竈神 (かまどかみ)
火の神 - 竈神
火に対する信仰において、どのようなタイプの火を神として信仰するかは重要な要素であったに違いない。 例えばペルシャを起源とするゾルアスター教は拝火教として有名であるが、これは光(善)の象徴としての純粋な「火」を崇拝する宗教である。つまり火そのものを崇拝するというスタイルである。しかし中国でいう火の神は「竈神」つまり、料理の火の神である。これが何とも中国らしいと感じてしまうのは私だけだろうか...。
ゾロアスター教の守護霊:プラヴァシ
『美味求心』 第二章の後半で木下謙次郎も指摘しているのだが、生のものと火にかけたもの(火食)は、自然と文化を分けるものであり、それによって人類は大きな進歩を遂げることになる。つまり料理における火の使用は、非常に大きなターニングポイントになった。それが食に使われるようになることで、人類の栄養摂取効率は格段にあがり、食べ物のバリエーションもかなり拡大されたはずである。そのように考えると「食」を中心に置く中国において、火の神=竈神という設定が行われたのは必然的であるように思われる。
中華圏では「寒食節」という習慣がある。唐宋八大家の蘇軾の書に「寒食帖」があるが、その内容は、この時期は火を使えないので冷たい食事しかとれない。その侘しさと、左遷された自分の境遇と合わせて語られているものである。この書は現在、台湾の故宮博物館に収蔵されているおり、これが人類の宝ともいうべき書なのである。私も故宮博物館ではガラスに張り付いて、じっくり拝見させていただいた。しかも開館してすぐなのでほぼ独り占めであった。(余談)
さて「寒食節」に話を戻すと、この時期は竈が使えなかった。なぜなら一年に一度竈の火を新しくする必要があるからであった。竈の火をリセットする、つまり、火を止めて、火の神を拝して敬意を捧げるのである。
こうした祭祀の詳細に関して『荆楚歳時記』を読んでいただくと色々なことが分かる。そこには竈神祭は老婦人の祭りであると書かれている。
また孔子は「竈神妻子は老婦の祭りだから、正式にやる必要はない」と 『禮記』で述べている。 竈まわりの務めは婦人のものであるので、家族の序列に合わせて竈神の序列もあまり高いものと見なされなくなり、引いては、火の神と竈神は、異なる神であるとまで考えられるようになっていった。
戦国末期ごろに「五祀」と呼ばれる家庭祭祀の方法が広まり、これが五行説とも一緒になって「祝融・炎帝・竈」のラインが再構成されていった。
こうした事象のバックグランドゆえに漢代には、五行説を基にして夏期に竈を祭るようになっている。(『禮記』:月令)
つまり竈の祭りは、本来は夏だったのである。
しかし時代が下がり、唐・宋のころには、夏ではなくいつの間にか冬に竈にまつわる祭祀が行われるようになる。先ほど言及した蘇軾の寒食帖も唐の時代に作られた作品であるが、この時期にはすでに竈の祭祀は冬のものになってしまっている。またこの時代は、都においては年末に竈の口に酒糟をぬりつけ、竈を住みかとする司命神を酔わせるという行事「酔司命」が行われていたと記録されている。このことは『輦下歳時記』竈燈に記載されている。ここで出てくる司命神とは寿命を司る神である。一年の最後に、その年の「人の一年間の所業」を竈神は伝える役割をもっているとされている。なので家族に不利な告げ口を防ぐために、竈に酒糟をぬりつけ酔っぱらわせて正確な報告をさせないようにしようという訳である。他にも竈に飴を与えて、竈の口を塞いでしまうという習慣も記録されている。いずれにしてもこの事は、年末行事あること、つまり冬の祭祀であることが色濃く現れている。
この竈神の祭祀は、地方によっては、12月だけでなく夏の6月の年に2回行われていたという記録がある。夏と冬の両方の月で祝われているというのは、かつては夏に祝われていたことの名残なのであろう。つまりこのことは、元々は「夏」の祭祀であったものが、ある時期からか、いつの間にか「冬」の祭祀へ変わってしまった事を示している。
この理由として『美味求心』でも引用されていた次の部分が、重要になってくる。
「
