マリンズ(Malin's)
世界最古のフィッシュ & チップス店
マリンズは最初にフィッシュ & チップスのビジネスを始めた店であると考えられている。フィッシュ & チップスはイギリスの国民食と言えるほど良く食べられている料理で、フィッシュ & チップスの歴史やその発展について詳しく知りたい方は、まずは「フィッシュ & チップス」を一読して頂きたい。
イギリスを代表する料理のフィッシュ & チップスは一体何時頃から食べられるようになったのだろうか。こうした疑問に対する調査を行ったのがイギリスにあるNFFF(The National Federation of Fish Friers:全国フィッシュ・フライヤーズ連盟)というフィッシュ & チップス店のための組織である。この連盟は1965年から最古のフィッシュ & チップス店の調査を始め、1968年に最古のフィッシュ & チップス店を認定を行っている。その時に認定された最古の販売者がロンドンのイーストエンドにあったマリンズ(Malin's)だったのである。
1968年9月26日にチャリング・クロス・ホテルで開かれた授与式
Malin'sオーナー:Dennis Malin(左)
NFFF会長:Arnold Scholes(中)
農水食糧大臣:Cledwyn Hughes(左)
実はこのマリンズ(Malin's)、場合によってはMalinと表記されていたり、Malinsと表記される場合がある。もともとこの店を始めたのはMalinを名字(Surname)とする人物なので、単にその名字を店名として表記するのであればシンプルに「Malin」とするのが正解だろう。しかし後になるとマリンファミリーの者たちが複数フィッシュ & チップス店の営業を始めるようになり、複数形の「Malins」、あるいはオーナーのマリン一族を強調する意味の「Malin's」になっていったものと思われる。
ちなみにイギリスの名字を使った企業名には、デパートで有名なハロッズは「Harrods」という表記。また世界的なハンバーガーショップのマクドナルドは「McDonald's 」という表記である。これは一族経営であるとか、あるいは多店舗展開している、さらにはその後に商品やサービス名が省略されて所有格を表すための 's が用いられている。大規模店舗であればともかく、ファミリービジネスの場合は、ある意味では感覚的に使い分けられているようなケースもあり少し分かりにくいのが難点である。そこで本稿では混乱を避けるためにも、統一して表彰式で授与された銘板に合わせ、店名をマリンズ(Malin's)と表記しておくことにしたい。
マリンズ(Malin's)の歴史
1968年に認定されたこのマリンズは、1860年にユダヤ系移民のジョゼフ・マリン(Joseph Marin)が売り始めたフィッシュ & チップス販売の流れを引き継いだ店であるということになっている。このジョゼフ・マリンがロンドンのイーストエンドで最初にフィッシュ & チップスを売り始めたのは「1860年」であると考えられている。しかし文献を調査してゆくと、創業者のジョゼフ・マリン(Joseph Marin)が始めた店を場所は、Cleveland Streetであるという記述や、78 Cleveland Way, Bow, Londonというもの、さらには560 Old Ford Rd, Bow, Londonであるとも記されており非常に混乱させられる。よってまず1860年の創業場所がどこだったのかを明らかにすることから始めることにしたい。
文化人類学者で料理研究家のクラウディア・ローデン(Claudia Roden)の調査では、マリンは、381 Old Ford RdにあったLady Franklin pub(レディフランクリンパブ:現在は取り壊されている)の向かいで始まったとしている。彼女の調査からすると560 Old Ford Rd, Bow, Londonが正しい創業地ということになる。
クラウディア・ローデンは著名なユダヤ料理の研究家で、『the Book of Jewish Food』という優れた著書を記しており、わたしもその調査や考察に非常に信頼を寄せているのだが、創業地として様々な住所があることには何らかの理由があると考え独自調査を試みることにした。
しかし調査対象は100年以上過去の情報であるだけでなく、大都市ロンドンに住んでいた無名の一般人である。ジョゼフ・マリンの情報を探し出すのは大海の中から針を探し出すような作業が求められることになったが、それでも何とかマリンズに対する理解を深める調査資料を確認することが出来たように思う。これから説明する内容はロンドンのイーストエンドに住んでいたある平凡なファミリーのかなりマイナーな歴史(family history)である。こうした調査からフィッシュ & チップスの歴史を紐解いてゆくと、イギリス人研究者でもまだフィッシュ & チップスを販売し始めたマリンズについて正しい理解をまだ十分に得ていないのではないかとさえ思えてくる。
マリン家の背景
マリン家はユダヤ人で18世紀頃にロンドンに移住してきた移民である。マリン家がユダヤ人であったということは、当時の彼らがロンドンのどのような場所に住んでいたのかということと非常に密接に関係している。この時代にイギリス・ロンドンには大陸から大勢のユダヤ人が移民として流入しており、ロンドンのいくつかの特定の貧困エリアに集団で住みゲットー(Ghetto:移民系密集居住地区)を形成していた。当時のユダヤ人たちがホワイトチャペル(White Chapel)、べスナル・グリーン(Bethnal Green)、ボウ(Bow)といったロンドン・イーストエンドのエリアに集まって住んでいたことが記録されている。
しかしこうした貧困層にあるユダヤ人移民があるエリアに集中したことで、地域の治安は悪化し犯罪が増加することになった。後でも詳述するが、ビクトリア朝のロンドンを震撼させた「切り裂きジャック:Jack the ripper」もこうした貧困街で殺人を行っており、アーサー・コナン・ドイルが『シャーロック・ホームズの冒険』を著し、人々が高い関心をもってこの種の犯罪小説(Crime Novel)を読み漁っていたのがヴィクトリア朝の時代である。この時代にユダヤ系移民のマリン家は、こうしたエリアに居住し、商売を営んできたということをまずは知っておく必要がある。
さてマリン家の歴史を概観するために、残された記録の断片をつなぎ合わせて系図を作成することが出来たので、以下に掲載しておく。
この系図を基にマリン家のなかの個々の人物に注目して、フィッシュ & チップスに対する考察を進めることにしてみたい。なぜならこれらフィッシュ & チップスの草創期に販売を始めたこれらの人物を調査することで、いつから、そしてどのようにフィッシュ & チップスが始まったのかを理解することが可能になるはずだからである。
Joseph MALIN(1823-1867)
一般的にジョゼフ・マリン(Joseph MALIN)が、1860年にフィッシュ & チップスを最初に売り始めたというのが定説になっている。しかしこれは後世になって、NFFFがその子孫からの聞き取りに基づいた歴史でしかなく、文献による確かな裏付けがなされたものではない。よって本当にジョゼフ・マリンが最初にフィッシュ & チップスを考えた人物だったのかどうかについては、まだまだかなり検討を要する余地が残されているのではないかと考えている。
まずマリン一族の家系を見ると、ジョゼフ・マリンという名前が付けられた人物は少なくとも7人は存在している。実はこうした重複した名前が人物特定を難しくしている原因ともなっており、フィッシュ & チップスの始まりについて書かれた文献を読んでいても、他のジョゼフ・マリンと取り違えたり、混同して書かれてしまっている場合を良く目にする。以下にその7人を挙げておく。
高祖父:Joseph MAYLIN(1717- )
曾祖父:Joseph MAYLIN(1740-1805)
祖父 :Joseph MAYLIN/MALIN(1766-1809)
父 :Joseph MALIN(1786-1847)
当人 :Joseph MALIN(1823-1867)
甥 :Joseph Henry MALIN(1852-1931)
姪孫 :Joseph MALIN(1880- )
1860年にフィッシュ & チップスが売られ始めたのであれば、これに該当する人物は一人しかいない。それは黄色でハイライトしてある Joseph MALIN(1823-1867)である。他のJoseph MALINは1860年には既に死んでいるか、あるいは幼すぎるかまだ生まれていない。つまり1860年にフィッシュ & チップスを考えて売っていた人物は、ハイライトした人物以外には有り得ないことになる。よってまずはこの1823年生まれのジョゼフ・マリン(Joseph MALIN)がどのような人物だったのかを調査し、フィッシュ & チップスの歴史に迫ることにしたい。
ジョゼフ・マリンは、1823年にロンドンで、父親:Joseph MALIN、母親:Mary Ann Vine Perryの間に、長男として誕生した。その後、成長して20歳になったジョン・マリンは1843年9月25日にSusan Stevensと結婚する。その時の記録が『London, England, Church of England Marriages and Banns, 1754-1932』に残されており、そこにジョゼフ・マリンの職業が「針金職人:Wire Drawer」だったとある。当時は針金の直径を細くするために鉄板に空けた幾つかの細さの穴に太い針金を通し、これをペンチで引っ張って削りながら細い針金が作られていた。こうした仕事に従事する人は「針金職人:Wire Drawer」と呼ばれており、若かりし頃のジョゼフ・マリンは職人だったというになる。
