生間流いかまりゅう


生間流の起源


『生間流式法秘書』によると、貞観元年(859年)に藤原中納言政朝が勅命を奉じ、式包丁なる儀式を定め始祖となったとしてる。この藤原中納言政朝とは藤原山蔭のことである。つまり四條流と同じく、生間流も、その源流を藤原山陰としていると主張しているのである。『生間流式法秘書』には、山陰から続く山蔭流の子孫の名前が記録に連ねられている。山陰→有頼→有衡→國光→忠輔→相継→相國→國重さらに兼廣を経て、その子である兼慶(1196年)が、源頼朝公に仕え、生間の姓と定紋三ツ藤を賜る。この時から生間を名乗り、生間流が始まっているとしている。

 以下、歴代の生間流家元の名前を挙げる。

1  兼慶 [1196年] 建久7年 3月11日卒
   ↓
2  兼重 [1221年] 承久3年 2月8日卒
   ↓
3  兼俊 [1250年] 建長2年 5月6日卒
   ↓
4  兼房 [1264年] 文永元年 4月24日卒
   ↓
5  兼定 [1304年] 嘉元2年 7月20日卒
   ↓
6  兼高 [1316年] 正和5年 2月9日卒
   ↓
7  兼泰 [1344年] 康永3年 9月19日卒
   ↓
8  兼宗 [1360年] 延文5年 5月2日卒
   ↓
9  兼季 [1384年] 至徳元年 8月31日卒
   ↓
10 兼隆 [1428年] 正長元年 5月8日卒
   ↓
11 兼忠 [1437年] 永亨8年 9月20日卒
   ↓
12 兼蔭 [1485年] 文明17年 3月17日卒
   ↓
13 兼信 [1539年] 天文7年 3月11日卒
   ↓
14 宗仁 [1558年] 弘治3年 7月9日卒
   ↓
15 宗長 [1582年] 天正9年 6月8日卒
   ↓
16 兼長 [1612年] 慶長17年 7月11日卒
   ↓
17 兼秀 [1658年] 明暦3年 1月8日卒
   ↓
18 正秀 [1681年] 天和元年 11月12日卒
   ↓
19 正長 [1697年] 元禄9年 11月11日卒
   ↓
20 正重 [1717年] 亨保2年 3月8日卒
   ↓
21 正次 [1731年] 亨保16年 2月14日卒
   ↓
22 重為 [1764年] 宝暦5年 6月29日卒
   ↓
23 正封 [1760年] 宝暦10年 7月11日卒
   ↓
24 正鄰 [1823年] 文政6年 5月3日卒
   ↓
25 正芳 [1861年] 安政2年 12月9日卒
   ↓
26 正晟 [1893年] 明治26年 6月4日卒
   ↓
27 正起 [1901年] 明治34年卒
   ↓
28 正敏 [1967年] 昭和42年卒 明治37に萬亀楼が生間を買い取る。
   ↓
29 正保(小西義重) 1935年生
   ↓
30 正保(小西将清) 1958年生
   ↓
31   (小西雄大) 

 このように歴代の家元が『生間流式法秘書』には記録されており、その起源をたどることが出来るようになっている。この記録は27代目の正起までの記録しか『生間流式法秘書』に記載されていない為、28代目の以降の家元については資料に基づき加えてある。
 生間流はその始祖を藤原山蔭にまで遡れるとしているが、生間の姓を賜った兼慶をその初代としている。現在は正保(小西将清)が家元であり、生間流30代目となっている。


