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第二章

人類と食的関係


第一節 : 人間生活の中心は食にあり

第二節 : 食的遊蕩気分

第三節 : 火食の起こり

註 釈 : 本書に基づく参考意見


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人間生活の中心は食にあり


 人間の生活の中心は衣食住にあり、衣食住の中心は食であることを誰も疑う余地がないだろう。 世の中に生きることの目的は飽と安とにあり(周礼注疏)とは古来の中国人の人生観である。 書経の『洪範』は、食を八政の第一に置き、『大傳』には「食べることは万物の始めであり、それは人の本質である」と論じ、古代の中国が鼎を国家の最高権力を象徴する宝器としたことは、鼎は食物を炙り熱する為の器だからとしている。 『徒然草』には人間に必要なものを衣食住の3つとしており、なかでも食物を第一に挙げている。 確かに「人はパンだけによって生きるのでない」とは千年以上前の金言であるが、人はまたパン無くしては一日も生きてゆくことは出来ないのである。 この事について『韓子』は「おおよそ人は上は天に属せず、下は地につかず、腸胃をもって根本となす。食うことなくしては生きることは出来ない」と言っているが、これこそが至言なのである。

 また我々の現在の生活を見ても、生活費の大部分を占めているのは主に食であって、中流以下の家庭では食費は全生活費の5割から7割を占めるのが一般的である。しかも動物に至ってはその生活のほとんどが食べることに費やされ、中でも原生物の多くは、自分の体の全部が胃であり、何ら他の機能を持っていないものも少なくない。それを家屋建築の起源に見てみよう。まず家は炉を中心にして始められており、炉は食物の調理場であるので、家屋の中心は台所にあると言えるだろう。居間と台所が区別されるようになったのは人智がかなり進んだ後のことである。ウィリアム.E.ラキソン『英国風物談』の中でも、英国においては家屋を城郭とするならば食堂はその本丸に当たると主張している。つまり英国の家庭の中心は食堂にあるのだと言えるし、日本の家庭は炉端にあるといえる。ドイツ人は玄関よりも客間よりも台所を立派にすることを誇りとしており、新婚花嫁の嫁入道具には衣類よりも化粧品よりも台所用品を揃えることに専念するようである。我が国でもかまどを磨きへっついを立派にして毎夜灯明を灯し、供物を捧げるなど、いわゆる台所は神聖な場所であるという観念が今でも尚、農商の家には残っているのが見られる。

 『禮記』には飲食をする前にまず少量を地面に注ぐ、あるいは豆(皿の事)置き、拝礼することが定められており、中国人は今でも尚、この礼を守っている。クウランジュのギリシャ史論にはギリシャの古代においても食事の始めと終わりには必ず拝礼し、食卓につけばまず神に初穂を供えていたという記録がある。日本でも食事の後に拝礼する習慣が今でもまだ地方の純朴な家庭などに度々見受けられている。
 中国には「顓頊氏子せんきょくしこ(顓頊の子)でれいという人物がおり、これが 祝融 である。祀って 竈神 とする。12月8日に豚酒をもって竈神を祭る」とある。(荆楚歳時記)
 我が国においては、興津彦、興津姫の二神が竃の神様として祭られている。(古事記)
 エジプトにおいてはオシリスが食の神として国民的祭礼を受けていることが良く知られている。また中国やカルデア等で最も早く天文と暦の研究が行われたのは、食の根本である農業の種蒔きの時節を知ろうとすることから始っている、『尚書』舜典に「食なる哉これ時」とあるは、この意味を現したものに他ならず、エジプトのピラミッドの壁書にも、古代中国の岩壁にも多く食物調理の図が彫刻されてあるのはその為である。

 また食事が人の精神に及ぼす影響は、見逃すべきではない重要な要素である。『呂氏春秋』適音には「口が栄養を欲しがったとしても、心が楽しくなければ五味を前にしても食べることは出来ない」とある。精神の安定が食欲の減退を招くことがあるのは誰もが経験することであるが、さらにおかしなことに、人は空腹時には感情がとにかく苛立つようになり団体運動の際などには、ともするとさらなる悪化を招き易いと現代の学者も主張している。晋の霊公は、熊の掌が十分に煮えていない為に料理人を殺したことが『春秋左傳』に記載されている。また呉王の闕閭の女が、父と膾を争って得られなかったために、遂に自殺したなどの史実(呉越春秋)は、かなり極端ではあるが空腹時には食味が心に期待する満足を得られないため、人の心は激動しやすい傾向にあることについては疑問の余地がないだろう。中国の古書には「食は精神に繋がっており、味によって心は平穏になる」とあり、『春秋左傳』には「惟食忘憂解怒」と述べられている。また『呂氏春秋』には「口がいつも美味で満たされていれば、それは精神を和らげ、佇まいをただす。これを身につけるのに神気をもってすればあらゆる恐れや歓ぶべき状況でも、進んで鋭気を受けられる」と論じているのである。

