饅頭
饅頭の起源
11世紀の中国の文献『事物起源』には、饅頭の起源が以下のように記されている。
小說云昔諸葛武侯之征孟獲也人曰蠻地多邪術須禱于神假隂兵一以助之然蠻俗必殺人以其首祭之神則嚮之為出兵也武侯不從因雜用羊豕之肉以包之以麵象人頭以祠神亦嚮焉而為出兵後人由此為饅頭至晉盧諶祭法春祠用饅頭始列于祭祀之品而束晢餅賦亦有其說則饅頭疑自武侯始也
上記の『事物起源』の内容は次のようなものである。
諸葛孔明が南蛮討伐に向かい蛮王孟獲を平定した帰りに「濾水」という川を渡らなければならなかったが、氾濫していてそこを越えられなかった。川の氾濫で足止めされたこの土地は、蛮族が住んでいたために蛮地と呼ばれており、「川が氾濫しても、蛮人49人の首を切って、川の神に供えればそれを抑えられる」と言い伝えられていた。ところが諸葛孔明は、これを拒んで、その代わりに小麦粉から人の頭を模して作ったものを49個作り、それを川の神に奉げた。こうして「濾水」の氾濫を鎮めることが出来たのである。
もともとは、小麦でこねたものの中に羊と豚の肉を入れて蒸したものは「蛮頭」と呼ばれていたのだが、諸葛孔明のこの出来事以後、この食べ物には、「大地をおさめる力」があると考えられるようになった。これが饅頭の起源と言われている。さらに時代が下がると「蛮族の頭」を略した「蛮頭」が「饅頭」と呼び改められるようになる。この「饅頭」は神様にささげる神聖なものとされ、供養で捧げられたり、祝い事で配られたりと、その習慣は現代まで続いている。
中国の中央(中原)では、南方の諸民族を夷狄の地に住む、野蛮な民族と見做しており、荒唐無稽で神話的なエピソードが多く見られる。諸葛孔明が行った、蛮王孟獲の征伐に関しても、こうした類のエピソードが多くあり、半分歴史、半分は物語的な要素がそこには存在しているようである。例えば、南蛮討伐の際に、蛮王孟獲の妻である「
饅頭に関するこのエピソードも、漢民族の、辺境民族に対する因習や迷信による問題を正すというような意味あいが含まれているように感じさせられるのだが、こうした食品を捧げることで、自然の脅威を鎮めるというのは中国では良く見られる風習であるように思われる。
同様のエピソードは、『事物起源』をベースとして『三国志演義』にも以下のように記載されている。
【 三国志演義 】
卻說乳明手定蠻矩班師圃國職值九月秋天寶王孟獲率引大小洞主酋長灰諸部蠻夷皆羅拜相送前軍主爐木慈陰霧黑雩四下布食狂風沙看夜水面而起其不靜進黼報扎明北明遂問孟獲獲副跳水原府猾神作禍禪未考必須祭之細明魂用何物祭萬獲副舊時國中因猾神作禰用七七四十九顙人頭請黑牛白羊厥祭之貳然風恬浪謙方繞渡之更羔連年豐檢犯明包吾今事己干定要忍又殺生靈輒吾石為之還自到爐水岸邊粟見陰風大越波疇胸涌尺馬皆繡亦不靜渡紳明甚疑節尋土人間糟不時老少數十餘人皆永告就負丞相經過之後夜夜只聰得水邊鬼哭神蒙甘黃春直至天晚哀聲不縷蟲姻之內陰見軸聽因跳作百無人敢渡驅明西踐乃吾之積惡也奮時馬岱引蜀兵數百皆元杵水就更兼殺元蠻兵數巍畫棄招水就狂魂怨鬼束靜鮮樣以致如雌響今晚自當祭鵝老人良須休舊例可殺四十九潁人頭以祭驚則怨見自散也拒明曰善班師田國男可妄殺押人吾自有主見喚行廟罕殺牛馬和楚為稱疆成人頭深以牛羊等肉代之若冒慶頭輔 [主今旦出物紀原] 當夜朽爐水岸上故祭亮金冠鶴覽親自臨祭谷董厥讀祭萬其文曰
上記の『三国志演義』の内容は以下のように要約できるだろう。
諸葛孔明が南蛮を平定し、成都へ帰還のおりに瀘水という河にさしかかると、瀘水が荒れ狂っていて渡ることが出来ない。諸葛孔明がこの地方の人々になぜ河が荒れるのかと問うと、「河の荒神と、戦いで死んだ将兵たちの祟りだ」という。鎮めるには人身御供として、7749人の首と黒い牛、白い羊を河の神に供えて祭をしなければならないと教えられる。それを聞いた諸葛孔明は、人身御供の悪習を絶ち切ろうと考え、従軍している料理番を呼び寄せ、小麦粉を練って人の頭の形に似せて作らせ、その中に人肉の代わりに牛や羊の肉を詰めた饅頭を河の神に捧げ祭を行った。すると翌朝荒れ狂っていた河は鎮り返り渡ることができたという。
『事物起源』では必要な生贄の数が47人であったのに対し、『三国志演義』では7747人とかなり盛られているのが分かる。多少の脚色はあるが、いずれにしても饅頭とは中国の南方で生まれた、諸葛孔明に起源をもつ、もともと祭祀と関係していた食べ物である事は間違いないようである。
饅頭と粽の起源
同じような中国の南方を起源とする食べ物では「
