大坂名物ちくら鮓|押し寿司の一種であり、こけら寿司とも言われる
大坂名物ちくら鮓のレシピ
大坂名物ちくら鮓は、江戸時代の1785年に出版された『鯛百珍料理秘密箱』に掲載されている88番目のレシピである。『鯛百珍料理秘密箱』原文には以下のような説明がある。
【 鯛百珍料理秘密箱 】大坂名物ちくら鮓
こけらすしの事也
一、鯛を三枚にをろし、皮と血合をとり申候て、捨づくりにして、ちよと酢につけ、すぐにあげて、雫をたらし、外のかやくを入れて漬申候也。この仕方は、すいぶんずいぶん、あたらしき鯛をととのへて、魚には酢のあまりきかせぬがよし。
【 大坂名物ちくら鮓 訳文 】
こけら鮓のことである。
一、鯛を三枚におろし、皮と血合いを取って捨造りにする。これを少しだけ酢に漬けて、すぐに引きあげて滴を切って、他の火薬を入れて漬けておく。この料理には、かなり新しい鯛を用い、鯛にはあまり酢をきかせ過ぎない方が良い。
レシピ解説
大坂名物ちくら鮓は、名前のとおり大坂の料理である。しかし但し書きにはこれが「こけらずし」のことであると説明されている。こけらずしは、漢字で「杮鮓」と記載される。柿(かき)に似ているが、実際には以下のように異なる漢字である。
この杮鮓がどのようなものだったかは、ある程度、残された文献から見てゆくことが出来る。以下、様々な文献でどのように杮鮓が説明されているのかを見てゆくことにしたい。
1643年(寛永20年)『料理物語』
この「こけらずし」についての文献は、1643年(寛永20年)に刊行された『料理物語』に見ることが出来る。そこには以下のような説明がある。
【 料理物語 】
[杮ずしの仕様] さけをおろし、身をひらひらと大きにつくり、めしに鹽かげんしてかき合わせ、其のままをしかけ申候計也
【 現代文 】
[杮ずしの作り方] 鮭をおろして、身を大きめに薄く切り、御飯に塩をして混ぜ合わせ、そのまま重石をかけて置く。
ここでは鮭をつかった杮鮓の作り方が記されている。このレシピを見ると押し寿司の一種であることが分かる。どれくらい時間を置くかは分からないが、乳酸菌による発酵によって酸味が出てくるように数日間は置かれたはずである。米に酢を加えて鮓が作られるようになるのは元禄年間頃になってからであり、それ以前の杮鮓のレシピには酢が使われていないので、やはり少し熟れさせてから食べられたと考えられる。
杮鮓の形状
時代が下がってくると、現代の押し寿司のように魚が鮓の上になるように並べられることになるが、『料理物語』の書かれた寛永年間の鮓は、御飯に魚を混ぜ込んで、それを押して鮓にしたのかもしれない。なぜなら室町時代まで鮓というものは「なれずし」と呼ばれる、米で魚を漬け込んだものだったからである。杮鮓の形状もこの延長線上で推測すると、はじめは具となる魚は御飯の中に混ぜて押し鮓にされたのではないか。少なくとも『料理物語』のレシピからは、魚を鮓の表面になるように並べるといったようなニュアンスでは記されていない。
2006年に出版された川上行蔵著『日本料理起源事典』によると、
「こけらずしの名は『料理物語』(1643年),『料理指南集山家集』(1802年)などによると「飯に具をかき混ぜる」とあり、飯の上に具をこけらの様に並べたものではなかった」と記している。
川上行蔵が指摘しているように、もともとの杮鮓は御飯と具が混ぜられたものであったのかもしれない。
しかし話はそんなに簡単ではない。なぜなら、杮とは、桧皮とか木材の板を何層にも重ねてつくる屋根の作り方を意味しているからである。よってこの言葉から想像される杮鮓の形状は、こけらぶき(薄い木片のこけら板でふいた屋根)のように、飯の上に薄切りの魚の具が並べられた状態を示しているようにも思える。そうなると御飯と具を混ぜて作られた鮓の方を、杮鮓と称することには少し違和感がある。