 洋の東西を問わず、時として歓談を交わして懇親を深めようとする際には一緒に食卓を囲むが、それには理由がある。諺に「親族の泣き寄り、他人の食い寄り」また「なんなら茶漬け」などとあるのも、食と人情の機微を現した言葉であると言えるだろう。このように蓬莱に不死の薬を求めた秦の始皇帝も、また不老長寿の仙術に憂き身を費やした漢の武帝も、結局は生命の保持には食物以外の何ら妙薬は無いと諦めるしかなかったのある。軽はずみなところがなく厳かだった孔子でさえも「陳蔡ちんさいの厄」の時に、子路が豚を煮たものを出しても、その出どころを問わずにこれを食べたと『墨子』は語っているが、渇望すれば時に聖人も盗泉の水も飲むのだという事が理解できる。
 神の子であるイエス・キリストも十字架に掛けられる前夜、最後の聖餐の式を行い、弟子たちに別れを告げている。
 釈迦は難行苦行の信条に基づいて、断食を破り食を取ったことによってその絶大な智識の啓示を世界に教えることが出来るようになったのである。

 衣と住は、食に比べれば必ずしも絶対的なものではない。南洋諸島、アフリカ、台湾等には一生、衣服を着ずに生活する種族も少なくない。これら熱帯地方の蛮人が裸体のまま生活するのは不思議ではないとしても、北方極寒地方のエスキモー人種の一種族であるカムジャダール人は氷で建てた屋内でセイウチの油を燃やしながら、炉を囲み裸体のまま生活するという。
 日本でも九州、沖縄の海岸地方には、一年の半分を裸体で生活するものも少なくない。

 また住に関してはその必要性は一層軽い。アフリカ、南洋諸島の蛮族は言うに及ばず、世界文明の中心とも言うべきロンドン、ニューヨークの市中にすら浮浪漂泊の生活をしている者は少なくないのである。

 次に食色と言い、色情と食欲が対になっていて、これらこそが人生における相対する重大事であるとされているのであるが、なるほど動物は生殖期になると食べ物を取ることも忘れ、また雌を争って往々にして生命を犠牲にすることすらある。人類も同様に青年から壮盛期には色情のために極端な行動をとることも少なくない。こうした理由で西洋人は犯罪の背後には必ず女がいると言っているのであり、中国では食欲と色情が国を傾けるとして、『孟子』は「食色は人の性なり」(食欲と性欲は人間が生まれながらに持っている本性である)と言い、周代の共公も、色情は国を亡ぼすのに十分な要素であるとして警告を加えている。ただ色情に熱中するのは多くは青年期から中年期であって、幼年時代はこれを少しも感じなく青年期から中年以降、老衰するにしたがって次第に消滅してゆくものである。
 ある学者は死亡率の統計から、独身者の寿命は比較的短いと論じているが、これはにわかには信じがたい説である。人によっては生まれつき色情には淡白な者もいる。あるいは全然性欲を感じない者もいる。また事業に熱中するあまり、あるいは職務に励むあまりずっと性欲を忘れた者は、技術者、学者、政治家などに少なくない。特に一部の僧侶や宗教家は終世を通して独身であることが普通であるにもかかわらず、彼らが特に短命であるとも限らない。いや、時にはその節欲活淡の生活が却って長寿を保つ秘訣にもなっているようである。
 また去勢して色欲を無くしてしまうことは古代のエジプト、ギリシャ、ローマ等で盛んに行われていた。中国の宦官はそれは違う目的ではあったが、同じ去勢の仲間である。しかしその為に生命の長短に格段の影響があるとは聞いた事がない。



