図からも分かるように、一部のセファルディムたちはイギリスにも移住している。こうしたユダヤ人たちがイギリスに伝えたのが今やイギリスを代表する料理となっているフィッシュ&チップス(Fish and Chips)である。パニコス・パナイー著の『フィッシュ・アンド・チップスの歴史-英国の食と移民』では、フィッシュ&チップスという料理がどのように英国に伝えられ、どのように見なされてきたかについて明らかにしている。実はフィッシュ&チップスはユダヤ人移民の料理であり、かつては労働者階級と貧困を象徴するような料理だったことが同書では明らかにされている。
【 Oliver Twist 】
Near to the spot on which Snow Hill and Holborn Hill meet, there opens, upon the right hand as you come out of the city, a narrow and dismal alley leading to Saffron Hill. In its filthy shops are exposed for sale huge bunches of second-hand silk handkerchiefs, of all sizes and patterns—for here reside the traders who purchase them from pickpockets...
Confined as the limits of Field Lane are, it has its barber, its coffee-shop, its beer-shop, and its fried-fish warehouse. It is a commercial colony of itself, the emporium of petty larceny,
フィールドレーンのエリアは貧困、犯罪の温床地だったらしく、1841年にアンドリュー・プロヴァン(Andrew Provan)という宣教師がこのエリアに入り、子供や若者に教えるために学校を始めて貧しい働者階級の地区の子供たちへの無料教育を行っている。こうしたエリアの子供たちは外見の悪さと、挑発的な行動を取ることから普通の学校から除外されていたが、慈善団体を立ち上げて彼らを受け入れ教育を施したのである。そうした学校は「Ragged school」と呼ばれた。
当時のフィールドレーンにあったこの学校には1つの巨大な教室しかなく、そこで毎日500人以上の子供や若者に教えていたと記録されている。こうした記録は『The Field Lane Story』にあるので、関心ある方はぜひ参照することをお勧めする。
【 The Art of Cookery 】
サケかタラ、あるいは何でもよいので大ぶりの魚を用意し、頭を落とし、きれいに水洗いし、クリンプト・コッド(生きた状態のタラをさばいて、しばらく塩水につけてから茹でたもの)を切り身し、布巾でしっかりと水気をとる。小麦粉をまぶし、溶き卵をつけ、たっぷりの油で揚げる。きれいなきつね色になれば、揚げ上がりである。取り出して油を切り、しっかり乾いて冷めるまで待つ。
【 A Tale Of Two Cities:二都物語 】
Hunger rattled its dry bones among the roasting chestnuts in the turned cylinder; Hunger was shred into atomics in every farthing porringer of husky chips of potato, fried with some reluctant drops of oil.
ここでディケンズは「chips of potato」という語を用いている。1998年刊 Oxford Press版『二都物語』の注釈には、「切ったジャガイモを揚げたものを表すのにチップス(Chips)という言葉を用いた最初の例ではないか」とあり、この時代頃からジャガイモを揚げた料理を一般的にチップスと呼び始めたのではないかと考えられる。
もともとジャガイモを主食として消費していたアイルランド人がイングランド北部に移り住み、そこで様々なジャガイモ料理を持ち込んだ、あるいは新しいジャガイモ料理を試したことから、ランカシャーはジャガイモを消費する主要な地域となったと思われる。こうした社会的な背景から考えても、ランカシャーでチップスが生まれたとするのも納得できる理由にはなっていると言える。料理史研究家のクローディア・ローデン(Claudia Roden)は『The Book of Jewish Food』P114のなかで、ユダヤ人のフライド・フィッシュのビジネスが、アイルランド人のポテトショップと合わさって、移民によってフィッシュ & チップスが誕生したと述べている。
チャールズ・ディケンズが1859年刊の『二都物語』でチップスと呼ぶ前から、ジャガイモを切って油で揚げたチップスの料理方法を記す料理本は存在していた。しかし当然ながらそうした本の中ではこのジャガイモの揚げ料理のことをまだ「チップス」とは呼んでいない。そうした本のひとつとして、1823年にマンチェスターで発行された『A Modern System of Domestic Cookery: Or, The Housekeeper's Guide』 M. Radcliffe著を引用しておきたい。
【 A Modern System of Domestic Cookery: Or, The Housekeeper's Guide 】
"Potatoes fried Slices or Shavings"
Peel large potatoes:slice them about a quarter of an inchi thick, or cut them in shavings round and round as you would peel a lemon; dry them well in a clean cloth, and fry them in lard or dripping. Take care that your frying-pan are quite clean; put in on a quick fire, watch it, and as soon as the lard boils, and is still, put in the slices of potato, and keep moving them till they are crisp; take them up and lay them to drain on sieve; send them up with a very little salt sprinkled over them.
