美味求真

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第四章


各国料理の概観


第一節 : 西洋、中国、日本およびインド料理

第二節 : 各国料理の取り扱い方

第三節 : 各料理の特質

第四節 : 茶屋風会席料理について

第五節 : 日本料理に関する苦情

第六節 : 日本の食事の変遷

第七節 : 日本料理人および流派

註 釈 : 本書に基づく参考意見

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西洋、中国、日本およびインド料理


 世界の料理は基本的に、中国流、西洋流、日本流の三大分派によって支配されている。なおこれを細分化すると、西洋料理にはフランス料理、イギリス料理、ロシア料理等の分派があり、中国料理は福建料理、広東料理、四川料理、北京料理の四系統に分かれている。日本料理も東京料理、上方料理、長崎料理、名古屋料理の別に分かれているが、ここでは各分派についてはいちいち細部まで論じることはしない。概観すると西洋料理はその実益的な点から最も広く各国の人々の間で親しまれており、ほとんど全世界に行きわたっていると言っても過言では無いだろう。中国料理はその技術の優位さにより、これもまた世界の各地に広まりつつある。漢の時代にこうした料理法は西域に入り(葡萄、ゴマ、クルミ、ザクロ、ニンニク等が西域より中国に入った頃の時代である)間接的ではあるがローマの美食の進歩を促し、そのローマ料理が今日のフランス料理の基礎をなしている事は、前章で既に述べた通りである。従って西洋料理と中国料理は、ある部分では類似点を見つけ出すことができる。特に西洋人は近年、益々、中国料理を愛好する傾向にある。よってパリでもロンドンでもニューヨークでも中国料理は段々と流行しつつあると聞いている。日本でも近年は、中国料理の流行が段々と盛んになっており、昨今は宴会も中国料理店で開かれる事が非常に多くなってきている。現に東京および近郊では中国料理店が1500軒に達していると言われている。(大正十二年震災前)( ※ 2014年の統計によると日本全国の中国料理店の数は55,095軒となっており、美味求真が書かれた時代からすると約37倍である )

 日本料理が普及している範囲は最も狭く、日本を旅行する外国人等も、好奇心に駆られて試食する人があるが、その趣味を理解して、真にこれを愛好する者はほとんど居ない。(ただ牛鍋と鰻飯だけは日本通の西洋人にもてはやされてきている傾向にある)現にアメリカにもヨーロッパにも至る所で日本料理店は開店しているが、これは日本人だけのクラブのようなもので、外国人の顧客を引きつけるのは不可能なようだ。よって日本料理は他に同化するのが難しい料理と言えるかもしれない。

 以上の三大派以外にはインド料理がある。インドは古代から中国やローマに比較しうる大きな社会を組織してきた地域であるだけに、料理もかなり発達している。古代のアーリア人がインドにやってきた時代は肉食が盛んにおこなわれており、牡牛や牡羊の肉は献供として用いられ、馬も好んで食用にされていた。現にヴェーダ時代文学には、牛、水牛の料理に関する記録がある。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド奥義書』(Upanishhat)と呼ばれている奥義書には「もし才智に優れており、ヴェーダ経を体得して天寿を全うするように愛児を得ようとすれば、夫婦は肉と醍醐味を混ぜて炊いた米飯を食べるようにすべきである。肉は牛が良い」と書かれている。またチャクラの経典と呼ばれる医書の一部には、牛、水牛、豚の肉は毎日食べてはならないとあるが、他の部分には「牛肉は胎を強健にする効果があるので妊婦は食べるように」と勧めている。

 このように古代のインドでは決して肉食を禁止する風潮はなかったのである。肉食を禁じるようになったのは釈迦の教義が広がった以降の事であり、いわゆる五戒のひとつである殺生戒に基づいたものである。このように仏教の飲食に関することは経文または説教等からの引用が少なくない。『無量壽経』には「日日三時供養三両金百味飲食 (一日に三回は供養し、一日に三両の金を奉り、様々な飲食も差し出し、素晴らしい坐る場所や医薬を供して供養すべきである)等とある。また『遊行経』には「栴檀樹耳せんだんじゅじという世界の珍味を煮てブッダに捧げた」とあって、菌類や茸などが貴重なものとされていたことを明らかにしている。ただし肉は絶対禁止であったという訳ではなく、根本戒律では、特別な肉、例えば象の肉や魚類は乳、酪、酥、蜜、油と同じく美食の中に数え挙げられていて、病にかかった修行者はこれらを食べることが許されていた。(日本でも天武帝の4年[天武4年4月17日(675年5月19日)]に肉食は禁じられたが、病人の食養にはこれが許されていたのは、根本戒律の主旨に準じている)

 またマヌの法典には「買い求めた肉は仏を拝んで食べれば罪にはならない」とある。ヤジニャの時代までは牛を殺す罪は飲酒の罪よりも軽かったが、何時からともなく牛が非常に神聖視されるようになり、絶対的に牛を殺すことは禁じられるようになった。イギリスがインドを支配するようになると、インド土民兵の体質を強くするために強制的に牛肉を食べさせようとしたが、インド人は肉食を嫌い、特に牛を神聖視しているので、あくまでも上司に命令に従わず、遂に大反乱を起こし、英国人を殺してその墳墓を暴くことすら行ったのであるが、間もなく征服されてしまった。このように生命を賭けて迄、何としても肉食を避けようとするのは他に類例がないと言える。現に今でもインドにおける英国排斥運動の主要な要因は、イギリス人が牛を食べることも理由に数えられていると言う。

 しかし牛乳は、インド人の生活の必需品として非常に貴重なものとして扱われている。インドで牛乳は牛乳屋によって各家庭に配達されるのではない。商人が牝牛を引いて歩き、各村落の一戸一戸で必要な分量だけを搾って売り渡していると言う。この奇習によってインド人は非常に新鮮で純粋な牛乳の供給を受けているのは非常に面白い。また乳製品の製法にも練熟しているようであり、『仏書』にも乳は酪となり、酪は酥となり、酥は醍醐となり、醍醐は酥酪の精液であると記されている。
 今日でも、凝乳を水に溶いたものを最高の飲料( ※ ラッシーの事だろうか )とし、さらに酥と蜜で料理した米のお粥を最上の食物としているようである。ただし宗教上の関係から、さらには気候が高温であり、一般に労働を好まない風習があるために、自然に肉食に対する嗜好はあまりなく、多数のインド国民は粗食で、米の粉を蒸した団子( ※ イディリー「Idli」の事だろうか )や団子を引き延ばし、これに油を付けて焼いたもの( ※ ナンである )を常食とし、その他にもバナナ、木の実(インド人は特に好んで木の実を食べる)、果実等の自然に得られるもので満足しているのである。しかも米はさすがに本場という事もあり、さらには胡椒やその他の香辛料はインドが世界の原産地でもあることから、料理ではカレーが特に優れているのは誰もが認めるところである。またあめのうお(ビワマス)に似ている淡水魚の料理も非常に美味なものがある。ただ一般的に砂糖を使い過ぎる為に、料理の味が菓子に似ているものも多い。

 飲酒に関しては古代からのソーマという木から製造する酒がある。祭祀には欠かせないものとされていて「おおソーマよ、御身の美しきものはこの世に有ることなし。注ぐときは諸々の神を迎え、彼らに不死の生命を与える」と称賛されている程である。またスラーという焼酎に似ている強い酒も飲まれているが、仏教は五戒のひとつとして全ての飲酒を禁じており、またマヌの法典では飲酒は牛を食べるよりも重い罪とされていて、犯すものは溶かされた鉛を飲ませ、あるいは額の上に焼き印を捺して罰した為、上流階級の者は自然と酒から遠ざかっていたが、それでも下流社会には飲酒に浸るものも少なくなかったようである。

 インド人のイスラム教徒(インド全人口の4分の1位いる)は勿論、五戒を信奉していない。コーラン経典の禁令によって豚は食べないが、主に羊と鶏、その他の肉も良く食べられている。その料理の方法はイスラム教の本源地であるアラビア式料理に似た調理方法でも行われている。アラビアの中流以下の人の多くはパン、トウモロコシ、ヤシの果物類を常食としているが、上流階級の料理は滋味に富んでいるものが少なくない。その中には中国料理に匹敵するものもあると言う。小麦粉の団子を入れた鶏の肉汁、羊の骨付き料理、鶏の丸煮、アラビア式卵焼き(羊乳、乾酪、羊肉、野菜を刻んで卵と混ぜて作る)パンを油で揚げて飴で調味したもの、肉飯と言って羊肉、鶏肉、落花生、葡萄、その他の果実類を米飯で混ぜたもの等それらのバリエーションがある。製菓は彼らが最も得意とする分野であり、落花生、棗、葡萄、桃、杏などを材料としてこれに葛や片栗粉を合わせて、砂糖や蜜を使って味付けしたものが多い。中央アジア方面の料理に付いてはそれを『西域聞見録』(清椿園の著)で見ることができる。その中では上流階級の饗宴の状態を記録し、

「該当箇所の原文」 :  全文PDFはこちらから
 回子宴會総以多殺牲畜為敬駝馬牛均為上品羊或至数百隻、各色瓜果、氷糖、塔兒糖、油香以及焼煮各肉大餅小點䬪飥蒸飯之屬貯以錫銅木盤紛紜前列聴便取食楽雑奏歌舞喧嘩群回拍手以慶其総以極酔為度有連宵達且酔而醒醒而復酔者所陳食品客或散給於人或宴罷攜之而去則主人大喜以為盡歡

【 訳文 】
 回教徒(イスラム教徒)の宴会では上等な羊数百頭を始め、ラクダ、馬、牛など多くの家畜が殺され料理に供される。さらには多くの果実、アイスクリーム、焼き菓子、油で揚げた肉饅頭や蒸したデザートなど様々な種類のものが盆に載せられ、音楽演奏と共に楽しまれる…。


と述べている記録から、大体の当時の様子を想像することが出来る。
 他にも料理には馬乳飯といって馬乳で炊いた飯がある。また馬乳酒と言い、馬乳を煮てそこに種々の果物を加えて醸成させた酒等がある。トルコの食事は、下流階級は小麦餅と果物類を手掴みで食べているが、上流社会の饗宴では食卓にテーブルクロスがかけられ、ナプキンを使い、フォーク、スプーン、ナイフが全部備えられ、コンソメスープ、蒸肉、コロッケ、フライ料理等すべてが西洋料理と同じものである。
 最後に南洋ジャワのライステーブルと呼ばれるマレー料理の代表ともいうべき料理を紹介する。これはインド風ライスカレーをベースにして、これに西洋風にアレンジした料理である。次にその製法を挙げる。

一、 まずインドの香料、丁子、肉荳蔻にくづく、肉桂、黒白の胡椒、はじかみ、からし、その他、草の実、木の根等のあらゆる香気に富んだスパイスを取り揃えて、石臼ですりつぶし粉末にしてカレー粉を造る。

二、 椰子の実を大根おろしにかけてすりつぶし、これを絞ってその油の上澄みだけをすくい取って別の鉢に入れて置く。搾り滓の方は水を混ぜて布袋に入れて再び絞れば牛乳のような液体の汁が得られる。

三、 2回目に絞った汁を煮て、前のカレー粉を入れて、弱火で2時間ほど煮たところで、腸を取り除いた鶏の骨も脚も頭もそのままぶつ切りにして、これを油で炒めてから鍋に入れてから1時間位煮た後に、今度は野菜、果物類を油で炒めてから加え、さらに1時間位煮て鍋の中がとろけてドロドロになっているのを見計らってから、鍋を下す時に、前に準備しておいた椰子の油と塩を入れて味付けをする。

四、 別に海老煎餅(日本のものと同じ)の油で揚げたものと、他に果実、野菜、魚類、鳥類の肉を煮たもの、炙ったもの、揚げたもの種々雑多な珍味、変わった食べ物を大皿に盛って、別に米飯を盛り、先述したカレー汁をかけながら、この添えものを一緒に食べる。


 また食事に関してインド人は一種の奇妙な習慣を持っている。前にも述べているように食品に関しては無頓着であるにもかかわらず、食事そのものを非常に神聖視しているので、異教徒の手が触れたものは決して口にしようとはせず、食事の際にもし、異教徒の影がその上に映るようなことがあれば食事はもちろん、一切の調理器具ですら捨ててしまう。従って食物の調理は家庭の主婦が自ら行い、決して他人の手に任せることはしない。従ってインド人が旅行する際にはすべて食器を携帯するのが常である。それは汽車中でも船中でも食物を自分たちで料理する為である。

 味の数については日本、中国は苦い、辛い、塩辛い、酸っぱい、甘いの五味であるが、西洋人は苦い、塩辛い、酸っぱい、辛い、アルカリ味、金属味の六味とされており、インドでは苦い、辛い、塩辛い、酸っぱい、甘い、淡いの六味に、渋味、不了味を加えて、八味であることが仏教書には記されている。食事が簡単であるにもかかわらず、味の数に関してはインドが最も複雑であるのは不思議である。
 各国での食事の方法については、西洋人はナイフ、スプーン、フォーク等を用い、それも魚肉用、鳥肉用、果物用等その用途に従って各々その形が異なっている。
 日本人は箸だけを使う。我が国の箸は多く木竹類を使い、あまりその材料に種類は無いが、中国では銀箸、象牙箸、珊瑚箸など高価なものを用いる傾向にある。
 インド人は箸もナイフも使わず、すべて右手で食物をつかんで食べる。左手は不潔に触る理由で使うことはしない。

 もし食事用具が複雑なことが文化的生活であると言い、簡単であるからと言って未開であるとすれば、西洋式は最も文化的であり、インド式は最も野蛮であるとことになるが、それは間違いである。インドの貴族が英国で、常に社交界で嘲笑の種となるのは、この掴み食いの習慣ゆえであると聞く。しかしながら西洋人も3~400年前まではやはり指をスプーンやフォークで食事が行われていたにも関わらず、その事を彼ら自身の社会でも知らない者が多い。 ウィリアム・E・ラキソン (William.E.Laxon)の『英国風物誌』にある、フォークが欧州に導入された由来をみると、欧州人は昔は食事に指を使っていたが、現在使われているフォーク(Two pronged fork)は、1668年にイタリアを経てコンスタンティノープルから渡来したとしてある。伝えられた始めの頃は、人々はこれを使いかねていて、使用を嫌って5つの指を与えた神に対する侮辱(An insult to providence who has given us five fingers)であるとして嘲笑い、なかなかこれを使用することがなかった。それに対してスプーン(匙)の起源はかなり古い。昔は食事のたびに新しく木片を割って使っていたが、何か非常に新しいものを(Sticks and span = Span and spoon)と言うようになり、Spanがいつの間にかSpoonに代わったのである。昔はナイフもフォークもなかったので他所から招待があれば、今でいう剃刀のような刃物をもって出かけ、木片を削ってチョップスティクス、つまり箸のようなものを作って使っていた様である。こうした経緯を見れば、欧州人がフォークを使い始めたのは近世の事であって、インド人が指で食べる事や、日本人の木箸を西洋人が嘲笑うのは身の程知らずであると言うべきである。