食的遊蕩気分


 第一節で論じているように、食とは生きようとする要求に対する唯一の絶対的負担であると言える。しかしその負担は口に苦くない良薬であり、舌に快い味を与え、精神を爽快に感じさせつつその負担を遂げることが出来るので、人間の嗜好はここから生じ、また娯楽もこれにより起こったのである。 嗜好と娯楽が起こり、その為に遊興に堕する気分が生まれ放埓を招いてしまうことがある。昔に殷の紂王が、肉をぶら下げて林をつくり、酒を池に貯めて、裸体の男女をその間にはべらせて長夜の宴を行っている。長夜の宴とは百二十日を一夜とした宴会であり、酒池とは中国でよくある誇大な形容詞表現ではない。『括地志』によれば「衛州の衛県の西、十三里に酒池を造って鼓を打ち、酒をがぶがぶと飲むもの三千人余り」とある。酒池の大きさは船を浮かべて物を運べる程であり、食物を積み重ねで出来た丘に登れば十里四方を眺望することが出来た。酒を汲むのには車で運搬し、肴を配るには騎馬で行ったといえば、その大仰さが確かに想像を超えるものであったと言える。
 西方にこれに対抗できる話を探すと、アッバース朝のアルマレソル王の大饗宴が挙げられるだろう。王はバクダッドの華麗な宮殿に、東洋流に料理された珍膳佳肴を準備し、この宴会の為に同時に四万頭の子牛と、五万頭の羊を犠牲にしたという記録がある。「火雲肉山を蒸す」という中国流の形容詞をもってしても、その状況を説明しきれてないのではと思えるほど、この宴会は、紂王の肉林糧丘の遊興と比較して遜色のないものであったことが分かる。
 時代が下り、ローマ時代のシーザーの凱旋祝賀会もかなりの大規模なものであったとされている。その時、シーザーは紫の衣を着て、黄金づくりの椅子に腰かけ、そこに諸国の王族が皆集まり一同に会したのである。ムール王、ヌミディア王を始めとして、ゴール、イベリア、ブリテン、アルメニア、シリア、及び、エジプト王クレオパトラもそこに居た。市民が歓呼するなか40日間、この盛儀は続けられた。会場の中央には24,114ポンドの重量をもつ金貨2,822個が陳列されており、まず客の目はそれに驚かせられることになった。それから音楽、軽業、綱渡り、舞踏、奇術、ホーマの詩吟等のあらゆる余興が数々が演じられた。世界各国の各方面の征服地から取り寄せられた珍味、佳肴が各々東洋風に調理されたものが金銀の皿に盛られ、ひと時に2万2千人分の食卓が準備されたと言われている。
 当時のローマの風習として変わっているのは、宴会の際には飲食はすべてソファーに横に寝そべって行っていたことである。これは腹圧の関係で胃に及ぼす圧力が少なく普通以上の分量を食べることが出来る為であった。そしてまた宴席の傍らには流し場をつくり、珍味に飽いたならば隣の部屋に退いて、薬品を使って食物を吐き出して、胃を洗浄して再び食卓についた。こうして幾度も美酒と佳肴によって満腹になることを習慣としていた。またその当時のローマ市民の贅沢ぶりをみると、富豪ルクルスは一度の食事に常に850万円を費やしていたとある。こうしてシーザー、シセロのふたりを招待した時の一晩の晩餐費用、実に1700万円を超えたという記録がある。
 その同じ時期、ピテルスという成金は7ヶ月間の食費に360億円を費やし、ベルス帝の催した夜会には12人の食費に2億2千万円の巨費を投じ、アントニーはその料理人の調理が気に入ったという理由でマグネシア市民の居住する広大な邸宅を下賜し、サルラストはその料理人に10万セスタルの俸給を与えたという記録がある。ペトロニウス『トリマルキオの饗宴』によればローマの美食法(ガストロパミン)の進歩は大きなものがあり、その美味、珍奇、贅沢は到底、今の人々の想像を許さないほどであったようである。

 エジプトの女王クレオパトラが催したトレミイー王宮での長夜の宴は、ローマの大将アントニーの歓心を得るための政略と、自己の虚栄心もあいまって、その豪華さや豊艶さは人間の経験する歓楽の限りを尽くしていたとされており、流石のローマの将校たちも舌を巻くことになったと伝えられている。薔薇から採取した香水香油を噴水、瀑布、あるいは浴槽に用い、 華麗で目を驚かすばかりの錦繍で装いをした選りすぐられた美男美女たちが、一隊となって音楽や歌舞を演じて宴は始まった。 食器はすべて金銀で造られ、これには宝石が鏤められていた。椅子もすべて黄金づくりで紫ダイヤモンドで飾られている。そしてこれら金銀や宝石の諸道具は、饗宴が終わって解散する際に引き出物としてそれぞれ来客にプレゼントされたのである。
 トレミイー王宮の長夜の宴とは、中国流のそれとは異なり、連日連夜にわたる饗宴の連続の中のある一夜のことだけを指す。その夜はいつもと異なった簡素で淡白な料理に、宴に参列する客たちは内心、流石の女王でも、早くも珍味佳肴の趣向に限界が来たかと思っていたのだが、やがて幾度も乾杯が行われほんのりと酒に酔ってきた頃合に、ひとりの侍女が王杯に酢を入れたものを女王の前に置いた。 クレオパトラは耳に付けていた飾りを取り外したのであるが、この耳飾りこそ実に世界最大で最も美しいとして世に知れ渡っていた真珠で、彼女がその王国王冠と一緒に先祖から伝来してきた王家の無二の宝物であった。歴史家のドライデンの記述によると、この大真珠の一つは一つの王国を買うことが出来る価値に相当する。女王は、今この一つの王国と同じ価値がある大真珠のひとつを耳から外すと、酢を満たした杯の底に沈めると、それが溶けるのを待って、一気に飲み下したのである。さらに残ったもうひとつの大真珠も犠牲にしようという気配に驚いたローマの一武将が、突如立ってこれを彼女から奪い「今夜の佳肴はもうこれで十分です。哀れ残った片方の頂き物は故国の土産に頂戴します」としてローマに持ち帰り、それをふたつに分けて1対のイヤリングを作り、パンテオンというヴィーナス神殿の宝物として奉納したと伝えられている。