ここまでフィッシュの歴史と、チップスの歴史を分けて見てきた。こうしたふたつの料理が合わさってフィッシュ & チップスというイギリスの国民食となったのである。しかしその始まりの歴史は、そこまで古いものではないにもかかわらず、曖昧でまだはっきりしていない印象である。イギリスにはNFFF(The National Federation of Fish Friers:全国フィッシュ・フライヤーズ連盟)という組織があり、この連盟が1968年に認定した最古のフィッシュ & チップス店は、ロンドンのイーストエンドにあったマリンズ(Malin's)だということになっている。
このマリンズは1860年にポーランド系移民のユダヤ人のジョゼフ・マリン(Joseph Malin)が始めたフィッシュ & チップス店であるということになっている。
Fish & Chips
マリンズ(Malin's)の歴史
マリンズは1860年にロンドンのイーストエンドで最初にフィッシュ & チップスを売り始めたとされる。しかし文献を調査してゆくと、創業者のジョゼフ・マリン(Joseph Malin)が始めた店の場所は、Cleveland Streetであるという記述や、78 Cleveland Way, Bow, Londonというもの、さらには560 Old Ford Rd, Bow, Londonであるともされており非常に混乱させられることになった。よってまず1860年の創業場所を特定することから明らかにしてゆきたい。
文化人類学者で料理研究家のクラウディア・ローデン(Claudia Roden)の調査では、マリンズは、381 Old Ford RdにあったLady Franklin pub(レディフランクリンパブ:現在は取り壊されている)の向かいで始まったとしている。よって彼女の調査では560 Old Ford Rd, Bow, Londonが正しい創業地ということになる。
クラウディア・ローデンは著名なユダヤ料理の研究家で、『the Book of Jewish Food』という優れた著書を記しており、わたしもその調査や考察に非常に信頼を寄せているのだが、創業地として様々な住所があることには何らかの理由があると考えて、遅ればせながら日本人であるわたしも独自調査を試みることにした。
調査手段として19世紀~20世紀初頭に発刊されたロンドンの住所録『Post Office Directory』に着目した。幸運なことにイギリスのレスター大学はロンドン住所録のアーカイブスを公開しており、この資料を基にしてフィッシュ & チップス店マリンズの足跡を追うことができるのではないかと考えたからである。またGuildhall Libraryからは『London directories from the Guildhall Library, 1677-1900』が提供されているので、これらを活用して調査対象が一般人であっても家系をたどることができるようになっている。あるいは『England Census』という国勢調査の記録もあり、こうした情報を基にしてマリン一族の記録を確認することが可能であろうという目途も立ったのである。
ジョゼフ・マリンは、1823年にロンドンで、父親:Joseph MALIN、母親:Mary Ann Vine Perryの間に誕生した。
『London, England, Church of England Marriages and Banns, 1754-1932』は、ジョゼフ・マリンが1843年9月25日に20歳で結婚したときの記録であり、この時の職業は「針金職人:Wire Drawer」とある。当時は針金の直径を細くするために鉄板に空けた幾つかの細さの穴に太い針金を通し、これをペンチで引っ張って削りながら細い針金が作られていた。こうした仕事に従事する人は「針金職人:Wire Drawer」と呼ばれており、若かりし頃のジョゼフ・マリンはこうした職人だったということになる。
また同書類には父親のジョゼフ・マリン(親子が同姓同名で分かりにくい)の職業も記載されており、「鞭職人:Whip Maker」とある。これは当時まだ馬車が移動手段として主で御者が用いる鞭の需要が高かったゆえの職業とも言える。
こうした残された記録からこの時代のマリン家は、フィッシュ & チップスはもちろん、まだ食品には全く関係しない仕事に従事していたということが分かる。
「1861 England Census:国勢調査」の時、ジョゼフ・マリンは37歳、10年前の調査で記載されていた子供たちは一人も記載されておらず、独立したか早世したものと考えられる。1961年当時の家族構成は、妻のSusan、10歳の娘Emma、3歳の娘Harrietという構成である。職業欄には「行商人:Hawker」と書かれており、十年前と同じだが、妻のSusanもまた行商人としての仕事をしてたことが記録されている。
