
スーパーエリート官僚
まず、最初に語っておかなければならないのは、柳宗元が非常に優秀なスーパーエリート官僚だったという事である。柳宗元は793年(貞元9年)に21歳の若さで
「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」と言われていた程、進士科は非常に難しい試験で何度挑戦しても合格できない者の多い狭き門であった。受験者の大部分は一生をかけても合格できず、経済的な理由などで途中で受験を断念する者が沢山いたようである。そのため進士科の合格者は格別に尊重されることになった。進士科合格者は唐代で毎年2~30名ほどしかいなかったとされているので、21歳の若さで合格した柳宗元がいかに優秀だったのかが良く分かるに違いない。
その後、柳宗元は26歳でさらに難しい高級官僚登用試験である博士宏辞科に及第する。これによりさらなるエリート官僚の道を歩み始めることになったのだが、西暦805年(貞元21年)33歳の監察御史裏行(監査官助手)のときに、政治の腐敗を実感するようになり、王叔文(おうしゅくぶん)らが、新たに皇帝に即位した順宗を後ろ盾とした政治改革運動に参加するようになった。この改革派グループの目的は、当時、力を持ち過ぎていた宦官から権力を奪取すること、そして新しい政治形態への改革を行なうことであった。
この改革派グループの中心には、翰林学士(翰林待召)の王叔文(おうしゅくぶん)と王杯(おうはい)がいた。翰林学士とは、天子に直属する機関翰林院の高官役職のことである。翰林学士は詔勅の起草を司り、ここから宰相となる者が多いことから、唐・宋代には天子独裁制の支え、実権を握ることが出来る役職とされていた。つまり王叔文も王杯も、新皇帝となった順宗の側近として改革を推進できる非常に力のある立場だったということである。
また改革推進の官僚メンバーは陸淳・呂温・李景倹・韓曄・韓泰・陳諌・凌準・程異・柳宗元・
官僚メンバーの中では特に柳宗元と友人の劉禹錫のふたりが重要な役割を果たしており、王叔文・王伾と共に「二王劉柳」と並び称されていた。順宗が皇帝になり、王叔文、王杯が実務をこなしてゆく体制が確立されてゆく過程で、さらに改革派グループの求心力を高めるため、各メンバーは権力的中枢に抜擢されるようになり急速に出世した。この時期の王叔文にはかなり政治的な勢いがあり、改革派グループのメンバーたちを政治的に重要なポストに就任させていったのである。
もしも王叔文の計画がスムーズに運んだならば、この急進的な改革派グループが新しい勢力となり、旧来の政治権力者を廃して唐の政治を動かすようになったはずである。しかしながら彼らの後ろ盾となっていた皇帝順宗が病気を理由に退位することになってしまい、その息子の憲宗に帝位が譲られると、反対勢力であった旧来の宦官たちが再び力を取り戻し、彼らの目指した改革は急速に力を失ってしまったのである。
左遷
残念ながら、ここが柳宗元の最も大きな人生の転機であった。
首謀者の王叔文は左遷され、その後に死を賜り、同年に辺境の任地で死亡した。柳宗元を含む8人の官僚たちもは地方長官である刺史という役職で左遷され、最終的にさらに降格となり司馬という役職で任地に派遣された。これを「八司馬事件」という。降格人事となった唐代の「司馬」という役職がどのような地位だったかというと、ます地方にはトップに刺史がおり、その下の次官に別駕、次いで別駕の下に長史、そして司馬という地方でも下の役職であった。
中央の政治の中枢にいた彼らにとって、地方の「司馬」という役職での左遷は屈辱的であったに違いない。この時、柳宗元は33歳、そこから彼は、永州(湖南省)に10年赴任し、その後、任地変更により柳州(広西壮族自治区)刺史となり、この辺境の地で47歳で一生を終えることになる。
先に西暦805年~806年の失脚から左遷にかけての時期は、柳宗元の人生の大きな転機であったと述べた。この転機をどのようにみなすべきだろうか。その当時の柳宗元からすると明らかに絶頂からの奈落という最悪の転換点であったに違いない。しかし現代の我々から見ると、それは彼にとって必ずしも悪くない転機だったと言えないだろうか。なぜなら、中央での官職を追われたことで文学者として作品を書き残すことが出来るようになり、柳宗元の詩はいまだに読み継がれている。結果的にこうした左遷によって、彼の名と作品は永遠性を獲得することになったと言ってもよいのである。柳宗元の詩の中でも特に人口に膾炙された、有名な句を以下に記す。
千山鳥飛絶 | |
---|---|
萬徑人蹤滅 | |
孤舟簑笠翁 | |
