フィッシュ & チップス

  •  
  •  


イギリスの国民的料理


フィッシュ & チップス(Fish & Chips)はイギリスの国民的料理として世界的に知られた料理である。本稿ではこれがどのような料理なのか、またどのようにイギリスを代表する料理として定着したのかを説明することにしたい。本稿はもともと「天麩羅」あるいは「長崎てんふら」、さらには「南蛮屏風図」で、日本でどのように天麩羅という料理が始まったのかを解説するための副次的なものだったが、思いのほか深ぼりすることになり、かなりの分量になってしまった。

最初に言っておくと、わたしはフィッシュ & チップスが大好きである。数年間のイギリス滞在期間中に様々な店のフィッシュ & チップスを食べ歩き、現在でもイギリスに行く際には必ず数件でフィッシュ & チップスを食べるようにしている。本稿はそうしたフィッシュ & チップスに対する「愛」ゆえに書かれたものであることをまずは知っておいて頂きたい。こうした本稿の性格上、ここで語られることは非常にマニアックな内容が含まれており、それ故に非常に貴重な情報であることは保証する。ここではフィッシュ & チップスの母国であるイギリスの文献でも深く触れられることのないフィッシュ & チップス店の起源についても詳細な調査情報が含まれているので、フィッシュ & チップス・マニアの方(日本人にそのような人がいるかどうかはともかく)であれば満足して頂ける情報だろう。

Fish & Chips

フィッシュ & チップス(Fish & Chips)


他の人にフィッシュ & チップスが好きだというと「あんなものが?」というような反応が返ってくることがある。「魚を揚げただけの料理でしょ?」という人もいる。美味くないと悪評判のイギリス料理だからということもあり、こうした意見はそれなりに的を射ているようにも思える。だがフィッシュ & チップスという料理がどのような歴史をたどって食べられるようになったのかを知れば、フィッシュ & チップスという料理の根底にある侮蔑的とも言える見方の理由がどこにあるのかを理解できるように思える。本稿ではこの料理の深層部分にまで踏み込んでみて、どのような歴史をもつのか、なぜ食べられるようになったのかを語ることにしたい。


フィッシュ & チップスの構成要素


まずフィッシュ & チップスという料理は、名前の通り二つの要素(フィッシュ & チップス)から成りたっている。ひとつは魚を揚げたもの。そしてもうひとつがジャガイモを油で揚げたものである。名前そのままでシンプルかつ明快、油で揚げた魚とジャガイモを一緒にした料理、それがフィッシュ & チップスである。

こうした二つの要素で構成されていることから、フライド・フィッシュとチップスのそれぞれに分けて説明して、これらが、いつどのように一緒になってフィッシュ & チップスとして知られるようになっていったのかを説明することにしたい。


フライド・フィッシュの歴史


魚を油で揚げるという料理はもともとユダヤ人由来の料理である。15世紀前後にスペインやポルトガルといったイベリア半島に定住したユダヤ人たちはセファルディム(Sephardim)と呼ばれ、こうした人々が魚を揚げた料理を食べていた。なぜ彼らがこうした料理を好んで食べていたのかには理由がある。ユダヤ教には、安息日(英語: Sabbath)を守らなければならないという戒律があり、ユダヤ教徒としてその戒律と伝統に従わなければならなかったからである。旧約聖書には次のような記述があり、安息日にはユダヤ人は労働をしてはならないことになっていた。

【 出エジプト記20:10,11 】
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたの息子、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。


この戒律はモーセの十戒の4番目に含まれており、ユダヤ人たちにとって安息日を守る事は絶対であった。ユダヤ人は一日が日没から始まり翌日の日没迄であるとカウントするので、安息日は、毎週、金曜日の日没から土曜日の日没迄ということになる。この安息日の期間中は仕事を休むことが規定されていたが、これには単に仕事・労働をしないというだけでなく、それ以上のことも含まれていた。同じく旧約聖書には次のような戒律も含まれているからである。

【 出エジプト記35:3 】
安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない。


つまり火を炊くことも労働の一部と見なされ、それを行うことも禁じられていたのである。ユダヤ人はこうした戒律を守っていたので安息日の期間中には家庭で調理の為に火を扱うことができなかった。このためユダヤ教徒の家庭は、金曜日の日没前までに食事の支度をあらかじめしておいて、安息日の金曜日の夜から土曜日の日が沈むまではあらかじめ準備しておいた料理を食べることを習慣としていたのである。金曜日の日没前に調理して安息日に食べる料理が、魚を揚げたスペイン語で「Pescado frito,Pescaíto frito :ペスカド・フリート」と呼ばれる料理である。ペスカドは魚を意味し、フリートはフリットと同じで揚げた料理を意味する。ペスカド・フリートは、スペイン系ユダヤ人の間で用いられるスペイン語方言(Judeo-Spanish)の料理名で、ここからも魚に衣をつけて油で揚げる料理方法はユダヤ人特有のものだったことが理解できる。ユダヤ人たちは金曜日の日中にタラを植物油で揚げておき、翌日の土曜の朝のシナゴーグでの礼拝後の遅い朝食やランチの際にこれを食べていた。ペスカド・フリートは熱を通して魚を衣で覆うことから保存が効き、また冷めてもサクサクと軽く食べられることから、特にユダヤ人に好まれた料理として広がっていったのである。

しかし15世紀後半になると、イベリア半島に住むユダヤ人たちに大きな転機が訪れる。1492年になるとカトリック教徒がイベリア半島からイスラム教徒を完全に排除して国土回復運動(レコンキスタ)を完了し、時の女王のイサベル1世がイスラム教徒に対する強固なカトリック信仰国家を確立することになったからである。
イスラム教徒を排除したイサベル1世は、同年に「すべてのユダヤ人はキリスト教に改宗して洗礼を受けるか、4カ月以内の7月31日迄に国外退去するように」という命令を発した。こうした追放令により十数万のユダヤ人たちがまずは隣国ポルトガルに逃れることになり、残ったユダヤ人たちはキリスト教に改宗し、表向きはキリスト教徒として生活を送るようになった。しかし改宗したユダヤ人たちは以降も実際にはユダヤ教徒としての生活習慣や戒律は守っていたようである。
さらにポルトガルでも1496年11月にユダヤ教徒への国外追放令が発せられることになる。1580年になるとポルトガルがスペインに併合されることになり、イベリア半島のセファルディと呼ばれたユダヤ人たちはさらに排除され、キリスト教に改宗することで何とかイベリア半島に留まっていた。

こうした改宗ユダヤ人たちは「新キリスト教徒:コンベルソ」と呼ばれるようになる。しかし、例えキリスト教に改宗したからといっても、簡単にキリスト教社会に彼らが受け入れられたという訳ではなかった。彼らはスペイン語古語で豚を意味する「マラーノ」と呼ばれ、蔑まれ差別の対象となっていたからである。ユダヤ人たちの側も、表面上はキリスト教徒に改宗はしていたが、その実、ユダヤ教徒としての習慣を固く守り続けていた。その為に密告や異端審問によって多くのユダヤ人たちが火刑によって処刑されたことが記録に残されている。ここからも彼らが社会に受け入れられていたというよりは、むしろ差別や迫害の対象となっていたことが理解できる。

15世紀後半のスペイン異端審問所の初代長官に就任したトルケマダは特に有名な異端審問官であり、その在職期間中の12年間で1万3000人のコンベルソたちを焚刑に処したと言われている。裕福だったユダヤ人の財産は処刑によって没収され教会に収められたことから、異端審問によるユダヤ人迫害は教会にとっての財源になっていた。またユダヤ人金融業者の処刑によって借金が帳消しになることからも、異端審問所への密告や謂れのない告発が多発したとされている。マラーノと呼ばれたイベリア半島のユダヤ人たちはこうした異端審問による処刑の恐怖と隣り合わせで日々生活していたということになるだろう。

Pescado frito(דגים מטוגנים)ペスカド・フリート


こうした背景から考えると、ペスカド・フリートを食べることはユダヤ教の戒律を守ることと密接に関係しており、このことが異端審問などでユダヤ教の戒律を改宗したユダヤ人たちがまだ守り続けているかどうかを見分ける判断基準ともなっていたことが見えてくる。ユダヤ人の安息日に火を使わずに美味しく食べられるペスカド・フリートは、逆の見方をすると、ユダヤ教の戒律を守る者を見分ける方法でもあったので、異端審問にかけられて火刑によって命を落とす可能性にもつながる料理だったのである。こうした料理の背景ゆえに、ペスカド・フリートはユダヤ人のアイデンティティとも深く結びついた料理として、セファルディ系ユダヤ人文化に深く根を下ろしていったものと考えられる。単に料理と言ってしまえばそれまでだが、魚を衣で揚げた料理には、このような重い歴史があったことも十分に理解しておく必要があるだろう。


ヨーロッパに拡散し始めるユダヤ料理


1492年にユダヤ人に追放令が出されてから、イベリア半島のユダヤ人たちは移動を始め、地中海沿岸を中心に拠点を拡散していった。これが現在でもペスカド・フリートが、スペインのアンダルシア、セビリアやコルドバなど南海岸の伝統的な料理となっていることや、他にもカタロニア、バレンシア、カナリア諸島、またフランスのプロヴァンス、イタリアの沿岸地域、ギリシャといった地中海沿岸の地域でも食べられる理由であろう。

下図は1492年以降、セファルディと呼ばれたユダヤ人がどのようにヨーロッパで拡散したかを示している。

1492年の追放後のセファルディ移民の動き

1492年の追放後のセファルディ移民の動き


図からも分かるように、一部のセファルディムたちはイギリスにも移住している。こうしたユダヤ人たちがイギリスに伝えたのが今やイギリスを代表する料理となっているフィッシュ&チップス(Fish and Chips)である。パニコス・パナイー著の『フィッシュ・アンド・チップスの歴史-英国の食と移民』では、フィッシュ&チップスという料理がどのように英国に伝えられ、どのように見なされてきたかについて明らかにしている。実はフィッシュ&チップスはユダヤ人移民の料理であり、かつては労働者階級と貧困を象徴するような料理だったことが同書では明らかにされている。

パニコス・パナイー著(日本版と英語版)
『フィッシュ・アンド・チップスの歴史-英国の食と移民』

イギリスには18世紀から19世紀に多くのセファルディ系ユダヤ人が流入しており、彼等およびその子孫によってフィッシュフライという料理が広がった。やがて移民ユダヤ人たちは小さな資本金で始められるこうした料理を提供するローカルビジネスを各地で始めることになる。この時期は産業革命と重なっており、産業労働者の増加と、調理に要する時間の節約というメリットと相まってフィッシュ&チップスが特に労働者階級層に好んで食べられるようになっていった。こうして始めは英国の都市部だけで売られていたフィッシュ&チップスは、やがて英国中に広がることになったのである。

Fish & Chips

ユダヤ人コミュニティの数と場所
『Encyclopaedia Judaica』より


上図は『Encyclopaedia Judaica』にある1290年以前のイギリス英国のユダヤ人居住地、および20世紀に存在していたユダヤ人コミュニティの数と場所である。△は昔から存在していたユダヤ人居住地であるが、まずは古くから存在していた歴史ある都市に、ユダヤ人は拠点を築いていたことが分かる。
それに対して19世紀の産業革命、さらに20世紀を経て、ユダヤ人コミュニティは新興のイングランド北部の工業都市で増加していることが理解できる。ロンドンは別として、北部の●リバプール、■マンチェスター、■リーズにおいて、そうしたユダヤ人コミュニティが増加しているところは注目すべきところである。なぜならばこれらの都市は正に産業革命によって拡大した工業・海運都市だったからである。

リーズは羊毛織物工業製品の生産地であり、マンチェスターは綿織物工業製品の生産地であった。リーズからマンチェスター、リバプールまでは運河で結ばれ、各都市で生産された製品は、リバプールに集められここから世界各地へと輸出されていたのである。こうした新産業の成長と、それに伴う労働人口の増加と、工業都市の興隆に伴い、ユダヤ人移民はイギリス国内で増加し定住していったのである。

後で詳細を述べるが1860年は、フィッシュ&チップスにとって非常に重要な年である。なぜならばこの年にイギリスで最古のフィッシュ&チップス店が創業したとされているからである。これも元々セファルディ系ユダヤ人が、ペスカド・フリートという料理を持ち込んだことが下地としてあり、これがイギリス国内で受け入れられ定着していったことが理由であることに間違いはない。そしてこうしたフィッシュ&チップスの誕生に、産業革命が大きく関係していたというのも非常に興味深い事実であるように思われる。


チャールズ・ディケンズの描く魚フライ


チャールズ・ディケンズ:Charles Dickens(1812年2月7日 - 1870年6月9日)はイギリスを代表する国民的作家である。その生涯年は正にユダヤ人移民の増加、フィッシュ&チップス誕生前後と重複しており、当時の風俗を知る上でも重要な情報をもたらしてくれる作家でもある。フィッシュ&チップスに関する文脈のなかで良く引用される作品が二つあり、まずはフライド・フィッシュに関係した『オリバー・ツイスト:Oliver Twist』の部分を引用しておくことにしたい。

【 Oliver Twist 】
Near to the spot on which Snow Hill and Holborn Hill meet, there opens, upon the right hand as you come out of the city, a narrow and dismal alley leading to Saffron Hill. In its filthy shops are exposed for sale huge bunches of second-hand silk handkerchiefs, of all sizes and patterns—for here reside the traders who purchase them from pickpockets... 
Confined as the limits of Field Lane are, it has its barber, its coffee-shop, its beer-shop, and its fried-fish warehouse. It is a commercial colony of itself, the emporium of petty larceny,

