ルキウス・リキニウス・ルクッルス


ローマ時代の美食家


 ローマ時代に生きたルクッルス(紀元前118年 - 紀元前56年)は、その正式名をルキウス・ルキニウス・ルクッルス (Lucius Licinius Lucullus)という。ルクッルスあるいはルクルスと表記されることもあるが、ここではルクッルスに統一した。
 ルクッルスは共和政ローマの軍人あるいは政治家であるだけでなく、美食家としても良く知られた有名人であった。

 現在でも豪華な食事のことは「ルクッルス式」と呼ばれており、実際に西洋料理の中にはルクッルスの名を冠した料理がたくさんある。例えばオーギュスト・エスコフィエの記した『ル・ギード・キュリネール:Le guide culinaire』の中には、「ガルニチュール・ルクッルス」という付け合わせのレシピを始め、幾つかルクッルスの名を冠した料理レシピついて言及されている。こうした料理の名称が付けられていることからもルクッルスの美食家ぶりを垣間見れるだろう。

ルキウス・ルキニウス・ルクッルス
Lucius Licinius Lucullus



執政官としてのルクッルス


 ルクッルスは執政官として大きな成果を上げた人物である。紀元前74年に執政官に就任したルクッルスは、紀元前75年から始まっていた第三次ミトリダテス戦争に赴き、紀元前72年に「カビラの戦い」でミトリダテス6世を破ってアルメニアへ逃亡させた。また紀元前69年には、ミトリダテス6世の逃亡先で、それを匿っていたアルメニア王ティグラネス2世とも戦い「ティグラノセルタの戦い」において決定的な勝利を得ている。さらに翌年の紀元前68年の「アルタクサタの戦い」でもティグラネス2世とミトリダテス6世を敗走させた。このような戦果から見てもルクッルスはローマを勝利に導いた有能な執政官であったとみなして良いだろう。

 実際にキケロも『アカテミカ前書』第二巻のなかで、「ルクッルスは、白兵戦、攻防戦、海戦について、またそれぞれの戦闘に必要な武具や装備について心得た優れた指揮官であった」と評しており、このキケロの証言もまたルクッルスの有能さを証するものとなっている。

 だが紀元前66年に、ルクッルスの軍隊の大部分が彼の命令に従うことを公然と拒否した為、指揮官はポンペイウスに交替させられ、さらには略奪を重ねて私腹を肥やしているという悪評も立つようになったことから、結局は戦い半ばにしてローマに召還されることになった。
 こうした悪評の故か、ローマに戻ってきてからも軍事的な功績はあまり評価されることなく、西暦前66年に行われた凱旋式は、ローマ市民からはあまり歓迎されないまま催された。ルクッルスは凱旋式の後に、全市民を自費で賄った大宴会を開いているが、これも自身の過小評価に対する反動から行ったのではないかとすら思えるくらいである。
 その後、ルクッルスの属する元老院は、台頭してきたポンペイウスの対抗馬にするために、ルクッルスを共和制再建の旗手に押し上げようとした。しかしルクッルスには元老院の権威を守るために政界の一線に残るつもりはなく、元老院議員としての議席を残したままにして、事実上政界からは手を引いてしまう。
 これは、元老院に対する幻滅がルクッルスにはあった為だと言われており、こうしたローマ市民と元老院に対するルクッルスの幻滅というものが、引退後これ見よがしな豪奢な暮らしに繋がっていったのではないか推測する。これに対する考察は、後に詳しく述べることにしたい。


贅沢なルクッルスの生活


 引退後のルクッルスは非常に贅沢な暮らしを始める。
 ルクッルスは共和政時代随一と言われた豪邸を各所に建てたが、こうした贅沢な暮らしも、しばしば非難の対象となったようである。事実、クラッススとポンペイウスは「晩年のルクッルスは快楽と贅沢さに屈した」として嘲笑している。政敵である彼らの立場としては、当然、ルクッルスの贅沢さは恰好な批判対象として見逃す事はなかっただろう。このクラッススとポンペイウスの言葉は、『プルターク英雄伝』で著者のプルタコスが引用したものだが、プルタコスもそれを受けて、ルクッルスが年老いて奢侈に耽った事は「年齢にふさわしからざる行為」として批判的な自身の見解を述べている。

