日本は大蛇が横たわっているかのような島国で、北はラッコが鳴くような寒冷の海から、南はウミガメが泳ぐ熱帯の海にまでにわたっている。国土の面積と比較して海岸線が非常に長く28,000kmあまりにまで達しており、山に群生している樹木は資源を供給し、無数の河川は水質を中和し魚類の繁殖に適した環境をつくる。かつ暖流(黒潮)および寒流(親潮)が沿岸を還流しているので四季を通して回遊魚を捕獲するのに便利である。また日本は魚類が豊富で、その種類の多さは世界第一と言われている。近年、水産所得額は巨額になってきており、この額は欧米諸国を凌駕し世界中でも肩を並べられる所はない程で、日本に次いではただノルウェー、ニューファンドランド等が追いかけている位である。ある人の調査によると、日本の内地に住んでいる魚類の種類は約1300種、韓国、台湾、沖縄、小笠原、樺太を加えれば実に約2500種に達するという。国民は魚を主に食し、魚に対する特別の嗜好を示している。西洋人は魚を食べない事はないが、あまり深くは好まない。ただ鮭、鱒などの2,3種類のものをボイルするか、あるいはフライにして食用にしているだけである。中国人の魚料理は流石に巧妙なものが多いが、主にナマコ、フカヒレ、貝柱、干しアワビなどの乾物料理が優れており、生魚の嗜好については日本には及ばない。思うに日本は平野が少なく、従って牧畜に適していない為、必然的にその嗜好を魚類に求めたのであろう。また中世の仏教伝来により肉食を忌むようになった等、幾つかの原因があり、大正11年11月27日、アメリカのスタンフォード大学の名誉教授ジョルダン博士が日本に来て魚類の調査を試みたが、流石に日本は魚の国であると驚嘆したという記事が東京の各紙で発表されていたのだが、そうれは正に日本の魚類の優位性をあらわしていると言えるだろう。
また漁獲量についても日本人に他国は及ばない。日本人の優秀な漁獲技術があることは見逃すべきでない事実であり、この日本人の漁法の巧妙さは世界でも驚嘆されている。遠く漢代の昔、日本人がその地に移住し、漁を行ったことが『後漢書』烏桓鮮卑列傳に記録されている。また古代史を見てみると『古事記』に、日向朝廷の時代に、
近年、日本における養殖の発達はかなり進歩しているが、産業的に行われるようになったのは近年になってからである。これは日本が魚に富み、日本人が漁において巧みであるために、養殖の必要を感じなかったためである。
実用的な養殖法の最も古い歴史を持っているのはさすがに中国である。これは国の面積に比較して海岸線は少なく、魚類の需要の不足を補うために始まった自然の傾向かもしれない。
現在でも伝わっている陶朱公の『養魚経』(二千年前)を見ると、中国における魚の養殖の起源がかなり古いことを理解できる。陶朱公は、まず鯉を養殖することを教えた。600㎡の土地に池を作り、長さ60㎝程の鯉を16匹入れ、90㎝のオス鯉を4匹入れれば、7万匹の鯉を得たとある。ただしこれは育ちやすく、共食いをしなかったからであるとある。しかも可笑しな事にこの池に四月に一匹の「神守」を入れ、六月に一匹の「神守」を入れ、八月にもまた一匹の「神守」を入れたとある。当時は魚が2360匹に達すれば、蚊龍が長になり魚群を率いて他の地に飛び去ってしまうが、池に「神守」を放っておけばこのような事はおこらないと信じられていた。「神守」とはスッポンの別名であり、今でも中国ではスッポンのことを「神守」という。『養魚経』には魚卵の孵化については説明されてない。後代になっても種々の説が伝えられてきた。例えば魚卵は乾燥して数年経っても死なず、水があれば孵化すると信じられていた。また銀魚(シラ魚)は冬季に卵を水中に産み、氷が解ければ発生すると信じられていたが、『本草綱目』および『廣東新語』などに、魚が魚卵を孕むと春の終わりから夏の初めに、濁水の草際に産卵する。その時にメス魚がいて、それを追って白を注いで卵を覆えば孵化すると説明してあり、古い説が間違いである事を論じている。魚類の生殖の理屈を理解し、中国式の研究も加わり、鶏卵の端に小さな穴をあけて中身を吸い出し、その中に魚卵をいれて穴を塞ぎ、これを2,3日の間、メス鶏に温めさせた後に取り出し、さらに太陽熱で温めた水盤に出して孵化するようにしていたが、次第に養殖の方法も進歩して、100~200年来、本草の理論を基礎として魚苗の製造に着手したのは廣東省九江村である。この地方の魚の種類は今でも有名である。
ヨーロッパでもローマの繁栄により、稚魚を南ヨーロッパから輸入して、魚を養殖することが流行した。当時の王侯貴族は自分の所有地に地方の魚を移植して、食事に供することを誇りとしていた。中でもローマのラカラスの養魚場は規模は大きく、設備も完備されていたことで有名である。またルキュラスという人物は晩年に政界を退き、ネーブルスというタスカラムの別荘に巨大な溜池を作って養殖を行っていたことが記録されている。そしてローマ時代にいかに養殖がさかんであったのかは、養殖の魚の餌に人肉が与えられていたという事からも理解できる。つまり魚に人肉を与えればその肉の味が特別な香味を持つようになるとして、良く養殖の魚の餌には人肉がつかわれていた。またヴェデアスポラという人物は奴隷を池の中に縛り、生きながらに肉を魚に食わせていたと伝えられている。その後、紀元1420年の頃にローマのレオームの支配者であったドンピニチョンという人物が、始めて魚卵を人工的に孵化させる方法を発明した。またその後1758年になり、トルコゼー・エル・シャコビイ氏が人工孵化の方法で実績を挙げており、フランスでその技術はかなり発達し、それからしばらくして全ヨーロッパに伝搬し、アメリカでは1850年に始めて人為的な人工授精を行って成果を収めて以来次第に流行するようになり、いらい幾多の改良を重ね、さらにオーストラリアにも伝わり、全世界で行われるようになっている。
日本でも養魚池は作られた起源は古く、景行天皇が美濃の泳宮に滞在した際に鯉が池に放されたこと、さらに神功皇后が筑紫に行幸された時に、筑紫の主であった祖熊鰐が魚沼島池を作って多くの魚や鳥を集めて皇后を迎えたことが歴史に残されている。その後、中世に至ると摺紳の屋敷には多くの養殖池が作られ、また釣堀も備えられていた。弘仁五年に嵯峨天皇が藤原冬嗣の屋敷を訪問した時に、
避暑時来閑院裏
池亭一把魚釣竿
と吟詠された。後深草帝は寶治二年に宇治に行幸したときには平等院の釣殿に舟を寄せられたことがあった。ただしこれらは全て娯楽が目的であり、これを産業に利用するようになったのは中国から金魚が輸入されるようになった後の事である。中国における金魚の起源は明らかではないが、『述異記』には「晋の桓中が廬山に遊び湖中に赤鱗魚が浮遊しているのを見た、これが金魚の始まりである」とある。これを家で飼って愛玩したのは宋代以降の事である。そして金魚が日本に来たのは後柏原院の文亀二年の一月二十日、明国から泉州の堺港に到着したのが始めてである。舶来の美しい魚である、最初はどれほどの日本人の目を引き付けただろうか。特に一部の人士には愛玩され珍重されたのであるが、延寶の時代から元禄時代の頃までにはビジネスとして江戸の下谷池之端でこの魚を飼って、金魚屋を開業したと言われている。(西鶴置土産)
また元和年間に越後国の蒲原郡結新田で、殖産の目的で鯉の養殖に着手されたが、それが日本での養殖魚事業の始まりである。これより前には大阪の醫寺島宗女の著書に鮭の卵(イクラ)の人工孵化について述べており、『和漢三才図絵』に鮭のハラコを稲藁に包んで水中の日陰の場所に入れ、白子を混ぜて鮭の生息場所で養うならば繁殖すると記してあり、また天保年間には鈴木牧の『北越雪譜』には、寒中の頃に捕獲した鮭のハラコと白子を混ぜて鮭の住んでいた砂石とともに瓶に入れて、鮭の故郷の海に通じている清流に放し、これによって国に収益をもたらそうと論じてはいるがいずれも実行はされていない。元和年間に越後の鯉の養殖が始められたあと、天明年間に会津で養殖魚のビジネスを始めた者がいた。その後は奈良の郡山、長野の佐久郡、山形の置賜郡、岐阜の高山など、養殖を産業とするものが続々と出て来て、明治の初年には農商務省技師の
前項で述べたように養殖魚には二種類ある。ひとつは自然の河川を利用して繁殖を保護する方法と、もうひとつは養殖池を利用して人工的に養殖を行う方法である。前者はその食味は自然のものと大きな違いはないが、後者の食味については自然のものと比較してかなり劣っているのはこの事業の最も大きな欠点である。畜産にしても、人の努力によって外見の生育は優れたものになっているが、その中身に伴なうことなく、かえって空虚になってしまっている者が多い。養殖物の味が天然産に比べて劣っているのは所々で論じられているが、魚類についてはこの傾向が最も著しいといえる。養殖魚特有の臭気は数日の間、清水の中に放しておけば幾分減少するが全く除去することは出来ない。しかも肉には締まりがなく、不快な味があるのは何ともしようがないようである。
畜産類、農産物など比較的空気の流れがあり、天然産と同じ環境で育成したものでもその味は天然産のものに比べると劣ってしまっているが、魚類の場合は水の流れが不十分であるばかりか、その半分は変色してほとんど腐敗に近い人工池の水中に育成しており、こうした養殖魚に最良の味を求めることが出来ないのは当然なのである。水の流れを自由にすれば、魚が逃げ出してしまうのは免れず、水の流れを生じさせ、かつ魚が逃げないようにする設備を備えるには経済上両立することはないので、仮に経済上の利益を無視して設備を完備したとしても、事業者から与えられる餌によって生育するので、そこに住む魚は生存に必要な努力の必要がないので、肉組織の生育は締まりがなく、その肉は美味となることは、あたかも飽食しぬくぬくと育った子供が、精神的にも肉体的にも強靭さや緊張感を欠いているのと同じである。
養殖池の魚か、天然魚かどうかの区別は、多少の経験がある人ならば一見して見分けることができる。自然環境のなかで荒瀬を上り、激しい淵に跳ね、怒涛を凌ぎ、急流を越えながら困難の多い生存環境に耐え、人やその他の害敵を逃れ、独自の力で成育を遂げたものは頭も骨も頑丈で節が高く、全身の鱗に光沢があり、外見は独特の威容を示している。試しにこの我々の人間社会において見ると、その人独自の己の努力によって今の地位を築いたか、あるいは偶然の幸運から飽食安逸に生活しているのかは、その顔の表情だけでそれが分かることにも似ている。
魚も同じであり、自然は鍛錬によってだけそのものは真価を得ることができ、その味の素晴らしさに至っては、あたかも自然という大技術師によるものでなければ何としても得難ものであるかのようだ。従ってスッポンであれ、鯉であれ、すべて養殖池で育ったものは味の点からはあまり好ましいものではないと言わざるを得ない。
鮎の字は中国でナマズ(鯰)にも使われているが、日本ではアユのことである。昔に神功皇后は三韓征伐の際に、九州の博多にある川で鮎を釣り、征戦の勝ち負けを占ったことから「鮎」の字が用いられるようになったと言われている。『雨航雜錄』には「香魚と云う」とある。日本で香魚というのは漢名が由来である。『本草綱目』には「
鮎は日本の他、ロシアの海沿い、中国、インドでも獲れる他、ヨーロッパやアメリカにも生息している。アメリカには数年に渡り日本から移植を試していた人がいたが、いまだにその成果は得られていない。もともとは東アジアの特産の魚である。特に日本のものは香気があり、姿が美しく、鱗には光沢がある。脂肪は豊かであるが味は清鮮であり淡白である。頼山陽の詩に「渓光桶鱗腮帯黄色、苔気沁腸腹含香」とあるがそれでもその味を十分に表現できていない感はある。
中国の誇る川魚は
雁山五珍,謂龍湫茶、觀音竹、金星草、山樂官、香魚也。茶一槍一旗而白毛者名明茶,紫色而香者名玄茶,其味皆似天池而稍薄。觀音竹,形小葉長,翠潤奪目,植岩石上經冬不凋。金星草,葉上有星如金,根中有黑筋如發,用以浸油,能黑發、長發。山樂官似金雀,聲如簫管。香魚鱗細不腥,春初生,月長一寸,至冬月長盈尺,則赴潮際生子,生已輒稿。惟雁山溪澗有之,他無有也。一名記月魚。土人朱太守素無宦情,嘗曰:「豈以五斗易我五珍?」
【 訳文 】
雁山の五珍は、謂龍湫茶、觀音竹、金星草、山樂官、香魚である...。
とある。中国の雁山は鮎の名所で、朱太字は魚についてかなり詳しい人物であると言える。ヨーロッパの川魚で最上とされているのはフランス、セーヌ川のトラウトである。香味の良さについて日本の鮎に比べる人もいるが、トラウトは鮎の種類ではなく、ヤマメに近い魚である。
三月下旬に川の水位が下がり、温かくなってくる頃から鮎の稚魚は海中の冬ごもりの生活から河口に集まってきて淡水への遡上を始める。その時の体長は6cmぐらいでか弱く見えるが、頭が尖り体は軽く、俊敏活発で急な激流をものともせずに上へ上へと邁進し、「若鮎の浅瀬を越ゆる光かな」(李牧)、「飛び鮎の底に雲行く流れかな」(貫鬼)の俳句は良くこの様子を表している。中でも勇敢な鮎は数十里も離れた水源に達することもある。遡上はこの魚の特性であり、しかも前年に親鮎が住んでいた地点を慕っているかのように、その途中にいかなる障害があっても決して頭を下流に向けることはない。洪水の時などは遡上を嫌がって一時は下流に下る事はあるが、水が澄むと直ちに跳ね上がって遡上を続ける。こうして急湛激流を突破して途中の幾多の困難に耐え、進を知って退くことを知らない。やがて夏も既に半ばを過ぎ、八月も末の頃に、雄と雌の体内に生殖腺が生じ始めると遡上は止まり、一定の瀬や淵にしばらく安住の地を求め、のんびりと河口に下る時期を待っているかのように、秋風が吹きこむ9月中旬から10月にかけて、雨後の濁水を利用して群れになって河口を目指して下りながら浅瀬で産卵し、雄はそれに精子を注ぎ、11月上旬頃までに産卵を終え「今や身を水に任すや秋の鮎」(董几)とあるように、その姿は全く一変し、盛夏の頃を色も香りも全く消え失せて、やせ衰えた錆鮎と変わり、海に流れ落ちて大魚の餌となるか、あるいは疲労の余りに死に至る。産み付けられた粟粒大の卵は約二週間で孵化して、1cm位の幼魚はしばらく河流の岩石の下などで休養しながら水温が低下するにつれて流れに従って海に入り、比較的に温暖な海水の深みで冬期を過ごし、翌春に淡水を遡って故郷に帰り、かつてその親鮎が行ったのと同じ生涯を繰り返すのである。こうした生態から鮎の別名は年魚と呼ばれている。
鮎のシュンは土用に入って20日がシーズンであるとされている。それ以前のものを若鮎と言い、これを喜んで味わう人は多いが、それではまだ鮎の真味を理解していないとしか言えないだろう。若鮎と言えばやさしく聞こえるが、若鮎の間は主に動物を餌食にするので、案外身が硬く味も旨くはない。特に海にいる間に捕らえた幼魚は鰯の子やイカナゴ類の小さな海魚の味と違わない。淡水に遡上しても暫くは動物食をしているのでその味は粗く硬い。芳香を持ち腸に渋味があり独特の佳趣を感じるようになるのは全く動物食は止めて、清鮮な石苔だけを食べるようになって以降である。8月の下旬ともなれば鮎の脂肪は卵巣や精巣の養分に使われるようになるので、皮膚は硬くなり味も衰え始めるので、鮎の味は先ずは7月中旬から8月一杯の50~60日の間である。よってシュンと言われるべき時期は前述したように土用に入って後の3週間であり、鮎の生涯は味の時期の点からは非常に短いと理解する必要があるだろう。稚魚の時は背中が緑色であり腹部は白銀色、歯はあるが成長するに従って無くなり、体の色は橄欖色、腹部は腿紅色となり、体の両側には淡黄色の波紋が現れ、背ビレは少し黒く、尾ヒレは淡紅色になってくる。雄雌の違いについては、雄は頭が大きく体が長く、色に比較的黒色をしており、背ビレは雌よりかなり大きく、尾ビレは雌よりも小さい。雌は頭が小さく体は丸く、色は白色や黄色を帯びており脂肪が多く、味も良いとされている。
鮎は淡水魚であるが、水が暖かく流れが清いところを好む。形の大小は水の温度と、激流の程度に比例していて、激流暖水の鮎は大きく、緩流で水温の低い河の鮎は小さい。ただし味は必ずしも形の大小によるものでは無い。同じ地方の河でも、甲河のものは味が非常に美味であるが、乙河のものは味が劣る場合がある。また同一の河でも上流にいるものと、下流にいるものとは味に格段の違いがある。これは剛健優逸の多くの鮎が最前線に進み、下流で迷っているのは劣ったものだからである。その期間の鮎は驚くほどデリケートであり、水質、餌、温度、流水の緩急など、複雑な事情のひとつひとつが味にも発育にも重大な影響を与えるので、その味や品質は雑多で一様ではない。
鮎は川に生える石苔が唯一の常食である。ただし海から川に遡ってきた子鮎の時には、しばらくの間、動物食を取ることがあるが、その後は絶対に行わないのが原則である。水質の良い清流で石苔の発育も良く、河の中の岩石がすべて緑苔を着けて、清澄の川底に青緑の絨毯を布いているかのような河こそが鮎の発育に最も適したところである。鮎の優劣を知るには外観よりも先ずその腸の香気と渋味と苦みに注意すべきである。本来の鮎の真髄は腸にこそあると言っても間違ない。例えば鮎を炙るとその腸を抜いたものと、抜かないものとは、その味に雲泥の差がある、腸を食べることを好まない人は食べなくても良いが、食べる食べないにかかわらず、鮎は腸を抜いてはいけない。なお腸の味以外で注意すべきなのは、腸が防腐剤の働きをするという点でも有効だからである。ただしもともと鮎の肉は柔らかく、腐敗しやすいので、比較的長く鮮味を保つには全て内臓だけに頼るべきでは無い。この理屈を知らずに肝心である内臓を取り去ることが多い為、魚は腐敗が早まり、味は飛び去り味気のないものとなってしまっているのは、非常にもったいない事である。現に東京で鮮魚商のあつかう鮎で腸のあるものはほとんど無い・これは玉を瓦に代え、黄金を
鮎の食物はもっぱら石苔であるのは前述した通りである。餌を取るときは多くの場合は群れをなし、各自が体を反転しながら上顎の三本の歯と、下部の左右両顎と舌で、石面の苔を擦り取って食べ、同時に体の左右両面の相互の反転を繰り返すので、清冽な水底を離れて眺めれば、キラキラとして銀色の体が水底に行き交うように見えるのは非常に綺麗である。こうして石の面には一回ごとに笹型の傷が残る。これを名付けて「鮎の
【 備考 】 植物、果実の豊作あるいは凶作は、鮎のそれに似ている。例えば葡萄も凶年にはその粒は大きくなり味は良くなる。フランスのワインが何年製であるとして、製造年度が重視されていることは単に古いことを貴ぶ意味ではなく、葡萄の出来が悪い時に製造されたものの方が芳香が最も良い為である。
鮎の産地としては、豊後の日田上流、岡山の旭川上流、土佐の仁淀川上流、四国の吉野川上流、安芸の太田川上流などが有名である。『饌書』に「香魚隈河為最」とある。隈河とは日田川(三隈川)の事であり昔から日本第一との呼び声が高い。この他にも長良川、利根川、神通川、多摩川などが数えられるが、これらはだた鮎が沢山取れるだけか、都会に近いか、もしくは鮎漁の御料地であるのでその名が知られているが、どの川も水温が低く、石苔の発育が良くないだけでなく、しばしば泥に覆われるので最上の鮎の産地であるとは言い難い。従ってこうした鮎は香味に欠けている場合が多いのである。長良川で取れる鮎は非常に有名であるが、その品質については疑問なのである。
鮎が暖水を好むのは勿論であるが、移植すればある程度まではその境遇に適応して寒い水中でも育成することが出来る。近年は北海道にも移植されるようになり年々、多少の漁獲がある。その形は鮎には変わりないが、肉は粗硬であり香味も少なく、味はヤマメに似ている。ロシアの沿岸や朝鮮でも産するが、その香味はかなり劣っている。台湾の濁水渓(台湾で一番長い川)で獲れる鮎は、その流れの勢いと温度の高さによって、発育は非常に見事なのであるが水質が良くないので、泥臭があり味はあまり良くない。
鮎の需要は各地で非常に高く、毎年夏になるとほとんど取り尽してしまい、年々減少する傾向にある。したがって近年になって人工養殖の方法が各河川で盛んに行われるようになっていることは喜ぶべき事である。しかし鮎は水が清く流れが急な所でなければ育成せず、彼らが唯一の餌である石苔も人工で作ることは困難であるので、他の養殖魚のように池で養殖することは絶対に不可能である。最近の新聞で伝えられているところによると、東京都では多摩川での人工孵化に満足せず、先に東京都が紅鱒の養殖用に新設した西多摩川の吉野にある養殖池を利用し、最新の試みとして鮎の池養殖に着手したがこの成功は至難であるだろう。鮎は養魚池などに生育するものではないからである。現在実施されている養魚法は、自然の河川を利用する方法である。まず9月の頃に十分成熟した雌から卵を鳥の羽の上に取り、法事に雄魚の精液を搾ってその上に注いでから混ぜ、別に準備した非常に清潔な陶器の中に水を満たして、そこの棕櫚の皮を敷いて、この水中に先の鳥の羽をを入れ、卵を棕櫚皮に振り落として付着させる。別に木枠を作り、棕櫚皮を張り付けそこに卵を付着させた後で、枠を水槽の中に入れ、一方から水が流れ込む構造にする。水槽は15℃~20℃位を適温とする。多くは二週間ぐらいで孵化する。稚魚は10日間ぐらいは栄養袋から養分を取るので餌は与える必要はない。こうして孵化後に本流に放流を行う。本流に入った稚魚は流れに従って海中に入り、翌年の3,4月の頃に、再びその孵化した川に帰ってきて自然に育成するようになる。これを魚の回帰性という。