【 訳文 】
スノーヒルとホルボーンヒルが出会う場所の近くに開けている場所があり、市街地から一歩足を踏み入れたその右手の先にはサフランヒルに通じる狭くて陰気な路地に通じています。そこにある不衛生な店々では、あらゆるサイズ、あらゆる柄の中古シルクハンカチが巨大な束となって売り出されています。ここにはスリたちからこうした品々を購入する仲介人が住んでいるからです...。
ここフィールドレーンというこの狭い界隈には、理髪店、コーヒーショップ、ビールショップ、揚げ魚の倉庫があり、ここは商売人たちの集団居住地であるだけでなく、ちんけな窃盗たちの帝国でもあるのです。


ディケンズが『オリバー・ツイスト』を連載していたのは1837年から1839年迄で、このなかで当時、悪名高かったフィールドレーン(Field Lane)の様子をこのように描写している。このフィールドレーンは貧民街で、かなり治安が悪かったエリアである。ディケンズはスノーヒルとホルボーンヒルが出会う場所、サフランヒル(Saffron Hill)に通じる狭くて陰気な路地にそうした店々があったと記しており、正に表通りから入ったサフランヒルに通じる狭い路地(地図)が現代でもあるので、ディケンズはここの裏路地の事を綴ったのであろう。

フィールドレーンのエリアは貧困、犯罪の温床地だったらしく、1841年にアンドリュー・プロヴァン(Andrew Provan)という宣教師がこのエリアに入り、子供や若者に教えるために学校を始めて貧しい働者階級の地区の子供たちへの無料教育を行っている。こうしたエリアの子供たちは外見の悪さと、挑発的な行動を取ることから普通の学校から除外されていたが、慈善団体を立ち上げて彼らを受け入れ教育を施したのである。そうした学校は「Ragged school」と呼ばれた。
当時のフィールドレーンにあったこの学校には1つの巨大な教室しかなく、そこで毎日500人以上の子供や若者に教えていたと記録されている。こうした記録は『The Field Lane Story』にあるので、関心ある方はぜひ参照することをお勧めする。

こうした『オリバー・ツイスト』に登場するとおり名や地名から、ディケンズがこのエリアを描いたことは明白であり、またディケンズ自身もフィールドレーンのエリアの「Ragged school」を訪問して非常に感化されたことから『クリスマス・キャロル』の執筆を始めたとされている。つまりディケンズの記述の多くは、1830年~1840年代頃のこのエリアで見聞きしたものや実体験を下敷きにして描かれているのである。

Fish & Chips

1847年のフィールドレーン(Field Lane)


上記の図は、1847年当時のフィールドレーンの貧民街を描いた挿絵であり、描かれた通りがサフランヒルに通じる狭い路地でここに色々な正体不明の店が並んでいたと思われる。現代ではフィールドレーンはサフランヒルに吸収されて地名は残っておらず、しかもこの通りはビルの谷間になってしまっているが、当時、ディケンズが描写した「狭くて陰気な路地」の雰囲気は [ストリートビュー(Google Map)] のリンクからも察して頂けるのではないかと思う。

ディケンズの『オリバー・ツイスト』で、このようなフィールドレーンを拠点にしていたのがフェイギンという登場人物である。この人物はユダヤ人でかつ窃盗団の頭であり、少年たちを集めて窃盗の訓練をさせるという悪役である。こうしたことから分かるのは、当時のフィールドレーン界隈はそうしたユダヤ人たちが多く住んでおり、こうした貧民街での様子とそこに住む人々をディケンズは描写したということである。

このようなディケンズの作品の影響もあってか、フランス人画家のギュスターヴ・ドレはロンドンに滞在し、1872年に出版の『London: A Pilgrimage』で当時のロンドンの様子を描いている。ここからもロンドンにあるスラム化した街の様子や、市場で魚が取引されている様子を知ることが出来るだろう。

Fish & Chips

『London: A Pilgrimage』 大英図書館蔵


こうしたエリアに「 fried-fish warehouse:揚げ魚の倉庫」があったということは、ここがユダヤ人街でもあったということを暗示しており、またそこではユダヤ人たちが揚げた魚料理を大量に消費していたということを示している。現代のような揚げたてのフィッシュ & チップスを直ぐに食べるという感覚からは、この「揚げ魚の倉庫」がどのようなものだったのかを理解しにくいが、当時の書籍から説明を加えることにしておきたい。

ハンナ・グラス(Hannah Glasse)によって出版された『The Art of Cookery Made Plain and Easy(Edinburgh版 1781)』P433には「サケを始めとするあらゆる種類の魚につかえるユダヤ式保存方法」と形容されたレシピが掲載されている。

【 The Art of Cookery 】
サケかタラ、あるいは何でもよいので大ぶりの魚を用意し、頭を落とし、きれいに水洗いし、クリンプト・コッド(生きた状態のタラをさばいて、しばらく塩水につけてから茹でたもの)を切り身し、布巾でしっかりと水気をとる。小麦粉をまぶし、溶き卵をつけ、たっぷりの油で揚げる。きれいなきつね色になれば、揚げ上がりである。取り出して油を切り、しっかり乾いて冷めるまで待つ。


ハンナ・グラスのこの著作は1747年に初版が出されてから重版を続け、18世紀の最も重要な英国料理の本であるとされている。ハンナ・グラスはこの本を主に家事使用人向けに書いているので、その中には英国で最初に本に収録された英国に帰化したインド料理(カレー)レシピなども含まれている。このような当時のイギリス社会情勢から見てゆくと、ユダヤ式と題して魚に衣をつけて揚げる方法がこの本に収録されたことは、イギリス国内にユダヤ人移民が急増し、こうした魚を揚げるという調理方法が広がっていたことが理解できる。


The Art of Cookery 初版

The Art of Cookery 初版:1747年刊


1781年版のハンナ・グラスの著作に、保存のために魚に衣をつけて揚げる調理方法が記載されていることはかなり意味深い。まだフィッシュ&チップスとしての料理は確立されておらず、その萌芽をこのレシピに見ることは出来そうであるがこれはあくまでも保存法としての説明である。ハンナ・グラスはこうして料理した魚を白ワイン酢、各種の香辛料で満たし、油を上に注いで瓶に入れておけば12ヵ月間は保存できると記している。酢と香辛料によって腐敗を防ぎ、上部に油で封をすることで空気に触れさせないので12ヵ月もの長期保存が可能になっているのであるが、これは大変興味深い。なぜならディケンズが『オリバー・ツイスト』で、描いたフィールドレーンにある「揚げ魚の倉庫」とは正にこのような保存食がストックされていた場所だったはずであり、ハンナ・グラスはそれをユダヤ式保存方法と題して紹介していることからも、ディケンズが描いたこうした治安の良くない、貧民街に住む者たちがユダヤ人であったことが明らかとなるからである。

少し脱線するが、現代のこのエリアの様子についても述べておきたい。ディケンズが描いたフィールドレーン(サフランヒルの入口付近)を北の表通りから見た様子が以下の写真である。中央に入ってゆく小道があるが、これがサフランヒルに通じており、正にディケンズが描いた狭くて陰気な路地で、かつユダヤ人たちの住む貧民街だったのである。

Fish & Chips

現代の路地の入口


現在はビジネス街に一変しており、ロンドンの中心部の高級なエリアになっている。この路地の入口は二つのビルに挟まれており、右の建物はアングリア・ラスキン大学のロンドンキャンパスになっているが、実はわたしの手掛けている教育ビジネスは、この大学のMBA学位を取得するためのプログラムであり、そういう意味でもここはわたしにとって親しみある場所となっている。
またこの左側の建物は、世界の宝石を一手に引き受けるなかば独占的国際企業のDeBeers社の本社である。DeBeersがあることからか、この界隈には宝石関連の会社が非常に多い。実は世界中の宝石はユダヤ人によって扱われていることを考えると、このエリアとユダヤ人の関係には昔から深いものがあるのではないかと考えさせられるところがある。ディケンズの描いたこのエリアに住むユダヤ人たちは貧困層であったが、数世紀を経てやがてそのようなユダヤ人たちが金融や経済を握る大きな資本家へと変貌を遂げていったのである。

いずれにしてもディケンズが描いたように、1800年代のこの地域には貧困層のユダヤ人が多数住んでおり、彼らがここで魚を揚げた料理をかつて消費していたということは間違いないと言えるだろう。


料理書に見られる魚の揚げ料理


当時のイギリスで出版された料理書ではどのように魚の衣揚げ料理が説明されているのかを確認しておくことにしたい。先に1781年版のハンナ・グラスの著作から「サケを始めとするあらゆる種類の魚につかえるユダヤ式保存方法」を紹介したが、これは保存方法としての調理であり、まだ料理レシピとは言い難いものであった。しかしイギリス国内にユダヤ人が増加してくると、ユダヤ人特有の調理方法だった魚の衣揚げが料理書の中でも紹介されるようになっている。

1847年に出版されたユダヤ人料理書が、『The Jewish Manual ; or practical information in Jewish and modern cookery, with a collection of valuable recipes and hints relating to the toilette』である。こちらのレシピを以下に紹介しておく。

【 The Jewish Manual 】筆者訳文
溶き卵を入れた皿を用意し、魚をその中に入れてひっくり返して満遍なく表面を覆うようにします。それに小麦粉を振りかけ魚が完全に覆われるようにします。最高のフライ油をたっぷりと鍋に入れて熱します。油のなかで魚をやさしく、きれいな茶色になるまで揚げます。終わったら、火の前に布の上に置いて油を排出します。
魚を入れる際には油が泡立たなくなるように細心の注意を払う必要があります。そうしないと、油っぽくなります。油を濾して瓶に注ぐと、2〜3回使えます。 この方法で準備された魚は通常冷めた状態で提供されます。



The Jewish Manual, Fish & Chips

The Jewish Manual:1847年刊


このレシピであれば現代のフィッシュフライとあまり変わらない調理方法である。先にも述べたようにイギリスで最古のフィッシュ&チップス店が創業したとされているのは1860年であるので、この頃には既にフィッシュフライは単体で良く知られた料理方法だったはずである。

しかし現代のフィッシュフライの食べられ方と異なっているところは、黄色くハイライトした部分である。ここには料理が出される時には「通常冷めた状態で提供される」とある。普通に考えると揚げ物は、揚げたてが一番美味いように思えるが、ユダヤ料理では揚げた魚というのは安息日に食べるものだったことから、時間が経ってから食べる料理として紹介されているのだろう。ここにもイベリア半島からセファルディ系ユダヤ人が持ち込んだペスカド・フリートの名残が見られるということになるだろう。

次に紹介するのは、1897年に出版された『The Economical Jewish Cook』で、その「To Fry Fish」の項には次のようなレシピが掲載されている。

【 The Economical Jewish Cook 】筆者訳文
魚を綺麗に処理し、適当な大きさに切って完全に乾かしておきます。溶き卵を準備し、別に小麦粉、コショウ、塩は皿にいれて混ぜておきます。最初にこの皿の調味料に浸し、次に卵に浸します。油が適切な温度に達したら、魚を黄金色に炒めます。かごのふたに柔らかい紙を敷いて油気を切ります。
油が冷めたら、濾して瓶に注ぎいれておき、蓋をしてもう一度使用できるようにします。これは再び魚にのみ使用できます。
卵を節約するために、卵に少量の水を混ぜます。



The Economical Jewish Cook

The Economical Jewish Cook:1897年刊


この本のタイトルは直訳すると『経済的ユダヤ料理』ということになる。サブタイトルには「若い家政婦のための現代正統派のレシピ」とあるので、この本が出版されたのは、先の『Jewish Manual』と同様に、ユダヤ人女性のための家庭向けの料理本だったということになるだろう。この本にあるレシピもまたセファルディ系ユダヤ人に由来するペスカド・フリートであることには間違いない。

この頃は既にフィッシュ & チップス店は存在しており、魚の衣揚げと合わせてジャガイモを揚げたものが食べられていたはずだが、ユダヤ料理の本だからか、それらを合わせて食べるというような方法はまだ紹介されていない。

このようにフィッシュ & チップス店創業とされる1860年前後の料理書を見ると、魚の衣揚げは確かにユダヤ人に由来する料理だったことが明らかであり、ユダヤ人たちによって食べられてきた料理だったことが理解できる。18世紀から19世紀にかけて多くのユダヤ人がイギリスに流入したとされているが、こうしたユダヤ人たちによってペスカド・フリートはやがて英語のフィッシュフライあるいはフライド・フィッシュとして定着してゆき、イギリス全土で食べられる料理にへとなっていったのである。


フライドポテトの歴史


まず明確にしておかなければならないのはイギリスではフライドポテトのことをチップス(Chips)と呼ぶということである。チップスとはもともとは木片とか切れ端、 削りくずのような意味があり、揚げてキツネ色になったポテトがそのように見えることから、チップスと呼ばれるようになったと考えられている。ちなみに日本やアメリカでいうポテトチップスは、イギリスではクリスプス(Crisps)と呼び分けている。

Chips

英国のチップス(Chips)


かつて西麻布のあるレストランバーでフィッシュ & チップスを注文したところ、白身魚フライにポテトチップスが添えられて出されたことがある。これではウィンナーコーヒーを頼んだら、「コーヒーにウィンナーが突っ込まれたものが出てくるのと同じほど有り得ない間違えじゃないか!」と思ったほど酷い出来栄えで、人生最悪のフィッシュ & チップスとして今でも記憶に残っている。その頃はイギリス長期滞在から日本に帰ってきたばかりだったので、よくもこのようなフィッシュ & チップスを人前に出せたなとビックリしたのを今でも鮮明に思い出す。


ディケンズが描くチップス


さてそのチップスであるが、これは別名でフレンチフライ(French Fries)と呼ばれており、こうした名称からイギリスにこの調理法が伝わったのは、フランスあるいはベルギーといった大陸からだったのではないかと考えられている。(これがフレンチフライと呼ばれるようになったのはアメリカにおいてである)
先にチャールズ・ディケンズの小説から当時のフライド・フィッシュの考察を述べたが、チップスについてもディケンズの『二都物語』の記述から引用しておきたい。

【 A Tale Of Two Cities:二都物語 】
Hunger rattled its dry bones among the roasting chestnuts in the turned cylinder; Hunger was shred into atomics in every farthing porringer of husky chips of potato, fried with some reluctant drops of oil.

