美味求真

Menu

第七章


悪食篇


序   : 悪食篇 序

第一節 : 虫類の奇味

第二節 : 飛翔類の奇味

第四節 : 獣類中の珍味

第五節 : 土食および木食

第六節 : 動物の陰茎および胎盤

註 釈 : 註 釈

Arrow



悪食篇 序


 悪食の文字は、日本では中国と異なる意味で用いられている。『論語』にも「悪衣悪食を恥づるものは、共に謀るに足らず」とあるように、中国における悪食とは我国における粗食の意味に該当しており、本篇で述ようとするものとその意味が異なっている。ここで述べる悪食とは、イカモノ食い、または不気味なものを食べるという意味であり、『穀梁傳』( ※ 『春秋公羊傳』が正しい引用元である )に「珍怪之食」とある。また高井蘭山の食事戒に嗔物食いかものぐい」という言葉が見られが、これらは同じ意味の言葉であると理解しておかなかればならない。ただ始めは悪食とされていたものであっても、時々これを口にするに従って次第に美味に感じられるようになってきて、遂には善食となるということも起こり得る。このように結局、食品は舌の教育・経験次第で変化し、悪食とも善食ともなるために、食に善悪の区別をつけるのは困難なのである。

 河豚は日本でも中国でも珍味であるとして推奨されてきたが、最初はその中毒が恐れ非常に不気味とされていた。もし試食を再三にわたって行わなかったならばその本味に達することは無かっただろう。それでも一度本味を知覚することによって、始めの悪食が遂に無上の善食となり、これを知る事が遅すぎたと悔やむ人も多い。慶應の頃に徳川慶喜が大阪で豚肉を食べて、その悪臭に驚き、豚一のあだ名を付けられたのは僅か50年余り前の事であるが、今日では豚は国民の善食として欠かせないものとなっている。要するに舌に慣れたものは善食であり、慣れないものは悪食なのである。晋の張華の『博物誌』に「東南の人水産を食い、西北の人は陸畜を食う。水産を食うもの亀蛤螺介を以て珍味となし、その腥躁せいそうを覚えず。陸に食うもの狸兎雀を以て珍味となし、そのせんを覚えず」とある。言っていることは平凡であるが、いわゆる所変われば品変わり善食悪食に決まった基準が無いことを理解しなければならない。

 日本は西洋に比べて食物の範囲が広く、現在では400余りの種類を数えられるが、尚、非常の場合には品種を500種位まで拡張できるとされている。このように範囲の広さがあるゆえに欧米人から見ると悪食とされるものも多いのである。そして中国は日本よりも食物の範囲は一層広く、その卓絶した調理の技術と胃臓の力は昆虫鬼畜の類に至るまで、一切のものを征服しているといっても過言ではない。『本草綱目』には「蜩范、蟻蚳、饋食に供すべし」とあり、『方書』には「蜈、蟄、蟾、蠍、匕剤に可なり」と論じてある。甚だしいものでは古来では人肉すらも種々の料理法があるとするに至っては奇怪至極と言うべきだろう。こうした観点から中国は悪食に関して世界の本場と言えるのである。

 西洋は食物の範囲が最も狭く、旧約聖書には魚のひれうろこのないものは食べてはならないとされており、今でも鰻、蛸、烏賊、海鼠なまこの類は食さない。植物でも銀杏、昆布、蓮根、筍などが食品であることを知らない。浅草海苔が膳のうえにあるのを見て、日本人は黒色の紙を食べているとして驚いている程である。但しイタリアだけは案外、悪食が進んでいるようで、イタリアでは汁粉のような貴婦人たちの嗜好品(Sanguinaccio / サングイナッチオ)があるが、これは豚の血液に砂糖とチョコレートを加えたものであって余り気持ちの良いものでは無い。また海岸の岩石に付着している貝類は海の果物(Frutta di mare / フルッタ・ディ・マーレ)と呼ばれ手当たり次第に生食しているようである。また蛸、烏賊は海の蜘蛛と言われ他国人は見るのも嫌うのにも関わらず平然としてこれらのものを食するのはまだしも、人間に寄生したサナダムシを生きたパスタと称して食するに至っては、イタリアの悪食は中国に拮抗できる十分な資格があると言えるだろう。

 また南洋アロー島付近のビンガイ人種は煮沸することを好まないので、生肉、生魚をそのまま食べ、こどもは口のまわりの生血を舐りながら生きたままのヤモリを食べる。またメキシコ人が好んで飲んでいるプルケ(Pulque)という酒はサボテンの芯にある液を取り、これを皮の袋に入れて人糞の中に入れて発酵させて造る酒であり、奇抜極まる飲料であると言えるだろう。



虫類の奇味

 蝤蠐きむし蠐螬すくもむし、蜂および蜂の蛹、イナゴ、バッタ、カマキリ、孫太郎虫および源五郎虫、白蟻、蛆、蚤および蚤の蛹、トンボ、ケラ、ホタル、芋虫、毛虫、蝉および蝉の子、ミミズ、ゴカイ虫


▲きむし


 (中国では蝤蠐)地方によりクサキ虫また鉄砲虫と言う。多く草木中に棲む。これら樹木の幹に黄褐色の鋸屑に似た塊になって付着している。これを掻き出すと孔がある。つまりこの虫が木を食いながら空けたトンネルの入り口であり深く幹の内部に広がっている。この穴に沿って木を割ると、必ずこの虫が安住しているのを見つけることができる。乳白色の大型で円柱状の蟲であり、脚は無く、あごは良く発達している。これはつまり天牛(カミキリ虫の幼虫)であり、その幼虫時期は2年~3年であると言われている。こうして木の芯を十分に食い育成してカミキリ虫となって飛び立つのである。天牛を別名でカミキリ虫というのはそのあごが非常に鋭く、毛髪または髪を大腮の間に入れれば、ハサミのようにたちまち噛み切られてしまうのでこの名前がある。一般的に昆虫の成虫時代は食を摂らず、ただ生殖を行うだけであるが、カミキリ虫のその貪食には驚かされるものがある。試しにこの虫を捕らえて水瓜あるいはキュウリの切り屑などを与えれば、終日終夜これに噛り付いて、肛門から糞尿を出してもなお、そこから離れることがない。

 キムシは一見すると蠐螬すくもむしに似ているが、関節が高くて足が短く、口が黒で毛が無いので直ぐに区別できる。東北地方のものは長さが一寸位であるが、九州地方のものは一寸五分から二寸に達し丸々と肥っている。維新前に流行した保童円という売薬はこの虫から作ったものである。この虫を串に刺して砂糖醤油をつけて照り焼きにして食べる時は、その風味は北海道産の雲丹乾に似ていて、さらにそれより柔かく、かつ一種の香気があって消化に良く、しかも美味である。東北地方では炙って貯えておいて何らかの時に食べるとされている。

 中国でキムシはその色が白くて木蟲の優れたものとして、食味以外に貴ぶ風潮がある。『詩經』の衛風篇に、衛の荘公夫人の荘姜の美しさを褒め称える句の中に「膚は凝脂の如く領は蝤蠐の如し」とある。註釈に領は「領頸也」。蝤蠐は「蝎蟲也」とあって、その首筋がキムシのように白く肥えて美しい様子を称したものである。


蠐螬すくもむし


 カミキリムシなどの幼虫に似ているが、それよりも体が短く、節も狭く、脚が長く、背に毛筋がある。黒金亀子くろたまむしの幼虫であり、糞土の中、または桑畑等の肥土の中に棲んでいる。中国では別名で土蛹または乳虫と言う。乳虫とはこれを食べると女性が乳をだすのに効果があるというのが理由である。日本ではこれを食べる者は少ないが、中国の一地方では非常にこれを賞味しているようで、自然産だけでは需要を賄えず、人工によって養殖をするところもある。その方法が奇抜なので以下に記すことにする。

 蠐螬すくもむしの養殖ではまずは乳田を作る。乳田とは地中に土室を造り、中にもち米の粉を敷いて、その上に覆った青草に人糞を積み、土室を塞ぐ。やがて雨が降り、気候が蒸し暑くなる時期を見計らって、人糞と草を取り除いて見ると、蛆の群れが土室の中で成長し動いている。これこそが蠐螬すくもむしである。その調理法は肉のスープの中にこの蠐螬を入れてスープを作り、これに糯米の粉を混ぜて雑炊を炊いて食べるのである。味はかなりの美味である。また豚の蹄の肉の中に混ぜてスープを作れば、豚と蠐螬の見分けがつかないと言われている。

 蠐螬は上味のものであるが、中国においても一般的に善食として通用していない地域もあったようである。『説乳』にひとつの伝説がある。
 「吳の中書郎盛沖は親に孝行に仕える者だあったが、あるとき官命を帯びて、失明した母である王氏を残して遠くに旅に出ることになったが、その留守中に家事を任せてあった下婢がその家の糞土の中を探って蠐螬を得て、それを蒸して料理した。王氏はその美味を喜んで、いつもこれを食べていたが、盲目のために、蠐螬が何であるかを知らず、魚でもなく、また鳥でもないこの珍味が果たしてどのようなものであるかを思い迷っていた。やがて沖が帰り、その事を聞いた沖が下婢に問うたところそれが蠐螬であることを知り、母が失明したために知らずしてこのようなイカモノを喜んで食べてしまったことを悲しみ。母を抱いて慟哭したところ、その孝行の心が神に通じたのか、王氏の眼が開き、眼が見えるようになったのである」

 蠐螬を食べることに関して特筆すべきことは、悪食を嫌う欧米でもここ3~5年ぐらいは蠐螬やその他の昆虫類を食品に加えるべきだとの宣伝が盛んであるということらしい。これは欧州が世界大戦以来、昆虫と戦争と切り離せない関係にあることを理解するようになったことから生まれたものである。戦時に特に勇士を悩ますのは虱や蝿である。また軍用食料品をダメにする種々の昆虫もいる。これらの調査研究の必要により、欧米では軍隊に昆虫学者を随行させるべきであるとの議論されるようにまでなっている。中には昆虫学者として出征する者のように、戦争の合間に 昆虫を研究し、その成果を発表する者まであり、昆虫熱は次第に高まってきている。

 米国政府、昆虫局長の考案した案によると、人類食料の大部分をなしている農作物の害敵である昆虫を人類の食料とするならば、一つは農作物の害毒を除くことが出来、さらにもう一つは新食品として人類の益となり、一挙両得であるとの見地から、米国政府は昆虫食用問題に対して大いに研究の地歩を進めており、野蛮人だけでなく文明人の中、さらには日本や中国においては昆虫を食料としているのを見ると、昆虫の食味も欧米人に嗜好に合うのではないかとして、昆虫学者や料理人を集めて、昆虫類の料理法を定めて、最初の献立に黒金亀子の幼虫である蠐螬すくもむしを利用するという事にして、これをフライとシチューにして試食会を開いたが、中にはあまりの不気味さに吐き出した者もいたが、案外の珍味であるとして、舌鼓を打ち鳴らした多くの豪傑たちもいて、この味が蝦に似た非常に有望な食品であると皆の賛同を得て、なお進んで他の昆虫も食料に加えられないかと研究中のようである。蠐螬すくもむしは日本にもかなり発生するが、韓国には特に多く、六大害虫に数えられている程であるが、これを食料として広く採用するならば、害虫駆除も兼ねるので一挙両得であると言えるだろう。


▲ 蜂およびミツバチ


 蜂の蛹は信州伊那郡地方で賞味されている。普通は煮るときに砂糖と食塩を加えるが、炙って食べることもある。また汁粉に入れて餅を添えることもある。近年は缶詰にして土産物また商品として他県でも販売されている。

 中国では古来から蜂食を貴んでいたことは種々の記録から明らかである。『禮記』には「蜩、范、供食」とあって、蜂の子を紳士の定番食としていた事が明らかである。『本草網目』には「頭足未成者油炒食之」とあり、また「蜜蜂、土蜂、木蜂、黃蜂子俱可食。大抵蜂類同科,其性效不相遠矣」と書してある。『廣志』には