 しかし、中途半端ではなく、ずば抜けた贅沢であれば、それはある種の伝説にもなるとも言える。ルクッルスの贅沢は正にそのようなものであり、実は、それが後の文化や哲学にも大きな影響を残したという一面もあったことは否定できない。以降、そのルクッルスの贅沢さがどのようなものであったのかをまずは明らかにしておくことにしたい。


贅沢な建築物


 ルクッルスは幾つかの邸宅を持っていた。ローマの郊外のトゥスクルム(Tusculum:現在のフラスカーティの辺り)にも邸宅があり、それは装飾された回廊や見晴らし台からの眺望がすばらしい邸宅であった。ポンペイウスがそこを訪ねた際に、その邸宅の壮麗さを褒めると同時に、夏は快適だが、これだと冬は住めない家であると指摘したところ、ルクッルスは、「鶴や雁でさえ、季節で棲家を変えるではないか。あなたは私をこれらの生き物よりも劣ったものとみなしているのか」と言ったと『プルターク英雄伝』には述べられている。ルクッルスは幾つかの豪華な邸宅を持っていて、季節ごとに棲み分けていたようである。

 またナポリの海際にあったルクッルスの邸宅には堀や池があり、そこには運河から海水が引き込まれるようになっていた。その池や堀では魚が飼われ、遊船も浮かべられていたと『プルターク英雄伝』は伝えている。この家を訪れたストア派の哲学者のクイーントゥス・アエリウス・トゥベロ (Qjnquit Aelius Tubero )は、かつてペルシャのクセルクセスが、運河を掘ってそこから内地の湖に戦艦を引き入れようと試みたことにちなんで、ルクッルスのことを「トーガを纏ったクセルクセス」と呼んでいる。トーガとはローマ人の纏う衣装であり、クセルクセスはアケメネス朝ペルシアの王だった人物である。ローマ人でありながらクセルクセス王のような生活をしていたルクッルスに対するこの名称は、正に当を射た表現だったと言えるだろう。

 また、これがその邸宅と同じものか、あるいは一部かは分からないが、現在でもナポリにある、カステル デローヴォ(Castel dell'Ovo)という、ルクッルスによって建てられた建物がある。この城は別名で卵城と呼ばれ、今では観光地になっているが、海に向かって岬のように張り出した先端にあるこの建物は、『プルターク英雄伝』にあるルクッルスのナポリの邸宅を連想させるようなものである。後の時代には要塞として使われるようになり、今ではその痕跡の方が多く見られるが、いずれにせよルクッルスの贅沢さを現代に垣間見ることが出来る建築物であることには間違いない。

 さらにルクッルスの贅沢さを現代でも物語っているのは、ローマにある「ルクッルスの庭園」である。有名なスペイン広場(坂)の上、ピンチョの丘にの丘にあるボルゲーゼ公園になっている場所に、ルクッルスは庭園と屋敷を築いている。ルクッルスは、アジアへの遠征を経験からペルシャ文化や美術に造詣が深く、その庭はペルシャ式庭園のスタイルで作庭されたと言われている。

 邸宅そのものだけでなく、屋敷の内部には戦役の後に中近東から持ち帰った膨大な美術品や書物並べられており、非常に豪華で、かつ贅沢であった。ポンペイウスはルクッルスを嘲って「ローマのクセルクセス」と呼んだが、それはルクッルスがローマ人でありながら、ペルシアの美術品に囲まれたクセルクセス王のような贅沢な暮らしを送っていたからである。


贅沢な食事


 ルクッルスは豪華な食事の代名詞にもなっている。現在でも豪華な食事を「ルクッルス式」というが、これはルクッルスが食通としての贅沢な生活を送っていたことに起因している。
 ルクッルスは良質な材料を確保するため、海水を引いた池で魚を育てるだけでなく、鳥や牛を飼育し、野菜や果物やチーズを自家の農園で作らせていた。また、食事をとる部屋の装飾、食事中の音楽や詩文、交わされる会話、これらにふさわしい客の選別などにこだわっており、「食」そのもにも注意を払っていたが、それと同時に、文化や芸術的なものも食卓において実現させようとしていた。