網(二種あり、投げ網、刺し網)瀬押し、魚掻き、毒流し、鵜使い
投網は鮎の居そうな急流にめがけて網を打って捕らえるもので、普通に様々なところで行われているのは良く知られている。ただし普通の魚は簡単に網袋に入りはしないので、網を投げて岩影などに潜んでいる魚を捕らえるのである。
また淵の深くに籠っている鮎は、朝と夕に二度、群れをなして淵の入り口である急流まで出てきて餌を取る習性がある。鮎の群れがその急流まで出てきた時は、鰭または尾で水面を打って波紋を起こすので、経験のある人はこの波紋を見るとすぐに鮎の大小、数の多さや少なさが分かるという。なので岸辺に潜んでチャンスを狙っている網手はこの波紋を見ると素早く水中に飛び込んで、淵と、急流の間で網を繰り、直線で岸まで引き付け、完全に淵と浅瀬への移動を遮断するのである。一方の岸辺で待っているもう一人はそのチャンスを逃がさずに、鮎の群が進む流れの方に向かって小石を投げて鮎を威嚇すると、鮎たちは驚き惑って淵に逃げ帰ろうとして網目に頭を突っ込み、もがくことで次第に糸が鮎の体に食い込み、銀鱗がキラキラと水底に輝く時におもむろに網を引き揚げると、多くの獲物は網と一緒に岸辺まで上がって来る。この漁法を
簗も古代から行われてきた漁法である。最も古く史実に見られるのは『古事記 神武記』に天皇が吉野へ巡幸された際に、
【 備考 】
『歙州圖經』には「歙州赤嶺下有大溪,俗傳昔有人造橫溪魚梁,魚不得下,半夜飛從此嶺過,其人遂於嶺上張網以捕之。魚有越網而過者,有飛不過而變為石者。今每雨,其石即赤,故謂之赤嶺,而浮梁縣得名因此」とある。日本では鮎や鰻が空を飛ぶとは聞いたことがないが、鮒は空を飛んで難を避けると伝えられている。参考として記して置く。
晩春に幼魚が河口から遡る際には、まだ動物食を行っている為、蚊針で釣る事ができるが、5月以降は蚊針では釣れなくなる。
【 註 】
前に述べた冷水の川で、石苔の発育が良くない地方では、秋の頃になってもまだ蚊針で釣る事が出来るがこれは例外である。
友釣りという釣り方は、生きたままで成るだけ活発で鮎の鼻に糸を通して、その鮎の身長よりも3㎝程長い糸を付けて、これを鮎針と呼ばれる針を六本ゆい付けて、長い釣り竿で鮎の群れていそうな瀬に流し、上下あるいは左右、後ろに引きまわすと、鮎はとにかく群れる性質があるので、友鮎を見るとその周囲に集まってくる、その周囲を遊泳中に誤って針に掛かったものを釣り上げるのである。友釣りにかかるのは鮎が友を慕って群がりくるためである、または鮎は闘争性が強いので喧嘩で突進してくる為であるとも言われている。いずれにしても生殖とは関係が無いので、友釣りでは雄雌のどちらでも釣る事ができる。
この漁法も遠く神代の時から行われていたようで、現在では長良川の鵜飼いが最も有名である。鵜の咽頭部を縄で締め、水中に放して魚を飲ませては時々、縄を手繰って鵜を引き寄せて、魚を籠の中に吐かせる漁法である。(第7章 鵜の部参照)
瀬押しは何の道具も使わず、最も原始的な方法であるが、鮎の大物を捕まえるにはこの方法が第一である。日暮れを待って川に入り、なるべく流れのある所を選んで、川の中の岩石に寄って、流れが石に打ち当たり渦を巻いている中に両手を深く差し入れては、上流から下流に向かうようにゆっくりと撫でおろすように繰り返す。魚が睡眠している時は日暮れから2,3時間(午後6時頃から8時か9時ごろまで)と夜明け方(午後4時頃から6時頃まで)の二度に限られる。ただし魚は睡眠中も静かに留まって熟睡しているのではなく、この間は神経が鈍感になって岩石に寄り添って半分は流され、半分は泳いでいる半睡半覚の状態であるので、その時に人が多少触っても特に驚くこともなく、むしろ手の陰に身を寄せようなこともある。その時に人はかなり緩やかに、なるべく自然に頭部は右手、尾鰭は左手で握れるように仕向けて、徐々に水際に引き上げ、丁度水から取りだそうとするその瞬間に、不意に右手は頭部、左手は尾鰭をかたく掴み、そのまま腰に下げてある籠の中に入れる方法である。これはかなり無造作に見えるかもしれないが十分な経験と呼吸を理解した人でなければ成功は難しいとされている。
【 備考 】
魚の睡眠時間については学者の間で諸説があるが、多くは実際にどうかを理解していない。多くの川魚は日暮れから約二時間と、夜明け方の二時間熟睡している。火振りと言って5,6月の頃に水路や水田に産卵と餌を求めて上ってくる鰻やその他の雑魚を突くために、松明をかざして魚の居場所を探す時に、よく魚の睡眠状態を見ておくと良いだろう。簗にかかるのは主に夕方と明け方の両方であるがこの時刻は半睡半覚で、覚醒時は簗にかかることはほとんど無い。蘇東坡の『赤壁賦』も薄暮網について述べいる通り、薄暮れは魚の睡眠時であり、網を挙げるのではこの時に限られる。
これは昼間に水中眼鏡を使って、水中に潜って、ヤスで泳いでいる鮎を突き刺す方法である。
これは魚類保護の目的から、現在は法律で禁止されている。中国では周時代に法律で禁じられ、日本でも奈良時代にすでに禁令が発布されているが、毒流しは魚類に大いに害があるとして古代から既に禁止されていたようである。普通にとられている方法は、山椒の木の皮を剥ぎ取って、それを熱湯で茹で、臼で突いたものを丸めて置いく。川の流れを変えるなどして、河川の水量を減らしておいて、上流でこの丸薬を竹ザルの中で揉みつぶせば、下流の魚は大小に関わらず全て毒に当てられて浮き上がって水面に白い腹をあらわすようになり、鰻や鯰などは隠れていた巣穴からもがき出てのたうち回るのを手で摑み取りするので面白い漁法ではある。山椒の代わりに石灰を撒いたり、または薬品を水に入れたり、ダイナマイトを水底で爆発させるならば大小の魚を一撃で全滅させる方法があるが、これらは全て法律で禁止されているのは魚類保護の観点からは当然の事であると言えるだろう。実は鮎だけに有毒であり、他の魚に何の危害もない方法があることは一般的に知られていない。それは渋柿(山柿の渋いもの)を臼で突き壊して、その渋汁を柿と一緒にザルのなかで揉みながら川に流せば、他の魚類には何の害毒は無く、鮎だけが直ぐに死んで水面に浮き上がるのである。柿の渋は鮎の最も苦手とするものであり、鮎狩りには唯一の妙薬である。
【 備考 】
淡水と塩水の間を往復するはずの魚が、何らかの事情により海に下らずに、生涯にわたり川に住むものは原種よりも体は小さく、これらの変形種は学問上では ‟ Land Locked Form ”と言わている。現に日本でも琵琶湖を海の代わりとして、ここで年を越えて湖水に注ぐ河川を遡って産卵し、一生を終える小鮎の一種がある。身長は6㎝以下しかない。ヒウオと呼ばれているものはこの小鮎の幼児である。この鮎と同じものは鹿児島県の下池田湖で取れる。
塩焼き、魚田、鮎鮓、鮎の本焼き、甘露煮、鮎の竹酢
鮎の塩漬け、塩辛および苦ウルカ、糟漬、ハラコの漬方
これは最も普通に行われている、鮎料理のひとつであるが、東京では料理屋のものも魚屋のものも、肝心の腸が抜き取られているので、せっかくの鮎の特徴が捨てられていて考慮されていないのは愚の骨頂の極みであると言える。
まず鮎を青竹の串にさし、外面を水で洗い、少量の塩をふりかけて、直ちに火にかけて炙る。塩をふってから火にかけるのに戸惑いがあれば、それは塩鮎の味に変わり、塩焼きの味は失われてしまうだろう。店で出される塩焼きの鮎がの味が失われていることの多くのケースは、この点に不注意だからである。火は始めは強火が良い。ただし炎があるのは良くない。火が起きて炎がしずまって落ち着いたところで成るべく焼き過ぎないように、また成るべく背中の方よりも腹の方に火を強く当てて、焼き過ぎよりも焼足りないくらいを良しとする。そうして温かいうちに膳にのせて食べなければならない。冷えたものはかなり味が落ちるからである。塩焼きには料理店では蓼酢が添えられるのが通常であるが、これは鮎を膾で食べる時だけである。もし塩分が足らない場合は少し生醤油を添えて置けば良いだろう。
串は青竹製が良く、金串は良くない。串に刺す前に鮎の下腹部を指で押さえて糞便を肛門から押し出した後に、よく魚を洗わなければならない。普通の魚の刺し方は顎の下から串を入れて、串先を背鰭の方に突き刺し、腹の方に屈折させうのであるが、鮎はこれとは反対で腹を突き出し背中の方を屈折させる。まず顎の下辺りから串を入れ、背骨の内側に並行して串を通し、肛門の辺りから串先を少し背中の方に曲げて串先のこだわりを作って、外曲がりに腹部の方を突き出した形になるように、尾鰭の内側の方に串先を出す。
鮎の脂肪は主に背中の上部、肉の張り出た辺りにある。故にその部分の肉に串を入れて味を損なうようなことは避けなければならない為に、特にそのような刺し方をしなければならない。『四條流庖丁書』に、串の刺し方は春から7月中旬までは頭を上にしなければならず、7月以降からは頭を下にしなければならないとあるが、これは取るに足りない事である。
【 備考 】
鮎を味わう最良の方法としては、生きた鮎をそのまま炙るのは良くない。簗か友釣りで獲られた生きた鮎を岸の砂原に投げ、溌剌と跳ねているものを踏み殺して少し放置しておいた後、清水で土砂を洗い落して、竹串にさして炙ったものの味が一番である。
鮎料理については、寛文四年に高橋清兵衛という書肆から出版された『料理物語』の中には、鮎のかまぼことある、昔はかまぼこに作っていたこともあったようである。
まず鮎を洗い、下腹部をおさえて糞便を押し出して、塩焼きと同じ方法で串に刺し、味噌に山椒を入れてすり鉢で程よく摺ったものを塗り、味噌の半焦げになるまで焼く。好みによって味噌に少量の砂糖を入れるのも差し支えない。
【 備考 】
普通の料理屋で作られている魚田はかなり手が込んでいる。味噌の中に砂糖、味醂、出汁および鶏卵などを入れ、これをすり鉢で摺り、裏ごしにして火をかけて炙り、再び山椒香味料を加え、粘り味噌というものを作り置きにしておく。そして別途、腸のない鮎を焼いて、先の粘り味噌を刷毛で塗り、再び火にかけて乾かしてから膳にのせる方法である。これは余りに手を加えすぎた料理で焼き方も良くない。この方法だと鮎の味は消え去ってしまうだろう。
鮎ずしは丸ずしを良しとする。古来から有名なのは、古歌にも
千金に かへじと思う 鮎の鮓
これも河瀬に 登り下れば
とされている。また『四條流庖丁書』には「スシの事は鮎ヲ本トスベシ」と書かれている。そうであれば鮎はスシの本家とも言えるものではないだろうか。伊勢神宮の元旦の御饌も「鮎ずし」が奉納されるが、昔は阿太の鵜飼いが鮎を奉納した事に由来があるのかもしれない。古くは丹波、伊賀、伊勢、美濃、播磨、美作、但馬、豊前、豊後、大宰府から鮎鮓の貢物が行われている。『古今著聞集』に「押鮎(注意:『すし』とは魚を酢や塩で漬け込んだ物)と言う物を、五、六十程、尾頭を圧して平らにして、それも銀の鉢に盛って置いてあった」とある。また鮎ずしの製法は『節用料理大全』に詳細が出ているが、かなり古い方法過ぎて面白くないように思えるかもしれないが、そうした古い方法に拘らずに最も本味を得るのに最適な方法を取るべきである。現在の鮎ずしとして有名なのは山北駅、岐阜駅、龍野駅、和田山駅、吉野の釣瓶ずし等があるが、これらはあまりに粗雑に作られたもので、多くは鮎を塩漬けしたものから、水で塩出しをしてから酢に浸したものを、塩と酢をまぜた飯の上に乗せただけの事であり、鮎を味わうという点ではおぼつかない。特に岐阜のものは酢の中に大量の砂糖を入れているので鮎の味との不調和の感がある。ここに丸ずしの製法を挙げてみると次のようになる。
鮎のかなり新鮮なものを選び、まずは鱗を取り去り背骨に沿って頭の真ん中から縦に割き(岐阜も龍野も眼の方から割く)、背骨と内臓を丁寧に取り去り、また毛抜きで腹の小骨を取り去り、さらにハサミで背鰭、腹鰭などを根元から切り腹の中の汚物と、縦に割いた頭の内部と成るべく肉に水がつかないように注意深く洗い、これに塩をふりかけ、2,3時間程放置した後に酢の中に浸して30~40分の時間を置く。他方では非常に上質の米を選び、炊き上げたならば大皿に移し、団扇で炙って素早く熱を発散させ、少し冷却するのを待って鮎を浸した酢をかけて酢飯をつくり(酢飯には少量の砂糖をまぜることがある)細長く握って鮎をつめ込み、ご飯のはみ出した所は、シソの葉を酢にちょっと浸したもので巻いて、これを美濃紙で包み、鮓箱に収めて蓋をして重石をかけて置く。重石をする時間は一昼夜ぐらいで良い。
【 備考 】
鮨は日本の特産であり、他国に鮨はない。一般では中国の鮓と混同する人があるがこれは間違いである。もちろん鮨は中国の鮓から思い付いたようだが、今日では全くその性質は異なったものとなっている。中国の鮓は『説文』に「䱹藏魚也俗作鮓一名魚鱐」とあり、その製法は『本草綱目』に「鮓,醞也。以鹽糝醞釀而成也」と記されており、『珍羞紀要』には「鮓菹也以鹽米釀魚肉為之」とある。つまりこれは魚を大きめに切り、布巾でよく拭って水分を取って塩をして、魚から出た塩水を再び除き、器に入れて御飯と薑、橘蒜、葱油などで先の魚を漬け込み、竹または青葉の類で覆って、フタをして長期保存して熟成させたものである。日本のように酢を使う事はない。また飯を食べる事もしない。飯は魚を熟成させて酸味を付ける材料として使われるだけである。日本の近江の鮒鮓や、三重県の宮川名物の「鮎の腐れずし」と呼ばれているものこそ中国でいう「鮓」に類似しているものであると言えるだろう。
中国の鮓の起源に関しては明瞭ではない。『周官』や『禮記』にも酢の字はなく、また鮓の文字も見当たらないが『拾遺記』に「漢昭帝遊渭水, 得白蛟,命太官為鮓」とある。また『酉陽雜俎』には唐の軍人であった安禄山が、玄宗皇帝から「野猪鮓」を賜ったという記述がある。鮓は恐らく中世以降の創始されたと思われる。この方法が日本には『延喜式』を通して伝わり、魚や貝類を始め、鹿肉等も鮓の材料として使用されていたことが明らかになっている。その後、慶長の時代になって始めて酢を飯に混ぜて、それに塩をして熟したものを「早鮨」または「一夜鮨」と言うようになり食べ始められたようである。これが現代の「押し鮓」の起源である。
江戸に鮨屋が開店したのは貞享年間の事であり、貞享四年(1687年)に出版された『江戸鹿子』には四谷船町に近江屋と駿河屋の二軒の鮓屋が掲載されており、寛延四年の『印本江戸惣鹿子』には、深川富吉町の柏屋鮓と、御膳箱鮓(本石町二丁目伊勢屋)の二軒が追記されている。その当時は丸い桶に渋紙でフタをして鯵の鮨、鯛の鮨など数日間漬け込んで作ったものを売っていたようである。天明の時代になるとその製法も段々と進歩して店も多くなってきたようで、天明七年に発行された『七十五日』には当時の名店二十四軒が記されていて、毛抜鮨のようなものも記載されている。『嬉遊笑覧』には、文化の始めに深川の六軒堀に「松のすし」が出来て一世を風靡したとある。ただしこれまでのものは皆、押鮨または漬け込みの鮨であり、現在のような握り鮨を始めたのは、文政七年(1824年)に両国にあった「華屋与兵衛」(今の与兵衛鮨の元祖)であり、新奇を好む江戸っ子の嗜好に受けて、ほとんど鮨のスタイルを一変させた。江戸から西の上方に伝わり、文政の末頃から大阪の戎橋南に「松の鮨」と名付けられた江戸風の握り鮨が始まり(『守貞謾稿』) このように京都や奈良から全国に普及し、今日のように握り鮨の全盛を見るようになったのである。なお鮨の文字は中国では魚の名前であり、時には魚醤の意味で使われることがあり、スシと何の関係もないが、何時ともなしに日本でスシの文字に使われるようになったものである。
鮎は炙るか、あるいは鮓に適している魚ではあるが、もし味噌汁、吸物または煮浸しにする場合があれば、生の鮎をそのまま使うのは良くない。必ず一旦は炙ってから使うべきである。その焼き方については腐敗を防ぎ、かつ長く鮎の味を保たせるために正式な焼き方で行う必要がある。その場で出来立てを食べるべきには塩焼き、またレンガク焼のような早く焼き上げる方法でも良いが、正式な焼き方は十分の注意と手数が必要である。以下、その方法について述べておく。
まず鮎の下腹を抑え、糞便を押し出しておく。前にも述べた通り、腹を突き出して外向きに反っている姿に竹串を刺し、一応良く水で洗っておく。一方で庭に粘土で丸く土堤を作り、その中に炭火(かし、くぬぎの木の炭)を起こし、火が落ち着いて炎が静まるのを待って土堤に鮎の頭の方を下にして串を立てて、真ん中の火の方向、少し鋭角に立てて、なるべく腹の方に火の強く当たるように並べる。火加減は成るべく強くして、火と土堤の間にはかなり離しておくようにする。火の距離と火加減との塩梅は十分に注意を払わなければならない。鮎を立てて並べたら、上から竹で造った枠をはめ、これに油紙の袋をかけて外部の空気はなるべく中に入らないように注意し、同時に内部の火がその為に火力を弱める事のないように加減しながら蒸し焼きにすべきである。一方の側が焼けて黄色くなってきた頃を見計らって竹枠を取って、反対の側にひっくり返して串を立て再び竹枠と油紙で覆い前のようにする。こうして焼けば鮎の水分は綺麗に乾燥し、外側は少しも焦げず、黄金色の光沢のある色合いとなる。両面が黄金色になれば内部までよく火が通っていることを示すサインである。こうして焼き上げたものは味噌汁にしても良いし、澄し汁にしても良く、あるいは甘露煮にしても良い。長期間腐敗することもなく良く鮎の香味を保つことができる。
甘露煮の作り方は、先に述べた正式な焼き方をしたものの中から光沢の良いものを選んで鍋に入れて、水を加えて、トロ火で二時間ほど煮た後に、少量の味醂と砂糖を加えて、最後に醤油を入れて徐々に煮詰める。またこの煮方に小量の大豆を加えて煮る方法もある。これは骨を柔らかくする為であると言われている。また鰹の出汁、あるいは昆布などを入れて煮る方法があるが、これは却って鮎の持ち味を乱すことであることを理解していなければならない。
鮎料理のうちで最も妙味なものは竹酢である。これは悪食篇で述べてあるミサゴ鮓をヒントにしたもので、人工ミサゴ鮓とも呼ばれており、また味もミサゴ鮓に劣るものではない。青竹を鰻料理に使う方法は南洋にあり、青竹をつかって米を炊くのは中国の一地域でも行われているのだが、青竹の鮎料理は九州の一部だけであるとする。その方法は鮎の季節、土用の炎天下に友釣りに出かけようとするその朝にまず青竹を切り、ひと節の竹筒を作って、口の方に
ここれで針を川の流れにまかせて釣りを行い、獲物があればまずは糞便を押し出し、鰭、鰓、嘴を流水で手早く洗い、生きたままで頭を下にして、腰に下げている竹筒に入れておくようにする。このように獲っては入れ、獲っては入れと炎天下の熱に晒されながら東奔西走、腰の竹筒は上下左右に揺すぶられ、夕刻に竿をしまって帰途につく頃には、竹筒の酢は温かい湯のようになっていて、鮎の体は自然に熱気を帯びるようになる。幸いに内臓の苦ウルカは内側から防腐剤として効果があり、外側の酢と塩が少しもバイ菌を寄せ付けないので、鮎は溌剌としたそのままの色を保っていて、固有の芳香は青竹の香りと融合して混ざり、ふくよかな香りが鼻を打つのである。これを膾にして卓上にあげれば晩酌の肴としては天下の珍味となる。
また仙台地方で行われている、多少は竹酢に近い方法が行われている。それは鮎漁に出かけるときに、醤油を二杯、酒を一杯の割合で作った液を、ガラス瓶のような容器に入れて携帯して、鮎を捕まえるとすぐにその容器に入れるのである。時間が経つと鮎は醤油のために鼈甲色に変わるので、それを炙って食べるのである。
内臓を取り出した鮎を4kg程につき、塩を4〜5合の割合で桶に漬けて、重石を乗せて置く。二日間ほど経った後、取り出して水で洗い、良く乾かした後、再び一升の塩を使って桶に漬け、重石を加えて貯蔵する。
鮎の新鮮なものを選び、まず鱗を取り、糞便を押し出して水で良く洗う。布巾で水分を取って頭と鰭だけを取り去り、他はすべて骨も腸も一緒にして切り、原料1升に対して3分の1の食塩で壺のなかで漬け込み、2〜3度、撹拌して塩が全体に行き渡るようにした後、密封して貯蔵する。1ヶ月ぐらいしてから食べ始めるのが良い。