獨釣寒江雪 | 独り 寒江の雪に釣る |
「雪江」書き下し文
幾千の山という山から飛ぶ鳥の姿が絶え
幾万の道という小道から人の歩く足跡は途絶えた
ただひとつ浮かぶ小船には、蓑笠をかぶった老人が
雪の降りしきる寒い川に向かい、たった一人で釣りをしている
中央の政界で国を動かすような大きな仕事をしていた柳宗元にとって、南方の地方での自分の周りは、山々から鳥が消え去ってしまったように思えたはずである。かつて長安では、新進気鋭の柳宗元のもとに「数十百人」(柳河東集注巻三十四 与楊誨之第二書 )の友が集まっていたと記されている。また「住京都に在りて、後学の士僕にの門に至る。日にあるいは数十人」(柳河東集注巻三十四 報袁君陳秀才避師名書)とも記されているように、後進の者たちの多くが、日々、柳宗元のもとを訪れていたことも分かる。
しかし、そうした柳宗元を慕う者達の行き来も、一面の雪によって、足跡がかき消されてしまっているかのように、この辺境の地では途絶えてしまった。ここで描かれている世界は、長安のにぎやかさとは対照的なところに置かれてしまった柳宗元自身の心象風景であるに違いない。
ここで柳宗元が描くのは「音もない、動きもない、色もない」静謐な水墨画のような世界である。
そして柳宗元は、蓑笠をかぶった老人に自分をダブらせている。それは、外界から遮断された静寂と張り詰めた景色のなかに唯一存在する者であり、しかも、釣り糸を垂れる姿は微動だにしていないようにしか感じられない。
柳宗元の人生に起こった出来事を考えると、この詩に込められた彼の気持ちを複雑に感じ取ることが出来るのではないだろうか。 「雪江」は柳宗元が永州司馬に左遷されていた時の作詩である。温暖な気候の地で作っているにもかかわらず、寒々とした内容であるところが、やはり彼の心象風景が強く投影されたものであることを強く感じさせられてしまうのである。
(この詩は西暦807年「元和2年」の作と言われているので、赴任してきて2年目のことである。この年に永州に大雪が降ったと『柳河東集注』には述べられている。その雪に触発されてこの詩を詠んだという説もあるのだが、私は温暖な気候の地で柳宗元がこのような詩を詠んだということに深い意味があると考える。)
また、前置きが長くなってしまったが、柳宗元の記した「奇異、小虫、水 草、櫨梨、 橘柚によって、苦、塩味、酸、辛を味わい、唇を刺し鼻を裂き舌を縮め歯を渋くした」という部分は蛮夷の地に左遷されてからの食についての言及である。出典:『柳宗元全書 卷二十一·題序』
この当時の南方蛮夷は、柳宗元の目にかなりの異文化の未開の地として映ったことだろう。
近代になるとそうしたエキゾチックなものに対する憧憬が評価を得るようになる。例えばアンリ・ルソーやゴーギャンの画、マーティン・デニーの音楽に。さらには細野晴臣の初期につくられたアルバム(泰安洋行、はらいそ)などにも、私はそれを見ることが出来るのだが、この当時の唐代の文学者たちは、近代の芸術家のようにエキゾチックなものを肯定的に捉えようという視点ではなく、皆が一様にネガティブな捉え方を示している事を見過ごすべきではない。なぜならば、彼らは左遷という好まざるかたちで南方蛮夷に送られたからである。こうした背景から必然的に赴任地に関してネガティブな捉え方にならざるを得なかったことが良く理解できる。
唐代の文学者たちは、文学者であるだけでなく同時に政治家でもあり、その殆どが左遷された者たちである。柳白居易、元稹、劉禹錫、張建封、韓愈といった左遷された者たちはいずれも南方の様子を記録しているが、それぞれが異口同音にその様子をあまり良くない感情を持ちながら伝えている。
例えば
吏民似猿猴 吏民 猿派に似たり
生獰多忿很
辭舌紛嘲啁 辭舌 粉として
白日屋簷下 白日 屋簷の下
雙鳴鬬鵂鶹 讐鳴して
有蛇類兩首 蛇の両首に類する有り
有蟲羣飛游
「現地の役人といい民衆といいまるで猿そっくりで粗野、怒っぽくて、ごちゃごちゃと口うるさく噛み付いてくる。昼にも関わらず、不吉なフクロウがぎゃあぎゃあ鳴いて争いり、ふたつ頭のある蛇がいるし、表には毒虫がたくさん飛び回っている」 というように生理的に受け付けられない韓愈の心情がここで吐露されている。 こうしたネガティブな感覚は韓愈だけの特別なものではなく、すべての左遷された文人に共通している。
このようなネガティブ感情は当然「食」に対しても同様に向けられた。自分の今まで食べてきたものと異なる場合はまったく口に受け付けられない人がいるものだが、左遷された柳宗元も、南方蛮夷の食に対しては奇異さを感じたようである。「永州八記」を書いた翌年である元和8年 (西暦813年)に、柳宗元は「同劉二十八院長述舊言懷感時書事奉寄澧州張員外使君五十二韻之作因其韻增至八十通贈二君子」という五言排律の唱和詩を記しているが、この中に蛮夷の食について以下のように述べている箇所がある。