百歩譲って行商の商材は、フィッシュフライだったと考えることは出来るかもしれない。なぜなら当時は行商人がパブの周辺などでフライド・フィッシュを売り歩いていたからである。Henry Mayhewは1851年に初版が刊行された『London Labour and the London Poor』のなかで、当時には300人ぐらいのフライド・フィッシュ売りがおり、その中には30~40人の女性も含まれていたと記している。そうした女性はフライド・フィッシュ売りの妻や娘たちであったとあり、ジョゼフ・マリンとその妻のSusanもこのようなフライド・フィッシュ売りに含まれていた可能性はある。
BBCの記事「Chipping away at the history of fish and chips」によると、ジョゼフ・マリンは、1860年、まだ13歳だった時にトレイにフィッシュ & チップスを載せて行商していたという説明をしている。しかしこれは明らかに間違いである。なぜならジョゼフ・マリンは1860年、既に37歳になっており、13歳というには年齢的に合致していないからである。さらにBBCの記事には13歳のジョゼフ・マリンが既に既婚者であると書いてしまっている。これは他の人物(次に説明するジョン・W・マリン)と取り違えてしまった為に犯した誤りであることは明白である。では次に取り間違えれたと考えられる人物:ジョン・W・マリン(John William MALIN)を追うことにしたい。
先のBBCの記事「Chipping away at the history of fish and chips」は、このジョン・W・マリンとジョゼフ・マリンを取り違えているために誤情報を発信してしまっている。なぜこうした誤りが生じたかというと、1968年にNFFFが最古のフィッシュ & チップス店であると認定した際に、マリンズがあったのは 560 Old Ford Road であり、この場所でフィッシュ & チップス店を始めた人物がジョン・W・マリンだったからである。つまりBBCは最古のフィッシュ & チップス店はここから始まったと勘違いし、1860年当時はまだ13歳でしかなかったジョン・W・マリンを、ジョゼフ・マリンと混同して、既婚の13歳の少年が行商でフィッシュ & チップスを売り始めたというような酷い誤りを記しているのである。当時のジョン・W・マリンの年齢については「1851 England Census:国勢調査」から、1860年がちょうど13歳に当たるので、ここからも混濁の根拠を示すことも出来るだろう。
さて、このジョン・W・マリンは始めからフィッシュ & チップス店を営んでいたのではない。「London, England, Church of England Marriages and Banns」には、1869年(21歳)のジョン・W・マリンが、妻のClara Wardと結婚した記録が残されている。その職業欄には父親のCharles James MALINと同じ職業の「敷物職人:Hearth Rug Manufacturer」が記載されている。「Hearth rug」とは耐火性がある敷物で、こうしたマットは当時の家々の暖炉の前に引かれていた。このような敷物を作る職人として、当時のジョン・W・マリンは、父親と同じくこうした仕事に就いていたということが分かる。
「1880年代」のジョン・W・マリン
「1881 England Census:国勢調査」の記録を見ると、1881年に33歳になっていたジョン・W・マリンは「雑貨店:General Shop Keeper」であったという記載になっている。この時の登録されている住所は、 1 Milton Rd (リンク先は該当する現在の位置)であり、現在は通り名が変更され無くなってしまっている。
さらに翌年に出版された1882年の「Post Office London Directory, 1882」では、ジョン・W・マリンは「Chandler's Shop」と
職業欄にある。さらに2年後の1884年に出版された「Business Directory of London, 1884」では、ジョン・W・マリンの職業は変更されておらず( 13 Milton Rd )「chandler's shop」と記載されている。Chandlerは雑貨店(小売店)という認識でもよさそうである。この店の住所は 13 Milton Rd となっているが、その理由は住まいと店を分けているためだと考えられる。(住まいは1番地、店は13番地)
1887年の「London, England, Church of England Marriages and Banns」には長男のJohn Charles MALINが結婚した記録がある。ここに記載されている父親のジョン・W・マリンの職業は「Hearth Rug weaver」となっており、雑貨商の仕事が軌道に乗らなかった為か、以前に就いていた敷物織の仕事に一時期戻ってたようである。いずれにしてもまだこの時期、ジョン・W・マリンはフィッシュ & チップスとはまったく無関係のビジネスを営んでいたということだけは間違いなさそうである。