苦ウルカというものは、肉と骨を入れずに内臓の腸だけでつくった塩辛の事である。熟成すると発酵作用によって特別な味を持つようになる。ただし注意すべきは塩辛に使うものは新鮮なものを選び、かつ原料に注意し、産地と品質を厳選したものでなければならない。
【 註 】
塩辛類を箸で撹拌するのは良くない。濫りに撹拌するのは肉の持つ香味を追い散らし、製品に嫌味を招くものになるのである。なるべく触らないように密封しておくべきである。
鮎の腸を取ったもの百匹つき、塩7〜8合の割合で漬け込んで置き、後はこれを塩水で良く洗い、麹3升位の中に漬けて貯蔵する。
なお西洋風の料理としては鮎をフライにして、中国料理では鯉および鮒と同じ方法で料理することがあるので、この事は鯉、鮒の料理の項で説明することにする。
下り鮎の真子を甘塩に2日間程度漬けておき、布でカラスミ形の袋を作って、その袋の中に塩漬けのハラコを詰める。重石をかけても汁がだなくなった時に、重石を取り去って日光にさらし、よく乾かした後に袋を破って中身を取り出して、薄く酒を塗って色を出してカラスミと同じように食べる。
日本では鰻の字を使う。中国では
鰻は日本各地の河川のいたるところに繁殖しているが、温水を好むので、太平洋方面では金華山より南、日本海側では能登よりも西側に多く、北海道には太平洋沿岸で多少獲られるが、樺太には非常に稀にしか獲れない。南九州や台湾は鰻の最も適した産地であり、中国や韓国にも非常に多い。
ヨーロッパでも鰻は多く繁殖している。アメリカでは東海岸はメキシコから北方のセントローレンス川にいたるエリアに生息しており、ヨーロッパではノルウェーの北端からバルチック海沿岸の諸国、つまりロシア、ドイツ、デンマークおよび南ヨーロッパの海岸を経て地中海全域に生息している。日本で鰻の産地として有名なのは肥後の八代川、福岡の筑後川、大分の大野川、大阪の淀川、愛知の保津川、
鰻は頑強に遡上する性質をもっていて、日本ではどんな山間の僻地にも鰻がいないところは無い。そしてその生態にはまだ多くの謎があり怪奇の魚類とされている。
昔から雀が海に沈んで蛤となり、山芋は変化して鰻となると言い伝えられているが、これは中国から来た伝説のようである。中国人は蛤には卵が無く、鰻には雌鰻がいないと思い込んでいたようである。『禮記』季秋紀には「爵(雀の事)は大水に入って蛤になる」とある。『本草綱目』には「鰻に雌魚なし、雄魚あるのみ」と記してあり、雄は一定の年齢に達すれば川から海に下って鱺魚と交配し、産まれる稚魚の一部は雄となって川を上り、雌は鱺となって海に止まると説明している。鰻鱺の名はこれが起源である。しかもこのような珍論・奇説は中国だけに止まらず、西洋でも同じように数千年に渡って論じ続けられている。ギリシャの哲学者アリストテレスは動物分類学の基礎を作った人物でもあるが、流石の大学者も鰻にはかなり手こずっていた、有脊椎動物のなかでもただ鰻だけは交尾によって、また卵から生まれてくるものでもなく、泥の中から自然に生まれてくるものであって、その理由を探ることは人間にはできないとして匙を投げている。当時のギリシャにはすべて親の分からない子供はジュピター神の子どもであると見なされていた。鰻もまたその親魚を発見することが出来なかったので、神の子と呼ばれていた。
その後の時代になると他にも親魚の粘液が泥の中に入って鰻と化すという説も出てきた。また蛇鱗が変化したもの、あるいは露から生まれてきたものであると唱える人もいた。現在に至ってもサージニアは鰻を水産甲虫の子であると見なしている。あるいは牝馬の尾が変化したものであるという説もある。イギリスの地方では今でもなお、細く切れた馬の尾は鰻になると信じている。
その後、中世になり鰻は胎生であるという説が唱えられるようになる。明治9年の夏郵便報知新聞ほか2~3の新聞は社説のなかで鰻が胎生であるかそうでないのかについての論議に費やし明治29年頃の大日本水産会幹事の加藤正諠という人物が鰻を割いて4cm~6cm程の鰻の胎児を発見し、鰻が胎生であることを水産会雑誌で報告している。これは腹内にある寄生虫を誤認したのであるが、日本の鰻商人や漁師の中には今でも胎生すると信じている人がある。
しかし西暦1777年になりイタリアのカーロ・モンデニーという人物が始めて鰻の卵巣を発見したと世界に公表したが、雄を発見できなかった為に雌だけで子を産むと断定している。中国の『本草綱目』とは正反対の、鰻は雌だけで雄がいないとの新説が発表をしているのは東西の対比としても面白いところである。
その後100年を経て1873年にオーストリアの学者シルキス氏が鰻を解剖して、鰻の腹に働きの分からない器官を発見し、シキルス氏管と名付けたが、その後、ベルリンのヘルミス博士によってシキルス氏管から精子を発見して、ここで初めて鰻は雌雄が異なる魚類であることが理解されるようになった。
鰻の雌雄はこのように明らかになったが、雌雄の生殖や場所については全く暗黒の中にあり、これを知ることはできなかったが、18世紀末からヨーロッパ西部の海や地中海で発見された、白色透明で眼だけが黒く、扁平で柳の葉のようなレプトセファルスという鰻の幼魚が発見されている。初めはその形がまったく母体と異なっており、とても後に黒褐色で細長い鰻に変化するとは思われず、完全に色魚の一種であると思われていたようであるが、1893年にようやく鰻の子供であることが証明されたにおよんで、始めて鰻の生態に関する大体の予想がつくようになった。このレプトセファルスは地中海では西部のものは東部のものよりも若く、アイルランドか西海から、大西洋の中部に行くにしたがって段々と若いレプトセファルスがいることが明らかになる、こうして鰻の子の跡を追ってその故郷を探しているが未だにその場所は見つかっていない。シュミット氏の説によれば、西経18度から53度、北緯25度から41度までの海中2000m以上の深海、つまりアメリカの東海岸から遠くないベルムダス群島の南方の深海の暗い海底にある泥土の中が子鰻の故郷であるとしている。卵から孵化した鰻の子であるレプトセファルスは、長さ45cm程であり、自力で泳ぐことは出来ない。メキシコ湾からフロリダ半島の先を迂回して大西洋を東北に横断する潮流に乗って次第にヨーロッパ大陸に近づき、大西洋の波に洗われる沿岸全域に広がり、その間に次第に成長し75cm程に達する。こうして陸地に近づけば徐々に丸く変形して色素が加わり、鰻は色を持つようになり自力で泳げるようになるので、河口を求めて岸に沿って遡上し、そこから鰻としての生涯を始める事になる。
日本、中国、朝鮮、台湾の鰻は大西洋のレプトセファルスとは系統が異なっており、その出生地はニュージーランド付近の深海中ではないかと考えられているが、その生態においては西洋のものとは大差がない事が明らかになっている。ただし白魚である年数は未だに明らかになっていない。ある説では5ヵ月位で、昨年の秋頃に川から下った鰻の子であると言い、またある説ではレプトセファルスとして2ヵ月半を費やすという人もあり、シュミッド博士は3年を主張している。
小鰻が遡上を始めるのは春から初夏にかけての2,3ヵ月の間で、大群をなして川上にへと突進する。いかなる障害も辟易せずに流れの緩やかなところは一団となって進むが、急流になると離散して別れて直進し、滝の断崖に逢えば陸に上がって雨露のしめりを巡り、地底を潜り草原を越えて進み、羽が無ければ到底到達できないと思われる山の上にある湖や沼は勿論、水のある所で鰻のいないところはない。このように執拗かつ熱心に河川を遡上する偉大な本能は実に神秘的と言うしかなく、日本は小さな島国であるの分水嶺の頂上まで遡上するのに不思議はないとしても、大陸においては海岸から5000kmもの上流にまで遡上するものもいる。またライン川の滝をのぼりコンスタンスの湖水に住み、ナイアガラの滝を上ってエリー湖に達するとは想像を超えていると言わざるを得ないだろう。そして彼らの求める場所は自分の新しく住む場所ではなく、あくまでも両親の古巣を探し求めようとする本能によるものであるとされる。またその生存能力も非常に強く、どのようなものでも貪欲に食べ、魚卵、昆虫、鮭、水藻などが皆その好物である。餌が無ければ土を食べ、長期間の飢餓や困難に耐え、環境の変化に適応して生存を続けるのは、正に生存競争における強者と言うべきだろう。ただし冬には不活発となり泥の中や、石窟の奥深くに籠るので餌を食べない。
このように淡水の期間に長く出稼ぎを続ける鰻も成熟期に達すれば体の一部は一層白く透明になり、背中は一層黒さを増し、秋の長雨による濁水を流れ下り住み慣れた第二の故郷を見捨てて、深海の故郷へと帰り、ここで産卵する。そしてその卵がレプトセファルスに孵化するまでの経緯はほぼ明瞭であるが、産み付けられた卵、孵化の模様、親鰻の最後の状態などについては誰もそれを知る人も、また見た事もある人もおらず未だに暗黒の中にある。親は産卵後に死んでしまうという説もあるが、それも明らかにはなっていない。シュミット博士の説に従えば雌雄の鰻は海中で交尾して繁殖の目的を達すると女鰻は男鰻を食い殺すという。しかもこれは両性が闘って勝つことによって行われるのではなき、自然に運命づけられたものでありとにかく雌鰻は雄鰻を食べるのである。こうして雌鰻は妊娠した腹を抱えて深海の棲みかに帰って行くのである。
前項で鰻の生態の大体は知ることが出来たが、なお研究の手が届いていないところは少なくない。雌雄の区別についても学者の証明に納得できないところがある。また小鰻が海の中で生活する期間についても異説があり一定していない。また親鰻が川に留まる期間も6年あるいは12年あるいは20年と言い、これもまた明確ではない。そして一度海に下った親鰻は再び遡上することでがあるかどうか。果たしてシュミット博士の説のように海中で雄鰻は雌鰻に食いつくされてしまい、雌鰻も産卵後は海底で死んでしまい、再び帰ることは無いのか、その他にも蟹を食べる鰻や、大鰻の種族はどのように続いているのか等、数えれば鰻の生態は依然として秘密の扉の中に隠されており、千年以来の魔魚の衣は学術の進歩した今日でも容易には解明されないようである。
雌雄の区別についてはモンデニー氏を待たずとも、秋の下り鰻に卵巣を見つけることは誰にとっても容易である。問題は卵巣の有無ではなく、卵巣を持つものの数が余りにも少ないので、卵巣がないものを雄とするならば雄魚の数が余りにも多くなってしまう。よって雌雄のバランスが余りにも不均衡であるので果たしてそれがどのような原因によるものかという事の方が問題なのである。試しに秋の下り鰻を100匹捕まえて腹を割いてひとつひとつ調べてみると、100匹の中には必ず6、7匹位は確実に卵巣、つまりハラコを持っている鰻を見つけることができる。これは勿論、雌鰻であるのには間違いないが、ハラコの無いものを全て雄鰻とするならば、雄鰻には白子つまり睾丸があるべきなのに、それらしいものを見つけることは出来ないのである。雌鰻のハラコは見つけることが出来ても、雄鰻の白子は顕微鏡でなければ見つけられないというのは理屈に適っていないだろう。本来は雌雄の生殖素の発育順序は、雄の方が雌よりも必ず早く発達するのが全ての動物に共通しているので、白子があってハラコが見当たらないとうことはあるが、ハラコがあって白子がないというのは実際はあり得ない事である。かつまた下り鰻の中の9割が雄であり、雌鰻は1割も居ないとするならば、雌雄の数も非常に不均衡であると言うしかないだろう。
不均衡はこれだけではない。鰻の遡上性の強さは雌鰻だけであり、雄鰻の多くは終生川を遡上せず、海水中および河口付近に止まっていて、雄鰻で川を遡上するのは一部だけであるとする学説を正しいとするならば、雄鰻の数は雌鰻に比べて何10倍の数になってしまう。普通の動物は雄に比較して、雌の方が何十倍もの数であるので、こうした鰻の比率は特別な理由の説明が無ければ納得しがたい状況である。
また子鰻が海中で生活する時間の点でも、5ヶ月という人もあれば、3ヵ月という学者もおり諸説あって一定していない。そしてどれも確固とした根拠がない。親鰻は海に下って以降は、その卵子がレプトセファルスになって海面に現れるまでの経路は一切不明である。鰻の交接はどのようにして行われるのか、産卵の時期は何月なのか、産卵の場所は泥土を選ぶのか、海藻を選ぶのか、産卵後何日で孵化するのか、産卵後の親鰻の末路はどうなるのかについては、今でもまだ全く不可解であり、興味のある研究資料として学者の手に委ねられている。レプトセファルスが鰻になって川を遡って淡水に止まる期間も、鰻の鱗を顕微鏡で検査して、平均7~8年間であることを日本の水産研究所は発表しているが、これすら無条件には受け入れ難いのである。なぜならもしそうであれば、下り鰻の太さはおおむね一定しているはずであるのに、実際は決してそのようにはなっていない。9月から10月頃に川から海に下るものは、小さなもので100gから、大きなものは1.5kgにもなるものがある。成育年齢が一定しているのであればこのように不揃いである理由がないだろう。このように大小不揃いな理由を説明するには、川に止まっている期間が一定であることを否定すか、または一度海に下った鰻が産卵を終えて再び川に遡上してきて、そのまま数年間とどまり、その後、数年間の間に幾度も川と海を上下往復するのでなければ説明がつかないだろう。そうであれば海に帰って産卵すれば死んでしまい再び川に遡上することは無いという学説は何ら確証のない想像論でしかなくなってしまう。
鰻の中には俗に「
ミツバチやアリのように社会組織を作って生活しているのには中性のものが存在する。こうした中性が存在するのは、その種族の存続するために何らかの理由があることは既に理解されている。しかし鰻は社会組織で生活している訳ではなく、各個体の単独で生活しているので、中性が存在しているということは一体何を意味しているのだろうか。
ある人の説によると、川を遡上する鰻の大部分は生殖の為に海に帰るが、一部中性になったものは、海に帰ることを忘れて生涯、川に止まる。一方、毎年海から遡上してくる鰻の中にも一部は中性の鰻がいて、それによってこの種族がずっと存続していると言えるが、共同生活の為のある目的が有ること以外で、中性が生まれてくるのは偶然というより種類が異なるもの同士を父母とした場合に限られる。例えば馬とロバの交合によって産まれた「
また大鰻と呼ばれている鰻の一種がいる。普通の鰻と比べると胴が少し短く、頭は丸く蛇の頭に似ていて、尾の先は少し扁平である。体の色は上部が青褐色であり黒色の斑紋がある。下の方は蒼白色である。脂肪は多いが味は劣っている。大きさは7~10kgぐらいから、大きなものになると15~19kgにも及ぶものもある。居場所は普通の鰻と違い石清水の湧き出る資源深くの洞窟の中に潜り込んでおり、決して水の濁った所や暖水には棲んでいない。日向、豊後、土佐、伊豆の伊東付近に分布している。長崎県西彼杵郡樺島村の大鰻は内務省の天然記念物に登録されているという。鹿児島県大島で獲れる大鰻は非常に大きく26~30kgにもおよぶものがあり、軽々と人を呑むという伝説もある。台湾の老鰻もこれと同じ種類のものだろうか。
この鰻の産地として有名なのは、大分県北海部郡青江村ゴマガラ山脈の麓に、古代から龍の棲家であると伝えられている、雄龍ヶ淵と雌龍ヶ淵と呼ばれる湖がある。水は深く山底まで入り込み暗黒のようであり、外から見えるのはほんの一部分でしかない。水の流れ出る場所がないので、海に繋がる出口もなく、一見して物凄い神秘の秘境であるので未だ敢えて奥深く迄探検した者はいない。
従ってその深さも広さも古来から誰も知る人がいない。この淵に大鰻の群れがいる。長さが1.2~2.5m位あり、身の周りは40cmから80cm位に及ぶものがある。初夏や梅雨の時期には、群れをなして餌を取り、日に当たるために沿岸に見え隠れすることがある。しかし、里の人はこの鰻を捕獲すれば大洪水があるとの伝説を信じており、これを捕獲しようという者は居ないので、鰻はあまり人を恐れないという。この湖水に隣接している南海部郡因尾川およびその流域にも時として大鰻が見られることがあっても、地元の古老に聞いてみると、鰻が洪水の時にも、また平常時にもいまだかつてマチ網(下り鰻を獲る網)に入ったことがないというので海に下るのかあるいは終生海に下る事がないのか不明なのである。生殖または種族存続のための方法は一切不可解なのである。これを捕らえるには特別な大きな釣針をつくり、サバまたは鶏などを餌にして釣る事があると言う。小野蘭山の『本草啓蒙』には、紀州の古座浦宇留村の大鰻、および土州布師田村の布師田川の鰻、日州および肥前の大鰻についての記述がある。また貝原益軒の『大和本草』にも日向の鰻について記載があるが、いずれも大鰻がいることを記すにとどまっており、習性やその他について何も説明がない。恐らく前に述べたゴマガラ山麓のものと同種である。
日本の学者の中には特別に大鰻について研究した者はおらず、酷いのになると蟹喰い鰻と混同する人すらあるが、同種でないのは形を見れば一目瞭然である。かつ大鰻は蟹喰い鰻と全然その棲家が異なるので、これらを一緒の種類にしてはならない。
【 備考 】
「日本の大鰻と、中国の蛟」
『本草綱目』には「蛟とはミヅチであり角の無い龍である」とある。『禮記』月令の季夏紀には「この月に漁師に命じて蛟を退治しワニを獲らせた」とある。これは蛟を害獣として駆除するという意味ではなく、季節によって蛟を食品として採取していたことを言っているのである。漢の武帝が、渭水で釣りをしていると白蛟を得た、これを膾にして食べると美味であったと『太平廣記』に述べられている。
『王子年拾遺記』には「白蛟は長さが三丈あり大蛇のようであるが鱗は無い。肉は紫色、骨は青く味は美味である」と記している。一般的に知られている「蛟龍は地中(池中)のものならず」という言葉が『三国志』にあるが、ここからも蛟龍は土の中に潜れることが分かる。
また『山海經』には「泿水は南流して海に注ぐ中に蛟龍がおり、その形は魚のようで尾は蛇のようである」とある。また裴淵の『廣州記』には「新寧郡東溪甚饒蛟,及時害人。曾於魚梁上得之,其長丈餘,形廣如楯,修頸小頭,胸前赭,背上青班,脅邊若錦」とある。つまり蛟は、釣り針にかかる事、簗に落ちてくる事、背中に青い斑紋がある事、また鱗が無く、角が無く、その肉は美味であること、かつ地下の洞窟に住み、魚の体と蛇の尾を持っていると説明されている事から見ると、日本の大鰻に類似している点が少なくない。『本草綱目』に「鰻大にして四、五斤のものは食うべからず」とあり、これは蛟龍を指しているのだと言う人があるが間違いである。中国は普通の鰻でも4,5斤( 約15kg~20kg )のものは非常に多い。ここで李時珍の言っているのは普通の鰻のことで体の大きなものの事なのである。
『本草綱目』およびその他の中国の本草に、大鰻に関する項目は無い。しかし『玉篇』には𩸾の字があり「読みは耶魚、蛇に似ており、その長さは一丈(3m)である」と記されている。また『太平寰宇記』に「福州の閩県の鱔渓はその源を東方二十里の古峯に発し、その淵には鱔がおり、その長さは一丈である。村人は廟を設けてこれを祀る」とあり、これは日本の大鰻と同じものと言えるのではないだろうか。
魚類額において有名なジョルダン博士の意見によると「日本の魚類は中国方面から移住してきたものが多く、また現在でも中国大陸、朝鮮半島から川魚が流されて日本海に入り、黒潮にのって日本まで来て、中には水質や風土の違いによって死ぬものがあるが、大部分は日本の魚となっている。従って日本と中国の魚は、祖先を同じにした兄弟姉妹の関係にある」と論じている。もしそうであるならば日本の「大鰻」と、『玉篇』の「𩸾」、『太平寰宇記』の「鱔」、および中国の古代から「蛟」と呼ばれた生物は、互いに何らかの関係があるとのではないかと思われる。ただこれに関しては今後の博識家の解説を待つ事にしたい。