また同書類には父親のジョゼフ・マリン(親子が同姓同名で分かりにくい)に関する情報も記載されており、その職業は「鞭職人:Whip Maker」とある。これは当時まだ馬車が移動手段として主であり御者が用いる鞭の需要が高かったゆえの職業とも言える。こうした残された記録からこの時代のマリン家は、フィッシュ & チップスはもちろん、まだ食品には全く関係しない仕事に従事していたということが分かる。
次に見ておきたい記録はイギリスで10年ごとに行われている国勢調査の記録である。ジョゼフ・マリンに関しては以下の3つの記録が存在している。
1841 England Census
1851 England Census
1861 England Census
これらの記録を追うことでジョゼフ・マリンとは一体どのような人物だったのかを追ってみることにしたい。
「1841年」のジョゼフ・マリン
「1841 England Census:国勢調査」の時は、ジョゼフ・マリンは18歳で、職業欄の文字がかすれて読み取りが困難であるが、Makerとも読めるので何らかの職工であったと思われる。また弟の15歳のチャールズの職業は「Rug Weaver」とあり敷物の職人だったことが分かる。また前ページには父親の職業が「Whip thong maker:鞭職人」とあるので、ここから先に挙げた1843年のジョゼフ・マリンの結婚記録の内容とも整合性が取れている。当時のジョゼフ・マリンは親と同居していて、Becon St,London に居住していたことが記録にある。現在は近くに Weavers Fields という公園があるが、これは昔はこのエリアに織物工房が集中して存在していたことの名残りとなっている。このエリアもかつての低所得者層の居住地域であり、そこで職工として生計を立てていた移民ユダヤ人のマリン家の様子がうかがえる情報である。
このように1841年の記録からだと、まだマリン家の男性の職業は職人や職工がうかがえるのみであって、この当時まだ彼らは食品にはまったく関与していない時期だったということになる。
「1851年」のジョゼフ・マリン
「1851 England Census:国勢調査」の時、ジョゼフ・マリンは27歳になっており、結婚して家庭を持っている。家族構成は、妻のSusan、長女のJulian(7歳)、長男Charles(5歳)、John(1歳)である。
この頃、ジョゼフ・マリンは転職しており、職業欄には「行商人:Hawker」と書かれている。ストリートに出て行って呼び声を掛けながら客を集めて商品を売っていたと思われるが、どのような商品を販売していたのかまでは定かではない。ただ行商人であるということから、やがてジョゼフ・マリンはフィッシュ & チップスを売り歩くようになったのではないかと推測することは出来るのかもしれない。
残念なことに文献記録の中でジョゼフ・マリンがフィッシュ & チップスを販売していた事実はどこにも存在しておらず、一切確認することはできないのである。ジョゼフ・マリンがフィッシュ & チップスを始めて売り始めたというのは、1965年にNFFFが始めた調査の際にその子孫への聴取から導き出された年代だったのではないかと思われる。
「1861年」のジョゼフ・マリン
「1861 England Census:国勢調査」の時、ジョゼフ・マリンは37歳、10年前の調査で記載されていた子供たちは一人も記載されておらず、独立したか早世したものと考えられる。1961年当時の家族構成は、妻のSusan、10歳の娘Emma、3歳の娘Harrietという構成である。住所は 4 Union Court とあり、この時はホワイトチャペルのエリアに住まいを移していたようである。
職業欄には職業欄には「行商人:Hawker」と書かれており、十年前と同じだが、妻のSusanもまた行商人としての仕事をしてたことが記録されている。どのようなものを行商で売っていたかはここからも分からないが、1860年にジョゼフ・マリンがフィッシュ & チップスを販売していたということになっているので、やはりフィッシュ & チップスを販売していたと考えるべきなのかもしれない。しかしながら文献的証拠がなく、その真偽については何とも言えない。実際にジョゼフ・マリンがフィッシュ & チップスを最初に販売していたのかどうかは情報ソースとしての根拠があまりにも薄く、非常に曖昧なのである。
「1867年」のジョゼフ・マリン
「London, England, City of London and Tower Hamlets Cemetery Registers」にはジョゼフ・マリンが1867年5月11日に亡くなったことが記録されている。1860年からフィッシュ & チップスの販売を始めたということであれば、実質、販売していたのは7年間ぐらいということになる。死亡時の年齢は44歳であり、ジョゼフ・マリンは若くして亡くなったということになる。
ジョゼフ・マリンの住所
晩年のジョゼフ・マリンは、ロンドンのホワイトチャペルというエリアに住んでいる。1861年の記録の住所は 4 Union Court であり、1867年の登録住所はその近くに 8 Fashion Street である。それぞれの場所は以下の地図の通りである。
数字を振ってある場所にジョゼフ・マリンは住んでいた。切り裂きジャックの殺人現場のひとつが 13 Miller's Court という住所で、この場所はジョゼフ・マリンの住んでいた場所から50mも離れておらずかなりの近所である。よって次に切り裂きジャックとフィッシュ & チップスの関係性から、フィッシュ & チップスがどのような場所で売られ始めたのかを探ってゆくことにしたい。
切り裂きジャックとフィッシュ & チップス
切り裂きジャック(Jack the Ripper)は1888年にイギリス・ロンドンのホワイトチャペルとその周辺で犯行を繰り返した正体不明の連続殺人犯である。犯行後も逮捕されておらず、その正体は未だに不明である。こうした連続殺人事件がホワイトチャペルで起きた背景には、このエリアが極度の貧困状態にあったこと。さらにそれに伴い、強盗、暴力、アルコール依存症、売春といった種々の問題が生まれ治安が著しく低下していたことが理由として挙げられる。ビクトリア朝時代のホワイトチャペルがどれほどひどい状態だったかのについての説明を読むと、当時このエリアには次の3つの階層しか存在していなかったとあり貧困問題がいかに深刻だったかを物語っている。
・The poor(建設作業員,労働者,店員,港湾労働者,テーラー)
・The very poor (女性や子供のお針子,織物工「weaver」,洗濯人)
・The Homeless (ホームレス)
上記3つの階層はいずれも貧困状態にあり、要するにこの当時のホワイトチャペルには貧困者しか住んでいなかったということである。この中には織物工:weaverも含まれている。フィッシュ & チップスの販売を始めたジョゼフ・マリンの家族もこうした職業に従事していたので、ユダヤ人移民である彼等もまた御多分に洩れず貧困層に属していたことが理解できる。
切り裂きジャックの犯行現場
ホワイトチャペルの治安が悪化した理由として、まずは19世紀半にアイルランド系移民の流入によってこの地域の人口が増加し貧困層が増大したことが挙げられる。さらにロシアなど東欧から逃れてきたユダヤ人難民が同じ地域に定住を始めたことも貧困層をさらに増大させることに繋がっていった。これによってホワイトチャペルは過密状態になり、1888年までに人口は約80,000人にまで増加したとされている。こうした過密状態が、労働条件や住宅事情の悪化を生じさせることになり、必然的に経済的な下層階級を生み出すことに繋がっていったのである。
1888年10月、ロンドン警視庁は「ホワイトチャペルには1200人のかなり階級の低い売春婦と62の売春宿が存在する」との推定を発表しているが、この当時のホワイトチャペルに住む貧困女性にとって売春はある意味生活手段でもあったので、その実数はこの推定をはるかに上回っていたはずだと考えておくべきだろう。
こうしたホワイトチャペルに見られた貧困という背景が犯罪の温床となって、切り裂きジャックのような殺人犯が横行することに繋がったものと考えられる。実際に切り裂きジャックの被害者はすべて女性で売春婦でもあったが、こうした獲物となる被害者をホワイトチャペルで切り裂きジャックは容易に見つけることが出来たのである。以下の地図は切り裂きジャックが初期に犯罪を行ったとされる犯行現場で、それぞれを赤丸で示している。
赤い星の印が付いている場所はジョゼフ・マリンが住んでいた場所であり、切り裂きジャックの犯罪現場との位置関係を把握していただけるだろう。ジョゼフ・マリンが亡くなったのは1867年なので、切り裂きジャックが殺人事件を起こすのは、ジョゼフ・マリンの死から約20年後ということになる。よって実際にジョゼフ・マリンは切り裂きジャックの恐怖を体験したという訳ではないが、フィッシュ & チップス販売を始めた場所というのは、そもそもこのような治安の悪いエリアであったということに間違いはなく、このことは、なぜこうした貧困にある治安の悪いエリアでフィッシュ & チップスが誕生したのかを考える上でも大変重要なポイントになっているように思える。
ジョゼフ・マリン自宅だった場所から最も近い場所で、切り裂きジャックが殺人を行った場所が 13 Miller's Court である。ここで殺害されたのはメアリー・ジェーン・ケリー (Mary Jane Kelly)という25歳位のアイルランド人の女性である。この女性も貧しさからホワイトチャペルで売春を行って生活していた。
検死を行ったボンド医師の報告には以下の記述がある。
【 Bond's report, MEPO 3/3153 ff. 10–18, 】
In the abdominal cavity was some partially digested food of fish & potatoes & similar food was found in the remains of the stomach attached to the intestines.