しかし杮(こけら)は、木材を削った時に出る切り屑という意味もある。新たに建てられた劇場で初めて行われる催しのことを「こけら落とし」というが、その意味は建設工事の最後に木片を払うことが語源とされている。昔は劇場の屋根は杮葺(こけらぶき)で、屋根や足場に残る(木片)を払い落としてはじめて完成したことになったのだが、やがてはそれが新しい劇場の初開場を意味するようになっていった。つまり杮が木屑という意味であれば、御飯に魚の具が混ぜられた様が、木屑のように見えたことから杮鮓と呼ばれるようになったとも考えられなくもない。
古代からあった「なれずし」が、御飯と魚を交互に層になるように漬け込んだことを考えると、その名残から杮鮓も同じく始めは御飯と具が層になるように詰められたとも考えられる。このような形状であれば、御飯に木屑が混ざっているように見えなくもない。
しかも長期発酵を必要としない杮鮓は、わざわざ層にして、魚を空気から遮断するように漬け込む必要はなかった。やがては簡便性の理由で、御飯と具を一緒に混ぜて押し寿司にするようになったのではないか。
つまり杮の意味をどう解釈するのかで2つのタイプの鮓の形状を推測できる。薄い木片のこけら板でふいた屋根を表す杮葺(こけらぶき)から杮鮓とするのであれば、表面に魚が敷かれた形状であるし、あるいは木屑から杮鮓とするのであれば、御飯と魚は混ぜられたと考えることが出来るだろう。このように杮鮓の形状ひとつを取っても様々に異なる推測がされるのである。
1690年(元禄3年)『人倫訓蒙図彙』
『人倫訓蒙図彙』は、1690年に上方で出版された風俗事典的絵本で著者不詳の7巻からなる書籍である。様々な身分や職業の簡単な解説を図と合わせて記載されている。
ここには鮓が作られている様子が描かれており、桶のなかには、鮓飯と魚を入れてあるのだろう。発酵を促すために蓋をして、上から重石をのせている。やがて上方では鮓に四角の箱が使われるようになるが、この頃はまだ丸桶で漬けていた時代である。
1712年(正徳2年)『和漢三才図会』
その後も、いくつかの文献に杮鮓の記述が残されている。寺島良安によって編纂され、1712年(正徳2年)に成立した百科事典の『和漢三才図会』には、次のように杮鮓の作り方が記されている。
【 和漢三才図会 】
一種有柿鮓者鯛 鯧 鮑 章魚 烏賊、魽等、加之以、紫蘇、筍、木耳、醸之最爲、凡鮓、蓼、山椒味美
【 現代訳 】
一種に柿鮓というものがある。鯛、鯧(まながつお)、鮑(あわび)、章魚(たこ)、烏賊(いか)、魽(あかがい)等を切ってこれを加える。紫蘇、筍、木耳(きくらげ)で醸したものが最も上品である。これに蓼、山椒を添えると味はより美味である。
ここで説明されている杮鮓も押し寿司である。『料理物語』では鮭だけの鮓のレシピであったが、この時代になると様々な異なる魚貝が加えられるようになり、複雑な味や食感を楽しめるように進化している。さらにそれに加えて紫蘇、筍、木耳などが加えられているのも特筆すべき点である。野菜類も鮓に加える鮓が上品(高級)とあるので、より価値ある料理とするために、手の込んだ調理過程がひとつ加えられたことになる。
このレシピにはまだ酢が使われていない。『料理物語』の杮鮓の説明の前には他の種類の鮓について説明があり、そこには御飯に塩をして、秋冬ならば4~5日、春夏ならば1~2日で熟れるとある。つまりここから、当時の鮓はまだ酢を使わずに乳酸菌発酵によって酸味をつける鮓であったということが分かる。『料理物語』に記された杮鮓は、様々な具材を一緒に混ぜ込んで、これに重石で圧した鮓だったのではないか。
1785年(天明5年)『鯛百珍料理秘密箱』