 食事の回数は各国おおむね一致しているが、中でもインドの風習は最も変わっている。この国では仏教の「四食時」( ※ 『沙彌律儀毗尼日用合參卷上』に記述がある )があり、一番目の朝は天食時、二番目の昼は法食時、三番目の夕は畜食時、四番目の夜は鬼神食時として、午後は一切の食を取ることを禁止しているが、普通に二食または三食を取ることが多い。古代の中国でも食事の回数については諸説あり一定はしていない。『白虎通義』には王者は日に四食を取ることについて「四方のものを所有し、四時の功を食する」と『周禮』からの引用を説明している。『禮記』には「天子一食,諸侯再,大夫士三,食力無數」とある。天子が一食であるとする根拠が『周禮』の「王齊日一舉」( ※ 正しくは「王齊日三舉」であり、一日三食という見解が正しい )であるとするならば、一日四食とする『白虎通義』とはその解釈に違いがある。
 「丈夫士三」とあるのは成人男性が通常は三食を取っていたからであり、『釋氏要覧』には「甕、餐、中食の三つに分けて、甕は良く熱を通した食事のことである。朝食を甕と言い、夕食を餐と言う。中食は日の高くなる午後に行う食事で、日中に行う食事であるので中食(昼食)と言う」とある。
 また『朱子語類』に夜飯という言葉がある。『墨莊漫錄』に点心という言葉もあり、決まっていない時間にする小食を点心というとある。つまり普通は三食であったが、この他にも夜飯、点心を取ることもあったようである。徐奚の『食箴』には「一日三飽、食力無数、飢えれば則ち食し、飽けば則ち労作する」とある。ここから労働者以外の者は普通は三食であったが、労働者は食事の回数に制限はなく何度も取っていた事が分かる。古代の日本では二食が中心であったが、中世以降は三食となった。喜多村節信の『瓦礫雑考』にも、昔から朝食と夕食はあったが中食(昼食)は聞いたことが無いとある。また『枕草子』にも「工匠たくみの物くふこそいとあやしけれ」と記されているのを見ても、当時の上流階級では食事の回数が少なかった為、職人が小食、または昼食などを取るのを見て可笑しく感じたものと考えられる。 北条氏の頃から関西地方では、昔からの二食制を破ってそれに昼食を加えて三食を取るようになったが、関東では依然として二食を守っていたようである。しかしその後、室町時代頃から全国で三食を取る習慣が広がったようである。ただし農民労働者等は三食の他にも一、二回の間食を取る習慣もあったようで、これは中国の労働者と同様であったことが分かる。また無住の『雑談集』に「昔は寺々では朝のただ一食だけであったが、次第に辛抱ができなくなり、非時と名付けて日中にも食事を取るようになり、後には山寺でも奈良の寺でも三度の食事をするようになった」とある。つまり我が国で三食を取るようになったのは中世以降の習慣であったということが分かる。

 西洋の上流社会でも昔から二食が正式であったようである。 ウィリアム・E・ラキソン (William.E.Laxon)の『英国風物談』の記録によればBreakfastは夕食から翌日のDinner(正餐)までのfast(断食)の破ることを意味であると述べられている。よって正式な食事ではないためにかなり少量だけを摂取するため、中国の点心に相当するようなものであると言えるだろう。(『野客叢書』には「早朝の小食を以て点心と為す」とある)
 またフランス語のデジュネ(déjeuner)とはTo unfust すなわちこれも断食を破るという意味(「解除する」dis +「断食」junare)であり、ノルマン人のディナーとは、アングロサクソンのブレイクファスト(Breakfast)に相当するものである。Supper(夕食) は Soup(スープ)またはGravy(肉汁)に入れたパンの意味、すなわちスープに浸したパンの事であり(A soup piace of brond)であり、今日ではこれを夕食として取るようになっているが、昔は二食であったことに由来している為であることは想像するに難しくない。



各国料理の取り扱い方


 食卓を整える方法には「供卓式」と「配膳式」のふたつがある。供卓式とは多人数で同じ食卓を取り巻いて食事をする方法で、配膳式とは一人一人が別に準備された食事を取る方法である。我が国も昔は供卓式だったが、中世から配膳式に変わったようである。それに対して西洋や中国ではいずれも供卓式である。西洋料理のメニューは日本の献立に当たり、日本の献立は中国で言うところの食単である。献立と食単は特別の場合にしか客の前には置かれないがメニューは必ず供えられている。

 西洋料理は客の正面にプートンネ(挿し花)とナプキンを入れた一枚の皿を置いて、右にスープ用のスプーンとナイフ、左にはフォーク、前面の向こう側にはスプーンを置くのを普通として、果物用ナイフはスプーンの向こうに交差して置くようにする。ナイフやフォークは魚用、食事用(大、小)および果物用に分けられ、コップも酒の種類によって各々その形が異なっておりワイン用、ボルドー用、ビール用、強化酒用、シェリー用の五種類が準備され、右向こう側に配列される。
 中国料理の配列方法は今でも『禮記』の典禮で記されている通りに行われる。箸は持つ方を右にして置き、茶碗は少々左側に置き、小皿の上に匙を載せて、少々右の中程に供え、汁物醤油類は右側、汁のない物は左側、入れ物の大きくて丈の高いものは離して置き、皿物や小さい肴は手近な場所に置き、薬味は右端、杯は少し左の方に、飯椀は常に右に置くのである。
 我が国の正月料理は二汁五菜とか、三汁七菜とか、五汁十五菜とか、おかずの数に違いがある。例えば三汁七菜の場合は五の膳まで揃え、まず本膳を客の正面に据えて、次に二の膳をを本膳と並べて客の右側(向かって左)に、三の膳を本膳と並べて客の左側(向かって右)に置き、次に四の膳、最後に五の膳を出すのだが、膳の位置は四の膳は本膳と二の膳の手前、五の膳は本膳と三の膳の手前に置く。

 料理が提供される順番は、中国では多くの場合、辛いものを先に出し、淡白なものを後に提供し、一座が料理に満腹したようであれば辛味のものを出して胃腸に刺激を与え、酒を飲み過ぎたようであれば酸味と甘みのあるものを提供するようにして、酒を醒ますようにし、順次食欲をそそるように、なるべく多量の料理で胃袋を満腹にすることを追求する。 普通、正式な宴会では、料理の皿数は大中小を取り交ぜて十六皿を出すことになっている。多くの場合にフカのヒレが最初に出され、煮物や汁物が種々運ばれ、十二番目に燕巣料理となり、その後に八方飯のような甘味(点心)が出てくる。それから皆が一時席を外して談笑している間に、席は食器やテーブルクロスを代えて、改めて四種の飯菜が運ばれてきて、最後にご飯となり宴席は終了になる。食事中には箸は卓上に揃えてべきであり、皿にもたせて置くのは無作法である。もし箸を横に置けば食事は終了ということになる。

 西洋料理はまず先にスープを出して、消化を容易にして胃の内壁に刺激を与えて食欲を増進させ、最後に野菜や果物を食べて、消化をしやすく栄養摂取できる方法を取っている。スープの後(スープの前に前菜をだすこともある)に魚料理、次に獣肉または鳥肉の冷肉料理、次に獣肉および鳥肉の焼肉、次に野菜およびサラダ、次に菓子、アイスクリーム、果物、コーヒー等がメニューの順番に従って順番にひとつずつ運ばれてくる。一皿ずつ食べ終わるごとにナイフとフォークは揃えて皿の中に入れて置くようにすれば良い。もしナイフ、フォークを皿にもたせ掛けているならば、その皿の料理はまだ食べ終わっていないことを意味する。

 日本料理の提供の順番はまったく別の方法として見るべきで、その手順が面倒であることは他に比類がない。前に述べたように、三汁七菜の場合に、本膳は右に汁物、左に飯、香の物、壺、膾。二の膳には汁物、平、猪口。三の膳には汁物、さしみ、煎酒。四の膳に焼き物、五の膳には台引である。食事が既に始まったならば、御櫃に飯を盛っておいて座敷に準備しておき、次に汁物も準備しておく。飯のおかわりを勧め、さらに汁物のおかわりも勧める。 食事が終わればまずは五の膳を片付け、次に四の膳を片付け、さらに三の膳を片付ける、三方または杯台に杯を載せてもってきて、これを本膳の前に据えて、次に銚子を持って来て御酌をした後に杯台を片付け、吸物膳を出して、二の膳を片付けるようにする。同時に二の膳にある盃を両手にもって吸物膳の客の側の左隅に移す。次に再び調子を持って来て酒のおかわりを勧め、肴を出す。お銚子を三度勧めた後に吸物膳を片付けて、湯桶を持って来て湯を勧める。湯を飲み終わった後に、蒸菓子を縁高に盛って持って来て、本膳を片付ける。次に濃茶を持って来て蒸菓子を片付ける。濃茶を飲み終えたなら干菓子を持って来て濃茶椀を片付ける。次に薄茶を勧めて以上で饗膳は終了となる。ただし今日の宴会では多くは正式の方法ではなく、茶屋風会席料理の方法で行われるようになっている。そのため大体は吸物、刺身を先に出し、終わりに味噌汁、飯、漬物となり、最後に菓子や果物、茶が出され西洋風と同じようになっている。

 西洋料理は前の述べたように、メニューに従い一皿ずつ次々に運ばれてくるので、例えて「縦の料理」と言う事が出来るのであれば、あらゆる料理を同時に客の前に配膳する日本料理は「幅の料理」と例えることが出来るだろう。

 さて中国料理は、小菜は食卓上に同時に並べられるが、大菜は順次運ばれてくるので「縦と幅を兼ね備えた料理」であると言える。ゆえに西洋料理を動的であるとすれば、日本料理は静的である。孔子は「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」言っている。「静」である日本料理に向かうと静寂閑雅としており何となく山を想像させられるが、それに対して「動」である西洋料理は活気と歓喜に沸き立つところが、自然と水を想像させられる。 そしてまた一面から見ると、日本料理は形式に走がちで、手続きが煩雑な傾向にあるのが何となく官僚的な感じを蓬髪とさせるのに対し、西洋料理は民衆的、かつ実益的であるために卑俗の傾向に進みやすく、さらに中国料理はこの両極の善悪両方面を兼ね備えていることが、ややもすれば乱雑に陥りやすい傾向にあり、風流な趣を欠いてしまうきらいがある。
 また宴会における雰囲気に関しては、中国料理は味に重きを置いているが故に、その美味によって精神を爽快にし、それが宴席の雰囲気を愉快にさせることを趣旨とする。西洋料理はまず室内の飾り立てを賑やかにして、香気の高い花を卓上に飾り、さらには音楽が演奏され、参加者は皆、正装して食卓に着き、給仕の者も燕尾服を着用する等、まず周囲の空気を快適にすることで食事そのものも美化しようとする。よって西洋料理は周囲の雰囲気によってその食を美味にし、中国料理は食の美味によって周囲の雰囲気を美化させるのである。
 日本料理は視覚的な色彩に重きを置く傾向がある。柳楢悦の書に「我が国の大饗式正の膳部を見ると、三汁十一菜あるいは九菜の料理が出され、膾は珊瑚白玉のよう、食器は琥珀瑠璃のようであり、山を模擬して花木が活けてあり、あるいは海を造って白波で覆われている。しかし讃えるところは僅かに「艶」の一点だけであって、至味の濃淡美醜にいつてはまったく問われていないかのようである」と述べている。 実際に日本料理は口を驚かすよりも眼を驚かすことに主としていると言えるだろう。よって俗に言われているように、西洋料理は鼻を主としたもの、中国料理は舌を主としたもの、日本料理は眼を主としたものであると評されるのも一理あると言える。 また西洋風では、宴会を丁重にするためには主に酒を選ぶことに注意が払われるが、中国では佳肴に念を入れ、日本では良い芸妓を揃えることに力を入れる。故にその宴会の価値を計るには、西洋料理では酒によって、中国料理は料理によって、日本料理は芸妓の数によって判断されるのである。 中国風宴会では着席に先立って主人が一人一人の客の名前を呼び、盃に酒を注ぎながらその着席を勧め、客は感謝の意を述べて着席し、席が決まったところで宴会の始まりとなる。主人からも、客からも特別に何かの挨拶は行われないのが普通であるが、もし何らかの挨拶を述べようとするのであれば三番目の料理が運ばれてくる頃に行うべきであるとされている。 日本風宴会は、客全員が集り着席してから宴会の始めに主人の挨拶が行われ、それに対して正座の客は謝辞を述べる。 西洋風の宴会では食事の終わりにのデザートに入ってから主人の挨拶があり、客もまた主人のために杯を掲げて謝意を表す。 酒宴が終わると中国では熱湯で搾ったタオルを持ってくるのでそれで顔と口の辺りを綺麗にする。西洋では指先を洗う水を持ってくるし、日本では近頃はうがい用の茶碗をもってくる。 中国の宴会では女性が同席することは全く無い。夫婦で招待を受けることがあっても、婦人だけは別室で開宴が行われ、もし同室で余興を見ながら食事をするような場合でも、男女は分けられて、その間にカーテンが引かれるか、あるいは衝立で仕切られる、日本の宴会では女性の参加は絶無ではないが、その数は比較的少ない。西洋風の宴会では婦人の数が男子と半々になるか、あるいは男子よりも多いこともある。日本および中国の宴会では主人はいつも末席に座って婦人は男子の下位に座るのであるが、西洋風では主人が常に正席に座り、婦人は男子のよりも上席を占めるようにする。

 酒を供する方法であるが、日本は主人と客の間、または客と客の間で盃の酌み交わし、中国では主客が時々に乾杯して酒を勧め、スウェエーデンではスコール(Skal)と言って乾杯し、イギリスではラビングカップ(Loving Cup)に酒を注いで飲み廻し仲間の結束を表す。お酌は中国では各自の従僕が行うが、日本では芸妓、西洋では給仕がこれを行う。日本では盃を卓に置いたまま注がせるのは無礼であるとされるが、西洋では置いたままで注がなければ無礼であるとされる。酒を出す順番は西洋風ならば着席前にベルモットまたはカクテル類を勧め(中国では茶とスイカの種等を出し、日本では茶と菓子を出す) 開宴してスープの皿を下げた後にシェリー酒、魚料理の後にワイン、サラダの前後にシャンパーニュを出し、食後にはブランデーかウィスキーのようなアルコール度の高い酒を飲む。中国では酒の順序に特に決まりはないが普通はまず紹興酒(老酒ともいう、年代の古いものは非常に高価である)を飲む。この酒は紹興府で醸造され、その味は芳醇であり飲み心地も良い。人の好みによっては粗目砂糖を添えて出すが、日本酒と同じように燗にして温めて飲むためである。この他の酒の郫筒酒ピートンチュウは四川省成都で生産されており味は極めて清冽であり、品格の高い酒であるとされている。また蘭陵酒ランリンチュウ『唐詩』にも「蘭陵美酒鬱金香、玉碗盛来琥珀光」(蘭陵の美酒は鬱金香の香りを漂わせ、玉の碗に注がれて琥珀の光を放っている)とある通り、古来から有名な酒で江蘇州蘭陵で生産されている。その色は琥珀のようで、十年以上を経ったものが特に珍重されている。その他も五茄皮といってリキュールに似た女性用の酒がある。高棃と言う泡盛に似た酒も飲まれている。日本は主に日本酒とビールが飲まれており、まれにワイン、ウィスキー等も飲まれている。

 以上三料理の取り扱い方のメリットとデメリットに関して言えば、西洋料理は大人数の大宴会に最適であり、特に立食の方法を取れば数千人でも同時に宴会を行うことが可能である。中国料理は中人数ぐらいのサイズの部屋で宴会を行うのに適しており、中人数で集まり一緒に食卓につき、団らんの懇親を行うのに最も好都合である。日本料理は小人数が適当である。配膳式であるでの非常に広い座敷が必要となるうえ、多くの給仕人が必要であり、かつ料理の風味は時間が経つと消えてしまうため大人数で宴会を行うのはかなり面倒である。



各料理の特質


 日本、中国、西洋の三料理は各々材料の範囲に広さと狭さがある。西洋料理は肉を主としていて、魚類や野菜は付属の地位に置かれている。 日本料理は魚類を主としていて、肉や野菜は付属である。中国料理は肉や魚だけに偏らず全てのものを水や火の力によって料理するため、材料の範囲は中国料理が最も広く、日本がそれに次ぎ、西洋料理は狭い。西洋人は日本の食物範囲の広さに驚き、日本人は中国の食物範囲の広さに驚くのである。(第7章 悪食篇参照)
 西洋料理では大きな塊のままで運ばれて来るので、皿の上でナイフとフォークを使って小さくし、かつ塩加減も自分の口に合うように調節できるように食卓上には塩、酢、ソース、からし等が揃えてある。 日本料理は客に提供するものは全て小さく切ってあるので、二本の箸は膳の上から食べ物を口に運ぶだけの用途であるので、膳のうえで切ったり、塩加減を調節する等の必要は無い。 中国料理でも味付けはされているが、醤油だけは各自の前に備えられている。また西洋料理のように皿の上で切る必要は無いが、小菜も大菜も料理によって取り分ける分量は、各自の自由に任せられている。 またこの三料理の関係について見れると、日本と中国はいずれも米飯に調和してた料理が発達しているが、西洋料理はパンが主に置かれた料理である。よって、膾、汁物、蒸し物、漬物等はどれもパンには調和しない。同様にバター、ゼリー、ジャムを始めボイルド、ロースト、サラダ等はあまり米飯に合わない。ただカレーライスは米に調和している料理であるが、これは本来はインドの料理であって西洋固有の料理ではない。