【 訳文 】
腹腔内には魚やジャガイモの部分的に消化された食物があり、同様の食物が腸に付着した胃の残骸から発見された。
ここから殺害されたメアリー・ジェーン・ケリーが死の前に取った食事はフィッシュ & チップスだった可能性が考えられないだろうか。よってこのエリアでは、既に日常的な食として、フィッシュ & チップスが定着していたと言えそうである。当時は魚もジャガイモも非常に安価に手に入れられるようになっており、何軒ものフィッシュ & チップス店があり、呼び売り(Costermonger, Howker)が町の至る所にいて、手軽な食として安くで販売されていたので容易に手に入れることが出来たのだろう。
1800年代後半のホワイトチャペル「Court」内の様子
この時代のロンドン・ホワイトチャペルの地図を見ると「Court」という場所が多数ある。これは表通りからトンネルのような細い路地を入った先にある空間を建物が囲むようにして存在するスペースで、上記の写真が正にそのような場所に当たる。実際に切り裂きジャックがメアリー・ジェーン・ケリーを殺害した 13 Miller's Court (現在は無くなっている)も同じような場所で、こうした場所には表通りの街灯の光が入らず、中にガス灯が一本だけ立っているだけなので夜になると非常に暗くなり犯罪者にはおあつらえ向きの場所となった。
ジョセフ・マリンも「Court」と名の付く同じような場所に住んでいた。「1861 England Census:国勢調査」に記録されたジョセフ・マリンの住まい 4 Union Court がどのような様子だったかを確認してみると、4番地のひとつの住所(建物)にジョセフ・マリンの家族を含めた3世帯で17人が住んでいたことになっている。ちなみに同じUnion Courtの7番地だと5世帯15人が生活しており超過密状態であったことが分かる。こうしたデータからもこの当時のホワイトチャペルの生活環境が劣悪なものだったことは明らかである。
殺害されたメアリー・ジェーン・ケリー住んでいた 13 Miller's Court の記録に残された間取りや外観を確認すると、室内にトイレやバスルーム、キッチンも無く、狭い一間だけしかない。自宅で料理をすることは出来ず、Courtに住む住民で共用で使っていたトイレが外にあり、その隣に水道ポンプが設置されている。こうした場所「Court」に家族を含む多くの人間がすし詰めになって生活していた。ホワイトチャペル界隈であればこうした劣悪な生活環境はさほど珍しいものではなく、どこも似たり寄ったりの状態で生活していた。ホワイトチャペルはこうした過密状態によって衛生環境が非常に悪かったことや、栄養失調と病気が蔓延していたこともあり、子供が5歳を過ぎても生きる残れる可能性はわずか約50%しかなかったと報告されている。
メアリー・ジェーン・ケリー殺害現場
家は狭く、まともなキッチンが無かったことから(住む家さえないホームレスもホワイトチャペルには多かった)、住民は安価な出来合いの料理を買って飢えをしのいでいたものと思われる。こうしたなかで調理済みの食品であっても安く購入可能で、冷蔵庫の無い時代でも時間をおいても食べることが出来たのがフィッシュ & チップスであり、こうしたこともフィッシュ & チップスがこの地で生まれ、広がっていったことの理由である。
切り裂きジャックの犯罪とフィッシュ & チップスの誕生は、ここホワイトチャペルで偶然に重なったというのではなく、貧困という下地がこの地域にあった故にある意味必然的に生じたものであると考えるべきだろう。この地域には各地から移民が流入しており、ユダヤ人が持ち込んだ食文化のひとつのフィッシュフライが前から売られていた。またジャガイモを多く食べていたアイルランド人がベイクドポテトや、その後のフライドポテト(チップス)といったジャガイモ消費の食スタイルをこの地域にもたらしていたのである。やがてこれらふたつが合わさってフィッシュ & チップスが誕生することになるには十分な素地があったのである。そしてそれを1860年に販売し始めたとされているのがジョゼフ・マリンだった。
ロンドンでフィッシュ & チップスが誕生し広がっていったのは、イーストエンドに属する幾つかのエリアであり、切り裂きジャックの事件と、この地でのフィッシュ & チップスの発展は、そういう意味において確かに相関関係にあったと言えるであろう。
ジョゼフ・マリンに関する情報混濁
先にも述べたように、マリン家には複数のジョゼフがいたこともあり、フィッシュ & チップスを始めたジョゼフ・マリンがどのジョゼフだったのか、あるいはマリン家のどの人物だったのかについて混濁した意見が述べられている記事を目にすることがある。
例えば、BBC Travelの記事「Chipping away at the history of fish and chips」では、ジョゼフ・マリンは1860年、まだ13歳だった時にトレイにフィッシュ & チップスを載せて行商を始めたという説明をしている。しかしこれは明らかに間違えである。なぜならジョゼフ・マリンは1860年は既に37歳になっており、13歳というには年齢的に合致していないからである。さらにBBCの記事には13歳のジョゼフ・マリンが既に既婚者であるとまで書いてしまっている。これは他の人物(次に説明するジョン・W・マリン)と取り違えてしまった為に犯した誤りであることは明白である。では次に取り間違えれたと考えられる人物:ジョン・W・マリン(John William MALIN)を追うことにしたい。
John William MALIN(1847-1926)
ジョン・W・マリンは、先に取り上げたジョゼフ・マリンの甥にあたる。家系図を確認して頂くと分かりやすいがジョゼフ・マリンの弟だったチャールズ・マリンの長男がジョン・W・マリンである。つまり両者は叔父と甥の関係ということになる。
John William MALINの自署
先のBBCの記事「Chipping away at the history of fish and chips」は、このジョン・W・マリンとジョゼフ・マリンを取り違えているために誤情報を発信してしまっている。なぜこうした誤りが生じたかというと、1968年にNFFFが最古のフィッシュ & チップス店であると認定した際に営業していたマリンズの住所は 560 Old Ford Road であり、この場所でフィッシュ & チップス店を始めた人物がジョン・W・マリンだったからである。つまりBBCは最古のフィッシュ & チップス店はここから始まったと勘違いし、1860年当時はまだ13歳でしかなかったジョン・W・マリンを、ジョゼフ・マリンと混同して、既婚の13歳の少年が行商でフィッシュ & チップスを売り始めたというような酷い誤りを記してしまったのだろう。実際に当時のジョン・W・マリンの年齢を「1851 England Census:国勢調査」から確認すると、1860年がちょうど13歳に当たるので、ここからもジョセフ・マリンとの取り違えの根拠を示すことも出来るだろう。
いずれにしてもこうした間違いは詳細にチェックすれば直ぐに分かるのだが、未だに誤りが正されずにそのままの記事が公開されているために、わたしも調査開始時にはこの誤情報に非常に混乱させられた。このような誤りは早期に修正して、正確な情報発信が行われることをBBCには期待したいところである。
「1869年」のジョン・W・マリン
さて、このジョン・W・マリンは始めからフィッシュ & チップス店のビジネスに携わっていたという訳ではない。「London, England, Church of England Marriages and Banns」には、1869年(21歳)のジョン・W・マリンが、妻のClara Wardと結婚した記録が残されているが、その職業欄には父親のCharles James MALINと同じ職業の「敷物織人:Hearth Rug Manufacturer」であると記載されている。「Hearth rug」とは耐火性がある敷物で、こうしたマットは当時の家々の暖炉の前に引かれていた。このような敷物を作る職人として、当時のジョン・W・マリンは、父親と同じ仕事に従事していたのである。
「1880年代」のジョン・W・マリン
「1881 England Census:国勢調査」の記録を見ると、1881年に33歳になっていたジョン・W・マリンは「雑貨店:General Shop Keeper」を営んでいたという記載になっている。この時の登録されている住所は、 1 Milton Rd であるが、現在は通り名が変更され無くなってしまっている。
さらに翌年に出版された1882年の「Post Office London Directory, 1882」では、ジョン・W・マリンは「蝋燭屋:Candler's Shop」と職業欄にある。さらに2年後の1884年に出版された「Business Directory of London, 1884」では、ジョン・W・マリンの職業は変更されておらず( 13 Milton Rd )「蝋燭屋:chandler's shop」と記載されている。この当時、Candlerは蝋燭だけでなく、石鹸なども扱っていたようなので、これは雑貨店という認識でもよさそうである。この店の住所は 13 Milton Rd となっているが、その理由は住まいと店を分けているためだと考えられる。(住まいは1番地、店は13番地)
それから3年後、1887年の「London, England, Church of England Marriages and Banns」には長男のJohn Charles MALINが結婚した記録がある。ここに記載されている父親のジョン・W・マリンの職業は「Hearth Rug weaver」となっており、この時期は雑貨商の仕事が軌道に乗らなかった為か、以前に就いていた敷物織の仕事に再び戻っていることが分かる。いずれにしても当時、ジョン・W・マリンはフィッシュ & チップスとはまったく無関係のビジネスを営んでいたということだけは間違いない。
「1890年代」のジョン・W・マリン
続いて、「1891 England Census:国勢調査」の記録を見ると、1891年に43歳となっていたジョン・W・マリンはさらに商売替えを行っている。職業欄には「魚屋:Fishmonger」とあり、住所も 560 Old Ford Road になっている。この場所はNFFFが最古のフィッシュ & チップス店と認定した1968年当時に営業していた店の場所である。料理研究家のクローディア・ローデンも 560 Old Ford Rd を最初のフィッシュ & チップス店であるとしているようなので、このフィッシュ & チップス店は歴史を語る上では非常に重要な住所にあったのだが、この住所が初めて登場するのがフィッシュ & チップスの始まりとされる1860年から31年も経た1891年であること。またこの時のジョン・W・マリンの職業記載はあくまでも魚屋であり、これをもって最初のフィッシュ & チップス店だったと言い切ることは難しいように思える。
特筆すべきは1895年発行の「Post Office London Directory, 1895」であり、この年の記録からようやく、ジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「フィッシュ・フライ・ショップ:Fish Fry Shop」を始めたことが現れてくる。しかしながらこの時の記述はFish Fry Shopとしか記載がないのでチップスも合わせて売っていたかどうかまでは定かでない。よってこの店でフィッシュ & チップスが販売されていたとは断定は出来ない。
1899年発行の「Post Office London Directory, 1899」も同様で、1899年に52歳のジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「フィッシュ・フライ・ショップ:Fish Fry Shop」を継続して営んでいることが掲載されている。
「1900年代」のジョン・W・マリン
「1901 England Census:国勢調査」の記録を見ると、53歳のジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「魚屋:Fishmonger」を営んでいる。この当時のビジネス住所録の方を見てみると、ジョン・W・マリンの同住所には「Fried Fish shop」と記載があり、国勢調査のような場合の職業欄に対しては「Fishmonger」、店の営業内容としては「Fish Fry Shop」というように記載を分けて申請・掲載をしていたものと思われる。
「1910年代」のジョン・W・マリン