『鯛百珍料理秘密箱』では大坂名物ちくら鮓が、杮鮓と同じであると述べている。このレシピの特徴は、酢が使われていることである。その後の説明はないが、杮鮓が押し寿司であるのと同じように、木箱に入れられて重石で圧されたはずである。新鮮な鯛を使い、事前に酢を利かせ過ぎない方が良いとあるのは、この後、時間をおいて熟れさせるからだろう。
魚を酢に漬けていることや、その後に、その魚を火薬にも漬けていること。さらには新しい鯛を使うようにという指定があることから考えると、この杮鮓は、上面に魚が並べられた形状だったのではないかと考えられる。
なれずしは、魚が痛まないように、御飯の中に魚を入れ空気に触れないようにして乳酸発酵させる必要があったが、この杮鮓では魚に酢をすることで、御飯の中ではなく、空気に触れる表面に並べられて押し寿司にされたと推測される。新鮮な魚であることが求められているのも、それが理由であると考えられる。
さらに魚に酢がされていること、さらには魚が空気に触れる表面に配されることから考えると、発酵させる日数もかなり短いものになっているように推測される。
1786年(天明6年)『絵本江戸爵』
1786年(天明6年)に出版された『絵本江戸爵』には、当時の鮓がどのようなものだったかを示す挿絵が描かれている。
この挿絵には、屋台に並べられた鮓と、その後ろに鮓を作りための木型を持った人物が描かれている。これは「おまん鮓」と呼ばれる、おからを木型に入れて、その上に魚を乗せて蓋をして押して固めた鮓である。米がおからになっているという違いはあるが、具を混ぜるのではなく、魚を鮓の表面に並べた押し鮓のスタイルになっているのは上方の影響を受けているからであろう。
1802年(享和2年)『名飯部類』
『名飯部類』は、1802年(享和2)大坂で刊行された書籍で、飯、粥、鮓など米の調理だけの珍しい専門書である。杮鮓がどのようなものかについては以下のような説明が記されている。
【 名飯部類 】
すし飯は精白米1升に水1升の割合で、塩5勺を加えて炊く。飯を広い器にうつしてさまし、押しずし用の箱に竹の皮を敷いた中に詰め、平らにして上に薄く切った具を並べ、また飯をつめて具を並べ、その上から酢を振りかける。上を竹の皮で覆ってから蓋をして重しをかけ、暫くしてから庖丁に酢を塗って切る。並べる具は、鯛、鮑、松菜、赤貝、木くらげ、栗、薄焼卵、筍、椎茸、三つ葉などから選んで組合わせ、それぞれ下ごしらえをして用いる。薬味は蓼、山椒、生姜など
ここでは早馴れの効果が得られるように、御飯の方にも酢が振りかけられている。また御飯を詰めた中間にも具が入っており、上には様々な具を載せる豪華なものとなっている。この説明は、現代人の我々が一般的に考える押し寿司の形状が完成している。
『名飯部類』には、寛政年間(1789年 - 1801年)に大坂順慶町(大阪市中央区南船場)の千倉(ちくら)という店の名物の鮓を紹介している。これが『鯛百珍料理秘密箱』のなかに「大坂名物ちくらずし」としてレシピが記されたのではないだろうか。『名飯部類』によると、千倉(ちくら)鮓とは、こけら鮓のことであり、小倉鮓,千倉鮓,わかさ鮓,淀川鮓などの様々な名前で売っていたと説明している。
ただ寛政年間(1789年 - 1801年)は『鯛百珍料理秘密箱』の前であり、『鯛百珍料理秘密箱』にレシピがあるということは、1785年以前から「ちくら鮓」は人気だったはずである。よって『名飯部類』にある「ちくら鮓」の始まりについては修正される必要がありそうである。
1805年(文化2年)『素人包丁』
杮鮓がどのような作り方だったのかは、1805年(文化2年)に浅野高造が記した『素人包丁』の挿絵にある、杮鮓の作り方の挿絵を参考にすることができる。「こけらすし」の項には、魚を薄切りにする図、箱に詰める図、箱ずしの押し箱、重石の挿絵がある。