鰻は鯉や鮎と同じ温水魚であるので、温水で育ったものが良い。下流にいるものよりも上流にいるものの方が良く、本流に居るものよりも支流にいるもの、支流にいるものよりも、小溝にいるものの方が良い。中国の『食品本草』に渓流にいる鰻が最上であると述べられているのは、この事を示すものである。池や貯水池などの刺激の少ないところで成育したものは、人工養殖のものと同じで肉に臭気があり味が良くない。海水に住んでいる鰻は種類によって差があるが、大体において味に癖が無い。鰻は種類が多く、その名称は地方によって違いがあるが、一般的な俗称に、ゴマ鰻、ホシツキ、ガニ喰い、溝鰻、銀鰻、ガネカミ、サジ等がある。ゴマ鰻とは皮膚に薄黒い斑点があるもの、ホシツキとは白色の帯びた斑点が全身に散在しているもの、ガニ喰いとは川の本流に住み海に下らないものであり、大口で蟹のような餌を好むものを言う。俗にこれが鰻の雄であると思い込んで、男鰻とも呼ばれている。溝鰻とは小溝に住んでおり、本流にいる事は稀である。頭が小さく肉付きが豊かであるのを俗に雄鰻と、蟹食い鰻と並んで呼ばれている。溝鰻は美味ではあるが、鰻の中で最も優れているのは銀鰻と呼ばれているものである。体は肥えており、口は小さく格好は上品である。背中の色は銀鼠色であり、腹部は白銀色の光沢がある。肛門は比較的体の上部にあり、体全体には絹織物のリンズのような浮彫型が模様となって浮き上がって現れる。九州では捕獲することが非常に稀であり、下り鰻の中にも百尾のうちに三尾も取れれば、瓦礫のなかから珠玉を得た思いになるほど人々は非常に珍重している。
文化年間、江戸に鰻料理の名人で三平という人物がいた。篠本竹堂の為に鰻について説明して言うには「鰻の品種は非常に多い、良いものと悪いものは天地ほどに差があり、故に要は選択にこそある。その方法は頭が小さく、腹が肥えていて色は葱緑で味は淡く、そして美味である。そして
また『養小録』に「鰻、頭小、身大、背嫩綠。綾章鮮而有光者為上」とある。三平先生も、小四海堂先生(羽倉簡堂)も鰻の味に注意を払っていたと見える。その説明はほぼ要点を得ていると言えるが、果たしてそれが銀鰻を指しているかどうかは不明である。
東京の鰻屋で「
だがその味を試してみると、肉は硬く銀鰻に遠く及ばないことが分かる。ただしこの味の差異は、利根川の水質が原因であり本来は銀鰻であるか、それとも別種のものかは不明である。ある人の説では利根川の上流の野洲方面にまで行けば水は清冽であり川底の岩石も白色を帯びている。この地域に住んでいる鰻は、その土地の色に合わせた保護色をしており、腹部は全て銀色であると述べている。もしそうだとすると九州で銀鰻と呼ばれる種類は「遼東の豚」( ※ 昔、中国遼東地方の人が、飼っている豚が白い頭の豚を生んだのを大変珍しく思い、これを天子に献上しようと河東まで行ったところ、豚の群れに出会い、それがみな白い頭の豚だったので、自分の無知を恥じて帰ったという故事 )と同じであるのかもしれないが、それでも利根川の鰻が銀鰻であることは肯定し難く、これに関しては後日の研究を待つことにしたい。
前に述べたホシツキ鰻の多くは筑後川の下流で獲れる。京阪地方ではこれを久留米のホシツキと呼び、価格は一段と高価となる。ただし味に関しては銀鰻ほど優れてはいない。
鰻のシュンは9月~10月であり、特に9月頃の下り鰻の時期が良い。夏の期間中に十分に食物を摂取し、産卵の為に海に下る、この時期をシュンとも言えるのだが、前にも述べたように、鰻は淡水で産卵することがないので、特にこれをもってシュンであると言う必要もないのだが、強いてシュンを設けるとするならば、下り鰻が海に入った後、12月頃の産卵までの間を最高の時期であると言う他はないだろう。ただしその時期が故郷の深海に帰っている時であるのならば、人間が捕獲することは出来ない。従って鰻の味は平均して安定しており、他の魚類のように四季による大きな味の違いはない。故にシュンに対して特別の配慮を払う必要はないのは、魚類の中では唯一鰻だけである。鰻は冬は食物を食べなくなるので、体がやせ細ると言われているが、それは間違いである。冬期は半ば冬眠状態であり、運動不活性であるが、身体は十分に肥満していて、夏季に食物を食べている時よりも味が勝っている事はあっても劣る事はない。
東京人は土用の丑の日に、鰻を食べれば滋養補強の効果が有ると言っており、この日を鰻のシュンの「鰻デイ」として沢山の鰻を食べる。当日になると鰻屋の前には必ず「今日は丑」と大看板を掲げるのが恒例である。ただし土用はもちろん鰻のシュンなどではない。丑の日と鰻とは何ら関係がないのに、丑の日がいかにも鰻デイであるかのように伝えられている理由がある書籍に「平賀源内は鰻が好きだったが、かつて出入りしていた鰻屋から看板の依頼を受けた時に、奇才縦横の先生の事である、何か奇抜な思いつきで人気を博そうと一考の後、その日が土用の丑の日だったので、やおら筆を取って墨で鮮やかに[今日は丑]と書き早速その大看板を掲示したところ、当時名声を世に馳せた源内先生の揮毫であるとして、非常に世間の人々の注意を引き、先生の事であるので丑の日と鰻は何か深い関係があるに違いないと思い大評判となり、たちまち門前には多くの客が集まった。これに味をしめたこの店は、翌年も同じ日にまた同じ看板を店頭に掲げると前年にも増して繁盛したのであるが、江戸中の蒲焼屋も次第にこれを真似するようになった。よって土用の丑の日に鰻屋が繁盛するのは実に源内先生の賜である」と述べているが、あまりにも話が出来過ぎていて落語のようにも思える程である。
日本で鰻は昔から貴ばれていて、かつ体の衰えやせることを防ぐ医学的な特効があるとされている。奈良時代の大伴家持の歌には
石磨に吾物申す夏痩せに
よしと云うもの鰻とり食わせ
とある。源内先生はこの歌を思いうかべ、意を得たりとしてこの夏痩せの文句に寄せて、土用丑と言ったのかどうか...。上記の次第であるので鰻のシュンは他の魚類のように特別な注意を払う必要はなく、四季を問わず脂肪に富んでおり滋味がある。ただし品質や産地などは十分な注意を要することは言うまでもないだろう。鰻は温水魚であるので、九州地方の温かい水で育ったものが最も良いのは勿論であるが(台湾は温水であるが、水質が泥を含んだものであり味が良くない)関東地方は川の水が冷たい為、肉が硬く味も良くない。品質は銀鰻が最上であり、細口がそれに続くのは前にも既に述べた通りである。大阪ではゴマ鰻を珍重するが、味に関しては特別な価値はない。
東京の蒲焼屋は各々が産地に注意を払っていて、江戸前が良い、あるいは 茨城産が良いと言い、九州産が良い、島根産が良い、その仕入れ地を各自で誇っているようであるが、品種については特段の注意が払われておらず、玉石混交のようになっているのは惜しい事である。東京に入ってくる鰻は、夏は愛知県産と宮城県産が多く、秋の始めになると島根産、関西産、九州産が遠方から入ってくる。千葉県産は主に銚子のものの入荷であり、10月、11月の下り鰻の季節となる。
鰻の肝を串に刺し、少し砂糖を入れた薄醤油に漬けて、付け焼きにして、一方で鰹節の出汁を煮立て、沸騰した時に焼き肝を入れ、芹または三つ葉を少し加えて、食塩と醤油で味付けをする。
【 備考 】
夜盲症つまり鳥目に鰻の肝が効果があることは、民間で試されきたため昔から言い伝えられたもので、『掌中妙薬集』では「鰻の肝を水で飲むように」と言い。『和方一萬方』にも、川うなぎとオバコを黒焼きにしたものを粉末にして白湯で飲む」とある。近年は研究の結果、鰻の肉や肝臓内にビタミンAがかなり大量に含まれているのを発見して、古来からの経験が間違ってはいないことを証明している。また『妙薬博物筌』には「鰻には結核に効果があるとして、良く鰻を食べてその骨を噛むと良い、この魚の肉は最も陰を補う」と記されている。『倭漢三才図会』には鰻の効用について「治傳屍病児之疳労」とある。傳屍病とは現在の結核の事である。中国でも同様の議論があり、『稽神錄』には鰻が「疲蔡傳屍病の虫を殺す」と書かれており、『異魚図賛』には「鰻既癒人病其功亦奇」とある。ビタミンAがカルシウムの沈殿を助けるために結核にも効能があるとは現代の医学も認めているところである。本文では鰻の肝料理は吸物よりも炙って付け焼きにする方が香味において勝っている。
雑炊に仕立て、鰻の腸と頭を取り去り、筒切りにした肉を入れて、ゴボウ、葱を一緒に炊いて干山椒を加え醤油で味付けして食べる。
今ではあまり鰻鮓は作られないが、昔はかなり流行していたようである。特に京都では一時期、宇治丸と言って宇治川の鰻鮓が珍重されていた。この料理法は100~150g位の鰻を割いて、四つ切にして、上等の酒に少しからめに塩を混ぜたもので一夜置き、翌日に飯に酢と塩、砂糖を混ぜて、鰻を載せて蓼または紫蘇の葉でこれを巻いて、一夜重石をしておく。中国の『本草綱目』には「無鱗魚之鮓最不益人」とあり鰻の鮓は食べないないと言う。
この他にも鰻を筒切りにして、酢と塩で煮たもの、または白焼きにして薑醤油で食べるもの、あるいは天麩羅にする等、種々の料理法があるが、鰻料理としては蒲焼を第一に推さない訳にはいかないだろう。
蒲焼は鰻料理の中でも最も普通に行われる料理であり、どこでもこの料理を知らない所はなく、西洋の食通の間でももてはやされている程である。
蒲焼の始まりは明らかでない。『万葉集』の石麿に我物申すの歌を見ても、鰻が我国で昔から好んで食べられていたことは疑いがないが、その頃は醤油の無い時代であるので、恐らく蒲焼は知られていなかったはずである。また 羽倉簡堂 の『養小録』に「河魚大抵賞塩炎,唯鰻尚醤炙。大観本草獨載,椒醤炙方,古今東西,口相以也」とある。ここで醤炙とは蒲焼のことであると伝えているが、 『大観本草』 とは何年頃の書なのだろう、またこの書の著者は中国人なのか日本人なのかも不明である。古今東西口相以也の口調から見ても中国人の著述のようであるが、中国には鰻の蒲焼があるとは聞いた事が無い。『随園食単』には湯鰻、紅煨鰻、炸鰻についての記述はあるが、炙鰻についてはどこにも書かれていない。『大観本草』が日本人によって書かれたとしても年代は不明である。元禄や正徳時代(1688年~1716年)の書には、うなぎすし、吸物、濃漿などの料理があるが、蒲焼料理は見当たらない。『調理抄』という書に始めてうなぎの蒲焼についての記述がある。『調理抄』は享保頃(1716年~1736年)の書であるので、蒲焼の始まりはそんなに古い年代ではなさそうである。
藤岡博士の『日本風俗史』に、潮煮と蒲焼が室町時代に始まったと記されている。この出典がどこなのかは不明であるが、本著の第四章「日本の食物の変遷」では室町時代説を採用している。
蒲焼料理には東京流と関西流がある。 東京流は、まずは鰻を俎板に載せて頭の少し左側に、目打ち釘を打ち付けて、カボチャ、キュウリあるいはイチジクの葉で(冬は布巾を青葉の代用とする)鰻の前進をしごいて、そのねばりを取り去り、首筋の左側から切りはじめ、その切れ目から背骨に沿って尾までを割き、骨を取り除いて、内臓を頭と繋げたまま取り除く。もし血液が肉に付いたならば、布巾か紙で拭き取って、400g以上であれば三切れ、または四つ切に、200g以下ならば二つ切り位にして、横から串を刺して、弱火でまずは身の方から焼き、裏返してあらかた両面に火を通し、蒸籠にいれて5~6分間蒸し、その後強火で炙って、別に準備して置いたタレ汁(醤油と味醂を半々に混ぜて煮詰めた)に浸し、再び火で炙って蒲黄色に焼けたら串のまま皿に盛って、粉山椒を添えて食卓に上げる。
【 備考 】
鰻屋のタレに関しては、それぞれの店によって色々な説がある。例えば東京の「神田川」という鰻店はかなり古い家であるが、この家では先祖からの遺言で創業当時のタレを代々守り続けるのを家訓としており、文化二年(1805年)から貯えられてきた古いタレは油のように淀み壷の中に納められている。これこそ神田川の全財産にも代えられない家宝であり、火災などの場合には何をさておき、先ずこのタレを運び出すのが掟となっていると料理書や雑誌に書かれているのをよく見るが、タレは毎回つくり直す方が良く、年月を経たものは悪臭と変味を来すものとなってしまうのではないか。
関西流の割き方は、東京流のように背からではなく、腹から割く。どうしてこのような違いがあるのかと言うと、鰻の脂肪と肉味は肛門から下の尾の方、腹の方に片寄っているので、腹から割くと味が最も良い部分に刃を入れることになるので、それを避けて背から割くのであると考えられている。
なお関西流では鰻を付け焼きにして焼き上げ、大きく火が通りにくいものは蒸籠で蒸すことがあるが、普通のものは蒸すことはしない。九州、中国地方から来る鰻であれば、比較的、肉が柔らかいので必ずしも蒸籠に入れなくても良いのである。ただし鰻茶漬けとして蒲焼を熱い飯に添えて、熱い茶をかけて茶漬けにするには、東京流の蒲焼はあまりにも柔すぎて、肉が潰れて飯粒に混ざりベタ付き過ぎる感じがある。故に茶漬け用としてはむしろ関西流の付け焼きの方が勝っている。
また鰻飯の場合には、鰻を一度白焼にして、その他方で火をおこして醤油に味醂を混ぜて煮え立たせておき、その中に先の白焼きを入れ、10分位沸騰させて丼ぶりに盛った暖かい飯の上に、煮えたての鰻を載せ、その汁を少しかけてフタをする。
要するに蒲焼を食べるには、東京流の蒸し焼きは悪くはないが、茶漬けには関西流の焼いた鰻の方が適しており、鰻飯には先に述べた白焼きを煮たものの方が良いようである。
鰻料理で最も奇抜なのは、南洋トンダノ地方では鰻を青竹の中に密封し、コショウと醤油を入れて蒸し焼きにする。この地方では鰻だけでなく、竹を調理道具として使う事が少なくない。米に肉を加えて塩を入れて青竹で蒸すこともある。(『南洋諸島巡行記』) 青竹料理は中国でも行われていたようであり、『齊諧記』に「 屈原 が5月5日に汨羅に身を投じて死んだ。楚人はこれを哀れんでこの日が来る度に、筒で米を貯えて祭る。今でも世間では米を新しい竹筒の中に入れて、蒸て食べ、これを装筒と言う。粽はその名残である」とある。日本で行われる鮎の青竹鮓も同じ発想である。
西洋では日本のように鰻は重宝されれはいない。イールスープ(eel soup)としてスープで食されている。またこれをボイルあるいはシチュウとして料理して食卓に載せることがあるが、上等な料理としては扱われていない。中国流の鰻料理も以下で述べるように種々あるが、日本のような蒲焼ではなく、またそんなに鰻を珍重していない。また鰻の品質も日本のものよりも劣っている。試しに2,3の中国の料理方法を次に紹介する。
これは鰻の煮付けのようであるが、種々の材料からスープを取るので味が非常に良い。鰻を3cm位の筒切りにして熱湯で茹でたものに塩を加えて豆油、陳皮(ミカンの皮)正菜などと一緒に煮て、別に多瓜を油で炒めたものと、焼き豚の腹部の肉を2,3等分したものと椎茸、二ラを一緒に加えて再び煮る。長時間煮てから熟油および麻油などを万遍なく振りかけ、皿に盛って食卓に上げる。
鰻の骨を取ったものを、豚の網脂で巻いて、油で揚げたものを再び煮たものである。これには鰻の他にも、豚肉、豚の網脂、栗、冬瓜、小麦粉、醤油、紹興酒、豆油、塩などの材料を使い念入りに煮込んだものである。
材料の準備
鰻、白肉(豚の白身) 五番豆腐(干豆腐)
椎茸、茶瓜、韮、菜花
コンニャク 小麦粉 醤油 砂糖 黄酒 塩 熟油 麻油
鰻を割いて骨と腸を取って、湯がいて酒、砂糖、熟油の中に漬けて置く。上に並べた材料を薄く切り、油で炒めて塩をふりかけて、先に漬けて置いた鰻の汁にこれらを入れて、別に小麦粉を砂糖、醤油、黄酒で溶いてその上にかけて、熟油と麻油を加えて良く攪拌し、水を十分に入れてトロ火でゆっくり煮てドロドロしたスープに煮た汁にする。
下り鰻を捕まえるのは、
鰻は昼間はその巣窟である岩石の間に隠れて、頭だけを出して、餌の来るのを待っているが、水中眼鏡をかけて水底深く迄潜りヤスで突いて獲る方法もある。鰻を釣るにはどじょう、ミミズ、イカの足などを餌とするが、別に「揉み出し」と呼ばれる方法もある。それは鰻は何よりも鮎を好むので、まず鮎の新鮮なものを捕り、大きなものは二切れに切って、小さいものは一尾のままで右手の掌に持って人差し指と親指の間に挟んで少し出しておき、この手を鰻の集まっていそうな岩石の間に上方から下流に向けて差し込んで、かなりゆっくりと鮎を親指の下で揉み潰す。鰻は鮎の香りを嗅ぎつけて、右から左からと次々と集まってきて匂いの発散する手の周りに首を差し出したり、口が触れたり、手を噛んできたり、大きいものは親指を餌と思って一呑みにしようと噛みついてくる。その時に別に鮎の身を切って置いたものを釣針に刺して釣り上げるのも良いが、熟練した人は釣針を使わずに鰻が親指の頭に噛みついた瞬間に、親指に力を入れて、人差し指で鰻の鰓を抑えつけて、そのまま穴から引き出して左の手で鰻の胴を支えながら駕籠にいれる。300g位の鰻を捕らえるには釣針を使うよりはこの方法の方が便利である。
この他にもハエ釣り、穴針その他種々の方法がある。穴釣りの餌は普通はミミズを使うが、ミミズは釣針に刺すのに便利であるが、必ずしも鰻釣りでは良い餌であるとも言えない。鰻の好物は一番に鮎、二番は小鮒、三番はハエであるが、鮎や小鮒は肉を切って、絹糸で針に巻き付けるのが面倒で不便である。そこでミミズ、タニシ、イカ、タコなどを使うことが多いのである。
【 附 】
鰻は粘液が多いので、滑って手で握る事が非常に難しい。普通、鰻握りと言って、人差し指と薬指で鰻の真ん中を挟んで、満身の力を込めて中指を引き締めて掴むのであるが、400g以上のものになると、かなり指の間に挟むのが難しい。しかし「鰻の尾つかみ」という奇法がある。まずは人差し指と親指の間で鰻の尾を軽く触り、親指の爪先で鰻の肉に刺激を与えれば、鰻は刺激を感じて、急に尾に力を込めて人差し指に尾を巻きつけながら、逆に尾の方から逃げようとする。鰻が人差し指に尾を巻きつけようとするはずみを利用して、あたかもコウモリが脚をひっかけて頭を下にしてぶらさがっているのと同じ方法で、鰻の尾の力を人差し指で支えながら穏やかに水から引き上げる。ただしこの方法は鰻を扱う事に十分熟練した人でなければ簡単には成功しない方法である。
鰻は日本人がかなり嗜好しているので、その需要は年々高くなり、食品の中でもかなりの高価であり、天然産のものだけでは到底その需要に応じる事は出来ないようになっている。中国や朝鮮半島から輸入されているが、それでも需要に応じきれていない。昨年(大正12年)は遂に中国からカンズメが輸入されるようになった程である。しかもその品物は常に不足がちであり、いやが上にも値段は高騰し、一般の人々が食べようとしても食べれなくなっているので、東京蒲焼業組合では、昨年、千葉県と協定をして、県内の印旛沼、手賀沼に鰻を放流して養殖を始めたのであるが、それでも一般の需要には足りていない。鰻の養殖業は成長を見せていて、至る所で鰻の養殖が盛んに始められている。こうした養殖業と、蒲焼は共に日本だけの独自のもので世界でも評判である。
鰻は前にも述べたように、温水に孵化して、淡水で成長するので、その稚魚が川を遡るのは大抵は長さ4~8cm位の時である。5,6月の頃に、大群をなして川を遡ってくるが、昼間は水の中層を上り、夜間は水面を遡上するので、夜間(日没後の2,3時間の間)小舟を岸辺に係留して、舟の中の明かりを暗くして、手網で何度もすくい取る。こうして取った稚魚を人工池の中に移して成長させるのである。生存能力が強く貪食なので水質や餌にあまり注意を払わなくても良好に成長するので養殖には非常に向いていると言えるだろう。
鰻の飼育池の底は泥土が良い。水の深さは30cm~60cm位にする。ただし鰻は逃げることが得意なので、脱走を予防するために、厳重な囲いをする必要がある。水面上60cm位のところを板で囲い、節穴、継ぎ目も厳重に封じて、少しの隙間も無いように注意する。なるべく水の流れをよくすることも肝要である。
食物は動物性のもの、植物性のもの、どちらでも良いが、蚕の蛹、昆虫、蠕虫類(ワーム)、小魚類、貝類、水藻類などは鰻が最も好む食べ物である。
成長の程度は水質、水の流れ、餌、養殖池の広さの割合によるが、それを一定にすることは難しいが、上手に飼育すれば10gぐらいの稚魚を、3年目には200gに成長させることはさほど難しくはない。要するに鰻の養殖はかなり有利な事業なのである。ただし前章で詳しく論じたように、味はどうしても天然物には及ばないのはどうする事も出来ないのである。
鯉は中国では同じ文字を使う。英語ではカープ(Carp)
鯉は中国の魚であり、『神農書』に「鯉最為魚之主三十六鱗」と書かれており、『詩経』には「豈其食魚、必河之鯉」とある。『國朝律』には「取得鯉魚即宜放,仍不得吃,號赤鯶公。賣者杖六十」とあり、唐の時代には鯉を食べた者は刑罰に処せられていたこともあった程である。昔、孔子に子供が生まれた時に、魯君(孔子の君主)が鯉を贈ると。孔子は喜んでその子を鯉と名付けて、字を伯魚とした事をみても、孔子が鯉の縁起を喜んでいた様子が伺える。
鯉には種々の伝説がある。鯉は百年を生きると龍となる言われているのである。大河の源は崑崙を源流とする。河は積石山を経て龍門となり、三級の大瀑布となる。春の三月頃、桃の花の流れる中を魚はこれを昇り、この鯉龍門を上がれば鯉は化して龍になる。ここを多くの魚は昇ることが出来ず、落ちて死ぬと言われる。『後漢書』李膺傳には「士有被其容接者,名為登龍門」とあって人が出世する事を「登龍門」と言うのはこれが起源である。中国では陰暦9月の風を「鯉魚風」と言い、李賀の詩に