 東洋においてシーザーの凱旋祝賀会に匹敵するものを探すならば、それは漢の孝武の故事ということになるだろう。(シーザーの全盛期は漢武と時代を同じ時代であり、シーザー英国征服は漢の元封年間に当たる) 『漢書西域伝』の記述によると、この時に世界の珍奇、異物が四方から集まり、広大な上林(今の動物園、植物園を兼ねたもの)を開き、昆明の池を掘り、千門万戸の宮を建て、神明通天の塔を建て、甲乙の幕を張り巡らし、天子は書文によって装飾された屏風を背に、翠色の衣を重ね着し、玉の机について中央に座わって、巴愈、海中、碭極、漫衍、魚龍、角牴等(舞楽、軽業、綱渡、音楽、奇術、相撲の類)の余興の数々を催したとある。この中の漫衍とあるが、これは『西京賦』に「巨獣百尋これ漫延を為す」とあるもので、人が巨獣に化け、その獣が水をまき散らし、両目の魚となり、魚が一瞬にして水を吹いて八丈の黄龍となり、あるいは雲を呼び霧を起こし、変幻出没に変化するという技を極めた大興行であった。このような諸々の芸人は西域から呼び寄せた者であったようである。酒池は長安の東部にある司馬門内に造られ、また肉林も作り、賓客はすべて外国からの諸民族の人々が招待された。こうした客に誇るため、あえて大きな鉄盆をつくり、これに酒を注いで酒杯とした。賓客が酒を飲もうとしても重くて持ち上げることができず、頭を杯に近づけて牛のように飲んだとあるが、これもまた漢武流のおふざけということだろう。
 中世以後も、隋の煬帝の夜遊びの宴、フランスのルイ16世のヴェルサイユ宮殿の歓楽世界など、いずれもその豪奢ぶりにおいて有名である。

 ヴェルサイユ宮殿における当時の食事がいかに贅沢を極めたものであったかはイポリート・テーヌの著した『近代フランスの起源 : Origines de la France contemporaine』 に見ることができる。その大膳職は3部に分かれていて、第一部は王と王子たちの係、第二部は小普通大膳職と呼ばれ、御納戸頭、侍従長、王宮に住む王族の食卓を用意し、第三部は普通大膳職と呼ばれ、御納戸頭の第二食卓、主膳監、御付き牧師、侍従侍士の食事を準備し、すべて383人の大膳寮職員、103人の給仕がいた。その費用は2,177,711ルーブルに達している。その他389,173ルーブルがエリザベート夫人の食卓用、1,093,547ルーブルが内親王殿下の食卓の費用、合計3,660,491ルーブルが食卓費として消費され、酒卸商は一年30万フランの酒を納め、御用達は100万フラン(ルーブルの間違い)の野獣、猟鳥類、肉、魚を納め、水はヴィル=ダヴレーから汲み取り、給仕の使用人と食料を運ぶため50頭を必要とし、その費用だけでも年間70,591フランを支払い、王子と王妃は宮廷に居住しない場合には、断食日に魚を政府局で受け取る特権を持ち、その額は1778年には175,116ルーブルに達している。 年鑑によってこれらの官職の名前を見ると、我々の面前には大食漢の宴会厨房の階級制度がオフィシャルな階級制度には、食卓に関するかなり多くの役職が連なっており。 総執事、経理担当役と部下、食料品置場係、献酌人と肉切係、執務監と厨房侍従、料理人、料理長とアシスタント、皿洗い、焼きぐしを回す係、ワインセラー係、野菜係、洗濯係、パンやデザートの料理人、食器の給仕、テーブルセッティング役、陶磁器の保存係、金串の運搬人、総執事のための執事、これら全員が神妙な面持ちにエプロン姿で、堂々たる丸いお腹の行列になって鍋の前と食卓の周りで順序良く整然と仕事をこなしていると記されてる。

 我が国では豊臣秀吉が桃山時代に催した北野の大茶会、醍醐の花見等がある。大茶湯は天正15年(1587年)10月1日より10日間にわたって行われ、その時、各場所に立てられた高札の掲示内容は以下であった。

 一、茶湯熱心においては、また若者、町人、百姓以下によらず、釜一、つるべ一、呑み物一、茶なきものはおかしにても不苦候間提げ来るべき事。
 一、日本の儀は申すに及ばず、数寄心之有様は唐國の者までも罷り出で候事。

これらの文面を見ると解放的であり、規模も相当に大きいものであったことが理解できる。 また醍醐の花見は、貴族趣味の極意と、太閤の天下人としての権威を十分に発揮したものであった。『三寶院文書』に、

 一 於富寺可奉成行幸給上意之事
 一、七堂伽藍可被成御建立御誓約之事
 一、御神前御能可被遊御用意之事
 一、天下無双一切経可被成御寄附御諚之事
 一、坊舎寺領等既被仰付候事
 一、千本桜之外至萬木可被成御殖事
 一、於富寺千句連歌可致執行事