最終的に完成した杮鮓の上記図を見ると、上面に魚などの具が載せられた形状になっている。箱に詰めて蓋をしてから重石で押されたものが取り出され、四角にカットされた状態で鉢に盛られているのが完成図である。
ここから考えると、18世紀半ば頃から19世紀の初頭になって、表面に魚が載せられた、いわゆる現代で言うところの押し寿司の形状というものが完成されたと言えるだろう。
1837年(天保8年)『守貞謾稿』
『守貞謾稿』は、1837年(天保8年)〜1867年(慶応3年)までの30年間に渡って喜田川守貞によって書かれた30巻余に及ぶ大著である。『守貞謾稿』第五編、生業下の条では様々な職業が紹介されており、その中に「鮨売」という項があり、杮鮨にいては以下のように説明されている。
【 守貞謾稿 】第五編、生業下の条
こけらずしと言うのは鶏卵焼き、鮑、鯛を並べ、薄片にて飯上においたものを言う。
売値は64文、一箱を約12に切って4文で売る。また箱寿司の御飯のなかに椎茸を入れて二段にする。
この時代には、はっきりと杮鮓とは御飯の上に様々な具が置かれた形状のものを差していたことが理解できる。さらに単に上に具をのせるだけでなく、具の配置による美しさも鮓で表現されるようになった。
『守貞謾稿』の後集巻1には図を入れながら杮鮓の説明がある。下図にある黒部分がシイタケで、卵を敷き、白い部分が鯛あるいはアワビと説明されている。四角い箱に入れて押し、正方形になるように切ってある。また御飯を醤油で煮たシイタケを細かく刻んだものを挟んで2層になっている。
福本ずし
この頃、大坂では「福本」という屋号の杮鮓が大流行していたようで『守貞謾稿』には以下、二カ所で福本ずしに関する記述が登場する。
【 守貞謾稿 】巻の六
文政末か、大坂心斎橋通大宝寺町南に福本といふ鮨店を開く。柿鮨(こけらずし)の鶏卵・鮑・鯛等を厚く二分ばかりにしてこれを売る。大いに行はれ、衆争ひてこれを買ふ。これ従来の製は極めて薄きを用ひし故なり。同価にて初めて肴(さかな)を厚く、味よき故に大いに行はれ、たちまち他店にてこれを擬製するあれども、大いに行はれず。けだしこの店ありて後、京坂の鮨店改革してこれと同じなり。鮨製一変す。
【 守貞謾稿 】後集巻1
天保初頃に心斎橋通り大宝寺の南に福本という鮓屋が開店した。玉子と刺身の厚さが1分半~2分(6mm)もあり、従来は5厘(1.5mm)ぐらいの厚さしかなかったので、人々がそれを賞味しようと人々が買おうと列をなし、容易に買えなかったほどである。この時から他の店も一変してこの鮓に倣って同じものを作り始めたが、福本ほどは売れなかった。福本と称するのは、かつて杉本で奉公していたからである。
文政末~天保初頃(1830年頃)に大坂に「福本」という杮鮓屋が大流行したという記述がある。ここの杮鮓は、載っている具の厚みが1分半~2分(6mm)とあり、このリッチ感が人気の原因だったと思われる。
『浪華自慢名物尽』には「福本」の杮鮓が描かれている。
先の『素人包丁』でもそうだったが、この時代は、鮓を盛る時には上に積み重ねて出されていた。この形式は後に握り鮨が主流になった時にも続けられ、最初の頃は握り鮨も上に積み上げて出されていた。やがて握り鮨は横に並べて出されるようになるが、初期段階では杮鮓の影響が大きかく、その盛り方も杮鮓にならったものだったのだろう。
1999年に吉野曻雄が著した『鮓・鮨・すし』には、1891年(明治24年)に「福本ずし」は「福ずし」と代り、その後は松島に軒店を出したが、永続きしなかったとある。その後、心斎橋筋・大丸裏で本福寿司として営業を再開していたが、現在は閉店して「福本ずし」は無くなってしまっている。
文政12年 大宝寺町心斎橋筋西南角に「福本」開業。
明治24年 今井信治郎が屋号を「福寿司」と改名。
明治39年 今井信治郎が大阪鮓商同盟会の初代会長就任。
大正13年 今井安造が大阪鮓商同盟会9代目組合長就任。