【 二都物語 】五章「酒場」佐々木直次郎訳
飢餓は数滴の油を不承不承に滴たらして揚げた皮ばかりの馬鈴薯の薄片の入っているどの一文皿の中にも粉々に切り刻まれていた。


ここでディケンズは「chips of potato」という語を用いている。1998年刊 Oxford Press版『二都物語』の注釈には、「切ったジャガイモを揚げたものを表すのにチップス(Chips)という言葉を用いた最初の例ではないか」とあり、この時代頃からジャガイモを揚げた料理を一般的にチップスと呼び始めたのではないかと考えられる。

さらに文脈から『二都物語』のこの部分を読んでみたい。『二都物語』とはロンドンとパリのことで、このジャガイモに関する記述はサン・タントワーヌ(Saint Antoine)というフランス側の街での描写となっている。ここからもジャガイモを揚げた調理が、大陸由来のものだったと言えるのかもしれない。
ディケンズはここで飢餓について描写しており、粗悪なパンや犬肉料理と一緒に、少ない油で揚げた皮ばかりのチップスも挙げている。こうした飢餓と貧困についての記述のなかにチップスが描かれていることを見ても、この料理もまた先に挙げたフライド・フィッシュと同一線上に位置づけられる料理であることが暗示されているように思えるのである。つまりフライド・フィッシュもフライドポテト(チップス)も、同じく飢餓や貧困のなかから生まれた料理だったと読み取るべきだろう。

チャールズ・ディケンズの『二都物語』初版は1859年であり、これはフィッシュ & チップスが生まれたと考えられている前年である。チップスの方はユダヤ人由来の料理という訳ではないが、こうした二つの料理がこの時代にひとつに合体してフィッシュ & チップスという料理として結ばれたことの背景には何があったのかと言うと、それは間違いなく「貧困」であり、さらに言うとそれはこれら双方の料理がコストのかからない経済的な料理だったということを意味している。これについては後程もっと深く語ることにしたいが、まず言っておきたいのは、この時代に魚もジャガイモも誰もが安くて腹を満たすことが出来る量が供給されていたこと、さらにはそうした流通がイギリス国内で確立されていたということはその基本的な原因として重要だろう。そもそも素材が安く大量に手に入れられなければ、コストを下げて安く供給することなどは出来ないからである。こうした安くて美味い料理が貧しい人々の腹を満たしたというところにフィッシュ & チップスの存在意義があり、ここからもフィッシュ & チップスの誕生を語るうえで、わたしは「貧困」というキーワードが重要な位置を占めていると考えている。


ジャガイモ飢饉(1845年~1848年)


ヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、ジャガイモが不作となり大きな被害が発生している。こうした不作から始まった飢饉は1845年~1849年の4年間にわたって続いたとされている。

チャールズ・ディケンズの『二都物語』にあった「揚げた皮ばかりの馬鈴薯の薄片」は明らかにこうした飢饉を下敷きにして書かれたものであり、ジャガイモの不作はヨーロッパ全土に大きな影を落としていたものと思われる。こうした飢饉の後には疫病が蔓延するのが常で、飢餓そのものよりも病気で死んだ人の方が多かったようで、ヨーロッパを広範囲に襲ったコレラやチフスよりもこの飢饉と疫病で多くの死者が出たのではないかと考えられている程である。

特にジャガイモを主要な農業生産物としていたアイルランドの被害は甚大で、一人あたりのジャガイモ平均消費量が1.8kgと最も高かったことから、ジャガイモ不作による飢餓の直撃を受けて深刻な事態へと陥った。アイルランドではジャガイモの不作による飢餓・病気によって約100万人が死亡したとされており、飢饉と貧困から多くのアイルランド人がアメリカ合衆国やカナダへの移住を余儀なくされることになった。ちなみに後に大統領となるケネディの祖先も、この時にアメリカに渡った移民である。

18世紀~19世紀にかけては気候の問題からか、世界でも多くの不作の記録が残されており、日本でもそれは例外ではない。この当時、日本は江戸時代であり特に深刻なものが江戸四大飢饉として記録に残されている。

 ・寛永の大飢饉 1640年~1643年
 ・享保の大飢饉 1731年~1733年
 ・天明の大飢饉 1782年~1788年
 ・天保の大飢饉 1833年~1837年

最後の天保の大飢饉が、アイルランドのジャガイモ飢饉と年代的に近い。この飢饉によって日本の当時の推計人口が1833年からの5年間で125万2000人も減少したとされている。こうした数字からも飢饉の影響が大きかったことがうかがえる。
こうした飢餓という状況は歴史を通して何度も見られるが、こうした飢餓を見てゆくと気付かされることがある。それは飢餓を経験することで、その後に「食」や「料理」における進化が必ず見られるようになるということである。

例えば日本では太平洋戦争後、物資が不足して食べることにも事欠く時代があった。しかしその後に急速な経済復興を成し遂げ、さらにはバブル経済と呼ばれる好景気も実現している。こうした戦後の飢餓経験から経済成長を実現した世代も含めて、80年代にはグルメブームのようなものが起こり、イタリア料理(俗称:イタメシ)などを始めとした様々な世界の食文化が受け入れられていった。当時、こうしたグルメ嗜好のようなものが社会的な現象となった背景には、かつては多くの人々が飢餓を経験してきたということが理由としてあったからかもしれない。

江戸時代もまたしかりで、天明の大飢饉の時代には東北地方を中心に多くの餓死者を出すことになったが、また同時に、その時代に料理文化はかなりの進化を遂げることになった。『豆腐百珍』『鯛百珍料理秘密箱』のような所謂「百珍もの」と呼ばれる、今迄にない、新しい料理方法や多種多様な料理方法が伝えられ流行することになったのである。江戸時代のこうした飢餓とそれによって料理法が進化したことの背景は「鯛百珍料理秘密箱」の項で詳しく説明してあるので、興味のある方はぜひ確認して頂きたい。

さてイギリスにも眼を転じてみると、こうした飢餓時代を経た先に、フィッシュ & チップスのような新しい組み合わせの料理が生まれたものと考えられる。共に油で揚げた料理が互いに手を取り合うようになることは必然的であったように思えるが、それはあくまでも結果論であって、魚とジャガイモを組み合わせて料理とすることはこの当時の食では大きなイノベーションであったということは言うまでもない。それは今までドイツのハンブルグで食べられていたハンバーグという料理が、アメリカでパンに挟まれてハンバーガーとなり世界を席巻しているのと同じといえるのかもしれない。あるいは刺身のネタを酢米に載せた寿司も同じである。つまりは二つの要素を組み合わせることで、今まで有りそうで無かったもの作り出すことが新しさと美味しさにつながったのである。


イングランド北部とチップス


フィッシュフライがユダヤ人の料理としてロンドンで広がっていったのに対して、チップスの方はイングランド北部、特にランカシャー(Lancashier)を中心として広がっていったと考えられている。

マンチェスターの北東にオールダム(Oldham)という町があり、この町のマーケットで、ジャガイモを油で揚げたチップスが売られ始めたと主張している。現在、その場所とされるTommyfield Market Hallには、その事を示すブループラークという記念盤が設置され、以下のような説明文が添えられている。

Fish & Chips

Tommyfield Market Hallのブループラーク


【 フィッシュ & チップス 】
トミーフィールドは英国フライドチップの故郷である。最初のチップスは1860年頃にオールダムで揚げられ、フィッシュ & チップス店やファースト・フード産業の起源はここにまで遡ることが出来る。


このブループラークは、イングランド北部のマンチェスターに近いオールダムこそがチップス発祥の地であると主張している。また同時にフィッシュ & チップスが生まれたのもこの地であることを暗に示唆する内容となっている。この地がチップス発祥の地であると主張するのは、産業革命により労働者が多くマンチェスター近郊に住むようになったことが理由である。先に述べたようにジャガイモ飢饉によって多くの移民がアイルランドから流入して、イングランド北部に定住していたこともその理由として挙げられるだろう。

もともとジャガイモを主食として消費していたアイルランド人がイングランド北部に移り住み、そこで様々なジャガイモ料理を持ち込んだ、あるいは新しいジャガイモ料理を試したことから、ランカシャーはジャガイモを消費する主要な地域となったと思われる。こうした社会的な背景から考えても、ランカシャーでチップスが生まれたとするのも納得できる理由にはなっていると言える。料理史研究家のクローディア・ローデン(Claudia Roden)は『The Book of Jewish Food』P114のなかで、ユダヤ人のフライド・フィッシュのビジネスが、アイルランド人のポテトショップと合わさって、移民によってフィッシュ & チップスが誕生したと述べている。

The Book of Jewish Food

The Book of Jewish Food
Claudia Roden 著


こうした歴史的な背景があり、チップスはイギリス国中に広がり、現在のように一般的な食事として受け入れられるようになっていったのである。


昔の料理書に見られるチップス


チャールズ・ディケンズが1859年刊の『二都物語』でチップスと呼ぶ前から、ジャガイモを切って油で揚げたチップスの料理方法を記す料理本は存在していた。しかし当然ながらそうした本の中ではこのジャガイモの揚げ料理のことをまだ「チップス」とは呼んでいない。そうした本のひとつとして、1823年にマンチェスターで発行された『A Modern System of Domestic Cookery: Or, The Housekeeper's Guide』 M. Radcliffe著を引用しておきたい。

【 A Modern System of Domestic Cookery: Or, The Housekeeper's Guide 】
"Potatoes fried Slices or Shavings"
Peel large potatoes:slice them about a quarter of an inchi thick, or cut them in shavings round and round as you would peel a lemon; dry them well in a clean cloth, and fry them in lard or dripping. Take care that your frying-pan are quite clean; put in on a quick fire, watch it, and as soon as the lard boils, and is still, put in the slices of potato, and keep moving them till they are crisp; take them up and lay them to drain on sieve; send them up with a very little salt sprinkled over them.

【 訳文 】
"ポテトフライのスライスまたは削ったもの"
大きめのジャガイモの皮をむく。1/4インチほどの厚みに薄切りにするか、レモンの皮をむくときのように曲面に合わせて削ぐ。清潔な布でよく水気を取ってからラードもしくは脂汁で揚げる。脂とフライパンに汚れが無いかを良く注意してから、強火で加熱する。注意をしつつラードが沸騰したら、沸騰しているうちにジャガイモの薄切りを入れ、絶えず動かしながらパリパリになるまで揚げる。取り出してからザルで油を切る。少量の塩を振りかけてから提供する。


これには「チップス」という固有名詞が与えられていないものの、その調理法は明らかに「チップス」であり、この頃から既にフライドポテトはある程度イギリスにおいて食べられていた可能性が考えられる。この料理本のタイトルを日本語に訳すと『現代家庭料理体系 - 家庭料理ガイド』ということになるだろうか。つまりここに記載されている料理は特殊な料理ではなく、むしろ一般的な家庭の料理レシピだったということになる。またこの本が出版されたのが、ロンドンではなく、北部の工業都市のマンチェスターであることも重要で、後でも言及するように、ともするとマンチェスター近郊の方が、ロンドンに先行してチップスが一般的に食べられていた可能性があるのかもしれない。


フィッシュ & チップスの誕生


ここまでフィッシュの歴史と、チップスの歴史を分けて見てきた。こうしたふたつの料理が合わさってフィッシュ & チップスというイギリスの国民食となったのである。しかしその始まりの歴史は、そこまで古いものではないにもかかわらず、曖昧でまだはっきりしていない印象である。イギリスにはNFFF(The National Federation of Fish Friers:全国フィッシュ・フライヤーズ連盟)という組織があり、この連盟が1968年に認定した最古のフィッシュ & チップス店は、ロンドンのイーストエンドにあったマリンズ(Malin's)だということになっている。
このマリンズは1860年にポーランド系移民のユダヤ人のジョゼフ・マリン(Joseph Malin)が始めたフィッシュ & チップス店であるということになっている。

Fish & Chips

Fish & Chips



マリンズ(Malin's)の歴史


マリンズは1860年にロンドンのイーストエンドで最初にフィッシュ & チップスを売り始めたとされる。しかし文献を調査してゆくと、創業者のジョゼフ・マリン(Joseph Malin)が始めた店の場所は、Cleveland Streetであるという記述や、78 Cleveland Way, Bow, Londonというもの、さらには560 Old Ford Rd, Bow, Londonであるともされており非常に混乱させられることになった。よってまず1860年の創業場所を特定することから明らかにしてゆきたい。

文化人類学者で料理研究家のクラウディア・ローデン(Claudia Roden)の調査では、マリンズは、381 Old Ford RdにあったLady Franklin pub(レディフランクリンパブ:現在は取り壊されている)の向かいで始まったとしている。よって彼女の調査では560 Old Ford Rd, Bow, Londonが正しい創業地ということになる。
クラウディア・ローデンは著名なユダヤ料理の研究家で、『the Book of Jewish Food』という優れた著書を記しており、わたしもその調査や考察に非常に信頼を寄せているのだが、創業地として様々な住所があることには何らかの理由があると考えて、遅ればせながら日本人であるわたしも独自調査を試みることにした。

調査手段として19世紀~20世紀初頭に発刊されたロンドンの住所録『Post Office Directory』に着目した。幸運なことにイギリスのレスター大学はロンドン住所録のアーカイブスを公開しており、この資料を基にしてフィッシュ & チップス店マリンズの足跡を追うことができるのではないかと考えたからである。またGuildhall Libraryからは『London directories from the Guildhall Library, 1677-1900』が提供されているので、これらを活用して調査対象が一般人であっても家系をたどることができるようになっている。あるいは『England Census』という国勢調査の記録もあり、こうした情報を基にしてマリン一族の記録を確認することが可能であろうという目途も立ったのである。