 大渡蜂,取其子得數升為羹,亦可蒸食


「大渡蜂の子を数升を得て羹を作り蒸して食べる」と述べられている。また『嶺表錄異』には蜂の子の採取方法および調理法を記してある。「蜂の子はその形が蛹に似ていて白色である。大蜂は巣を山林の中につくり、その大きさは巨鐘のようになる。その中には数百層になっていて数えられない。これを採取しようとするならば草衣で全身を覆って、蜂に刺されるのを防ぐためにはその装備をするか、または煙火で蜂を追い散らして、その後からもし巣が木の上にあるのなら根元からこれを切り倒し、もし崖の上にあるのならば登って上から巣を落とす。これに塩を加えて炒め、日干しにして乾燥させたものを紙袋に収めて貯え、京洛の方面に行くときの献上物として持参すると、人々に珍重される」とある。現代では中国料理の献立に桂花菜とあるのは蜂の油炒めのことである。

 蜂蜜は古代から貴重な食品のひとつとして尊重されており、そのことが最も早く記録に現れているのは『旧約聖書』創世記43:11にヤコブから、カナンの名産品としてエジプトのヨセフに贈られた貢物の中に蜂蜜のことが記載されている。また『旧約聖書』出エジプト記3:8の中に、乳と蜜の流れるカナンの地と書かれ、この言葉が何度も繰り返されているにを見ても、乳と蜜は当時の生活における憧れであったことを知ることができる。同じように『旧約聖書』士師記14:18の中に「蜜より甘いものに何があろう。 ライオンより強いものに何があろう」とある。また『旧約聖書』箴言16:24には「快いことばは蜜ばちの巣であり、魂に甘く骨のいやしとなる」と述べられている。さらに『新約聖書』マタイ3:4にはバプテストのヨハネは野にあってイナゴと野蜜とを常食としていたことが記されている。

 『佛書』にも「大海には蜜のような水があり、至る所が五色の蓮華で覆われた」とある。また大聖世尊が石蜜の供養を受けられた事は所々、経典の中に見られる。

 欧州ではギリシャのアリストテレスが『政治学』1巻11章のなかでミツバチから蜜を得ることのメリットを理解し、早い時代から養蜂法を説いている。またローマ時代の学者であるプリニウスの著書『博物誌』に「ミツバチは昆虫類の最上位にあるもので人間に糖蜜および蜜蝋を得させるために地上に存在するようになった。そして蜂は政治的な統合を形成し、議会長および道徳主義の法典をもっている」とある。

 当時は誰もミツバチの子孫をみたものがいなかった為、色々な想像説や無理なこじつけるの説があったが18世紀の初期に、ニースのジョージ・デ・レーアン(Georges de Layens)、ジュネーブのフランソワ・ユーベル(François Huber)等の熱心で巧みな研究によって子孫繁殖の方法が発見されたことにより、養蜂および採蜜事業が初めて完成に至る事となった。また古代人が如何にこの事業の為に苦心したかは、アリストモナスクがミツバチの習性を知るために58年を費やし、フィスクスは一生涯を林の中で終えたという記録がある通りである。

 中国でもミツバチの起源は非常に古く、古来から中国人の唱えている五味の中の「甘味」は蜂蜜を利用したものであり『仙經』には「蜜為衆口芝」と書かれており、また『漢武帝內傳』には西王母が漢武帝に向かって中華の紫蜜と雲山の朱蜜を語っている部分がある。『本草經』には「崖蜜令人食之不飢、明目、延年」と言い、終いには甘い事は蜜のようであるとの常套句が生まれるまでになっている。こうして蜜を称賛する詩の類もかなり多く、楊萬里は、

  蜜蜂不食人間倉  玉露為酒花為糧
  作蜜不忙抹花忙  蜜成尚帯百花香

と歌い、また蘇長公は、

  安州老人心似鐡  老人心肝小児舌
  不食五穀唯食蜜  笑指蜜蜂作檀越

と詠じ、『老學庵筆記』には「東坡亦酷嗜蜜」の語があり、蘇東坡の甘党振りをかいま見ることができる。

 日本でも太古から野蜜はあっても飼育方法に至っては皇極帝の時に朝鮮を経て中国から伝えられ、種蜂を大和の三輪山に放養したのが始まりである。近年になってやっと流行し始めたようだが規模はまだ小さく生産量はまだ足りているとは言えない。現在、最も養蜂の盛んなのはアメリカであり、年間収蜜量は2億5千万に達している。欧州でもスペイン、フランス、オランダ、ドイツ等でも生産はかなり盛んである。

 蜜の品質は、花の種類および採取の方法によって大きく品質の差が生まれる。柑橘、菜花、桜、桃等から集めたものは芳香甘味に富んでいるが、椎、栗、蕎麦、粟等から集められたものは香気が乏しく、少々渋味がある。採取法も従来から日本で行われていたように、蜂の巣のまま搾る時は蟻片、幼蛆、花粉等が混ざることがあり品質が良くないが、移動式の巣箱で飼育して分離器で搾取したものは品質が良く純度も高い。微黄色を帯びているのが普通であるが、澄んで明るいものは優良品であり、鈍赤色を帯びていて暗色のものは劣等品である。

 ミツバチはその種類が非常に多い。日本で一般的に飼育されている日本蜂と呼ばれているものは大人しい性格ではあるが、大群になる性質に乏しく、貯蜜量が多くなくいので良種であるとは言い難い。外国種ではイタリア種が最も好評である。北米で飼養されているのはこの種類である。次はカーニオン、カウカシャシ等の名前がある。サイブリアンと呼ばれているものは地中海のキプロス産である。強健で採蜜量が多いが、性格は怒りやすく動くものに対して針で刺すので一般的ではない。現に数年前に福岡県においてこの蜂の蜜箱を馬車で運搬中に、他の馬車と衝突して蜂の巣がひっくり返ってしまったところ、幾万の蜂群が巣箱から飛び出し、人馬を襲い、防ぐ方法がなく、ついに人馬とも刺殺されてしまった事があった。

 また大谷光瑞の『青島剳記』の中に「インドは古来から蜂蜜を貴重なものとしており、ミツバチが非常に多い。中インドのナルバタ河のマーブルロックと名付けられた場所は風光明媚な景勝地であり、船でここを訪れる者も少なくない。高々とした崖の上に巨大なミツバチの巣がある。かつてイギリス人が戯れに発砲してこれを破壊した際に、憤怒した幾万もの蜂群が船中に殺到してきたのだが、逃れる場所がないため河中に飛び込んだが、それでも蜂群は追いかけて来て止まず、水上を飛んでいるんで、呼吸のために頭を出す度に群がって刺し、ついには溺死させた。それ以来、この地方の崖上の蜂の巣に発砲または投石することは厳禁とされ今日に至っている」と述べられている。


いなご


 螽とは稲子(イナゴ)の事であり、毎年6~7月頃に発生し、稲の葉を食して害をなす。『詩經』に「螽斯羽、詵詵兮、宜爾子孫、振振兮」とあるには、この虫が子孫繁栄して賑やかで数が多いことを詠ったものである。

 螽は中国の歴史や聖書などの所々に現れている蝗の同族であるが、蝗のように大群で移動して害をなすことは無い。中国では蝗や螽は魚卵から孵化したものであると信じられていたようで『格致鏡原』には「春季に魚類の粟粒のような卵を泥中に埋め、翌年、水が岸に及べば皆親に似て魚となる。もし水量が足りず岸に届かない時には日光に曝されて飛蝗となる」との珍説がある。ただしこれは中国特有の流言であることは言うまでもない事であり、イナゴは勿論、イナゴの子である。10月頃、十分に熟成した水辺の土中に産卵して翌年の初夏に孵化する。イナゴは日本でも至るところの農家でも食用にしている。特に東北地方および甲州、越後、信州等では善食の部類に属しており一般的に食されている。東京においても時々は八百屋の店頭に見られる事がある。砂糖と醤油で炒めれば小海老に似た味である。相当、長期の保存にも耐えられるので、佃煮の代用または茶漬飯の具とするのも良い。もし一層長く保存しようとするならば、一度塩だけで炒め、半日程、天日で乾かしたものを木綿袋に入れて天井から吊るし、2か月に1度位、半日ばかり日光にあて、時々必要な分量だけ取り出して使っても一年間ぐらいの貯蔵には十分に耐えられる。

 イナゴ食は日本のみならず中国の一地方でも行われており、アラビア、ペルシャでは普通の食物とされており、中央アジアの地方もまたこれを食べる。日本の旧記に、陰陽師の安倍晴明の幼年期に母の乳よりもいなご蜻蛉かげろうを好んでいたとある。西洋でこれに類するのは『新約聖書』マタイ3:4に預言者ヨハネがイナゴと野密を常食としていたことが記されている。『旧約聖書』レビ記11:21-22にあるモーセの食法には、昆虫類の中で足に飛腿があって地に飛ぶ大イナゴ、バッタの類は食べる事が出来ると教えているので、ヨハネが蝗を食べていたというのは当然であると言えるだろう。

 我国ではイナゴの大群による来襲を受けたことがないので、その害について知られていないが、中央アジア、中国では所々この惨害によって大飢饉になったことがある。中国の『管子』には「凶年の五害には水、早、風、厲、蟲」とある。蟲とはイナゴの害の事である。イナゴが移動するときは飛行あるいは歩行することがある。飛行するときは天地がそのために暗くなり、羽の音が暴風のように怒号して、追い風に乗れば一日で百数十里を飛行することもある。ひとたび地上に降りれば千里もの範囲で一葉も止めない。その勢い無数の流れの様、あるいは河に浮かび、峰を越え、池を越え、堀を渡るのは平地を進のと同じように行く。人家に入ると戸に穴をあけ、垣根を破り、井戸を埋めて火を消し、書籍も衣料も床もあらゆるものを噛み、連日連夜の苦しみを人は制御できないのである。時にはこの惨害が幾月にも渡り、終わらないこともあると言う。晋の天福年間(936年 - 944年)の蝗害は特に被害が激しく、鄲城県の一農村で豚十数頭がイナゴの大群に逢い、始めは餌を得られたことを喜んで喜んで食べていたが、イナゴが次々に群がり堆積し始め動きが取れなくなった。イナゴが豚を齧り始めると豚の群れは何の抵抗できず、ことごとく齧りつくされてしまったと言われている。

 欧州およびエジプトでもイナゴの大群の侵入を受けた記録が所々に見られる。かつてスウェーデンの英雄カール12世が大軍を率いて敵軍に向かっていると、たちまち空の一方から妖しい雲がやってきたと見えると、日は遮られ辺りは暗くなった。異様な音と暴風の襲来のようで、軍は震え、いかなる天変地異かと驚いていたが、これはイナゴの大群が空を覆って進んでゆくものである。またミルトンの『失楽園』の中にも、ナイル河畔の作物を食い尽くそうと黒雲のように空を覆って襲来するイナゴの大群について書かれている。このことを見ても欧州にもエジプトにもイナゴの大軍に見舞われる事が多かったことが分かる。


▲ 螽斯

我国で俗にバッタと言われているものである。『詩經』に「喓喓草蟲、趯趯阜螽」とあるのは、この虫の事を詠じているのである。『本草拾遺』に「五月五日候交時収取夫婦佩之令相愛媚」とあって中国では家庭円満の妙薬となっている。味はイナゴに劣らないが、イナゴのようにその数が多くないので、捕獲数が少ない為に食用する人は少ない。また体が青緑色で頭が尖っていて三番叟さんばそうまたは神主稲子かんぬしいなごと言われているものは歯当たりは柔らかいけれど味はこれらの昆虫類の中でも最下位である。


▲ カマキリ

 この虫はかなりすばやい上に、荒々しいので敵を見ると首を上げて鎌状の両手を構えて突撃してくる。どのようなものにも恐れることなく、車轍を避ける事もないので、中国では別名で天馬または拒斧とも言う。また蝕疣の別名もあるのは、この虫を好んで人のイボを食べることから、イボのある人がこの虫を捕まえてこれを食べさせたことによる。