その後もジョン・W・マリンがどのような生涯を送ったのか、その足跡をたどっておくことにしよう。「Post Office London Directory, 1910」には63歳のジョン・W・マリン。 「1911 England Census:国勢調査」や「Post Office London Directory, 1911」には63~64歳のジョン・W・マリン。 「Post Office London Directory, 1913」には66歳のジョン・W・マリン。 いずれの記録もジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「魚揚げの店:Fish Fry Shop」を営業し続けていたということは明らかなのだが、残念ながら最後まで「Fish & Chips」という表現は住所録には記されていない。ただこの時期には確実にフィッシュ & チップスは料理として確立されていたので、当然のごとくフライドフィッシュに合わせてポテトも売られていた、つまりフィッシュ & チップスが販売されていたのは間違いないだろう。
1913年以降、高齢になったジョン・W・マリンは引退したようである。「Post Office London Directory, 1914」の記録を確認すると、 560 Old Ford Rd で「Fish Fry Shop」を営業しているのは、四男のアーサー・アルバート・マリン(Arthur Albert MALIN)になっている。当時ジョン・W・マリンはすでに67歳になっていたことになるので、息子に店を引き継いで引退したということなのだろう。この13年後の1926年4月10にジョン・W・マリンは78歳で他界することになる。
ジョン・W・マリンの生涯と息子たち
ジョン・W・マリンは15人もの子供たちを妻との間にもうけ、「MALIN」という屋号のフィッシュ・フライ・ショップを営んで子供たちを育ててきた。ジョン・W・マリンが「MALIN」を 560 Old Ford Rd に開店したのは1895年だったことは先に示した通りであるが、もっと前から叔父のジョセフ・マリンがフィッシュ & チップスを行商で売っていたと考えられることから、1860年を創業年としたようである。店の看板に「Est 1860」とあったのはこうした一族のつながりが理由だと思われる。しかし看板の1860の数字が少し修正が加えられているような違和感のある痕跡があり、「9」だったものを回転させて「6」にしたのでは?あるいは後から創業年を変えたのではなどの疑念が個人的には拭えない。
店の看板は「MALIN」だが、最古のフィッシュ & チップスとして表彰された際に授与された銘板にはなぜか「MALIN'S」という表記になっている。所有格としての'sであれば、MALIN'S Fried Fishということになるのだろうが、この場合はオーナーとしてのマリン家としての所有を意味するために「MALIN'S」という表記を用いたのでないかと考えられる。なぜならジョン・W・マリンと同様に、その一族や息子たちもフィッシュ & チップス店を始めており、複数のマリン家の経営する店舗が存在していたからである。この時代について言えば、ジョン・W・マリンの長男のチャールズ・マリン(1869–1909)は結婚して家から独立して、Fried Fish Shopを始めている。また四男のアーサー・アルバート・マリン(1885–1968)は、他の場所で一時期営業を行っていたが、やがて後を継いで 560 Old Ford Rd のMALIN店主となる。
さらにジョン・W・マリンの弟のジョゼフ・H・マリン(1852–1931)もフィッシュ & チップス史を語る上で特に注目すべき人物である。記録から見るとジョゼフ・H・マリンはビジネスに積極的であったようで、何度かも引越しを繰り返しながら、早期にフィッシュ & チップス店を開いたという実績を残している。次のこの人物を取り上げて、詳細を説明することにしたい。
Joseph Henry MALIN(1852–1931)
ジョゼフ・H・マリンは、1852年に、父:チャールズ・ジェームズ・マリン、母:マリー・アンの間に次男として生まれた。先に説明したジョン・W・マリンは兄である。
Joseph Henry MALINの自署
ジョゼフ・H・マリンの最初の記録は「England & Wales, Civil Registration Birth Index」にある誕生記録であり、1852年3月(28日生まれ)の出生者の中にその名前がある。また「London, England, Church of England Births and Baptisms」にも、1852年4月25日に洗礼を受けた記録がある。
「1870年代」のジョゼフ・H・マリン
「1871 England Census:国勢調査」を見ると19歳の時のジョゼフ・H・マリンの記録がある。家族と同居しており住所は 1 Beale Rd になっている。職業欄を見ると父親と同じ「Hearth rug weavers」とあり、耐火性があり暖炉の前などにひかれるマットを作る職人であったことが理解できる。よってこの時点ではまだ食品に関係する仕事には携わってはいない。
この翌年の1872年にジョゼフ・H・マリンは、靴職人の娘のMary Ann Frances Stevensと結婚する。その記録が「London, England, Church of England Marriages and Banns」にあり9月29日に結婚したことになっている。職業欄には「Hearth Rug Maker」とあり、父の職業欄には「Hearth Rug Manifucture」とあり、耐火性マットを製造していたことが分かる。
「1880年代」のジョゼフ・H・マリン
さらに10年後の「1881 England Census:国勢調査」を見ると、30歳のジョゼフ・H・マリンは結婚して、妻との間に4人の子供をもうけている。職業欄を見ると「Hearth rug weavers」とあり、10年前と同様に耐火性マットの職人であることが分かる。この時の住所は 9 Minerva Steet である。
1885年に娘のFlorenceが生まれ、この娘が洗礼を受けた時の記録が「London, England, Church of England Births and Baptisms」にあり、ここにジョゼフ・H・マリンは「Fish Dealer:魚屋」とある。このFlorenceの3歳上にRosettaという姉がいるが、この娘の「London, England, Church of England Births and Baptisms」の記録には、ジョゼフ・H・マリンの職業はまだ「Hearth Rug Maker」となっているので、1882年-1885年までの間に魚関係の職業に転職したということになる。
さらに2年後の1887年に次男のAlfred Thomas Malin(1887–1944)が誕生し、同じく「London, England, Church of England Births and Baptisms」に洗礼の記録がある。ジョゼフ・H・マリンの職業が「Fish Dealer:魚屋」となっているが、さらに注目すべき点が、住所が 80 Cleveland Street になっていることである。その意味は次の記録と合わせて説明することにしたい。
「1890年代」のジョゼフ・H・マリン
「1891 England Census:国勢調査」によると、39歳のジョゼフ・H・マリンは 80 & 78 Cleveland Street の両方の住所になっている。職業欄には「Fishmonger:魚屋」とある。先にも述べたようにイギリスの番地の振り方は道の両側で偶数と奇数になっているので、並んだ2件分がジョゼフ・H・マリンの住所になっていたということになる。
この時の家族構成をみると、長女のMary (18歳)が、John Collins(22歳)と結婚して同居している。二人の息子で当時まだ生後3か月のJohn Joseph Collinsもリストに載っており、例えていうとこれは「サザエさん」でいうところの磯野家である。つまりサザエさんと結婚したマスオさんのフグ田家が、磯野家と同居して、タラちゃんがいるという状態である。「London, England, Church of England Births and Baptisms」はタラちゃんにあたるJohn Joseph Collinsが洗礼を1891年2月に受けた時の記録であるのだが、この時の登録住所がまだ 78 Cleveland Street ではないので、国勢調査が行われたひと月前か、あるいはその月に引っ越してきて同居を始めたばかりということになる。
さてこの結婚した娘、Maryの職業欄には「Fish Frier. Coffee」とある。もともと 80 Cleveland Street に父のジョゼフ・H・マリンが経営する魚屋があったことを考える、隣に新しくFish Frier Shopを開業し、その店を娘のMaryが営業していたということになる。しかも調査票には「Coffee」とも加筆されているので、簡単に飲食が出来るような場所も併設されていた可能性がある。父親が魚屋を営み、娘が隣で魚を揚げた料理を出す店を営んでいたというのは良い組み合わせだと言える。なぜなら魚が売れ残ったとしても、フライドフィッシュにして店で提供することでロスをなくし、しかも飲食販売によって利益とすることが出来たからである。
さらに「1891 England Census:国勢調査」のジョゼフ・H・マリン一家に関する記録には見逃せない部分がある。家族メンバーで当時14歳の三女のCharlotteの職業欄に「Potatoe Peeler:じゃがいもの皮むき」と記載されている。ここからすると、78 Cleveland Street のFish Frier Shopではフライドフィッシュだけではなく、ジャガイモを揚げたチップスが出されていた可能性が非常に濃厚になってくる。つまりここではフライドフィッシュとチップスを組み合わせた「フィッシュ & チップス」が出されていたと考えるべきだろう。
先に説明した、ジョゼフ・H・マリンの兄、ジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd でFish Frier Shopを始めたのは1895年だったことから考えると、78 Cleveland Street のFish Frier Shopの方が時期的にも4年は先行しており、しかもフィッシュ&チップスを販売していた可能性が非常に高いということになる。
なかには 78 Cleveland Street を最初のフィッシュ&チップス店とする記事などもあり、最初のフィッシュ&チップス店がどこだったのか混乱させられる。そこでこの場所について少し掘り下げて考えてみることにしたい。
Cleveland Streetについて
現在、Cleavland Streetを地図で検索すると、ロンドン中心部にあるBTタワーに面した通りが示される。しかし当時はBowというイーストエンドのエリアにもCleavland Streetがあり、調べてみると、BowのCleavland Streetは、1938年から、Cleavland wayという通り名に変更されていることが分かった。よってジョゼフ・H・マリンは、Bowで店を開いていたということになる。
しかし現在のCleavland wayは68番地までしか存在しておらず、ジョゼフ・H・マリン一家が居住していた80,78番は存在していない。そこで、スコットランド国立図書館に所蔵されている「London, Five feet to the Mile, 1893-1896」という地図を確認したところ、当時のCleavland Street(現在のCleavland way)はもっと先まで伸びていて82番地まであったことが確認できた。これが分かったのは、かつて存在していたPUBの場所をまとめたpubwiki.co.ukというサイトがあり、82番地にあったBritish Carmanというパブが、Cleavland StreetとDoveton streetが交わる位置にあったということが既に分かったていたからである。こうした古地図から80、78番地にあったマリンズの位置も正確に把握できるので、以下の地図から確かめて頂きたい。
何をもってフィッシュ&チップスの始まりとするのかは定かでないが、80 & 78 Cleveland Streetにあったジョゼフ・H・マリンが始めた店は、フィッシュ&チップスを提供していた可能性の高い店だったと言えるだろう。
「1900年代」のジョゼフ・H・マリン
1901年刊の「1901 England Census:国勢調査」を見ると、49歳のジョゼフ・H・マリンは 264 Globe Rd に引っ越しをしている。職業は「魚屋:Fishmonger」であり、フィッシュ&チップス店の記載は無くなっている。しかし翌年の1902年に刊行された「1902 Post Office Directory」には、Fried Fish Shopの記載があり、魚屋と並行して店を続けていたことが読み取れる。この住所録には他にも3つのマリン家が営むFried Fish Shopが掲載されている。
① Malin John, fried fish shop, 560 Old Ford road E
② Malin John, jun. fried fish shop, 80 Cleveland st.