ここで出てくる竈神となった黎(別名は祝融)の父親は
この顓頊は息子が火帝であるのと対照的に、水帝という役割が与えられている神である。また彼は同時に冬を司る神としても設定されている。
(顓頊は冬を司る者であることが『禮記』に述べられている)
つまり水帝で冬を司る神の息子が、火徳を以て竈神になり、父の司どっていた冬に祭られるというようになったというのが理由である。
しかし、その親が冬の神だったので、竈神が冬に祭られるようになったという理由だけでは、単なる取り違えによる勘違い、凡ミスということになってしまうのではないか。そこには理に適った何らか他の理由があったと考えられる。これからいくつかの要素を挙げ、その理由を示してみたい。
竈神祭祀が冬になった理由(筆者の仮説)
竈神には、人の一年間の所業を天に伝える役割があった。
その竈神が天に上り、報告を行うのは12月23日である。
よって天帝にきちんと報告させないために、其日に祭祀を行い、竈神を祭り、酔わせて天に返すのである。
さらに中国では12月24日に大掃除をするのが恒例である。掃除のときには「三尸神をやっつけて天下泰平。竈王、人々を救ってくれて有難う」と歌うことになっている。こうした習慣は以下の出来事に起因している。
昔、玉皇大帝が人間界の状況を把握するために三尸神を派遣し人間界に住まわせた。年末、
これを聞いた玉帝は非常に怒り、三尸神から犯人を聞き出した。そして家の壁に名前を書いておいて、30日に天将天兵を派遣し、それらの者を捕まえて殺した。
それを知った竈王爺は人間を救いたいと考えた。49日間考えてついに一つの方法を思いついた。それは12月23日の夜に天に上がる前に人間たちに言いつけて、30日までに家の掃除をして壁の名前も消してしまうというものだった。
年末30日に天将天兵が玉帝の命を受けて降りてきたが、人々の家は全てきれいに掃除されており、壁に書かれていたはずの名前も消えてしまっていた。天将たちがそれを報告すると玉帝は信じられず三尸神にもう一度見に行かせたが、やはり名前は見つからない。三尸神がそう報告すると玉帝は怒って三尸神を詐欺の罪で地獄に落としてしまった。
その後、三尸神による災厄はなくなり、人々は竈王爺の恩に報いるために毎年12月24日に掃除をするようになった。
三尸神 |
三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。
60日に一度めぐってくる庚申の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待の行事がおこなわれる。
日本では平安時代に貴族の間で始まり、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。
庚申は「かのえさる」とも読み、庚も申も陰陽五行説によればともに「金」の属性であるとされている。竈神の【火】は【金】の力を打ち消す“相克”の関係にあり、三尸の告発を、竈神が人間のために防いだこの話にはバランスの取れた背景があるのを感じる。 |
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三尸と同様に竈神は、寿命を司る司命神あるいは天帝に人間の一年の所業を伝える役割を持っている。 竈の神に報告される悪いこと、竈の前でのタブーは、子供をぶつこと、泣くこと、歌うこと、竈を叩くこと、竈に足をかけること、竈のうえで食べ物を切ること、女性が股を開いて薪をくべること等がある。これをさせないために、23日に祭祀を行い、24日には大掃除を行うようになったのである。
「三尸神」
竈神が報告を行う役目を引き受けているのは、竈神が天帝の娘婿であるということに起因しているようである。さらに竈神は天帝の怒りをかって娘とともに下界に落とされ、その役目を負っているという説もある。
この辺りの話の流れは聖書のヨブ記に見られる「天で戦いがありサタンが地に投げ落とされる」あるいはノアの箱舟の際の洪水で滅ぼされた脱天使と人間の子供たちネフィリムの話を連想させる。