 ルクッルスの食通ぶりを裏付けるような、次のようなエピソードが『プルターク英雄伝』にはある。
 ある日、ポンペイウスが病にかかり、医師が晩餐にツグミ(鶫)を食べるように命じたのだが、ポンペイウスの下僕が「夏にはツグミは手に入りません。唯一、ルクッルスの養鳥園で手に入れられますが、ルクッルスは他の者のために鳥は取らせないのです」と言ったところ、ポンペイウスは医師に「ルクッルスが美食家でなければ、ポンペイウスは死ななければならないのか」と言い、他の入手しやすい食材に変えて食事をしたそうである。

 これはルクッルスが単なる食通であったというだけでなく、自らが良質で珍しい素材を求めて、それを自らの敷地で育てていたことを裏付けるものとなっている。珍しい食材は単に買い求めるだけでなく、自身で育てるのもルクッルスのこだわりだったと思われる。
 ポンペイウスは「ルクッルスが、晩年は食べることや、飲むことに拘り、贅沢に堕した」と嘲笑と批判を行っていたので、どんなことがあったとしても、ルクッルスに頭を下げてツグミを譲ってもらうことは出来なかったに違いない。自分の生死が、ルクッルスの美食と贅沢にかかっており、ツグミを譲りうけるならば、すなわちルクッルスの贅沢な暮らしを肯定したことになる訳である。故に、ポンペイウスは医師の言うことには構わず、より入手しやすい食材に変えて食べることにしたのであろう。

 また『プルターク英雄伝』には以下のようなエピソードも記されている。
 ある時、ルクッルスが1人で食事をすると言ったところ、従者は今日は1人だからいつもより簡単な食事でよいだろうと判断して食卓に出したところ、ルクッルスは「今日はルクッルスがルクッルスと一緒に食事することが分からないのか(それにふさわしい豪華な食事を用意せよ。)」と言って叱責したという。

 さらに哲学者のキケロとポンペイウスが、ルクッルスに急な訪問を申し出た際のエピソードも記録されている。彼らは豪華な食事を用意させては申し訳ないと「特別な用意は必要ない。食事はあなたがいつも食べているもので構わない」と釘を刺しておいた。しかも召使に来客用の食事を指示させないようにしていたが、ルクッルスが「食事をとる部屋だけは指示させて欲しい」というので、その願いだけは聞き入れた。そこでルクッルスは従者に「今日はアポロンの部屋で食事する」とだけ伝え三人は屋敷に向かった。
 それでもルクッルスの屋敷に着くと、次々に豪華な料理が運ばれ、キケロとポンペイウスは目を丸くし通しだった。実は、「今日はアポロンの部屋で食事する」という指示は隠語で、ルクッルスは食事をとる部屋によって食事の費用や内容は決めていたのである。このために召使は部屋の指定だけでどんな食事を用意すべきかを悟ったのである。アポロンの部屋は最も豪華な食事をする部屋で、庶民の年収が5千ドラクマの時代に、この部屋での食事は1回で庶民の年収の10倍の5万ドラクマが費やされたと『プルターク英雄伝』には記録されている。


ルクッルスがもたらした食


 食通だったルクッルスはローマに東方からの新しい食材をもたらした。これはルクッルスの経験した戦争によるペルシャとの関わりから生じた、文化理解や憧憬によってもたらされたものだったのかもしれない。それはローマに帰還後、ペルシャ様式の庭園を作らせたり、ペルシャの美術品に囲まれた暮らしをしていたことからも明らかである。そしてそれは食においても同様であったと考えられる。

 ルクッルスに関連した食用野菜にフダンソウがある。フダンソウ(不断草)は、暑さにも強く、真冬の1月、2月を除いていつでも栽培・収穫できることから付けられた和名である。英語名はスイスチャード(Swiss chard)で、葉柄や葉脈が赤や黄色、ピンク、朱色など鮮やかな彩りが特徴で、幼葉はベビーリーフとしても使われる事が多く、サラダとしてヨーロッパでは食べられている。このフダンソウには、「ルクッルス」という名前の付けられた葉脈が白い品種があり、ルクッルスにちなんで命名されている。

スイスチャード:ルクッルス
Swiss chard:Lucullus


 ルクッルスはローマに初めてサクランボを持ち込んだ人物であるとプリニウスは『博物誌』第15巻30項で述べている。以下にその部分を引用しておく。

【 Pliny Natural History Book 15 XXX】
 Before the victory of Lucius Lucullus in the war against Mithridates, that is down to 74 BC., there were no cherry-trees in Italy. Lucullus first imported them from Pontus, and in 120 years they have crossed the ocean and got as far as Britain.