 この虫の敵に対する蛮勇ぶりが大胆で一種異様なことから古来から種々の伝説がある。易の通繁卦に「螳蜋搏蝉之蟲乗寒而殺物自隠蘇而有所害捕搏之象也」とある。『韓詩外伝』には、昔に齊の荘公が狩猟に出かけた時に、蟷蜋が腕を挙げて馬車の車輪に挑みかかろうとした。公之がこれは何かと御者に問うと、これは蟷蜋という蟲である。性格は勇敢に進み、退くことを知らない。自分の力を見極めずに軽々しく敵に立ち向かうものであると答えると。荘公はこれは実に勇士であるとして車を回してこれを避けた事があり、世の勇士の多くが荘公に従ったと言われている。越王の勾践こうせんにも同じような逸話が伝えられており。郭璞かくはく

 螳螂飛蟲揮斧奮臂當轍不廻
 勾踐是避勇士致斃厲之以義

と述べて螳蜋かまきりを称賛している。そして螳蜋を異様なものであるとするのは中国に限らず、トルコ人は螳蜋が止まるのは良い事の前兆であるとして、この虫を非常に大切に扱い、中央アジアの地方では神の使者であるとして螳蜋を大切にしている。さらに中央阿夫利アのホッテントット人は螳蜋が飛んできて体に停まって休むと、その人は神から特別の祝福を受けたものであり高僧の列に加えられるべき人であると信じられている。フランスでは旅人が道に迷った時は、螳蜋が脚を伸ばした方に進めば、必ず正しい道であると伝えられている。

 しかしエジプト人は悪魔の使いであるとして、これをかなり忌み嫌い傾向にある。日本ではこのような童話的な伝説はないが、その性格が攻撃的なことから、子供たちは捕まえて戦わせるが、性格がかなり残忍で、勝者は敗者の肉を食べる。この虫の卵は日本では「王子が袋」、本草には桑螵蛸そうひょうしょうと呼ばれ桑の木の枝等に付着している。肝や腎臓は子どものオネショの薬とされている。この虫は食用にしても無毒であるが、その味はイナゴには遠く及ばない。


▲ 白蟻

 アフリカ原住民の中にはこれを食べる習慣がある。インドの一部の地域ではその巣を燻して蟻を殺し、これを乾燥させて粉にして菓子を作るようである。中国の『本草綱目』には「蟻蚳食うべし」とあり、かつ湖廣地方の山間部では蟻の卵を取り、醤をつくることを記し、その味は醤に似ていて高い身分の人でなければ得ることは出来ないとしてある。『周禮』には蜃蚳醢とあり、これははまぐりの身に白蟻の塩辛(醢の製法は第五章五節にあり)を添えたもので、その時代の祭祀の供物および皇帝への供物であった。

 白蟻は熱帯地方に多く生息していて、インド、アフリカ、オーストラリアを中心に温帯地方に広がっている。中国の南方には昔から生息していたようであるが、日本で繁殖し始めたのはここ30~40年来のことである。白蟻は時には仲間の死骸やその社会に不用となった同類を殺して食う事があるが、その主食は木材であって木造建築物の土台下から食べ始めて空洞化させ、どのような高い建築物も結局は倒壊の惨劇に至らせるのである。白蟻の害は家や器具に止まらず、その身体から分泌する体液によって金属やガラス類も溶かすのである。白蟻の被害として以下の記録は特に激しさを極めたものである。

 西暦1860年頃にセントヘレナ島の首都のジェームズタウンにアフリカから一種の白蟻が偶然に持ち込まれてしまったが、5年後には全市に広がり、ついに全市の建築物を壊滅するに至ったと言われている。一匹の女王、つまり雌蟻の腹には無数の卵をはらんで、一分間に60匹の割合で産卵するので、その増殖のスピードは考える以上であろう。

 白蟻はその名の示しているように蟻の一種であると認める人があるが、普通の蟻とは全く種族が異なり、むしろ蜻蛉とんぼ蜻蛉かげろうの類に近いものであるとされている。ただその形が蟻に似て、蟻やミツバチと同じように社会組織により生活を行い。その色が白い為に白蟻と名づけられているのである。そして白蟻の社会組織はほとんどミツバチと同じであり、全社会を統制する女王は、卵を産むのを主要な務めとして、始めは羽のある王と女王が空中を飛び回り、やがて地上に降りて適当な場所に巣をつくり産卵する。孵化したものは働き蟻や兵隊蟻となる。従って産卵し、孵化し、その数が次第に増えてくれば、働き蟻は女王の玉座を中心として巣を広げ、その広がりに従って女王はますます産卵を行う。働き蟻の任務は巣をつくること、食物を取ること、幼虫の保護および不潔物の清掃等の労役に服していて、そのひと社会の中で最も多くを占めており、2万~5万位の大群になるものもあると言われている。

 兵隊蟻は口の辺りが武器の様に発達し、主に防衛の任務に当たり、同時に王や王女の護衛の任務も受け持っている。中国人も古代から蟻の社会生活を熟知していたようであり『譚子化書』には

 「螻蟻之有君也,一拳之宮,興衆處之,一塊之臺,興衆臨之,一粒之食,興衆蓄之,一蟲之肉,興衆咂之,一罪之疑,興衆戮之」

とあり、中国式の文章にはすぐれた趣があるのを感じさせられる。


うじ

 西洋人、特にイギリスに古いチーズに湧いた蛆をフォークで圧し潰して食する人がいる。日本でも海外滞在を経験した者のなかには、チーズの蛆を食べることが出来る者がいるが、未だにチーズ以外のものに湧いた蛆を食べる人があることは聞かない。ところが中国は流石に料理の先進国だけあり、蛆を食用または薬用とすることは古来から珍しいことではなかった。

 李時珍の『本草綱目』の中には「蛆は蝿の子なり」とあり、明の時代には既に知識人には蛆の生態が知られていたこは疑いの余地がないが、多くの人は蝿の幼虫である事を信じておらず、ものは腐敗するとその精が変化して蛆となり這い出して来るものと信じていた。さらには猪肉、鹿肉などが腐敗させてそこから蛆を人工培養して、得た蛆を薬用や食用に充てていたようである。さらに一層奇抜なのは、猪鹿はまだしも人の死骸から湧き出た蛆虫も取って薬用にしていた。『本草綱目拾遺』には人の死後にはその魂は散じてしまうが、その生気は尽きることが無く、肉の腐敗した後にそれが変化して蛆となると記されている。
 さらに『本草綱目拾遺』には、この蛆を捕らえる方法を述べており、屍を棺桶に納めてから5~7日後、蛆の湧いた頃、棺桶の内側に穴を開けて、香物を穴の側に置くと、棺桶の中の蛆がその香りに引き寄せられて皆出てくるのでそれを捕らえるとある。

 日本では蛆が用いられた例を聞かないが、秋田地方で蛆の殻が子どもの脳病解熱に効果があるとして、粉末にしたものを服用させたこと、または『倭漢三才図会』には糞蛆およびヒキガエル肉の蛆はあらゆる病を治すとあるので、蛆が薬用として用いられていたことは確かである。


源五郎げんごろう

 水田の溝などで、カブトムシのようであるが角がなく、黒色の甲羅がある虫が浮き沈みしているのを見ることがあるが、これが源五郎虫である。この虫は夏の夜に水中から出て、羽を広げて空中を飛び、離れた池に移動することがある。この幼虫は孫太郎虫と呼ばれ、細長くて身長が成虫の2倍ある。口部に強い顎を持ち、胸部に三対の足がある。親子共にかなりの残虐性があり貪欲である。水中を泳ぎ回り虫類、小魚類を捕食する。孫太郎虫は時々、共食いをすることがある。成育すれば自分で水辺の地中に穴を掘り、そこに入って蛹となり、やがて源五郎虫になる。
 源五郎虫が強敵に会い、追い詰められた時は、非常手段として尾端から悪臭の分泌液を出して上手く敵から逃れることもある。源五郎虫の逃げた後には色の変わった濁りがあるが、それはこの理由である。

 源五郎虫は食用としての味は悪くない。東北地方、とくに米澤においては珍味として価値が高い。料理法は甲羅や羽を取り除いて油で炒めたものを、さらに醤油や砂糖で炒めて食べる。

 源五郎虫を捕獲する方法はかなり簡単である。1.5m位の竹竿の先に塩鮭の頭か鰯の干物などを括りつけた糸を水中に沈めておいて、数時間後に引き上げれば多数の虫が餌に食いついたままである。それを網ですくい取る。孫太郎虫は子どもの癇癪薬として効能があるとして東北地方にはこの虫の採取を専業にする部落がある。東京市内の薬局、または黒焼屋でも孫太郎虫の広告を時々見かける事がある。


▲ 蚕の蛹と幼虫

 蛹は全国の養蚕を行う地域で多少は食用とされている。醤油で炒めるか、またはつけ焼きにする。ただし大部分は養魚の餌にされている。『倭漢三才図会』には、蛹の味は甘味があり腫物を治す特効薬であるとされている。蚕も炙って食べることができ無毒である。ただし味は蛹の方が旨い。中国の『本草綱目』には蚕の味は塩辛くて無毒であり、人を好色にするという若返りの薬の一種であると書かれている。蛹を食べることに関しても同様である。

 料理をする時には、これに小蜂児という別名を付けている。中国では蛾の触覚が形よく曲がって艶麗で美しい眉の事を蛾眉と言うのであるが、総じてこれは美人に例えられている。『詩經』の衛風篇に「衛の荘公夫人の美しさを褒め称えるの句に螓首蛾眉しんしゅがびとある。また唐代の虢国夫人かくこくふじんを詠じた詩の中で

「虢國夫人承主恩,平明騎馬入宮門,卻嫌脂粉汚顔色,淡掃蛾眉朝至尊」
「虢國夫人は帝の御恩寵を受け、夜明けに馬に乗って皇居の門に入る。夫人は、紅や白粉をつけると、生まれつきの美しい顔をけがすといって一切やらない。ただ細く弧を描いた美しい眉に、眉墨をうっすらと刷いただけで、帝の御前に至る」

の句は非常に有名である。

 養蚕の起源は明らかではないが、野生の桑樹と野蚕の自然の分布がアジアに限られている事と、野蚕から家蚕が生み出されたという学説から、アジアを養蚕の起源として、アジアの中でも中国の書物に蚕のことに関する記載が少なくないことから、中国を養蚕の起源とする議論は当たっており、ここから次第に世界の各方面に広がっていったようである。

 『農書』には「淮南王蛍経」に黄帝の元妃の西陵氏が始めて蚕を養うとある。また『尚書』禹貢に「桑土でかいこを飼い、丘を降ろし土に宅す」とある。『詩經』には「蠶月條桑、取彼斧斨、以伐遠揚、猗彼女桑」とあり、まずはかいこの道具の製作について説明し、桑を枝のまま切り取り、斧で枝を刈り、小桑は枝を束ねて葉だけを取ることを言い表している。

 また『禮記』月令には「季春、后妃齊戒しみずから東郷しみずら桑す。婦女を禁じて観する無からしめ。婦使を省いて蠶事を勤めしむ。蠶事既に登れば、繭を分かち糸を稱り功を效し以て郊廟の服を供し」とある。