 煮る方法について、中国料理は火力を利用し隠れた本味を引き出すことを重視しているので煮汁が多く、長時間煮る調理で行われる。長い場合は3日3夜に渡り火を絶やさな料理もある。長く煮るのは肉を軟らかくするのが目的のひとつである。西洋料理は、肉の内に味を保ち、外に逃さないようにするため、焼き物の多くにはレアの部分を残す。西洋料理の書物には、肉を煮るのに1ポンドにつき10分以上は煮るべきでない、ただし豚肉だけは15分間と述べている。これはかなり短く煮て、肉の自然の柔らかみを保とうとする目的に他ならない。日本料理は味を肉に保せようとか、また味をスープに引き出そうとするものではない。風味または滋味と言われるものに好み、それを料理の極致であるとする傾向があるので、汁物は長時間煮込むようなことはしない。この点、中国流の本味とは少し標準が違っているようである。この風味とは洗練された生鮮味であって、感覚的なものからわき起こる心花の境地とでも言うべきものだろう。

 日本料理は魚の生食を重んじるので、料理に刺身がなければご馳走は成り立たないと考えている。西洋人は野菜の生食を好み、パリの季節ごとの生野菜料理は世界的に有名である。中国は魚も肉も野菜も乾物を好んでおり、長時間煮込む料理法によってつくられる料理が得意であり、料理で生食することが3つの料理中で最も少ない。 古代中国には魚を生食することは全く無い。膾を魚で作るのは戦国時代の王𨶬閭から始まった料理であり、『呉越春秋』には

 子胥歸呉,呉王聞三師將至,治魚為鱠,將到之日,過時不至,魚臭。須臾子胥至,闔閭出鱠而食,不知其臭,王復重為之,其味如故。呉人作鱠者,自闔閭之造也。

とある。 現在でも中国人の作る膾は、魚の種類は鯛、鮒、すずき等の4~5種類のものに限られている。膾の作り方は野菜類の取り合わせ等、かなり念入りであり、日本人のように魚を刺身にするだけで生で食することは絶対しない。 小野蘭山はその著書である『本草啓蒙』で「本邦の膾では菜菔越瓜に類を細く切って魚肉に混ぜてはいけない。膾は魚肉だけで酢をかけるべきである」と論じているが、これは蘭山の間違いである。なぜなら中国の魚膾の作り方として、『本草會纂』(本草綱目)によれば「凡諸魚之鮮活者、薄切、洗盡血腥、沃以蒜、齏、薑、醋五味食之」(新鮮な魚を薄く切り、その生臭さを取り除き、ニンニクに漬け、生姜、酢であえる五つの調理工程によって食べる)とあるからである。

 また『居家必用事類全集』には「魚不拘大小鮮活為佳。去頭尾肚皮薄切攤白紙上晾片時。細切如絲。以蘿蔔細剁布紐作米薑絲少許。拌魚鱠入堞。飣作花樣。簇生香菜芫荽以芥辣醋澆之」(魚の大小にはこだわらないが新鮮なものが良い。頭と尾と内臓を取り去り、薄切りにして白紙の上に広げ、その細切りは糸のように細くする。大根をかつら剥きにして細く切り、魚膾を混ぜ入れて花模様に飾り、香草、芥、辣、酢をかける)とある。
 獣肉の膾は古来からあり、『周官』『禮記』等に記されている「漬」とは牛の膾のことである。また酢を好む者は、生食を好むと言われているのはその通りであって、それを証明するように日本人は酢を最も多く酢を使う。西洋人は日本人に次いで多く、中国人は最も少ない。日本では酒粕で造った酢を最上としているが、西洋酢(ビネガー)はロンドンでは白ワインから造られており、パリでは麦芽(モルト)から造ったものが有名である。

 古代の中国には酢が存在していなかったため、梅で酸味の代用としていた。『尚書』には、調味のことが「塩梅」と書かれており、これは宋の高宗が賢臣であった傳説という人物に命じた言葉である。羹を調理するのに塩が多過ぎれば塩辛く、梅が多過ぎれば酸っぱくなる、丁度良い中間の塩梅によって味を調味するようにとあることから、この当時は塩と梅で調理が行われていたことが明らかである。現在の中国人の製造している米と黍とを原料とする酢は中世以降の発明である。
 『學齊佔畢』という書の中に「古書九経(易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)には酢の文字は無く、酸味をあらわすのは醯だけであるが、漢の時代に至って始めて酢の字が出てくるようになる」と説明されている。 酢の製造は恐らく漢以降の時代からである。或る書に、晋の劉伶の妻が夫が大酒飲みであるのに閉口して一策を案じ、醸酒の際に辛辣な青梅を投じて酸味を生じさせて、酒を制限しようとしたという。後の時代の人はこれが酢が造られるようになった起源と考えたが、それは間違いである。青梅を美酒に浸して作る梅酒は既に周代から造られており、また『周禮』に記載されている「醷」うめざけは周代から用いられており、また『周禮』に記載されている「醯」も梅の汁で酸味を付けた汁物である。 酸味の強いものでは我が国に梅干があり、西洋にはピクルスがあり、中国には乾梅、白梅があるが、これらは日本の梅干には及ばない。梅干しは近年、朝鮮、満州、アメリカにも輸出されるようになり、日本から移民した人々の需要だけでなく、外国人もこれを好む人がいるようである。『周禮』に「䕩」とあるのは乾梅のことで、古代から中国では食べられていた。

 塩味は、西洋では食塩を使い、中国料理では醤油と塩とを混ぜて使い、日本料理は主として醤油を使うが、汁物には醤油と食塩とを混ぜて使うこともある。

 油は、西洋料理では動物性の油が使われ、中国料理では植物性の油が多く使われる。日本料理は油の使用が最も少ないが、それでも使う場合は植物性の油が使われている。

 補助味としての出汁は西洋料理も中国料理も素材そのものの味(本味)を重んじているため、通常は用いない。もし用いる場合は西洋料理は牛のスープを使用し、中国料理では多く鶏スープを使用する。補助味の使い方に関して、中国料理ではかなら注意が払われて行き届いており、本味が薄く、独立して味が出しにくいものでも、なるべく性質が近いものを補助味として使い、味を厚くする手法を取る。例えば椎茸を煮るときはキノコの出汁を利用するとか、蓮料理に蓮の葛ををかけてその味を補助するような使い方である。 故に、本味を損なうことなく上手く味を厚くするようにしなければならない。補助味の乱用は日本料理に最も多く見られ、あらゆる料理に鰹節、昆布の出汁または味の素の類を使用することで、かえって本味を乱して味を混濁させる傾向がある。酒を調味に使うのは中国が最も多く、日本がこれに次ぎ、西洋料理は少ない。砂糖は西洋も中国も点心、菓子を除いて、それを料理に使うことはかなり少ないが、日本料理は砂糖を使うことがかなり多く、この点に関しては日本料理はインド料理と似ていると言われている。

 材料の組み合わせに関しては、中国料理はいわゆる清者に清を、剛者に剛を、柔者には柔を合わせるという原則に基づいて、互いが主張しすぎて、互いの良さを打ち消し合う弊害を避けて、素材のもつすべての本味を引き出し、良い相互作用を起こすことが出来るように、濃厚なもの、新鮮なものや淡白なものすべての短所を取り去って、長所を活かすような塩梅を施すことが巧みである。『本草網目』にも『食物會纂』にも、中国の博物書には食品のすべてに医学的効用の説明の無いものがない。食品は薬物であり、薬物は食品であり、食品と薬物はひとつであり、それぞれ別個のものではないという思想は古来から中国人の頭を支配してきたものである。したがって料理の献立は薬物調合の処方箋と同じ心構えをもって組み立てられている。中国料理は今でもなお食忌、食べ合せ等がかなり厳しく定められている。日本でも唱えられている食忌も中国から伝来したものが多い。

【 備 考  一 】
 塩の起源に関しては明らかでない。我が国では『日本書記纂疏』伊弉諾尊イザナギノミコトの子である鹽土老翁しおつちおじが海水を煮て鹽を造り、鹽の神となったとある。中国では『世本』に「宿沙氏が海水を煮て鹽を作った」とあり、『宋衷』には「宿沙衞は齊の靈公の下臣であり、齊国が海に近いため魚鹽による利を得た」とあり一説には、宿沙氏は炎帝の時代の諸侯であったともしている。また『唐韻』にも「古宿沙が初めて海水を煮て鹽を造った」とある。思うに海水を煮て塩を造るのは有史以前から知られていたことではないだろうか。

 これに対して砂糖の起源はかなり明白である。最も早く製造されたのはインドであり、アレキサンダー大王の時代にインドからヨーロッパに輸入されたという記録が残っている。甜菜糖は1774年に果糖、ブドウ糖、麦芽糖は19世紀の初期に何れも発見され、サッカリンは1879年にアイラ・レムセン(Ira Remsen)氏によって発明された。

 中国に砂糖が入ったのは唐時代であるとされている。『老學庵筆記』には、太宗の時代に外国から奉献され、その使者に質問してサトウキビ汁(甘蔓汁)を煮たものである事を知り、これを煎じたところ外国からきたものと同じ砂糖が得られた。これをもって中国に始めて砂糖が存在するようになったと言える。我が国は、始めの頃は中国から輸入していたが、享保12年に幕府がサトウキビの栽培を推奨するようになり、寛政年間に高松藩主の松平頼恭まつだいら よりたかが始めて砂糖の製造に成功した。

【 備 考  二 】
 中国の豆腐作りは漢の淮南王であった劉安から始まり、饅頭は三国時代に諸葛孔明に始まる。いずれも朝鮮を経て日本に伝わったものである。『清庖厨全書』に( ※ 出典先のオリジナルは『事物紀原』九巻には 饅頭 の起源について

「諸葛武侯之征孟獲也人曰蠻地多邪術須禱于神假隂兵一以助之然蠻俗必殺人以其首祭之神則嚮之為出兵也武侯不從因雜用羊豕之 肉以包之以麵象人頭以祠神亦嚮焉而為出兵後 人由此為饅頭至晉盧諶祭法春祠用饅頭始列于 祭祀之品而束晢餅賦亦有其說則饅頭」
饅頭 は諸葛孔明に起源があるとされている )

と掲載されている。



茶屋風会席料理について


 現在、我が国の宴会は本膳式がすたれるようになってから久しく、今では多くが茶屋風会席料理によって行われるようになっている。この料理は日本古来からあるスタイルではない。その起源は文化・文政の頃(1804年~1829年)、江戸に茶漬茶屋と称する簡易料理店があったのに対して、普通の料理店が会席料理という看板を掲げたことが起源である。その料理スタイルは茶懐石料理と袱紗料理の中間の様式で、半会席と名づけられていたもので、通常は汁の他にも、膾、付合、茶碗盛、平および大猪口に香の物を添えたほぼ一定の献立であり、その当時は無上の贅沢とされたものではあったが、その後、時代の変化よって次第に変化して、現在ではかなり乱雑で、無秩序なものとなってしまっている。晩餐会などに招待されても、晩餐とは名ばかりで、芸妓と戯れて酒に興じることが主目的になっていて、その間には各自が人間性の現実を無遠慮に暴露し、礼儀を廃することでのみ、交際をして親密になれると思っているかのようである。このような会合が頻繁に行われている「待合」という場所は、そこで芸妓を養っている訳ではなく、ましてや割烹など食事の準備を行っている訳でもない。何らかの独立したサービスを自分たちで持っている訳ではないのだが、あらゆる他にある外部のサービスを利用して、お客の注文に対して満足を与えるところに特別な妙がある。 食事をしようというのであれば料理店となり、宿泊ということであれば旅館になり、芸妓を呼ぶならば妓楼になり、会議で利用するならば事務所となり、クラブの代りにも、演芸場としても利用出来なくもない。「待合」は西洋にも中国にも類例のない、日本だけの特有のサービスなのである。
 本来、日本流の食事は本膳式であっても茶懐石であっても、すべて肴はご飯に添えて、ご飯と一緒に味わうものであるのだが、茶懐石料理の宴会では、ご飯はまったく無視されて肴だけが提供されるので味の配合を欠いてしまい、心が満たされることもその真意を得ることも出来ないのである。 その上、西洋風をまねて一皿づつ運んでくるために、皿や肴に順序もなければメニューの準備もない為、料理の種類や品数も前もって知る手立てがなく、ただ料理が来るのに任せるしかないので、先に空腹を埋めてしまっては、後から好物が出てきても満腹で食べられなくなるの心配もあり、せっかく宝の山に入りながらそれが得られないという感じを抱かされることもある。特に料理はかなり離れた料理店から運ばれてくるので、温度も味も無くなってしまっていて、客はいたずらに味の出涸らしをしゃぶっているだけとなっている。また調理人や、給仕人の都合によって料理が運ばれるタイミングが中断させられるので、膳のうえには料理が無く、酒杯だけが並んでるという事がある。こうした手持無沙汰はとにかくとして、料理と料理の間の時間が長すぎては腹加減のペースに不調をもたらすので不愉快であること限りない。試しにご飯を注文してみると、本来は飲酒遊興の為の場所なので、女中も芸妓もご飯を注文するような野暮な客に取り合うものは一人としていない。座敷は芸人の余興、芸妓の手踊り、お客の旦那芸で演芸場と化しており、タバコの煙はもうもうと室内にたちこめ、ほこりと菌が膳上に降り積もっている。あちらに酔狂の客がいれば、こちらには酔って倒れている客がいる。あたり一面に杯や皿が散らかっている酒宴の中で夜を撤すると、結局は食事が無くなるか、もしくは開宴から数時間後からということになってしまい、決まった時間に食事を取る習慣の人には迷惑なこと、この上ないのである。

 このように食事をほとんど無視した宴会ということになると、料理の数は普通の食事の3倍から4倍にもなり、品数と種類だけが重視され、料理の香味には全く注意が払われないので、これらは奢侈と虚栄と不真面目の集積となってしまっている。 こうして得られるのは気分の爽快さではなく、食味の満足感もなく、困憊こんぱいし、不愉快になるだけのことである。食の美味に注意を払う人、食事の時間を守る人、飯と肴の調和を求めている人にとって、こうした宴席に参列することは大きな苦痛でしかないので、招待を受けても辞退しようとする人が多くいるのも当然だと言えるだろう。

 本来、西洋のディナー(Dinner)と日本の茶懐石料理はその精神において一致しているところが少なくない。客の組み合わせに注意し、客も主人も作法を守って非常に奥ゆかしい点も一致している。茶道では、その土地の産物で季節のものを第一の珍味とし、その品数も一汁二菜か、多くても一汁三菜に限られている。西洋のディナーもスープと魚と肉の3皿だけであり、どのような盛餐でもこれで十分であるとして豪奢と浪費を嫌う点も同じである。またディナーで最初からパンが出されるとの同じように、日本の茶懐石も始めからご飯が出され、酒飲みは酒を飲み、下戸は勝手に食事をして自由に振る舞えうようになっているので、女性でも、男性でも、下戸でも、上戸でも一緒になって楽しく宴席に参加できる点もまた同じである。日本の茶懐石は、室町時代以降、400年間渡って発達してきたものなので、我が国の風習、特に家屋の構造や服装などに良く適した方法である。その複雑繁多な手続きで現代には適さなくなった部分は省いて、その精神とコンセプトだけを採用して、現代の日本式宴会として改善を行ったことは非常に素晴らしいと思われる。

 古来中国においても宴席がとにかく酒呑み達に占領される傾向にあったと見え、下戸達はひどく憤慨し、酒呑み達を罵っていたようで、次のように言っている。(『随園食単』)

 「味之善悪惟醒人能知之、惟酒是務焉知其余,而治味之道掃地矣」

【 訳 文 】
 正しい判断力が出来るのは醒めた人だけであり、味の良し悪しも醒めた人だけが理解できる。いわゆる、「酒を飲んでいるのに、どうしてそれ以外の事を気にとめるだろうか」(アンダーラインの箇所は竹林の七賢のメンバーであった劉伶の『酒徳頌』からの出典)という事である。これでは料理の道は地に落ちてしまう。