「1890年代」のジョン・W・マリン
続いて、「1891 England Census:国勢調査」の記録を見ると、1891年に43歳となっていたジョン・W・マリンはさらに商売替えを行っている。職業欄には「魚屋:Fishmonger」とあり、住所も 560 Old Ford Rd になっている。この場所はNFFFが最古のフィッシュ & チップス店と認定した1968年当時に営業していた店の場所である。料理研究家のクローディア・ローデンも 560 Old Ford Rd を最初のフィッシュ & チップス店であるとしているようなので、このフィッシュ & チップス店は歴史を語る上では非常に重要な住所にあったのだが、この住所が初めて登場するのがフィッシュ & チップスの始まりとされる1860年から31年も経た1891年であること。またこの時のジョン・W・マリンの職業記載はあくまでも魚屋であるので、これをもって最初のフィッシュ & チップス店だったと言い切ることは難しいように思える。
1895年発行の「Post Office London Directory, 1895」からようやく、ジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「フィッシュ・フライ・ショップ:Fish Fry Shop」を始めたことが現れてくる。しかしながらこの時の記述はFish Fry Shopであることから、そこではチップスも合わせて売っていたかどうかまでは分からない。よってこの店でフィッシュ & チップスを売っていたのかどうかまでは明らかではないということになる。
「1901 England Census:国勢調査」の記録を見ると、53歳のジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「魚屋:Fishmonger」を営んでいることが記されている。この当時のビジネス住所録の方を見てみると、ジョン・W・マリンの同住所には「Fried Fish shop」と記載があり、国勢調査のような場合の職業欄に対しては「Fishmonger」、店の営業内容としては「Fish Fry Shop」というように記載を分けて申請・掲載をしていたものと思われる。
1913年以降、高齢になったジョン・W・マリンは引退しており、「Post Office London Directory, 1914」の記録からは、 560 Old Ford Rd で「Fish Fry Shop」を営業しているのは、四男のアーサー・アルバート・マリン(Arthur Albert MALIN)になっている。ここからジョン・W・マリンは息子に店を引き継いで引退したということになるだろう。この13年後の1926年4月10にジョン・W・マリンは78歳で他界している。
ジョン・W・マリンの生涯と息子たち
ジョン・W・マリンは15人もの子供たちを妻との間にもうけ、「MALIN」という屋号のフィッシュ・フライ・ショップを営んで子供たちを育ててきた。ジョン・W・マリンが「MALIN」を 560 Old Ford Rd に開店したのは1895年だったことは先に示した通りであるが、もっと前から叔父のジョセフ・マリンがフィッシュ & チップスを行商で売っていたと考えられることから、1860年をMALINが最初にフィッシュ & チップスが売り始めた年としたようである。店の看板にも「Est 1860」とあったのはこうした一族のつながりが理由なのだろう。
「1871 England Census:国勢調査」を見ると19歳の時のジョゼフ・H・マリンの記録がある。家族と同居しており住所は 1 Beale Rd になっている。職業欄を見ると父親と同じ「Hearth rug weavers」とあり、耐火性があり暖炉の前などにひかれるマットを作る職人であったことが理解できる。よってこの時点ではまだ食品に関係する仕事には携わってはいない。
この翌年の1872年にジョゼフ・H・マリンは、靴職人の娘のMary Ann Frances Stevensと結婚する。その記録が「London, England, Church of England Marriages and Banns」にあり9月29日に結婚したことになっている。職業欄には「Hearth Rug Maker」とあり、父の職業欄には「Hearth Rug Manifucture」とあり、耐火性マットを製造していたことが分かる。
「1891 England Census:国勢調査」によると、39歳のジョゼフ・H・マリンは 80 & 78 Cleaveland Street の両方の住所になっている。職業欄には「Fishmonger:魚屋」とある。先にも述べたようにイギリスの番地の振り方は道の両側で偶数と奇数になっているので、並んだ2件分がジョゼフ・H・マリンの住所になっていたということになる。