 ここで博物学者のプリニウスは、ルクッルスがミトリダテス戦争に勝利する前、つまり西暦前74年よりも前には、イタリアには桜の木がなかったと述べている。ルクッルスがそれを現在はトルコ領になっているポントス王国から持ち込み、120年の間にイギリスにまで伝わったと述べている。
 ただ、イタリアには以前から在来種の野生のサクランボはあった可能性が植物学者からは指摘されており、ルクッルスの持ち帰ったものは栽培種の野生種よりも果肉の多いものであったのではないかと考えた方が良さそうである。
 ルクッルスはサクランボを、ポントス王国の「Cerasus」という都市(現在はトルコのギレスン)から持ち帰ったので、その都市名が、Cherrry:サクランボの語源となったと考えられている。これもまた食通のルクッルスならではのエピソードではないかと思う。

 他にもルクッルスは、アプリコット(杏)も最初にローマに持ち込んでいる。アレクサンダー大王が杏をギリシャに持ち込んだとされているが、ローマにはギリシャ経由ではなく、ルクッルスがアルメニアから持ち込むことで広がった。アプリコット(杏)の学術名「Prunus Armeniaca」は、ヨーロッパにおいては近世にいたるまでアルメニア (Armenia) が原産地と考えられていたためである。
 現在、ローマにあるボルゲーゼ公園は、もともとルクッルスの庭園だったところであるが、ここにも、桜の木や、杏の木が植えられたことから、ローマで桜や杏が普及するようになり、貴族たちの庭園にはこうした果実樹木を植えることが大流行することになった。
 先にルクッルスはツグミも飼っていたことも述べたが、さくらんぼや杏といったローマには無かった植物を持ち込み、栽培し、それを珍しい食材として食していたというのもグルメのルクッルスならではのこだわりだったと言えるだろう。


フランス料理に残るルクッルスの名


 オーギュスト・エスコフィエの記した『ル・ギード・キュリネール:Le guide culinaire』の中には、「ガルニチュール・ルクッルス」というソースレシピや、「コンソメ・ルクッルス」というスープについて言及されている。
 これは美食家であったルクッルスにちなんで付けられた名前であり、ヨーロッパでは美食家としてのルクッルスの存在がかなり大きく、様々なところにルクッルスの名前は残っているのである。  ついでなので参考までに、「ガルニチュール・ルクッルス」と「コンソメ・ルクッルス」のレシピを記しておく事にしたい。

ガルニチュール・ルクッルス
(Garniture Lucullus)

(牛、羊の塊肉や鶏料理に添えられる)

1. 平均60gのトリュフ10個には、マデイラ酒を効かせたミルポアで火を通しておく。
 中をくり抜き、蓋になる部分は取っておく。
 バターを加えたフォン・ド・ヴォーを煮詰めたソースでコーティングした雄鶏の腎臓を、トリュフ1つにつき2つ詰める。
 取っておいたトリュフで蓋をして、低温のオーブンでトリュフの詰め物に火を通す。

2. トリュフをくり抜いた中身を鶏と混ぜ込んだ滑らかなペーストをスプーンで成形し、10個のクネルを作る。
 混ぜ込むトリュフはあらかじめすり潰して裏漉ししておく。

マデイラで調理したトリュフ(鶏肉、腎臓の蒸し煮用)と、鶏肉のクネルに、トリュフ風味のソースデミグラス添えて出す。



 他にも『ル・ギード・キュリネール:Le guide culinaire』には以下のようなルクッルスの名前を冠した料理のレシピが載せられている。

 Velouté d’Écrevisses a la Lucullus
 Croustades Lucullus 
 Darne de Saumon à la Lucullus
 Tournedos Lucullus
 Poularde Lucullus
 Suprêmes de Faisan Lucullus
 Cailles Lucullus
 Soufflé Lucullus

 ルクッルスの名前を冠した料理の特徴は、ほとんどの料理でトリュフが使われていることにある。トリュフが使われていなくても、それと同等の高級食材が使われていることが多い。よってルクッルスの名が付けられた料理は、ワンランク上の高級料理ということを意味する仕方で名付けられていると言える。