 『周官』内宰には「中春に后を詔し内外の命婦をひきひ始めて北郊に蠶し以て祭服を為る」とある。

 このように蠶事は古代の中国において重要行事とされていたのである。日本の養蚕は中国から伝わったものであるが、その年代や経路は定かではない。日本の歴史に現れたのは『日本書記』に「保食神死して口内に蠶を含み糸をひくことをえたり」とあるのに始まっており、これは中国の『皇圓要覧』に「伏義化蠶為糸」(伏義が蚕から糸を取った)とあるのと同様である。その後、雄略天皇が后妃に自ら桑を摘ませ,養蚕を始めさせた事は有名な話であり、『継体記』にも后妃が親から養蚕を行わせられたことが記されている。
 また応神天皇の20年9月に努利使主服務大という人が、倭漢氏の祖である阿知使主あちのおみに従って帰化し、山城国の筒木で養蚕を始めた。仁徳天皇の30年には石之日売いわのひめが訪れてそれをご覧になったとある。これによって海外から養蚕の方法が日本に持ち込まれたことが分かる。
 また仁徳天皇の時代に、秦氏が養蚕を事業として起こし、これを朝廷に献上している。天皇が秦氏の献上した絹布を着てみると、柔軟で暖かかであるとして「波多公はたのきみ」という姓を賜ったとある。『姓氏録』等の史実からおおよその養蚕の起源を想像することが出来る。

 時代が下がって安政5年に横浜を開港し、生糸の販路を外国に求めることにより、絹糸産業は一変し、政府の推奨と民間の努力と相まって養蚕の発達が促進されたことで、日本の養蚕産業は空前の進歩を遂げ、その生産は長野県を第一として、愛知県、群馬県、埼玉県、岐阜県、福島県の順番で行われており、全国の飼育戸数は150万戸、桑畑は50万町歩におよび、絹糸は日本の輸出品の首位を占めており、世界第一の産地となっている。

 ヨーロッパに絹糸が伝わったのではローマ時代である。当時の中国産の絹糸は非常に高価であり、黄金と絹糸のそれぞれの重さが等しく交易されていた事は有名な話である。ペルシャはその時代から長らく中国とローマの交易の仲介地として、絹糸取引の専売を行っていた。
 紀元6年の頃に、2名のキリスト教宣教師が東洋を巡歴し、中国の養蚕の様子を報告すると、ユスティニアヌス帝は、この2名に再び東邦に行って蚕種を手に入れてくるように命じた。2人はそれから2年後に蚕種を手にして帰国した。これがヨーロッパに蚕が導入された始まりである。『漢西域考』には梁武帝7年にトルコが中国の蚕を入手して、絹糸の利用がこれから始まるとあるのは、先に述べた宣教師の実績を裏書きしたものであると云えるだろう。ただしその系統に属している養蚕は、あまり発達することなく途中で中断している。こうして今日、主にヨーロッパで行われている養蚕は、全くその系統を別にしており、それは12世紀頃のイタリアのシチリア島の王が、水軍を動員して諸国の港を視察させ、ついに東方から蚕種と女工を連れて帰ったものである。13世紀になると、イタリアのフィレンツェに蚕業を移植して数年後に隆盛となった。フランスのリヨンに蚕業の基礎が開かれたのは15世紀の末のことであり、それはルイ11世の時代である。

 蚕に関しては中国に種々の伝説がある。夏官馬質に原蚕を禁じるとある。原蚕とは再蚕の事であり、夏蚕および秋蚕である。古代に再最古が禁じられていた理由が脚注に、蚕は本来は馬と同じ気のものである為に共生することは出来ない。再蚕を禁じるのは馬の保護の為であるとされている。
 荀子は女性が好むとして頭馬首というものを蚕神とすると記してある。また蚕の丸まった姿は、馬蹄と同じような型をしている。さらに繭から出てきた時はその頭が馬に似ていると云われているのを考えると、馬と蚕と女性に何らかの因果関係が存在しているようである。
 『事物異名考』には、馬皮が変化して蚕となるとある。そしてこれらの伝説の起源を探るとこれは『太平廣記』と『捜神記』にあるのを見ることが出来る。この書に記されていることによると、蚕女は帝高辛氏の時に出てきている。その跡は今の広英にある。その時代の巴蜀の地方は、君主による支配がまだ行われておらず、同族集団による武力衝突の時代であり、蚕女の父は敵の捕虜となってしまい遠方に連れて行かれ、家には一人の少女と母親が残したまま、何年も帰国することが出来なかった。家には日頃から愛用されていた愛馬も残されていたが、女は日々、父を思うあまり、ついに食事も喉を通らなくなるようになり、その母親が近隣の若者を集めて、娘の父親を連れ帰ってくる者があれば、この少女を娶らせると誓ったのであるが、誰もこれに応じる者は現れなかった。しかし愛馬がその話を聞いて、跳躍してその手綱を切って、どこへ行くともなく駆け出したのであるが、不思議なことに数日後に女の父親を乗せて帰って来たのである。
 それ以来、その馬はどんな美食を与えても食べず、ただ日夜嘶き止まなかった。しかも頻繁に要求する様子を見せるので、父親は怪しんでこのことを母親に話したところ、母親はうなずいて若者たちに誓ったことを告げた。父親はこれを聞いて、自分の命を救ってくれた功績は大きいが、娘を妻にしようと思っていたとは考えられない。人に誓ったものであり、馬なぞに誓うことなどありえない。しかも人間を馬に嫁がせるなど問題外であるとした。
 しかし馬は日に日に益々狂ったように暴れるようになり。父親は怒ってついに馬を射殺して、皮を剝いで庭にさらしたのである。その娘がたまたま庭に出たところ、その馬の皮が突然に飛び掛かかって娘を巻くと何処かへ飛び去ってしまった。
 その後、この馬皮はあるところの大きな桑の木に架かっていたのが発見されたが、娘は蚕の幼虫となっており、桑の葉を食っていたのである。父親と母親は悔い悲嘆して幾日も過ごし、娘を片時も忘れることがなかったのであるが、ある日、あの馬に跨っって白雲に乗り護衛兵を数十従えた蚕女が忽然と姿を現し、驚きあきれる父母をなだめて、自分は天において九宮仙嬪之任長の官位を授けられて、天上に蘇り、とても幸福であるの今後は嘆くことがないようにと語り終えると、天馬は飛び上がり、空高く飛ぶと雲ごとかき消すように見えなくなってしまった。その家は什邡市、綿竹市、徳陽市の三市の境界にあって、毎年、養蚕の成長を祈願する者が集まり、そのご利益は顕著であるという。その社の内には蚕女の像が所々に立てられており、また馬皮も敷かれており、その社の名前は馬頭娘と云う、蚕桑の祈願所である。『稽圣賦』に「安有女,感彼死馬,化為蚕虫,衣被天下是也。」とあるのは此処のことである。


蜻蛉とんぼ

 我国の形はとんぼの羽を広げた形に似ているので、別名に蜻蛉州という名前がある。また我国はとんぼの数と種類が世界一多く、専門家の言うところによるとヨーロッパ全土で100種類にも満たないのに対し、我国では260種ほどの種類に達すると云われている。とんぼは種々の意味においても文学的に有名である。「蜻蛉釣り今日は何処まで行ったやら」の名句は加賀千代女かがのちよじょの作として人口に膾炙している。

 『詩経』に蝶首蛾眉という言葉がある。その註釈には「蝶謂蜻蛉」(ここで云う蝶とは蜻蛉のことである : ※ しかし実際には蝶ではなく螓という感じが充てられており、実際には蝉の方が正しい)とある。その額が整っていて美人である様を称した表現である。また『荘子』は、童子埋蜻蛉頭而化為珠(子供はとんぼの頭を埋めておいて玉とする)と言い。『張華博物誌』にも五月五日埋蜻蛉頭干戸内可化青珠(端午の節句にトンボの頭部を家屋の床下に埋めおくと、それは青い珠玉に変化する)とある。この突起した眼球が前後左右に自由に回転して珠玉のように輝くことからこうした事が云われているようである。

 この虫の特徴は、眼球が非常に大きいだけなく、視力の良さは昆虫のなかでも比べるものが無いほどである。またその翅が強くて長いことも昆虫の中で第一である。よってライト式飛行機はとんぼを模した型になっている。  性格は獰猛であり、生きた小虫を捕食して、決して死骸は食べようとしない。西洋人はこれを「龍蠅:Dragon Fly」と名づけている。しかし人類にとっての害虫である蚊を捕食することを考えると、その獰猛さはむしろ賞に値するものであると云えるだろう。かつてアメリカで蚊の駆除方法を懸賞募集した際に、ジェーム・アランという婦人がとんぼの繁殖法の論文を提出して大賞を得たことがある。

 またこの昆虫の生殖方法は一種異様であり、尾を曲げて他のとんぼの胸部に付けているのは雌であり、尾の先にあるはさみで他のとんぼの頭を掴んでいるのは雄である。交尾したまま空中高くを自由に飛びながら、池や小川などを探して、卵を水中または水草の上などに産む。雌一匹の産卵は数百から数千までになるが、まれに十万に達する程の多産なものもある。卵は間もなく孵化して幼虫となり、そのまま水中に生息して、小動物を餌として翌年の春から初夏にかけて十分に生育して、水辺の草の茎をつたわって水上に出て、脱皮してそのまま風にさらされていれば翅はどんどん伸びて間もなく飛行できるようになるのである。  親とんぼ水中に卵を産む時に、水面に尾が触る様子から、昔はとんぼは尾で水を飲むものだと考えられていた。一茶の句に「とんぼうがしつぽでなぶる大井川」というのがある。  中国には杜甫の詩では、「點水蜻蜓款款飛」(水面に軽く尾を叩いているとんぼは、ゆるやかに飛ぶ)と詠じられており、いずれの表現もよくとんぼの特徴を上手く言い表している。

 西洋人はこの虫は食べない。中国ではとんぼの別名を天鶏または江鶏と呼び、赤色のものは赤卒という。膵臓を温めて腸を活性化する効能があるとして青色を帯びた眼の大きなものを選んで食している。『雲南異物志』には南方ではとんぼを食べると記されている。

 日本でも長野、福島、山形、秋田などでは、水中に棲むとんぼの幼虫を好んで食べられている。幼虫は眼球と口が非常に大きく、顎には杓子のような歯がある。胴体は緑色に透き通っていて一見するといかにも気味が悪いのであるが、味に一種の甘味があって、慣れるとかなりの珍味である。山形県の米澤地方では特に賞味されていて、俗謡にも「米澤名物ガムシにアケズ、立って小便つかみ鼻汁ばな」とある。ここでいうアケズとはとんぼのことである。


螻蛄ケラ

 日本では俗にオケラと呼ばれている。夏になるといたるところの畔で見つけることが出来る。前脚一対は扁平で大きく、末端に数個の突起があり、これで土を掻き分けトンネルを掘るのに適している。この虫は5月頃から現れて、雄は前翅を摩擦させて音を出して雌を呼ぶ。交尾が終われば雌は地面に穴を掘り、深さ10cmぐらいの所に巣をつくり、その内壁を唾液で固め、盛夏の頃に200粒くらいの卵を産む。産卵後1~2週間もすれば孵化する。雌は巣の横に数センチの長い穴を掘ってそこから、卵と幼虫を監視し、時には幼虫の一部を自分の食料にすることもある。幼虫は植物の根等を食べ、秋の終わりには深く土の中にもぐっつて越冬し、初春に翅が生え、5月頃に成虫となる。

 中国の『本草経』にはこの虫を「螻蛄」、別名「天螻」というとある。『月令』に螻鳴とあるのはこの虫のことである。『荀子』は「梧鼠五技而窮」と言っており、蔡邕さいよう「鼫鼠五能,不成一伎術」と述べているが、これらはいずれもオケラのことである。
 この意味はするところは、この虫は、よく飛ぶことが出来ても家屋を越えることが出来ず、よく登ることが出来ても木の頂上に上がることは出来ず、よく泳ぐことが出来ても谷を渡ることが出来ず、穴を掘っても身をおおい隠すことが出来ず、よく走っても人から逃れることが出来ないとして、多くの能力をもってはいても、ひとつも徹底したところがないことを嘲ったものである。
 また中国の古い言い伝えでは、この虫を鬼神の使者であると考えて、人に化けて怪奇なことを行ったという例が多くある。『搜神記』には、廬陵の太守であった龐企が無罪で牢獄に繋がれて、死刑になる前夜に、豚ほどもある大きさのオケラが現れ、壁を掘って穴をつくり龐氏を牢獄から救出し、その後、大赦により無罪になったことから、龐氏はその後に祠を建ててオケラを祀ってその恩に感謝したとされている。