③ Malin John Charles, fried fish shop, 101 Goldsmiths' row NE
④ Malin Joseph Henry, fried fish shop, 264 Globe road E
このようにマリン一族でロンドンのイーストエンドに複数店舗を展開していたようである。1860年にフィッシュ&チップスを売り始めたジョゼフ・マリンを第一世代とするならば、ここに挙げたフィッシュ&チップス店は、マリン一族の第二世代~第三世代の店舗である。この後、1910年代~1940年代にかけて第三世代~第四世代がさらに新たなフィッシュ&チップス店舗を展開してゆくので、こうした経緯も追ってゆくことにしたい。
John Charles MALIN(1869–1909)
ジョン・チャールズ・マリンは、先に説明したジョン・W・マリンの長男である。「1881 England Census:国勢調査」には、当時まだ11歳だったジョン・チャールズ・マリンが家族のリストに載っている。
ジョン・チャールズ・マリンの自署
1887年7月31日、ジョン・チャールズ・マリンが21歳でElizabeth (Eliza) Pridmoreと結婚したときの記録が「Church of England Marriages and Banns」にあり職業欄には「Stick Maker:杖製造」と記されている。また父親のジョン・W・マリンの職業は「Hearth Rug Weaver」とあり、ここから親子で食関係の仕事とは全くの無関係であったことが確認できる。
その後、1897年の記録「Church of England Births and Baptisms」には、ジョン・チャールズ・マリンと妻の間に、Arthur Williamという息子が生まれたとの記述がある。しかしこの息子はこれ以外の記録にまったく登場していないことから、生後すぐに亡くなったのではないかと思われる。この時の住所が 80 Cleveland Street である。そして職業は「Fishmonger:魚屋」となっている。この場所はもともと、ジョゼフ・H・マリンが店を始めた場所であり、28歳のジョン・チャールズ・マリンにこの店を任せていたということになるのだろうか。
だが1900年にジョン・チャールズ・マリンは、80 Cleveland Street の店から独立したようで、この店から去ったことが分かる。「1900 Kelly's London Suburban Directory」には、 80 Cleveland Street をFried Fish Shopを営んでいるのが「John MALIN Jun」とあることからそれは明らかである。JunとはJuniorの略で、ジョン・W・マリンの息子の誰かが、この場所を任されたことになるのだが、ジョン・W・マリンの息子でこの時代に生きていたのは、ジョン・チャールズ・マリンを除けは、Arthur Albert MALIN (1885–1968)しかおらず、若干15歳~16歳のこの人物が、父親あるいは叔父の指導の下で店を切り盛りするようになったのでと思われる。
ジョン・チャールズ・マリンはどうなったかと言うと、「1901 England Census:国勢調査」では 101 Goldsmith Row に拠点を移していることが記録にある。また職業欄には「Fried Fish Salesman」とあり、やはり新たな場場所でもフィッシュ & チップス店を経営していたことが分かる。この時にジョン・チャールズ・マリンは32歳になっているので、この頃に商売的に叔父から独立したと考えて良いだろう。
80 Cleveland Street は、マリン家がフィッシュ & チップス店ビジネスを拡大するためのひとつの拠点でもあったようで、若い世代の者たちがここで経験を積み、その後、自分の店を持つようになっている。これはオーナーのジョゼフ・H・マリンのビジネス的な手法でもあったのではないかと考えられるが、いずれしてもマリン家が営むフィッシュ & チップス店は、イーストエンドに増えていったのである。
ジョン・チャールズ・マリンの早世
1909年にジョン・チャールズ・マリンは40歳で亡くなっている。「1911 England Census:国勢調査」には妻のイライザがその後に一家の中心になって、フィッシュ & チップス店を経営していたことが記されている。また長男で18歳のJohn Charles MALIN(1892–1947) がFish Frierとして店を手伝っていることも記録にある。その後も長男は魚関係の仕事を続け、1915年に結婚して、母親と同じ通りの144番地に別に店をもったことが記録されている。「London, England, City Directories, 1736-1943」の1920年の記録では、息子ジョン・チャールズ・マリンの職業は「Fishmonger」という記載になっている。よって母親はフィッシュ & チップス店、息子は魚屋という組み合わせで協力して商売を行っていたようである。
Arthur Albert MALIN(1885–1968)
アーサー・アルバート・マリンは、ジョン・W・マリンの四男で、先のジョン・チャールズ・マリンの弟であるが、年齢差が16歳も離れた兄弟である。父のジョン・W・マリンがフィッシュ & チップス店を始めたことから、息子のアーサー・アルバート・マリンも自然と同じ商売に入ったものと思われる。
アーサー・アルバート・マリンの自署
記録を見ると「1900 Kelly's London Suburban Directory」に、80 Cleveland Street でFried Fish Shopを任されているのが「John MALIN Jun」とあり、これが若干15歳~16歳のアーサー・アルバート・マリンだったと考えられる。そもそも80 Cleveland Street は叔父のジョセフ・H・マリンの店なのであり、前に任せていたジョン・チャールズ・マリンの後を引き継ぐかたちで、店に入ったものと考えられる。80 Cleveland Street の店は、マリン家が最初にフィッシュ & チップス店舗を開いた場所であることから、既に固定的は顧客があり、若くてもこうした固定客を相手に十分に商売を行い、また商売のコツなどを学ぶことが出来たのだろう。
1913年頃に、67歳になった父のジョン・W・マリンが引退すると、「Post Office London Directory, 1914」の記録では父の店があった 560 Old Ford をアーサー・アルバート・マリンが引き継いだことが記されている。
アーサー・アルバート・マリンは1907年に22歳で結婚したことが「Church of England Marriages and Banns」に記録されており、職業欄には「Fishmonger:魚屋」とある。また1920年の「Post Office London Directory, 1920」の記録にはロンドンのフィッシュ & チップス店一覧が掲載されているが、この時にはマリン家の店舗は、560 Old Ford をアーサー・アルバート・マリンの店と、101 Goldsmith Rowのイライザ・マリンの店だけになっている。
1925年の「London, England, City Directories」によると、アーサー・アルバート・マリンは南ロンドンのNew Elthamに店を移している。この移動によって 560 Old Ford の店を、甥のAlbert Benjamin MALIN(1901-1995) に託しているので、次にこの人物についても説明を行うことにしたい。
Albert Benjamin MALIN(1894–1993)
アルバート・ベンジャミン・マリンは、ジョン・チャールズ・マリンの次男で、ジョン・W・マリンの孫にあたる。幼年期の記録は、既に家族についての説明で取り上げた資料に含まれているので詳しくは取り上げない。青年になってからアルバート・ベンジャミン・マリンは海軍に入隊していたことが「Royal Navy Registers of Seamen's Services」にあり、1912年~1919年(18歳~25歳)まで海軍に所属したことが記録されている。この中にも「Fishmonger」との記載があり、魚屋が本職だったということになっている。
1919年に長男のAlbert John Charles (Bert) MALINが生まれた記録が「Church of England Births and Baptisms」にあり、海軍除隊後には 134 Goldsmith Row で魚屋として商売に従事し始めたことが記されている。この 134 Goldsmith Row という住所は、母親のエリーザ(Eliza:1869–1929)が 101 Goldsmith Row でフィッシュ & チップス店を、兄のジョン・チャールズ・マリンが 144 Goldsmith Row で魚屋を営業していた場所である。アルバート・ベンジャミン・マリンは除隊後、Goldsmith Rowに住んで家族の店で働いていたものと思われる。
その後、1925年になるとそれまで 560 Old Ford Rd でフィッシュ & チップス店を営業していた叔父のアーサー・アルバート・マリンが南ロンドンのNew Elthamに移動することになり、そのためにアルバート・ベンジャミン・マリンが 560 Old Ford Rd で営業を始めたことが「London, England, City Directories」から確認出来る。同じページに、母親のエリーザが 101 Goldsmith Row で引き続き店をやっていることや、弟のアーネスト・マリン(Ernest MALIN)が 144 Goldsmith Row で店をやっている記載もあり、家族でビジネスを広げている様子が確認できる。
左:デニス・マリン(三男)
中央:アルバート・ベンジャミン・マリン(父親)
その後、アルバート・ベンジャミン・マリンは 560 Old Ford Rd の店を、弟のアーネスト・マリンに任せたようである。記録からは確認することができなかったが、Panikos Panayi著『Fish and Chips: A History』には、アルバート・ベンジャミン・マリンの息子のデニス・マリンが店をアーネスト・マリンから引き継いだと記されているからでる。1937年の記録ではまだ、兄のアルバート・ベンジャミン・マリンは 560 Old Ford Rd、弟のアーネスト・マリンが 144 Goldsmith Row でそれぞれ「Fishmonger:魚屋」とあるので、それ以降のどこかでアーネスト・マリンに託されたものと考えられる。ちなみにこの兄弟は長命で、兄は99歳、弟は94歳まで生きている。
560 Old Ford Rd の店は、アーネスト・マリンを経て、甥のデニス・マリン(Dennis James (Denny) MALIN)が継ぐことになる。最後にこの人物について記しておくことにしたい。
Dennis James (Denny) MALIN(1924–1989)
デニス・マリンはアルバート・ベンジャミン・マリンの三男である。第二次世界大戦中は英国空軍のパイロットとして従軍しており、戦争終了後に家業を継ぐことになった。1968年にNFFFの調査によって、最古のフィッシュ & チップス店として銘板を授与されたのは、当時店のオーナーになっていたデニス・マリンである。
しかし最古の店であるとされてから、わずか4年後の1972年に 560 Old Ford Rd にあったマリンズは閉店となってしまう。これは店のあった周囲が開発によって新たに住宅となったことなどが理由のようである。調査してみると、1970年2月13日 アメリカのオハイオ州で販売されていたLancaster Eagle-Gazette紙に以下のような記事が見つけることが出来た。
この新聞記事には、オハイオ州ランカスターに開店するフィッシュ & チップスレストラン:Arther Treacher'sの新店舗に、デニス・マリンが来店してラジオ放送でフィッシュ & チップスに関する質問に答えるというイベントの記事である。
Arther Treacher'sとは?