この時の家族構成をみると、長女のMary (18歳)が、John Collins(22歳)と結婚して同居している。さらに彼らの息子で当時まだ生後3か月のJohn Joseph Collinsもリストに載っており、例えていうとこれは「サザエさん」でいうところの磯野家である。つまりサザエさんと結婚したマスオさんのフグ田家が、磯野家と同居して、タラちゃんがいるという状態である。「London, England, Church of England Births and Baptisms」はタラちゃんにあたるJohn Joseph Collinsが洗礼を1891年2月に受けた時の記録であるのだが、この時の登録住所がまだ 78 Cleaveland Street ではないので、国勢調査が行われたひと月前か、あるいはその月に引っ越してきて同居を始めたばかりということになる。
さてこの結婚した娘、Maryの職業欄には「Fish Frier. Coffee」とある。もともと 80 Cleaveland Street に父のジョゼフ・H・マリンが経営する魚屋があったことを考えると、隣に新しくFish Frier Shopを開業し、その店を娘のMaryが営業していたということになる。しかも調査票には「Coffee」とも加筆されているので、簡単に飲食が出来るような場所も併設されていた可能性がある。父親が魚屋を営み、娘が隣で魚を揚げた料理を出す店を営んでいたというのは良い組み合わせだと言える。なぜなら魚が売れ残ったとしても、フライド・フィッシュにして店で提供することでロスをなくし、しかも飲食販売によって利益とすることが出来たからである。
さらに「1891 England Census:国勢調査」のジョゼフ・H・マリン一家に関する記録には見逃せない部分がある。家族メンバーで当時14歳の三女のCharlotteの職業欄に「Potatoe Peeler:じゃがいもの皮むき」と記載されている。ここからすると、78 Cleaveland Street のFish Frier Shopではフライド・フィッシュだけではなく、ジャガイモを揚げたチップスが出されていた可能性が非常に濃厚になってくる。つまりここではフライド・フィッシュとチップスを組み合わせた「フィッシュ&チップス」が出されていたと考えるべきだろう。
先に説明した、ジョゼフ・H・マリンの兄、ジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd でFish Frier Shopを始めたのは1895年だったことから考えると、78 Cleaveland Street のFish Frier Shopの方が時期的にも4年は先行しており、しかもフィッシュ&チップスを販売していた可能性が非常に高いということになる。
なかには 78 Cleaveland Street を最初のフィッシュ&チップス店とする記事などもあり、最初のフィッシュ&チップス店がどこだったのか混乱させられる。そこでこの場所について少し掘り下げて考えてみることにしたい。
しかし現在のCleavland wayは68番地までしか存在しておらず、ジョゼフ・H・マリン一家が居住していた80,78番は存在していない。そこで、スコットランド国立図書館に所蔵されている「London, Five feet to the Mile, 1893-1896」という地図を確認したところ、当時のCleavland Street(現在のCleavland way)はもっと先まで伸びていて82番地まであったことが確認できた。これが分かったのは、かつて存在していたPUBの場所をまとめたpubwiki.co.ukというサイトがあり、82番地にあったBritish Carmanというパブが、Cleavland StreetとDoveton streetが交わる位置にあったということが既に分かっていたからである。こうした古地図から80、78番地にあったマリンズの位置も正確に把握できるので、以下の地図から確かめて頂きたい。
1901年刊の「1901 England Census:国勢調査」を見ると、49歳のジョゼフ・H・マリンは 264 Globe Rd に引っ越しをしている。職業は「魚屋:Fishmonger」であり、フィッシュ&チップス店の記載は無くなっている。しかし翌年の1902年に刊行された「1902 Post Office Directory」には、Fried Fish Shopの記載があり、魚屋と並行して店を続けていたことが読み取れる。この住所録には他にも3つのマリン家が営むFried Fish Shopが掲載されている。
① Malin John, fried fish shop, 560 Old Ford road E
② Malin John, jun. fried fish shop, 80 Cleaveland st.