 この虫は食品としては無毒でり、翅足を取り去って炙って食べる。日本でも中国でも便通を改善し、尿管結石などを治すと信じられている。下剤としても効果があることは確かである。日本では淋病を患っている者は、時として生で丸呑みすることもある。
 またオケラは小鳥類の病を治すのに効果があるとされている。諺に「百舌喜べばすなわちオケラ憤る」とはこの事である。外見はいかにも醜悪で臭気がある。
 『周禮』には「馬黑脊而般臂,螻」とあり、病気の馬が食べてはいけないものを、この虫の悪臭に例えている程であるが、食べてみると一種特徴的な味わいがある。


ほたる

 蛍の発光は敵を威嚇する方法であり、動物のなかに蛍を食べるという説があるが、それは絶対であるとは言えない。これは異性を呼ぶためのもので、鳥が囀って相手を招くのと同じであるとの説明が、むしろ真実なのであろう。蛍合戦といって入り混じった無数の蛍が、闇のなかで煌めいてさながら中空に銀砂を撒いたような美観をみせることがある。これは交尾のためのもので、決して彼らが争っているためではない。
 『詩経』に「町畽鹿場、熠燿宵行」とあるのは蛍を詠じたものである。また我国の蛍狩りの俳句に

 呼ぶ声は絶えて蛍の盛りかな(丈草)
 奪ひ合ふてふみつぶしたる蛍かな(己有)
 孫に手を引かれて出たり蛍狩り(索明)

 いずれも実際の景色が描かれていて良い作だといえるだろう。蛍狩りは日本特有なものであり、優美で良く行われている行楽であるが、中国にもこれに似たものが少なくない。『隋書』に大業12年、煬帝が景華宮に行幸する際に、蛍を集めて夜に放ち、光が煌々と谷に広がったとある。

 日本での蛍の名所は、山城の宇治と近江の石山が最も有名である。蛍の光は体内にある燐が発光しているので、一般の学者は有害であるとしているが、中国人は無害であるとして蛍を薬品に使用している。『食物本草』には、7月7日の夜に取った蛍を陰干しにして食べれば、眼を明るくするとある。
 日本でも眼薬または解熱剤として乾燥したものが薬店で販売されている。蛍が果たして眼病の妙薬であるかどうかは知る由もないが、この光質の研究が学会に大きな刺激を与えつつあることは事実である。

 我々が用いる燈火は、そのエネルギーの大部分が熱として発散され、その目的の光はわずかなものに過ぎない。現時点では最も進歩していると認められている石英水銀孤燈が0.68%、開孤傾装置黄色燈が0.76%の光を放射しているだけにしか過ぎず、あたかも人知の薄さを冷笑しているようである。これは一小虫の研究にしか過ぎないが、現時点での学術界からすると体面上、一日も無駄に出来ない研究課題であると云えるだろう。これを思うと基経卿が、

 行く蛍夏の夜すがら如何にして
    煙も立たずもえわたるらむ

と詠み、さらには梁の元帝が

 著人疑不热,集草訝無煙
 到来燈下暗,翻往雨中然

と吟じているが、これらはどのように熱なく発光するかという科学上の重要問題を研究するための手引きのように思われ、非常に味わい深いと言えるだろう。

 蛍に関する伝説は少なくない。中でも晋の車胤しゃいんが蛍を集めて書籍を読んでいた事と、孫康が雪下で勉学に励んでいた事から、いわゆる「蛍雪の功」の一句となったことは広く知られていることである。また昔から中国人は蛍を集めて丸めて、これを身に着けておくと矢を避けることができると信じられているようである。  『類聚』および『虫異賦』に、漢の武威の太守である列子南は蛍を丸めて身に着けて戦に臨んだ。囲まれて矢が雨のように降ってきたが、それでも子南の馬までは届かず、すべて地面に落ちて最後まで傷つくことはなかった。敵はこれを神とみなしてその囲みを解いて退却したとある。

 また西暦1515年、エルナン・コルテス(Hernán Cortés)がメキシコを発見した頃、アズテックという人種は、夜に移動する時には足に蛍をつけて道を照らしていたことが記録に残されている。
 またキューバ島の女性は蛍を糸につないで、胸飾り、頭飾りに使っていた。
 日本でも九州地方では蛍提灯といって紙張りの箱の中に蛍を入れて提灯の代用にすることがある。
 イギリスでは蛍を瓶に入れて口を塞ぎ、水の中に沈めて、そこに集まる魚を漁獲するという。

 蛍の生態については種々の異説があるが、他の昆虫と何ら変わる所はなく、卵、幼虫、蛹、成虫の4期を通過して成長する。最初は卵が川辺の草や根等に産み付けられ、4週間位で孵化して幼虫となる。幼虫は昼間は暗い所に潜んで、夜になると這い出れきて餌を探し、溝にいるニナを鋭い棘のある舌で、その肉を掻き出して食べる。なかなかの暴食を行うようで、一年間に約百個を食べると云われている。
 このように十分に成長し、長さが約3~4センチほどになったら土の中に潜り、蛹となって、初夏の頃に成虫にとなり、その清い光で夜の闇を照らして飛ぶのである。このように『禮記』には「腐草腐竹から蛍となる」とある。『格物諭』もまたこのことを述べている。日本にも以前はこの説を信じていたようで、大江匡房の歌にも

  五月雨に草の庵は朽つれども
    蛍となるぞ嬉しかりける


とある。
 また韓国人は蛍は犬の糞から生まれるとして、蛍の別名を犬糞虫と呼ばれているのは、日本でも中国でも共に優しい虫として、古来から初夏の詩や歌に必須の題材とされ、人々からもてはやされているのと比べると、かなり気の毒な感があるのではないだろうか。  これらは全て、根拠のない誤説であるのは勿論であるのだが、今日から考えると、その無知に笑いを誘うようなものがあるとしても、昔は西洋においても蜂蜜は羊や牛の死骸から生まれ、黄蜂は馬の死骸から生まれると信じていた人が多くいたし、動物分類学の祖であるアリストートルである、蚤は乾燥した糞が腐敗した一部から生まれ、蝶々は青虫から変化し、青虫は野菜の葉から生まれると主張した事すらある。


▲ 芋虫・毛虫

 これらはみな蝶や蛾の幼虫である。芋虫は体の両側に斜めの縞があり、後ろの先端にひとつの角状の突起がある。橙黄色のものや、緑色のものもある。毛虫は全身毛で覆われており、色彩は黒色、褐色、青色など種々ある。これらの虫は柔軟で、円筒状をしておりその見かけはとても醜悪ではあるが、油で炒めるか、または炙って食べる。無毒であるが、毒蛾の幼虫で、毛があり、尾の先端に毛の塊のあるもので、およびバラ、あるいはリンゴの樹にいるものは毒のあるものが多いとされている。すべて幼虫は盛んに食物を摂取して十分成長すれば繭をつくり、その中に入って蛹となる。蛹の時にはすでに皮膚の下に6足、翅、触覚が出来ており、数日後に皮から出ると翅が広がり、足が伸びて成虫となる。  成虫は雄雌が接してやがて産卵して死ぬ。大体において昆虫類の幼虫は食を取る時期であり、蛹は成虫としての体型となる時期、成虫は子孫を残すための時期である。昔はこの変化の事実が分からなかったため、蝶や蛾については種々の珍説がある。  中国の『列子』には鳥豆の葉が変化して蝶となると云い、『埠雅』には野菜が変化して蝶となると書いてあり、『酉陽雜俎』には、百合が変化して蝶となると論じてあり、『北戸録』には樹木の葉が、そして『野史』には彩の裾が蝶と化すとあるように、すべてその見たと事を論じているている。  アリストテレスすら同様の主張をしていたことは先に述べた通りである。こうしてこの事はかなり過去の事だけではなく、現代においても時としてこうした奇談を残すことがある。今から数十年前のアメリカン、セントフェルナンドである人が、毛虫を飼育して蝶まで育て人に自慢していたが、その地の支配者がそれを聴いて、妖術を使って世間を欺くものであるとして牢獄に入れて罰したという。

 芋虫は十分に成育すれば長さは15cm程に達し、日本では最大の昆虫となる。この成虫を骸骨蝶というのは、胸部の背面に人の骸骨に似た模様があるためである。体はかなり大きく、長さは5cm、翅を広げると15cm程になり、触覚は太く、口先は長い。この蝶の奇怪な特徴は、声を発することである。昆虫で発声するのはこの虫以外にはない。この蝶は蜜を好んで、よくミツバチの巣を襲う事がある。ミツバチの大群は騒動して防ごうとするが、蝶の発声があたかも、ミツバチの女王蜂が、その集団の喧嘩を鎮める時の声に似ているため、ミツバチの群衆は迷って傍観している間に、思うがままに口を伸ばして蜜を飽食するのという。


▲ 蝉・蝉の子

 中国料理に桂花菜とあるのは、蝉および蝉の子の油炒めである。中国で𫋐螬というのは蝉の子のことである。親蝉の方は生食すればその味は果実のようであり、小蝉の味はスクモ虫と似ているという。昔のギリシャ人もこれを食べていたという記録がある。さらに近年ではアメリカでも蝉の試食会が開かれて、シチューまたはフライに調理するならば、牡蠣や鰻に劣らないものである事が報告されている。日本でも蝉を食べる人は少なくない。特に山形では砂糖醤油て炒めて普通に食べられている。

 蝉は世界中の至る所に分布しているが、種類はあまり多くない。日本にいるものは油蝉、ミンミン蝉、ひぐらし、熊蝉、つくつくぼうし等の7~8種に過ぎない。初夏から初秋まで至る所の樹木の上で鳴き喚き、大声で人の耳をつんざくばかりであるのであるが、その寿命に関してはわずか4~5日間に過ぎない。
 蝉の鳴き声と生態に関して古来から各国でも関心が払われているように、日本でも蝉の短命さと儚い人生が比べてられている。大伴家持は、「虚蝉うつせみの世はつねしと知るものを」と詠っており、高橋連蟲麿の作品には、「うつせみの代のことなれば」とある。また『源氏物語』の中にも、「空蝉うつせみの身をかへてける木の下に、なほ人がらのなつかしき哉」と詠まれている。

 中国では蝉の鳴き声は、国家の興亡と重要な関係があると考えられており、『易』では、

「易通卦驗,曰,上九,候蟬始鳴。不鳴,國多妖言」
 易では、蝉が泣かないのは、国に妖言が多くあるからであると言っている。


とあり、また『周書』では、

「夏至又五日,蜩始鳴;不鳴,貴臣放逸。立秋之日,寒蜩鳴;不鳴,人臣不力爭」
 夏至または5日頃になっても蝉が鳴かない場合は、高位高官が精進を怠っているからである。立秋の寒蜩が鳴く時期になっても鳴かないのは、その家臣が真剣に働かないからである。


と説明している。

 ギリシャでは蝉を楽天的で華やかに捉えていて、詩人のアナクレオン(Anacreon)はその詩の中で

『On the Cicada:蝉について』
「あわれ蝉、我らは汝を幸あるものと思う。そは汝、王の如くただ僅かなる露を飲むのみにて樹梢に歌を唄へばなり。野にて見る物、季節の生じる物、すべて皆これ汝が物なればなり。‥‥‥‥‥人は汝を楽しき夏の先駆として褒め讃え、美の神は深く汝を愛しむ。フェブスは汝を寵して汝に鋭き歌を与えたまいぬ。長き時、世も汝を亡ぼさざりき。あわれ汝、恵まれたる者よ。
 地上に生まれて歌を好み、苦痛をめず。肉あれど血なき者よ!汝こそはほとんど神に等し」