鯉魚風起芙蓉老
とあるのはこの季節を詠じたものであり、仙人の琴高が鯉に乗って江湖を飛んでいる様子が多くの書にモチーフとして見られる。『二十四孝』には、王祥が氷上で二匹の鯉を得た事、また『烈女傳』には、姜詩の妻が、自宅の側に湧いた泉からいつも鯉を得ることが出来た等の話は、現在に至るまで格好の御伽噺としてのお題目となっている。
日本でも中国でも同様に鯉を魚類のなかの王としている。鯉に出世魚の名があるのは中国の登竜門の伝説が起源とするのはこの為である。年々、端午の節句で、都市部でも地方でも鯉のぼりを立てたり、祝い事の宴会では必ず鯉が出されるのもこれに由来している。
鯉は温かい場所を好み淡水の深淵に群れて棲み、産卵は4,5月頃である。この時期になると雌は雄を誘い、浅くて水藻が茂っている場所で早朝に産卵する、一匹の産卵量は31万~70万粒位である。20℃の水温であれば一週間で孵化する。鯉はもとは中央アジアの原産であるが、最初に中国に移植され、それから朝鮮半島を経て日本に入ってきた。ヨーロッパの方にはロシアやノルウェーを経てからギリシャ、ローマに入り、その後ドイツにも入ったのは1258年のことである。イギリスには1514年、オランダも同年頃であり、フランスには1400年代である。アメリカに鯉が輸入されたのは1872年の事であり、今からわずか50年前に5尾、続いて1877年に日本から77尾、ドイツから再び298尾、6年間に合計394尾が送られたが、今日ではアメリカの太平洋沿岸地域の川や沼には沢山生息するようになっていて、鯉の繁殖力の強さを見ることが出来る。アメリカ人は鯉の繁殖力に驚き、かつ他の魚の発育を妨げるとの理由から、一時期は鯉の流入に猛烈な反対があったが、近年はその価値が理解されるようになったようである。このように鯉の勢力範囲は全世界に広がっていると言えるだろう。
水が清いと魚は住まないと言われるように、鯉はあまり清らかな冷水よりも、少し濁った水を好むとして、鹿児島の川内川、久留米の筑後川、宮崎の大淀川、大阪の淀川、茨木の利根川等が有名である。寿命は大抵50~60年位で、普通の大きさで60cm~1.5mまでになる。先年、琵琶湖で捕獲された鯉は体長1.7m、同周り1.2m、重量が45kgもあった。中国の揚子江、黄河には3.5mにもなる大鯉がいるが、多少の泥臭さがあり味は日本のものに劣っている。鯉の形は、川にいる天然産のものは円筒形であるが、養殖は幅が広く、体が高くて一見すると鮒のような形をしている。味においても容姿についても円筒形のものが優れているが、近年は養殖が盛んであるの、養殖鯉が川に逃げ出すものが多く雑種が生まれているために、純粋な円筒形の天然物が減少する傾向にある。いわゆる「悪貨が良貨を駆逐する」のと同じであり惜しむべきことである。鯉の変種には
『本草網目』に「鯉鱗有十字紋理,故名鯉。其鱗従頭尾,大小,皆三十六片」とあり、鯉が六六魚と呼ばれているのはこの為である。ただし実際には必ずしも鱗の数は三十六という訳でもないようである。また鯉の特性として水中では非常に勇敢で活発であるのだが、ひとたび人に捕らえられ俎板の上に置かれると、まったく暴れずに大人しくなる。その安んじて最後を待つ様子が、死に臨む古武士の態度に似ているとも言われている。
鯉釣りは冬以外であれば季節を選ばず行える。曇天あるいは小雨の日が良い。ただし水中の魚影が見えている場所だと餌に食いつくことが無い。鯉は杭などがある所を好むが、いつも杭の下流にいて、上流にいることはない。また水の渦巻く場所や、塵芥のある場所には住まない。餌を食べる時は頭を上流に向け、下流に向いている時は決して食べない。天然産のものは中々釣針にはかからない。
鯉は5,6月頃、増水で水が濁っている頃に産卵する。沼地のものは岸辺に出て来て、川の本流にいるものは支流や小溝に上ってくるので、その時に網で捕らえたり、帰路を塞いで網に追い込んだりする漁法がある。
冬期は深く静かなところに、半分冬眠状態のようになって群れているので、網を張って取り巻き、ヤスで突き捕る方法がある。また深淵に潜って鯉の居場所を探してヤスで突いて抱き上げる方法などもある。竹を編んで簀を作って湖や沼に置き、一定の場所に魚を誘い出し、出口を塞いですくい取る等、地方によって漁の方法に様々な様式がある。
東京の人は鯉を夏に食べること多いが、夏は最も不味い時期であって、12月から3月頃までが最上のシュンである。肉の色は鮮やかな紅色で鱗に金色の光沢があるものが良い。河流で育った純粋な
『徒然草』には「鯉の羹を食べた日は、鬢が毛羽立たないということだ。膠も鯉から作るので、ねばりがあるものなのだろう。鯉だけが天皇の御前で切られる魚なので、高貴な魚なのである」とあるように、昔は 四條流 でも、 大草流 でも鯉料理は最高の料理とされており、将軍家の御前料理は鯉に限られていたことは、既に前で述べた通りである。鯉の割き方は血を拭うには必ず白紙を用いなければず、決して水で洗ってはならない。水を使うならば腥気となると伝えられている。現代は養殖鯉が一般的となり、真鯉がほとんど種切れになっているのは非常に嘆かわしいと言うほかない。
【 備考 】
鯉料理に養殖物を使う際にはある種の癖があるので味はあまり良くないが、「鯉こく」の場合も「洗い」の場合も、その切った肉を一度塩水で洗うべきである。その後に鍋に入れるか、または冷水を何度もかけて洗って「なます」にすれば肉味は養殖魚特有の癖が取り除かれる。
円筒型の真鯉であれば、鱗のついたままでも良い。胃袋にある浮袋だけが潰れないように取り出し、卵も腸も一切れづつ筒切りにしておく。三州味噌を摺ったものを漉して、味噌汁にして煮立ったところで鯉の肉を入れ、トロ火で1,2時間煮て、その後に粉山椒を吸い口に入れる。昔に鯉が珍重されていた時代には
新鮮な鯉を選び、鱗と腸を取り除き、水で洗い、三枚におろして皮を取り、薄く大きめにさしみにする。ザルに入れて上から冷水(硬水の方が良い、故に水道水よりも井戸水を良い)をかけて肉が反り返って縮むようになれば、水を切って皿に盛り、おろしわさびと大根を細く切ったものを添えて、煎り酒に酢を加えたもので食べる、
【 註 】
煎り酒とは古酒2升を水1升で割り、梅干し20粒、鰹節少々と醤油を入れ、2升ぐらいになるまで煮詰めたものである。ただし鰹節は加えない方が良いと思われる。
鯉の季節に円筒型の真鯉を選び、上等な古酒を2杯ばかり(中には味醂を入れるものもあるが、それは良くない)を混ぜた味噌の中へ、筒切りにしたものを漬けて置き、なるべく空気が通らないように上からフタをして2.3日後に炙って食べる。
またこの味噌漬けの味噌を落として、糸でつないで、日光にさらして十分に乾かしそのまま保存して必要な時に鰹節と同じように削り薄味噌に入れる。これに初霜昆布などを入れて汁にするのも良い。
鯉の(養殖魚は良くない)活発なものを選び、庖丁で腸を傷つけないように鱗のついたまま、背の方の皮を剥ぎ、背身と下身をおろして細造りにして、鯉の花子をほぐし細造りをあえる。また別に鯉の身を洗いにして、それを皮の下に盛って生きたままの姿にして大皿に載せ、同じ皿に、大根、薑、海苔なども盛り合わせて出す。冬期ならばこの生造りを座敷に出しても、鯉は死なず口を動かしている。刺身を小皿に取り分けた後は、皮をもとの通りにかぶせて置いて、あくまでも鯉の姿のままにしておく。この生造りは、煎酒または梅酢で食べる。
【 備考 】
梅酢とは梅干しに砂糖を加えて煮出した汁であり、鯉には洗いにも膾にもこの梅酢が使われるのが正式である。鯉に梅干しを使うのは鯉料理の場合には多い。日本の梅酢は中国から伝来してたものだろう。
この他にも鯉の飴炊き、糸造り、甘露煮など種々の料理方法があるが、これらは既に多くの人が知っているので省くことにする。鯉は焼き魚にされない事は『四條流献立中傳書』にも記されている通りであるが、それにも関わらず、鯉の丸焼き料理が流行したことがあったようである。高橋清兵衛版の『料理物語』の中に「鯉のはまやき」とある。また『新猿楽記』という書にはご馳走として、鯖の粉切、鰯酢煮、鯛の中骨、鯉の丸焼きとある。丸焼きは多分、中国人が鯉の丸揚げ料理を行うことから伝来したものではないかと思われる。
以下にふたつの中国料理の方法を掲載する。有名な「迤北八珍」( ※ 「迤北八珍」ではなく「明代八珍」が正しい )でも鯉尾は第一に置かれている通り、中国料理では鯉は尾が最も貴重とされている。
材料の準備
鯉一匹、豚の白肉、甘瓜、芹、菜、葱の白、辣韮、酢豆油、小麦粉、塩、胡麻油
鯉を丸ごと油で揚げ、別に全ての材料をなるべく長めに切って、酢に塩を入れて沸騰させた中に、砂糖と小麦粉を少量の水で溶かしたものをかき回しながら徐々に入れ、さらに沸騰させた後に、他の材料を魚のうえにかけ、その上に小麦粉の酢を万遍なくかけて胡麻油をふりかける。
※ ただし豚の白肉は、酢を沸騰させる前に細かく切って鍋で炒めた後で酢に入れる。
鯉の腹を裂いて、中の胆嚢を破らないように内臓を取りだし、水気のない鍋に胡麻油を入れて沸騰させ、その中から青い煙りの立つころを見計らって鯉を入れ、箸で裏返し、約25分位炒めて、鯉の身が紅黄くなるの見計らって、煮出し汁を入れ、潰した梅干し、砂糖、小麦粉、醤油、細切りした生姜などを入れて5分ぐらい煮て、大鉢に盛って出す。成るべく強火で料理する方が良い。
鯉を養殖するにはまずは養殖池、産卵池、孵化池の設備が必要である。鮭や鱒であれば人工で雌魚の卵を搾り取って、それに雄魚の精液をかけて孵化させるので、産卵池を必要としないが、鯉の場合は産卵の際に卵が付着するための場所が必要になるので、人工授精を行うことが出来ない。そのため産卵池の設備は必要なのである。3月頃から6,7才ぐらいの種鯉を分けて雄と雌を別々にしておく。4,5月の産卵期になると、雌1匹に対して雄3匹の割合で産卵池に放すようにする。産卵期になるに従って雌雄の鯉は群れをつくるようになり、池の周囲を回り、水面近くを泳ぐようになる。藻や草を一握りずつ束ねたものを縄にして池の中に入れておくと、種鯉は何度も飛び上がりそこに卵を産みつけるので、これを取上げて、日当たりが良く寒風を防ぐ施設を備えた孵化池に入れて置けば、3日間ぐらいで孵化する。稚魚には孵化して3日頃から茹で卵の黄身を細かくしたものを木綿の袋に入れて池に入れる。1週間後ぐらいにはミジンコを与えても良い。孵化後、5週間位で体長は3cm位になるので、その中でも発育の良いものを選んで飼養池に移す。飼養池は60cm~120cm迄のものを入れて置き、長方形の池が良い。池と池の間には水門を設けておき、別に深い場所も作っておく。これは後日、魚を捕まえるのに便利だからである。また魚が冬の寒さを避けるためで、これは「
飼養池に入れた後の飼料はサナギ、搾粕、ミジンコ、貝類、糸ミミズ、台所の残り物などを大抵は喜んで食べる。要するに、水の流れ、温度、餌、その他の生活状態など、河川の自然な状態を研究して成るべく自然に近い養殖を行うように注意すべきである。3年目になれば体長45cm位、体重は1.5kg以上になる。
また農家の副業として、稲田に鯉を飼うことがある。初夏の田植えの後、数日後に、4cm位の鯉を水田に放し、稲の実る前にそれを取る。稲田の中央には2,3坪の深い場所を作っておく。これは回収時の鯉の集合場所であり、同時に干ばつの時に備える為でもある。また用水の出入り口には各々竹簾を張って置く必要がある。放してある期間は特に餌をやる必要は無いが、餌を時々与える方が発育は良い。稲作に対しては不便ではあるが、試験の結果では幾分かの収入増が見込めるようである。
【 備考 】
養殖鯉は天然産に比べて味が劣るのは言うまでもないが、信州の南佐久郡で産する鯉は、他の養殖魚に比べて味が良く、養殖魚のなかでも第一である。これは千曲川の水源地である水質が鯉の発育に最適であるのが要因である。
中国では鯽魚と言う。英語ではクルーシアン(Crucian)
鮒は鯉の兄弟分であり、体形はよく鯉に似ているが、背中の部分が隆起していて、幅は広く、かつ鯉のような髭がないので簡単に見分けることが出来る。種類は丸鮒、底鮒、真鮒、にが鮒など70,80種類を数えることが出来るが、いまだに十分な研究が行われていない。金魚や緋鮒の類も鮒を祖先としているが、未だに確固とした定説とはなっていない。この魚は静かな流れの場所を好み、5,6月頃に産卵する。一尾の産卵量は10万粒から30万粒に及ぶと言われる。一週間で孵化する。
日本では琵琶湖の
中国は古来から鮒が食べられていて、杜甫の詩にも「松橋得金鯽竟日獨逓留」という句があり、他にも「鮮鯽銀糸膾」新鮮な鮒が銀糸のような膾にされている。と詠み、宋の梅堯臣は「昔嘗得圓鯽留待故人食」と言い、また「金盤暁膾朱衣鯽玉箪宵迎翠村人」などの詩があることからも鮒の味が珍重されていた事を見る事ができる。洞庭以外でも、中国の鮒の名産地は少なくない。盛宏の『荊州記』に「荊州には美味しい鮒がある、その味は洞庭にも勝る」とある。『水經注』「潯陽有青林湖,鯽魚大者二尺餘,小者滿尺,食之肥美,亦可止寒熱」と記されており、『神異經』には「東南海中有烜洲,洲有溫湖,鰩魚生焉。長八尺,食之宜暑,辟風寒」と書かれていて、鮒が避暑や避寒において効果があるとしてある。 楊慎の『異魚圖賛箋』には「清撿出佳鱮濁撿出好鮒美珍于常味取以二月初。清撿濁撿在今陽平關」とあり、陽平關の濁撿は鮒の名所だったようである。
日本の古語に「轍にあぎたふ鮒の如し」とある。これは『荘子』の涸轍中の鮒の話から出たものだが、これは鮒の遡上について言っており、鮒が水田や小溝の中で遡上を試みるのは4,5月の産卵の時期だけであり、産卵後は深い水底に沈んでいる。
鮒の習性で変わっているところは、干ばつになり、池の水が涸れて活路が見いだせなくなると、年を取った鮒は夜間の霧に乗じて他の池に移ると伝えられている。また池の水を干して魚を獲ろうとする時に、その日のうちに作業を終える事は出来ない。翌朝になって汲み干した場合等は、前日にはいた鮒の群れは、不思議にも一夜のうちに消え去って池の中は空になっていることがある。これは老鮒が一族を率いて、前夜のうちに霧の中を飛行して他の池に逃げたと言われている。九州地方の山間部では夏の干ばつ時に池の水が枯渇しようとする時期には、早朝に草原の中で生きた鮒を見つけることがある。これは霧の中を飛行中に力尽きて墜落した鮒であり、干ばつの難を避けようとした鮒であると伝えられている。
中国の古書にも鯉が神になり江湖を飛ぶことが載せられているが、鮒の飛翔については記録がない。『東坡志林』の中には「30年余り飼育してきた数百の魚が、ある日、天気が良く雷雨でもないのに、池の中が忽然として大風と大雨のようになり、魚が皆、飛び踊り、つむじ風のように消えてしまい何処に行ったか分からなくなった」とあるので、こうした魚の飛行は鮒だけの現象ではないようである。またある人は『呂氏春秋』に「雚水の魚はその形が鯉に似ている。翼があり常に東海から夜に飛んで西海に遊ぶ」とあるのを見て、これは大きな鮒のことであると考えるかもしれない。しかしこれは鮒ではなく、トビウオの事である。またある博物書で中央アジアで取れるという「歩行魚」と呼ばれているものについて記載されているのを見ると、この歩行魚は生息する川または池の水が徐々に少なくなり住めなくなれば、他の住みやすい水のある場所を求めて岸によじ登り、両鰭を使って地上を進んで移動し移住を行うとあるのだが、図を見るとその形は鮒に似ている。ただ日本の鮒の移動は歩行するのではなく、雲霧に乗って空中を飛行するのであり歩行魚の移動とはその趣が異なっている。雷雨の後に、道路、畑の中などに、ドジョウや小鮒を拾うことはあるが、これは雷雨の際の川の増水によって遡上したものだが、急速な減水によって道路などに取り残されたものであって、歩行魚や、大鮒が墜落して原野などに居る場合と全く異なるものである。またニューヨーク博物館のガッジャー氏によって発表された魚の雨に関する論文を見ても、魚が天から降ってくる事例は、西暦2世紀末にエジプトのアテネウの著書に記されているケルソネサスには2日にわたって魚が降ったことから、続いてイギリスでも、フランスでもスコットランド、アメリカのプリンス・オブ・ウェールズ島、アンリか合衆国やインドを含む34事例を挙げている。ただしその説明のひとつひとつを読めば空から降ったものではなく、多くの場合はそう遠くない海や川から竜巻や暴風雨によって巻き上げられたものが地上に堕ちたか、または噴火によって池の中の魚が吹き飛ばされたものであり、鮒が霧に乗って飛翔するというのとは根本的に異なっている。鮒は果たして本当に霧に乗って移動できる能力があるのかどうかは定かでない…。
【 備考 】
鮒は裂いて見ると、内臓が他の魚とも異なるところはなく、ただ浮袋が比較的大きいのが特徴ではあるが、これが鮒が空を飛ぶ原因とは思われないのである。
鮒は四季を通じて餌にかかる。多くの魚は寒中は餌を食べないが、「鮒の寒釣り」と言い、冬も餌にかかるのである。春夏の頃は水の中層にまたは上層にいるが、秋から冬にかけては下層におり、釣糸を垂らす深さは気候を考慮しなければならない。「流し」と言われている釣り方は、餌を水の中層に、流しては引き上げ、引き上げては流してを繰り返すのであるが、ふかし釣りとは重りを軽くすることで、浮で餌を水の中層に留める方法である。餌は普通はミミズ、ゴカイ、コメツキムシ等であり、その日の寒暖や、風の方向、水量などに影響されるものであるので、多少の熟練が求められるのである。
春夏および初秋までの頃に、湖水または流れる川の淵など、水の流れの緩やかな所に、小麦粉を煎ったものを酒糟で固めて団子にして、日暮頃にある気まった場所にそれを沈める。その場所には笹の葉などで目印を付けてから2時間後ぐらいで、鮒が香りを嗅いで餌に集まっている頃を見計らい、投げ網で捕らえるのがその方法である。
鮒料理の旬は、寒鮒と言われるように3,4月頃が最も良い。源五郎鮒は夏に味が良いとされる。これは産卵の時期が普通の鮒よりも遅い為である。源五郎鮒とは
鮒は時に泥を呑み込むので、池や沼などの水の流れの無い場所のものは良くなく泥臭さがあるので、その産地については特別な注意が必要である。中国の『寧波府志』には、「川にいる鮒は色白く、湖のものは色黒く、池にいるものは骨が柔らかく肉が肥えて美味であるが、流水中にいるものは骨が硬く肉はもろくて味も良くないので、鯉とは正反対である」と記されてあるが、これは間違いである。鯉も鮒も流れがあることろに住むものが最も美味である。我国では川で取れる鮒は、琵琶湖産のものと比べると遜色がないのである。
魚の形については鯉の形は円筒形で体の長いものが良いものであるのと正反対で、鮒の場合は幅が広く、体長が短いもの程良い。つまり扁平で腹部が白いものが最良である。
鮒の料理としては膾を第一とするのは、中国でも日本でも同じである。また處棕の記した『食珍録』( ※ 調べると実際は楊華の記した『膳夫經』が正しい )には「膾莫先於鯽魚,鯿、魴、鯛、鱸次之」とあるように、品質の良い鮒の膾は美味であり、鯉や鯛も及ばないとして膾の中にでも秀逸であると述べている。
また鮒は味噌の濃汁でも良いとされている。鮒の味噌汁は日本のものだけだと思っていたが、中国の『本草綱目』に、「鮒の肉を切って鼓汁を沸かしたものに入れ、胡椒、ウイキョウ、橘皮の粉末を入れて食べる。これを鶻突羹という」と記されている。また鯉であれば鱗を取り除くのと一緒に肝も取り去るのであるが、鮒はこれとは反対に肝を取らずに鱗を取り除くようにする。(中国では、は鯉と同じように鱗は取り除かない)
鯉と鮒の料理方法の違いはこれだけで、この他は全て同じである。前に述べたように、鮒の特徴は頭部が非常に美味である。川魚の頭というものは普通はあまり美味ではない。鰻の頭も、鮎の頭も(鮎の頭を食べるのは、腸を食べる為に頭から食べる為であって、頭の味が良いからという訳ではない)肉の割には非常に不味く骨も硬いのであるが、鮒の頭はそれらとは違い非常に美味であり、頭の骨も柔らかである。これを炙って焼き、骨をそのまま噛むか、または一旦炙ったものに砂糖を少し加えて煮て食べるのも良い。
中国の臨川玉蕭宏が「鮒の頭」を好んでいたことは先に述べたが、中国の『壽養叢書』には「春の間は鯽魚を食べても頭を食べてはならない、その中に虫がおり人を害する」とあるが、これは現代の研究でも証明されている。川魚の中には肉にジストマの寄生虫が多いことが現在は明らかになっている。この理由で川魚の生食を避ける人はあるが、特に鮒の頭は生食を避けなければならない部分で、炙るかまたは煮て食べるのであれば差支えはない。