 『ル・ギード・キュリネール:Le guide culinaire』以降に誕生した料理で、クッルスの名前を冠した料理に、Lucullus de Valenciennes(ヴァランシエンヌのルクッルス)という料理がある。この料理は1930年に、フランスのヴァレンシエンヌで誕生した名物料理である。葬儀の食事のために、ヴァランシエンヌを訪れた2人のパリジャンが、牛舌の「洗練された」バージョンをオーダーしたところ、フォアグラを売り出そうとしていたシェフが出した料理がこれである。
 料理は、燻製した牛タン、コートブイヨン、フォアグラの混合物で、牛タンとフォアグラが層になっているのが特徴である。

Lucullus de Valenciennes
(ヴァランシエンヌのルクッルス)


 この料理にもフォアグラが使われており、とても華のある料理になっているが、こうした高級素材が使われているのが、ルクッルスの名を冠していることの理由だと言えるだろう。


ルクッルスの晩年


 『プルターク英雄伝』にはルクッルスの死についても言及しており、ルクッルスが人生の終わり頃には心を失い、年齢と共に精神異常の症状を発症したと報告している。この原因に関してプルタルコスは、まずこの時代の伝記作家だったコルネリウス・ネポスの説を引用している。
 コルネリウス・ネポスは、ルクッルスが年齢や病気によって精神異常の症状を発症したのではなく、その原因はギリシャ人の自由奴隷のカリステネス(Callisthenes)が、ルクッルスの愛情を得ようと意図的に薬物[Pharmaka:Love potion]を投与していた為に、その作用を受けてルクッルスは生きながらにして、心が不安定になったのであると述べている。
 だがこの意見に対してプルタルコスは懐疑的な意見を述べており、その狂気が本当に媚薬の効果だったかどうかに関しては曖昧であるとしている。その当時、キケロも追放され、政治的な立場を同じくしていたカトーもキプロス島に送られていた。こうしたローマの政治的敵の勢力の高まりに対する自己防衛のために、ルクッルスは都合よく狂気を装っていたのではないかというのがプルタルコスの見解である。


ルクッルスが美食を求めた理由


 美食を尽くしたルクッルスについて、セネカが、「ルクッルス…が料理を求めたのは、食欲を満たすためではなく、むしろ食欲を掻き立てるためだったのだ」と述べているのは大変に意味深い。ルクッルスは私財を肥やしていると批判されることになるが、政界の一線から退いてからの他の政敵やライバルを嘲笑うかのような、これ見よがしの贅沢三昧は、ルクッルスの逆説的な彼らに対する批判だったのではないだろうか。
 豪勢な酒宴に明け暮れ、贅沢な食事をしていたルクッルスの死んだ目の奥には、底知れぬ諦めと共和制ローマへの絶望が漂っていたに違いない。そこには厭世的な感情が漂っているのが感じられるのである。
 そうした中にあって、特にライバルであり、政敵でもあるポンペイウスが、何度もルクッルスのエピソードに登場し、豪華な食事をご馳走になったり、またルクッルスの贅沢な美食がなければ、病気治療のためにツグミを手に入れられないという状況に置かれるあたりは皮肉なものがある。

 ルクッルスについて記述していると、私は竹林の七賢人の一人であった阮籍のことを思い出させられる。
 阮籍は、魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をした人物であった。阮籍は俗物で礼法を重視した気に入らない人物に対しては白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対したという。
 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその官職につき、竹林の七賢の一人の劉伶と酒を常に飲んでいたという。このように阮籍は既成の枠に捉われない人物であった。以下は阮籍が詠んだ「詠懐詩」である。ここから阮籍の本当の胸の内が読み取れる。

【 詠懐詩 】
 夜中不能寐  夜中寐ぬる能わず
 起坐弾鳴琴  起き坐して鳴琴を弾ず
 薄帷鑒明月  薄き帳に名月の鑑(て)り
 清風吹我襟  清風は我が襟を吹く
 孤鴻號外野  孤鴻は外野に号(さけ)び
 朔鳥鳴北林  朔鳥は北の林に鳴く
 徘徊将何見  徘徊して将(は)た何をか見る
 憂思独傷心  憂思して独り心を傷ましむ


 阮籍は常に酔っていたが、それは当時の偽善と詐術に満ちた社会に憂思して独り心を傷めていたからである。そして酔いながら常に冷め切っていたのである。なぜなら当時の偽善と詐術に満ちた者たちが権勢をふるい驕り高ぶっていたからである。