Arther Treacher'sとは1969年にアメリカのオハイオ州で創業したフィッシュ & チップスを主力商品としたレストランチェーン店である。その店名は、アーサー・トリ―チャー(Arther Treacher)というイギリス人俳優で、当時アメリカの映画や舞台で活躍した人物に由来している。この俳優の名を冠したフィッシュ & チップスが「Arther Treacher's」で、フィッシュ & チップスが代表的なイギリス料理であることから、アメリカで有名なイギリス人のアーサー・トリ―チャーが担ぎ出されたようである。資本関係にあるのかについての質問に対して、アーサー・トリ―チャー自身は明言を避けていたようであるが、実際は経営・資本で参画していたという訳ではなく、宣伝のための名前を貸していただけのようである。1979年~1980年のアメリカで流されていたArther Treacher'sのCMを以下に掲載ておくのでご確認頂きたい。
1979年CM
1980年CM
Arther Treacher'sは、1969年にオハイオ州コロンバスで始まると、1970年代後半迄には800を超える店舗数に成長し、アメリカ国内で非常に良く知られたレストラン・チェーン店に成長した。しかし2021年現在は1833 State Rd, Cuyahoga Falls, OH 44223, United Statesにある一店舗のみと、正に栄枯盛衰を体現したようなレストランになっている。
Arther Treacher'sの創業者
Arther Treacher'sは、Dave Thomas と L.S.Hartzog、さらにS. Robert Davisによって始められた。これら創業者の背景を説明することでArther Treacher'sがどのような経営戦略でアメリカに広げられたのかを考えてみたい。
Dave Thomas
Dave Thomasは、同年11月に同じくオハイオ州コロンバスでWendy's(ウェンディーズ)を立ち上げ、ファーストフード界の大物となった人物である。Dave Thomasは、ウェンディーズの創設者兼最高経営責任者としてCMにも積極的に登場し、1989年から2002年まで800以上のウェンディーズCMに自らが出演している。
Dave Thomas出演のWendy's CM
Dave Thomasは1950年代半から始まった、KFC(Kentucky Fried Chicken)の事業拡大に貢献した人物である。Dave Thomasは、カーネル・サンダース自身が広告塔として出演するCM制作を提案し、現在のようなカーネル・サンダースをアイコンとする飲食店ビジネスの基礎を作った。これは後にDave Thomas自身がウェンディーズの広告塔としてCMに出演するようになった手法とも共通している。
Levi Shelton Hartzog
L.S.Hartzog(Levi Shelton Hartzog)は、アラバマ州セルマの卸売ベーカリーからビジネスを始めてHart's Breadを設立。この会社はKFCのビスケットと全国チェーン向けのハンバーガーバンズを提供することで拡大した。またHartzogは、ヒューストンとオクラホマシティに35のケンタッキーフライドチキンフランチャイズ店を所有。またアトランタ地域で最初のウェンディーズのフランチャイズを所有し、その後も84のウェンディーズを所有していた。こうした権利を有していたのは、KFC時代からビジネス仲間であったDave Thomasとの関係によるものだと考えられる。
S. Robert Davis
S. Robert Davisは不動産業者だったがウェンディーズの最初の投資家で、Dave Thomasとの関係からArther Treacher'sにも創業者として出資・参画したものと考えられる。DavisはArther Treacher'sのチェーンを設立した後、フロリダの柑橘類の栽培および加工事業を行うOrange Co,Incを経営し大金を稼いだとされている。1970年代初頭までに、Arther Treacher'sはOrange Co,Incの傘下にになり、Davisは1972年から1976年まで積極的な拡大キャンペーンにより多くのフランチャイズ店を増やしている。
Arther Treacher'sの経営・販売戦略
Arther Treacher'sの経営に携わった人物たちの経歴から、彼らがどのようにフィッシュ & チップスを宣伝し、販売しようとしていたのか、その手法を理解することが出来る。KFCではカーネル・サンダース、Wendy'sではDave Thomasが広告塔になったのと同じように、アイコンとなるような人物(Arther Treacher)を使いマーケティングする手法を用いた。人物に付随するイメージを商品に浸透させ、直営およびフランチャイズの全店舗で同じ商品を効率的に生産・販売するという方法が取られたという訳である。
こうしたビジネス的な販売戦略手法から考えると、なぜArther Treacher'sがマリンズのデニス・マリンを担ぎ出したのかも理解できる。アメリカでのフィッシュ & チップス販売において、最古のフィッシュ & チップス店という肩書はビジネスに上手く活用できる要素だったことは間違いない。先の新聞記事によると、デニス・マリンはArther Treacher's Instututeのディレクターに就任したことになっている。Arther Treacher's Instututeがどのような役割を果たしていたのかについては、『Franchise Company Data for Equal Opportunity in Business』に情報があるので以下に示しておきたい。
この記録では1974年の時点で既に24州に160店舗が存在してたことが分かる。こうした店舗拡大を支えるために、Arther Treacher's Instututeで、10日間の訓練を受けることでライセンスを得ることが出来るようになっていた。また開業支援、継続的なトレーニングもこのArther Treacher's Instututeで受けることが出来るようになっており、店舗数拡大や品質保持のための方策が取られていたのである。こうしたトレーニング施設のディレクターにデニス・マリンを就任させることは確かに実務的にも、またフランチャイズ獲得にも効果的な方法だったと言えるだろう。
またデニス・マリンには「The head of company's quality control」という役職にあり、Arther Treacher'sの生産管理部長のような役割も担っていた。
Arther Treacher'sの主力商品は「Original Fish & Chips」というメニューであったが、Arther Treacher'sのようなアメリカのチェーン店が、日本で言えば「元祖」にあたる「オリジナル:Original」という言葉を使用できた理由は、Arther Treacher'sの経営陣がマリンズから権利を購入したからである。彼らは俳優のアーサー・トリーチャーの名称使用権を購入し、さらにマリンズからフィッシュ&チップスのレシピの独占権利を購入することで、出資者からの資金を集めることに成功したのである。
こうした経緯を経て、デニス・マリンはArther Treacher'sに役職を得たその反面、ロンドンのマリンズは1972年に閉店となり長い歴史に終止符を打つことになった。1968年に最古のフィッシュ & チップス店と認定された、そのわずか4年後の閉店であり、結果的にNFFFの認定によって世界最古のフィッシュ & チップス店となったことで、アメリカ大資本の外食産業ビジネスに波に飲まれることになってしまい、店そのものが消滅するという残念な結果になってしまったと思わざるを得ない。
閉店した1972年のマリンズ
Arther Treacher'sのその後
その後、Arther Treacher'sはいくつかの会社に売却されたが、いずれも大きな負債を残して店舗数を減らしてゆき、最盛期には800以上もあった店舗も、2021年9月現在では1店舗を残すのみとなっている。アメリカでは他にも同様のフィッシュ & チップスがチェーン店展開を行ったが、いずれも現在は規模を縮小したり閉鎖となっている。
アメリカではフィッシュ & チップスの販売方法をローカル合わせて行うのではなく、資本を投入して大規模展開するという手法が取られた。実際にハンバーガーではこうした手法が大きな効果を上げ、巨大な外食産業に成長することが出来たからである。またTaco Bellなど、必ずしもアメリカの料理でなくてもチェーン店展開に成功した外食産業はある。アメリカでのフィッシュ & チップスも一時期は成長をしていた時期もあるので、アメリカにおける現在のようなフィッシュ & チップスチェーン店の衰退の原因はどこにあったのかという疑問が生じることになる。
本稿「美味求真」ではフィッシュ & チップスという料理がどのようにロンドンの貧民街で生まれたのかを説明してきたが、こうしたフィッシュ & チップスの歴史を踏まえて経営に関しても言えることは、「フィッシュ & チップスを他国で扱うのであれば、そもそもフィッシュ & チップスがどのような料理だったのかを分析することから始めることが重要だったのではないか」ということである。フィッシュ & チップスはほぼ同じ時代に同時多発的に販売が始められ、イギリス全土に広がっていったが、それでも各地方ならではの特徴がフィッシュ & チップスには存在している。例えばバーミンガムではカレーソースが人気であり、北部のランカシャーではマッシュピーズ(グリンピースを潰したソース)が人気である。グラスゴーではピックルドオニオンを添えて食べるのが好まれており、アバディーンではコッドよりもハドックという種類の魚の方が好まれているなど、地方によって異なった様々な食べ方の嗜好があり、それが一見どれも同じように思える料理に多様性をもたらしている。