20cmぐらいの鮒の鱗を取り、内臓を取り除いて良く洗って、中に結び昆布、串柿、くるみ、ケシ、蒸栗などを全て五色にいれて腹に詰め、酒、塩、鰹節などで味をつけて炙って食卓に載せる。
この料理は『四條家秘伝書』に載せられている料理のひとつであるが、これには一つの伝説がある。天武天と大友皇子が帝位を争っていた時に、鮒の腹から大友皇子の妃が大友の軍略を記した文書が現れた為に、天武天皇が勝利を得たと言い、
古へは いとも賢き かたた鮒
包み焼たる 中の玉章
など詠まれており、この料理は出陣の時に目出度いとされていた。そして結び昆布は
流れのあるところの鮒を12cm程のものを選んで、3日間ほど甘酒につけておいたものを取り出して炙り、冷めるのを待って、鱗と腸のままで白味噌に漬けて、1週間目頃に炙って食卓に載せる。味噌汁にしても良い。
15cm程の上等の鮒を選び、鱗を綺麗に取って腹から内臓を取り出し、水で良く洗って、水気がなくなるまで乾かし、これを一日酒の中に漬けて置く。他方で糠味噌を2升準備し、5合の玄米の冷えたものを混ぜ、ここに塩を入れてよく混ぜて、先に準備しておいた鮒をその中で漬け込んで、紙で覆って上にフタをして、重石をかけて、5日~1週間後に焼物にするか、または吸物であれば
酒1升に塩3合を入れて沸かしたものに、酢を1合加えて、ご飯の冷めたものをこの中に加える。鮒は開きにして2時間程前から塩をふりかけて置き、さっと洗いして塩を取り除き、先ほどの飯に漬けて2日間位経ってから食卓に載せる。さらに長く保存しようとするならば、塩を強めにして木のフタをして上から重石をかけておくと良い。
なおこの他にも鮒の昆布巻き、鮒の雀焼き、小鮒の三杯酢、鮒の甘露煮など種々の料理法があるが、これらの料理は既に一般的に知られているので省いて、最後に中国の料理法の2つを記しておく。
中国人は鯉の代わりに鮒を使うことが多い。特別な鮒料理としては、鮒膾および
次の料理の、
酒一合 白湯二合 醤油80ml 胡椒少々 生姜8g
上記の材料を大きなボールに一緒に入れて、蒸し器の中で3時間程蒸して、その後に取り出して胡椒を入れて、そのまま食卓に出す。その汁も魚も共に美味である。
鯰、シラ魚、イワナ、ヤマメ、ウグイ
ギギョウ、鈍九郎、カマスカ、川鮫、鰉、
ワカサギ、ハエ、桜バエ、笛吹き、赤ジン。
中国では「鮎」の字がナマズにも使われている。また
しかし、アメリカやヨーロッパにもナマズは生息しておらず、アジアにしか生息していない魚類である。アフリカのコンゴ川、南米のオリノコ川、エジプトのナイル川などに生息する電気ナマズ、電気ウナギの類は、学術上では同様の種類であるのだが、外見はまったく別物である。ナマズの習性については『廣東新語』の記述によると「鯰は尾を陸上に出しておき、ネズミがそれを食べようと近づいてくると水中に引きずり込んで食べる」とある。日本では琵琶湖の大ナマズが猫を捕まえて食べたと伝えられている。また大ナマズが大入道に化けることは日本でも伝説として所々で残されているようであるが、中国でも同じであるようで、『搜神記』には「孔子厄於陳,絃歌於館,中夜,有一人長九尺餘,著皁衣,高冠,大咤,聲動左右。子貢進問:「何人耶?」便提子貢而挾之。子路引出與戰於庭,有頃,未勝,孔子察之,見其甲車間時時開如掌,孔子曰:「何不探其甲車,引而奮登?」子路引之,沒手仆於地。乃是大鯷魚也」とある。大ナマズが孔子の厄につけこんで現れたところ、門下で最も勇敢であった子路が組伏せると正体を現したというこのエピソードは非常に滑稽なものである。
ナマズが貪欲であることは既に述べた通りで、ドジョウ、カエル、ミミズなどを餌にすると良く針にかかるのだが、5,6月頃、梅雨の時期に川の水が濁ると、産卵の為に水田、小溝などの水のある場所に遡上してくるので、夕暮れからは松明で水面を照らして捕獲することが出来る。
ナマズ料理は、味噌汁、すっぽん煮、蒲焼などが知られているが、ハンペン料理が一番である。まず骨と皮を取り去り、その肉を自然薯を摺ったものと練り合わせ、少量の砂糖と塩を加えて蒸籠で30~40分ぐらい蒸す。寛永年間に出された高橋清兵衛版の『料理物語』の中にはナマズカマボコとあり、昔から日本ではかまぼこにして食べていたようである。また鱠にするのも案外悪くないかもしれない。シュンは3,4月であり味は肛門よりも下の部分が美味なのは鰻と同じである。中国でも古来からナマズ料理は貴重なものとされていた。魏の武帝の食事に「蒸鮎」とあるのはナマズの蒸し料理のことである。以下には現代の中国でも食べられている料理を挙げておく。
材料 ナマズ3kgの腹を裂いて汚物を取り去り、よく洗ってから皮を剥いで、包丁で肉を薄く長さ5cm、幅を3cm位に切って3kgに対して
白湯二合 酒一合 塩4g 生姜8g 葱2本を細長く切る。
鍋に白湯と酒を沸騰させ、ナマズ、葱、生姜を一緒に入れて、約2時間ぐらいトロ火で煮てから椀に盛り匙で食べる。
材料 ナマズ600gの腹を開けて汚物を取り去り、良く洗って皮を剥ぎ、身を薄く長さを5cm位に切る。
胡麻油4㎖ 酒600㎖ 醤油500㎖ 白湯500㎖
葱2本(細長く4cm位に切る) 生姜8g(細く刻む)
鍋に胡麻油を沸騰させ、ナマズの肉を入れて箸で裏返して30分以上強火で炒める。その後、酒を始めとするその他の材料を一緒に入れてフタをして、一時間以上トロ火で煮て、椀に盛って匙を添えて食卓に載せる。
近海魚であるが、産卵のために2,3月頃に群れになって河口に遡上してくるので
、便宜上、川魚の範囲に入れて置く。味は淡白で上品である。東京では特に珍重されている、しかし墨田川、中川などでは昔からシラ魚が取れず、寛永年間に幕府の命令で、摂州佃村(現:大阪市西淀川区佃)から100名ほどの漁師を、墨田川の河口にある鉄砲洲に移住させたのであるが、これが佃島の地名の起源である。同時に摂州佃村で獲れたシラ魚を隅田川に移植したものが繁殖して、ついには江戸名物のひとつとして数えられるようになっている。こうした由緒に基づいて中川河口からお台場の付近までのシラ魚の漁業権は佃島漁師の特権として世襲で引き継がれている。
毎年、12月頃にお台場付近で獲れたシラ魚は、寒中の筍と同様に、東京の通人や粋客かた非常に賞味されているが、実際この季節のものは体型が非常に小さく、まだ味わいも十分ではない。2月頃に遡上し始める頃のものでなければシュンの真味が現れるようにならない。芭蕉の俳句に「紅梅や けふも立ち寄る 白魚売り」とある。これは紅梅の花が開くとシラ魚の季節となる事を伝えている。昔は4,5月頃に産卵を終えれば疲労して水面に浮遊するようになり、カモメや他の魚の餌となって、わずか1年ほどの寿命を終えるのである。中国人がシラ魚を年魚と言うのもこの為である。
シラ魚が産卵前後の最も発育した時には、長さ8~10cm、幅は1cm位に達し、全身には鱗が無く、色は真っ白であるが少し蒼味を帯び、眼まで真っ白なのだが、瞳だけが一点だけ輝々として黒水晶のようであり、形も優美である。シラ魚漁の船が水一面にかがり火を焚いて四つッ手網を揚げれば、網の目から水玉のようにキラキラと散る様は、さながら水晶の精かと見違えてしまうかのようですらある。
白魚を ふるい寄せたる 四ッ手かな
曙や 白魚白き 事一寸 [桃青]
白魚の 真白き月や 杉の箸 [諷竹]
白魚や 植えるは芽をも 出すべし [李流]
白魚の ちりも選りけり 年男 [言水]
美しや 春は白魚 かいわり菜 [白雄]
中国では銀魚という。また
中国では嘉魚と呼ばれており、九州ではエノハと呼ぶ。イワナとエノハを別種のように言う人もあるが、それは間違えである。同一の魚であるが所によって名前が違っているだけである。この魚は川の最上流、つまり川の源流近くに棲み、中流以下の場所にいることは無い。背中は蒼黒であり、腹部は灰白色である。全身に淡黄色の斑点がある。春季の生殖期にはこの斑点が赤味を帯びるようになり非常に綺麗である。シュンは1月~3,4月頃迄であり炙って食べるのが普通である。鱠にするのも美味である。中国では古来からこの魚を貴重なものとしていて『毛詩正義』に「南方水中有善魚」とあり、また『詩經』には「南有嘉魚」とある。註釈に南方とは江漢の間であり何れも揚子江の一帯に棲むイワナの事を伝えている。中国には今でも「嘉魚県」という地名の場所がある。揚子江沿岸に沿ってが嘉魚の名所である。『嶺表錄異』には「嘉魚,形如鱒,出梧州戎城縣江水口。甚肥美,眾魚莫可與比。最宜為䱓。每炙,以芭蕉葉隔火,蓋慮脂滴火滅耳。漁陽有䱓魚,亦此類也」とあり、イワナがかなり賞美されていたのを見ることが出来る。
また白沙の詩には、
両山断處小湘峡
十月嘉魚出水鮮
とあり、杜甫は「魚知丙穴由來美」と詠み、左太冲の『蜀都賦』にも「嘉魚出於丙穴」と伝えており、いずれも嘉魚の美味を述べている。丙穴とは中国の陝西省略陽県に大丙山、小丙山のふたつの山がある。その山麓に大きな穴があり、これがその地方の水源となっており、その水源が丙穴と呼ばれていたが、これをもって他の水源もすべて、水源そのものを丙穴と呼ばれるようになった。また水源地は嘉魚の養殖が行われることが多く、自然と丙穴と嘉魚はつきものとなったようである。
北海道の名物であるヤマメも上流にいる魚であり、一見するとイワナに似ているために時々これを混同してしまう人がいる。また『倭漢三才図会』では嘉魚がエノハであることを理解しておらず、鯇(ビワマス)と間違っており、さらにこの魚は「畿内西海未曾有の魚なり」と附記されているが、これも間違いである。近畿地方であっても西海地方であっても川の上流には必ず生息している魚だからである。日本では昔から嘉魚の名所は豊後(大分県)である。『倭漢三才図会』には「榎葉魚出豊後之河湖中以鯇大」とある。『古松軒西遊記』の豊後国の岡の城(現在の竹田市)にある
中国では「鰠」の文字に当たると思われる。『春山魚賦』には「石斑魚」をヤマメとしている。日本では一般に
ヤマメの形は鮎に似ているが、歯が尖り、背中は藍色で同じ色の斑点が両側にあり、腹の方は白く、肉の色もまた白い。背中から腹の間には、墨藍色の斑点が並び、白色のところには朱色の小さな点が鮮明に並んでおり、背や脇の鰭、腹下の鰭、尾前の鰭は全部が褐色である。尾は長くて分かれている。体は全体的に褐色であり細かな鱗がある。4,5月頃は3,4寸の大きさで形は美しい。7,8月から次第に成長して25cm位になると、朱点は乱れて薄くなり、墨藍色も退色して色が衰える。形はイワナに似ているので混同して間違える人がいるが、ヤマメの方が全体的に色が白く、かつイワナには縦の藍色のスジがない。口もイワナよりも尖っていて、形もイワナの方が大きい。骨もイワナよりも柔らかで肉の味も美味である。動物辞典にはヤマメを
官廟の公文書ではウグイをハエ、東北地方ではハヤ、関西では川ムツと言い、別に丸太、赤腹、イダ等の名前がある。至るところにある川に繁殖しているこの魚には、あらゆる別名がある。一見すると鯉に似ているが、肉に小骨が多く味も良くない。中国の彭淵材は「恨其美而多刺也」とあるのはこの事を言っているのである。4,5月頃の生殖時期には一時的に腹部が紅色となり桜イダの別名もあるが、この季節のものは味は良くない。
『一統志』には、周の武王が紂を討つときに黄河を渡った際、鯉に似た形の白魚が、飛び踊り武王の船に入った事が記されているが、これはウグイの事である。このように中国ではウグイは縁起の良い魚として歴史に登場している。沈約の記した『宋書』には、明帝が太始二年に華林園池に行幸した際に、白魚が船に躍り込んできたと伝えている。
また崔鴻の『十六国春秋』前涼錄には「金城の太守であった胡朂が謀反を起こしたため、狐瀏が遣わされて討伐に向かう際、黄河の中流を渡るときに白魚が船に躍り込んできた」との記録がある。
『庖丁書錄』では白魚を鱸であると説明しているが、鱸は海魚で、白魚には川魚のウグイが当てはまる。同じく
『庖丁書錄』には景行天皇が筑紫を行幸した時に「赤魚」が献上されたとあり、また聖武天皇の天平十五年に大宰府から腹赤魚が献上されたともある。この腹赤魚はウグイの事なのである。『庖丁書錄』には
『毛詩』には「九罭之魚鱒魴」とあるのを引用して腹赤魚は鱒であるとしており、貝原益軒の『筑前国続風土記』でも腹赤魚を鱒としているが、これらは全て間違いである。なぜなら九州には鱒はいないからである。よって景行天皇、聖武天皇に献上された赤腹魚は恐らくウグイである。ウグイの腹部が赤色に変わる事は前にも述べた通りである。腹赤の名前はこれが謂れである。この魚は温暖な場所を好み、穏やかな水中層に棲んでいる。産卵は4月から6月頃までの間であり、芦や藻などに産卵する。
味はナマズに似ているが、肉は柔らかであり一段劣っている。中国では色々な異名がある。『本草綱目』には鰄魚とあり、また黃顙魚、あるいは黄魟魚と呼ばれているのもこの魚である。『爾雅翼』には「今有黃顙魚與鮧相類」とあり、中国でもナマズの同類と見なされているのは日本と同じである。『酉陽雜俎』には「黄魟魚,色黃無鱗,頭尖,身似大槲葉。口在頷下,眼後有耳,竅通於腦。尾長一尺,末三刺甚毒」とあるのはギギュウを説明したものである。その棘はかなり鋭利で害敵は簡単に近づけない。人間がこの魚を捕らえる際にもかなり注意しなければ刺されることが多い。日本では湖や沼や川といった至る所に多く生息している。
この魚は海にも生息している。『本草綱目』には海のギギを「𫙬絲魚」と名付けている。( ※ 調査したが本草綱目には𫙬絲魚、および鰮絲魚という表記では見つけられなかった )
『和名類聚抄』( ※ この記述は『和名類聚抄』ではなく『和漢三才図会』に記述がある )には「加州浅野川に多くいて、その鳴き声は
ギギュウは琵琶湖に最も多く生息していて、湖畔の人はマラリアの解熱の特効薬であるとして春と夏の漁期に多く買っておいて、各家で焼いたものを筆耕に曝して、マラリア(この地方の風土病)に罹った時にこれを味噌汁にして食べるのである。この魚の特徴は子魚に愛情の深さである。5,6月頃に大川の本流から小溝に上がって来て産卵を行う。産卵後はその近くで見張り番となり、敵が卵に近づくとその棘を立てて追い払ったり、または卵を自分の口の中に隠して、敵が去れば吐き出したりするという変わった生態をもっている。淡水魚の中では子魚に対する愛情が深いギギュウに比較し得るのはトゲ魚ぐらいである。この魚は水中に巣をつくり、その中に子魚を入れて保護することが知られているが、日本では青森県の諸川、東京の多摩川の支流、井の頭の池、岐阜県の長良川にも生息していると言われている。
この魚は砂の中に生息し、ハゼに似ていて大きい。泳ぎ回る事はなく、水底で半ば砂の中に隠れており、そのため体色は砂に似た保護色になっている。中国で「鯊魚」というのはカマスカの事である。『詩経』小雅の魚麗には「鯊,鮀也」とある。また『本草綱目』には「鮀者,肉多形圓,陀陀然也」とある。ただし実際は頭は比較的大きく尾は細く、腹は白くて背中に斑紋がある。大きなものは20~25cmになる。他の魚の卵を食べることを好むため、他の魚の繁殖を妨げるとされている。シュンは2,3月の頃である。炙ったものを煮て食べても良い。あるいは膾にすることもある。
鈍九郎と呼ばれている魚は至る所の小溝に生息していてギギュウよりも味は劣る。ただし2,3月頃の季節に炙って食べると、肉の色は黄色を帯び脂肪が多く味も悪くない。中国の杜父魚と呼ばれているのもこの魚のことである。頭と口がかなり大きくで一見すると滑稽である。貪欲であり、動きは遅い。四季を通じて食べ物をあさり、どんな粗末な餌でも飛びつくので簡単に針にかかるような愚魚なので「鈍九郎」の名が適していると言えるだろう。『和漢三才図会』ではこの魚の漢名を「石斑魚」としているがこれは正しくない。石斑魚が日本では何という魚に相当するかは不明であるが、『本草綱目』には「白鱗黑斑。浮游水面,聞人聲則劃然深入」とあるように、この魚は浮遊性のもので、底魚ではない。「杜父魚」の方が適切であると言えるだろう。『本草拾遺』には「杜父魚生溪澗中。長二三寸,狀如吹沙而短。其色黃黑有斑」とあり鈍九郎の状態を言い表している。この魚はハゼ、カジカなどと混同されやすいが全くの別物であることを理解すべきである。京都でタンキ坊主、伊勢でトンコツというのはこの魚のことである。
日本で普通は川鮫と呼び、中国では鱘と言う。中国の古書である『周官』や『禮記』には「鮪」と書かれており、実際に「月令」には「季春天子薦鮪於寝廟」とある。『玉燭寶典』に「鮪者魚先之至者謹記其時榮堇」などとあるのを見ても、中国では特別に珍重されていた魚であることを理解できる。日本のように「鮪」の字を、海魚のマグロ、あるいはシビなどと理解するのは間違えである。淡水魚で毎年4,5月頃に群れをなして長江を遡上して、6,7月頃に川底の砂または水藻に産卵する。孵化した子魚は流れに従って海に入って生育する。ただし稀に淡水だけに生育しずっと海に下らないものもある。日本では石狩川、釧路川、西別川に生息している。中国では松花江、黄河に最も多い。黄河は孟津付近のものが有名である。『詩傳名物集覽』には「孟津の東、石磧上でこれを釣って取る。大きなものは千斤あまり、蒸して
我国の至る所にある川や沼に生息している浮遊性の小魚である。蝗、ワカサギ、桜ハヤ、フエフキダイ、トウシンバエ、赤バエ、アブラメなど皆、ハエの種類である。ハエには漢字の「鮠」を使うのは間違いである。『本草綱目』に「鮠生江淮間,無鱗魚,亦鱘屬也」とある。また鮠は海に産まれ、湖北省の石首で大きくなるものであって、本来は川魚ではない。鱶に似たノウソウ魚なのである。よって鰷が、所謂ハエに相当するようである。『本草綱目』には「鰷,長僅數寸,形狹而扁,狀如柳葉,鱗細而整」とある。貝原益軒は著書の『大和本草』で鰷を鮎としているが間違いである。鮎は中国では年魚、香魚、銀口魚の名前で長さは数センチしかないという魚ではない。『莊子』に「莊子観,干濠梁鰷魚,出遊從容,是魚樂也」( ※ 莊子が欄干から濠を見て言うには、鰷が泳ぎ回っている、これこそが魚の楽しみなのである )とある。『淮南子』に「不得其道若觀鰷魚望之可見即之不可得」とあり、これらはいずれもハエの泳ぎ回る姿を現しているといえる。
鳇は琵琶湖産のものが最も有名である。先帝は非常に好んでおり、この魚を珍重していた。シュンは3,4月頃である。腸に苦味があり、味は良いが鮎の腸のような香気と滋味を欠いていて、しかも骨が硬い。長良川に桜バエと言い、岡山県の津山に柳バエというものがそれに該当する。ワカサギはハエに似て、体の側面に淡い黒色の線がある。霞ヶ浦産のものが最も味が良い。シュンは12月から2月迄である。近年はこの魚を琵琶湖、山梨の河口湖などに移植したようであるが、味が薄く、霞ヶ浦産のものには及ばないようである。骨は鳇よりも柔らかいが肉の味は平凡である。中国で「公魚」というのがこの魚である。海水にも棲み、アラスカ、カムチャッカ、カルフォルニア、バンクーバー近海にも棲む。
長良川の桜バエには笛吹(フエフキダイ)、別名で
赤色で鱗の無い小魚で至る所の河川に生息している。普通は10~15cmぐらいの小魚であるが、山口地方のものは30mになるが、この地方はこの魚の育成に適した特別の環境がある訳ではない。 頭の形は猫のようであり、尼尾はナマズの尾に似ている。また胸鰭に鋭利な棘があるので敵を近づけないので、魚類の中では嫌われ者である。この魚には異名が非常に多くて、各地方で名前が皆違っている。岐阜ではハチナマズ、近江ではヒナマズ、信濃ではサソリ、丹波ではアカネコまたはネコナマズ、山城でウチギギ、越後ではハチウオ、長門ではオコゼ、荘内ではガバチ、羽前でアカネコ、安芸ではテンキリ、豊前ではアカジョウチンなどの名前がある。 貝原益軒の『筑前風土記』には𫙬絲魚の項目を設けて、これを赤ジンとして記しているようであるが、これは日本だと海水魚のゴンズイを混同した見解で誤りである。ただし淡水魚の赤ジンと、海水魚のゴンズイは同じナマズ科に属する同種の魚であるという学説もある。中国人の鯤と呼ぶ魚は、赤ジンの事である。シュンは夏である。
日本は古来から鶴を鳥類の中のお王とし、鯉を川魚の王とし、鯛を海魚の王として食品の三尊として重んじてきたが、鶴は乱獲の結果、今では日本はその影を見る事も出来なくなっている。鯉は近年になり養殖魚が川に入り込んで非常に多く繁殖したため、円筒形の真鯉はほとんど根絶されてしまった状態で容易に入手できないようになっている。ただ海王の鯛だけが依然として昔ながらの権威を食卓上で保っていることは誠によろこばしいと言えるだろう。鯛は古代から日本で貴重な魚であるとされ冠婚、大饗、寄贈などでは必ず用いられて、宮中三大節の大饗でも鯛の引き物が欠かせない。このように儀式用として重要視されているだけでなく、一般の饗宴などでも鯛が無くては料理は成り立たない程のものである。その外形には威厳があるが猛々しさはなく、色は鮮麗であり、その味には癖がなく甘賦にして淡白なものであることが喜ばれている。鯛は産卵後の5,6月頃は一時期、肉が衰え脂肪が落ちて「麦穀鯛」と呼ばれ味が最悪であるが、産卵前の3,4月の桜の開花時期の頃は肥満の頂点にあり、錦鱗鮮紅にして光輝を放っている。俗にこれを「桜鯛」と呼ぶ。