と歌っている。またギリシャの哲学者のリゼナルクスは、「蝉は幸福である、その雄は鳴かなければならない事で、女性の多弁を戒めているのである」と言っている。

 蝉の生い立ちに関しては中国のひとつの伝説がある。崔豹の記した『古今註』によると、昔、齊王が后王を恨んで死んだが、その屍が蝉になり、庭木に登って絶えず大声で泣き暮らしたところ、王は悔恨して深く悲嘆した。その故に蝉の別名が齊女と云うとある。
 蝉の育成は普通の昆虫と同じように、交尾が終わり、その後、間もなく雌は針のような産卵管を尻端から出して、木の幹に無数の穴をあけて、その中に産卵する。その後、2~3ヶ月すると孵化して淡紫色をした幼虫となり、幹を伝わって地中に潜り込んで、木の根から養分を吸収しながら地中に3~4年は住み、時期がくると蝉となり樹にとまって鳴き始める。
 アメリカでは、蝉の一種にメガシカダ・セプテンデンシム(Megacicada Septendencim)といって幼虫時代に17年間の長きにわたり地中で埋もれているものがある。これは昆虫類のなかで最長の長寿種であるとして有名である。

 中国の『鹽鐵論』には「以所不睹不信人,若蟬之不知雪」とあるように、確かに蝉は夏しか地上に出てこない為に一度も雪を見ることはない。しかしながらその幼虫時代は3~5年、長いものになると17年間は土の中にいるので、毎年、冬になると何度も雪がその頭上に幾センチも積もっているはずであり、そう考えると『鹽鐵論』は何も言えなくなってしまうだろう。


蚯蚓ミミズ

 我国ではミミズと言う。環虫類の一種であり腹面にはひとつの輸卵管の孔を持っていて、その後方にも一対の輸卵管の開孔がある。つまり雄雌が同体になっているのである。その形は護膜管のようであり、体は60~200以上の環節から構成されており、体を伸縮して前進する。環節の周囲には多くの細毛がるので地面に摩擦がかかり後退を防いでいる。『本草網目』に、「体を伸び縮みさせて進み引きを繰り返す、その様は楼丘(五重塔)のようである。ゆえに蚯蚓と名付けられている」とある。
 また『禮記』月令には、「立夏之日,螻蟈鳴,又五日,蚯蚓出:冬至之日,蚯蚓結」とあるのを見ると、古代の中国人が蚯蚓の出てくるのに注意を払っていたことが分かる。

 『本草網目』によると食用のミミズは、白頸のもので、頸に白い環があるものを選んで食べるとある。郭義恭の『廣志』には、「閩越江北の山間地域にはミミズの干肉を食べてこれを勧める」とあり、南部の地方ではミミズを干し物として食べているようである。
 アメリカ・インディアンやアラビア人もまた、ミミズを食べると言われている。日本でも下熱剤としてミミズを煎じてその汁を飲む人はいる。これは中国から伝来した方法であり、中国の『本草網目』には「其性寒而下行。性寒故能解諸熱疾,下行故能利小便、治足疾」とある。
 また『孟子』には、「夫蚓,上食槁壤,下飲黃泉,故性廉而寒」とあり、これが故か、あるいは本当に解熱の効果があるのか無いのか、この問題を医学者に尋ねてみても、未だにこの事を研究した人はいないので定説は存在していない。しかし医学者ではなく、理学博士の三宅恒方氏はその著書『天使の翅』のなかでミミズは研究の結果、解熱の効果があると発表している。  また日本でも、中国でもミミズの腹の中にある泥土を引っ張り出して酒に入れて飲む人がいる。これは『本草網目』にミミズの別名が「歌女」とあり、その理由が、地中で長く鳴いている為だとある。よってこれを飲めば声を良くするという言い伝えによる為である。しかし近年の研究では、ミミズの体内には発音器官はなく、よって鳴くということは無い。夏の時期に地中で鳴くのはオケラが雌を呼んでいる声であるというのが正しいようである。古来からこれがミミズの鳴き声と誤られて、酒のなかに入れ人間に飲まれてしまうのは、甚だもって蚯ミミズは迷惑を感じていると思う。

 ミミズを魚の餌にするのは、日本も中国も同じである。これは魚釣りの季節と、ミミズが発生する季節が一致しており、さらにこの虫が細長く柔らかなので針に付けるのに便利だからである。しかもこの餌にかかるのは小魚類だけであり、大魚には有効ではなさそうである。『唐書』には科栖箔に関する面白い記述がある。

 今取士試之小道,而不以遠者大者,使干祿之徒,趨馳末術,是誘導之差也。夫以蝸蚓之餌雜垂滄海,而望吞舟之魚,不亦難乎

 海でミミズを餌に釣り糸を垂れても大きな魚は釣ることができない。


とある。また『新唐書』( ※ 原文には五行志と誤りがある )には、「江西溪澗魚頭皆戴蚯蚓」(江西の渓谷ではどんな大きさの魚でもミミズで釣れる)とある。なるほど蚯蚓で大魚が釣れなかった事は科栖箔が憤慨している通りである。

 ただし南米のブラジルに産するグロソやスコレックスというミミズ、南米のケープ地方に産するミクロケーツスというミミズは、長さが1m以上のものもあると言われている。また『倭漢三才図会』によると、丹波遠坂村では大風雨の後に山が崩れて大ミミズが出てきたとある。ひとつは約4.5m、もうひとつは約3mであったとある。また中国にも大ミミズが出てきた記録が少なくない。『呂氏春秋』には「黄帝大螾おおみみず」とあり、その大きさは虹のようであるとしてある。
 『酉陽雜俎』には「太和三年廬州某官,庭前忽有蚓出,大如食指,長三尺」とあり、このような1m(3尺)以上もある大ミミズならば、大きな魚を釣るのも可能であると言えないだろうか。科栖箔だったらどうするだろうか?


▲ ゴカイ虫

 漢名で「禾虫」または「沙蠆」と言う。淡水と海水の混じる泥や砂の中に棲んでいる。多くの環節があり、長さ20~25cmのものもいる。各関節の両側に足があり、こらから刺毛をだし、頭には8本の触覚がある。体は柔軟でありミミズに似ている。中国では別名として「鳳腸」などの美しい名前が付けられてはいるが、その外観は非常に醜い虫である。日本では専ら魚の餌に使われているが、これを食べることは無い。夏秋には砂浜を掘って取り、晩秋には新月の夜に、群れをなして海面に浮かんでくるのを掬い取って貯えておき、冬期に釣魚の餌にする。しかしながら中国南方ではこのゴカイを良く食べているようである。広東はゴカイ食の本場である。『虫食品類』は禾虫の美味しさを説明し、調理方法と説明が非常に詳しく行ってある。また『本草綱目拾遺』( ※ 原文には『食鑒本草』とあるが誤りである )には、「稲の根が変化して虫を生み出す、故に稲の根が黄色ならば、虫は黄色である。禾虫は実際に稲の真髄であり、よって含まれる滋味が豊富であるのは言うまでもない」とある。  『蠡史』には「沙蠶無筋骨之强爪牙之利穴沙吸露尚不免見食於人者以味美也」( ※ 沙蠶には骨や爪や牙はなく、食べると美味である。 )と書かれており、『漁書』にも同じようにその美味について述べている。

 現在、広東で行われている料理方法は、この虫を束にしたまま油で揚げ、味をつけるか、あるいは生きたまま器に入れて、塩と酢に浸し、塩辛を作り、煮物に加えると非常に美味である。日本では、秋田、庄内で一般的な魚醬とその風味は同じである。  この虫は、晩秋に海潮に従って水田の中まで上がって来て、稲の根に食い入る害虫なのであるが、これを食用にするようになった事は、美食の新発見と、主要作物の害虫駆除とを兼ねており、いわゆる一挙両得のメリットもあるとしている。そこで最初にゴカイ食を提唱した陳氏のため、広東では毎年、秋季に祭日を設けてその恩に対して感謝すると言われている。しかも陳氏の主張は、彼の独創ではなく、実は、南洋の原住民の習俗から学んだものであるようだ。南洋についてはこの虫をバロロと言い、木の葉に巻いて、焼いて食べる。原住民はこれを非常によく食べているようである。



虫類中の美味


 蛇、蜈蚣ムカデ、蛙、蝸牛カタツムリ蛞蝓ナメクジ田螺タニシニナ


▲ 蛇

 蛇は種々の意味において人生と重要な関係をもっているようで、日本の古代史には素戔嗚尊スサノオノミコトの蛇退治の事績がある。旧約聖書にはイブを騙して、エデンのリンゴを食べさせたのも蛇である。ローマには昔は蛇を神聖なものとして崇拝していたことがある。インドでは今でも蛇は智識の神として尊んでおり、アメリカやアフリカにも蛇を神として礼拝する所は非常に多い。  日本では蛇を岡鰻として、マムシを食べる人は古来から少なくない。マムシは毒蛇であり、これに噛まれると一命を落とす危険があるのは誰もが知っていることである。日本全土にはびこっていて、主に山間の湿地や、竹藪の中に棲んでいる。頭は扁平で三角形であり、背中には亀甲型の文様がある。首の周りにの皮を切り取って、これを下に引き裂けば全身の皮は綺麗に剥け、薄紅色を帯びた白玉のような肌身が露出する。次に内臓を取り去り、肉は背骨の付いたまま焼くのが普通の料理法である。他にも生のままで酢をつけて食べる人もある。この肉の味は癖が無く、淡白であるが悪くはない。骨も香ばしくて歯ごたえも良い。東北地方ではひきつけの薬として日干しにして保存している。皮は乾かして箪笥に入れておけば麝香の代用として、害虫を避けることができる。また生きたまま瓶の中に入れて、これに焼酎を注いで、口を密封して、いわゆるマムシ酒をつくって、肺病、神経衰弱の薬として飲まれている。(マムシ酒の製法は中国伝来と思われるが、日本ではこれを作っても土の中には埋めない)
 また馬が疾病にかかったり、疲労した時に、干しマムシの粉末を馬の餌に混ぜて食べさせれば効果がある。マムシに次いで珍重されているのは鳥蛇であり、これは蛇中食のなかで最も味が良い。さらにシマヘビ、青大将も同様に食用にされている。

 信濃の一地方ではマムシ飯として、マムシだけでなく、普通の蛇を飯でに入れて煮込んで食べることがあると云う。世界大戦以来、各国とも食物の範囲を広げることを推奨した影響で、日本でも蛇食が広がりつつある。現在では東京市内だけでも蛇専門店が200軒、一ヶ月の消費高は42.000~43.000匹におよび、全国では1年間で4~5万匹を消費しているという。しかもそのうちの大部分は黒焼きとして喘息の薬として使われているは、それでも少なくとも全体の3割は食用であるとされている。
 蛇の産地として、近江の伊吹山、愛知の矢矧の付近、四国の愛媛、九州の宮崎、千葉の印旛沼付近、野州の日光方面で有名である。採取の時期は4月~7月頃迄と、9月末~11月頃迄として、8~9月頃は暑さを避けて出ることはない。また寒い時期は冬眠して土中で冬眠していることは皆が知っている事である。

 蛇は補助栄養食として運動選手の間に蛇食流行の傾向にあり、あるいはその生血を飲む人もある。ただし蛇食の本場として流石に中国を推さないわけにはいかないだろう。ある人の説では、昔、日本人は蛇を食べなかったという。蛇食は寛永年間に中国から伝わったものである。『倦游雑録』には蛇の別名に「茅鱔」というとある。あるいは「陸鰻」という所もある。このように蛇をアナゴやウナギの類と同一視しているのを見ても、蛇食が相当に盛んであることを理解できる。
 茅鱔の中でも特に烏蛇からすべびが貴重とされている様は、日本とは比較にならないくらいであり、鳥鰻はその数が少ないために偽物まで作って売っている者もいるくらいである。その方法は、他の蛇を燻製にして黒色にして、その外見を胡麻化しているが、その眼光に注意を払うと、偽物を容易に見分けることが出来る。特に鳥鰻の特徴は、枯死しても眼は窪まずに生きているかの様である。