さらにイギリスでは自分の街にあるローカルなフィッシュ & チップスが、いわゆる家庭の味にもなっているのではないかと思えるようなところもあり、そうしたローカルで小さなフィッシュ & チップス店の味も大切にされていることが感じられる。町々にはそれぞれ異なる個人経営のフィッシュ & チップス店があり、それぞれが特徴あるフィッシュ & チップスを提供しており、その違いもまたフィッシュ & チップスの魅力となっているのである。油ぎった「これぞ労働者階級」というようなフィッシュ & チップスもあれば、ハイソなエリアにはそれに合った軽く白く揚がったフィッシュ & チップスもある。こうした多様性があり、様々な味わいが混在していることもイギリスのフィッシュ & チップスの特徴や魅力になっていると言えるだろう。
このようなイギリスにおけるフィッシュ & チップスの背景を考えると、大規模チェーン店化するというのが、この料理の販売方法として良いことだったかどうかということも改めて問う必要があると思う。経営手法において、イギリス的な手法はアダプテーション(Adaptation)であるとされるのに対し、アメリカ的な手法はグローバライゼーション(Globalization)であるとされている。イギリスは世界中に点在する植民地支配を行ってきた経験から、各国や地域の実情に合わせて(Adapt)経営する方法を取るのに対して、アメリカではスタンダードを決めて、それをどのような国や地域であっても構わずにおしなべて全て統一して、一律同じものにする方法を取る。
こうした経営的な特徴を踏まえて考えるならば、そもそもフィッシュ & チップスという料理は、アメリカ的なグローバライゼーション手法、つまりチェーン店化してそれをどのような店でも一様に同じもので出すという方法に即したものであったのかというと、フィッシュ & チップスはそのような手法には合わない料理だったいうことになるのではないだろうか。
例えそれがイギリスのロンドンにある世界最古のマリンズのレシピであったとしても、それはあくまでもこの店が存在した 560 Old Ford Rd のBOWというイーストエンドの下町地域の人々に愛されてきた味であり、それが必ずしもアメリカの大多数の人々に受け入れられるという訳ではない。一時的に行列のできる店と、何十年も続けられる店とは根本的に違うのである。もともとマリンズはそうした顔の見える顧客に向けてフィッシュ & チップスを売ってきたことで100年続いてきた店だったはずである。先に取り上げたLancaster Eagle-Gazette新聞記事によると、デニス・マリンの父親のアルバート・ベンジャミン・マリンは高齢になっても(当時は76歳)まだ週に一回は店で仕事していたことが記されている。こうした地道で堅実な商売を行ってきた昔堅気のフィッシュ & チップス店が、アメリカ大資本の外食産業に飲み込まれてあっという間に消失してしまったことは非常に残念である。
デニス・マリンは1989年に65歳で亡くなっている。父親のアルバート・ベンジャミン・マリンは1993年に99歳で亡くなり、その弟のアーネストも1995年に96歳で亡くなっている。現在はマリンズとしてフィッシュ & チップス店を経営していた経験を持つマリン・ファミリーの者は誰もいなくなり、フィッシュ & チップス店としてのマリンズの歴史は完全に幕を閉じたということになるだろう。
創業1860年に対する疑問
フィッシュ&チップスの歴史は1860年に、ジョセフ・マリンによって始まったというのが定説になっているが、わたしは人口調査記録や、当時の住所録、出生・婚姻記録のすべてを精査して以降、この説に対してより懐疑的な見方をするようになった。本来はもっと時代が下がってからマリンズはフィッシュ & チップスの販売を始めたと思われるからである。以下、その理由を述べておきたいと思う。
① 行商人だったジョゼフ・マリン
既に説明した通り、創業者とされるジョゼフ・マリンの職業は「行商人:Hawker」という記載が人口調査などの記録にあるだけである。これだけだとジョゼフ・マリンは当時どのようなものを販売していたのかが全く不明である。
さらに父親や兄弟がどのようなビジネスに従事していたかも見てゆくと、父親は鞭を作る職人、弟は敷物織工であり、そもそも家業は食品を扱うという仕事ではなかった。こうした職業的な背景から考えると、ジョゼフ・マリンがフィッシュ&チップスを行商で売り始めたというのもどこか唐突な感が否めない。しかも実際にジョゼフ・マリンがフィッシュ&チップスを販売していたという文献記録はどこにも存在していないのである。さらに言うと、幾つかの大手のメディア記事も含めて、最初にジョゼフ・マリンがフィッシュ&チップス店を開いたと書いている場合があるが、これは間違いである。なぜならジョゼフ・マリンは自身で店を持たない行商人だったからである。
マリン家はもともとユダヤ人移民の家系であり、ユダヤ人がもともとフライドフィッシュを食べていたこと、さらには居住地がユダヤ系の人々が多く住んでいたエリアにあること、さらにその家系のマリン家の者たちが後世になってフィッシュ&チップスを売り始めたということから、1860年頃にジョゼフ・マリンが最初にフィッシュ&チップスを売り始めた、あるいは店を始めたという話になっていったのではないかと思われるのである。こうした背景から見ても1860年にジョゼフ・マリンがフィッシュ&チップスを始めたとはっきりとは言えないように思える。
② ジョゼフ・H・マリンが創業者では?
マリン一族の中で最初に記録に残る魚を扱うビジネスを始めたのはジョゼフ・H・マリンであり、その時期は記録から考えると1882年-1885年までの間だったことになる。その後の1891年に行われた「人口調査記録」はフィッシュ&チップスの歴史を検討するにおいては特に重要である。この記録では 80,78 Cleveland Street でジョゼフ・H・マリンが魚屋を営んでいた事、さらに同住所で娘の長女のMaryがフライドフィッシュを売っていたこと、さらに三女のCharlotteの職業欄に「Potatoe Peeler:じゃがいもの皮むき」と記載されており、この時点でかなりの高確率でフィッシュ&チップスが販売されていたことが理解できる。
こうした記録から、わたしはマリン一族で始めに魚を商売で扱い始めたのはジョゼフ・H・マリンであり、しかもフィッシュ&チップスの販売を始めたのも1891年からではないかと考えている。文献的な記録からジョゼフ・H・マリンがフィッシュ&チップスを扱い始めたのが明らかになるのが1891年であるとすれば、フィッシュ&チップスの始まりとされている1860年よりも31年後の出来事になる。
つまりこうした記録を参照して考えると、必ずしもマリン一族がフィッシュ&チップスを最初に売り始めたとは言えないということになる。
③ ジョン・W・マリンの住所は創業地ではない
弟のジョゼフ・H・マリンから遅れること数年後、兄のジョン・マリンは魚屋を 560 Old Ford Rd で開始している。この住所に対する考察は非常に重要である。なぜなら、ここがフィッシュ&チップス始まりの地であるとする記事が多く存在しているからである。その中には料理史研究家のクローディア・ローデン(Claudia Roden)の「最初の公式フィッシュアンドチップスショップが、1860年にジョセフマリンによってレディフランクリンパブの向かいのオールドフォードロードに設立された」というものもある。
このように 560 Old Ford Rd という住所を創業地とする見解は多く主流とも言えるのだが、わたしは調査を通してこうした見解は全くの誤りであると断言する。なぜならば 560 Old Ford Rd という住所は、1891年頃にジョン・W・マリンが転居して魚屋を開いた場所であり、ジョン・W・マリン自身もそれまでの仕事は雑貨商であったからである。しかも先に述べたように、弟のジョゼフ・H・マリンが先行して 80,78 Cleveland Street でフィッシュ&チップスを売り始めており、ここから考えても 560 Old Ford Rd をもってして最初のフィッシュ&チップス店のあった場所とするのは明らかに間違いであると言える。
こうした間違いの原因は、最古のフィッシュ&チップス店として選ばれたときに、この店が、マリン一族のフィッシュ&チップス店のなかで、最も古くから営業していた店だったからだろう。さらに最古のフィッシュ&チップス店と認定された際にも、銘板の授与が、この店を営むマリン家第5世代のDennis James (Denny) MALIN(1924–1989)に対して行われたことからも、こうした誤解が広がったものと考えられる。
よってジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd に開いたフィッシュ&チップス店は、1860年に繋がるものではなく、最初のフィッシュ&チップス販売の地でもないということになる。
④ 調査方法に対する懸念
マリンズが1860年からフィッシュ&チップス販売を行っていたと認定したのは、1913年に設立されたNFFF(The National Federation of Fish Friers)であり、1968年に農水食糧大臣によるお墨付きを得て正式に発表が行われている。フィッシュ&チップスの起源に関する調査は、その3年前の1965年からNFFFが着手し始めており、この年にNFFFは既に「フィッシュとチップスの結婚100周年」を祝っているのだが、このことは見過ごすべきでないポイントだと言える。つまりこの時点からフィッシュ&チップスが誕生してから100年は経過しているという、強いバイアスが調査には働いていたことが推測されるからである。