腸を 牡丹と申せ 桜鯛 (高井几董)
魚市や 旭日に匂ふ 桜鯛
津の国の なに五両せん 桜鯛 (榎本其角)
の句などが有名である。またエビスが鯛を釣ったことは有名であるが、にかにもエビスと鯛は釣り合いが取れていて富貴や円満の象徴であるように思われる。
鯛の名前は『日本書紀』に赤女、『古事記』には赤海鯽とある。中国では棘鬣魚、奇鬛魚、赤鬛魚などと呼び鯛とは呼ばない。これは歯の鋭さと鬣(背ビレ)の強さから漁師が恐れを抱いてこのような名がつけられたようである。源順が記した『和名抄』には唐の崔禹锡の『食経』を引用して「鯛は甘冷無毒、その形は鯽に似ており、紅鬛である」と述べているので、鯛がこの魚に該当することは明らかである。また虞棕の『食珍録』( ※ 調べると実際は楊華の記した『膳夫經』が正しい )にも「鱠莫先於鯽魚,鯿、魴、鯛、鱸次之」とあるので、中国でも鯛の字を用いる事もあるようである。また羽倉簡堂の『饌書』には『閩中海錯疏』に「棘鬛十月時を得たり。正月以降には味が拗くして食べるべきでないとあるので、棘鬛は真鯛ではない」としている。
日本では鯛の字が『延喜式』で始めて登場している。これから式例では鯛の字が用いられるようになっている。内膳式では、和泉の国から鯛、主計式には三河、志摩、紀伊、若狭、讃岐から白干鯛および鯛の塩づくり、筑前と肥後からは鯛
また長門國の『風土記』に「赤間関は赤女の魚である事から名付けられた、アカメノセキと言うべきなのを誤って赤間関という」とある。馬関は昔は鯛の名所だったようである。
鯛には多くの種類がある。真鯛、クダイ、ヘダイ、小正鯛、縞鯛、黒鯛など日本の鯛だけでも7,8種類はある。世界中の鯛の種類を合計すると24種類にもおよぶと言われているが、その外見の美しさについても、また味に優れてることについても日本産の鯛が第一である。真鯛は日本の沿岸至る所で獲られているが、瀬戸内海のものが最も有名である。鯛は冬の厳寒中には外洋の改定に生息し、4月頃の産卵期になると内海に入ってくる。海峡は潮流が激しいので、ここを通過して入って来るものは赤鬛金鱗となり頭骨に節を作ると言われ、肉の味も一番であると称されている。一般に鳴門鯛と言われるのがそれである。『饌書』に「従讃豫過鳴門而東者額上作瘤是曰峡鯛」とある。
また鯛は南方に最も多く、摂津や播磨の沖から、太陽を左にして西に向かう鯛は左身の方が偏って赤くなる。これを上鯛という。瀬戸内海には鳴門以外にも、豊後水道から入って来るものもあるのは言うまでもない。
また能地浦の「浮き鯛」とは『日本書紀』にも書かれており有名な話しである。今でも八十八夜の前後に瀬戸内海にある能地辺(糸崎から南西海上に20km)の沖合では鯛が腹を上にして浮き上がりながら水上に流されているのを網ですくいあげて捕らえるという簡単な漁法が行われている。これはその一帯の海が急に浅くなり流れが激しくなっており、水圧が高い深海から急に浅いところ迄来てしまった鯛の腹の中の浮袋が膨張してしまい転覆するのである。普通は浮袋の筋肉が萎縮して調整を行うのであるが潮流が早いために急に浅瀬に流されることになり、調整をする暇もなく、進退の自由を失い、死骸のようになって流されてしまうのである。こうした鯛を獲らえて肛門から竹串を刺して浮袋を破ってイケスの中で放して置くとやがて溌剌として動き回るようになる。この浮鯛は古来から不思議なものとされていて、口伝によると菅原道真の左遷の途上にも、平清盛が西に下る事になったと時にも、源義経の失脚の時にも足利尊氏が通過した際にも、この浮鯛が献上されたと言われている。 鯛は産卵後は餌を漁るために、秋までは浅瀬に棲み、水温が上がってくると9月頃から外洋に出てゆくが、鳴門から来た鯛は鳴門から出てゆき、豊後水道から入ってきた鯛は豊後水道から出てゆくと言われている。大きなものは90cm以上、10kg位のものがあるが、普通の食用には45cm位で1.5~2kgのものが適当である。中国では主に生食を行い、あまり他の料理にすることが無い。魚生と呼ばれる膾にして料理されることが多い。その料理法を以下に記載する。ヨーロッパではユダヤ人以外は鯛を雑魚であるとみなして食卓に載せることを好まない。ただ近年は日本を見習って徐々に食べられるようになっていると言われている。
【 備考 】
農商務省の調査によると、全国の鯛の水産高は、大正10年度に1万9,760t、1,835万円に上り、鰯、
鯛の加工品には、塩鯛、干鯛、揉鯛、粕漬、味噌漬、鯛田麩などがあり、鯛の調理法には刺身、潮汁、鯛茶漬け、フライ、アラ煮、泡雪蒸、鯛麺、鯛田楽、昆布締め等と数えることが出来ないが、味については塩浜焼を第一とすべきであろう。塩浜焼とは、まず鯛の新鮮なものを選び、内臓を取り去り、藁を編んで全身を包んで、これを塩釜で焼いた塩を壷に入れる前に、その焼き塩の中に埋めて塩で蒸し焼きを行う。そうすると塩は全身に程よく浸みわたり、生臭さが消えて肉が締まって香気が生じるようになり味が最も美味なものとなる。しかし鯛を焼く為に塩の味が変わる恐れがあるとして専売公社は塩浜焼を規制しているので、真正の塩浜焼を食べる事は困難なのである。東京で塩浜焼と言っているものは単純な塩焼きでしかないので、塩浜焼とは全然別物である。
【 註 】
塩浜焼に使われる鯛は、あまり新鮮なもの、つまり生きたものをそのまま用いるのは却ってあまり良くないという説がある。塩釜に入れる前に、約2時間ぐらいは日光に晒しておくのが普通である。
また室町時代に行われていた「大草流」の古い料理法に、大鯛の腸をエラのことろから切って内部を洗い、その腹中に塩を詰め込み、全身をヨモギの葉で編んだものに包み、その上から粘土で塗り固めてから、別に準備して置いた熱灰の中に埋めて蒸し焼きにする。塩浜焼に似て美味であるが、これは中国の豚の丸焼き、つまり「八珍」のひとつである の料理法から思いついた方法かもしれない。
中国人は日本人のように特に鯛を珍重する訳ではないが、
魚生は中国では秋に入ってから食べる料理であり、以下の材料を用意する。
【 材料 】
大鯛、大根、白菊、柚子、トウガラシ
酢ショウガ、酢ラッキョウ、茶瓜、シソ、コリアンダー
春雨、ピーナッツ、ゴマ、アーモンド、レモン、ゴマ油
熟油、食塩、コショウなど
【 作り方 】
鯛はなるべく薄く切り、清潔な布の上に並べて置き、水分を良く取っておく。大根も細く切り新しい布で強く絞って水気を切る。
トウガラシ、酢ショウガ、酢ラッキョウ、茶瓜、シソも細く切って、春雨は油で揚げ、ゴマ、ピーナッツ、杏仁は煎ってから粉末にしておく。柚子の実を一粒取り、レモンは汁と皮を擦ったものをつかい、これらを別々の器に盛って置く。
大皿を卓上に置いてまずは大根を皿の上に盛り、そこにそれぞれの材料を少しづつ振りかけて、最後に魚の切り身をその上に載せ、ピーナッツ、ゴマ、アーモンドの粉末を振って、春雨を細かくして入れ、食塩、ゴマ油、熟油、コショウ、レモンなどをかけて食べる。
この魚生の材料は、大根が3/10、魚が2/10、菊が2/10、その他の材料全てが3/10位の割合になるようにする。汁はなるべく材料にまんべんなくかかっていて、味があまり濃くなり過ぎないようにする方が良い。
蟹の産地として日本は有名である。水産量が多い事を見ても、また種類の多さにおいても日本に比較できる国はない。中国人が北海の大蟹と呼んでいる「蝤蛑」は日本の鱈場蟹(タラバガニ)と同じ種類のものである。『本草綱目』( ※『酉陽雜俎』にこの記述はある )には「蝤蛑の力は至って強く、夏の八月には虎と闘い、虎もこれに勝てない。故にその別名は「虎蟳」と云う」とある。また『異魚圖贊補』には「蟹有虎蟳蹣跚而行猙獰斑爛遂冐虎名」とある。ただしこれはタラバガニの力がなかり強いことから誇張された話であるのだろう。また『山海經』では『玄中記』を引用して「天下の大物、北海の大蟹が螯(はさみ)を挙げればその大きさは山のようであり、その故に水中に棲む」と述べている。『嶺南異物志』には「昔、海商が航海中に中洲を見つけた。林の茂みに舟をつないで岸に登り、水辺で炊事を始めたところ、なかば煮え始めたところで突如として中洲が動き出したのである。林は水没してしまい、いそいで舫いを切って船で漕ぎ出すことで何とか逃れることが出来たが、舟の上から詳細を見てみると中洲と思っていたのはなんと大蟹であった」とある。これも同様にタラバガニの事である。タラバガニは動きが遅く、背面に色々な海藻や樹木のようになっている腔腸動物などが付着しており他の生き物を欺く習性がある。中国人はこうした事実から、いつものように想像力を逞しくしてこのようなエピソードを作ったのだろう。
タラバガニ(鱈場蟹)と呼ばれているのは、スケトウダラの集まるところで鱈と一緒に捕獲されるからである。日本海、樺太、北海道、沿海州の辺りで捕獲され、甲羅は褐紫色、形は三角形で、前方が尖っていてその幅は30cmに達する。背面には棘が生えていて、体重は4kgに達するものもある。肉質は非常に美しく、缶詰にして英米に輸出され、年間で300万tに達していると言われている。アメリカ特産のロブスターの代用として用いられている。
冬は福井、石川、新潟の日本海沿岸で捕獲されたものが東京に非常に多く輸入されるようになっている。この形態は少し異なるがタラバガニと同種のものである。
ガザミ蟹は日本各地の沿岸の至る所で良く食べられている。甲羅は暗緑色でほぼ菱形である。左右の両端がかなり尖っていて甲羅の長さは30cmに達するものもある、甲羅の前にある足には細毛が生えており、最後の足はその末端が平たくなっていて、これで遊泳できるようになっている。昼間は体を砂に埋めてわずかに目や爪を出して他の小動物が近づいてくるのを待って捕まえて食べる。3,4月頃がガザミ蟹のシュンであり美味となる。中国人はこのガザミも蝤蛑と呼んでいるようである。『本草綱目』に「其扁而最大,後足闊者,名蝤蛑」とあるのはガザミ蟹のことである。
高足蟹はほとんどが200m以上の深海に棲んでいるが、春になると徐々に浅瀬に近づいてきて引網にかかることがあるが、浅瀬にくるものは比較的小さいもので、3m以上のものは深い所でないと捕らえられない。よって本縄に浮をつけて、本縄から枝縄を出してこれに餌を付けて釣り上げるより他の方法はないのである。春の産卵前には非常に美味となる。
大きな高足蟹に対して、蟹の最も小さいのは有明湾一帯の沿岸に生息している指の頭位の大きさしかない小蟹である。これは佐賀県ではこの蟹を捕まえて生きたまま壷に入れて棒で突き砕き、塩を加えて密封して塩辛を作る。酒客に供され佐賀地方自慢の珍味である。蟹の塩辛は日本中でもここ以外であるのを聞いた事が無い。中国の『潜確全書』に蟹醤の美味を説明している記述はあるので、中国には佐賀のような蟹の塩辛が存在するのかもしれない。また神奈川県の曾我にも特別な小蟹が取れ、これは「曾我の笹蟹」と呼んでいる。春のシュンの時期に炙って食べると香味があり非常に美味である。『饌書』には「駿河の慶溪、東肥の晝湖に指の頭ほどの子蟹が取れる。ハサミごと醤油で炙れば芳脆無倫である」とある。また江戸時代に参州が西尾藩の時に行われた献上品のなかに岩蟹というものがある。曾我の笹蟹、『饌書』の記載されている慶溪の晝湖の蟹と同種である。中国で彭螖と言われるものが、日本の岩蟹に当たるのではないだろうか。小蟹あるいは中型の蟹で奇妙なものは平家蟹、島村蟹、武文蟹などがある。これらは何れも甲面に眉や目口鼻の形があり悪霊の仕業かのようである。
平家蟹は、平家一門が寿永四年の壇ノ浦で全滅して化した蟹であると伝えられ、島村蟹は後奈良天皇が享禄四年の摂州「尼ケ崎の合戦」で島村弾正左衛門貴則の霊がこの蟹になったと言われており、武文蟹は「元弘の乱」に尊良親王の僕であった秦武文が戦死して化したものであると言い伝えられている。ただし中国にもこうした蟹がいるようで『野記』に鬼面蟹の名前が見られる。また『蟹譜』に「得背殻若鬼狀者,眉目口鼻分布明白」(甲羅が鬼のようで眉目口鼻の分布が明らかである) その他にも蟹には種類が非常に多い。ほとんど100種類に近くこれをいちいち取り上げることは難しい。よって最後に淡水産の津蟹についてだけ説明することにしたい。
津蟹は普通は川蟹と呼ばれ、関東から東北地方に生息しているものは量も少なく味も劣っているが、中国地方から九州地方に生息しているものは形も大きくまた美味である。中国で蟹と呼ばれているのはこの津蟹のことである。両手に屈強なハサミを持ち、足は8本で全てに尖った爪がある。ハサミ手には柔らかな毛が密集して生えていて、殻は厚くて脆い。時々脱皮して新しい殻に代わる。眼は外に突き出ていて、エビの眼のようで硬く、これを骨眼という。下腹には巻反った殻があり、一般的にヘコと言って、この部分が狭く長いのは雄、丸くて広いものは雌である。初春になり雪解けの頃に川の本流の奥深くの隠れ場所から這って出て来て動きはじめ、小溝や上流の方に上って産卵の準備を行う。この時期が蟹のシュンであり味が最高である。
夏にかけて産卵を終えれば秋から小川を下って本流に帰り、岩石の下や小洞窟の下に潜んで冬眠する。秋に川を下る時は産卵の大役を果たした後なので肉が落ち脂肪も減っており味は最悪の時である。俗にこれを「秋の穂拾い蟹」という。つまり蟹が田に上り稲を食べることを言っているのである。中国には稲蟹という言葉あり、日本の穂拾い蟹と同じ意味であるが一層念入りであり、『蟹譜』には「蟹至八月卽啖芒,兩莖長寸許。東嚮至海,輸送蟹王之所」とある。この着眼はかなり妙であると言うべきだろう。蟹を捕るには、川を上る春と、川を下る秋に
蟹のシュンについては多少の問題がある。中国人は晩秋が蟹のシュンであると心得ており、蟹の美味を説明するのに「霜蟹」と言う。『雨航雜錄』には「蟹は霜の後に食べるべきである」と書き、『仏書』にも「其散子後即自枯死,霜前食物故有毒,霜後将鰲故味美」(蟹は産卵後死んでしまう、よって霜の前には食い貯めするので毒がある、霜の後には熟すようになり、その味は美味である)とあるが、前にも述べたように秋は蟹が浅瀬から深い場所に帰り冬眠に入ろうとする時期であって、いわゆる秋の穂拾い蟹の時期にあたり、これが最も美味な時期であるとは受け入れ難い。晩秋で霜の降りる時期ともなれば肉味は幾分回復しているかもしれないが、冬眠を経て初春の頃にならなければ最高のシュンであるとは言い難いのである。また蟹は月光に照らされて水に映った自分の姿が醜悪なのに恐れをなして肉が落ちるが、それに反して闇夜では肥満するとして月明かりの場合は痩せ衰えると言い伝えられていて、『本朝食鑑』でも、中国の『本草綱目』や『異魚圖贊』などにも「蟹腹中之黃,應月盈虧」(蟹の中の身は月の満ち欠けに呼応する)と書かれており、また『廣東新語』には「蟹一月一解,自十八以後月黑,蟹乘暗出而取食,食至初二三而肥,肥則殼解。月皎時蟹不敢出,則瘠矣」(蟹は十八夜以降、月が暗くなって行くに従って暗闇の中を活動し餌を取り食べ肥えるが、月が満ちるに従い蟹は活動しなくなり身は痩せるてしまう)と論じている。 これに関しては水産学専門の岸上理学博士もその著書『趣味の魚』で、イギリスにも同じような言葉があるのを引用し、光と食べ物に何らかの関係があると論じられているが、これらは取るに足りない妄説であって、蟹の肥えたり痩せたりする事には月の光は何ら関係ないとしている。春は月夜でも闇夜でも同じように肥えており、秋になると闇夜でも月夜でも同じように痩せているとしている。ちょうど月の光は秋に最も澄み渡るようになるので、蟹の痩せているのと符合してしている為に、原因が月の光のせいであると思われているとしている。
蟹について中国で最も早くから正史に登場しているのは『逸周書』王會解であり「成王の時代に海陽大蟹を献じた」とあり、また『典籍便覧』( ※ 出典は『洞冥記』ではないか )には、「善苑國嘗貢一蟹,長九尺,有百足四螯,因名百足蟹。煮其殼,勝於黃膠,亦謂之螯膠,勝於鳳喙」とあるが、これは日本の高足蟹と同じ種類の蟹のことについて述べている。
古来から蟹の美味は称賛されおり、今でも詩人、酒飲みの間では「
【 謝路憲送蟹(宋·曾幾)】
從來歎賞內黄侯
風味尊前第一流
などと歌われ、また「右手持酒杯,左手持蟹螯」( 右手に酒の盃を持ち、左手には蟹の爪を持つ )の言葉は贅沢な人物の理想の生活であり、また男の本当の気持ちあらわしたものであると言われており、何疏の食疏にも、『太平御覽』弘君食檄にも、處棕の記した『食珍録』にも、蟹の美味について称賛しないものはない。昔、唐の仁宗の内宴で新蟹の饗宴が行われた。皇帝がその価値を尋ねたところ、箸を付ければ銭28000を費やすと聞き、これほど高価なものは自分は口にするには忍びないとして箸を置いたとのエピソードを見ても、蟹が中国で貴重とされていることが理解できる。
春の蟹で生きたままのものを選び、水気を取り4,5時間風にあてて、酒粕12g、塩28gを酢で少し割り、合わせたものに漬け込んでおく。味が非常に良くなる。
春に生きたままの津蟹を洗ってすり鉢に一匹ずつ入れて、入れるたびにすり鉢で打ち砕く。こうして10~20匹を砕いたものに水を混ぜて裏ごしにしてから鍋に移し、少量の塩と4cm位に切った高菜を入れて火にかけ、沸騰すると蟹の肉は水と分離して高菜を芯にして周囲に凝固して、黄色い豆腐となって浮きあがってくる。これに醤油を加えて味付けをして碗に盛る。風味は軽淡でありながら滋味がある。ここで注意しておくべきなのは秋蟹では固まらないので、蟹豆腐には使ってはならない。また『大和本草』に「蟹を集めて、つつき砕いて布袋で汁を絞り出して肉団子にして煮て食べる」とあるのは、この蟹汁の事である。
日本の近海であれば大概はどの地域にも生息している。背中は淡蒼色で腹部は淡白色である。いつも淡水の混ざる所で、海底の砂が多くて海藻が多く茂っている場所を好んでいる。稚魚をフッコと呼び、さらに成長したものをセイゴと言い、成長したものがスズキとなる。体長は1.2mに達するものもある。幼魚は初夏になると川や湖に遡上して淡水に生息するものが多い。秋になると海に下るようになり淡水に戻ることは無い。常に小魚や海藻を貪欲に食べる。
日本の鱸の名所は非常に多く、越後の名寄、常陸国志、豆州志稿など、各々その地方の産地の良さがある。『筑前土産志』には千年川、遠賀川、黒島大渡川が記載されており、『本朝食鑑』には淀川、宇治川の鱸が美味であると挙げられており、他にも播磨、紀州、伊勢、尾張、参州、遠州、豆州、相模、江戸、房総での漁が盛んである事も説明されている。だが誰もが一致して挙げる鱸の産地とするならば松江の「宍道湖」を推さなければならないだろう。『古事記』には天孫降臨の時代の出来事として、出雲国の小濱に天之御舍を造り、たくさんの料理を奉った。その際に
また松江城は「呉松城」とも呼ばれているが、これは中国で鱸が有名な呉の松江にあやかって、日本で鱸が有名なこの地も、松江と名前が付けられたからだと言われている。このように松江の鱸は味においても優れており、また大きさにおいても余裕で1.5mに達するものもある。夏の間は湖の中に入って釣ったり網で捕らえ、10月以降は宍道湖と中海とをつなぐ流れの早い場所に網を仕掛け、魚が湖から海に下るところを獲るという。
中国の鱸と、日本の鱸は同じものであるのか?あるいは同名の別物であるのか?この問題は日本の分類学者の間で長らく論議されてきた。
名前が同じで種類も同じ場合もあるのだが、同名でも種類が異なっているという場合もある。実は中国では「鱸」の文字を2,3種類の魚の名前に使っている為、こうした疑惑が生じていることになっているようである。『談苑』に「松江鱸魚,長橋南所出者四鰓,天生膾材也,味美肉緊切,終日色不變,橋北近昆山,大江入海所出者三鰓,味帶鹹,肉稍慢,迥不及松江所出」とあり、『江南魚鮮品』には「有鱸魚巨口細鱗味甚腴長至二三尺者又有菜花小鱸僅長四寸而四鰓產松江蘇子所謂松江之鱸也」とある。
『談苑』で述べられているような、橋北という地で捕れる鱸は巨口細鱗とあるので、日本で捕れる鱸と同じものである。また蘇東坡が「赤壁の賦」で言及している巨口細鱗の魚も、日本の鱸と同じである。
