薩摩ころ煎鯛

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『鯛百珍料理秘密箱』レシピ一覧 


薩摩名物ころ煎鯛のレシピ


薩摩名物ころ煎鯛

薩摩名物ころ煎鯛:筆者調理


薩摩名物ころ煎鯛は、江戸時代の1785年に出版された『鯛百珍料理秘密箱』に掲載されている68番目のレシピである。『鯛百珍料理秘密箱』原文には以下のような説明がある。

【 鯛百珍料理秘密箱 】薩摩名物ころ煎鯛の仕方
此国にて伊作と申す所の茶人の料理なり

一、鯛を三枚におろし、壱寸四角に切、鍋にあぶらをいりつけ、醤油をさし、また酒を入れる。汁は魚より少し上になるくらいがよし。 鍋のふたを取りて煮也、一度にへあがりたるときに、白豆腐を角切りにして入れる。此時に汁をよきほどにして、かげんする、かやくは紅おろし大根をのせ出す也。


鯛百珍料理秘密箱

新日本古典籍総合データベース


【 薩摩名物ころ煎鯛の仕方 訳文 】
薩摩の伊作という土地の茶人の料理である。

鯛を三枚におろし、3cm四方に切る。この鯛を鍋で油で焼き、それに醤油を差して酒を入れる。汁は魚より少し上になるくらいが良く、鍋の蓋を取って煮る。煮えあがったら白豆腐を角切りにして入れる。この時に汁の味や量を良い具合に加減する。紅おろし大根を火薬として乗せて出す。



レシピ解説

薩摩名物ころ煎鯛は、名前のとおり薩摩(鹿児島)の料理である。註釈として伊作という土地の茶人の考えた料理と説明があり、名物とは名乗っているが、実際にはごく一部の茶人やその客の間で知られた茶懐石料理のひとつだったと推測される。

この伊作という土地に関する薩摩島津藩の歴史を見てゆきたい。
まず薩摩藩は茶の生産(知覧茶)を奨励していたり、藩主自身が茶道に強い関心をもっていたこともあり、昔から茶道が盛んな地域であった。そのひとり17代当主の島津義弘(1535年 - 1619年)は、鬼島津と呼ばれるほど戦国時代の武勇の誉れ高い人物であったのだが、同時に茶の湯を千利休や古田織部に学んだ茶人でもあった。晩年、剃髪して惟新斎という号を名乗るようになった島津義弘は『惟新様より利休へ御尋之条書』という茶書を残している。これは島津義弘が五十カ条の茶道に関する質問を利休に書き送り、それに対して利休が回答したものをまとめらたもので、こうした藩主を頂く薩摩は、茶道に非常に熱心な地だったことが分かる。

さらに時代を遡ること南北朝時代。島津氏の宗家3代当主・島津久経の次男、島津久長が弘安4年(1281年)に本家とは別に伊作家を興すことになる。これが伊作家の始まりであり、その本貫地を伊作に定めその地に伊作城が建てられた。
数代を経てやがて戦国時代となり、先に述べた島津義弘の父である、島津貴久(伊作家)が、伊作家から島津本宗家の養子に入って島津家当主となる。以降、島津家は伊作家の系統が代々当主を継ぐことになる。この伊作家の本貫地は現在の鹿児島県日置市吹上町であり、この土地は昔から薩摩藩の政治と経済の中心地でもあったのである。

こうした背景を見てゆくと「伊作という場所の茶人」という記述は非常に意味があるもののように思えてくる。なぜならここから薩摩藩では大名も含めて茶道への関心が高く、武家を中心とした茶道文化が根付いていた様子がうかがえるからである。茶道をたしなむ者は主に上級武士や豪商であったことから、「ころ煎鯛」という料理は庶民が一般的に食べていた郷土料理のようなものではなかったはずである。むしろこの料理は上級武士の料理、あるいは武家の茶懐石で出されていた料理だったと考える方が理にかなっているように思われる。

薩摩名物と冠する料理ではあるが、現在では鹿児島でこの料理はあまり知られておらず、郷土料理としてもその痕跡すら残していない。その理由は「ころ煎鯛」が上流武士階級や茶人のための料理であり、あまり一般庶民によって食された料理ではなかったことが理由だろう。


調理方法

調理方法には、鯛の身を3cm四方に切るとある。こうした大きめの切り方にしてあるのは、後から入れる豆腐との大きさのバランスのことも考えてであると思われる。またここでは一旦油で焼いてから、それを煮るという調理方法が取られている。こうした調理方法は卓袱料理に良く見られ、これも長崎で行われていた調理方法が影響を与えたのか、あるいは薩摩藩は琉球王国との交易があったので、大陸の調理法の影響が、琉球を経由して薩摩に伝えられていたのかもしれない。

また先に鯛を焼いておくのは煮崩れを防ぐためかもしれない。またフタをせずに酒と醤油で煮るとあるのは、ある程度煮込んで汁気を飛ばすことが目的のように思える。よって鯛は比較的しっかりと煮込まれたものとなったであろうし、そうなると先にまず油で焼くことが理に適っていることになる。

鯛が煮えた頃合いを見計らって鍋の中に豆腐を入れる。この豆腐の大きさは3cm四方に切った鯛の身の大きさに、ある程度合わせて切るとバランスが良いだろう。

かやくは紅おろし大根を上に載せるとある。現在でも桜島大根が有名であるが、薩摩藩は『鯛百珍料理秘密箱』が出版された頃、大根(蔔)の栽培にも力を入れていたようである。1804年に薩摩藩で刊行された『成形図説』21巻には「櫻島蔔」, 「紫蔔」, 「倉橋蔔」, 「辛蔔」, 「葛畑蔔」, 「秦野蔔」, 「鼠大根」, 「章魚蔔」, 「夏蔔」, 「蓑春蔔」, 「三月蔔」といった様々な大根が図入りで解説されている。現在では鹿児島の名産となった桜島大根(櫻島蔔)の文献の初見はここである。図では現在の桜島大根の形状とは違うもので、もっとほっそりした形で描かれてるが、大きい大根であるところは変わりない。

他にも九州には赤あるいは紫色をした土着品種の大根があり、考えようによっては、これが「紅おろし大根」として用いられたと考えられる。あるいは現代でも良く知られているような「紅葉おろし」のように、唐辛子を混ぜることによって大根おろしに紅色を付ける方法が取られたのかもしれない。


現代のレシピ

ここからはレシピも記しておきたい。例によって分量が云々というようなことを記すようなことはしない。

鯛を三枚におろし、3cm四方に切り、塩をしておく。
また豆腐も鯛の大きさに合わせて切っておく。
 ↓
鍋に油を引いて鯛の表面に少し焦げ色が付くぐらいに炒める。
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鯛を炒めた鍋の中に醤油、酒を入れる。
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最後に味醂で味を調整する。
煮汁の量は鯛がちょうど浸るぐらい。
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フタをせずに汁の水分を飛ばす。
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鯛が煮えた頃に、豆腐を入れて煮る。
最終的な味の調整を行う。
汁の水分を飛ばして少しとろみが付くように煮る。
 ↓
紅葉おろしをのせて出す。

薩摩名物ころ煎鯛

薩摩名物ころ煎鯛:筆者調理