 この両派の衝突に対して遠随園は『随園食単』のなかでひとつの結論を下して次のように言っている。

 「萬不得已,先於正席嘗菜之味,后於撤席逞酒之能,庶乎其兩可也」

【 訳 文 】
 やむを得ない場合は、まずは宴会の場では料理を味わい、その後に席を立って程よく酒を飲むようにしたならば、両方とも好都合ではなかろうか。


 以上の点からまずはその優先度がご飯にあるべきであると言えるだろう。日本の茶懐石料理は前に述べたように、主人の一応の挨拶が終われば客は自由に出来るので、上戸は酒を何杯も飲んでも良いし、下戸は自分で食べ物を食器に盛り勝手に食事ができるので、随園の述べている結論の趣旨と一致している。また西洋料理も、下戸はパンや肉を食べ、上戸は酒を飲むのに適している。食事の終わった後には喫煙室には酒の用意があるはずであり、飽きるまで飲んでも差し支えはないだろう。
 古代ギリシャの饗宴の様子をプラトンの『饗宴』(シンポジウム)に見ることが出来る。その中の一節に「さて一同が共に食事が終えると、そこで灌酒礼が行われ、神への讃美も唱えられ、その他の慣行の行事が済んで、いよいよ酒宴にへと移る」とある。古代ローマでも酒宴は食事の済んだ後で開かれていたようであるので、古代の日本と同じである。こうして酒党も食党も共に満足することが出来る仕組みになっていた。結局、西洋のディナーも、日本の茶懐石料理も、随園の酒食両立論も、その最も意図するところは一致しているのである。そしてこの一致している意図を全く破壊して顧みようとしないのが、現在の日本式茶屋風料理の宴会なのである。

【 附 】
 我が国には前に述べたように正式饗膳、茶屋風会席料理の他に、服紗料理、普茶料理、卓袱料理等の種々の異なった料理がある。茶屋懐石料理とは客を茶室に招待して、まずは酒食を提供し、後に濃茶と薄茶を提供する儀式を言う。 この儀式はかなり煩雑な手続きを必要とするのですべてを詳しく述べるのは茶道の研究に譲ることにし、ここでは簡単にその料理だけに関して言うと、料理はなるだけ念入りであることを避け、融通を効かすことを主としているため、普通は一汁三菜を基本とする。あるいは一菜を減らして一汁二菜とすることもある。

 膳は脚のないものを使い、器物は汁と平皿の他は全て陶器を用いる。まず膳に飯、汁(味噌汁)、向(膾または刺身)を置いたものを、主人自ら運んで、上客から順番に配る。主人の挨拶があれば客は一同にまずは飯椀の蓋を取って、次に汁の蓋を取り、いずれも右側に置き、箸を取って汁を飲みご飯を食べる。この時は汁もご飯も各ひと口ずつ盛ってあるだけである。箸は一度口に入れたものは必ず左に置かなければならない。やがて客の数に応じて塗物の盃を取り、上客から順番に主人がお酌をする。一回りして、今度はご飯の器を持ってきて客の前に置くと、客はかならず主人に向かって「おまかせあれ」と言う。主人はそのまま御櫃おひつを置き、盆を出して汁物を替え、さらには脇取盆に煮物(平)を入れて運んで来て、次に焼き物を出す。それで三菜である。焼物は頭と尾の付いたものを用いず、必ず切身になった骨を抜いたものを出す。

 香の物は、これを入れた器を客の前に置くと、客は一人分ずつ飯椀の蓋に取り分けて廻す。この時にご飯を一杯に盛った御櫃おひつを持ってきて、汁物のお替りの為に盆を出す。やがて燗で温めなおした酒が運ばれてきて勧める。客の挨拶ののち主人は勝手口でご飯を食べ、この間に客は互いに酒をすすめ合いながら上戸は杯を重ね、下戸は自分で盛ったご飯を十分に食べる。

 客の飲食が大体終わる頃に、主人が出てきて、盃を運んで来て、飯椀とお銚子を片付け、すぐに吸物を持ってきて煮物椀を片付け、さらに取肴を出す。取肴は何と言っても季節もの、またはその土地の名産などを出すのを誇りとする。通常は魚と精進物の2品とする。 ここから酒盛りとなり、程よい頃に、客の方から酒も飯も十分であればお湯をお願いし、主人が盃を下げて湯桶を出す。湯を飲み終わると、座中の食器類が片付けられて、蒸菓子を出して、これで酒食は終了となり、客は一応、待合室に移動して洗面所を使い、喫煙などをして歓談する。これを中立なかだちと言う。ここからは後入れとなり、元の部屋に戻り、濃茶手前、薄茶点前となり、種々の儀礼があって茶事は終了し解散となる。

 服沙料理とは江戸時代の諸侯が互いに行う饗宴の時に、本膳の後に勧める料理であって、本膳を片付けて(第二節参照)濃茶薄茶を勧めて一段落を告げれば、賓客はかみしもを脱いで、服沙袴になって庭を散歩し、席書せきがき等を見る。この時に菓子や銘酒を勧めて、後に服沙料理の饗宴となる。つまり略式料理の意図があり、膳には多くの鯉の生づくり、大平、鍋焼きようなものも用いられている。現在でも地方によっては、宴会後、別席に酒販の用意をしてある所がある。これは服沙料理の痕跡である。

 普茶料理は中国から伝来した精進料理である。主に黄檗の寺院で行われていたので別名、黄檗料理とも言う。もてなしに酒を出さず、茶を酒の代用とするのを普通とするので普茶料理という名がある。中国風にひとつの卓を取り囲み、ウールで織った六角形の座布団に座って、配膳を使わず、料理の出る順番は、先ず煎茶を出してこれに、
一、口取(大平糖)とか小皿(梅干しのかけらを楊枝を添えて)を添え

次に、蒸菓子
黄檗饅頭といって新小豆を漉餡にしてこれに炒めたゴマを入れて、鍋に油を引き、先の餡を炒めて鍋から下して、砂糖と塩を混ぜ、小麦粉を捏ねて包んで蒸した饅頭である。

次に、菜籠
これは我が国の重箱で、この中に芋羊羹、マルメロまたは龍眼肉リュウガンニク、香橙の類を入れる。

次に、羹菜
これは重のものであり、思案麩、青昆布、白柿。

次に、饗菜(大菜皿)
黄飯、ゴボウ、長芋、氷豆腐、小菜皿(寒天、ブドウ、栗)猪口(オランダ味噌)羹菜(專菜じゅんさいと小豆の砂糖煮)

最後に、蕎麦
汁注、籠母屋鉢(葱、大根の蒸し物)瓶、香盆(猪口、椀、匙)蓋瓶、蒸籠(そば)薬味(唐辛子、大根おろし、海苔、柚子、陳皮、シソの実)

を出して、もてなしは終了する。

 卓袱しっぽく料理とは中国料理で使う卓から名前を取ったものである。お膳の代わりに卓を使うことは黄檗料理と同じで、椅子に座って飲食を行うのが普通である。絹の刺繍のあるテーブルクロスを使い、そこに食器を並べて4人を定員とする、大人数の場合は卓の数を増やす。料理は大菜小菜に分け、大菜は通常5種または7種とし、小菜は通常7種または8種とする。大菜は大椀と言って、一皿づつ順番に提供が行われる。小菜は小皿に盛って提供される。料理の配置はおおむね次のようになっている。

 一、大菜皿 卓袱の中央に据えて酒瓶も出す。

 二、小菜皿 卓袱の隅に置き、以下3皿も同時に出す。
   小菜皿
   小菜皿
   小菜皿

 三、吸物 各自別々に提供される。

 四、中鉢 卓袱の中央と一墨の間に置く。

 五、口取皿 同上

 六、中丼 同上

 七、茶碗 適宜の位置

 八、小菜 同上

 九、吸物

 十、大菜鉢

 十一、御飯

 十二、薄茶

大体このような順序である。献立は中国料理と日本料理の混合であり、一種の長崎料理である。込み入っているため、ここでは説明を省く。



日本料理に関する苦情


 西洋料理も中国料理も、深く詮索するなら欠陥が少なくはない。中国料理は油が多く優雅さに欠け、西洋料理はあまりに単調で変化に乏しい。かつ西洋にも中国にも俗な料理人は少なくない。西洋料理には細かい点にこだわり過ぎるものが多く、中国には味が混同しているものが少なくない。 いずれも非難の種が尽きることがないが、とにかく西洋料理は衛生の上に立脚し、中国料理は味覚に立脚していることが、ほぼ一貫した主旨であることが理解できる。 しかし日本料理に関しては、食味においても、栄養においてもその明確な主旨を見出すことが出来ない。風味または滋味は日本料理の特徴であるものの、これだけを取り上げて滋味の本流であるとまでは言い難い。古来から 大草流四條流 と呼ばれている料理法があるが、これらは余りに形式儀礼に偏ってしまい、その結果、内容が空洞化していることもまた日本料理の問題のひとつの原因である。 さらには気候の関係により淡白な、渋味または風味と呼ばれている嗜好だけに注意を払うため、味の深みを逸してしまっている事もその原因である。他にも魚鳥類による天の恵みが多く、かつ大陸産に比べれば素材の持つ本来の味が優れているゆえに、かえって素材の力を軽視してしまっていることにも更なる一因であると言えるかもしれない

 とにかく料理に小手先の細工をほどこして外見の良さだけで注意を引こうとするご機嫌取りの痕跡が多い。さらにそこに鰹節や砂糖のような補助味によって味を加えることで、かえって本味を乱し、混濁させてしまっていることも少なくない。例えば甘味と苦味を混合すればその味は互いに相殺してしまい、どちらの味も感じられない無味の液体となるように、補助味の乱用は本味の真を失わせ、補助味の長所も無効にしてしまうのである。すべてこれらは我が国の料理に通して見られる弊害である。むしろ味は活き物であり、物質と金銭だけで成り立つものではないことを知っていなければならない。次に実際に現在で最も多く使われているもののうちの2、3の実例を挙げて、説明のための資料として述べる事とする。

【 備 考 】
 魚鳥獣の動物類は大体において、日本産の方が大陸産のものより優れていて、その味は繊細である。野菜果実などは大陸産のものの方が優れており、その味は非常に甘美である。米は日本の誇りであり、日本米の方が美味であると信じている人が多く、男爵の益田孝氏も『日本米』と題した著書を発行して、日本米は世界一であると論じているが、実際は必ずしもその通りではない。中国の揚子江州域の上海付近のものは日本米よりもいっそう優良であるとされているのである。またインドのピハル地方、つまり古代の摩喝陀マガダ国(現在のビハール州)のもの、およびインドのパーヤ米は世界一であるとされている。玄奘伝げんじょうでん』(大唐西域記)には「西域に王舎城大人米がある。香百歩の外に達す。惟比国にだけある」と記され、『事物紺珠』には、摩喝陀国で産する大人米は粒が大きく、紫色である、これを食べれば人は髪が黒くなり長寿になるとある。中国の古書に共城の香稲は稲のなかで第一であるとある。ただし共城はいまのどこの州かは不明である。


一、スッポン料理
 東京、大阪、京都の高級料理店には欠かせない食材である。ただ多くのあつものは鰹節と昆布の煮出汁(時によっては鶏の汁)に鼈の肉と卵を入れただけで、鼈の風味や香気は全く無い。こうした店の鼈のうま煮と称するものは、鼈の肉を茹でて臭気を抜いてから、鰹節、味の素で味をつけ、葛をかけたものであるので、これは全くの誤魔化し料理である。一般的に殆どの料理店は鼈の品質に関しては何の知識も無く、養殖品または朝鮮あるいは中国の輸入品を使用している為に、贋者の煮出汁で上辺を装っているだけであり、客もまたこれらの贋物の汁を、鼈の羹と信じ込んで賞味している様は笑止千万である。きっと鼈の方もしかばねとなってもなお、自分よりも下等な鰹節によって粉飾された侮辱を訴えていることであろう。料理法、捌き方等は、鼈の部で説明を行うのでここでは省略する。(善食篇参照)

二、鯛のアラ煮
 アラ煮は骨や頭、ひれ、内臓等、魚のアラい部分を荒く煮るという意味であって、その雰囲気は男性的で軟弱さや繊細さを嫌うのである。ゆえに砂糖を使わず、なるべく醤油の使用も避け、強火で塩だけで煮て、短時間で鍋を火からおろす。
 普通の料理店の荒煮は、まず魚の洗い方の注意が十分に行き届いていない為、頬の辺りには鱗の取り残しがあり、唇の周辺や口腔内には粘液が残っている場合がある。それに加えて砂糖の甘味を味付けしてあるので、鮮鋭の気は失せていて、はっきりしない味に臭みまでが加わって、その風味は耐え難いものとなる。「なるべく人工のものを避け、自然に従え」とは全ての料理に適応すべき原則であるが「至簡而愈々見其美」(究極にシンプルさを追求すれば、いよいよその美が見えてくる)の表現は、荒煮には特に適切であると思う。

三、ウシオ汁
 ウシオ汁は漁師が漁船の中で醤油を準備していなかった為、潮水をそのまますくって魚を煮たことから始まったもので、これも同じく荒味と磯の香りを含ませておくことが必要である。ゆえに醤油を避けて、少なくとも5時間以上は塩をしておいた魚に付着した塩だけで、味の加減を定めなければならない。海藻をいれても良い。味に原始的な雰囲気を出す事に注意しなければならない。しかし料理店でウシオと言っているものの多くは、一時間ほどの短い時間だけ塩を撒いて置き、魚を水で丁寧に洗い、塩と醤油を入れて味を付けて舌あたりよく調理してある。これが酷いのになるとこれに鰹節や昆布の出汁を入れたり、あるいは糖分を加える等して、せっかく苦心して作り上げようとしている簡素な鮮鋭さの趣を破壊しているにもかかわらず、その事を気にも留めようともしていない。さらに一層酷いものになると、魚の煮出汁を捨ててしまい、後から鰹節、昆布および砂糖で作った汁を仕立てて、これに先ほどの魚を入れてウシオと称して客に提供するものすらあるが、これは本当に論外である。この料理にもまた至簡而愈々見其美(究極にシンプルさを追求すれば、いよいよその美が見えてくる)の原則を適応するのを忘れるべきではない。

四、茶碗蒸し
 茶碗蒸のフタを取れると、表面が割れて蜘蛛の巣のようになっていたり、鰹節の乾燥した日向臭いにおいが鼻を突いて、ふんわりとして優しく柔らかな風味が全く消え失せてしまっている事がある。これは火加減に注意を怠って強火で短時間に手早く蒸したことに原因がある。中国人は蒸し物は得意だが、それは「燻」の字に当たるものに対してである。『庖厨全書』に「燈火蔵物令熟」とあるように、とろ火で蒸しあげる事が大事なのである。次に鰹節の出汁を卵に混ぜる事は差し支えないが、卵は本来であれば自身の味がかなり薄いものなので、味の厚い具材を組み合わせて、長い時間をかけてゆるやかな火で蒸して、材料の味を引き出すことで卵と味を融和させることが出来る。ゆえに茶碗蒸しは、中の具材を食べる事が目的なのではなく、具材の味を含んだ卵を味わうことが目的なのである。
 料理店の茶碗蒸しは、卵の味は鰹節で取るものであり、具材は卵に味をつける為のものとは考えていない。火加減にも材料の選択にも全く無頓着である為に不出来なものになってしまうのである。本味の厚いものはその本味を尊重し、他に補助味を加えるべきでない事はすでに所々で述べているが、茶碗蒸しというものは、卵の薄い味を、他の具材の厚味によって補助すべきものであることを理解しておかなければならない。故に厚味にするための材料として、鰻、雉子または鶏、椎茸、栗、銀杏、ユリ根等を配合するのが良いのである。ただし具材に水鳥は良くないので、なるべく山禽を使うようにすべきである。これは吸物の汁に、水鳥を避けるのと同じ理由で、その色を混濁させない為である。椎茸はその年の新しいものに限る。もし古いものを使うならば日なた臭によって、香味が損なわれるからである。松茸の季節には椎茸の代わりに松茸を使っても良い。