ところで竈神が天に上がるタイミングも文献によってまちまちである。晦日の夜、竈神は天に上り、天上の司命神に人の罪過を報告するとの説(抱朴子 微旨篇所引の緯書類)もある。また竈神はこうした職能を持つとされているからか、漢から唐の間にしだいに竈神は、混同され司命神そのものとみなされるようになっていったようである。
さて竈神の祭祀が夏から、冬へと変化した経緯はここにあると思われる。つまり竈神が一年の終わりに人間の罪過を報告する職能を有することになった事により、また竈神が司命神と混同されるようになったが故に、年末、つまり一年の終わりである「冬」に祭祀が移動したのではないだろうか。
竈神が軽んじられる理由
『禮記』では「唯云祭黍或無稷也配竈神而祭者是先炊之人」と孔子が述べており、竈神祭は老婦の祭りだから、正式にやる必要はないとしている。孔子がこのように述べたのは、先にも説明したように、家族の位置づけのなかでも低い女性を中心とした祭祀であったことにその原因があったと思われるが、様々な竈神に関する文献をあたると、他にも、竈神の成り立ちや、その性格にも軽んじられる要素が含まれているように感じる。そのことを示す各国に伝わる竈神の説話を次に3つ( 中国・ベトナム・日本 )を紹介したい。
① 張郎 と
丁香
(中国)
昔、張郎という貧しい男が母と暮らしていた。貧しいので二十五歳になっても嫁の来手もなかったが、母親が伝手をたどり、両親を亡くした十七歳になる丁香という娘が嫁いで来た。この嫁は働き者で気立てがよく老母にもよく仕え、財を増やす才覚もあったため、五年も経つと家はたいそう豊かになったが、そうすると張郎は怠け癖が出て、丁香にばかり働かせて遊び歩き、諌める丁香を殴りさえした。ついには李大紅・小紅(二紅)という美人姉妹に魅惑され、些細なことで丁香をなじり、ついには一方的に離縁状を叩きつけて家から追い出してしまった。丁香は荷車と牛と服二着だけを与えられ、山奥に行って小屋を建て、荒れ地を開墾した。
張郎はさっそく李姉妹を家に入れ、二人の美しい妻と毎日遊んで暮らした。母は息子たちの放蕩ぶりに苛立ちながら死んだ。丁香が十年かかって作った家の財産は三年で食いつぶされ、貧乏になると、二人の妻は逃げて家から出て行った。張郎は博打に明け暮れて住む家も失い、ワラ小屋を作って住んだが、ある晩、火を点けたまま眠ってしまい、ボヤを出して火と煙で失明してしまった。二本の杖にすがってあちこちの家で残飯を貰う乞食になり果て、「野垂れ死んで犬に食われたなら、犬の腹が俺の棺桶だ」と嘆いた。
それから数年が過ぎた。盲目の張郎は、ある日、ある家に物乞いに入った。優しい声の女の人がとても美味しい卵とじうどんをご馳走してくれた。食べていると中に四、五尺もある長い髪の毛が入っていて、その先に、歯ざわりからして黄金製らしいかんざしが結んであった。張郎は(うっかり落としたのだろう、しかし売ればいい金になる)と思ってこっそり手の中に隠した。食べ終わると女の人が言った。
「こんなうどんを前に食べたことがあるでしょう」「目が見えなくても声は聞けるのに、前の奥さんが判らないの?」
ようやく、張郎はその女の人が前の妻の丁香であり、かんざしは故意の施しだと気付き、卵とじうどんは彼女の得意料理だったことを思い出した。張郎は恥じて走り出し、丁香の止めるのも聞かずに竈に飛び込んで出てこなくなり、そのまま焼け死んでしまった。
後に丁香が老いて死ぬと、人々はこの夫婦の絵を竈の上に貼るようになった。丁香の勤勉さを学び、張郎の愚かさを真似ないようにするためだと言う。張郎は悔い改めたので竈の神となり、丁香はその妻になった。毎年十二月二十三日に竈神は天に昇り、その年の家庭の様子を報告する。人々はいい報告をしてもらおうと、『竈神、元の名は張、馬に跨がり籠提げて、竈を抜けて玉帝に会う。天に昇って祝いを述べ、下界の平安を守る』と歌いながら、絵の竈神の口に飴を塗りつける。
参考文献
「竈王爺的来歴」/『中国民間文学集成遼寧巻撫順市巻上』
「かまど神の由来(二)」/『ことばとかたちの部屋』(Web) 寺内重夫編訳
『昔話 伝説の系譜 東アジアの比較説話学』 伊藤清司著 第一書房 1991.