しかし過去の情報とはいえやはり大都市ロンドンである、この中からマリン・ファミリーの情報を拾うのは大海原の底から針を探すような思いであったが、それでも今回の調査によってフィッシュ & チップスに対する理解と成果が出せたように思う。これから説明する内容はかなりマニアックなものである。こうした調査から得られた理解から考えると、イギリスメディアでもまだこの部分のフィッシュ & チップスの始まりについて正しい理解が得られていないように思う。


マリン一族の歴史


マリン家はユダヤ人移民で18世紀頃にロンドンに移住してきた一族である。この一族がユダヤ人であったということは、彼らがロンドンのどのような場所に住んでいたのかということと非常に密接に関係している。当時のイギリス・ロンドンには大陸から大勢のユダヤ人が移民として流入してきており、こうした移民たちは貧困ゆえに特定のエリアに住みゲットー(Ghetto:移民系密集居住地区)を形成していた。当時のロンドンにはこうしたユダヤ人たちがホワイトチャペル(White Chapel)、べスナル・グリーン(Bethnal Green)、ボウ(Bow)といったロンドン・イーストエンドのエリアに集まって住んでいたのである。しかしこうした移民の貧困層が集中したことから地域の治安は悪化し犯罪が増加することになった。ユダヤ系のマリン家とはそうしたエリアに居住し、代々商売を営んできた一族であることをまずは知っておく必要がある。

残された記録の断片からマリン一家の系図を作成出来たので以下に掲載しておく。

Malin Family tree

クリックでPDF拡大図が確認できます。



フィッシュ & チップスの歴史を理解するために、ここでは特にマリン家のなかの3人を取り上げて考察を加えることにする。これらの人物を調査することで、どのようにフィッシュ & チップスが始まったのかを理解するきっかけとすることが出来るからである。


 Joseph MALIN(1823-1867)


ジョゼフ・マリン(Joseph MALIN)が、1860年にフィッシュ & チップスを最初に売り始めた人物であるというのが定説になっている。しかしこれには後世になって、NFFFが子孫からの聞き取りを行ってまとめた歴史であり、文献によって確かな裏付けとなる証明がなされたものではない。よって本当にジョゼフ・マリンが最初にフィッシュ & チップスを考えた人物だったのかどうかについては、まだまだかなり検討を要する余地が残されているように思える。

まずマリン一族の家系を見ると、ジョゼフ・マリンという名前が付けられた人物は少なくとも7人存在していたことが分かる。実はこうした重複した名前が人物特定を難しくしている原因ともなっており、フィッシュ & チップスの始まりについて書かれた文献を読んでいても、他のジョゼフ・マリンと取り違えたり、混同して書かれてしまったりしているのを目にする。以下にその7人を挙げておく。

 高祖父:Joseph MAYLIN(1717- )
 曾祖父:Joseph MAYLIN(1740-1805)
 祖父 :Joseph MAYLIN/MALIN(1766-1809)
 父  :Joseph MALIN(1786-1847)
 当人 :Joseph MALIN(1823-1867)
 甥  :Joseph Henry MALIN(1852-1931)
 姪孫 :Joseph MALIN(1880- )

1860年にフィッシュ & チップスが売られ始めたとするのであれば、これに該当する人物は一人しか考えられない。それは黄色でハイライトしてある Joseph MALIN(1823-1867)である。他のJoseph MALINは1860年には既に死んでいるか、あるいは幼すぎるかまだ生まれていない。つまり1860年にフィッシュ & チップスを考えて売っていた人物は、この人物以外には有り得ないことになる。よってまずはこの1823年生まれのジョゼフ・マリン(Joseph MALIN)がどのような人物だったのかを調査し、フィッシュ & チップスの歴史に迫ってみたい。

ジョゼフ・マリンは、1823年にロンドンで、父親:Joseph MALIN、母親:Mary Ann Vine Perryの間に誕生した。 『London, England, Church of England Marriages and Banns, 1754-1932』は、ジョゼフ・マリンが1843年9月25日に20歳で結婚したときの記録であり、この時の職業は「針金職人:Wire Drawer」とある。当時は針金の直径を細くするために鉄板に空けた幾つかの細さの穴に太い針金を通し、これをペンチで引っ張って削りながら細い針金が作られていた。こうした仕事に従事する人は「針金職人:Wire Drawer」と呼ばれており、若かりし頃のジョゼフ・マリンはこうした職人だったということになる。
また同書類には父親のジョゼフ・マリン(親子が同姓同名で分かりにくい)の職業も記載されており、「鞭職人:Whip Maker」とある。これは当時まだ馬車が移動手段として主で御者が用いる鞭の需要が高かったゆえの職業とも言える。
こうした残された記録からこの時代のマリン家は、フィッシュ & チップスはもちろん、まだ食品には全く関係しない仕事に従事していたということが分かる。

次に見ておきたい記録はイギリスで10年ごとに行われている国勢調査の記録である。ジョゼフ・マリンに関しては以下の3つの記録が存在している。

 1841 England Census
 1851 England Census
 1861 England Census

これらの記録を追うことでジョゼフ・マリンがどのような人物だったのかを追ってみることにしたい。


「1841年」のジョゼフ・マリン


「1841 England Census:国勢調査」の時は、ジョゼフ・マリンは18歳で、職業欄の文字がかすれて読み取りが困難であるが、Makerとも読めるので何らかの職工であったと思われる。また弟の15歳のチャールズの職業は「Rug Weaver」とあり敷物の職人だったことが分かる。また前ページには父親の職業が「Whip thong maker:鞭職人」とあり、先に挙げた1843年のジョゼフ・マリンの結婚記録の内容とも整合性がある。この時はまだ子供たちも同居していて、Becon St,Londonに居住していたことが記録にある。現在は近くに Weavers Fieldsという公園があり、これはもともと織物工房が集中してこのエリアに存在していたことの名残りとなっている。

このように1841年の記録からはマリン家の男性の職業は、職人、職工がうかがえるのみであって、この当時もまだ彼らは食品にはまったく関与していなかったということになる。


「1851年」のジョゼフ・マリン


「1851 England Census:国勢調査」の時、ジョゼフ・マリンは27歳になっており、結婚して家庭を持っている。家族構成は、妻のSusan、長女のJulian(7歳)、長男Charles(5歳)、John(1歳)である。

この頃、ジョゼフ・マリンは転職しており、職業欄には「行商人:Hawker」と書かれている。どのような商品を販売していたのかまでは定かでないが、行商人であるということから、やがてフィッシュ & チップスを売り歩くようになったのではないかと考えられるようになったと思われる。しかし文献記録の中でフィッシュ & チップスを販売していた事実は一切確認できない。どうもジョゼフ・マリンがフィッシュ & チップスを始めて売り始めたというのは、1965年に始められた調査で、その子孫への聴取から導き出されたものでしかないようである。


「1861年」のジョゼフ・マリン


「1861 England Census:国勢調査」の時、ジョゼフ・マリンは37歳、10年前の調査で記載されていた子供たちは一人も記載されておらず、独立したか早世したものと考えられる。1961年当時の家族構成は、妻のSusan、10歳の娘Emma、3歳の娘Harrietという構成である。職業欄には「行商人:Hawker」と書かれており、十年前と同じだが、妻のSusanもまた行商人としての仕事をしてたことが記録されている。

どのようなものを行商で売っていたのかが記録からは分からないが、1860年にジョゼフ・マリンがフィッシュ & チップスを販売していたということになっているので、行商の商材はフィッシュ & チップスであったと考えるべきなのだろう。しかし何を売っていたのかが記録から分からない以上は、この記録をもってジョゼフ・マリンがフィッシュ & チップスを販売していたことの根拠とすることは出来ないように思える。

百歩譲って行商の商材は、フィッシュフライだったと考えることは出来るかもしれない。なぜなら当時は行商人がパブの周辺などでフライド・フィッシュを売り歩いていたからである。Henry Mayhewは1851年に初版が刊行された『London Labour and the London Poor』のなかで、当時には300人ぐらいのフライド・フィッシュ売りがおり、その中には30~40人の女性も含まれていたと記している。そうした女性はフライド・フィッシュ売りの妻や娘たちであったとあり、ジョゼフ・マリンとその妻のSusanもこのようなフライド・フィッシュ売りに含まれていた可能性はある。

しかしながらその商材がフィッシュ & チップスだったかに関しては文献的証拠がなく、その真偽については何とも言えない。実際にジョゼフ・マリンがフィッシュ & チップスを最初に販売していたのかどうかは情報ソースとしての根拠があまりにも薄く、非常に曖昧なのである。

BBCの記事「Chipping away at the history of fish and chips」によると、ジョゼフ・マリンは、1860年、まだ13歳だった時にトレイにフィッシュ & チップスを載せて行商していたという説明をしている。しかしこれは明らかに間違いである。なぜならジョゼフ・マリンは1860年、既に37歳になっており、13歳というには年齢的に合致していないからである。さらにBBCの記事には13歳のジョゼフ・マリンが既に既婚者であると書いてしまっている。これは他の人物(次に説明するジョン・W・マリン)と取り違えてしまった為に犯した誤りであることは明白である。では次に取り間違えれたと考えられる人物:ジョン・W・マリン(John William MALIN)を追うことにしたい。


 John William MALIN(1847-1926)


ジョン・W・マリンは、先に取り上げたジョゼフ・マリンの甥にあたる。つまりジョゼフ・マリンの弟のチャールズ・マリンの長男がジョン・W・マリンで、両者は叔父と甥の関係にある。

John William MALIN, Fish & Chips

John William MALINの自署


先のBBCの記事「Chipping away at the history of fish and chips」は、このジョン・W・マリンとジョゼフ・マリンを取り違えているために誤情報を発信してしまっている。なぜこうした誤りが生じたかというと、1968年にNFFFが最古のフィッシュ & チップス店であると認定した際に、マリンズがあったのは 560 Old Ford Road であり、この場所でフィッシュ & チップス店を始めた人物がジョン・W・マリンだったからである。つまりBBCは最古のフィッシュ & チップス店はここから始まったと勘違いし、1860年当時はまだ13歳でしかなかったジョン・W・マリンを、ジョゼフ・マリンと混同して、既婚の13歳の少年が行商でフィッシュ & チップスを売り始めたというような酷い誤りを記しているのである。当時のジョン・W・マリンの年齢については「1851 England Census:国勢調査」から、1860年がちょうど13歳に当たるので、ここからも混濁の根拠を示すことも出来るだろう。

いずれにしてもこうした間違いは詳細にチェックすれば直ぐに分かるのだが、未だに誤りが正されずにそのままの記事が公開されている。そのた為にわたしも調査開始時にはこうした誤情報に非常に混乱させられることになった。このような誤りは早期に修正して、正確な情報発信が行われることをBBCには期待したいところである。


「1869年」のジョン・W・マリン


さて、このジョン・W・マリンは始めからフィッシュ & チップス店を営んでいたのではない。「London, England, Church of England Marriages and Banns」には、1869年(21歳)のジョン・W・マリンが、妻のClara Wardと結婚した記録が残されている。その職業欄には父親のCharles James MALINと同じ職業の「敷物職人:Hearth Rug Manufacturer」が記載されている。「Hearth rug」とは耐火性がある敷物で、こうしたマットは当時の家々の暖炉の前に引かれていた。このような敷物を作る職人として、当時のジョン・W・マリンは、父親と同じくこうした仕事に就いていたということが分かる。


「1880年代」のジョン・W・マリン


「1881 England Census:国勢調査」の記録を見ると、1881年に33歳になっていたジョン・W・マリンは「雑貨店:General Shop Keeper」であったという記載になっている。この時の登録されている住所は、 1 Milton Rd (リンク先は該当する現在の位置)であり、現在は通り名が変更され無くなってしまっている。

さらに翌年に出版された1882年の「Post Office London Directory, 1882」では、ジョン・W・マリンは「Chandler's Shop」と 職業欄にある。さらに2年後の1884年に出版された「Business Directory of London, 1884」では、ジョン・W・マリンの職業は変更されておらず( 13 Milton Rd )「chandler's shop」と記載されている。Chandlerは雑貨店(小売店)という認識でもよさそうである。この店の住所は 13 Milton Rd となっているが、その理由は住まいと店を分けているためだと考えられる。(住まいは1番地、店は13番地)

1887年の「London, England, Church of England Marriages and Banns」には長男のJohn Charles MALINが結婚した記録がある。ここに記載されている父親のジョン・W・マリンの職業は「Hearth Rug weaver」となっており、雑貨商の仕事が軌道に乗らなかった為か、以前に就いていた敷物織の仕事に一時期戻ってたようである。いずれにしてもまだこの時期、ジョン・W・マリンはフィッシュ & チップスとはまったく無関係のビジネスを営んでいたということだけは間違いなさそうである。


「1890年代」のジョン・W・マリン


続いて、「1891 England Census:国勢調査」の記録を見ると、1891年に43歳となっていたジョン・W・マリンはさらに商売替えを行っている。職業欄には「魚屋:Fishmonger」とあり、住所も 560 Old Ford Rd になっている。この場所はNFFFが最古のフィッシュ & チップス店と認定した1968年当時に営業していた店の場所である。料理研究家のクローディア・ローデンも 560 Old Ford Rd を最初のフィッシュ & チップス店であるとしているようなので、このフィッシュ & チップス店は歴史を語る上では非常に重要な住所にあったのだが、この住所が初めて登場するのがフィッシュ & チップスの始まりとされる1860年から31年も経た1891年であること。またこの時のジョン・W・マリンの職業記載はあくまでも魚屋であるので、これをもって最初のフィッシュ & チップス店だったと言い切ることは難しいように思える。

1895年発行の「Post Office London Directory, 1895」からようやく、ジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「フィッシュ・フライ・ショップ:Fish Fry Shop」を始めたことが現れてくる。しかしながらこの時の記述はFish Fry Shopであることから、そこではチップスも合わせて売っていたかどうかまでは分からない。よってこの店でフィッシュ & チップスを売っていたのかどうかまでは明らかではないということになる。