③ Malin John Charles, fried fish shop, 101 Goldsmiths' row NE
④ Malin Joseph Henry, fried fish shop, 264 Globe road E
マリン一族が第五世代になった、1965年からNFFF(The National Federation of Fish Frier)は最古の老舗フィッシュ&チップス店を探し始めた。調査の末にロンドンのマリンズこそがそれに該当すると認定し、1968年9月26日にチャリング・クロス・ホテルで開かれた授与式で、当時 560 Old Ford road の店のオーナーだったDennis James MALINに対して、当時の農水食糧大臣だったCledwyn Hughes(クレドウィン・ジョーンズ)が銘板を贈呈している。
弟のジョゼフ・H・マリンから遅れること数年後、兄のジョン・マリンは魚屋を 560 Old Ford Rd で開始している。この住所に対する考察は非常に重要である。なぜなら、ここがフィッシュ&チップス始まりの地であるとする記事が多く存在しているからである。その中には料理史研究家のクローディア・ローデン(Claudia Roden)の「最初の公式フィッシュ&チップスショップが、1860年にジョセフ・マリンによってレディフランクリンパブの向かいのオールドフォードロードに設立された」というものもある。
このように 560 Old Ford Rd という住所を創業地とする見解は多く主流とも言えるのだが、わたしは調査を通してこうした見解は全くの誤りであると断言する。なぜならば 560 Old Ford Rd という住所は、1891年頃にジョン・W・マリンが転居して魚屋を開いた場所であり、ジョン・W・マリン自身もそれまでの仕事は雑貨商であったからである。
しかも先に述べたように、弟のジョゼフ・H・マリンが先行して 80,78 Cleaveland Street でフィッシュ&チップスを売り始めており、ここから考えても 560 Old Ford Rd をもってして最初のフィッシュ&チップス店のあった場所とするのは明らかに間違いであると言える。
こうした間違いの原因は、最古のフィッシュ&チップス店として選ばれたときに、この店が、マリン一族のフィッシュ&チップス店のなかで、最も古くから営業していた店だったからだろう。さらに最古のフィッシュ&チップス店と認定された際にも、銘板の授与が、この店を営むマリン家第5世代のDennis James (Denny) MALIN(1924–1989)に対して行われたことからも、こうした誤解が広がったものと考えられる。
よってジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd に開いたフィッシュ&チップス店は、1860年に繋がるものではなく、最初のフィッシュ&チップス販売の地でもないということになる。
④ 調査方法に対する懸念
マリンズが1860年からフィッシュ&チップス販売を行っていたと認定したのは、1913年に設立されたNFFF(The National Federation of Fish Friers)であり、1968年に農水食糧大臣によるお墨付きを得て正式に発表が行われている。フィッシュ&チップスの起源に関する調査は、その3年前の1965年からNFFFが着手し始めており、この年にNFFFは既に「フィッシュとチップスの結婚100周年」を祝っているのだが、このことは見過ごすべきでないポイントだと言える。つまりこの時点からフィッシュ&チップスが誕生してから100年は経過しているという、強いバイアスが調査には働いていたことが推測されるからである。
100年もの前の出来事に関する聞き取り調査が行われたのは、マリン一族の第3世代のArthur Albert MALIN (1885–1968)、あるいは第4世代のErnest MALIN (1901-1995) や、Albert Benjamin MALIN(1894–1993)とその息子で第5世代になるDennis James (Denny) MALIN(1924–1989)だった。彼らは各々フィッシュ&チップス店を経営はしていたが、彼らはジョゼフ・マリンの直系ではなく、元は敷物織工を生涯の仕事とした弟のチャールズの子孫たちである。
マリン一族の家系を調べると、複数のジョゼフ(Joseph)を名乗るマリン家の者がいたことが分かっているが、100年も前のジョゼフ・マリンという人物について、その後の子孫がどれほどの事を知っていたのかについては疑問である。最も近い第3世代のArthur Albert MALINでも、その生年はジョゼフ・マリンと重複しておらず、しかも自身の祖父の兄にあたることから、つながりは薄いものだった可能性がある。