粽の起源は、同じく南方に存在していた「楚」の宰相であった屈原に関係した食べ物である。屈原は、王を必死で諫めたが受け入れられず、石を抱き汨羅江に身を投じて没した人物であるが、入水自殺のあとに、屈原の無念を鎮めるため、また人々は亡骸を魚が食らわないように魚のえさとして笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになる。これが粽の由来と言われている。
屈原の死後、千年ほど後、六世紀に書かれた『続斉諧記(ぞくせいかいき)』の五花絲粽には次のように記されている。
【 続斉諧記 】
屈原五月五曰投汨羅水,楚人哀之,至此曰,以竹筒子貯米投水以祭之。漢建武中,長沙區曲忽見一士人,自云「三閭大夫」,謂曲曰:「聞君當見祭,甚善。常年為蛟龍所竊,今若有惠,當以楝葉塞其上,以彩絲纏之。此二物,蛟龍所憚。」曲依其言。今五月五曰作粽,並帶楝葉、五花絲,遺風也
屈原の入水後、その死を悼んだ里人は、命日の五月五日に供養として竹筒に米を入れ、汨羅の淵に投げ込んでいた。しかしある時、屈原の霊があらわれ、こう訴えたのである。 「淵には蛟龍(こうりゅう=龍の一種)が住んでおり、投げ込んだ供物を食べてしまう。厄除けに楝樹(せんだん)の葉で包み、五色の糸で巻けば蛟龍は食べないであろう」 それから里人は教え通りに供物を作るようになったのである。「粽」は、こうした謂れの故に、屈原の命日と言われる五月五日に食べられるようになったのである。そして現代の日本においても、端午の節句には粽を食べているので、屈原のこの出来事がいまだに我々の生活に深く浸透していることが分かるだろう。
日本でも、中国から伝わった習慣のゆえに、粽は五月五日に食べられている。また目出たい出来事があると紅白の饅頭を配る習慣もある。このように、元々は祭祀と関係した供え物として存在していたものが、習慣化され徐々に日常生活にまで浸透し広まったことが分かる。
このように食文化の源流は、あらゆる故事や歴史あるいはその民族が有する神話的伝承に繋がっており、こうした背景を知らなければ、食文化は語れないことが多い。饅頭も中国から伝わってきた食品であるが、こうした背景を理解することで、その意味や、位置づけを改めて意識しながら食べると面白いのではないかと思う。
日本の饅頭
饅頭はどのように日本に伝わったかに関しては幾つかの説が存在してるようである。日本人で饅頭について言及したのは、平安時代の僧侶であった
【 参天台五台山記 】
崇斑志送饅頭甘丸
とあり、都の開封に入る手前で、成尋一行を護衛してきた鄭珍が饅頭20個を買ってきて皆に配ったことが記されている。つまり日本人が始めて饅頭を食べたのは、成尋が饅頭をおごってもらったこの1072年の記録ということになる。
成尋が大陸に渡った宋代には、すでに饅頭は多様性を極めており、餡には羊肉や海老、魚、蟹、筍などを使ったものや、甘い饅頭としては糖餡(砂糖餡)、豆沙餡(豆餡)を入れたものもあったことが、呉自牧の記した『夢粱録』に記録されている。その種類について以下のように述べられている。
【 夢粱録 】
市食點心,四時皆有,任便索喚,不誤主顧。且如蒸作面行賣四色饅頭、細餡大包子,賣米薄皮春繭、生餡饅頭、餣子、笑靨兒、金銀炙焦、牡丹餅、雜色煎花饅頭雜色剪花饅頭、棗箍棗䭅、荷葉餅、芙蓉餅、菊花餅、月餅、梅花餅、開爐餅、壽帶龜、仙桃、子母春繭、子母龜、子母仙桃、圓歡喜、駱駝蹄、糖蜜果食、果食將軍、肉果食、重陽糕、肉絲糕、水晶包兒、筍肉包兒、蝦魚包兒、江魚包兒、蟹肉包兒、鵝鴨包兒、鵝眉夾兒、十色小從食、細餡夾兒、筍肉夾兒、油炸夾兒、金鋌夾兒、江魚夾兒、甘露餅、肉油餅、菊花餅、糖肉饅頭、羊肉饅頭、太學饅頭、筍肉饅頭、魚肉饅頭、蟹肉饅頭、肉酸餡、千層兒、炊餅、鵝彈。更有專賣素點心從食店,如豐糖糕、乳糕、栗糕、鏡面糕、重陽糕、棗糕、乳餅、麩筍絲、假肉饅頭、筍絲饅頭、裹蒸饅頭、菠菜果子饅頭、七寶酸餡、姜糖辣餡、糖餡饅頭、活糖沙餡、諸色春繭、仙桃、龜兒、包子、點子、諸色油炸素夾兒、油酥餅兒、筍絲麩兒、果子、韻果、七寶包兒等點心。
日本人が饅頭を食べたのは1072年の成尋が最初であるが、饅頭が日本に伝来したのはいつだろうか。
これについては、ふたつの説があり、1241年に
饅頭を始めたとされる諸葛孔明は、西暦225年の南蛮:益州南部四郡を制して帰国するときに作ったとされているので、日本に饅頭が伝わったのはそれから1000年後ということになる。
現在では饅頭はとてもポピュラーな菓子ではあるが、それが諸葛孔明のおかげと思うと、なんだかとても感慨深いものがある。
参考文献
『事物起源』 高承
『三国志演義』 羅貫中
『参天台五台山記』 成尋
『夢粱録』 呉自牧
『続々・成尋の日記を読む』 井上泰也
『成尋と饅頭』 菓子資料室 虎屋文庫