右明日十五日太閤大相國様秀頼様御花見御遊覧仁風雨不鳴枝、天睛雲収御宴出御成就條々早速可被成御執行者也
 慶長三年三月十四日

とある。この15日の花見の模様は、太閤の文官として仕えた太田牛一の雑記を以下に引用するので概要を理解して頂きたい。

 慶長三年(西暦1598年)三月十五日を花見を開催する日として命じられ、隙の無い周到な準備が行われた。醍醐の桜花は、秀吉が植樹したものを含め、上醍醐から下醍醐の至る間にあった。この桜花を取り囲むように伏見から下の醍醐まで、五十町四方の山々二十三カ所に、弓・鑓・鉄砲で武装した小姓衆・馬廻衆らの警護衆が配備されたのである。そして醍醐の惣構には、柵・もがりが幾重にも設けられた。惣構から町屋にかけて増田長盛・京極高次・福島正則・蜂須賀家政らの奉行人を配して群集をさばき、構えの入口には山中長俊・中江直澄らを配してこれより奥への御用人以外の立ち入りを禁止させた。秀吉公は先にご到着になられて云々。
  (中略)
 美しく立派な有様は、例えにも詞でも言い表すことが出来ない程である。山の上も下も光が輝き、花々は色を競い、衣服に焚きしめた衣香は周囲に薫っている。このようなめでたい遊びは、今も昔も行われたためしはなかっただろう。仙洞、公家、武家、城都、奈良、堺より織物、あやつり物、高麗からの珍品、國上のお菓子、天野、平野の酒、奈良酒、加賀の菊酒(初版には誤植で加賀の葡萄とある)、関東の江川酒、色々なものを様々な者達が、我も我もと、ひと種類ずつを献じた為、金銀をちりばめ、ありとあらゆる手を尽くした珍奇の品々は数えられない程であった。あまりにも多くの進物のためにそれらは門前市のように道々に宝の山が積みあげられることになった。こうした名誉は中々語り尽くせぬほどであるが、これらをそのままにしておく訳にはいかず、珍しい寄進物は普請の者たちにもありがたくも下賜される次第となったのである。
  (中略)
 六番目の茶屋で着替えが行われ、光り輝くご結構な格好に各々が装いを変えることになったが、衣香をたきしめ周りに薫らせている華麗なその姿は言葉では表せない程であった。終日、ご休息なさり御酒の宴、御遊び延々格別であった。このように御手柄をもって天下にくもりなく命じ、高麗や唐土まで従えられ、民に食を供し、国家を豊かに楽しく栄える時代にへと整えられておられるのは各国にも明らかである云々とあり、その時、太閤の詠んだのは

  改めて名をかへて見ん御幸山
    うづもる花もあらはれにけり

 という一首であった。漢の高祖が天下を統一して故郷に錦を飾り、沛邑の一族と10日間にわたって宴会を行った際に詠んだのは「大風が吹き、雲が飛ぶ。その威厳は広く行きわたり故郷に帰る」という詞で、それを大きな声で吟じたというのはいかにも男性的であったが、それと比較すると、秀吉の詞はかなり女性的なものであると言えよう。しかし、それゆえにこそ太閤がその日に綺羅錦繍の化粧をほどこした三千人もの美人(孝亮宿禰日次記)に取り巻かれて上下醍醐寺のほとりの桜の爛漫と咲いているたあたりを散策しながら大宮廷人を気取って得意になっている面影の細部までをうかがい知れるのである。

 さらに時代が下って清朝時代の満漢全席まんかんぜんせきと呼ばれる大饗宴は、酒は東西両洋の粋を集め、珍味を世界の各方面に求め、メインデッシュの献立だけでも108品となる贅沢を極めたものであった。
 我が国でも大正7年、8年の第一次世界大戦後の成金全盛期に、帝国ホテルで当時のいわゆる 虎大尽の虎料理 を始めとする、大小成金のやからが豪遊する風潮があり、識者からの顰蹙を買うことも少なくなかったようである。

 こうした遊興的、脱線的な傾向に進むに至って、大飲、大食の競技会が始められるようになり、これに関する記録も少なからず残されている。
 アレキサンダー大王がインド征伐から帰還する途中、ゲドロシヤ(パキスタンバローチスターン州)の王宮に到着したとき、例によって演芸競技の数々を尽くしているが、そこで賞を賭けて飲酒の競争を行っている。配下の大将であったプロマカスが八升八合あまりを飲み尽くし、一等賞を得た迄は立派であったが、その為にアルコール中毒となり3日後に死去している。他の将卒もまた同様の競飲を行ったが、異例な寒気に襲われ41人の死者を出すに至ったという。