阮籍


 阮籍とルクッルスは必ずしも同じような人物であるとは言えないが、それでも、阮籍がなぜ酒を飲み続けていたのを考えると、ルクッルスがそこまで贅沢に美食を追求した理由を理解できるような気がする。その理由は阮籍にもルクッルスにも共に、その時代の権力者に対するシニカルな冷めきった目線があったからではないだろうか。

 ルクッルスは遠征の激戦の中で、私財を肥やしていると批判され、ローマに連れ戻されることになったが実際のところはどうだったのだろうか?長期におよんだ遠征の中で、補充が途絶えたり、ローマからの軍資金が滞ることが度々あったが、ルクッルスは将軍として軍隊を維持して、ローマの拡張の為に人生の大半を戦いの中で費やしてきたのである。こうした中で、占領した都市の富を確保し、兵士に再分配し、軍隊を維持し続けることも、ルクッルスにとっては重要で難しい役割だったことは間違いないだろう。
 批判によってルクッルスがローマに帰還した後、ポンペイウスが軍を引き継ぐことになるが、ルクッルスはポンペイウスの約半分の兵士の軍隊で、敵に対して勝利し続けていたことを考えても、ルクッルスの戦略家としての有能さは証明されていると言えるだろう。もしかすると、遠征中のルクッルスにとっては、常にいつでも使える潤沢な資金を手元に蓄えておくことは、戦いに勝ち続けるための軍を維持するという意味において、彼にとっての何らかの大義に直結することであったのかもしれない。
 しかし、それが批判され突かれることで、将軍の座からルクッルスを引きずり下ろされ、しかも凱旋式が行われることに対しても異議が差し挟さまれたのである。

 結局は、ルクッルスは罪に問われたり、追放させられることもなく、軍人としての役割を解任されることになるが、こうした中で、ルクッルスには軍のために自らが捻出して使うはずであった莫大な資金が、どういう訳か個人の手元に残ることになってしまった可能性も考えられる。
 引退後のルクッルスは、これ見よがしの贅沢で美食を追求した生活を送り始めるが、それはセネカの言う通り「食欲を満たすためではなく、むしろ食欲を掻き立てるため」かのようなものであった。手元に残った意味のない金銭を、批判した者たちの前で、これ見よがしに豪勢な酒宴に使うことで、彼らの批判に対して、それを凌駕する贅沢でもって応じたのである。それは冷めきったシニカルな行為であり、それゆえに私は、このルクッルスの姿が、阮籍にダブるのを感じてしまうのである。

 そう考えると、邸宅や公園をペルシャ風にすることや、あるいはペルシャからの食材をローマに持ち込むこと。また「トーガを着たクセルクセス」あるいは「ローマのクセルクセス」と呼ばれるようになることも、ルクッルスのローマに対する嫌悪感からもたらされたものであり、いっそかつての敵国のテイストに耽溺した生活することで、政敵や批判者のいるローマという都市にいながら、彼らに抵抗し続けていたようにすら私には感じられるのである。

 こうした視点からキケロとポンペイウスが参加した食事を検討すると、そこには非常に意味深いものが見えてくる。
 つまり、ルクッルスを批判した政敵のポンペイウスは、何としてもルクッルスに豪華な食事をご馳走になってしまい、借りを作るようなことは絶対に避けたかった違いない。一方のルクッルスは逆で、何としてもポンペイウスを贅沢な食事でもてなすことで、逆説的にポンペイウスを無言で批難しようとしたとも考えられる。つまり、ポンペイウスが批難した、その財と贅沢さでもって、ポンペイウスはもてなされるのであれば、ポンペイウスは顔を潰されることになるのである。
 ポンペイウスが、ルクッルスに召使いに指示を出させないようにしてまで、普通の食事をと望んだのは、単にルクッルスが行う普段の食事を確かめたかったという好奇心のようなものからではなく、むしろポンペイウスにとっては、それが自分のスタンスを守るためには何としても必要だったからではないだろうか。
 しかし「アポロンの間」で食事は行うという召使いに対するルクッルスの指示により、結局は豪華な食事が準備されることになる。しかも庶民の年収の10倍の金額が一回の食事で費やされることになったのである。これはルクッルスの矜持のようなものが、そうさせたのであると私は思うし、その為にはいつもの宴会以上のものが明らかに準備されたのであると考えたほうが良いだろう。それは見栄を張るとかいうようなレベルのものではなくて、何としてもポンペイウスに対して金を使い浪費することにこそルックルスの目的があったからである。こうして、「ルクッルスは贅沢に堕した」と批判したポンペイウスは、自分もまた自身が批判したその中に、つまり贅沢な宴に同席することによって結果的にその恩恵を享受することになったのである。