名家一族の歴史ならばともかく、市井のユダヤ人移民の一族内からの聞き取りである。しかもジョゼフ(Joseph)を名乗る人物は複数おり、こうした先祖の話が混濁して、正確な情報は伝わりにくかったのではないかと考えられる。実際にジョゼフ・マリンは、ジョン・W・マリンと混同して13歳の少年がフィッシュ&チップスを販売し始めたという情報があったり、またジョゼフ・マリンと、ジョゼフ・H・マリンを混同してフィッシュ&チップス店の始まりが語られたりしている情報もある。また創業地が 560 Old Ford Rd あるいは 80,78 Cleaveland Street と錯綜した情報になっているのも、こうした聞き取りからの情報による混濁が原因になっているとも考えられる。
ジョン・リーズについての最初の記録は『1841 England Census:国勢調査』に存在している。当時のジョン・リーズはまだ8歳であるが、父のジョン・リーズ(名前が同じでややこしい)が亡くなり、母親のAliceが、George Wadsworthという男性と1840年に再婚した為にステップ・ファミリーのメンバーとして記録されている。母は再婚したので名字がWadsworthになっているが、連れ子のジョンの名字はリーズ姓のままである。
ジョン・リーズの地元はヨークシャー州のサドルワース(Saddleworth)であり、若い時代はこの地で暮らしていた。サドルワースはヨークシャー州ではあるが、後にジョン・リーズがフィッシュ & チップスの店を始める、ランカシャー州モスリーと境界を接する地であるので、地理的にはほとんど同じエリアと言っても良いかもしれない。ジョン・リーズは双方の地を往復して何度か引っ越しを行っており、その生涯を送った中心的なエリアであったということになる。
「1850年代」のジョン・リーズ
ジョン・リーズの次の記録は『1851 England Census:国勢調査』である。18歳のジョン・リーズは実家に同居している。注目すべきはジョン・リーズの当時の職業が「糸巻:Cotton Reeler」と記録されていることである。地元がランカシャーに近く、他にも紡績産業に従事する者がこのエリアに多数いたことが記録からも読み取れることから、ジョン・リーズもまたこうした産業に従事するひとりだったということが分かる。
「1860年代」のジョン・リーズ
次の記録は『1861 England Census:国勢調査』である。29歳になったジョン・リーズは結婚をして世帯を持ち一子をもうけている。職業は「毛織物工:Woolen Spinner」とある。1860年にロンドンでジョセフ・マリンがフィッシュ & チップスを売り始めたとされる時期、ジョン・リーズはまだイングランド北部で紡績業に従事する労働者だったということになる。ジョン・リーズは、この調査から2年後の1863年にフィッシュ & チップスを売り始めたことになっているが、どうだったのかを続く文書記録から確認しておきたい。
「1870年代」のジョン・リーズ
『1871 England Census:国勢調査』には、39歳のジョン・リーズの職業が「毛織物工:W Spinner」とあり、住まいはヨークシャー州のサドルワース(Saddleworth)となっている。1863年から既に8年が経過しているが、つまりまだこの時点でジョン・リーズは、モスリーでフィッシュ & チップス店を営んでいなかったということになる。しかしこの記録をもって、ジョン・リーズが最初にフィッシュ & チップスは売り始めたのではないと即座に否定はできない。なぜならジョン・リーズが販売していたモスリーのマーケットは固定の店舗ではなく、週末などに開かれる野外マーケットのようなものだとも考えられるからである。
この記録の翌年に出版された、『1892 Kelly's Directory』には職業別の項目があり、Fried Fish Dealerのリストのなかにジョン・リーズの名前と Stamford St という住所が記載されている。ここには番地は記されていないが、その場所はその後に記載されるようになる41番地だったことは間違いない。
Fried Fish Dealerとして挙げられているこの記録をもって、文献的な証拠から確実にジョン・リーズが現在のフィッシュ & チップスを販売していた証拠とすることが出来る。しかし1892年のこのリストが示すように、既に62軒のフライド・フィッシュの店がランカシャーだけでも存在しており、これだけだとジョン・リーズが特に新しくフィッシュ & チップスを販売したという証拠にはなっていない。
41 Stamford St, Mossley はフィッシュ & チップス史を語る上では重要な店の場所である。なぜならば後にこの店のウィンドウには「OLDEST ESTD. IN THE WORLD」が掲げられ、世界で最も古い店であることを自ら主張した場所だからである。