② チョン・カオとティ・ニ (ベトナム)
昔、チョン・カオとティ・ニという夫婦がいた。結婚して数年経っても子供ができず、夫は次第に妻に暴力を振るうようになり、ついには些細なことで離縁して追い出した。夫を愛していたティ・ニは泣きながら遠い遠い地へさまよって行き、そこでファム・ランという男と再婚した。
一方、チョン・カオは妻を追い出したことを後悔して、家を捨てて妻を探しに出た。そのうちに路銀も尽きて乞食となったが、旅を続けた。
ある日、チョン・カオは物乞いをするために一軒の家の門に立った。そこはティ・ニの再婚先の家だった。チョン・カオは妻に気付かなかったがティ・ニはすぐに分かり、哀れんで招き入れ、食事や酒を与えて厚遇した。そのうちにチョン・カオは眠ってしまったが、ティ・ニは今の夫に過去を知られることを恐れて、前夫を庭にうずたかく積み上げられた藁束の中に寝かせて藁で覆い、自分も床に就いて眠った。
やがて、出かけていたファム・ランが帰って来た。彼は、明日は灰を(肥料として)田に撒こうと思い、庭の藁束に火をつけた。可哀想に、チョン・カオはそのまま焼け死んでしまった。パチパチと燃える音で目を覚ましたティ・ニは、この有様を見て自分も火の中に飛び込んで死んだ。すると、ファム・ランも妻の後を追って火に飛び込んで死んでしまった。天の玉皇上帝は三人を哀れんで、ずっと一緒にいられるようにと、三人を
彼らは毎年(陰暦)十二月二十三日に天に呼び戻され、一年間の下界の出来事を玉皇上帝に報告する。この日をタオ・クアン節 Tet Tao Quan と言い、紙製の男物の帽子二つと女物の帽子一つ、水盤に入れた生きた大きな鯉を供える。竈の神たちは新しい帽子をかぶって、鯉に乗って昇天するのだと言う。
参考文献
『ベトナム人と日本人』 穴吹 允著 PHP研究所 1995.
「家族を守る先祖の霊」/『大学教授のベトナム講座』(Web) 武越日(穴吹 允)著
③ 竈神の起り (日本 千葉県:上総長生郡)
昔、ある村に一人の百姓があり、旅から戻る途中の夜ににわか雨にあって、道端の道禄神の森の陰で雨宿りをしていた。すると森の前を馬に乗って行く人があり、暗い所から声をかけた。「道禄神はお宿ですか、今夜は何村にお産が二つあります。これからご一緒に生まれ子の運を決めに参りましょう」と。すると森の中から返事があって、「折角お誘いくださったけれども、今はちょうど雨宿りの客があって、手が離せませんから宜しく願います」と言う。馬に乗った人は「左様ならば一人で行ってきます」と言って、馬の足音が遠くなった。
何村というのは自分の村のことだったので、これは不思議なことだと気に留めていると、しばらく後に馬の主が帰って来て、「本家の方は男の子、分家の方は女の子、女は福分があって男は運がありません。これを夫婦にすれば女房の運で栄えるでしょう」と言った。
百姓が急いで村に帰ってみると、ちょうど自分の家に男の子が生まれ、隣の分家では女の子が生まれていたので驚き、早速に相談をして、今から隣同士で縁組の約束をした。
二人が大きなって夫婦になると、確かに家は栄えたが、亭主はそれを女房の運が良いおかげだとは思えず、だんだん気に入らないことも増えてきて、赤飯を炊いて赤牛に結わえ付け、その赤牛に女房を乗せて、強いて遠くの野原へ追い放してしまった。
女房は泣きながら赤牛の行くままに任せていると、次第に山に入って、山中の一軒家の前に来て止まった。その家の主人が親切な男であれこれ世話してくれ、他に行くところもないので、その家の嫁になった。するとその家の暮らしはよくなっていって、後には数多の男女を召し抱えた何不自由のない身分になった。
一方、女房を追い出した本家の方では損をするようなことばかりが続いて、次第に身上が左前になり、しまいには親代々の田畑まで手放して、零落して笊売りになってしまった。笊売りはあちこち売り歩いているうちに、ひょっこりと、山の中の立派な一軒家にやって来て、持っていた笊を残らず買ってもらった。それから後も、他では全然売れないので、毎日のようにこの家に来ては笊を買ってもらっていた。