1899年発行の「Post Office London Directory, 1899」も同様で、1899年に52歳のジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「フィッシュ・フライ・ショップ:Fish Fry Shop」を営んでいることが掲載されている。


「1900年代」のジョン・W・マリン


「1901 England Census:国勢調査」の記録を見ると、53歳のジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「魚屋:Fishmonger」を営んでいることが記されている。この当時のビジネス住所録の方を見てみると、ジョン・W・マリンの同住所には「Fried Fish shop」と記載があり、国勢調査のような場合の職業欄に対しては「Fishmonger」、店の営業内容としては「Fish Fry Shop」というように記載を分けて申請・掲載をしていたものと思われる。


「1910年代」のジョン・W・マリン


その後もジョン・W・マリンがどのような生涯を送ったのか、その足跡をたどっておくことにしよう。「Post Office London Directory, 1910」には63歳のジョン・W・マリン。 「1911 England Census:国勢調査」「Post Office London Directory, 1911」には63~64歳のジョン・W・マリン。 「Post Office London Directory, 1913」には66歳のジョン・W・マリン。 いずれの記録もジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd で「魚揚げの店:Fish Fry Shop」を営業し続けていたということは明らかなのだが、残念ながら最後まで「Fish & Chips」という表現は住所録には記されていない。

1913年以降、高齢になったジョン・W・マリンは引退しており、「Post Office London Directory, 1914」の記録からは、 560 Old Ford Rd で「Fish Fry Shop」を営業しているのは、四男のアーサー・アルバート・マリン(Arthur Albert MALIN)になっている。ここからジョン・W・マリンは息子に店を引き継いで引退したということになるだろう。この13年後の1926年4月10にジョン・W・マリンは78歳で他界している。


ジョン・W・マリンの生涯と息子たち


ジョン・W・マリンは15人もの子供たちを妻との間にもうけ、「MALIN」という屋号のフィッシュ・フライ・ショップを営んで子供たちを育ててきた。ジョン・W・マリンが「MALIN」を 560 Old Ford Rd に開店したのは1895年だったことは先に示した通りであるが、もっと前から叔父のジョセフ・マリンがフィッシュ & チップスを行商で売っていたと考えられることから、1860年をMALINが最初にフィッシュ & チップスが売り始めた年としたようである。店の看板にも「Est 1860」とあったのはこうした一族のつながりが理由なのだろう。

Malin, Fish & Chips

MALIN : 560 Old Ford Rd, London


ジョン・W・マリンと同様に、その一族や息子たちも支店のようにしてフィッシュ & チップス店を始めていることも記録から分かっている。ジョン・W・マリンの長男のチャールズ・マリン(1869–1909)は結婚して家から独立して、フライド・フィッシュの店を始めている。また四男のアーサー・アルバート・マリン(1885–1968)は、 560 Old Ford Rd にあるMALINSを継いでいる。
さらにジョン・W・マリンの弟のジョゼフ・H・マリン(1852–1931)もフィッシュ & チップス史を語る上では注目すべき人物である。記録から見るとジョゼフ・H・マリンはなかなか商才があったようで、何度か引越しを繰り返しながら、かなり高い確度でフィッシュ & チップス店を始めたという痕跡を残している。次にこの人物を取り上げて、詳細を説明することにしたい。


 Joseph Henry MALIN(1852–1931)


ジョゼフ・H・マリンは、1852年に、父:チャールズ・ジェームズ・マリン、母:マリー・アンの間に次男として生まれた。先に説明したジョン・W・マリンは兄である。

Joseph Henry MALIN, Fish & Chips

Joseph Henry MALINの自署


ジョゼフ・H・マリンの最初の記録は「England & Wales, Civil Registration Birth Index」であり、1852年3月の出生者のなかに名前がある。また「London, England, Church of England Births and Baptisms」にも、1852年4月25日に洗礼を受けた記録がある。


「1870年代」のジョゼフ・H・マリン


「1871 England Census:国勢調査」を見ると19歳の時のジョゼフ・H・マリンの記録がある。家族と同居しており住所は 1 Beale Rd になっている。職業欄を見ると父親と同じ「Hearth rug weavers」とあり、耐火性があり暖炉の前などにひかれるマットを作る職人であったことが理解できる。よってこの時点ではまだ食品に関係する仕事には携わってはいない。

この翌年の1872年にジョゼフ・H・マリンは、靴職人の娘のMary Ann Frances Stevensと結婚する。その記録が「London, England, Church of England Marriages and Banns」にあり9月29日に結婚したことになっている。職業欄には「Hearth Rug Maker」とあり、父の職業欄には「Hearth Rug Manifucture」とあり、耐火性マットを製造していたことが分かる。


「1880年代」のジョゼフ・H・マリン


さらに10年後の「1881 England Census:国勢調査」を見ると、30歳のジョゼフ・H・マリンは結婚して、妻との間に4人の子供をもうけている。職業欄を見ると「Hearth rug weavers」とあり、10年前と同様に耐火性マットの職人であることが分かる。この時の住所は 9 Minerva Steet である。

1885年に娘のFlorenceが生まれ、この娘が洗礼を受けた時の記録が「London, England, Church of England Births and Baptisms」にあり、ここにジョゼフ・H・マリンは「Fish Dealer:魚屋」とある。このFlorenceの3歳上にRosettaという姉がいるが、この娘の「London, England, Church of England Births and Baptisms」の記録には、ジョゼフ・H・マリンの職業はまだ「Hearth Rug Maker」となっているので、1882年-1885年までの間に魚関係の職業に転職したということになる。

さらに2年後の1887年に次男のAlfred Thomas Malin(1887–1944)が誕生し、同じく「London, England, Church of England Births and Baptisms」に洗礼の記録がある。ジョゼフ・H・マリンの職業が「Fish Dealer:魚屋」となっているが、さらに注目すべき点が、住所が 80 Cleaveland Street になっていることである。その意味は次の記録と合わせて説明することにしたい。


「1890年代」のジョゼフ・H・マリン


「1891 England Census:国勢調査」によると、39歳のジョゼフ・H・マリンは 80 & 78 Cleaveland Street の両方の住所になっている。職業欄には「Fishmonger:魚屋」とある。先にも述べたようにイギリスの番地の振り方は道の両側で偶数と奇数になっているので、並んだ2件分がジョゼフ・H・マリンの住所になっていたということになる。

この時の家族構成をみると、長女のMary (18歳)が、John Collins(22歳)と結婚して同居している。さらに彼らの息子で当時まだ生後3か月のJohn Joseph Collinsもリストに載っており、例えていうとこれは「サザエさん」でいうところの磯野家である。つまりサザエさんと結婚したマスオさんのフグ田家が、磯野家と同居して、タラちゃんがいるという状態である。「London, England, Church of England Births and Baptisms」はタラちゃんにあたるJohn Joseph Collinsが洗礼を1891年2月に受けた時の記録であるのだが、この時の登録住所がまだ 78 Cleaveland Street ではないので、国勢調査が行われたひと月前か、あるいはその月に引っ越してきて同居を始めたばかりということになる。
さてこの結婚した娘、Maryの職業欄には「Fish Frier. Coffee」とある。もともと 80 Cleaveland Street に父のジョゼフ・H・マリンが経営する魚屋があったことを考えると、隣に新しくFish Frier Shopを開業し、その店を娘のMaryが営業していたということになる。しかも調査票には「Coffee」とも加筆されているので、簡単に飲食が出来るような場所も併設されていた可能性がある。父親が魚屋を営み、娘が隣で魚を揚げた料理を出す店を営んでいたというのは良い組み合わせだと言える。なぜなら魚が売れ残ったとしても、フライド・フィッシュにして店で提供することでロスをなくし、しかも飲食販売によって利益とすることが出来たからである。

さらに「1891 England Census:国勢調査」のジョゼフ・H・マリン一家に関する記録には見逃せない部分がある。家族メンバーで当時14歳の三女のCharlotteの職業欄に「Potatoe Peeler:じゃがいもの皮むき」と記載されている。ここからすると、78 Cleaveland Street のFish Frier Shopではフライド・フィッシュだけではなく、ジャガイモを揚げたチップスが出されていた可能性が非常に濃厚になってくる。つまりここではフライド・フィッシュとチップスを組み合わせた「フィッシュ&チップス」が出されていたと考えるべきだろう。

先に説明した、ジョゼフ・H・マリンの兄、ジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd でFish Frier Shopを始めたのは1895年だったことから考えると、78 Cleaveland Street のFish Frier Shopの方が時期的にも4年は先行しており、しかもフィッシュ&チップスを販売していた可能性が非常に高いということになる。
なかには 78 Cleaveland Street を最初のフィッシュ&チップス店とする記事などもあり、最初のフィッシュ&チップス店がどこだったのか混乱させられる。そこでこの場所について少し掘り下げて考えてみることにしたい。


Cleaveland Streetについて


現在、Cleavland Streetを地図で検索すると、ロンドン中心部にあるBTタワーに面した通りが示される。しかし当時はBowというイーストエンドのエリアにもCleavland Streetがあり、調べてみると、BowのCleavland Streetは、1938年から、Cleavland wayという通り名に変更されていることが分かった。よってジョゼフ・H・マリンは、Bowで店を開いていたということになる。

しかし現在のCleavland wayは68番地までしか存在しておらず、ジョゼフ・H・マリン一家が居住していた80,78番は存在していない。そこで、スコットランド国立図書館に所蔵されている「London, Five feet to the Mile, 1893-1896」という地図を確認したところ、当時のCleavland Street(現在のCleavland way)はもっと先まで伸びていて82番地まであったことが確認できた。これが分かったのは、かつて存在していたPUBの場所をまとめたpubwiki.co.ukというサイトがあり、82番地にあったBritish Carmanというパブが、Cleavland StreetとDoveton streetが交わる位置にあったということが既に分かっていたからである。こうした古地図から80、78番地にあったマリンズの位置も正確に把握できるので、以下の地図から確かめて頂きたい。

Malin, Fish & Chips

1893-1896のロンドン地図
80,78 Cleavland Streetの位置


何をもってフィッシュ&チップスの始まりとするのかは定かでないが、80 & 78 Cleaveland Streetにあったジョゼフ・H・マリンが始めた店は、フィッシュ&チップスを提供していた可能性の高い店だったと言えるだろう。


「1900年代」のジョゼフ・H・マリン


1901年刊の「1901 England Census:国勢調査」を見ると、49歳のジョゼフ・H・マリンは 264 Globe Rd に引っ越しをしている。職業は「魚屋:Fishmonger」であり、フィッシュ&チップス店の記載は無くなっている。しかし翌年の1902年に刊行された「1902 Post Office Directory」には、Fried Fish Shopの記載があり、魚屋と並行して店を続けていたことが読み取れる。この住所録には他にも3つのマリン家が営むFried Fish Shopが掲載されている。

 ① Malin John, fried fish shop, 560 Old Ford road E
 ② Malin John, jun. fried fish shop, 80 Cleaveland st.
 ③ Malin John Charles, fried fish shop, 101 Goldsmiths' row NE
 ④ Malin Joseph Henry, fried fish shop, 264 Globe road E

このようにマリン一族でロンドンのイーストエンドに複数店舗を展開していたようである。1860年にフィッシュ&チップスを売り始めたジョゼフ・マリンを第一世代とするならば、ここに挙げたフィッシュ&チップス店は、マリン一族の第二世代~第三世代の店舗である。この後、1910年代~1940年代にかけて第三世代~第四世代がさらに新たなフィッシュ&チップス店舗を展開してゆくのだが、こうした経緯は「マリンズ(Malin's)」の項で詳しく説明してあるので確認願いたい。


その後のマリン一族


マリン一族が第五世代になった、1965年からNFFF(The National Federation of Fish Frier)は最古の老舗フィッシュ&チップス店を探し始めた。調査の末にロンドンのマリンズこそがそれに該当すると認定し、1968年9月26日にチャリング・クロス・ホテルで開かれた授与式で、当時 560 Old Ford road の店のオーナーだったDennis James MALINに対して、当時の農水食糧大臣だったCledwyn Hughes(クレドウィン・ジョーンズ)が銘板を贈呈している。

Dennis Malin, Fish & Chips

Dennis Malin(左)、Cledwyn Hughes(左)


その後も数年、フィッシュ&チップス店は続けられたが、1972年にマリンズはフィッシュ&チップス店を廃業し、長年の歴史は閉じられることになったのである。現在、この子孫が経営するマリンズは存在しておらず、この名前を掲げて営業するフィッシュ&チップス店があっても、マリン家が直接関係している店ではない。


創業1860年に対する疑問


フィッシュ&チップスの歴史は1860年に、ジョセフ・マリンによって始まったというのが定説になっているが、わたしは人口調査記録や、当時の住所録、出生・婚姻記録のすべてを精査して以降、この説に対してより懐疑的な見方をするようになった。以下、その理由を改めて述べておきたいと思う。


① 行商人だったジョゼフ・マリン


既に説明した通り、創業者とされるジョゼフ・マリンの職業は「行商人:Hawker」という記載が人口調査などの記録にあるだけである。これだけだとジョゼフ・マリンは当時どのようなものを販売していたのかが全く不明である。

さらに父親や兄弟がどのようなビジネスに従事していたかも見てゆくと、父親は鞭を作る職人、弟は敷物織工であり、そもそも家業は食品を扱うという仕事ではなかった。こうした職業的な背景から考えると、ジョゼフ・マリンがフィッシュ&チップスを行商で売り始めたというのもどこか唐突な感が否めない。しかも実際にジョゼフ・マリンがフィッシュ&チップスを販売していたという文献記録はどこにも存在していないのである。さらに言うと、幾つかの大手のメディア記事も含めて、最初にジョゼフ・マリンがフィッシュ&チップス店を開いたと書いている場合があるが、これは間違いである。なぜならジョゼフ・マリンは自身で店を持たない行商人だったからである。

マリン家はもともとユダヤ人移民の家系であり、ユダヤ人がもともとフライド・フィッシュを食べていたこと、さらには居住地がユダヤ系の人々が多く住んでいたエリアにあること、さらにその家系のマリン家の者たちが後世になってフィッシュ&チップスを売り始めたということから、1860年頃にジョゼフ・マリンが最初にフィッシュ&チップスを売り始めた、あるいは店を始めたという話になっていったのではないかと思われるのである。こうした背景から見ても1860年にジョゼフ・マリンがフィッシュ&チップスを始めたとはっきりとは言えないように思える。


② ジョゼフ・H・マリンが創業者では?