こうしたことから、この店こそが最古のフィッシュ & チップス店であるとする意見があるのだが、この 41 Stamford St の店をもって、最古のフィッシュ & チップス店と断定するのは間違いである。なぜならこの店の歴史は、記録が示すようにどんなに古くても1892年ぐらいまでしか遡れないからである。しかもそれまでのジョン・リーズの職歴は機織工となっており、この記録よりも約30年前の、1863年にジョン・リーズが最初にフィッシュ & チップスを販売し始めたという意見を証明するのは非常に難しいように思える。
いずれにせよ、この 41 Stamford St の店は長く続いたようで、ジョン・リーズの後には、四男のチャニング・リーズがその後を継ぐようにしてフィッシュ & チップス店を営業するようになる。つまり親子二代がフィッシュ & チップスを数十年にわたって販売し続けたのが、正にこの店だったのである。
「1900年代」のジョン・リーズ
『1901 England Census:国勢調査』の記録には、当時69歳になっていたジョン・リーズが 84 Stamford Rd, Mossley に住んでいたことが記載されている。この場所は、先の Stamford St とは異なる住所で、町の北側に位置する場所になる。
なぜかジョン・リーズは家族から離れてひとりだけこの住所に間借人(lodger)として登録されている。ジョン・リーズの妻マーサは少し離れた四男のチャリングの家族と同居しており、主人のジョン・リーズとは別居して生活していたようである。理由は分からないが、何らかの複雑な夫婦関係がこの記録から垣間見ることが出来そうである。
また店には「OLDEST ESTD. IN THE WORLD」とも書かれていて、世界で最初のフィッシュ & チップスの店であると自認している。現在、北部にあった リーズィズ(Lees's)は無くなってしまい、その跡地で「Man's Wok」というオリエンタル料理の店が営業をしている。上記の写真は当時の写真と、現代の写真を並べたものだが、建物の雰囲気は変わらず昔のままなので、当時の面影を十分に感じることが出来るだろう。
さてここに写っている三人は誰なのかという疑問が生じることになる。これをあたかもジョン・リーズであるかのように紹介している記事を見かけることがあるが、1902年にジョン・リーズは別の場所に店を開いていることや、この当時の年齢は既に70歳になっていることを考えると、写真に写っているのはジョン・リーズではなく、息子のチャニング・リーズであると考えるべきだろう。左隣の子供はチャニング・リーズの長男で当時4歳になっていたFrank Lees(1898–1971)ではないだろうか。これに対して右隣の男性を誰かを推測するのは難しい。しかし『1901 England Census:国勢調査』では、チャニング・リーズの世帯の中に、14歳で甥のチャニング・リーズ(同じ名前で紛らわしい)が含まれている。よって1902年に店の前で撮られたこの写真に写っているのは、当時15歳だったチャニング・リーズだったと思われる。
チャニング・リーズ(Channing Lees)自書
1902年に 41 Stamford St にある店の前で撮られた写真には、このような背景があり、既にこの頃はジョン・リーズではなく、息子のチャニング・リーズが店主であったことを証明するものとなっているのである。
「1910年代」のジョンとチャニング・リーズ
『1911 England Census:国勢調査』のジョン・リーズの職業欄には「引退した紡績工」と記載されている。この時にジョン・リーズは79歳になっており、仕事を辞め一人でリタイア生活を送っている。住所は 86 Stamford Rd とあるので、1901年調査の時の隣に引っ越して住んでいたことになる。残念なことにこの翌年の1912年10月2日にジョン・リーズは79歳あるいは80歳で亡くなっており、モスリー墓地にあるジョン・リーズの墓からこの死亡年月日が分かるようになっている。
同年の息子チャニング・リーズについては、『1911 England Census:国勢調査』では、1 Mountain Street, Mossley に住所が登録されている。しかしチャニング・リーズは後年まで 41 Stamford St で店を開いており、ここから自宅と店舗は分けていたということが分かる。自宅はMarket Placeという広場を挟んだ向かいにあり、店との距離も都合の良いものだったと言えるだろう。
チャニングの職業欄はチップドポテト店(Chiped Potato Shop)とあり、父親のジョン・リーズから受け継いだ店でフィッシュ & チップスを販売し続けたということになる。
しかし『Frying Tonight: The Saga Of Fish And Chips』を著したジェラルド・プリーストランドによると、リーズィズは当時まだチップスの販売のみで、フィッシュフライは販売していなかったとして、フィッシュ & チップスを売り始めたのはもう少し年代が下がるという見方をしている。一通りの文献調査をしてみた私の感想も正に同じで、ジョン・リーズが1860年代からフライド・フィッシュを売っていたことには懐疑的な見解である。