そんなある日、その家のおかみさんがつくづくと笊売りの顔を眺めて、「どうしてお前さんはそのように落ちぶれたか、元の女房の顔も見忘れてしまったか」と言った。笊売りは、それが前に赤牛に乗せて追い出した自分の女房だと初めて気がついて、びっくり仰天して泡を吹いて死んでしまった。
女房はそれを見て哀れに思い、密かに死骸を竈の後ろの土間に埋めて、自分で牡丹餅をこしらえて供えた。外に出ていた家族や使用人たちが帰ってくると、今日は竈の後ろに荒神様を祀って、そのお祝いに牡丹餅をこしらえたから、幾らでも食べるようにと言った。
これが始まりで、今でも百姓の家では、牡丹餅をこしらえて竈の神のお祭りをするのだそうだ。
参考文献
『日本の昔話』 柳田国男 新潮文庫 1983
以上、いずれの話も「竈」が、妻を捨てたダメな夫と、その死と関係している。 特にいずれの話でも、夫の情けない死に方が描かれているのが共通点である。 この話は、ベトナムや中国、日本において存在しており、アジア全土に広く伝搬したものらしい。 こうしたバックグランドをベースにして民間生活に竈神への祭祀は執り行われてきたことを考えると、竈神には恐れや敬意というよりは、抜けたところとか、親しみ深さとか、失笑のようなものが浮かんでくる。この辺が、孔子をして、あまりシリアスに祝わなくても良いと言わしめた事と繋がっているのではないだろうか。
また、竈神が軽んじられていることは、竈神として表現されている容貌からも推測できる。例えば日本では、東北の宮城県から岩手県にかけて、旧家の台所のカマド近くの柱や壁に、恐ろしい顔をした面を、竈神として祀る風習がみられるが、これが竈神である。
こうした風貌の竈神起源譚として、佐々木喜善の『江刺郡昔話』のなかには「ひょっとこの始まり」として幾つかの話が載っている。
岩手県江刺市のヒョウトク、宮城県黒川郡富谷町や宮城県気仙沼市松岩ではショウトク、登米郡のショウドグ、志田郡の「みたくねぇ顔つきの童」などと名前がちがっているが、これらは竈神起源譚として伝えられており、醜い顔、あるいはユーモラスな顔、ひょっとこのような顔として描写されている。
その容姿を具体的に裏付けるものとして『日本妖怪大事典』編著:村上健司(角川書店)の竈神の項にある東北の昔ばなしを次に転載し説明したい。
「昔、芝刈りに出かけた爺が、途中で大きな穴を見つけ、こういった穴には魔物が棲みつくものだとして、刈ってきた芝で穴を塞ごうとした。しかし、穴は深く、もう一束もう一束と、いつしか三ヶ月もかかって貯めこんでいた芝までも詰め込んでしまった。
すると、穴の奥から美女が出てきて、たくさんの芝をもらったお礼をしたいという。女の後ろについて穴に入って行くと、そこには立派な屋敷やがあり、爺はたいへんな歓待を受けた。帰り際、土産に一人の子供を連れて行けと女がいう。臍ばかりいじる、みずぼらしい子だったので、爺は断ったが、女はぜひ連れて行けときかないので、渋々連れて帰った。
家に連れて帰ったものの、子供は炉にばかり当たって臍をいじっている。爺は悪戯心から火箸でちょいと臍を突いてみた。すると臍からは、金の粒がぽろりと落ちた。それからは日に三度、子供の臍から金の粒が出て、しだいに爺の家は金持ちになった。
しかし、爺の連れ合いの婆は強欲で、もっと金を出そうと、爺の留守中に子供の臍をぐいぐいと火箸で突き、終には殺してしまった。爺が悲しんでいると、その夜の夢に子供が現れて、自分によく似た顔の面を作り、それを毎日よく目につく場所に置けば、家は必ず富み栄えるといった。
そこで、竈に掛ける醜い面のことを、子供の名前からとってヒョウトクとよび、竈神として祀るようになったのだという。」
このように、みすぼらしい子、あるいは別の話では「みたくねぇ顔つきの童」のように表現はそれぞれの場所で異なっているが、おおむね醜い容姿が、竈神には当てはめられている。