マリン一族の中で最初に記録に残る魚を扱うビジネスを始めたのはジョゼフ・H・マリンであり、その時期は記録から考えると1882年-1885年までの間だったことになる。その後の1891年に行われた「人口調査記録」はフィッシュ&チップスの歴史を検討するにおいては特に重要である。この記録では 80,78 Cleaveland Street でジョゼフ・H・マリンが魚屋を営んでいた事、さらに同住所で娘の長女のMaryがフライド・フィッシュを売っていたこと、さらに三女のCharlotteの職業欄に「Potatoe Peeler:じゃがいもの皮むき」と記載されており、この時点でかなりの高確率でフィッシュ&チップスが販売されていたことが理解できる。

こうした記録から、わたしはマリン一族で始めに魚を商売で扱い始めたのはジョゼフ・H・マリンであり、しかもフィッシュ&チップスの販売を始めたのも1891年からではないかと考えている。文献的な記録からジョゼフ・H・マリンがフィッシュ&チップスを扱い始めたのが明らかになるのが1891年であるとすれば、フィッシュ&チップスの始まりとされている1860年よりも31年後の出来事になる。

つまりこうした記録を参照して考えると、必ずしもマリン一族がフィッシュ&チップスを最初に売り始めたとは言えないということになる。


③ ジョン・W・マリンの住所は創業地ではない


弟のジョゼフ・H・マリンから遅れること数年後、兄のジョン・マリンは魚屋を 560 Old Ford Rd で開始している。この住所に対する考察は非常に重要である。なぜなら、ここがフィッシュ&チップス始まりの地であるとする記事が多く存在しているからである。その中には料理史研究家のクローディア・ローデン(Claudia Roden)の「最初の公式フィッシュ&チップスショップが、1860年にジョセフ・マリンによってレディフランクリンパブの向かいのオールドフォードロードに設立された」というものもある。

このように 560 Old Ford Rd という住所を創業地とする見解は多く主流とも言えるのだが、わたしは調査を通してこうした見解は全くの誤りであると断言する。なぜならば 560 Old Ford Rd という住所は、1891年頃にジョン・W・マリンが転居して魚屋を開いた場所であり、ジョン・W・マリン自身もそれまでの仕事は雑貨商であったからである。

しかも先に述べたように、弟のジョゼフ・H・マリンが先行して 80,78 Cleaveland Street でフィッシュ&チップスを売り始めており、ここから考えても 560 Old Ford Rd をもってして最初のフィッシュ&チップス店のあった場所とするのは明らかに間違いであると言える。

こうした間違いの原因は、最古のフィッシュ&チップス店として選ばれたときに、この店が、マリン一族のフィッシュ&チップス店のなかで、最も古くから営業していた店だったからだろう。さらに最古のフィッシュ&チップス店と認定された際にも、銘板の授与が、この店を営むマリン家第5世代のDennis James (Denny) MALIN(1924–1989)に対して行われたことからも、こうした誤解が広がったものと考えられる。

よってジョン・W・マリンが 560 Old Ford Rd に開いたフィッシュ&チップス店は、1860年に繋がるものではなく、最初のフィッシュ&チップス販売の地でもないということになる。


④ 調査方法に対する懸念


マリンズが1860年からフィッシュ&チップス販売を行っていたと認定したのは、1913年に設立されたNFFF(The National Federation of Fish Friers)であり、1968年に農水食糧大臣によるお墨付きを得て正式に発表が行われている。フィッシュ&チップスの起源に関する調査は、その3年前の1965年からNFFFが着手し始めており、この年にNFFFは既に「フィッシュとチップスの結婚100周年」を祝っているのだが、このことは見過ごすべきでないポイントだと言える。つまりこの時点からフィッシュ&チップスが誕生してから100年は経過しているという、強いバイアスが調査には働いていたことが推測されるからである。

しかもマリンズに対して行われたNFFFの調査方法はどのようなものだったのだろうか。マリンズは市井のローカルなフィッシュ&チップス店でしかなく、当然ながら文献的な記録が残されているはずがない。よってその調査は主にその子孫に対する聞き取りを中心にして行われたものと考えられる。

100年もの前の出来事に関する聞き取り調査が行われたのは、マリン一族の第3世代のArthur Albert MALIN (1885–1968)、あるいは第4世代のErnest MALIN (1901-1995) や、Albert Benjamin MALIN(1894–1993)とその息子で第5世代になるDennis James (Denny) MALIN(1924–1989)だった。彼らは各々フィッシュ&チップス店を経営はしていたが、彼らはジョゼフ・マリンの直系ではなく、元は敷物織工を生涯の仕事とした弟のチャールズの子孫たちである。

マリン一族の家系を調べると、複数のジョゼフ(Joseph)を名乗るマリン家の者がいたことが分かっているが、100年も前のジョゼフ・マリンという人物について、その後の子孫がどれほどの事を知っていたのかについては疑問である。最も近い第3世代のArthur Albert MALINでも、その生年はジョゼフ・マリンと重複しておらず、しかも自身の祖父の兄にあたることから、つながりは薄いものだった可能性がある。

さらに人口調査記録などから分かることは、きちんとした店をもってフィッシュ&チップスを販売し始めたのは、ジョゼフ・マリンの甥にあたるジョン・W・マリンとジョゼフ・H・マリンという兄弟からである。彼等はもともと織物職工として働いたので、ジョゼフ・マリンから店を引き継いだわけでも、その商売を教えてもらった訳でもない。つまり1860年にジョゼフ・マリンが行商を始めてから、この2人がフィッシュ&チップスを販売し始めるまでは約25~30年近いブランクが生じていることになる。

名家一族の歴史ならばともかく、市井のユダヤ人移民の一族内からの聞き取りである。しかもジョゼフ(Joseph)を名乗る人物は複数おり、こうした先祖の話が混濁して、正確な情報は伝わりにくかったのではないかと考えられる。実際にジョゼフ・マリンは、ジョン・W・マリンと混同して13歳の少年がフィッシュ&チップスを販売し始めたという情報があったり、またジョゼフ・マリンと、ジョゼフ・H・マリンを混同してフィッシュ&チップス店の始まりが語られたりしている情報もある。また創業地が 560 Old Ford Rd あるいは 80,78 Cleaveland Street と錯綜した情報になっているのも、こうした聞き取りからの情報による混濁が原因になっているとも考えられる。


本当にフィッシュ&チップスを始めたのはマリン家か?


こうした①~④の理由で、わたしはマリン一族が最初にフィッシュ&チップス店を始めたという説には懐疑的である。近年はそうした見方がされるようになってきているようで、フィッシュ&チップスの起源が語られる際には、もう一軒、1863年にフィッシュ&チップスの販売を始めたとされる、北部にあった リーズィズ(Lees's)とマリンズが一緒に語られるようになっており、最初のフィッシュ&チップス店がどこだったかについての断定は避けられるようになっている。ここまでマリンズについて説明をしてきたが、ここからは公平を期してもう一軒の最古と考えられている「リーズィズ(Lees's)」についても説明を加えることにしたい。


もうひとつの最古のフィッシュ & チップス店


最古のフィッシュ & チップス店は何処なのか? この問題に関してはNFFFが最古のフィッシュ & チップス店認定をした1968年当時から大きな論争があった。ロンドンのマリンズともうひとつ別に、イングランド北部のランカシャー州のモスリー(Mossley)という町にあるジョン・リーズ(John Lees)が始めた Lees's Chiped Poteto Restaurant こそが最古であるとする意見があり、最後までどちらが最古のフィッシュ & チップス店か大いに紛糾したようである。以下にリーズ家の家系図を残された国勢調査記録などから作成したので掲載しておく。主要な人物をピンク色でマークしてあるので、これから行う説明の参考にして頂きたい。

Malin Family tree

クリックでPDF拡大図が確認できます。



 John Lees(1833-1912)


1863年、ジョン・リーズ(1833-1912)はモスリー(Mossley)のマーケットにある木製の小屋でフィッシュ & チップスの販売を始めたと考えられている。しかし実際にこのような早期からフィッシュ&チップスを販売していたのだろうか。ここからはそれを裏付ける記録から検証することにしてみたい。

John Lees, Fish & Chips

John Leesの自署



「1840年代」のジョン・リーズ


ジョン・リーズについての最初の記録は『1841 England Census:国勢調査』に存在している。当時のジョン・リーズはまだ8歳であるが、父のジョン・リーズ(名前が同じでややこしい)が亡くなり、母親のAliceが、George Wadsworthという男性と1840年に再婚した為にステップ・ファミリーのメンバーとして記録されている。母は再婚したので名字がWadsworthになっているが、連れ子のジョンの名字はリーズ姓のままである。
ジョン・リーズの地元はヨークシャー州のサドルワース(Saddleworth)であり、若い時代はこの地で暮らしていた。サドルワースはヨークシャー州ではあるが、後にジョン・リーズがフィッシュ & チップスの店を始める、ランカシャー州モスリーと境界を接する地であるので、地理的にはほとんど同じエリアと言っても良いかもしれない。ジョン・リーズは双方の地を往復して何度か引っ越しを行っており、その生涯を送った中心的なエリアであったということになる。


「1850年代」のジョン・リーズ


ジョン・リーズの次の記録は『1851 England Census:国勢調査』である。18歳のジョン・リーズは実家に同居している。注目すべきはジョン・リーズの当時の職業が「糸巻:Cotton Reeler」と記録されていることである。地元がランカシャーに近く、他にも紡績産業に従事する者がこのエリアに多数いたことが記録からも読み取れることから、ジョン・リーズもまたこうした産業に従事するひとりだったということが分かる。


「1860年代」のジョン・リーズ


次の記録は『1861 England Census:国勢調査』である。29歳になったジョン・リーズは結婚をして世帯を持ち一子をもうけている。職業は「毛織物工:Woolen Spinner」とある。1860年にロンドンでジョセフ・マリンがフィッシュ & チップスを売り始めたとされる時期、ジョン・リーズはまだイングランド北部で紡績業に従事する労働者だったということになる。ジョン・リーズは、この調査から2年後の1863年にフィッシュ & チップスを売り始めたことになっているが、どうだったのかを続く文書記録から確認しておきたい。


「1870年代」のジョン・リーズ


『1871 England Census:国勢調査』には、39歳のジョン・リーズの職業が「毛織物工:W Spinner」とあり、住まいはヨークシャー州のサドルワース(Saddleworth)となっている。1863年から既に8年が経過しているが、つまりまだこの時点でジョン・リーズは、モスリーでフィッシュ & チップス店を営んでいなかったということになる。しかしこの記録をもって、ジョン・リーズが最初にフィッシュ & チップスは売り始めたのではないと即座に否定はできない。なぜならジョン・リーズが販売していたモスリーのマーケットは固定の店舗ではなく、週末などに開かれる野外マーケットのようなものだとも考えられるからである。

John Lees, Fish & Chips

モスリーのマーケット:1910年発行地図


上図は1910年発行の地図である。モスリー市街の道の集まる場所が広場になっていて、そこがマーケットの場所になっていたことが分かる。この場所は現在「Mossley Market Place」と呼ばれる広場で、ここに設置されているブループラークによると1800年初めからコミュニティライフの中心地であったことが記されている。つまりこの広場は固定の店舗が常に営業していたという訳ではなく、週末やイベント時に人々が集まるようなタイプの野外市場だったということである。

ここからジョン・リーズは、通常は織物工として仕事をしながら、週末に副業としてフィッシュ & チップスを売り始めたのではないかということが考えられる。後年に実店舗(地図のの位置)でフィッシュ & チップス店を営業するようになっているが、そうした過渡期の経験があったことから、やがて本格的にフィッシュ & チップスの販売を始めるようになったとも言えるだろう。


「1880年代」のジョン・リーズ


『1881 England Census:国勢調査』には、49歳のジョン・リーズの職業は綿織物工:Cotton Spinner」とあり、登録された住所はヨークシャー州のサドルワース(Saddleworth)である。ここでもまだフィッシュ & チップス店を始めていない。『1885 Kelly's Directory』を確認したが、モスリーにジョン・リーズの名前はなく、1885年の段階ではまだモスリーに住んでいなかったということになる。


「1890年代」のジョン・リーズ


1891年の記録になって始めてモスリーに移住したことが分かる。『1891 England Census:国勢調査』では、58歳だったジョン・リーズの職業は「喫茶店(軽食店)経営:Refreshment Room keeper」とあり、住所は 10 Waterton Lane, Mossley となっている。つまりここでようやくフィッシュ & チップスを売っていたのではないかと推測される範囲内の職業が記録に登場したということになる。

さらにこの記録で注目すべきは、9歳の四男のチャニング・リーズ(Channing Lees)の存在である。この人物もまた、後に父親の仕事と同じくフィッシュ & チップス店を経営することになるからである。

この記録の翌年に出版された、『1892 Kelly's Directory』には職業別の項目があり、Fried Fish Dealerのリストのなかにジョン・リーズの名前と Stamford St という住所が記載されている。ここには番地は記されていないが、その場所はその後に記載されるようになる41番地だったことは間違いない。
Fried Fish Dealerとして挙げられているこの記録をもって、文献的な証拠から確実にジョン・リーズが現在のフィッシュ & チップスを販売していた証拠とすることが出来る。しかし1892年のこのリストが示すように、既に62軒のフライド・フィッシュの店がランカシャーだけでも存在しており、これだけだとジョン・リーズが特に新しくフィッシュ & チップスを販売したという証拠にはなっていない。