五、鮎の塩焼き
 町中の料理店の鮎の塩焼きには香味が無く、疲れたような味になっているものが多いのは、火加減に注意が払われていないからである。塩焼きは強い火で手早く焼き上げなければならないのに、弱火で長い時間をかけて焼く為である。他にも塩焼きには清鮮な感じが無くなって塩漬けの鮎の味に似てしまっているものも多い。これは塩をふりかけてからの時間が長すぎるために味が変わってしまっているからである。塩焼きは火にかける時に塩をふるものであるにも関わらず、早く仕事を済ますために2、3時間も前から塩をふって置く為に味が変わってしまうのである。また若鮎と言って5、6月頃の稚鮎を珍重する風潮があるが、これもまた間違いである。その頃の鮎は水分だけが多く、肉も腸も味がまだ乗っていないだけで無く、海から川に入って間もないのでまだ動物類を餌として取り込んでいる時期である。よって鮎特有の香気がまだ無いのである。鮎は動物食を止めて川の石苔だけを食べ始めてから香気が出てくるのである。そしてその香気は腸のなかから発するものなので、鮎の貴重なところは腸にあると言うべきだろう。試しに海の中でまだ動物食を行っている稚鮎を食べてみると、海魚のイカナゴまたはイワシの子と味が少しも違わない。そうであれば初物食いの好奇心からならばとにかく、味について言えば若鮎は食べるべきものではないのである。
 鮎は土用に入って20日間をシュンとするので、まずそれを8月の1ヶ月間のものと見おけば良いだろう。しかしながら料理店はそのシュンの時期に頓着が無く、5、6月頃の若鮎を有り難たがる。さらにはシュンを過ぎた9月10日の子持ちの鮎を珍重する風潮もある。しかし鮎が卵を持つようになればその味は衰え始める。特にサビ鮎または落鮎と呼ばれる産卵後のものは不味くて到底食べるのに耐えられたものでは無い。また塩焼きで腸を取り除いたものが多くみられるが、これは香魚の真髄を抜き取っているのと同様であり、独特の風味を失なってしまっていることになる。さらに腸の苦みと、その滋味は一種の防腐剤の役割も果たしている。鮎の身は柔らかく腐敗しやすいが、比較的、夏でも長持ちするのはこの腸が内部から防腐作用を及ぼしている為である。普通の魚類ならば腸から腐敗が始まるのだが、鮎だけは逆に腸に防腐の特徴があることに、鮎に対する天の恵みを見る事ができる。その香気と渋味と苦味が、淡白生鮮な身の味に調和して、鮎の真の味をなしている。この大切な腸を取り除くような事は、天の恵みを無視し素材の力を侮辱したものであることは否定できない。こうした理由から、もし鮎の腸を嫌うような人がいるのならば、焼き終わった後に腸を取り除けば良く、決して焼く前に取り除いてはならない。なおその焼き方、およびその他の料理法については魚類篇の鮎の部で述べる事とする。

 その他、マナ鰹の味噌漬けについて言うと、これはもう味噌漬けと言うよりは味醂漬けである。生魚と甘味の不調和によってもたらされる独特の感じは、臭覚、味覚にかなり不快である。蒲鉾は味醂と砂糖で固められ、肴と言うよりも菓子に近く、卵焼きは砂糖で味付けされ、洋食の食後に出される洋菓子に似ている。
 サヨリやイワシの干物は味醂に浸して干してあるが、特に暗黒色の不自然な色合いのものは見るからに不快感を抱かずにはいられない。甘味とカビの臭いに包まれたものは不味く、ほとんど食べるに堪えられない。サヨリは本来は干物に適していないが、新鮮なイワシは干物に適していて高知や大分産の上等のものの鮮味は大変に貴重である。すべての干物には塩が唯一の調味であることを理解しておくことが肝要である。さらに塩は魚類と特有の調和性を持っているので、魚の臭みを失くしかつ味を引き出す効用があることも知っておく必要があるだろう。

 すべての煮物に、砂糖、鰹節を絶対に使ってはならないと誤解してはならない。時と場合、物と品によってはそれらを使わなければならないこともある。例えば野菜に味を付ける場合、あるいはうどん、そば、とろろ等の出汁を使う場合は、鰹節が最適であるが、場合によっては出汁が適している場合もあれば、そうでない場合もある理解する必要がある。つまり野菜の天麩羅を食べる場合は、鰹節の煮出汁が適しているが、魚類の天麩羅には生海老の出汁が最適なのである。エビの天麩羅を作る時には頭部を切り取り、その身の部分だけ調理するが、その切り取った頭部も捨てず、これで出汁を取れば非常に上味で料理に最適であり、廃物利用も出来るので一挙両得である。 また干蝦の煮物汁は日向臭くなり、その味も生エビには及ばなのだが、こうした場合は砂糖を使用する場合もある。あるいは焼き魚を煮る場合、あるいは肉類の煮込みの時には、相当の砂糖を使っても良い。口取物、または菓子を作る場合等は、思い切って糖分を強くするべきである。甘いものは甘くしなければならない。口取料理とは硯蓋物すずりぶたものの事であり、硯蓋に盛られた特別料理は甘味を強くしても良く、多少の技巧や細かい作り込みも差し支えないとされている。その例として河豚のはんぺんと、鵞鳥の肝の焼き料理の例を以下に挙げておく。

一、河豚ふぐのハンペン
 新鮮な河豚を選び、腹を裂いて内臓を取りだし、良く洗って血液を除き、皮を剥ぎ、三枚におろして、肉だけをすり鉢に入れて摺り潰す。他方、自然薯の上物を選んでトロロのように摺ったものを河豚と混ぜて、さらに良く摺り合わせ、これに卵と砂糖、酒、塩を入れて裏ごしにかけ、型の中に平たく伸ばして蒸籠に入れ、10分間位で蒸し上げる。河豚の白色を保とうとするならば、山芋は灰汁のないものを選び、卵は卵黄を除いて白身だけを入れるようにする。
 自然薯は土の軟らかい所、または砂地で取れるものは良くない。岩石で厳しい場所で取れたものか、赤土の粘土の場所で出来たものを良い。
 ハンペンの材料は河豚以外の魚ではエソ、鯛、平目等で作るのが良い。砂糖、酒を使い、味醂を使わないのは、なるべく色を薄くする為である。

一、鵝鳥ガチョウの肝の焼き料理
 鵝鳥の肝臓を集めて、これを摺鉢ですり潰して、その中に肝臓3個につき鶏卵の黄身を2個の割合で入れて、さらに摺り鉢でよく練り混ぜ、塩と砂糖を十分に混ぜてから裏ごしにかけて、丁寧に漉して筋や繊維を除いて、平たい容器に入れたものを蒸籠で30分程蒸す。次に油を塗った鉄板の上に蒸し物を載せて、少し焦げる位に炙って水気をなくして香気を出す。肝が固まらない時には片栗粉を入れても良い。出来たものをナイフで角目に切り、口取物の中に添えれば極めて香ばしく美味である。肝が新鮮であれば血が滴るのであるが、古新聞にくるんでおいて数時間か一夜くらい置いておけば(夏ならば冷蔵庫の中で)血液が新聞紙に吸い取られ臭気は取り除かれる。

【 附 】
 昔、晋代の王濟が好んで食べていたと伝えられている「豚肉の人乳蒸し」は非常に美味であるとの評判がある。試しにその調理法を挙げておくと、豚の肩肉の大きな塊を、皮つきのままでその毛を良く取り除いたものを30分位お湯で茹でて、その汁を捨てて、別に煮立てたラードでその肉を揚げたものを約一寸四方に切って、美酒、氷砂糖、鶏汁、醤油で味を付け、丁子ちょうじ、肉桂、はじかみその他の香味料を加えてから器に入れ、この中に絞ったばかりの人乳をダブダブに注いでから蒸籠に入れて、とろ火で数時間蒸す。
 『晉書』には「王濟は豪奢である」と記してある。ある日、帝(司馬炎)が王濟の家に行幸したが、食事のもてなしが非常に盛大であり、その中でも蒸豚が特に美味であった。司馬炎がその料理について尋ねると、王濟が人乳を蒸したものであることを告げた。そうすると司馬炎の顔に不満の色が見えたという。人乳で蒸されていたことに気分が損なわれたようである。



日本の食事の変遷


 『古事記』によれば日本における米麦豆その他の穀類 [五穀]大宜津比売神オオゲツヒメノカミの遺骸から生じたとされているので、この大宜津比売神こそ日本食物の元祖であり、その孫の豊宇気比売神トヨウケヒメノカミは食物調理の神と伝えられている。天照大神が穀物の種子を収め、勅令を下して田に植えさせ、これを民の常食として供えたとあるのを見ると、米、麦、稗の類は、太古から存在していたことがわかる。穀物の種子は中国から渡来したものであるという説を唱える人もあるが、それが正確であるかどうかの証明はされていない。古来から一般に厚く信仰されている稲荷大明神は、食祖大宜津比売神を祭ったもとされているようである。 稲荷というのは『日本書紀』に、保食ウケモチ神の腹中から稲が生えたという記述を根拠としているので、イナリは稲生イネナリの意味であることが分かる。(世間一般で考えられている稲成大明神は狐を祀るものであるというのは全く根拠のない説であり、この事は茅原定かやはら さだむ『茅窓漫録』に詳しい)
 『周書』には黄帝が始めて穀物を蒸して飯としたある。『古事記』には木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ渟浪田ヌナタの稲で飯を炊いたと記述があり、古代から米を蒸して食べることは日本でも中国でもその調理方法の根源は同じものであったことが分かる。 古代は野獣、禽鳥、魚類、野菜類、果実類を混食していたが、牛馬は農耕に使用する為に殺すして食べることは避けられていた。調味料については砂糖や醤油の使用はまだ始まっておらず、塩もただ海水を煮つめただけの極めて粗悪なものであった。甘味としては飴の製法が知られるようになっていた。また米あるいは果実を噛んでかもした濁酒の類が飲まれるようになっていたようである。この「かもす」はかもすの意味であり、台湾の蛮族は噛んで酒をかもしているし、琉球にも同様の酒があったという。

 古代の食事は1日2回であったことが記録から明らかになっている。食器には土器が使用され、食物が付着するのでそれに木の葉を敷くか、または木の葉だけを使う場合が多かったようである。木の葉は主に柏の葉が使われていて、ここから料理のことを「かしわで」と言うようになった。また酒を飲むのにも木の葉で作った椀が使われることも多かったため、これを窪手くぼてと呼んでいた。高貴な人の家では、土地や柏の葉で酒肴、果物、酒等を盛って机の上に並べ、神にも供え、人は食事をしたのである。これらは百取の机代物と言い、今も祭礼等の神前の供物はすべて机に配列されるのが普通である。 その後、欽明天皇の時代になると仏教の渡来によって肉食が避けられるようになり、特に天武天皇、聖武天皇、称徳天皇の時代には、殺生禁止の法令が布かれるようになり、奈良時代の法令供養からは、全く肉食を断つようになった。大宝令に挙げられている食品には、塩、鰹、干物、煮鰹、鰹の煎じ汁、煮塩、鮎、イカ、アワビ、アワビの鮓、雑腊ざつきたい(干物)、雑脂、雑鮨ザツノスシ、雑魚、鯉鮓、タニシ、貽貝鮓イガイスシ貽貝の後折イガイシリオリ(いがいの塩漬けや膾類)、赤螺アカニシ、蕪、海の細螺(キサゴ、ニシキウズガイ科の巻き貝)、鮒、鮑、ナマコ、海藻、ウニ、あらめ、魚松、かじめ、紫菜(あまのり)、山薑、自貝、ニラ等がある。これらは当時の主な食品であるが、鳥獣肉は除かれている。
 当時は、鮓が好まれ、また貝類、鰹、海藻類も喜んで食べられていた。鮓とは飯に酢を混ぜてつくる現在のものとは違って、魚類を塩に漬けて長期間にわたり貯蔵して置いて、自然に酸味が生じたものだった。常食としては、蒸米、黍が食べられていて、黍は冬には湯で温め、夏は水に漬けて食べられていた。
 調味料については塩、飴の他にも、醤油と酢があった。醤油は豆から製造し、今よりも味噌に近いものであった。蜂蜜もまた料理に使われていた。酒は吉備産のものが良いとされており、牛乳は孝徳天皇の時代に百済の使者である善那によって献上され、以来、典薬寮に乳戸を置いて諸国から牛酪を差し出させたていたとされている。またお茶もこの時代に中国から輸入されるよになったようである。

 藤原氏の時代になって、食物や調理方法に多少の進歩が見られるようになり、上流社会では精米して飯を炊くことが多くなった。これは「姫飯めしひめ 」と言われるものであり、現在のご飯と同じものである。また当時「屯食」とされているものは、後世の「おむすび」の事である。下流民は玄米をそのまま蒸して食べていたのは今も昔も変わらない。
 料理の方法は汁、膾、羹、煮付け等であった。魚貝、野菜等の食品は、大抵は前時代と同様で、鳥獣の肉も少しは食べられていたようであるが、前時代からの仏教の影響によってかなり微々たるものでしかなく、鹿、雉子等の干肉、鮓等の2、3種類が食べられていたに過ぎない。
 京都は四方を山に囲まれていて、海から遠いため鮮魚を得る事が難しいため、干物が多く食べられていた。よって琵琶湖の鯉や鮒、あるいは摂津や若狭から運ばれてくる鯛や鮪は最も珍重されていたようである。鰹とアワビも賞美されていたが、現代では奇妙な話であるが、鰹は毒があると信じられていたので生食はせず、干して固めてから食べられていたが、アワビは好んで生が食べられていた。果実を食べていたのは昔も同じで、しかも果実だけでは満足せず、唐菓子と呼んで唐風に菓子を作っていた。これはもち米の粉を固め、これを蒸して、または餅に甘味を加えて様々な型にして作られるものである。砂糖はすでにあったが、まだ大量に用いる事はなく、主に千歳蘽あまづらを煎じ、その汁で甘味が作られていた。饂飩うどん、素麺もこの頃から食べられるようになった。宴会の時には大きな机を据え、その上に数人分の食物が並べられた。また別に酢、塩、醤油を置いて、客の嗜好によって即座に調味できるように用意され、箸の他に匙も使うなどして、すべて中国風に行っていたようである。また当時の宴会の様子を見ると

天保二年、内大臣の藤原頼長の大饗での献立は、
 菓子八種、餅、伏莬ぶとかれい、大 柑子、小柑子、橘、栗、串柿、
 干物八種、蒸鮑、千鳥、楚割、鯛、鱸、鮭、焼蛸、大海老、
 生物八種、鯉鮓、鮎並煮、塩鮎、雉子、鱒、鱸、鯛、蛸、
となっている。これらが最上級の盛餐のようで、現在の料理に比べるとかなり幼稚である感は拭えない。

 食物を選ぶには、檜の薄板を折り曲げて作られた曲げ輪っぱの容器に使い、酒の容器は主に竹筒が使われていた。またこの頃は、餌袋をいうものが流行していたようであるが、これは元々、鷹の餌を入れるためのものだったが、いつからともなく人の食物を入れて携えて歩く為のものになっていった。

 時代は下って北条の時代も蒸米を常食としていたのは昔と変わりがないが、上方の京人と呼ばれる人々は、身分不相応に贅沢をする風潮が盛んであって、朝夕二食の習慣を破って昼飯を加えて、三食を取るようになっていた。かつ宴会も時々行われ、その食品の献立も次第に豪奢を極めるようになっていった。さらに点心もようやく行われることになり、羊羹類、饂飩、素麺、きし麺、巻餅、温餅、曲煎餅、焼餅、糒、粽等が食べられるようになっている。点心とは一日の退屈を慰めるために、食事の他にも様々な軽食を供するためのもので、現在のおやつの類である。
 しかしながら関東地方では幕府が質素倹約を旨として、自らがその模範を示し、武士は食事も昔のスタイルを守って二食で満足していた。飲食は非常に質素であり、その生活ぶりは京人との間に雲泥の相違があった。 北条時頼は、執権であった間はその職を尊重して食は二食以上は取らなかった。ある夕食に一族が族長の時頼を招いたとき、彼は自ら立って銚子と杯を取って台所に行き、棚にある味噌のある器を探し出してきて、これを肴にして終夜まで酒をくみかわし喜んでいたという。また彼が鶴ヶ岡八幡宮参拝の始めに、正四位左馬の足利義氏のもとを事前に告げて訪問したのだが、義氏のもてなしは一献に熨斗鮑、二献は海老、三献には、かき餅だけで終わったと言われている。 建長四年に幕府は命令を下して、鎌倉の市中で酒を売るのを禁じ、続けて諸国の市で酒類の販売停止を命じている。また仁治二年には酒宴でのもてなしの際に贅沢な菓子を供することが禁じられた。こうした例を見ても当時の為政者がいかに節約を旨としていたかが分かるだろう。

 鎌倉地方の名産で有名な鰹も、古来から鰹節として用いられている他には食べる方法が無かったが、この時代から生食の風習がようやく始まり、遂に天皇も供膳にもこれが出される事となった。
 鮭は北越で取られてはいたが、九州、中国地方の民が、それを食べる事は稀であった。元治六年(※間違いで建久元年が正しい)、佐々木盛綱ささき もりつなが鮭の楚割を頼朝に献じた時、頼朝が喜んで