しかもマリンズに対して行われたNFFFの調査方法はどのようなものだったのだろうか。マリンズは市井のローカルなフィッシュ&チップス店でしかなく、当然ながら文献的な記録が残されているはずがない。よってその調査は主にその子孫に対する聞き取りを中心にして行われたものと考えられる。
100年もの前の出来事に関する聞き取り調査が行われたのは、マリン一族の第3世代のArthur Albert MALIN (1885–1968)、あるいは第4世代のErnest MALIN (1901-1995) や、Albert Benjamin MALIN(1894–1993)とその息子で第5世代になるDennis James (Denny) MALIN(1924–1989)だった。彼らは各々フィッシュ&チップス店を経営はしていたが、彼らはジョゼフ・マリンの直系ではなく、元は敷物織工を生涯の仕事とした弟のチャールズの子孫たちである。
マリン一族の家系を調べると、複数のジョゼフ(Joseph)を名乗るマリン家の者がいたことが分かっているが、100年も前のジョゼフ・マリンという人物について、その後の子孫がどれほどの事を知っていたのかについては疑問である。最も近い第3世代のArthur Albert MALINでも、その生年はジョゼフ・マリンと重複しておらず、しかも自身の祖父の兄にあたることから、つながりは薄いものだった可能性がある。
さらに人口調査記録などから分かることは、きちんとした店をもってフィッシュ&チップスを販売し始めたのは、ジョゼフ・マリンの甥にあたるジョン・W・マリンとジョゼフ・H・マリンという兄弟からである。彼等はもともと織物職工として働いたので、ジョゼフ・マリンから店を引き継いだわけでも、その商売を教えてもらった訳でもない。つまり1860年にジョゼフ・マリンがジョゼフ・マリンを売り始めてから、この2人がフィッシュ&チップスを販売し始めるまでは約25~30年近いブランクが生じていることになる。
名家一族の歴史ならばともかく、市井のユダヤ人移民の一族内からの聞き取りである。しかもジョゼフ(Joseph)を名乗る人物は複数おり、こうした先祖の話が混濁して、正確な情報は伝わりにくかったのではないかと考えられる。実際にジョゼフ・マリンは、ジョン・W・マリンと混同して13歳の少年がフィッシュ&チップスを販売し始めたという情報があったり、またジョゼフ・マリンと、ジョゼフ・H・マリンが混同されてフィッシュ&チップス店の始まりが語られている情報もある。また創業地が 560 Old Ford Rd あるいは 80,78 Cleveland Street と錯綜した情報になっているのも、こうした聞き取りからの情報こそが混濁が原因になっているとも考えられる。
本当にフィッシュ&チップスを始めたのはマリン家か?
こうした①~④の理由で、わたしはマリン一族が最初にフィッシュ&チップス店を始めたという説に対して懐疑的な見解をとっている。近年はそうした見方がされるようになってきているようで、フィッシュ&チップスの起源が語られる際には、もう一軒、1863年にフィッシュ&チップスの販売を始めたとされる、北部にあった リーズィズ(Lees's)とマリンズが一緒に語られるようになっており、最初のフィッシュ&チップス店がどこだったかについての断定は避けられるようである。
マリンズは消失した?
マリンズの歴史について語ってきたが、歴史を積み重ねてきたマリンズは消失してしまい現在はどこにも存在していない。今、マリンズを名乗る店があったとしても、それはマリンズとは無関係でその歴史を共有しない店である。
アメリカではフィッシュ & チップスのフランチャイズ化が行われたが、そもそもフィッシュ & チップスという料理がローカルに根差した「食」という性格を有することから、そもそもフランチャイズ化によって味の均一化によってフィッシュ & チップスを提供することが果たして本来の傾向に沿ったものだったのかというと、その部分には大いに疑問が残る。こうしたケースから考えるならば、フィッシュ & チップスのアメリカ的なチェーン店化、あるいはフランチャイズ化によって長期的な成功を得ることは難しいことであるように思える。
しかし敢えてその中での成功の可能性を述べるならば、その地域に合わせ、ローカライズされた愛されるフィッシュ & チップス店を設定することで、イギリス的なアダプテーション(Adaptation)を意識した経営を行うのであれば、まだ成功の可能はあるように思える。
先に取り上げたアメリカのフィッシュ & チップスチェーン店の Arther Treacher's であるが、かつては800店舗以上が存在していたのにも関わらず、現在は1店舗のみが営業しているだけとなっている。しかし1店舗だけになってしまったことで、逆にチェーン店ではなく、ローカル店として顧客に愛される長年続く店となっているのは注目すべき点であると言えるだろう。
現在、Arther Treacher'sの残された店舗オーナーの Ben Vittoria 氏は「SPECTRUM NEWS」のインタビューで、「Arther Treacher's のフィッシュ & チップスはロンドンのマリンズ由来のものであることや、これからも5年、10年と店を続けてゆきたい」という意気込みを語っている。しかしインタビューに登場しているオハイオ州 Garfield Heights の店舗は、2021年6月15日に閉店することになっていまい、現在(2021年9月)残されているのは同経営者の Cuyahoga Falls にある1店舗だけになってしまった。
Arther Treacher's は元は大規模チェーン店であったが、今残されたこの1店舗は、イギリスの街角にある個人経営のローカルなフィッシュ & チップスと同じスタンス(ノスタルジアを感じさせる場所)になっているように思える。この Arther Treacher's は唯一の店になったことによって、より地元やファンの人々に愛されている店になっているのだろうし、そうでなければ何十年間も営業し続けることなど出来なかったに違いない。つまり、Arther Treacher'sは一店舗のローカル店となってしまったことで、ある意味でフィッシュ & チップスという料理の持つ本質性に到達したと言えるのかもしれない。
実を言えば、わたしは当初、Arther Treacher's の調査を開始した際には非常に批判的なスタンスであった。しかし調査をしてゆくなかで、最後の Arther Treacher's 店舗の経営者の Ben Vittoria 氏のコメントなどを見て、大きな共感(sympathy)を感じたことをここで正直に告白しておく。確かに Arther Treacher's では魚のフライだけでなくフライドチキンも売ったり、チップスの形もイギリス人からするとチップスとは言えないような形状なので、本物のフィッシュ & チップスなのかと疑問に思うところもあるのだが、現在残された最後の店舗にはその外見以上に欠かすことの出来ない「魂」が料理に宿っているように思えたからである。はるか遠くアメリカまでフィッシュ & チップスを食べに行かなければと思わせるほど、非常に興味のある店になっている。アメリカまでフィッシュ & チップスを食べに行くというのは、少しバカげた話であるようにも思えるが、拙速に最後の Arther Treacher's のフィッシュ & チップスには価値が無いと判断することは出来ない。
なぜならデニス・マリンが、マリンズのレシピを Arther Treacher's に独占販売してしまっており、1972年にロンドンのマリンズが閉店して以降、当時のマリンズの味は、唯一残されたオハイオ州にある Arther Treacher's だけでしか味わえないからである。Arther Treacher's では未だにマリンズから継承したレシピを変わらず厳格に守り続けている。1976年からArther Treacher'sで働き、その後、数店舗のオーナー経営者になった元イタリア系移民の Ben Vittoria 氏のインタビューからはそのことに誇りをもっていることが感じられたし、フィッシュ & チップスという料理の「芯」のようなものが、アメリカのオハイオの地で未だに存在しているということに驚嘆させられることになった。現在、ロンドンにあった最古のフィッシュ & チップス店のマリンズの味を知るには、アメリカのオハイオ州まで行かなければならないということになるだろう。
さて、わたしは機会があれば、様々なお店でフィッシュ & チップスを試すようにしているが、これがなかなか日本でイギリスで食べられるようなフィッシュ & チップスを楽しめる店が少ない。しかしこれからこの料理に対する理解が進むことで、フィッシュ & チップスが脈々と伝えてきた「魂」のあるフィッシュ & チップス店が増えるようになることを是非とも期待したい。そういうお店にはぜひ訪問したいし、そうした「魂」のあるフィッシュ & チップスにいつか出会えることを心待ちにする今日この頃なのである。
参考資料
『フィッシュ・アンド・チップスの歴史-英国の食と移民』 パニコス・パナイー 著 栢木清吾 訳
『Fish and Chips: A History 』 Panikos Panayi
『Countere Magazine, JUN 22 2021』 Zachary Emmanuel View fullsize
『SPECTRUM NEWS, MAR. 31, 2021』 Ryan Schmelz
『Bond's report, MEPO 3/3153 ff. 10–18,』 Dr. Thomas Bond
『Chipping away at the history of fish and chips, 19th April 2013』 Caitlin Zaino
『Lancaster Eagle-Gazette, Feb 13th 1970』
『Malin’s in Bow: the first fish and chip shop in the UK』 Roman Road LDN