 中国で蛇の用途が最も広いのは蛇酒の製造と干肉料理においてである。蛇酒は不老長生の薬として、約400州の至る所で珍重されており、その種類は蛇により名前が異なり、蝮蛇酒、蚺蛇酒、鳥蛇酒、花蛇酒、等のものがある。蝮蛇酒は、生きたマムシ一匹を酒瓶に入れ、馬尿の滲みた厩の土中に埋めて、1年後の取りだす。この間にマムシの肉も骨もすべて溶解しており、黄色を帯びた透明な酒になっている。
 蚺蛇酒は大蛇の肉一斤と羌活(セリ科シシウドの根)を若干を袋に入れて、麹を甕底に敷き、上から糯米で覆って酒を醸す。
 鳥蛇酒、花蛇酒等の製法もこれと大体は同じである。蛇酒は古ければ古いもの程良いとされており、中には10年酒、20年酒があり非常に高価である。これを飲めば身体は暖気を感じ、精力も増進すると言われている。また泉建州の蚺蛇肝と呼ばれているものがある。『朝野僉載』によれば、初夏の5月に蚺蛇を捕まえ、まずは腹を上向けにして、杖で頭と尻尾の両方から打ち、胆汁を一ヶ所に集めておいて、包丁で腹を割いて胆汁を取り、切り口を塞いでまた放せは蛇は死ぬことが無い。翌年には傷口が塞がっているので、再び短銃を絞り取ることが出来る。もし蛇を捕らえても、腹部に新しい傷のあるものはそれを放たなければならないとある。この胆汁を酒に混ぜて飲めば精力増強の効果があるとされている。
 また『嶺表錄』の記載によれば、中国の一地方には養蛇戸というものがあり、毎年5月5日に蛇を担いで官府へ蛇肝を納めていた。今でもまだこのような貢税があるかどうかは分からないが、蛇肝が貴重とされていることは昔から変わりない。このように蛇肝は貴重とされている為、猪肝、虎肝を使って偽物を売る者がいるが、これを水に浮かせてみると猪肝と虎肝も水中に沈むが、蛇肝のようにすぐには沈まないので、すぐに真贋を見分けることが出来ると言われている。

 蛇の干し肉は、普通は油で炒め、豚肉、筍、生ショウガ、紹興酒などを入れて長時間煮込んで料理を作る。中国の献立に龍鳳菜、龍虎菜などの龍の字が冠してある料理は、食材に蛇が使われているものであり、龍鳳菜とは蛇と鶏の煮込み、龍虎菜とは蛇と猫の煮込みの事である。蛇の干し肉は非常に美味であり、豚と鶏の両方の味を兼ねたようなものであると云われている。中国の富豪たちの中には、特にこの干し肉を好んで、常にこれを貯えておいて、食卓の珍味とするようにしている。

 『王濟手記』には、橫州の山中に蚺蛇が多くおり、その肉が極めて美味であると記されている。『嶺表錄異』でも『楊氏南裔異物志』等でも皆、蚺蛇が美味であると説明してある。中には大蛇の肉を生食する地方もあるようで、李時珍の記した『本草網目』には、嶺南の土人は巨大な蛇の肉を切って、膾を作って珍味とするとある。そして数多い中国料理の中でも、最も美味いのは広東の三蛇會と呼ばれる蛇料理であり、それを超えるものは無いとしている。

 広東は三蛇會の本場であり、蛇と言えば即、この地が思い出されるのであるが、これはあたかも日本ではフグ料理と言えば「馬関」がすぐ連想されるのと同じ程である。
 三蛇會の料理方法はかなり奇抜であり、コブラ、まむし、ハブの三毒蛇を釜の中に一緒に入れ、互いに毒をもって毒を制し、無毒になるように、必ず三種類の毒蛇を一緒に調理する。この故に三蛇會という名がつけられているのである。
 まずは生きながら蛇を丸剥ぎにして、庖丁で肉をそぎ取り、細かく刻んでスープのなかに入れる。これに菊の花、中国芹、干餅および狸の肉を入れ、日本の寄せ鍋に似た趣向で、煮ながら数人で鍋を囲んで食べるのである。それは甘賦で、また何とも言えない妙味があると云う。狸は日本種と少し異なり、アナグマの一種に近いと思える。中国ではこちらがかなり良く食べられており、『本草網目』にも山獣の珍味であると述べられている。
 三蛇會の季節は旧暦の11月~12月までの間で、菊花の頃に限られている。菊花は実際に三蛇會に付きもので、この花が無ければ三蛇會は成り立たないとされている。これはあたかも我国のフグ料理の季節が11月から翌年の2月までの間で、これには橙の酢が付きもので、この橙がなければフグ料理が成り立たないのと同様の関係にある。

 蛇は広西省西江流域で取れるものが最上とされている。この地で採取されたものは全て、一度は梧州に集められ、梧州から広東に輸送される。広東では梧州から荷が届くと、市中に広告が盛んに張り出されて、通人仲間の常連たちはそれを待ち兼ねており、三蛇會を催すという。三蛇會には決して他の料理が添えられることは許されない。これは味が混ざって、せっかくの蛇料理の佳趣が妨げられることを避けるためであるが、これもまた我国のフグ料理の場合にも、他のものを混ぜるない事をしないのと全く同じである。

 また三蛇會の時には必ず蛇酒が飲まれるのも、我国のフグ料理にフグ鰭酒がつきものであるのと同じである。この際に飲まれる酒は三蛇肝酒という。紹興酒であっても、蘭陵酒であっても、これらを三蛇會で飲む場合には、まずは飲む前に、生きた三毒蛇からの胆汁をそこに絞り込まなければならない。酒は苦味を帯びて、かえって香気を増すという。この酒は精力増進に効果があり、不老長寿の妙薬であると信じられている。  蛇は横腹を裂いて、胆嚢を引き出しても死ぬことはないので、胆汁を絞り取った後は、胆嚢を元に戻してそのまま生かしておいて、やがて傷が癒えて胆汁が溜まるのを待って、次回の三蛇會の材料とする。

【 備考 一 】
 中国における不老長寿の妙薬としては、蛇酒の他に、蜥蜴トカゲ酒や虎骨酒などがある。とかげ酒はとかげを捕まえて生きたまま酒に入れて、蛇酒と同じ方法で作ったものである。虎酒は、老虎の骨を酒に仕込んだもので普通の店では売ってはおらず、有名な薬局でのみ入手できるという。蛇酒だけでなく、他にも補精薬として 泰山の何首鳥、吉林の人参なども珍重されている。


【 備考 二 】

 著者が少年の時、山野を歩いて10月頃の黍畑に蛇が群れているのを見て、不思議に思っていたが、その後 『荘子』を読んで、「地節三年種蜀黍其後七年蛇多」とあるのを見、また『朝野僉載』には「種黍来蛇」と書かれており、『博物誌』には「種黍多蛇」とあることから、古来から中国では黍と蛇との関係があることを認めていることは理解していたが、未だにその理由を知ることは出来ておらず、有識者の教えを待ちたい。また『朝野僉載』には、「燒羖羊角及頭髮,則蛇不敢來」とある。羊の角を焼くことはないが、頭髪を焼けば、蛇がかなり苦しむのは事実であるようである。これを焼けば蛇は必ずやって来ないという。


【 備考 三 】

 蟒、蚺蛇ぜんだの類は卵から孵化する。多くは一度に百以上の卵を産み、とぐろを巻いた状態で卵を保護する。少なくとも11週間はとぐろを巻いたまま動かず、その間は決して食物を摂取しない。子蛇は昼間は親のそばで遊んでいるが、夕方になると卵の殻の中に潜り込んで寝るという。日本の蛇も卵で生まれるものが多いが、マムシは胎生である。しかも子蛇は親の口から体内に出入りするというのは老人の語るところである。これは親蛇が保護のために口の中に入れているのである。蛇の卵子は、蛇の大小によって違いはあるが、普通は日本産のものは雀の卵と同じ大きさである。外殻は柔らかく、指で押せば感触はゴムボールに似ている。



▲ むかで

 中国語で「蜈蚣」または「蝍蛆」と書く。日本では別名は「百足」と書くが、実際には足は百本も無く、四十本である。この虫は頭と同体のふたつに分かれて、胴体は20余りの環節から構成され、背部は緑黒色をしており、腹面は黄色を帯びている。各関節には一対の脚がある。頭には長い触覚と8つの単眼があり、その下部に少々大きめの鉤をもっている。これは第一の脚が変化したもので顎脚といって、毒腺の管はその先端にある。好んで湿地に棲み昆虫を捕食する。ムカデについては中国には種々の説がある。『春秋考異郵』では、「土勝水,故蝍蛆搏蛇」と言っており、では『荘子』「蝍蛆甘帯」( ※ ムカデは蛇を食べる )とある。これらは、すべてムカデが、蛇を制し、蛇を食べることを述べているのである。『本草網目』にも「蛇游霧而殆於能製蛇。見大蛇,便緣上啖其腦」とある。ムカデが虫類でどう猛であるのは疑いようはないが、果たして本当に蛇を食べるのかどうかは定かではない。

 ムカデの味については我国にいるものは皆、小さいので食べられないが、中国では足の黄色のものは食べないが、赤色のものは食べる。『南越志』には,、ムカデの大きなものは30cm余り、松明を焼いてこれを捕まえ、肉を炙って乾燥させる。味は牛肉よりも美味である。『臨海異物志』には晋安東南にある吳嶼山にムカデが多く棲んでおり、大きなものは3m余りもある。干し肉にして食べれば大海老のような味がすると述べている。
 また『遐觀賦』には、南方の人は、争ってムカデの肉を買い求め、これが美味であるとして調理するとあるのを見ても、ムカデの肉が珍重されており、その味も良いことが分かる。


▲ 蟇蛙、カエル

 小野蘭山の『本草啓蒙』に、勢州山田に近い山中、および江州八幡邊の山中に大ヒキガエルがいる。また和州大瀧の山中には大きさが180cm余りのものがおり、背中に3人を乗せることができたと『採藥記』には書かれていた。果たしてこのような大物がいたのかどうかは確かではないが、30cm位の大きさのものは見かけることがある。『古事記』国樔クズの項に、カエルを煮て上味となす云々とあるのを見ると、太古から我国ではカエルは食べられてたことには疑いの余地がない。現在でも時々、カエルを食べる人がある。季節は春が一番である。まずこれを捕まえて、庖丁で頭の上に切り込みを入れ、その切り口から皮を剝げば、中から水色の美しい肉が現れる。次に内臓を洗い出して、手足の指を取り除き、砂糖醤油で照焼きにする。その味は少しスッポンに似ている。骨は固いが、肉との離れ具合がよいのはスッポンと同じである。関西地方ではカエルをスッポン料理の代用にすることがある。人によってはフグに軽く脂肪を加えたような味であると言うものもある。とにかくその味は悪くないのは間違いない。我国の某書にカエルの肝臓が美味であると述べているが、すべてカエルの肝臓は不味い。カエルもスッポンもその肝臓は食べるに値しない。

 中国においては、昔からカエルを神通力のある怪物としたようで、『抱朴子』には、「ヒキガエルが百歳になれば頭上に角が生え、顎の下に丹書がある。5月5日の正午にこれを捕らえて、100日間陰干ししてその足で地に描けば、水が流れ出て河となると書かれてあり、『玄中記』には千歳のヒキガエルは頭に角を生じ、これを食べれば人の寿命は千歳となるとある。またヒキガエルは良く山鬼を食べる、よって人がこれを食べれば仙人のようになり、霧を起こし、雨を降らせ、兵を避け、束縛から逃れる事、自由であると言う。  このように中国ではカエルを怪物視しながら、食品としても重んじているようで、『尚書故実』( ※ 紺珠集にこの記述がある )には「以蝦蟇為上味....疥者皮最佳」とある。その他、『本草網目』、『爾雅』、『游官見聞』、『南楚新聞』など肉の美味を載せている書籍はかなり多い。ただし北方の人にはあまり善食として通用していないようであり、韓愈(韓退之)が、柳々州のガマガエルを食べて答えた書の中に、「餘初不下喉,近亦能稍稍。常懼染蠻夷,失平生好樂,而君複何為,甘食比豢豹」と述べている。柳々州でヒキガエルが好んで食べられているのに対して、韓愈が不気味ながらそれを食べている様子が伺える。