 我が国において最も有名なのは延喜11年の夏、宇多天皇(当時太上法皇)により開催された大酒会である。召集されて集った者は、参議藤原仲平、兵部大輔源次嗣、右近衛少将藤原兼茂、藤原後蔭、出羽守藤原経邦、兵部少輔良峯、右兵衛佐藤原伊衛、散位平希世の8人であり、各々が多量の酒を辞さない酒豪無比の士であり、酒を飲むことは水を砂に注ぐようなものだと言われている面々である。始めは趣くままに飲み始め互いにしのぎを削っていたが、案外、評判程でもなく、6~7巡もすると既に酩酊して寒温を感じなくなり、東西も分からなくなって、ロレツも回らず、転げ回って殿上に嘔吐するなどの言語道断の醜態が頻発した。中でも散位平希世は、門外に倒れてしまい起き上がることすら出来なくなっている。ただ一人、右兵衛佐藤原伊衛だけがわずかに乱れることなく、帝から選ばれて賞として駿馬を賜ったと伝えられている。(本朝文粋註釈. 下冊. 紀家日記)
 その後、慶安の頃に江戸において地黄樽次と池上底深が大杯で酒戦を試みたことがある。(水鳥記)明治の初年頃まで、池上の子孫は川崎に居住して、酒戦でつかわれたその年の大杯を家宝として保存していたと云われている。(三餐余興)
この時代は酒客には良く大杯が使われ、武蔵野といって盃の模様に蜂と龍を描いた蜂龍ほうりゅうが流行した。これは「させよ飲まん」という意味があるという。今でも現に某所の待合茶屋に蜂龍の名前のところもある。
 また文化十四年三月十三日、両国柳橋で開催された競技会では、饅頭50個、羊羹7本、薄皮餅30個、茶19杯をたいらげ、名誉の月桂冠を得た丸屋勘次衛を初め、三升入りの盃に六杯半の酒を飲み、さらに水17杯を平らげた鯉屋利兵衛、飯54杯を平らげ、醤油二合を飲んだ泉屋吉蔵、もり蕎麦57杯を食べた桐屋五左衛門、三合入りの盃に27杯の酒を飲んだ後、飯3椀、茶9杯を平らげて、なお悠々として甚句を踊った豪傑もいたという。
 その後、天保年間に行われた天保大食会はより大々的に天保2年9月7日、両国柳橋の萬八楼で開会された。その時、大食いチャンピオンとして集まってきた者たちは実に162人、会場入口に受付を設け来会者の住所、職業、年齢を記入すると、次の間には10人の接待役が羽織袴で待ち受けており、まず小手調べとしてスラリと列べられた大盛の飯15杯と汁5杯を食べさせられる。しかも米は肥後米の極上白、汁は岡崎八丁味噌の北國昆布の出汁、椀は1合5勺を入れられるほどの大きさである。流石の名うての猛者たちも、これには参るかと思いきや、それではとばかり我先に箸を取り上げ、見る見るうちに食べつくし、各々まだ足りないという顔で本会場へと通過してゆくのである。本会場では記録係が3人机に向かい、目付方3人が四方に目を配っており、計算担当者3人がそろばんを手にして控えている。 やがて円形になって席に着いた162人の面々が何れも劣らないと食い始めたが、物凄く競い争って食べる様が、実に餓えた虎が食物を貪るようであったという。その中でも、後世まで天晴な大食家として記録に残っている強者は

 一、 天麩羅三百四十(ただし四文揚げ)
    新庄主殿家来 田村彦之助

 一、 大福もち三百二十
    永井肥前守家来 辻貞叔

 一、 鰻七貫匁飯五人前
    堀江町家主 清水徳兵衛

 一、 飯二十杯、酒二升、汁十八杯
    雷權太夫弟子 玉嵐龍太郎

 一、 丼飯十八杯
    追手風弟子 宮戸川新藏

 一、 汁粉三十二杯(ただし十六文盛り)
    神田三河町呉服屋 小松屋宗七

 一、 梅干し二樽(一樽三百個入り)
    深川霊巌寺前石職 京屋多七

 一、 沢庵二十本
    葛西村百姓 藤十郎

 一、 蕎麦四十杯(十六文盛り)
    市ヶ谷大原木具職遠州屋甚七

 一、 同三十六杯
    御船手 國安力之助

 一、 同三十五杯
    浅草 神主 板垣主馬

 一、 蜜柑五百五個
    櫻田備前町料理屋 太田屋嘉兵衛

 一、 鰹節五本(七寸ぐらい)
    深川漬物屋 加賀屋周助

 一、 山鯨(イノシシ)十五人前
    両国米澤町 權次

 一、 油揚げ五十枚
    下谷御成道 建具屋金八

 一、 唐辛子三把(ただし一把七百八十房)
    神田小柳町車力 徳之助

 一、 すし二朱(四文宛)
    照降町煙管屋 村田屋彦八

 一、 生葱十把
    元大阪町手習師匠 今井良輔

 一、 醤油一升八合
    谷中水茶屋 神屋伊兵衛

 一、 塩三合
    清水家々来 金山半三郎

 一、 生豆三合 水一升
    両国芸人 松井源水

 一、 黒砂糖四斤
    小梅小倉庵若者 勇吉

 このように大変に盛大であった。大正時代に入り、これに匹敵するような競技会は、元逓信大臣であった野田卯太郎の呼びかけで、大正九年四月に逓信大臣官邸で開催されたものである。その時の競技に参加したメンバーは、公爵徳川家達、伯爵柳澤保恵、荒川義太郎、西久保弘道を始め、大食漢の猛者二十数名が西洋式、中華式、日本式三種類の料理が準備され、少なくとも一回で三種類三人前を食べられなければ会員としての資格がないとの申し合わせを行ったうえで牛飯馬食の競技に取り掛かったが、いずれも劣らぬ食欲旺盛さを発揮した結果、荒川、西久保、野田の面々が最も良い成績をおさめ、それぞれ一等賞を得たと言われている。