俚兒供苦筍,傖父饋酸楂
「俚兒は苦筍を供え、倫父酸棟を韻る」
ここで「土着の子供や大人から苦い筍や、渋く酸味が強い実を勧められる」と述べている。柳宗元はこうした異味に接する機会が多々あったのだろう。柳宗元は長安育ちの生粋のシティボーイだったから、大都会の長安と異なる味覚の「南方蛮夷の食」は、かなり異質なものであり、このような「蓼食う虫も好きずき」に近しい感情をもっていたはずであることは想像に難くない。
柳宗元と空海
ちなみに、柳宗元が政治の中枢で改革に参加し左遷されてゆく同時期に、日本人僧侶の空海が留学(遣唐使)で長安に滞在していた。なのでもしかすると空海と柳宗元のふたりは会っていたかもしれない。(個人的には彼らが会っていたと思いたい)空海は西暦804年の12月23日に長安に到着、翌年の西暦805年の5月に青龍寺の
空海
『曼荼羅の人』を著した陳舜臣は、その本の中で、慈恩寺で空海と柳宗元と劉禹錫が互いに会い別れる場面を小説として描いている。
史実に基づいてはいないが、こうした人的な繋がりも全く無かったとは必ずしも言い切れない。私自身、その当時に唐にいた彼らの才能が、互いを結びつけなかった訳がないという気持ちをどうしても払拭できないでいる。
例えば
そしてその橘逸勢は、柳宗元に書を学ぶために師事したと言われている。
真偽は定かではないが、もしそうなのでのあれば空海と柳宗元が間接的にここで繋がることになるので、ともするとその関係性から空海は改革派の官僚メンバーたちとも面識があった可能性も否定は出来ない。
もうひとつ、空海と柳宗元がつながっていたかも...と思わせる理由は、
ここで阿倍仲麻呂を引き合いに出したのは理由がある。 なぜならば阿倍仲麻呂は官僚として優秀であっただけでなく、同時に文学者としても優秀であったからである。それだけではなく李白、杜甫、王維といった詩仙たちとの交友も知られている。 仲麻呂が日本への帰国が許された際に、王維をはじめとする詩人仲間が酒宴をもうけ、彼に詩を送った記録がある。当時は詩酒の宴席で、作詩したものに序文をつけて編集し、 旅立つ友に贈るのが習わしであった。王維は546文字からなる序文をしたため、日本に帰国する阿倍仲麻呂ために 「送秘書晁監還日本國」という詩を詠んで友との別れを惜しんだ。
また阿倍仲麻呂の帰国する船が難船し、死亡したと思われたときに、友人だった李白が、彼の死を嘆いて「哭晁卿衡」(
ちなみに阿倍仲麻呂の詩も、唐詩選の中には収録されていて、作詞においても当然ながら才能があったことが分かる。「銜命還國作」という詩が、朝衡(ちょうこう)著として収められているのでリンクを確認頂きたい。
外国人の阿倍仲麻呂の才能を、唐代の一流人たちは決して見過ごさなかった。 それゆえ李白、杜甫、王維も阿倍仲麻呂を認め、友として親しく交わり、その別れや死を嘆いたのである。唐では、こうした一流の文人と、優秀な日本人との交流が数十年前からすでに醸成されており、その中に空海が入っていったことを考えると、やはりこの時代の文学的な才能をもつ人物との出会いや、交流があったはずだと思わざるを得ない。
しかも、空海はありえないほど短期間のうちに真言密教の最高峰に立った人物であり、言い方は良くないが仏教世界ではいわゆるスーパースターである。その空海を、柳宗元をはじめとする面々、つまり白居易、元稹、劉禹錫、張建封、韓愈のようなスーパーエリート官僚で、時代の牽引者であった彼らが見逃しはしなかったはずである。空海について知り、接触をしてみたいと考えるほうがむしろ現実的であるように思われるのである。この時代の「唐」を考えると、あらゆる可能性を否定できない才能に溢れた人間関係が濃厚に存在しており、非常にスリリングな歴史の時期なのである。
最後に柳宗元に関してひとつのエピソードを述べておきたい。
「頭角を現す」という言葉があるが、これは韓愈が「柳子厚墓誌銘」で、柳宗元の死後、墓誌銘の為に記した言葉が語源である。意味は「学識や才能が群を抜いてすぐれ、際立って目立つこと」であるが、韓愈が褒めるほど柳宗元の才能はずば抜けていたのである。
柳宗元がどのような人物であったか、様々な脱線を繰り返しながら説明したが、ぜひ彼の他の詩にも親しんで頂きたいと最後に申し上げておきたい。
参考文献
「長安時代の柳宗元について」 太田次男
「大師の入唐」
「蠻夷の光景 : 中唐の異文化受容史」 好川 聰