 人は他人の贅沢は批難するが、政界を引退したルクッルスは、莫大な富とその贅沢さの浪費によって逆に、批難する者たちを批難し続けようとしたものと思われる。それは冷めた視線であり、彼にとっては浪費し贅沢することそのものには、関心や楽しみのようなものはすでに無かったのかもしれない。


ルクッルスの知性の源泉


 ルクッルスが美食によって贅沢に堕し、快楽主義にだけ生きていたのはないことは知的な面からも理解する事が出来る。ルクッルスは哲学に特に深い関心を示しており、ギリシャ語やラテン語の本を収蔵した個人図書館を建造して一般に公開していたからである。この図書館は哲学サロンのような場ともなり、ルクッルスもそこに赴いて哲学者たちの議論に参加したとされている。
 ルクッルスはどの哲学学派に屬するかで、人を排除しようとはしなかった。ルクッルスはプラトンの旧アカデミア派を擁護する立場を取っていたが、新アカデミア派に属していたキケロとも親しい関係にあり、キケロもルクッルスの図書館を利用している。
 『古代ローマの生活』の教育と学問という項には、ルクッルスの蔵書について以下のように説明されている。

【 古代ローマの生活 】
 前一世紀半ばの第三回ミトリダテス戦争のときに、ローマの将軍ルキウス=リキュウス=ルクッルスは、ポントス王の蔵書を戦利品として得て、彼個人の所有としました。ギリシアをはじめとした東方の先進文化にふれて、ローマ人の蔵書熱に火がついたようです。こうして共和政末期以降、学芸を重んじる元老院議員や金持ちたちのあいだでは、屋敷に個人用の図書室を設けるのが一般的となっていきました。


 このようにルクッルスの私設図書館は、ポントス王の蔵書を戦利品として収蔵したことにある。ルクッルスがこれを公開したので、ローマ人はギリシアをはじめとした東方の先進文化に触れることが出来るようになった。これを境にしてローマ人の間では蔵書熱が高まるようになり、共和政末期以降、学芸を重んじる元老院議員や金持ちたちの間では、屋敷に個人用の図書室を設けるのが流行するようになっていったのである。その後もこの影響は大きく、ヨーロッパの貴族の邸宅には書斎・図書館があり、客人はその部屋に通されることがあるが、これもルクッルスが私邸に図書館を設けた事の影響であると言えよう。
 またルクッルスがその蔵書を私設図書館として公衆に公開したことは、後の皇帝による公共図書館の先駆ともなった。これが発展して、その後の公共図書館開設にへと繋がっていったのである。よって古代から現代に至るまでの図書館史の中では、初期における功績者としてルクッルスについて言及される場合が多い。こうした公共図書館の発展においてもルクッルスは先駆けとなった人物なのである。


哲学に対する関心


 哲学者であり、また政治家でもあったキケロは、ルクッルスの哲学における資質を高く評価している。『アカデミカ前書』2巻で、キケロはルクッルスについて以下のように語っている。

【 アカデミカ前書 】キケロ
 ルクルスは当人を知らない人が考えているよりずっと熱心に哲学をはじめ、さまざまな分野の書物を学んだのであるが、それも若年のころというだけではない。財務官になる前から、さらに軍務に忙殺されがちで、平服でいるときも将軍というものにはほとんど余暇のない戦争のさなかにも学び続けていたのである。


 このようにルクッルスは、キケロという客観的な視点からも哲学に打ち込み学び続けた人物であることを認めることが出来る。哲学だけでなく、ルクッルスは植物学にも通じており、また軍事的な戦略においても優れていた。
 またルクッルスは、幾つかの邸宅や別荘を持ち、庭園を造ったりしていたので、建築や土木工事、に関する知識も有していたのかもしれない。