火食の起こり

新石器時代の生活 附
人類の食物の範囲

 人類が火を使い食事をするようになった起源はそんなに昔ではない。それが新石器時代に始まったというのは科学者の間では一致した議論であり、今から約1万年前、あるいは1万2千年前であると想定されている。もっとも太古石器時代におけるネアンデルタール人時代(第三氷河期は今から約十万年前とされる)の人類も、火を使うことだけは知っていたようである。現にこの時代の原人は、水の流れに近く、白亜の断崖から遠くない場所を求めて住み着き、その断崖から取り出した火打石と、黄鉄鉱(パイライト)の破片を、乾いた木の内に切り合わせて火を起こしていたことが明らかである。しかしその用途は洞穴に隠れている獅子、熊、ハイエナ等の猛獣を追い出すこと、またはこれらの猛獣からの襲来を防ぐため、および暖を取るためだけであり、調味に使用することは理解していなかったようである。
 このネアンデルタール人を絶滅させ、当時の世界を占領したのはホモサピエンスと名付けられた種族で、第四氷河期の終わりに、その飼いならした動物とともに、何処よりか現れて来て、ネアンデルタール人の洞穴をそのまま占拠し、火打石も、石器もそのまま使用したのだが、依然として火を食物の調理に応用した痕跡は残されていない。
 当時の人類は食物を焼いたり、または焦がしたくらいのことはあったとしても、火を調理に使用することがなかったことは、数多くの遺物の中に料理器具が残存していないことによって証明されている。
 最後にこのホモサピエンスを放逐して、世界の主となったのは新人類、つまり我々の共同の祖先である新石器時代人であって、その時代になって始めて石を積んで竈をつくり、火を使用して調理した形跡が明白になっている。

 日本では奥津日子の神と奥津日賣の二神が火食を教えたと伝えられており、中国の歴史では書契以前に燵人氏の出の者が、木を擦って発火させ、それをもって火食を教えたとある。 この年代は漠然としているので特定し難いが、三皇時代は今から5千年の前の昔あたりではないだろうか。燵人氏は三皇時代前に出ているので、欧州の新石器時代の末期と、ほぼその時代を同じくすると言えるかもしれない。中国には開闢(天地創造)から、獲麟までを(獲麟は今より2500年前)326万7千歳としており。(史記) 欧州の学者は人類の祖先が地上に現れたのはミオシーン期とブリオシーン期の中間で、今日まで約200万年前であると主張しており、日本では神祖降臨により神武天皇までを179万7千年間としている。(日本書紀)

 このように何れもその理由となる計算の根拠を知ることはできないがこの「開闢期」の最も末期こそが、いわゆる新石器時代と同じ時代のようである。白人、黒人、黄色人種など人種の区別は、気候と環境に起因するものであって、現在のどの人種もこの農耕人を共通の祖先とするのであれば、燵人氏もまた新石器時代の一族であり中央アジアより黄河流域をたどって東に移動してきて中国文明を打ち建てた種族であるのかもしれない。
 そして燵人氏については中国には種々の伝説が残されている。 『拾遺記』には「遂明國に大樹があり、遂という後世の聖人が、その国に到着して樹の下で休んでいると、鳥がつついているところから燦然とした光が発しているので、聖人はこれにヒントを得て、小枝を取って擦って火をおこした。それでこの聖人を燵人氏と称するようになった」と記されている。また『古史考』には「古代の人類は、火食を知らず血を飲み、毛を食らっていたのであるが聖人は火徳をもって王となり、摩擦により火を起こし(鑽燵)熟肉を教えた」とある。このようにして火食を知った結果、人類の生活に一大変化が起こったことは疑う余地がない。『禮緯含文嘉』には「生から焼いて火を通し(炮熟ほうじゅく)、人の腹痛を取り除くことでその意を遂げた。その故に燵人氏と云うと」記し、『韓非子』も同様にこの点を論じて、

「民食果蓏蚌蛤,腥臊惡臭而傷害腹胃,民多疾病,有聖人作,鑽燧取火以化腥臊,而民說之,使王天下,號之曰燧人氏」

【 訳 文 】
「民は木の実と草の実やハマグリを食べていたが、それは生臭くて、悪臭があるため、胃腸に障害をきたし、民には病気が多かった。聖人が現れ、火打ちによって火をおこし、それによって食べ物から生臭さを除いた。それが燧人氏である」

と述べている。これを見ると燵人氏という特別な人物がいたとされているが、この人物に関しては不明である。ある種族の文化が火食を知り、これを仮想の人物である燵人氏の功績としたのかもしれない。いずれにせよ火食によって食味は著しく美味くなり、消化は容易になり、食物の種類範囲も増えて、人類の健康になり、一般生活における知識にまで絶大な効果を及ぼしたことは想像に難くない。 よって人間と獣類の隔たりは火食と生食の違いから始まったと言っても過言ではないだろう。
 当時の人類が口にしたのはどんな種類の食物だったのかは、その時代の食物の廃棄物である貝塚、または特別な人物を埋葬した墓などの遺物を見るならばある程度想像することができる。 実際に日本、オランダ、スコットランド、アメリカの一部に多数存在している貝塚の中に当時の食物の痕跡を探してみると、原始生の果実、蛤類の他、家畜として飼育していた牛、山羊、羊、豚等は言うに及ばず、野獣肉として特に猪鹿の類が多くが見つかっている。
 魚類はあらゆる種類を食用としていたようでマグロ、カツオ等の遠海魚さえも食べた形跡があるので大がかりな遠洋漁業も行われていたと推測できる。特に日本の貝塚には魚類の遺物が多く、漁具の驚くべき発達も示している。(第八章魚類篇参照)