  待ち得たる人のなさけもすはやりの
   割りなく見ゆる志かな

  (待っていた人の情けは、すはやり“生干しのサケ”を割るように志が私から離れては居ないとわかりましたよ)

と詠じて、その好意に感謝したと伝えられている。
 またこの項は魚は鯉が貴重とされており、鳥は雉子が賞味されていた。鶏卵は「かいこ:殻(かひ)の子」と呼ばれ、僧侶も食べていた。

 茶は奈良時代から一般的に飲まれるようになったが、いつからか途絶えるようになっていた、それを建久二年(1191年)、僧侶の栄西が宋から帰国するにあたり、茶の種を筑前の背振山に植えて茶を作り、自ら『喫茶養生記』を著して茶の良さを宣伝した。栂尾とがのおの僧侶であった高辨もまた茶の種を入手し、栂尾の深瀬に植えたが、その後に、茶に適した土地である宇治でも栽培することになる。これが宇治茶の始まりである。これによって日本の茶がようやく盛んになったのである。

 室町時代に入ると、中国に習って肉食がようやく行われるようになったが、京都の公家達は昔からの習慣を守って肉食を行おうとはしなかった。鳥類にも様々な制限があった為に、主に魚、海藻類、野菜、果実が食べられていた。この時代にはまだ醤油が無く、味噌を垂らして味付けを行い、甘味を添えるためには百合、砂糖、飴、千歳蘽あまづらを煎じたものが使われていた。酸味で味付けするのには酢が使われた。製品としては魚肉の蒲鉾、豆腐、油揚げ、納豆、心太、蒟蒻、素麺、きし麺等があり、料理方法には吸物、刺身(打身とも言う)、膾、和え物、煎り物等が行われていた。また浅漬けの香の物もこの時代から見られるようになっている。

 地方在住の武士は、まだ朝夕の二食で満足していて、大抵は一人一回の料理に米二合五勺と、味噌で煮た雑炊のようなものを食べていた。将軍、足利義満の頃から贅沢の傾向が進むようになると、様々な形式的な儀礼が生じるようになり、料理方法も複雑になっていった。そして遂にはその術を一つの奥義、または秘伝として古来から 四條しじょう が伝えられ、さらにそれに対して、大草おおくさが生まれ、これらが現代まで代々伝えられる事となった。

 この時代に「茶事」が中国から伝えられたいるが、当初は、これを行うのは寺院の僧侶だけであった。将軍の足利義政は風流韻事を好んでおり、その頃、南郡明星寺の米光が、茶事に詳しいと評判なのを聞き、銀閣に召してその道を尋ねたところ、これに大変感動して、義政は米光重用し、茶道を行うようになったのである。これより上流階級の間に茶道が流行するようになり、同時に食事の儀式は一層煩雑となり、菓子の製造等もかなり発達し種類も増えていったのである。

 また食物を割烹調理することを料理と呼ぶようになり、爼板の長さ、高さ、その足の大小、庖刀、魚箸もおのおの流儀が存在する。寸法を定めて、その据え方、持ち方、また一定の規則に従って、その家流による各方法が説明され、肉類では生鶴料理、塩白鳥料理、塩鳥肴、真雁料理、生の青鷺料理、雉子の青かち、鶉汁うずらじるむじな料理等がある。魚類では鱓の汁、鯛、鯉、鱚の刺身、川鱸料理、真鯉の汁、鮒の膾、鮎料理、鮑汁等がある。また潮煮、蒲焼等の料理法はこの時代から始まっている。

 精進料理には昆布汁、饂飩、豆腐料理、餡豆腐、とき豆腐、納豆汁等がある。越川汁とは河鹿に筍、白瓜等を加えて調理したもの、松笠煮とは鯛の身を松笠のように切って煮たもの、糸膾とは鮒の膾であり、山吹膾とは王餘魚カレイの膾のことを言う。その他は盛り方によって、雁の池盛、鴫の藁盛、鰹の岸盛、蟹の甲羅盛、等の名目がある。また捌き方によって鶴の筋打ち、鯰のささら切り等の方法がある。鳥と獣の肉を一緒に盛り合わせることは嫌われている。例えば猪と兎、雉子と狸、鮭とイルカ、赤鱒とサザエのような組み合わせである。もし魚と鳥を組み合わせる場合には、左の方には山の素材と田の素材、右の方に海の魚、川の魚を盛り、またその種類によって掻敷かいしきも違うものとする。掻敷かいしきとは食品の下に敷く草木の葉であり、鮑には海藻、鱸には榎の葉、鯰には藤の葉、雁には水草、鶴には芦の葉、鴨には野茨菰おもだか、鶉には振笹を使い、檜の葉、南天の葉はどのようなものに対しても使うことが出来る。吉事には葉の表を上にして、凶事には葉の裏を上にする。すべて饗宴等に肴を出すには、薑、梅干し、塩等を添えるものとする。祝賀の宴のように式を尊ぶ時には式三献七五三等の儀があり、すべてその献数によって名が付けるている。

 「献」とは肴を出す度に、改めて酒盃を薦めることを言う。必ず三の数を尊んで、正式の時には三献が行われる。贅沢の傾向が増すにつれてそれが五献七献に及び、これを三度繰り返すとめでたいとして、九献まで行われるようになった。よってこの時代は酒の異名を九献と呼ぶようになり、江戸時代になってからは婚礼の儀の盃のことを三々九度と言うようになる。七五三とは七献、五献、三献を繰り返す儀式であり、将軍家では十七献も繰り返すこともある。

 料理にも種々の法則がある。また飲食で給仕を行うのにも、細かな儀式が定められている。飯の食べ方でも、左一箸、右一箸、向う一箸、この三箸で一口づつで食べるようにと定められ、肴の食べ方においては、一山、二海、三野、四里の順序に食べ、吸物では、まずその汁を吸うべきではないとされている。
 酌の取り方、酒の飲み方におていも方式は煩わしく非常に煩雑である。特に女性は礼式では慎しむようにとあり、敬語または異名を使った婉曲表現で述べるように定められている。例えば飯を“おなか”、おかずを“おまはり”、汁を“お汁”、肴を“こん”、魚を“おまな”、味噌は“おむし”、イカを“いもじ”、サバを“さもじ”、豆腐を“白物”、鮒を“やまぶき”、ゴボウを“ごん”、松茸を“まつ”、鮓を“すもじ”、餅を“おかちん”、小豆を“あか”、野菜を“あおもの”と言っていたようだが、この中の幾つかの呼び名は伝えられ、現代でもそう呼ばれているものも少なくない。

 織田信長の時代になって、世の中は戦国殺伐の雰囲気に包まれていた為、戦乱であわただしい期間には料理の事などは、頓着すべき暇もなかった。また信長も秀吉もいわゆる成り上がり者であったので、食における趣味を余り重要視していなかったようである。現に信長は、料理人坪内に関する挿話が人口に膾炙しているので、その趣味のレベルを想像するには難しくないだろう。ただし信長は茶事に関しては嗜好とセンスを有しており、戦陣の時間に茶事を催して余裕のあるところを誇示したり、あるいは将士の労をねぎらったりしていた事も良く知られている。

 その後、秀吉が代わりに天下統一を成し遂げ、世の中は桃山の豪奢な時代に入り、建築美術その他すべての文化事業は、ようやく絢爛の頂点に達するようになる。茶事も千利休が出てその卓絶した才能により大成する事になる。当時の行楽行事であった「醍醐の花見」や「北野の茶会」等について見ても、かなり大規模であったようである。こうした理由から、食の嗜好に関しても、この当時の上流社会には相当豪華な贅沢が流行していたことを簡単に察することが出来る。もちろん調理法等は室町時代からあるものを受け継いだものであるが、秀吉は義満よりも数倍もハイカラであったので、その生活振りがどのようなものであったのかを想像することができる。但し当時の歴史は戦国武将の勝敗の業績を調査することだけに注意が向けられている為に、一般の風俗、または食事に関する記録で残されているものは非常に少ない。『近世日本国民史』( ※ 実際は同じ著者である徳富蘇峰が記した『野史亭獨語』の間違いだと思われる )の中には、朝鮮からの通信使であった黄慎の『日本往復日記中』の次の記事が引用されている。

 毎飯不過三合米、菜羹一杯、魚膾、醤菁、数三品而巳。膾亦極麁硬、如小指大、一楪只盛五六條、以醋和之。飯後例飲酒両三杯、雖小倭稍饒喫著者、則亦不輟飯後酒。故市上最尚酤酒。一日用三盹飯。卒倭則例喫両旽有役作然後喫三旽。但将官外、皆用赤米為飯。形如翟麥、而色以蜀黍、殆不堪不咽。蓋稲米之最悪者也。

【 訳 文 】
 毎回の飯は三合米、主菜一皿、他にも魚膾、漬物とその数は三品しかない。また膾は非常に荒く硬いものであり、小指ぐらいのものを一皿に五、六は盛ってあり、これを酢で合えてある。飯の後に酒を三杯飲むのが習慣であるが、日本人はやや多く酒をのむ者であるのか、飯の後もまだ酒を飲むのをやめない。ゆえに市中では酒を売るものが重んじられている。一日に三度の食事を行う。下官は二食であるが、昇進すると三食となる。ただ将官以外は、皆が赤米を飯として食べている。その形は翟麦に似ており、しかも色は蜀黍に似ていて、とても食べられたものではない。これは米類のなかでも最悪なものであろう。

 次に秀吉が九州征伐の際に、博多で茶友の神屋宗湛の茶会に招かれた時の献立を以下に記す。

御本膳 すぎの四方 あざぎ椀白筋
 一、焼貝    一、御汁、味噌焼独活うど入り
 一、ふねり味噌 一、ご飯

二の膳 すぎの四方 あざぎ椀(かわらけ)
 一、鱸焼物 鱚 土器(同じ盛り合わせ)
 一、鶉やきて
 一、御汁 雁に芹を入れて

御菓子 すぎふちだか 四方に据えて
     松露 椎茸
 一、きんとん
     (宗湛茶会献立日記)

 次に文禄二年正月二十一日(1593年)、宗湛が徳川家康の茶会でもてなしを受けた献立は以下である。

本膳  木具 足折 黒椀
 一、鉢子 昆布 味噌煮しめて
 一、汁 くくだち
 一、づつ皿 くかじめ
 一、飯
 一、つぼ皿 にしかあへて

二の膳  本具 足折
 一、りりこぶ 香物 かわじきして あつめ にいもこぶ きのこ
 一、汁 豆腐
 一、壺皿 に芹やき
 一、飯
     お茶の時に重箱に豆腐四半茸煮しめて
 同夜、話が長くなり御湯漬けあり

本膳  ぬりをしき
 一、麩 椎椎茸 香の物
 一、味噌 板につけて四半に切って
 一、芋のあつ汁
御菓子  椎茸(同上)

 これらの献立や、朝鮮通信使の日記を見て、この当時の最も上流社会の食事にしてはかなり質素であるので、一般人の生活レベルが非常に低くかった想像してしまうのは間違いである。神屋宗湛が秀吉を招いた席も、また家康に招かれた席も、正式な宴会のもてなしではなく、茶懐石としての会席料理であるので、献立が簡素であるのは当然である。
 基本的に茶会席料理というのは、ご馳走と言う意味ではなく、単に間に合わせのもので懐を温める意味であり、これをもって懐石というのである。茶懐石は一汁三菜を基本として、場合によっては一汁二菜を規則とする事もある。その目的は、手軽で気の利いた「もてなし」をする為であり、ご飯も自分でよそい、酒も手酌であったので、秀吉も太閤としての型苦しさを捨て、宗湛のいち茶友として招きに応じたことであろう。
 さらに家康が主人を務めたもうひとつの場合は、茶懐石の正式料理であり、献立からも分かるように精進料理のスタイルであるので、家康も将軍としての型苦しさを忘れて茶友としての宗湛を招いているので、ここでのご馳走が簡単であることは言うまでもない。
 しかしながら、この献立を吟味すれば、つぼ皿に「しかあえて」とあり、これは鹿ではなくて独活の事であるのだが、正月のご馳走として芽生えの独活を雪の中から掘り出したものであり、むしろかなり贅沢なご馳走であった。こうした献立内容を見ると、当時の上流社会の食事は質素であったとするのは大きな間違いであることが分かる。
 また朝鮮の通信使は、堺に滞在したのは僅か二十九日間であり、政治的な理由により秀吉に優遇されていなかった為に、早々に朝鮮に帰国しており、十分なもてなしと食事が振るわれたのかは疑わしい。むしろ当時の日本の社会状態に対して注意深い観察眼で見守っていたキリスト宣教師の記述の方が、より実際に近いのではないだろうか。宣教師の記した『日本風俗記』のなかには、飲食に関する部分から次に摘録して、当時の生活が相当に贅沢であったことを示す事とする。

 日本人の食膳は、常に清潔であり、かつ美を尽くしている。食卓は方形で低い足が付いている。一人一卓で食膳の変わる毎に、器を変える。食卓は非常に美しく、松杉の板で作られ、金銀をちりばめた蒔絵で装飾が描かれている。客を招いて宴会をするときは、通常は二,三種類の肴が出される。客は酒を飲まず、この肴を食べ終わって第二回目の食時に入る。中流以下の人は米、野菜、魚を常食しているが、富者は美食を誇り、食卓に沢山の肉菜を盛って埋め尽くしている様は、あたかもエジプトのピラミッドのようである。肉に金粉を削ってかけ、また一枚の杉の小板が添えられる。貴人の食事では鳥を一羽まるまる料理されることもあり、嘴は金で飾られるが、足は付けたままにされる。食卓には布巾、卓巾、フォーク、スプーン、ナイフは備えられていない。その代わりに、只、箸だけが使われるが、その箸の使い方が非常に巧妙であり、肉類を落とすこともなく、また手や指を汚すことがない。箸は象牙、杉木、あるいはその他の香木が使われている。長さは一尺ほどである。日本人の好む飲料は、茶葉を湯に入れたものである。

※ここから『日本風俗史 下』の引用である。

 江戸時代になって、野菜、果実の多くの種類が外国から輸入されるようになり、日常食の範囲はかなりの広がりを見せるようになった。食事は朝昼夕の三食となり、農民やその他の労働者は、三度の食事の他にも時々間食するため、五、六食に及ぶ場合もある。米はすでに玄米ではなく、ほとんどすべてで精白米が食べるようになっていた。下層の民は米麦を7:3の割合で炊いて、これを麦飯と言って食べている。飯は季節に相当する他の食品を混ぜて炊くことがこの頃から行われており、米よりも高価なものを混ぜるのは贅沢にする為であり、米よりも安価なものを混ぜるのは節約の為となる。その飯の種類は、春には乾葉飯、菜飯、筆頭飯、筍飯、豌豆飯、鯛飯。夏には蓼飯、蓮飯。秋には松茸飯、栗飯、芋飯。冬には人参飯、蘿蔔だいこん飯。また四季を通じて胡麻飯、茶飯、五目飯、奈良茶飯等があり、あらゆるものを飯に混ぜることが流行していた。

【 備 考 】
混ぜご飯は中国でもよく行われているので、日本のものは中国から伝来したものであるかもしれない。『淸庖厨全書』に荷葉飯(ハス飯)の項目があり、以下のような説明になっている。

 荷葉飯乃用新荷葉湯入粳米造飯気味倶全也、荷葉飯厚脾胃通三焦資助生發之気其餘芥葉湯、蘇葉湯等諸飯皆可推類也、大凡飯食諸穀諸豆皆造之其餘如果實菜蔬和米為飯者不暇枚擧随宜造之皆以供救荒云々。

 これを見ると、中国の飯が、日本のものと同じであることが分かる。また同書には「飧飯」とあるが、これは日本の茶漬け飯のことであり、「𩟪」とあるのは汁かけ飯の事である。

 汁には、とろろ汁、豆粕汁、芋汁、鯉こく、鱒汁、狸汁などがある。茶碗蒸し、小田巻蒸などはこの時代から始まっている。獣肉は依然として食べる者は少なく、山村では猪鹿等の肉を食べてはいたが、都市部ではそれを食べる事は忌み嫌われていた。寛永三年、御淸の節の食穢では、羚羊、狼、狸、鶏を食べた者には五日間、牛馬は百五十日、豚、犬、羊、鹿、猿、猪は七十日間の穢れにあるとされている。二足兎、卵は魚に準じている。さらにネギ・ニンニク・ニラなどの臭いの強い野菜は精進のめたの期間は断つべきであると定められていた。野禽で言えば鴨、雉子、雀、ひよどり、鳩等が盛んに食べられていたが、その中でも鶴が最も重宝されていたようである。