 ヒキガエルの他にもトノサマガエル、アカガエル、アオガエルなど皆、食べられている。その中でも日本人には特にアカガエルが好まれている。我国の山野の雑草のなかに多く生息している。肌色で淡い赤色をしていて暗褐色の斑点がある。肢体が非常に軽快でかつ俊敏であるためよく跳躍をする。その味は小鳥に似ており、子供の疳に効くとされている。  溝や田の畔などには暗褐色を帯びた、泥ガエル、別名を糞ガエルという種類がいる。これは悪臭があり、食べられない。このカエルは冬季には流れの緩い水中の石の間などで冬眠しているが、この時期であれば炙って食べても何の悪臭も無く、中々に良い味である。

 中国人だけはアカガエルを好まない。しかしアオガエル、クロガエル、トノサマガエルは良く賞味されている。  『本草綱目』には「田鶏、水鶏、土鴨、形雖異功用即一也四月食之最美也」とある。一般に青色のものを土鴨と言い、黒色のものを蛤子と言う。その他にも山蛤、田鶏、半漁などの別名があるのは、その味がそれぞれ、蛤、鶏などに似ているからである。これらの蛙料理を、鏆蛤菜という。かつヒキガエルの干物はあらゆる所の店頭で売られていて、日本の干物と同様に扱われている。『侯鯖錄』には、水鶏とは蛙のことである。水族のなかでもその味は薦めるべきものであるとして、蛙食を推奨し、また『漢書:東方朔傳』には、長安の水にはカエルが多く、これを以て人々に食料を供給できると論じて、長安が首都として適当であるとする幾つかの理由に数え挙げている。

 夏にはカエルの鳴き声は非常に盛んであるが、中国の『秘傳花鏡』という書には

「一蛙鳴,百蛙皆鳴,其聲甚壯,名蛙鼓,至秋則無聲 」

 一匹のカエルが鳴き始めると、百匹のカエルが皆鳴き始める。その大合唱は「蛙鼓」と名付けられている。しかし秋になるとその声は全く聴こえなくなる。


とあり、カエルの鳴く様子が描写されていると言える。
 さらに中国にはこのカエルの鳴き声によってその年の豊作あるいは凶作を占う風習がある。『考工記』という書には「以脰鳴鼃黽之屬農家占其聲之早晩大小以卜豊作」(カエルによって農家は、豊作かどうかを、その鳴き声の大小で占う)とあり、また唐の章孝標の詩には、「田家無五行, 水早卜蛙声」(田舎では五行の連行などは無視して、大水や日照りも、蛙の声で占う)という句にあることからも、こうした習俗を知ることができる。

 西洋ではヒキガエルを食べるのはギリシャからローマを経て、フランスに伝わっている。従って蛙料理はパリを本場とする。フランスの西部地方では盛んにカエルが養殖されていて、小鳥料理と比較しても独特の美味であると言われている。昔は後ろ足だけが食べられていたが、近年は品不足の為に、全体が食べられるようになっている。ヒキガエルの一種で北米ロッキー山脈の東側一帯にいるものは、体長20cmにおよび、その味は美味であり、食用ガエルと呼ばれている大正9年、渡瀬博士がアメリカからその種のカエルを持ち帰り、帝国大学付属伝染病研究所の池で飼育していたが、その後、農務省によって滋賀県や茨木県などのその他の件に分配したものが繁殖中であり、すでに西洋人向きのホテルでは蛙料理の提供が行われるようになったと聞いている。
 本来はこのカエルはアメリカでは野生のものであるが、今は各国で人工的に養殖されるようになり、孵化後2年ぐらいで食用に適するように育成するため、750g~1kgまで達し、足を伸ばせば50~60cmにおよぶものもあると言う。鳴き声は牛の鳴くのに似ているので、ブルフロッグ(Bullfrog)と呼ばれる。昨年、東京の渋谷にある池に 怪物があり、夜な夜な牡牛の鳴くような奇声が発せられているとして、あちらこちらで噂され大騒ぎになって事があったが、この怪異の正体は牛でも龍でもなく、実は帝大研究所の池から逃亡した一匹の食用ガエルがここまで新しい棲家を探して移動してきたことが分かり、笑い話となったとの事である。
 こうした事例をみても、いかにその鳴き声が奇妙で大きな音であるかを知ることが出来るだろう。

 西洋でのカエルの料理法は主にフライ、またはシチュウである。竹越氏の『南洋紀行』には、「シンガポール付近の藪の中から牛の鳴き声に似た声を発するウシガエルと呼ばれる大ガエルがいる」とある。これも南洋地方の珍味とあるので、食用ガエルと同種のものかもしれない。

【 備 考 】
 東垣食物本草に、カエルは他の所に移動させても、必ず元の所に戻るためにカエルと言うとある。中国で一名懐士というのも、それと同じ意味であるだろう。『王荊州公字説』、『潜確類書』でもこれと同じ意味のことを伝えている。しかしながらアメリカ・カエルが研究所の池を逃げ出して、他の池に移り住んだところを見ると、『食物本草』の説は必ずしも正しいとは言えないようである。



蝸牛カタツムリ

 古来の我国では、子供の疳の薬として服用されていたことがある。四国の阿波地方では子供のおやつとして殻を取り去って焼いたものを食べていると聞いたし、その他にもあまり食用にはされてないが、時として試しに食する者があるという。
 まずは大きくて形の丸いものを選んで、殻をつぶして腸を捨てて、肉だけを塩水で良く洗ってネバネバを取り、串に刺して塩焼き、または照り焼きにする、繊維が細かいので簡単に噛み切れないが、よく噛めばその味は捨てがたいものがある。サザエの味に似ている所があるが、脂肪が多く、鶏の胃袋の外壁を炙ったものにも似ている。

 中国では上撰として取り扱われており、多くはあつものとして料理されているようである。現在でも中国料理の五目汁の材料には、海老やカニと同じようにカタツムリ、ナメクジもつかわれる。本草には池や澤、草むらの間で育成しており、形は丸く、大きなものが旨いとされており、暗がりにいて、形が平たく小さいものは良くないとされており、『嶺表録異』に天臠炙とあるのは蝸牛料理の事である。屋瓦子殻の中に、肉が紫色で腹が太ったものが最も重んじられているとある。『禮記』には蝸羹の事が書かれている。『周禮』にも蠃醢(かたつむりの塩漬け)と書かれている。古代から羹や肉醤で調理され、皇室の料理としても提供されていた事がここから分かる。

 カタツムリはヨーロッパでも賞味されている。特にフランスでのカタツムリ料理は有名である。古代ローマでもカタツムリ料理は盛んであり、そこからフランスに伝わったと言われている。エスカルゴというのがこの料理で、アメリカ人も近年になると、食べ始めるようになりヨーロッパから盛んに輸入するようになっているらしい。このように天然のものだけでは需要をまかないきれず、フランスのバーガンディー地方を中心としたスイスやオーストリアなどにも養殖場を設けて供給が行われている。エサは主にブドウの葉、葉牡丹、ハッカ、人参などが与えられている。

 カタツムリは食品としてだけでなく文学的にも人口に膾炙している。『荘子』に、カタツムリの左の角に触氏、右の角に蛮氏というものが国を構えていたが、領土を争って戦争をはじめ、死者数万、さらに15日間も敵を追撃して鉾を収めたとある。また白居易の『對酒』の中にも、蝸牛角上争何事 (カタツムリの角の上で、いったい何を争うのか) という句があり、これらはすべて人間界の小ささを冷評したものであり、いわゆる蝸牛角上カギュウカクジョウの争いとは、ここから出た言葉である。
 また、蘇東坡の蝸牛の詩に

  腥涎不滿殼,聊足以自濡
  升高不知回,竟作粘壁枯


とある。また旧約聖書の『詩編58:8』に、「彼は溶けて消えるかたつむりのように歩く」とある。

【 備考 】
 カタツムリは動物学上、軟体動物の腹足類に属しており、アワビやタニシなどと同類であり、2本の角状のものは触覚であり、その頂点にある黒い点は眼球で、口は頭の先端にある。歯は無いが、その舌が歯の代用をしている。雨の降った後に竹の葉や、石コケなどに斑点があるのはカタツムリが食べた跡である。秋の終わりになると殻のなかに入って冬眠する。その寿命は2〜3年である。カタツムリの最も恐れているものは日照りと塩である。カタツムリに塩をかければ肉はドロドロに溶けて水になってしまう。ナメクジは体の背骨が幕に覆われていて、その内部に肺があり、体の前方右側にある小さな孔から空気を呼吸する。頭に4本の触覚があり長い2本の先に眼がある。暗く湿気のある場所を好んで棲み、這って進む際には粘膜を分泌するが、これは他の動物に対する防備のための武器ともなっているようである。口の中には歯や舌があり、これによって木の葉、野菜などを食べる。ナメクジの習性および味はカタツムリと同じであり、異なる点は殻の有無である。
 『本草綱目』には、殻があるのをカタツムリと言い、殻がないのをナメクジというとある。我国にも同じように「蝸牛ででむしの 借家もなくて 蛞蝓でいろかな」とか、または「蛞蝓はけだし蝸牛の出家かな」などの句があるが、これも同じことを意味している。また中国の『履園叢話』には「嶠南地方のムカデは大きいもので60~90cmはあり、刺されれば人は死ぬ。ただナメクジがいると縮こまってしまう。ナメクジはムカデの首にのぼり、その脳を陥れて殺してしまう」とある。日本でもムカデに咬まれたときはナメクジを塗れば、痛みがたちどころに止むというのは、ここから出てきた説かもしれない。




田螺タニシおよびニナ

 タニシとニナは2~3ヶ月間、清水のなかで育てて、その後に湯がいて味噌和えにすると良い。『周禮』天官鱉人に「祭祀共螷蠃蚳以授醢人」( 祭祀の際に鱉人はタニシ、カタツムリ、虫の類を供し、それを醢人に渡す )とあるので、タニシやニナの類はこの時代の皇帝の料理や祭祀に用いられていたのである。現在の中国料理ではタニシやカワニナは、豚、魚、アワビ、芹、タケノコ、豆油、小麦粉などと混ぜて煮るか、または油で炒めて食べる。『崔氏食經』には「大小の便の通じを良くし、熱を下げ、酒から覚まさせる効能がある」とある。また『北史』には隨劉臻が好んでタニシを食べていたことが記されている。

 ニナは黒色で塔の形をしており、殻口は卵型で蓋がある。『崔氏食經』には「河貝子ニナは殻の上が黒く細長くなっていて人のようである。ニナは水辺や渓流の水中にいる。大きさは指の頭ほどであり上は角立っており、下は先端が細く尖っていて、その味はカタツムリに似ている。簡単には死なず、間違えて土壁に塗り込まれるようなことがあっても、数年間経ってもまだ生きている」と述べている。

 タニシはエラで水中呼吸をして、円錐形に螺旋を巻いた貝殻をもつ。殻は右巻きであり、外側は黒色、内側は白色である。体を殻の中に引き込むときは角質の蓋で入り口を閉じる。3~4月頃に、腹の中に数十匹の子供を持ち、その形は母親と全く同じである。少し成長すると、母が殻から出てくる時に、子供も出てきて泥の中で動き回る。
 中国に「月毀於天,螺消於淵」という言葉がある。『本草綱目』には「其肉視月盈虧」( その肉は月の満ち欠けを見る )とあるが、これはタニシは冬には地中に隠れ、夏になると水中に出てくることからの中国特有の想像を逞しくしたものであって、肉が肥えたり痩せたりするのは月に何らかの関係があるからという訳ではない。



註 釈