 こうしたルクッルスの多方面にわたる才能が、美食という分野においても存分に発揮されていたとは考えられないだろうか。先にも述べたサクランボや杏子といった植物だけでなく、あらゆる植物についての知識は、ルクッルスの食膳を豊かにしたであろうし、また食における装飾・内装についても、ルクッルスの美意識が存分に発揮された空間づくりが行われたものと思われる。キケロとポンペイウスが招かれた「アポロンの間」とは、正にそのような場所だったのではないだろうか。


知性と美食


 詩人であり、劇作家であり、俳優、文芸評論家として活躍した人物のベン・ジョンソン (Ben Jonson:1572 – 1637) は、「その見聞の源頭」のなかで料理人について以下のように述べている。

【 The Staple of News 】
“He has Nature in a Pot, 'bove all the Chymists, Or airy Brethren of the Rosie-cross. He is an Architect, an Ingineer, A Soldier, a Physician, a Philosopher, A general Mathematician”

【 翻訳 】
 料理人は万有を捕らえてきて殺活を釜の中に握る者であり、すべての化学者、夢想に酔う錬金術師を驚かせる技術を有する者、武将、哲学者でもある。


 ベン・ジョンソンが料理と哲学を結び付けている意見は興味深い。料理とはあらゆるジャンルの知識や技術に通底しており、広範囲にわたる知識に立脚したものであることは、本サイトである『美味求真』が主張していることとも共通している。

 また、ブリア=サヴァランの著作(1825年)『美味礼讃』の原題は「Physiologie du Goût, ou Méditations de Gastronomie Transcendante; ouvrage théorique, historique et à l'ordre du jour, dédié aux Gastronomes parisiens, par un Professeur, membre de plusieurs sociétés littéraires et savantes」というもので、日本語にすると「味覚の生理学、或いは、超越的美食学をめぐる瞑想録;文科学の会員である一教授によりパリの食通たちに捧げられる理論的、歴史的、時事的著述」という事になる。このように近代の食通として有名なブリア=サヴァランも、その著書『美味礼讃』のなかで、美食を学問的、あるいは哲学的に捉えている。

 哲学に高い関心をもっていたルクッルスも、こうした後代の評論家と同じように、哲学を含む広範囲な知識の集合体として「美食」というものを捉えていたのかもしれない。哲学を始めとした様々な学術に対する知識の深さからも、ルクッスルの行っていたとされる贅沢は、単に快楽に根差したものではなく、精神的な部分における知的好奇心を満たすものだったと推測することも出来そうである。
 後代にも影響を残したという意味においても、ルクッルスの「食」における功績というものは、非常に大きかったと考えるべきであろう。


最後に「ルクッルスと食」


 西暦前1世紀に生きた人物、ルクッルスを見てきたが、ともすると彼に対する評価は、贅沢と美食に堕した人物だけのように捉えられる場合が多いように思われる。
 しかし、実際にルクッルスの事績を紐解いてゆくと、彼の真意が何処にあったのかを、朧げにではあるが掴めるのではないか。哲学に関心を持ち、ペルシャやギリシャの文化をローマに持ち込み、洗練された食を求めた人物であった。
 ルクッルスの人生の前半は、ローマ軍を率いて戦う執政官としてのものだったが、軍人としてもルクッルスの才能は高く多くの功績を残しており、まさに文武両道において優れた人物だったことが分かる。

 こうした全ての要素を見ると、確かにルクッルスは知的でかつ文化的な優秀な人物であったことが理解できる。よって彼の求めた「美食」とは、精練と精神的な渇望と好奇心を満たすための手段であったに違いない。ローマにおいてルクッルスは、単に味覚の逸楽に耽溺した人物だったのではなく、むしろ非常に洗練された、知的な人物であったということは間違いないのである。





参考資料


『プルターク英雄伝』  プルタルコス

『アカデミカ前書 第二巻』  キケロ

『Le guide culinaire(英語)』  Auguste Escoffier

『Le guide culinaire(フランス語)』  Auguste Escoffier

『エスコフィエ「料理の手引き」全注』  五島学 編著(訳・注釈)

『消費=浪費に関する理論の歴史』  冨貴島 明

『Antique Roman Dishes』  

『シエナ、ピッコロ―ミニ図書館の画像プログラムに関する一試論』  トンマーゾ・ランファーニ