41 Stamford St, Mossley はフィッシュ & チップス史を語る上では重要な店の場所である。なぜならば後にこの店のウィンドウには「OLDEST ESTD. IN THE WORLD」が掲げられ、世界で最も古い店であることを自ら主張した場所だからである。
こうしたことから、この店こそが最古のフィッシュ & チップス店であるとする意見があるのだが、この 41 Stamford St の店をもって、最古のフィッシュ & チップス店と断定するのは間違いである。なぜならこの店の歴史は、記録が示すようにどんなに古くても1892年ぐらいまでしか遡れないからである。しかもそれまでのジョン・リーズの職歴は機織工となっており、この記録よりも約30年前の、1863年にジョン・リーズが最初にフィッシュ & チップスを販売し始めたという意見を証明するのは非常に難しいように思える。

いずれにせよ、この 41 Stamford St の店は長く続いたようで、ジョン・リーズの後には、四男のチャニング・リーズがその後を継ぐようにしてフィッシュ & チップス店を営業するようになる。つまり親子二代がフィッシュ & チップスを数十年にわたって販売し続けたのが、正にこの店だったのである。


「1900年代」のジョン・リーズ


『1901 England Census:国勢調査』の記録には、当時69歳になっていたジョン・リーズが 84 Stamford Rd, Mossley に住んでいたことが記載されている。この場所は、先の Stamford St とは異なる住所で、町の北側に位置する場所になる。 なぜかジョン・リーズは家族から離れてひとりだけこの住所に間借人(lodger)として登録されている。ジョン・リーズの妻マーサは少し離れた四男のチャリングの家族と同居しており、主人のジョン・リーズとは別居して生活していたようである。理由は分からないが、何らかの複雑な夫婦関係がこの記録から垣間見ることが出来そうである。

数年後の1905年に出版された、『1905 Kelly's Directory』の中の「Fried Fish Dealer」の項目には、ジョン・リーズが 83 Stamford Rd で営業していたことが記載されている。1901年の記録では住まいが 84 Stamford Rd とあったので、店の場所は道路を隔てた向かいだったということになるのだろう。


 Channing Lees(1871-1952)


引き続き『1905 Kelly's Directory』に注目すると、この時に息子のチャニング・リーズ(Channing Lees)が、 41 Stamford St でフライド・フィッシュの店を営業していたことが記載されている。1892年頃にこの地でジョン・リーズが始めた店は、1901年~1902年頃に息子のチャニング・リーズに引き継がれたと考えられる。

1902年に撮られた写真を見てみると、この頃の 41 Stamford St にあった店の雰囲気を知ることが出来る。店名は「Lees's」となっており、その下に「Chip Potato Restaurant」と書かれている。チップポテトのレストランとあるが、既に『Kelly's Directory』(住所録)に1892年からFried Fish Dealerの項目に掲載されているので、フィッシュ & チップスの店であることには間違いない。

Fish & Chips

1902年のLees's Chiped Poteto Restaurantと現在


また店には「OLDEST ESTD. IN THE WORLD」とも書かれていて、世界で最初のフィッシュ & チップスの店であると自認している。現在、北部にあった リーズィズ(Lees's)は無くなってしまい、その跡地で「Man's Wok」というオリエンタル料理の店が営業をしている。上記の写真は当時の写真と、現代の写真を並べたものだが、建物の雰囲気は変わらず昔のままなので、当時の面影を十分に感じることが出来るだろう。

さてここに写っている三人は誰なのかという疑問が生じることになる。これをあたかもジョン・リーズであるかのように紹介している記事を見かけることがあるが、1902年にジョン・リーズは別の場所に店を開いていることや、この当時の年齢は既に70歳になっていることを考えると、写真に写っているのはジョン・リーズではなく、息子のチャニング・リーズであると考えるべきだろう。左隣の子供はチャニング・リーズの長男で当時4歳になっていたFrank Lees(1898–1971)ではないだろうか。これに対して右隣の男性を誰かを推測するのは難しい。しかし『1901 England Census:国勢調査』では、チャニング・リーズの世帯の中に、14歳で甥のチャニング・リーズ(同じ名前で紛らわしい)が含まれている。よって1902年に店の前で撮られたこの写真に写っているのは、当時15歳だったチャニング・リーズだったと思われる。

Fish & Chips

チャニング・リーズ(Channing Lees)自書


1902年に 41 Stamford St にある店の前で撮られた写真には、このような背景があり、既にこの頃はジョン・リーズではなく、息子のチャニング・リーズが店主であったことを証明するものとなっているのである。


「1910年代」のジョンとチャニング・リーズ


『1911 England Census:国勢調査』のジョン・リーズの職業欄には「引退した紡績工」と記載されている。この時にジョン・リーズは79歳になっており、仕事を辞め一人でリタイア生活を送っている。住所は 86 Stamford Rd とあるので、1901年調査の時の隣に引っ越して住んでいたことになる。残念なことにこの翌年の1912年10月2日にジョン・リーズは79歳あるいは80歳で亡くなっており、モスリー墓地にあるジョン・リーズの墓からこの死亡年月日が分かるようになっている。

同年の息子チャニング・リーズについては、『1911 England Census:国勢調査』では、1 Mountain Street, Mossley に住所が登録されている。しかしチャニング・リーズは後年まで 41 Stamford St で店を開いており、ここから自宅と店舗は分けていたということが分かる。自宅はMarket Placeという広場を挟んだ向かいにあり、店との距離も都合の良いものだったと言えるだろう。
チャニングの職業欄はチップドポテト店(Chiped Potato Shop)とあり、父親のジョン・リーズから受け継いだ店でフィッシュ & チップスを販売し続けたということになる。


その後の記録


ジョン・リーズは亡くなってしまったが、その後も息子のチャニング・リーズがフィッシュ & チップス店を続けていたことが、『1924 Kelly's Directory』から分かる。この記録にはそれまで靴製造を営んでいた、兄のSquire Lees(1862–1930)が始めたフィッシュ & チップス店の住所 32 Manchester Rd も記載されている。

このようにモスリーでは、リーズ一族がフィッシュ&チップスを先駆けて販売し、店を展開していった。こうした店の歴史的な背景があったことから、ジョン・リーズがフィッシュ&チップスの販売を昔から始めていたと考えられるようになっていったのではないだろうか。しかし残された文献的な記録を調べるならば、それが本当に1863年からだったかについては大きな疑問が残ることになる。

ランカシャー・モスリーの北部にあった リーズィズ(Lees's)と、ロンドン・イーストエンドのマリンズのどちらが先に販売を始めたのかについては、こうした文献記録をたどっても正確な開始年数を断言することは難しいというのが現実である。それでも共にフィッシュ&チップスの草創期に販売を始めたというところだけは間違いないように思えるのである。


イングランド北部のチップスの拡大


1863年にジョン・リーズがモスリーのマーケットでフィッシュ&チップスを売り始めたとされる頃、モスリーから車で15分ほど離れたオールダム(Oldham)では既にチップスの販売が始められていた。オールダムにある、トミーズフィールド・マーケット(Tommyfield Market)がチップス発祥の地であるとされており、ここでチップスの存在を知ったジョン・リーズが、フィッシュフライとチップスを合わせて販売することを思いついたという説もある。

しかし『Frying Tonight: The Saga Of Fish And Chips』を著したジェラルド・プリーストランドによると、リーズィズは当時まだチップスの販売のみで、フィッシュフライは販売していなかったとして、フィッシュ & チップスを売り始めたのはもう少し年代が下がるという見方をしている。一通りの文献調査をしてみた私の感想も正に同じで、ジョン・リーズが1860年代からフライド・フィッシュを売っていたことには懐疑的な見解である。

加えて北部にあった リーズィズ(Lees's)の店名は「Lees's Chiped Poteto Restaurant」であるので、やはりフィッシュフライとの関係が希薄であることは否めない。これはロンドンの店のほとんどが、初期は「Fish Fry Shop」と名乗っていたことと非常に対照的である。
フィッシュ & チップスの発展の歴史を見てゆくと、ロンドンではフィッシュフライが先行しており、後からチップスが組み合わされていったのに対して、イングランド北部のランカシャーではチップスが先行しており、後からフィッシュフライを組み合わされていったことが理解できる。このようなロンドンとランカシャーでのフィッシュ&チップスへの発展を考察するにおいて、当時のランカシャーの各都市がどのような性格を有していたのかも知っておく必要があるだろう。

まずは産業革命という時代が、フィッシュ & チップスがランカシャーで発展したことに大きく関係している。なぜならば産業革命による多くの産業の工業化によって、多くの労働者たちが北部で紡績業に携わるようになっていたからである。特にランカシャーの中核都市であるマンチェスターは綿織物の生産地として、急速に発展を遂げた場所であった。このグレーター・マンチェスター(中心部)を取り囲むようにして、ボルトン、プレストン、ストックポート、オールハムなどの各都市も、綿織物産業に関係した労働者が住むようになっていた。実際に当時のランカシャーの住所録にある職業欄を見てゆくと、綿織物に関係した仕事に従事している人々が実に多いことに気付かされる。

こうした労働者の「食」として、フィッシュ & チップスが人気を得て、この地に根付いていったと考えるのは理にかなったことだと言えるだろう。1992年に出版された、ジョン・K・ウォルトン(John K. Walton)の『Fish and Chips, and the British Working Class, 1870-1940』では、イングランド北部においてフィッシュ & チップスがどのように始められ、広がって行ったのかが詳しく説明されている。

John Lees, Fish & Chips

Fish and Chips, and the British Working Class, 1870-1940


この本のなかでジョン・K・ウォルトンは、フライド・フィッシュはユダヤ人由来の料理としてロンドンで先行していたのに対して、イングランド北部のランカシャーではチップス(揚げたジャガイモ)が先行していたとして、チップスを売る販売業者が、どのタイミングでフライド・フィッシュの販売も始めたのかが、フィッシュ & チップスの始まりを考える上では重要なポイントであることを指摘している。

北部にあった リーズィズ(Lees's)も、その正式名が「Lees's Chiped Poteto Restaurant」であり、やはりイングランド北部特有のジャガイモを中心とした店であったことが明らかである。「リーズィズ」は看板に「OLDEST ESTD. IN THE WORLD」を掲げ、最古の店であることを売りにしている。だがもしそうであるとするのならば、1860年にフィッシュ & チップスの販売を始めたロンドンのマリンズの主張とは相対することになる。

そこで最古のフィッシュ & チップスを考えるにおいては、ジョン・K・ウォルトンの指摘の通り、リーズィズがどのタイミングでフライド・フィッシュも販売していたのかという事がどうしても最重要ポイントとなる。しかしながらそれを裏付ける文献的な証拠はなく、マリンズのように店が世代を超えて継承されなかったためか、口承による情報も少なく、リーズィズが最古の店であるとはっきり断定することは難しいように思える。こうした観点から考えるとロンドンのマリンズも、ランカシャーのリーズィズも、どちらが古いのかを断定することは難しい。現在はNFFFも、フィッシュ & チップスの始まりについて言及する際には、マリンズとリーズィズの両方について触れるようにしているようなので、やはりその始まりを断定することは難しいというのが答えということになるのだろう。


移民、貧困と織物産業


今回の マリンズ(Malin's)と北部にあった リーズィズ(Lees's)のうちどちらが最古であるのかを考察するにおいて、わたしはフィッシュ & チップスの始まりには「貧困と織物産業」という大きな二つの要素が関係していたことに改めて気付かされることになった。

ロンドンの貧困層の多くには、移民としてイギリスに入ってきたユダヤ人が含まれており、ユダヤ人たちは特定の地域(ゲットー)に居住して治安の悪い貧民街を形成していた。そうしたエリアはロンドンのイーストエンドに集中し、その地域は正にフィッシュ & チップスが生まれたエリアになっていったのである。なぜならフィッシュフライはそもそもユダヤ人の料理、ペスカド・フリートに由来し、セファルディ系ユダヤ人たちによってイベリア半島(スペイン・ポルトガル)からイギリスにもたらされた料理だったからである。

ランカシャーでも同様で、チップスの誕生もジャガイモ飢饉のために、アイルランド人がイングランド北部に流入したことや、そうした人々が産業革命によって拡大した産業労働者として働くようになったことからイギリスに定着するようになっていった。かつては貧困層にあった人々が、工場労働者として雇用されることで安定的な賃金を得られるようになったこともフィッシュ & チップスの拡大に大きく関係していたと言えるだろう。これもまたいわゆるワーキングクラス(労働者階級)の人々の間でフィッシュ & チップスが消費されたことの理由となっている。

さらにロンドンにおいても、ランカシャーにおいても織物産業の担い手の層と考えられる人々が、フィッシュ & チップス店営業の担い手になっていったというところも興味深い共通点である。産業革命以前のロンドンでは、もともとこうした手間を要するにも関わらず、実質収入の少ない仕事に従事していたのは移民などの貧困層の人々であった。イーストエンドのマリン家も「敷物織工:Rug Weaver」に従事した人々であり、その後、フィッシュ & チップス店の経営に商売替えしたのもそうした理由があったからかもしれない。マリン家の記録を調査するにあたり、同じエリアに住んでいる人々の家族構成や職業も見ることになったが、やはり「織工:Weaver」が多く含まれていたことは印象的であった。ひと頃はこのような織工の人々の居住地と、ユダヤ人居住地、さらには貧困層の人々の居住地はある程度重なっていたのではないかと考えられる。

産業革命によってランカシャーは織物産業の世界的な一大拠点となる。特に工業化を進めることで綿織物では世界トップの生産量を誇っていた時代もあった。このような工業的な綿織物産業の担い手として、飢饉によってアイルランドから移民として定住していった人々が従事するようになったということも「貧困と織物産業」という観点から見ると象徴的であるように思える。こうしたワーキングクラスの人々の需要に支えられてイングランド北部ではフィッシュ & チップスが広がっていったというのは大変に興味深い事実なのである。