これに対して『江南魚鮮品』で菜花小鱸、つまり松江の鱸とされているものは、日本の鱸とは似ても似つかないまったく別種のものである。この魚について『正字通』では「鱸巨口細鱗似 長数寸」とあり、『本草綱目』にも、鱖魚(ケツギョ)に似て長さ四五寸とあるが、この種の魚は日本の魚にはいない。『日本魚譜』に「アユカケは日向の渓谷に産する。杜父魚(鈍九郎のことである)に似ており、黄色で黒い斑点がある。鋭い棘を持っていて鮎を引っかけて食べる、故にアユカケという異名が付けられている」とある。この魚は松江の鱸に近いようだが、キギュウのことは東北地方でアイカケと呼ばれているので、この日向の渓谷のアユカケという魚も恐らくキギュウの一種ではないだろうか。また『皇和魚譜』に「ミコウオは丹波の亀山に多い。藻魚に似ておりエラの両脇に小豆大の緑色の点があり、非常に美味である。鱖魚(ケツギョ)の一種かもしれない」とあるが、これは、にわかに信じがたく、むしろヤマメに近いものでないかと思われる。
このように中国の「松江の鱸」は、日本の鱸とは全く別種のものである。『和漢三才図会』の鱸魚の図をみると、口元が角ばっている藻魚として描かれており、淡水魚のメバルやオコゼの種類のようである。しかもこの魚は中国人の誇る川魚で非常に珍重されている。
かつて魏の曹操が客を招いて種々の美味を供した時に、「ここに揃っていないのは松江の鱸だけである」と言うと、左元放という仙人が銅盆に水を入れ、仙術を使って鱸を盆の水の中から釣って出し一座の人々を驚かせたという有名な伝説があるが、これからも中国人の鱸に対する憧れの程を見ることができる。また『隋唐嘉話』に「吳郡獻松江鱸,煬帝曰:所謂金齏玉膾,東南佳味也」
(隋の煬帝の時呉郡から松江の鱸魚を献上したところ、帝が「いわゆる金韲玉膾、東南の佳味である」とほめた)とあり、鱸が美味であることを称賛している。
李白は「此行不為鱸魚膾」(この旅は、美味であると評判の鱸の膾の為に行くような旅ではない。)と詠んでいる。また晋の張翰(ちょうかん)が官途について都にいたとき、秋風が起こるのをみて急に揚子江下流の故郷呉の地のジュンサイの吸物と鱸魚のナマスの味を思い出し、官を辞して故郷に帰ってしまったという「蓴羹鱸膾」という故事に対して、趙嘏は「鱸魚正美不帰去」(故郷ではちょうど鱸が美味しい季節になったけれども私は帰らない)と詠じている。
また鱸について最も良く述べられた、楊誠斎の記した次のような詩がある。
「鱸出鱸郷蘆葉前、垂虹亭下不論錢、買來玉尺如何短、鑄出銀梭直是圓、白質黑文三四點、細鱗巨口一雙鮮、春風已有真風味、想得秋風更迥然」
この詩を見ると如何に中国人が松江の鱸を貴重なものと見なしているかを良く理解できる。シュンの季節は「秋風鱸魚之膾」とあるように8,9月頃であるとされている。料理方法は主に薄切りにして膾とするが、その膾の中でも洗って膾にするようなので、これは我国の鱸のアライを造るのにも似ていると言えるだろう。『大業拾遺』に「鱸魚鱠須八九月霜降之時收鱸魚三尺以下者作乾鱠浸漬訖布裹瀝水令盡散置盤內取香柔花葉相間細切和鱠撥令調勻霜後鱸魚肉白如雪不腥所謂金虀玉」とあることからもそれを理解できるだろう。
日本の鱸のシュンは5月から9月頃までの間である。昔の料理方法は『大草家料理書』に「川鱸料理の事、ただし刺身が最も良く、酢塩はショウガ酢が最も良い。また煎り酒はなかなか良いが、芥子酢はあまり良くなく、汁にするのであれば潮汁(うしおじる)が最も良い。
海鱸は汁にするのが最も良い。刺身はその次である、調味は川鱸と同じ順序である」とある。最近は刺身を洗い膾(アライ)にすることが流行している。
その方法は、
生きたままの鱸を選んで鱗を取り、腹を開いて腸を抜き、腹の中を良く洗って三枚におろす。薄身を除いて皮を取り去ってから薄く肉を削いでザルに取り、なるべく硬質の冷水を注ぎかけ、肉が縮んだところで皿に盛り、潰しワサビと醤油を添えて食卓に出す。醤油あるいは煮出し汁を入れ、あるいはケシ酢と言ってケシの実を磨り潰したものに味醂と酢を加えたもの等を作っても面白いが、生醤油が最上である。この他にも鱸の吸い物、蓼酢味噌などがあるが、良く知られているのでこれは省略する。
鮫は温帯から熱帯に至るまでの海洋に生息していて、凶暴な性格でかつ貪欲である。多くは他の魚類を餌としている。近畿地方よりも西側、九州地方ではフカと言い、東京、東海、北海道ではサメと言うが、北陸ではワニと呼ぶ。中国では「魴」と言い、『台湾府志』でも魴の字が使われている。『本草綱目』には「古代はこれを鮫と言っていたが、今ではこれを沙魚という」と記してある。体全体は円錐形をしていて、尾は湾曲していて刀のような形である。エラは体の側面にある。種類はかなり多く、日本に生息する主なものを以下に挙げる。
白鮫
鮫の中で大きさが最も小さいものである。麦が熟する頃に漁獲が増えるのでムギワラザメという別名もある。
東部の両端が突起して撞木状(ハンマー状)になっている。突起の先端に眼があるので視界が広いという利点がある。性格は狡猾であるがその肉も鰭も味は優良である。
青鮫
体長は3m以程であり体は青く、腹の部分は白い。性格は凶暴であり、時として漁師を襲うこともある。東北地方、北海道に多い。
ウバ鮫
サメ類のなかで最大のものであり、体長は10mに達するものもある。日本では紀州沖に多い。
猫鮫
頭が大きく猫の額のようであるのでこの名前で呼ばれている。
この他にも大小様々な鮫の種類があるがひとつひとつを取上げて語るのは難しい。鮫の特徴は胎生であるという点である。一胞に一つの子が卵から生まれ子のヘソに紐が繋がっているものもいる。また母体から大小様々に複数の子が生まれ、母に従って遊泳するが、驚くとすぐに母の口から腹に入って隠れる。『福州志閩書』などにも「初生随母浮游見大魚縦母口入腹須臾復出」とある。
鮫の用途は非常に多く、皮は刀の柄の飾りに使われ、オヤザメ、サントメ革など種々の品質に差がある。中国でも同じように刀の柄に鮫皮が使われていた。楊慎の『異魚図賛』には「虎が老いると海に入り化して鮫となる。故にその皮は凹凸があり、それをもって弓刀を飾るべきである」と述べられていると述べているのは奇抜な見解であると言えるだろう。『八閩通志』には「鮫鯊,鼻長以蛟,皮可飾劍靶」と記してあり、『太平廣記』には「鮫魚出合浦,長三丈,背上有甲。文堅彊,可以飾刀口」とある。また刀の
また魚皮と呼ばれる中国料理の材料は、鮫の皮を剥ぎ取り湯に浸した後にタワシでサメハダを取り除いてから十分に乾燥させ日干しにしたものである。同じく魚肚とは鮫の胃袋を乾燥させたものである。
魚脆または明骨と呼ばれているものは鮫の軟骨の製品である。その製法は、一度熱湯でにてから冷水に浸し、軟骨を覆っている石灰質および筋肉などを削り取り、再び煮て天日で乾燥させて作られる。
また魚翅と呼ばれるものは中国人の食品の中で非常に貴重な部分である。その製法は、まず良く水で洗い、鮫の鰭を肉の付け根から切り取り、熱湯に浸し、その後に湯から取り出して表皮を取り除き、庖丁で切開する。中央にある骨は取り除き、先に述べた明骨として加工する。左右両側の翅の部分を取り、それを煮籠に入れて70℃ぐらいの湯で30分程煮てから取り出し、竹ササラで翅筋に付着しているヌメリを掻き取ってから十分に洗浄を行いザルにあげて乾燥させたものが製法で最も良いものとする。
魚翅は『閩書』には「鯊翅」とあり、『日本雜事詩』には「鯊魚翅」と述べられている。黄色と白色の二色であり、透き通って光がある。長さは3~6cm位で、頭が尖っていて針のようであり、食べると硬いが脆く味は淡白である。黄色のものは日本では金針、金スジ、金ビレ等と言われており、中国の『肇慶府志』にある「金絲菜」とはこの事である。白色のものは日本では「銀針」、別名で「銀ビレ」などと言われていて、これは『廣東新語』にある「銀絲菜」のことである。
日本の鮫料理は、鮫の酢味噌である。鮫の肉を細かく刺身にして、それをザルに入れて熱湯をかけてゆがき、水気を切って皿に移して、酢味噌を添えて出す。その他にも鮫肉はよく蒲鉾の材料として用いられている。魚翅料理は中国で最も珍重される料理である。以下にその料理方法をふたつ取り上げておく。
①
材料:魚翅280g、湯に浸して良く洗ってその筋を細かく分ける。生大根140g、魚翅と同じ長さになるようになるべく細く切る。鶏スープを1升、生姜8gを刻む。
一日前に鶏スープでトロ火で6時間煮ておき、翌日は別の鍋で大根と生姜を強火で一時間ほど水煮して、大根の臭いが無くなるのを見計らって、杓子ですくい出し、魚翅の鍋に入れてトロ火で2時間煮る。醤油で味付けをして椀に盛って提供する。
②
材料:魚翅200g、湯に浸して良く洗いその筋を分けて置く。ハム肉70gを細長く切る。豚の赤肉70gを細切りする。鶏肉70g、鶏汁1升、生姜8gを刻む。
まず魚翅を鶏スープで、トロ火で4時間ほど煮る。それから豚肉、ハム肉、鶏肉を加えて3時間ほど煮て、塩と醤油で味付けする。
イカは頭足類に属する軟体動物であり、身にひとつの小舟の形をした骨がある。その骨は軽くて水に浮かび白色で、「海螺蛸」という。『和方書』に「白龍」とあるのはこれである。足は10本でその中央に口がある。2個の角質で出来た顎があり、これはあたかも小鳥の
中国にはイカに様々な異名があり、『水族加恩簿』には「甘盤校尉」、『通雅』には「銀瓶魚」などの名がある。『南越志』には「イカは鳥を好み、常に海上に浮かんで横たわっている。鳥は死んでいるものと思い込んでやって来てイカをついばもうとすると、急に足で鳥を水中に巻き込んで食べてしまう」と述べて、烏賊という名前の由来について説明している。またその形の異様さからか伝説も多い。『爾雅翼』では「九月寒烏入水,化為此魚」(九月になり寒くなると鳥は水中にはいり、イカになる)と言い、陶隠居は「昔秦王東游,棄算袋於海,化為此魚。故形猶似之,墨尚在腹也。」と述べている。それが秦王が捨てた袋かどうかは別にして、墨が腹にあるのは事実であり、この墨はイカにとっては攻撃と防御の唯一の手段なのである。 小魚、エビなどの獲物を追うとき、捕まえにくい場合には墨を吐いて水を黒くして、小魚などが迷うようにさせ、また強敵に逢えば自ら墨汁の中に隠れて危害を逃れるのである。しかし漁師はイカのよりも一枚上手であり、水が濁るのをみてイカの居場所を知り網を投じれば容易に捕らえる事ができる。また水の濁りをみてイカを捕るのは漁師だけではないようで、蘇軾は『正字通』魚説で「海之魚,有烏賊其名者。呴水而水烏。戲於岸間,懼物之窺己也,則呴水以自蔽。海鳥視之而疑,知其魚而攫之。嗚呼!徒知自蔽以求全,不知滅跡以杜疑,為窺者之所窺。哀哉」と述べて、イカの浅知恵を通して無知の人間を風刺しているのではないだろうか。
イカの墨汁で字を書けば、はっきりと字が紙に写るが、日が経つと墨の跡が消えて白紙となるとして、中国ではこれを利用して財産に関する詐欺が行われたことが種々の書物に伝えられている。『太平廣記』には「人或取其墨書契,以脫人財物。書跡如淡墨,逾年字消,唯空紙」とある。ただしこの墨汁は全く無益ではない。西洋の絵具にあるセピア色はイカの墨から取られているのである。
イカは種類が非常に多く、日本産の主なものには真イカがある。10本の足の中で、2本だけが長く、体は蒼白で紫褐色の斑点がある。日本で多く食べられているのがこれである。ヤリイカ、また剣先イカと呼ばれるものは体が細く、肉鰭は三角形をしていている。体長は50~60cmに達するものがある。多くは乾燥させて剣先スルメとなるが、これはスルメの中の優良品である。中国で柔魚の言われているのはこのイカの事である。『異魚図賛』には「柔魚以墨魚而身長須脚皆相似腹亦有墨獨中軟骨為殊生食不及肺」とあるので中国にもスルメは作られているようである。アオリイカはイカのなかでも非常に大きいものである。体長は1mに近いものがある。体は楕円形で肉鰭も非常に広い。生食およびスルメにして食べられる。スルメイカは体が円錐形で肉鰭は三角形である。常に大洋の下層に生息しているが日暮れおよび夜明けに上層に浮き上がり水面を跳躍する習性がある。多くはスルメにされる。蛍イカはイカの中でも最小であり、体長は6cm以内である。夜間に発光するのが良く知られている。富山湾の名物として有名である。
イカ料理には種々の調理方法がある。イカ膾、イカ味噌、木の芽和え、イカの付け焼き、イカの五目蒸などが知られている。春の木の芽はイカの旬と一致するので、この料理方法が最も調和した組み合わせであるようである。付け焼きは一晩位醤油に浸しておく方が良い。焼き方に関して注意すべき点は成るべく強火で行う事である。イカの製品はスルメが第一であり、イカ卵、イカの黒作り、イカ醤などがある。スルメは種々あるがスルメイカの肉鰭や外皮を取り除いたものを磨きスルメと呼ばれ、スルメの高級品とされている。これは大分県の佐賀関の名産である。黒づくりは越前、加賀、越中、相州小田原などで良く作られている。
【 参考 】
スルメは中国の書物に脯鮝または螟乾とある、製法は日本と同じである。現在では日本のスルメは中国に多く輸出されているが、その製法は始めは中国から伝来されたようである。
本文中にイカ卵とあるのはイカの卵巣、つまりイカの乳と呼ばれているものを取って、糸につないで竿にかけて10日間位日干しにしたものである。これらは中国での需要が非常に高い。中国の『本草経』に「烏賊子腸有補腎之功」とあり特別な滋養があると述べている。
タコは軟体動物の頭足類に属し、腹部は太く頭に大きな眼を持ち、8本の長い触足は直接頭部に繋がり、触足には2列の吸盤が付いている。足のつけ根の中央部に口があり、白皮に包まれている。その形はイカの
タコの一種に
西洋人はタコの形の奇妙なことを嫌い、海の蜘蛛と呼んで食べる事はしない。中国人もその形が異様であるとして嫌っているが食べている。その事が『格致鏡原』の中にある閩部疏に「鱆魚形雖不雅而味美於烏賊」という記述から分かる。
タコを最もよく食べているのは日本である。
飯ダコのシュンは、1,2月から3月頃までとし、真蛸のシュンは3月から9月頃までである。飯ダコは湯がいたものを酢味噌で食べるのが普通である。真蛸は酢ダコにするのが最も多い。その他にも桜煮、水章魚、タコのゴマ味噌和え、芋章魚など種々あり、良く知られている。タコの傳法煮というものはタコの煮返し料理であるが、これにはひとつの伝説がある。かつて小石原傳通院の僧侶であった某という者が密かにタコを煮ていたが、突然の信者の訪問があり、煮かけていた鍋を庭に持ち出して四斗樽で覆って、その臭気を隠した。翌日になって煮て食べると柔らかくて味も美味であった。いわゆる傳法煮はここから始まったとされている。その他、タコの製造食品には、酢漬けタコ、乾しダコ、削りダコなどがある。
タコはその形の奇妙さとともに、習性も奇妙であり、またその漁法も奇妙である。夏から秋にかけて30cm四方の板の上に針を付けて、魚の肉を餌として板の下に石をさげて、板に網を付けて、岩礁の間を引きずる時に、タコが板の上にある餌を食べようとして遠慮なくその板に乗ってくる。この時に網を引き上げて捕らえるのである。また1.5m程の竹竿の先に赤色の木綿の布切れと、8cm位のフグを付けて置き、この近くに銅製の魚釣針を4,5本並べて結び付けて置き、これを水中にいれて動かしながらタコを誘導して釣りだすのである。また蛸壺と呼ばれているもは、深さ30cmぐらい、口は15cm位の壷で、これを数十個を網で繋いで海底に沈めて置き、時間を置いてから引き上げると、タコは壷の中が屈強な城と考えてか、どんなに揺すっても決して出てくることがなく、そのまま引き上げられてしまう。
ボラは日本、韓国および中国の沿岸に多く生息しており、他の地域では紅海にも生息しているという。体は長くかつ円筒形で頭部は扁平である。背中は暗灰色で頭部は銀白色である。冬期になると少し黄色味を帯びるようになり、体側には淡黒線が走っている。体長は60cm以上に達するものもある。常に水の寒暖を追って群れをなして沿岸を転々として、外洋には出ることが無い。寒中には眼は白い膜で覆われ、湾内や河口などに群れて棲み、寒が明けると産卵を行う。卵はかなり微細で肉眼では見るのは難しい。卵巣もまた非常に小さく、注意しなければ見つけられない。故に昔はボラには卵がなく、泥の中から生まれてくると信じていた人が多くいた。産卵が終わると、所々に散らばって餌を食べるようになる。稚魚は春に孵化して、すぐに淡水に入り、少し成長すると再び海に下って棲むようになるが、さらに成長すると再び河川に戻ってきて餌を食べる。餌は泥土の中の有機物で、泥と一緒にそれらを食べ、特別な構造をしている胃袋で摩擦して消化を行う。ボラの胃の中に臼と呼ばれている器官は消化のためのものである。ボラは成長によって種々の名前に変化する。最初はオボコ、2年目のものをイナ、3年以上のものをボラと言う。
日本におけるボラの名産地は、『本朝食鑑』によると「伊勢之鳥羽,桑名之海濱,多採之其美者,余州不及全無泥味,土州泉州産亦多不及勢州」(伊勢の鳥羽,桑名の海濱で美味なボラが多く獲れる。他で獲れるものと比べて泥味が無い。土州あるいは泉州産でも多く獲れるが、伊勢産には及ばない)とある。ボラは前にも述べたように泥土を常食としているが流水または海にいるものは泥味がない。池や沼、特に養殖ボラは泥臭くまつ不味いので食べるに堪えられないものが多い。中国では南方でボラが貴ばれているようで、『雨航雜錄』には「介象與吳王共論魚,以鯔魚為上」(孫権「呉王」が臣下と一番美味しい魚について議論している時、介象はボラだと答えた『呉書・趙達伝』)とある。また王荊公の詩に「長魚俎上通三印」(俎板の魚は三印に通じる)とあるが、これはボラについて述べているものである。また『大観本草』に「鯔魚味平無毒,主開胃通利五臓久食令人肥健此魚食泥,興百薬無忌以鯉身圖頭扁骨軟生江海浅水中」とある。
ボラの子でカラスミを作るという事は、中国でも日本でも共に思い違いがされているようで、『本草綱目』に「生東海。狀如青魚,長者尺餘。其子滿腹,有黃脂味美,獺喜食之。吳越人以為佳品,腌為鯗脂」とある。鯗脂とは日本でいうカラスミの事である。
同じく『和漢三才図会』には「三四月鯔子連胞乾之形以墨而大褐色味甘美然勢州土州之鯔有余国之産有子稀也偶取得為珍故多以馬鮫魚子為之」とある。
また『本草綱目啓蒙』にも「鯔の鮞胞を繋げたままで乾かしたものをカラスミという。このカラスミは馬鮫魚のカラスミと形は同じであるが、黄赤の色で脂身が多く甘味であるlと述べられている。ボラの卵巣は前に述べたように非常に小さく到底カラスミとして作れるものではない。実際はボラに属する魚で、形が鯉に似ているメナダと呼ばれる魚であり、またの名を赤目鯔とも言う。大海の魚であり卵巣を持っている。カラスミは実際はこのメナダの卵巣なのである。
ボラのシュンは秋から冬にかけての3,4ヶ月である。春に入ると全くの無味となる。『閩中海錯疏』にも「冬深脂膏滿腹至春漸瘦無味」とある。また頭の骨は柔らかく、頭にも味があるので、煮物、焼き物にしても決して頭を捨ててはならない。料理方法は、塩焼、ボラの酢味噌、ボラの芥子和え、ボラの味噌汁、イナの背越しはどれも悪くはないが、ボラ料理としては丸ずしを第一とすべきであろう。その製法を以下に記すことにする。
秋イナの新鮮なものを選び、まずは鱗と鰓を取り除き、背開きをして腸を出して背骨を取り除き、毛抜きでわたの小骨を抜き取り、ハサミで鰭を切って塩水で汚れた部分を洗浄し、よく水分を取り除いてから皿に入れて塩を振りかけ、3時間位おき塩水を取り去ってから酢に浸して肉の色が白くなるのを待つ。ご飯を炊いて温かいうちにボラを浸しておいた酢をかけて、手早くかきまぜて冷めるまで待って押フタをして上から重石を載せて、一晩位おいておいたものを輪切りにして皿に盛る。
ボラの鮓とされるものが『本朝食鑑』にある。そこでは「京師江都同作鮓味最可 好作膾亦美難波泉界號日江鮒傳送于京師或以次于之鮒鮓」とあり、良くボラ鮓の味が知られていたと思われる。
ボラの養殖は魚の中でも最も簡単であり手間もかからない。日本でも堅田の養魚池や港湾の溜り水などあらゆるところで養殖されている。中国の『彙苑祥註』に「人於潮泥地鑿池仲春潮水中捕盈寸者種之秋而盈尺腹背皆腴池魚之最海中亦有之味不及也」と述べて養殖が簡単であると述べている。文中に赤目面円とあるのはメナダ、つまり赤目鯔と混同しているようである。
きちんとして養殖池を作ろうとするならば海岸の荒れ地を開いて、土堤には水門をつくって海との行き来を便利に出来るようにして、かつ金網で魚の逃走を防ぐようにする。池の深さは1.5m位にして中央に浅い場所を作り葦などを生やしておく。池の底は泥土である必要がある。決して砂砂利などを使ってはならない。春のお彼岸の後、30~40日の間に、一坪にボラの子を20匹の割合で池に放すようにする。餌は泥土40kgに米ぬかを4kgの割合で混ぜて水中に入れる。5,6月になって魚が2,3寸ぐらいに成長すれば米ぬかを与えるのを止めて、時々、粘土および麦糖を少しづつ与えるようにする。冬になれば30cm程に成長するので市場に出荷できるようになる。