 炙ったものでは、豆腐の木の芽田楽、焼蛤、サザエの壺焼き、タニシの味噌焼、茄子のしぎ焼、鰻の蒲焼等。おひたしは野菜を茹でたものに醤油または味噌で調理したものである。また野菜、魚貝によって和え物、または酢の物を作る。酢の分量の多い少ないによって、2杯酢、3杯酢などの区別がある。 鍋物は魚か鳥の肉をつかって作ることが多い。漬物は味噌漬、粕漬、砂糖漬、糀漬、芥子漬、梅酢漬等の種類がある。大根の糠漬は沢庵漬であり、酒粕に漬けたものを奈良漬と言う。 甘味ではそれまで使われていた千歳蘽あまづらは廃れ、この頃から砂糖を使い始めるようになっている。もちろん、砂糖は外国の輸入に頼っていた。中国では唐の時代から白砂糖を発明して、盛んに製造を行っていたのである。 日本でも享保十二年に将軍吉宗が甘藷かんじょ(サツマイモ)の栽培を推奨して、砂糖の製造を行った。また宝歴年間に高松の藩主の松平頼恭がサツマイモを領内に植え、砂糖製造法の研究に苦心した後、寛政の初期になって始めて砂糖製造に成功した。これにより日本の菓子はかなり勢いを増して進歩するようになり従来のものとは大きく変化するようになった。

 

 料理の道具は釜、焼鍋、金杓子、貝杓子、すり鉢、すりこ木、さしみ庖丁、出刃包丁、小出刃庖丁、俎板まないた金串、焼火鉢、鉄架、絹篩きぬふるい、網捨籠、巻簾まきす、鉄網、竈、焜炉である。
 食器には箸、茶碗、汁椀、吸い物椀、菓子椀、皿、お平、丼、硯蓋等である。酒器には徳利、猪口、壷、燗壷等がある。以上のものを総称して勝手道具と言う。
 酒は清酒、味醂、焼酎、保命酒、白酒、桑酒、梅酒などがあるが、世間で一般的に好まれているのは清酒であり、摂津の池田、伊丹産の酒が最も有名である。(奈良茶事跡合考)

『日本風俗史 下』による引用はここ迄。

 貴族社会の食事は二の膳、三の膳と種々のものが食されていた。日常の食事でも珍味が並べられ、室町時代の調理法と比べると格段の進歩が見られるようになる。当時、長年日本に在住していたオランダ人のヨーハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher)という人物の、日本人の食物に関する観察記を次に紹介する。この資料から外国人からの見た日本の食事に対する観点を理解できる。

【 日本風俗備考 】
 日本人は客をもてなす為に多くの費用をいつも費やしており、よってその料理は華麗さを極めており、その食膳の数もかなり多い。調理や盛り付けもまた華潔を極め、多数の漆器に料理は盛られる。その数は大抵7、8個であり、逐次これらは交換される。さらに盛饌せいせんの場合は30~40回に亘って個々色の異なった器が出されることがある。その理由は並べられる全部の漆器と磁器は皆、用途によってその形と色が異なっているので、その器に合う飲食物が盛って客に薦める為である。主要な皿には、美しく大きな魚が美味な汁で煮て盛り付けられ、その肴の両目は二人の賓客に薦められる。 日本人の飲む酒には多くの肴が重要である。皆、綿密に小皿に盛ったり、あるいは手のひらに載せて供される場合もある。固く煮た鶏卵、塩漬けの生姜、焼いた肉、甲殻類その他の新鮮な美味な料理である。これらは皆、最小に切って席上に出される。賓客の時には甲殻類、鮑の身を細く切って干したものが提供される。これらは非常に良性の食物である。これらは噛むと粘りがあり、そのエキスには身体を強壮にする効果がある。土地の住民がこのようにアワビを食べるのは、古代の先祖が、かつてはこの無味な食品によって飲食の欲求を満たしていたことを思い出す為であると言われている。
 初めての客を招待する時は、かなり厳正で、客はみな地面に座り、主人が客に向かってお膳、もしくは椀を取ることを薦める。集まった客は皆、体を曲げて汁を吸い、かつ二本の小さな棒で料理を挟んで食べる。その料理は包丁で切る必要がないくらい小さく調理されている。しばらくして主人は客たちの側へ行き、小盃にお酌をして、その後は集まった客たちはそれぞれ杯を酌み交わす。主人はお客を楽しませるために音楽・歌曲を流す。また日本人は香木をたいて客をもてなす事もある。その際は伽羅木、白檀、乳香、松香のような好香があるものを使う。香りを聞く式は、かなり清厳であり容易にその深い意味を知ることは出来ない。


 町に割烹店が初めて開かれたのもこの時代からであって、また民間の調理法も進歩した時代であった。我が国の中世時代にも食物店は存在したが、それはただ旅人の空腹を満たす為のものに過ぎなかった。もともと茶屋は単に茶を飲むだけで、料理は全く無かったのだが、明暦の大火の後に浅草の金龍山の茶屋が、茶飯、豆腐汁、煮しめ、煮豆を売り始めて、これを「奈良茶」と名付け、一人前を五分で売り始めた。(西鶴の『置土産』第四巻 元禄六年版)
 蕎麦もこの時代から始まっている。続いて金龍山の茶屋が、二汁五菜の料理を一人前、五匁で出すと都会人は珍しがって、一時期かなり流行するようになった。次に湯島に祇園豆腐、目川の菜飯、居酒屋の大田楽が始まり、こうして料理店は段々とその規模を拡張し、山海の珍味を集めて客のニーズに応じるようになり、かつ芸子を置き宴席を共にするサービスが生じるようになった。

 明和八年には深川洲崎に、望陀欄もうだらんという料理茶屋が開店し、座席の飾りつけ、料理の趣向が一段と風流であるとして、当時の通人たちの評判を得ていたと言う。続いて文政天保になり、八百善やおぜん平清ひらせいといった最も有名な割烹店が生じ、明治時代になるまでには街中の料理茶屋は基本的にそのスタイルを八百善か平清に準じたものになっていた。他にも両国柳橋の、大のし富八、田中屋などが有名な料理屋であった。

 このように料理茶屋は非常に発達したにもかかわらず、その多くは飲食を主目的にしたものではなかった。ただ悪戯に酒に酔い、芸子と戯れる場所となってしまい、さらに「お手料理」と呼ばれる実用向きの飲食を専業とする料理店が流行するようになる。こうした流行によって蕎麦屋、天麩羅屋、すし屋等が都市部の至る所に現れるようになった。天麩羅は寛永の頃から現れはじめた。寿司は古代からあったが、この時代になると一夜ずしと言って、一夜で作る方法が考えだされ、鮓のスタイルが一変することになった。この他にも豆腐料理、鱒鍋、蛤鍋等が人気であった。
 享保の頃、京都祇園の人で、佐野屋嘉兵衛という者が長崎から帰り、食卓料理(シッポク)を始めた。江戸では石川茂左衛門がこれに習って宝暦および明和の頃から始められるようになった。世間ではあまり好まれなかったが、かれらが我が国における西洋料理店の先駆けであった。また元禄年間に本石町三丁目の長崎屋源右衛門は、長崎からやってくるオランダ人やその他の外国人向けの宿を始めた。そこでは西洋風の装飾器具を備えていたので、これが日本におけるホテルの始まりと言えるかもしれない。

 菓子はこの頃に輸入された外国製の菓子を通してその製法が伝えられ、金平糖、カルメル、アルヘイ糖、カステラ等が製造されるようになった。これを南蛮菓子と言い、それにより唐菓子が全く廃れてしまうことになった。元禄および寛永の頃になると、日本流の蒸菓子、干菓子の数は約390種の多さにまで達したと言う。果物の中では、九年母クネンボ(柑橘類)が、天正の頃に海外から伝わり、スイカは承應の頃に南蛮から伝わった。世間の人は、始めはこれが由井正雪の頭であるとして嫌っていたが、元文の頃になると多くの人に食べられるようになった。サツマイモは元禄十一年に琉球から薩摩に伝わり、享保二十年に始めて江戸に入ってきた。幕府はその種子を小石川菜園に植え、青木昆陽にこの培養を推奨させた。元文の頃からようやく民間に伝播するようになり、今日のような生産の増加に至るようになっている。

 明治大正になって、我が国の風俗には驚くべき変化があったので、維新を境としてその前と後では全く別の世界になってしまた観すらある。

 幕府時代、獣肉は忌み避けられる食品として扱われていた。大名行列であっても肉屋の前を通行するような時は、駕籠を上に高く揚げて通行する程、牛肉を食べるなどということは誰も思いもよらないような事であったのにもかかわらず、わずか五十年後には東京の三河島の屠殺場で屠殺されるの牛の数は毎日70~80頭、豚は250頭、馬は20頭という平均数に達している。日本全国の畜産牛を見ても、そのうち年間150万頭の中の50万頭が食用にされている。東京においても年間、牛は5万頭、豚は20万頭、馬は1万頭に達していて、しかも肉食は言うに及ばず、遠くはオーストラリア、アメリカから食肉は輸入されているため、価格は肉食の本場であるロンドンやパリよりも高価となって、世界第一の高値を付けるという奇妙な現象が見られるようになっている。

 我が国における肉食の起源を調べてみると、江戸時代後期に、近江の高宮で屠殺された牛肉を味噌漬けにして、それを江戸に送って彦根藩邸での販売が試みられた事である。また対馬藩邸でも牛肉が売り始められたが、公然とこれを買おうとする者はいなかった。たまに「薬食い」と称して食べる者はいたが、それでも人目をはばかりながら、家族とは食器も別にして食べられていたという有様であった。イギリス大使が日本に駐在していたのは、高輪の東禅寺であったが、一番不便に感じられていたのは牛肉の購入であった。当時、中川嘉兵衛という人物が始めて大使館の日用品の売込商となり、次に築地でも英国人のジョージという人物が牛肉店を開店させた。しかし江戸には屠牛場が無かったので、横浜にある日本で唯一の牛肉店のアメリカ八十五番館に、毎日人を派遣して仕入れを行わなければならないという不便さがあった。(当時は無論、汽車はなかった) こうした不便さから江戸にも屠牛場を作ろうとしたのだが、当時の人はなかなか頑固であったようで、その為の土地を貸そうとする者はいなかった。困り果てた末に中川は荏原郡白金村の郷士で堀越藤吉という人物(今の淡路町中川の創業者)を説得して、土地を借りる許可を得ることが出来たので、ここに至るによって始めて、東京で牛を屠ることになった。その後、堀越藤吉は、中川嘉兵衛の事業を相続して、肉納人としての株を引き受け、慶應二年に芝露月町に店舗を借り、ここに赤い字で「御養生牛肉」と書いた旗を立てた。これが実際に、日本の牛鍋の元祖である。その後、蠣殻町にある中初、土橋の黄川田、四谷の三河屋、京橋の河合などが続々と開店した。一般人も徐々にではあるが肉食に馴れてきて、西洋料理店をポツポツと開業する人が出てきた。明治初年から旧来の慣習を破る新思想と共に、生活改善の先駆として肉食の傾向はかなり一般的になり、ついには現在のようになったのである。

 禽鳥類に関しては、鶴、雁、白鳥、アオサギ等は昔から日本の名物であったが、維新後の乱獲が激しかった為、現在では、ほとんどその種が失われようとしている。また猪、鹿、雉子、鴨、鶉、鳩の捕獲数は年々減少しているのに対して、養豚や養鶏業は年々盛んになっている。近海産の魚、内陸河川の淡水魚も次第に漁獲量が減少しているにもかかわらず魚類の需要はますます増大し、遠洋漁業も盛んに行われるようになり、鮭やニシンは海沿いの地域や北海道から供給されており、鰻、鯉等は養殖によって、さらに鼈、鰻は朝鮮や中国からの輸入によって僅かにその需要を満たすことが出来ている。

 米が主要食品であることは昔から変わらない。パンを食べる人もいるが、米が主要食品としてパンに代わることはないだろう。ひと頃、麦飯説、または玄米食論が非常に流行したが、いずれも吸収率、または消化率では精米に及ばないという理由で、現在ではまた精白米の方が良いとされている。従来は米飯を食べる人の多くは都会の人か、地方でも上流の人に限られていたが、世界大戦後は国民生活に大きな変化が起き、生活向きが質素であるので麦飯を甘んじて食べていた農家も多く米飯を食べるようになった。これにより米価格が急激に高騰し、同時に麦の価格は下落することになり、麦を耕作する農家はかなり減少してしまった。

 一般家庭においても西洋風の料理が徐々に流行し始め、ライスカレー、フライ、オムレツ、ボイルドポテト、カツレツ等が従来の日本料理と一緒に食べられるようになった。さらに時々はこれに中国風料理が加わるようになったので、従来のもの以外にナイフ、フォーク、スプーンなども備えられるようになった。また食後に菓子や果実などを食べる習慣も行われるようになる。菓子も従来の日本菓子の他にビスケット、サブレ、シュークリーム、ウエファース、キャンディー、パイ、アイスクリーム等が食べられるようになった。煙草は従来からあった煙管・煙草は全く廃れてしまい、労働者までもが紙巻煙草を吹かすようになり、上流階級は金口のエジプト煙草、マニラのシガーを愛用している。

 野菜・果実の種類は、学術の応用により従来種はかなり改善され、かつ新種のアスパラ、トマト、キャベツ、玉ねぎ等の栽培が始められている。西洋イチゴはあらゆる所で栽培されるようになり、桜桃は福島、山形地方の名産となり、白桃は東京近郊、東海道、中国地方の産物として出回るようになり、メロンの栽培も園芸家の苦心によって成果を収めるようになっている。その他、甘栗は中国や朝鮮から、バナナ、柑橘類、龍眼肉ロウガンニクは台湾から、椰子、パイナップルは南洋から、リンゴ、メロンはアメリカから輸入されており、世界の珍味は日本にいながらにして得られるようになっている。

 明治維新以来、国民の生活は次第に向上し、また世界大戦後の社会組織の激変はますます贅沢の風潮を増長し、外食は一般化している。都市における飲食店の繁盛は驚くばかりであり、東京内では五歩に一軒は料理店、十歩に一軒はレストランが軒を連ねているようである。昨年の東京あるいは近郊にある店舗を合算すれば、西洋料理5000店、中華料理1000店、西洋料理を兼ねている店舗は1500店に及び、日本料理店は実に2万店以上の数に達している。(大正12年8月)
 最も有名な料理店は、西洋料理では東京の帝国ホテル、精養軒、東洋軒、大阪の大阪ホテル、京都の京都ホテルなどである。中国料理は東京に偕楽園、陶々亭がある。日本料理では各界における東京で第一の旧家として知られている八百善を始め、花月、常盤、錦水。京都に瓢亭、大阪に灘萬などがある。 また専門料理店として鰻屋、天麩羅屋、牛肉屋などの有名店も少なくない。大正の始め頃からは栄養食の研究が盛んになってきており、大正9年には栄養研究所が設立され、生活改善を目的として盛んに栄養食の普及が試みられている、。各新聞には毎日の標準食の献立が掲載され、各家庭の実際の料理でもこうしたレシピが取り入れられている。このように各家庭の主婦もカロリーやビタミンという言葉を口にするようになり、食物の標準も徐々に変化しつつある状態にある。また一膳めし屋は少しづつ廃れて公衆食堂に代わっており、楊弓、矢場店は影を落として、コーヒー店や喫茶店の時代に変わりつつある。(大正12年震災前)

 日本の最古の文字記録資料に挙げられている例として、正倉院文書『尾張国正税帳』には天正6年(734年)に「白貝内鮨」とある。『養老令』(養老2年:718年)の基となった『大宝令』(大宝元年:701年)にも、「鰒鮓アワビスシ二斗、貽貝鮓イガイスシ三斗、雑鮨ザツノスシ五斗」と「鮓」の文字があったと指摘されている。

http://miyako-orimise.com/history.html

 わが国最初の「すし」に関する記録は、大化の改新から73年目の奈良時代、藤原不比等らが編纂した『養老令』(718年)の中だそうです。朝廷への貢納品として、「鰒鮓アワビスシ貽貝鮓イガイスシ雑鮨ザツノスシとの記載があるという(第10巻・賊役令)。