 穀類は麦、大麦、キビ等を栽培し、穀粒は焦がして石で潰して壷の中に貯蔵しておいて、必要の都度、取り出して食べていた。燕麦や裸麦を知り、豆や林檎を食用とするようになったのはかなり後のことである。この時代は鶏が知られてなかったために食品の中に有る筈は無いのは当然であるが、ウサギがいたにもかかわらす口にされていない。これはこのような憶病な動物を食べると、自然とその特徴になってしまい自分もまた憶病になることを恐れていた為かもしれない。

 また当時の新石器時代における生活状態の特徴として、H・G・ウェルズ氏の 『世界文化史大系』に従えば

 第一、磨きのかかった石の器具で、石斧に穴をあけ、木の柄を取り付けたものを使用する。
    磨きのかかっていない器具もあるが、古石器時代のものとは全然異なっている。

 第二、植物の種の使用方法を知り、それによりその土地に定住するに至ったと思われる。

 第三、犬の他、牛、羊、山羊、豚等を家畜として養う事。

 第四、麦稈真田ばっかんさなだから織物を創作するようになる。

 第五、ここに火を用いて食物の調理方法を知り、また粗末ながら土器の製造にも成功するようになる。

 以上5つの特徴により、おおよその当時の生活を想像することができる。もっとも火食、農業、牧畜の起源は必ずしも同時ではなく、各々500年あるいは一千年位の隔たりがあるようである。ある学者の論理によると火食がまず最初に起こり、牧畜がそれに続き、農業は最後に始まったようである、農耕を知ったのは家畜のためにまぐさを蓄えることから始まったと思われる。つまり牧畜を覚えて、家畜の飼料として稲科の植物の穀類を蓄えるようになり、いつしか人間自身の食料としてこれを食物とするようになったのだという論議は十分な根拠に基づいたものであると言えよう。
 また中国の歴史を紐解くと、火食の祖である燵人氏がまず先に出て、牧畜の祖である伏羲氏がこれに続き、農耕の祖である神農氏が最後に出たと説明されているが、この順序も全く西洋学者の持論と一致している。 こうして経過してきた約一万年の歳月は、最終的に今日の文化をもたらすものとなったのである。であれば人間社会の知識と進歩とは、実際には火食を発端としたと言えるのである。

【 備 考 】
種まきの起源。 原始的な諸民族間では種まきの時、必ず人身御供か、そうでなければ古代人身御供の習慣と思われる特殊の儀式が行われている事実を見ると、最初の種まきは何らか人間の埋葬に関係していたように思われる。つまり死体と共に、死者の食料として野生の穀類を一緒に埋葬するとか、または死体の上にこれを撒き散らす等が起源という説がある。 (『世界文化史大系』H・G・ウェルズ)


 以上の概説により、人は火食によって始めて獣類の域を脱したと言え、調理の技術の有無は、人と獣類を区別するための境界線のひとつであると言うべきである。 蟻が餌を貯蔵し、蜂が蜜を巣に運ぶように、犬が余った肉を土に埋め、アライグマが汚れた食物を水で洗い、みさごが魚類をその巣に持ち帰り、鶚鮓を作るのは、一見すると料理を理解することと似てなくもないが、実際は何ら味わいの上に工夫や塩梅があるわけではない。単に保存し、または貯蔵する目的で行われたものに他ならない。猿酒のようなものも、果実が自然に落ちて発酵したものを集めてこれを舐めることはあり得る事ではあるが、猿自ら醸造したとは思われないのである。 これは要するに食物の調理、特に火食によって始められた調理こそ、人類特有の技術というべきである。また獣類の食物はその範囲においても概ね一定していて、肉食のものは草食を行わず、草食のものは肉食を行わない、獅子、虎は肉がなくては生存が難しく、牛馬は草がなくては生きては行けない。時に両食混同のものあるが、多くは一定範囲外のものだけでは生きてはいけない。 ただ人類だけは野菜、果実、鳥類、獣、穀類、魚類、昆虫に至るまで、あらゆるものが食の対象である。食用に適さないものでも適するように加工し、肉がなければ草によって、草がなければ肉によって、肉も草もなければ空中の窒素によって人造食を造りだし、それによって生存しようという試みが行われている。 このようにして人類はすべての物を征服し、食に飢えることがないように努めている。しかもこれらは主として火力応用の力によるものであって、ここにもその効用の絶大なる一端を十分に見ることができるだろう。



註 釈