昭和 8年 大丸百貨店拡張のため移動。
昭和29年 今井タネと今井敬子が心斎橋筋で再開店。
昭和50年 株式会社本福寿司設立。今井敬子が代表取締役就任。
平成27年 閉店
浮世絵に描かれた鮓
「子福長者」は歌川豊国(三世)が1852年に描いた作品である。五代目市川海老蔵は、七男五女に恵まれ、自ら「子福長者」と名乗ったそうである。深川木場の海老蔵の本宅で、書画会に興じる海老蔵らのなかに、山盛りになった鮨も描かれている。
「大名題出世双六」は、芝居小屋の中に人気役者を配した双六である。この中に鮨を運ぶお茶屋が描かれている。芝居観劇には「か・す・べ」といって「か:菓子」,「す:鮨」,「べ:弁当」が付き物だった。ここで描かれている鮨も山盛りである。
「見立源氏はなの宴」は、歌川豊国(三世)が1855年に描いた。遊廓の花魁との酒宴の様子に、桶に入った鮨が描かれている。この鮨も山盛りになっている。握り鮨が桶に入れて出されるのは、その前身であった杮鮓が、もともとは桶に詰められて重石されていたことに由来するのではないか。
寿司桶
現代になって寿司は「寿司桶」という入れ物で出されるが、これも江戸時代になって杮鮓から発展してきた押し寿司のスタイルが影響しているように思われる。寿司はなぜ桶と呼ばれる容器で出されるのか。それはもともと乳酸発酵させるために桶で重石をされていた名残なのだろう。現在は握り寿司は並べて盛られるようになっているが、それでも桶を器に用いるのはこうした理由であると考えられるのである。
現代のレシピ
「ちくら鮓」と「こけら鮓」は同じものである。そこで今回は1837年(天保8年)から書き始められた『守貞謾稿』に記載されている「こけら鮓」を主に参考にして作る現代的にレシピを解説してゆきたい。
ご飯を炊く。
鯛を三枚におろし、そぎ切りにしておく。
鯛は塩をして、かるく酢に漬けてから引き上げて置く。
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シイタケを醤油と味醂で煮る。
ご飯の層にするためのシイタケを細かく刻んでおく。
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卵を焼いて錦糸卵を作っておく。
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ご飯が炊けたら鮓桶に入れてすし酢と合わせる。
すし酢の配合は、酢:砂糖:塩=3:2:1の九兵衛の配合。
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お重に半分、すし飯をつめる。
刻んだシイタケを敷き詰める。
残りのご飯を入れる。
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錦糸卵をご飯の上に載せる。
鯛とシイタケを配置する。
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小さな板で押してなじませる。
重石をして少し置いておく。
↓
お重から取り出してカットして提供する。
参考資料
『鯛百珍料理秘密箱』 器土堂主人
『料理物語』 作者不詳
『人倫訓蒙図彙』 珍書刊行会
『和漢三才図会』 寺島良安
『絵本江戸爵』 日本風俗図絵刊行会
『名飯部類』 杉野権兵衛
『素人包丁』 浅野高造
『守貞謾稿』 喜田川守貞
『守貞謾稿』 喜田川守貞
『類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿』 喜多川守貞
『浪華自慢名物尽 福本すし』 長谷川貞信
『鮓・鮨・すし』 吉野曻雄
『日本の食の歴史9 寿司の歴史雑学1』
『古典料理の研究(三)』 松下幸子,吉川誠次