日本料理人および流派

 日本には料理の流派が種々あるが、大きくは2つの流派になる。一つは四條しじょうと言い、もう一つは大草おおくさと言う。四條流の元祖は四條中納言藤原朝臣山蔭卿であり、光孝天皇に仕えて深く割烹にも通じていた。天皇は食に興味を持っておられ、従って山蔭卿によって種々の料理法を定めたのである。後世ではこれを庖丁流派の創始としているものが非常に多い。そしてこれを四條流と言う。四條流は後に2派に分かれ、そのひとつを四條園流と言い、園の別当入道基氏が始祖である。そしてもう一つを四條家園部流と言う。徳川幕府の食事はこの流派によって司られていた。

 大草流は、大草三郎左衛門丞公次を始祖とし、代々、京都将軍家の庖丁人ほうちょうにんであった。世間ではこれを大草流と称している。明治維新前の日本料理は、大草流、あるいは四條流によって支配されていた。しかし皇室の大膳部は大草と四條の二派とはその起源が異なっている。景行天皇の時代に 磐鹿六雁命 イワカムツカリノミコトが大膳職として勅命を受けた事が起源であり、それ以来、代々この系統によって継承が行われている。

 このように京都将軍家の膳部は大草流、旧幕府の厨房は四條流であり、皇室の大膳部は六雁命およびその子孫が代々にわたり大膳部として奉仕を行っていた。そして六雁命の事績以前にまで遡ると、我が国の食材および料理の総元祖は遠く神代の時代の、大気津比売の神、さらに豊宇気日売の神の名前を避けて語ることが出来ないのは以前に述べた通りである。

 次に大國主命オオクニヌシノミコトの出雲朝廷での饗宴、および天孫降臨の時には八日八夜の祝宴が催されたこと、並びに天孫(邇邇藝命ニニギノミコト)が自分に大國主神からの国譲りを行わせ、大国主の名前を神として祀る饗宴や祝詞に関しては『古事記』の記録のなかにつまびらかに記されている。その祝詞によって、当時から既に鵜飼いによって魚を獲ったり、釣りによって、あるいは網をかなりの深さまで投じて魚を獲ったりしていた事が記されており、現代の我々が行っている漁法は既に発明されていたことが明らかになっている。また水戸神ミナトノカミの孫、櫛八玉神クシャタマノカミがその饗宴の料理人(かしはで)として選任された記録をみても、当時は料理が相当に重視されていたことが理解出来る。

 さらに 宇佐津比古 ウサツヒコ 宇砂都比売比古 ウサツヒメヒコが、一足で上ることができるような簡単な宮殿を造って大宴会を開いたときに、菟田縣ウダノアガタの長であった弟猾オトウカシが、牛の肉と酒を献上して皇軍をねぎらう宴会を開いた事から、この当時は牛が食べられていたことを理解できる。
 時代は下がって 日本武尊 ヤマトタケルノミコトが東国遠征を行った際に、 久米直 クメノアタヒの祖先である七拳脛ナナツカハギという名前の人物を料理人として随行させた事が正史に記録されている。  従来、皇室付きの料理人はいなかったことが、前に述べた櫛八玉神が臨時で料理人として選任された事、および『古事記』の中巻に、神武天皇が土雲八十建ツクモヤソタケルを平定した記述部分から明らかである。よって専門の料理人として歴史に現れたのは七拳脛が始めである。 その後に、磐鹿六雁命イワカムツカリノミコトが皇室の大膳職として景行天皇の詔勅を受け、それ以来、皇室の大膳部の長は磐鹿六雁命の子孫の世襲職となったことは前に記した通りである。その後、料理人として有名になって人物は、

 ・ 大濱の宿彌
 ・ 吉備御友別
 ・ 黒日女くろひめ - 吉備海部直之女(歴史によれば名は黒姫とあるが非常に美人であった)
 ・ 膳臣かしわでのおみ長野
 ・ 白髪部膳夫
 ・ 内膳卿膳臣かしわでのおみ大麻呂
 ・ 膳臣かしわでのおみ巴提使はでし

  巴提使の名前は中国人名に近いが、彼は帰化人ではない。当時、日本は三韓および中国との交易が頻繁に行われており、中国の文化の真似をするものが非常に多かった、巴提使はそれに倣ったもので当時のハイカラな名前であった。中国風の名前を付けて得意になっていたのである。巴提使については次のような逸話がある。ある人が君主からの命令で、百済に渡航していた際に、ある旅館に滞在した風雪の夜に虎による被害に遭い、子供を失ってしまう。巴提使は翌朝、雪の中に虎の足跡を辿って追跡し、ついに山深い洞窟の中に敵の虎を見つけ、格闘の末にその虎を殺し、その皮を剥いで日本に持っ帰ったため、朝廷はその男の勇気を讃えた。

 ・ 膳臣かしわでのおみ大伴
 ・ 膳臣かしわでのおみ摩漏
 ・ 奉膳乳朝臣真人

 これらの人物を経て、天武天皇十二年に磐鹿六雁命から十代目の子孫で、小錦上しょうきんじょうの官位にあった国益(後に高橋朝臣たかはしあそんという名を下賜される:御厨子所預)から始まる高橋家、および大橋家の両家が存在した。この子孫の中には皇室の料理職に関係する有名な者が少なくない。光孝天皇の時代に、四條中納言山蔭という人物が出てくるが、彼が四條流の元祖であることは既に前に記した通りである。
他にも以下のような料理人が続く

 ・ 園別当入道基氏(天福二年に出家して園空となる。四條園流の始祖)
 ・ 細川勝元(文安)
 ・ 細川春元(享保、天文の頃)
 ・ 大草三郎左衛門(先に記した大草おおくさの始祖、京都将軍家の料理人)

 ・ 厨人 坪内

  厨人坪内は三好家の料理人であったが、三好家が滅びて織田信長に捕らわれる。ある人が信長に、坪内は料理が上手く、七五三の饗宴の方法などをことごとく知り尽くしている。かれに恩赦を与えて織田家の料理人にするようようにと進言した。信長は試しに食事を準備させ、その可否によって生かすか殺すかを決めようと考え、坪内を召してそれを行わせた。坪内は三好氏での料理法によって食事を作り差し出すが、信長はすぐに箸を投げて、このような水臭いものは食えたものではないと言い、即座に処刑しようとしたが、坪内はそれでももう一食だけを試みて頂くように嘆願し、翌日に膳を改めて差し出したところ、信長は非常に喜び、すべてを残さず食べつくして、天下の料理人であると激賞して、即日、罪を赦して俸禄を与えて優遇したのである。 坪内は信長の前から退出してから、昨日は第一流の調味を行った為に、味が淡白で無いとお叱りを受けたが、今日差し上げた料理は三流の味付けだった。しかも返ってお褒めの言葉を頂いた。三好氏は幕府での要職を五代も歴任した名門、食の品位も一流である必要があったが、信長公がこの域に達するにはまだまだ遠いだろうと述べている。

 ・ 細川幽斎

(天正の時代に、よく料理の事に通じ、秀吉に愛されていた。秀次公に伝わる秘伝書は庖丁家の奥義であると言われる)

 ・ 園部新兵衛丞

(四條園部流の元祖で、幕府の膳部長である。)

次いで幕府の料理人は
 ・ 堀谷彌九郎
 ・ 鈴木喜蔵
 ・ 長谷庄助
といった人物たちがいた。続いて正徳年間には
 ・ 神尾五八郎
 ・ 園部又兵衛

 享保年間、京都には四條家の家臣であった高島氏がいた。安永年間には廣島幸右衛門、石井治兵衛らが出てきており、文政天保年間には江戸に、八百善、平清、田川屋などが有名であった。

 明治に入って19年頃に日本食物會を起こし、雑誌を発行し、会員は時々集合して料理の研究を行っていた。当時の主催者は四條隆平であり、幹事に陽其二、河原田盛美、野邊地尚義、米津恒次郎、丸山清吉、澤渡栄などがおり柳楢悦やなぎ ならよし、以下十数名が評議員であった。主催者の四條隆平は四條流の元祖である山蔭中納言の後裔であり、野邊地は紅葉館の主人、米津は凮月堂のオーナーである。柳楢悦やなぎ ならよしは料理の研究をした人物であり『山蔭落栗』の著書がある。

【 附 四條流、大草料理の一瞥 】
 四條流および大草流の料理法はすでに概説したように(室町時代)とにかく形式または儀礼に偏重しており、料理の内容や味に関しては、却ってあまり顧みようとしない傾向にある。魚の捌き方、野菜の作り方、四季の物と称するものについてそれぞれ手続きがあり、包丁の持ち方、魚箸の使い方、俎板の置き方、装束の着方、扇子の扱い方に至るまで複雑多様であり名状しがたい。 料理は見るためのものとなり、食品で作る細工物のようなものになってしまっている。その折紙、または秘伝と称されているものは、思わせ振りで、勿体つけただけのものでしかない。もし官僚的傾向というものが、形式や外観に重きを置くようなものであるとするならば、日本の旧式な料理こそが最もその官僚的傾向を示していると言えるだろう。 こうした傾向があるので、庖丁流派が論じているものは品質、季節、火加減、滋味に関してではなく、食材によって上下の差別を定めるようなことである。例えば鯉を魚の最上位であるとし、鶴を鳥の最上位とし、獣は四つ足であるゆえに一概に穢れ物として排斥するのである。そしてまた徒らに時期に外れた食材であってもそれを重要視する傾向がある。例えば雪の中にタケノコを求めたり、冬にスイカを貴重とするなど珍しいものを手に入れることを誇りとしているのだが、その他方では食忌、または食べ合わせを唱え、範囲は非常に多岐に渡る為それらを記憶することは容易ではない。四條流には鯉の料理法に四十通りの手続きがあり、大草流では大根の切り方に五十通りに近い方法があり、すべて庖丁を使う前には必ず呪文を唱えることが通例になっているようである。 本書においては一々これらの方法を記述する暇はないが、この詳細を知りたければ『園部家伝書』,『大草流相伝書』,『十二因縁書』,『七五三相伝折紙』,『体様旧式巻』を読んでみると良いだろう。ここからは大草流の料理法の主なものを抜粋するので、日本の古風料理が如何なものかを知る為の助けにして頂きたい。



一、生鶴料理の事
 生霍料理之事、先作候て酒鹽を懸て置、汁は古味噌をこくして、能かへらかして、煮出を後入候樣にして、座敷の鉢により鳥を入候也、何も時の物を加へて吉也、夏菜うどなどを酒にて煎て入候也、又もみだうふも吉也、すひくちは柚を入て吉也、

一、生白鳥料理
 作候て薄酒鹽を懸て、味噌に出を入て、かへらかして鳥を入候也、但こゝは何にても時々の物を入候也、うど京菜は酒にて煎て加ても吉、又もみ豆腐を湯にゝしても吉なり、

一、鹽白鳥料理
 先作候て能程に鹽を出て、餘りあつからぬ湯にて洗、しぼりて酒を懸候、汁はすまし味噌少こき程にして、煎出しを後にさして、下地をかへらかして能入候也、何にても加へて吉也、但し茗荷ふきとも湯にをして吉、椎茸も能なり、何色にても二色程加へて吉也、

一、鹽鳥肴の時
 同じく古酒にて洗あげて煎也、

一、鹽鳥汁の時
 荒作をして能鹽を出して、洗候て後、小作をして水につけて、かげん吉時分湯がき候て、酒をかけてすましをかへらかして、鳥の酒をしぼり出して入候也、但吸口は胡椒吉也、

一、眞雁料理之事
 作候て酒を懸汁ニ入候時、なまぬる湯の少あたゝかなるにてゆがき、しぼりて入候也、又すましに足骨を入て煎じ、出しをも別にして後にさすなり、又別の鍋にて羽がいむねの皮を取て、酒煎にしていり付たる皮を能取て、其跡を煎候てすましを入て鳥を入候也、二には夏菜せりなどを加て吉、但吸口胡椒なり

一、生の青鷺料理の事
 作候て二度湯がき。酒にて付て。古味噌こくしてかへらかして。出し候時しぼり候て。にだしをもさして吉。但古味噌の時は。いものずひきを酒にて煎て入候也。又すましみその時は。なすびを酒煎にしても吉也。但椎茸茗荷なども能也。吸口は柚呼称の内しかるべく候也。

一、雉の靑がちの事
 如レ常別候て作り、酒をかけず候、則わたを念を入すごき、能々たたき候也、其後鍋にて鹽を煎候て、其跡に右のわたをかうばしく成程煎候て、すましの汁を入、則煎出をも入、煮たて候時鳥を入候也、こには夏菜うどなすび豆腐、何も時の物を酒にて煎候て、汁もり候時少ツヽ入候て、上汁をかくるなり、但酒鹽は古酒一段上々也、吸口ニは胡椒柚など能候、鹽は右の煎鹽を鳥入ざる先ニ入候て、能加減の時鳥を入候也、

一、鶉汁の事
 鶉汁の時は少燒候て、鳥六ツ程に切て、何にても時の物を加て、ふくさみそにて吉也、又は燒候て、けしくるみなどにてあへ候事も有べし、又丸ながらわたばかり取て。くるみ。くり。けし。はじかみなど入てぬひふさぎて。醤油にてにしめて。筒切にしても出候也。

一、貉汁の事
 むじな汁の事、燒皮料理共云、但わたをぬき、酒のかすを少あらひて、さかはゆき程の時、腹の内に右のかすを入て則ぬひふさぎ、どろ土をゆる〳〵として、能々毛の上を泥にてぬりかくして、ぬる火にて燒候也、燒樣の事、下にぬかを敷、上にも懸てうむし燒にして、土をおとし候得者、毛共に皆土にうつり候を、其儘四足をおろし、なまぬる湯に能酒鹽はいかにもかけしほしてさし候也、

一、鱏の汁
 鱏の汁は、柚の葉をまぜてもみ候て、水にて洗てしぼり入なり、ふくさ味噌こくして、大根豆腐ふきなどをも入て能也、

一、川鱸料理の事
 うしほに上也、但此料理は三番の白水をいかにも薄して、出し汁初より入て、味噌を袋に入て、鹽は初より少入て吹立て、加減を見る也、酒鹽はたべ候時にさしたるが能也、

一、鯛のさしみ
 鯛はさしみにもする也、但辛酢上也、是は夏の料理ニ吉也、

一、鮒膾の事  作候て水出し酒出し、夏は酢を多く入て吉、冬は酢を少しひかへる也、何もなますの加減同前也、但鱠の口傳は、酢を酒水出し入合、念を入てき色大事なる加減也

一、鱶料理
 鮝料理は、先湯にして、辛し酢にてもしやうが酢にてもさしみに吉也、

一、鮎料理
 切り候て酒につけ煎り候時、ゆがきて上げて入れ候也、但し生芋の莖ちしゃ等をも湯煮をしても吉、又さん枡味噌付けて焼きても能なり。

一、うなぎ鱠
 醬油を薄くして魚にかけて、少し火執候て、切って上記〈料理〉同加減にする也、又は湯を暑かにして拭てもあぐる也、是は中也、鱠は口傳有也、

一、鯨の料理
 能くコミコミを出させ、その上糠にて磨き、ぬめりのなき程にして、濁酒にて能く煮候也、其上の常の如くにコを入れて味噌を濃くして入れるなり。

一、鯛の苔燒
 わたをぬきて、皮をむかずに藁にて卷候て、上に壁土を塗付、火中にくべて燒也、則口より竹を指こみ、竹より醬油をさし候也、

一、鰒汁料理の事
 さしあひあり候也、取捨て仕り候也、但し櫁の木または古屋の煤かたくきらふべし、

一、鯛
 鯛は、湯にて洗わず候也、うしをの事は右鱸の如く也、冬は薑酢にても鯛を少し暖かにして一ぺん加減する也、但し出す時花鰹を上において能きなり。

一、昆布汁料理の事
 こぶ汁料理は、先火執候て、其儘水ニ入て、後に能比に切候てより、醬油にても水出しにても、粒山椒を入て燒レ之ば、一段と藥に成候由言傳候也、

一、饂飩豆腐料理
 常には細く切りて湯煮をして醤油に山椒胡椒を入れて能き也、但し別流には作りやう薄く細く長きやうに之有、湯煮に口伝あり。

一、納豆汁の事
 豆腐いかにもこまかに切て、くきなどこまかに切て、ふくさ味噌にて能々立て、すひくちを入候也、但くきは出し樣に入て吉也、なつとうのはしやうは如レ常ねせて吉也、



註 釈