ヒョウトクはヒョットコであり、火男、火吹き男の転訛である。あの突き出した口は火を吹いている様を表しており、柳田国男が指摘したように
まとめると、神となった経緯の情けなさ(恥じて竈に逃げ込んで死に祭られるようになった)、それとその醜い容姿において、この竈神は軽んじられる神となったのであるが、だからといって天帝に悪い報告をされても困るので
『竈神と厠神 異界と此の世の境』飯島吉晴 著(p.107)に他の興味深い点が指摘されている。
「民家の間取りをみると、土間、板の間、座敷の三つが並んでおり、住居空間の歴史的変遷のあとを示しているが、そこに祀られる神々にもそれが反映している。土間には水神、火の神、厩神など土着の精霊的性格の強い神が祀られ、板の間にはエビス・大黒などの福神が、さらに座敷には村の鎮守や伊勢の皇大神宮などの由緒ある中央や地方の大社の神々が祀られている。こうした多様な家の神々のなかで、もっとも家族の生活にかかわりが深く、また古いと思われるのは、やはり土間に祀られる神である。土間の神はじゅうぶん神になりきっておらず、神よりカミと書いたほうがよいほど精霊に近い存在で、特別の祭日をもたず、祠さえもないものも多い。」
この指摘は非常に面白い。確かに日本家屋の住居空間における神様に割り当てられた配置を調べると、日本人が辿ってきた神に対する歴史的変遷が分かる。土間は縄文時代、板の間は弥生時代、座敷は大和以降といったように、住居空間の歴史的変遷とともにそこに祀られる神様の性質が変化してきているのである。
もともと家(竪穴式住居)は炉を家の中心にされていたので、その名残の故に、日本家屋では土間に祀られる神様は、縄文から引き続いているプリミティブな竈神(火の神)なのである。
実は、竈神の醜さ、ユーモラスさ、そしてどこか土着的で垢抜けない感じは、こうしたプリミティブさに起因しているに違いないと私は考えている。
土間はどうしても土間(土を固めた床)でなければならない理由が存在しているのである。それは火を使うことからくる防火性や安全性という必然だけに起因するのではなく、竈神がそこいいるという文化的な暗黙の了解を下敷きにしたものであると考えられる。故にその場所(台所)はよりプリミティブな空間・雰囲気が保たれておく必要性があったのではないだろうか。
つまりそうすることでカミである竈神の居心地の良い場所を確保するためである。
『竈神と厠神 異界と此の世の境』
竈神と荒神
台所の神として、日本では荒神という神も存在している。 ではこの荒神と、竈神とはどのような関係があるのだろう。その関係性が『和漢真俗仏事編』には次のように示されている。
問う、「世俗、荒神を竈の神として竈において常に祀る。今の縁起にはこの事無し、いかん」
答う、「古来の口説に、“荒神は最も不浄を忌む、然るに火はその体清浄にして、しかも不浄を除(はら)うものなれば、家に在って竈を浄處とす、故に荒神、人の家に至っては竈を棲居(すみか)としたまう。これによって俗に荒神を竈の神とす”。
また竈神の霊験、異朝の俗典に事実多く出たり。しかるとも今の荒神と俗典の竈神との同異においては明拠なし。しかりといえども各々同体分身とせば、各々通ずべし。漢土にはぜ顓頊氏子名黎すなわち祝融なり。これ竈神とす(『風俗通』)。神道家には興津彦神と興津姫神、この二神を竈神とす(『旧事本紀』)」
上記のように和漢真俗仏事編では「荒神ヲ竈神ト為ス」とあり、荒神と竈神を同じものとする、というように定められている。
日本の神道には興津彦神と興津姫神という二神のが既に定められていたのだるが、竈神とに統合されて「荒神」となったのである。
この荒神は民間信仰を基にして現代の日本にいまだ息づいているのである。この部分の詳細は、興津彦神と興津姫神の註釈に譲りたいと思う。
参考資料
『日本妖怪大事典』 編著:村上健司(角川書店)
『江刺郡昔話』 佐々木喜善
『竈神と厠神 異界と此の世の境』 飯島吉晴