イングランド北部でフィッシュ & チップスの販売を始めたとされるジョン・リーズも人口調査記録などを見ると元々は紡績産業に従事する職工であったことが分かる。彼が店を持ったのは、ランカシャーのモスリーという町であるが、このモスリーはランカシャー州、ヨークシャー州、チェシャ―州に接する州境の街である。ランカシャーの綿産業が中心であったのに対して、ヨークシャー州は毛織物産業の地である。ジョン・リーズは綿織物、毛織物と両方の織工として仕事を行っている記録があり、またその家族やそれ以外のモスリーに住む人々の記録を見てゆくと、ほとんどの家族を構成する誰かが、こうした繊維・織物産業に従事していたことが分かる。

イングランド北部では、産業革命によって夫婦あるいは家族成員が総出で紡績産業に従事するようになったことも、家事の軽減のためのフィッシュ & チップス店利用を後押ししたのではないかと考えられる。産業革命は主婦にも女性にも労働の機会を広げることになるが、労働者として従事するようになった女性にとっては、持ち帰りのフィッシュ & チップスは、家族に料理を提供するために便利な手段となったことだろう。こうした産業的な背景も、イングランド北部においてフィッシュ & チップスの販売が最初に始められたとする見解や、また実際にその地域において急速に広がっていったことの理由として考えられるのである。

こうした背景を考えてみると、ロンドンにおいても、またランカシャーにおいても、その成り立ちは多少異なっていても、フィッシュ & チップスという料理はやはり庶民の生活と共に発展してきた「食」であるということが理解できる。第二次世界大戦の最中の困難な時期に、時の首相だったウィンストン・チャーチルはフィッシュ & チップスの事を「よき友:Good Companion」と呼んだが、これは正にフィッシュ & チップスという料理の歴史が、困難、貧困、飢餓と共にあり、そうした逆境をくぐり抜けてイギリスに根付いていった料理だったからに他ならない。

フィッシュ & チップスはこうした困難な時代を乗り越える下支えとなったことで、イギリス社会に根付き、愛される親しみ深い料理になっていったものと考えられる。そしてそれは、やがてイギリス人のアイデンティティを表す料理にへと成長したのである。そういう意味で、フィッシュ & チップスにはイギリス的なものを感じるイギリス人は多いのではないかと思う。それと同時にイギリスを語る時にフィッシュ & チップスも引き合いに出されることがあるのは、こうした背景の故なのだろう。こうしてフィッシュ & チップスはイギリスのナショナルフード(National Food)となっていったのである。


フィッシュ & チップスの個人的な思い出


わたしはイギリスに在住していた数年間、良くフィッシュ・アンド・チップスの店を周ってあちらこちらで食べていた。単にフィッシュ・アンド・チップスと言っても、店やエリアで味わいが様々で、魚そのものが旨い店や、フライドポテトが旨い店、フィッシュ・アンド・チップスにかけるモルトヴィネガーが何だか旨い店、添えられるソース(ヨークシャーはマッシュピー、バーミンガムはカレーソースが人気らしい)が旨い店など様々で奥が深いのである。

イギリスの都市部のどの街でも同様だと思うが、わたしの住むリーズ(Leeds)には小さな労働者階級向けの持ち帰りのフィッシュ・アンド・チップスが至る所にあった。通常こうした店のフィッシュ・アンド・チップスは揚げ油を使い回しているためにカラリとではなく、油がギットリと揚がっていて色も濃い。そしてこうしたフィッシュ・アンド・チップスの店では必ずコーラが売られ、フィッシュ・アンド・チップスにコーラがセットで付いてくるようになっているので、油もののフィッシュ・アンド・チップスにコーラを合わせて食べることになる。最初は違和感があったが、やがては何故かこの組み合わせが癖になる、正に、イギリス労働者階級のテイストなのである。

ウェストヨークシャーのリーズの郊外にあるギーズリー(Guiseley)という街には、イギリス国内で最も有名なハリー・ラムスデンズ(Harry Ramsden's)というフィッシュ・アンド・チップスレストランの本店があった。当時は「世界最大のフィッシュ・アンド・チップスレストラン」というキャッチフレーズで売っていたが、この創業の地のレストランは、現在、売却されて他のレストランになってしまっている。ここは大きな駐車場が併設され、フィッシュ・アンド・チップスを目的に観光バスなどが乗り付けられるレストランだった。わたしもフィッシュ・アンド・チップスを食べに行ったことがあり印象深い所である。

さてハリー・ラムスデンズのフィッシュ・アンド・チップスであるが、ちゃんとしたレストランであるだけでなく高級路線で売っていたので、カラリと軽く白っぽく揚がった、間違いなく油もフレッシュなものに変えているなと感じるフィッシュ・アンド・チップスだった。本来ならばこうしたフィッシュ・アンド・チップスを「天麩羅」の国から来た日本人であるわたしは喜ぶべきところであろうが、庶民的なギットりとしたフィッシュ・アンド・チップスに慣れてしまっていたわたしには何だか物足りなく感じたのを今でもはっきりと覚えている。


黒っぽい天丼と白っぽい天丼


こうした味の嗜好における階級・階層の違いは世界中で共通していて、それは日本でも同様に見られる。「天麩羅」はもともと屋台で始まった料理で、かつて屋台で売られていた天麩羅は胡麻油で揚げられていた。これはかつて天麩羅のことは江戸で「胡麻揚げ」と呼んでいたことからも明らかである。今でも屋台系統の伝統を受け継ぐ店では天麩羅を胡麻油の配合の高い油で揚げている。しかし時代が下がり江戸時代後期になって店舗で供されるお座敷天ぷらが始まると、こうした店では香りも色も薄い太白油を使って天麩羅は揚げられるようになった。
胡麻油と太白油も共にゴマから採った油であるが、その違いは、胡麻油の方は焙煎してから圧搾するのに対し、太白油は生のゴマを搾って作られる油というところである。よって太白油には、胡麻油にあるような強い香りはなく、揚げあがりは白色でサクっとした軽い口当たりに仕上がる。

天丼

色の異なる天丼


屋台の方は重い揚がりの胡麻油を使うだけでなく、屋台であるがゆえに油を頻繁に取り替えることが出来なかったので油は継ぎ足され、同時に経費削減の為に油が黒くなるまで使っていたことから、揚げ上がりはどうしても濃い色になる。これに江戸前の濃いタレをかけるのが屋台の系譜にある黒っぽい天丼である。これに対して、座敷のある店舗で供される天ぷらは太白油を使い、しかも油も循環させて使い回すことはしないので白くサクっと揚がる。また太白油だけでなく、紅花油などの他の種類の油を混ぜて使う事でも軽い味わいを実現している。このように同じ江戸の天ぷらであっても、屋台系と座敷系の天ぷらでは大きな違いがあるのだ。

こうした黒っぽい天丼と白っぽい天丼の違いは、それを好む階級の違いにも繋がっている。江戸の庶民や労働者たちは、日常的に屋台で出される濃い味付けの黒っぽい天丼を好んで食べたであろう。それは油による高いカロリー摂取を好むことや、こってりとした味の厚みを求めるそうした層の人々の嗜好とマッチしたものだった。

それに対して特権階級者や上流階級の者たちは、肉体労働に従事することもないので、油少なくカラッと揚げられた白い天丼、あるいは天ぷらを好んだ。また屋台ではなく店舗で食することから値段は当然ながら高価なもので、そのような外食に大金を費やすにはそれなりの富裕層であることも求められたはずである。よって階層によって天ぷらに対する嗜好も庶民と富裕層で分かれるようになっていったことは当然のことのように思われる。


フィッシュ & チップスと階級


イギリスのフィッシュ & チップスも同様で、上流階級の人々の好みはやはりカラリと軽く揚がった方で、こうしたフィッシュ & チップスはレストランで供される。それに対して町のフィッシュ & チップス店のものは持ち帰り(Take away)が中心であり、油は頻繁には変えられていないために色が濃く重めの味わいに揚がっている。こうしたフィッシュ & チップスの味の嗜好とスタイルの違いは、先の白い天丼と黒い天丼と全く同じであると言って良いだろう。こうした背景から考えると、フィッシュ & チップスという料理は明らかに庶民の為の料理である。よってフィッシュ & チップスの味の本質は、労働者階級向けに作られた方のスタイルにあると言って良いのかもしれない。

そもそも様々な料理を見ても、揚げ物料理というのはその本質において庶民的な要素をもっている料理であり、あまり高級なものと見なされていない場合が多い。例えば庶民総菜として挙げられる料理はコロッケや唐揚げであるが、これらは庶民の食卓にのぼる代表的な料理なので高級料理として扱われることはない。

またインドにはカースト制度があり、高いカーストにいる者は、あまりにも低いカーストの者が作る料理を口にすることが出来ないようになっている。しかし例外的にギ―(Ghee)と呼ばれる油で揚げたサモサのような料理は浄化されたものと見なされ、カーストを超えて食べることが出来る。この事は揚げ物という料理方法が低いカーストよって作られるものであること、そこから揚げるという料理方法が庶民に属するものであることを示している。

さらには既に説明したように、本来フライド・フィッシュは貧困層のユダヤ人の民族料理だった。歴史的にユダヤ人たちは時には迫害を受け、ユダヤ教の習慣をかたくなに守ったことから処刑されるような時代もあった。フライド・フィッシュはユダヤ教の戒律を守るために好んで食べられてきた料理だったが、こうした料理を食べることそのものがユダヤ人にとっては、自身のアイデンティティに深く根差す行為だったのではないだろうか。
やがてこのフライド・フィッシュという料理はイギリスに伝えられ、フィッシュ & チップスとして全国に広まっていった。こうした背景には産業革命以降の労働者階級の増加があり、このような庶民層が日常的に好んでフィッシュ & チップスを食べたことも、この料理が国民食と言われるまでに成長した大きな理由となっている。


NFFF(National Federation of Fish Friers)


NFFFは1913年に創設されたフィッシュ & チップスを扱う業者のための団体である。日本語で表記すると「フィッシュ・フライヤーズ全国連盟」ということになるだろうか。NFFFは『Fish Friers Review』という機関誌を発行しており、フィッシュ & チップスにまつわる業界への情報発信も努めている。本部はイングランド北部の都市のリーズ(Leeds)の 4 Greenwood Mount, Meanwood にある。

わたしにとってリーズ(Leeds)は数年間住んでいた親しみ深い都市である。NFFF本部は、わたしの住んでいた場所から1km圏内にある生活範囲であり、Meanwoodの辺りは良く行き来していた。しかし残念ながらまだその時にはNFFFの存在を意識するというようなこともなく、そういう組織が近所にあることすら知らなかった。
NFFF本部があることから分かるように、リーズはある意味フィッシュ & チップスの中心地であるとも言える。イングランド北部はそもそもフィッシュ & チップス興隆の地であり、北部の都市であるリーズには持ち帰り(Take away)のフィッシュ & チップス店がいくつもある。よって知ってか知らずか、わたしは無意識にこうした地域でフィッシュ & チップスを日常的に食べていたのであり、こうした環境もまた、わたし自身のフィッシュ & チップスの嗜好を育んだとも言える。最初にわたしはフィッシュ & チップスが大好きであると言ったのは、こうした経験がその背後にあるからである。フィッシュ & チップスは油で揚げただけの料理と思われているが、これがなかなか、本物(わたしの好み?)のフィッシュ & チップスを食べることができるお店は日本では少ない。本稿が日本でのフィッシュ & チップスの理解と発展に何らかの一助となれば幸甚である。


さいごに


フィッシュ & チップスは何といっても庶民の生活から生まれた料理である。フィッシュ・アンド・チップスはちゃっちい木のフォークで突きながらコーラを飲みながら食べるのが庶民流である。

何度も強調するが、フィッシュ & チップスは本来、スペイン・ポルトガルのセファルディ系ユダヤ人の料理である。そしてこれは我々日本人にとっても非常に興味深い史実となっている。なぜならイギリスという島国にたどり着いたユダヤ人セファルディ由来の料理がフィッシュ&チップスとしてイギリスを代表する国民食に定着したように、同じく極東の島国の日本においても、ユダヤ人セファルディの料理が日本食を代表する「天麩羅」という料理に発展したからである。こうした西洋・東洋の共通点は、見過ごすべきではないし、天麩羅の今一つ曖昧なその起源を考えるにおいても、これは無視することが出来ない要素となっていることを理解しておかなければならないだろう。

ユダヤ人の料理がイギリスではフィッシュ & チップスに、一方、日本では天麩羅になったということは、フィッシュ & チップスも天麩羅もその祖を同じくする料理であるということになる。こうした料理のつながりは今後更に明らかにされるべきことであるし、その事をぜひとも多くの皆さんに理解して頂きたいと願いつつ、ここで終えることにしたい。







参考資料


『フィッシュ・アンド・チップスの歴史-英国の食と移民』 パニコス・パナイー 著 栢木清吾 訳

『Fish and Chips: A History 』 Panikos Panayi

『Encyclopaedia Judaica』Second Rdition Fred Skolnik, Editor in Chief

『Oliver Twist』 Charles Dickens

『The Field Lane Story』 Field Lane

『London: A Pilgrimage』 Gustave Doré

『The Art of Cookery Made Plain and Easy(Edinburgh版 1781)』 Hannah Glasse

『The Jewish Manual』 A Lady

『The Economical Jewish Cook』 May Henry and Edith B. Cohen

『The Book of Jewish Food』 Claudia Roden

『A Modern System of Domestic Cookery: Or, The Housekeeper's Guide』 M. Radcliffe

『Frying Tonight: The Saga Of Fish And Chips』 Priestland, Gerald

『Fish and Chips, and the British Working Class, 1870-1940』 John K. Walton

『On Food and Cooking』 Harold McGee