藤原山蔭とのつながり


 家系では藤原山蔭に血縁で繋がっているように記載されているが、『尊卑分脈』にある家系図を見ると、藤原山蔭と生間家の初代であった兼慶とのつながりは不明瞭であることが分かる。生間流の初代であった兼慶の父は、小野田兼廣とされており、、この人物は山蔭流の家系図にも載っている。しかしその子息とされる兼慶については、記録を見ても一向に名前が出てこない。正史の家系図では小野田兼廣の子息(嫡子)は安達盛長とされている。その安達盛長は頼朝に仕え、鎌倉幕府の時代に安達一族として勢力を伸ばしてゆくことになる。よって安達盛長の兄弟に兼廣という存在があり、また頼朝から生間の姓を賜り、頼朝に仕えていたのであれば、兼廣に関する記録が多くあっても不思議ではないのだか、どうも肝心要のこの代から記録が不明瞭になっているようである。
 兼慶は小野田兼廣の子息とあるが、もしかするとここから家系として親族のつながりは無くなっていて、家元として代々名前が記録されているだけなのかもしれない。四條家は、代々、血縁としての家系を保ちながら続けられているが、生間流は名前で継承されており、必ずしも血縁によるものでないというのが四條家と異なるところだろう。

 また初期の頃(鎌倉時代)は記録がないので、実際にどれだけ庖丁の事に従事していたのかは不明瞭である。ただ8代目の兼宗の時に、足利家に仕え、大禮の式を掌ったことが記録されているので、この頃から、生間家は料理に従事していた事は確であると言えるだろう。


16代目 生間兼長


 次に生間流の中でも重要な人物であると思われる「生間兼長」を取り上げる。『生間流式法秘書』には兼長に関する以下のような説明がある。

【 生間流式法秘書 生間家歴代塁賦 】

永禄四年 将軍義輝公二好屋形へ御成ノ節 饗禮ヲ奉勤ス 其後 織田右府公二仕フ
天正十年五月 安土城ニ於テ 上様“信長公” 三河守“徳川家康公” 御申シノ節饗禮ヲ奉仕ス 其後 豊臣秀吉公ニ仕フ
天正十六年四月十四日 秀吉公 聚楽城ヘ御成ノ節 饗ノ大禮ヲ奉仕ス 台命ニ依リ鮟鱇釣庖丁ヲ奉勤シ御太刀一振ヲ賜フ
主上聚楽城ヘ行幸ノ節 秀吉公ヨリ 陽光院皇子八篠“後チ桂宮ト称ラル”一品式部卿智仁親王ニ付属セラル両後代々同宮家ニ扈従シ毎年正月三日 御簾外ニ於テ式庖丁ヲ奉仕ス 其都度御太刀一振ヲ賜フ


とあり、兼長は時の将軍であった足利義輝に仕え、その後に織田信長に仕えて、信長と家康の饗宴のための料理を行ったこと。さらに信長の後には豊臣秀吉に仕え、鮟鱇釣庖丁を披露し、その秀吉の命令で、八条宮家に仕えるようになったという経緯が書かれている。兼長はこの時代の歴史的な主要人物とかかわっており、生間流の最も華々しい時代であったのではないかと考えられる。
 以降、八条ノ宮家、後に京極ノ宮家、有栖川ノ宮家と、明治時代まで生間は代々、宮家に仕え続けることになる。


17代目 生間兼秀


 『生間流式法秘書』には兼長の息子である兼秀には以下のような説明がある。

【 生間流式法秘書 生間家歴代塁賦 】

天正十六年四月十四日 秀吉公 聚楽城ヘ御成ノ節 父兼長ト共ニ召出サレ 白銀及御帷子 御単服ヲ賜フ

慶長二年四月 秀吉公ノ御媒酌ニテ蒲生氏郷ノ男 秀行家康公ノ姫君ト御祝言ノ節 式法及び饗禮ヲ掌ル

八條宮仁親王ノ御命ニヨリ 鮟鱇釣庖丁ヲ奉仕ス 其賞トシテ御太刀一振ヲ賜フ

慶長十二年 朝鮮信使来朝ノ砌 徳川家ノ命ニヨリ 盛饌調進ス

元和三年 将軍秀忠公 加賀筑前殿ヘ御成ノ節ノ大禮ヲ勤ム

同七年六月十一日 江府ノ女君“秀忠公ノ女 東福門院ノ事”御入内御 大禮ノ饗饌ヲ 二條城ニ於テ奉仕ス


 この記述を見ると、16代目の兼長の息子、17代目の兼秀もまた、料理で活躍していた様子が伺える。父と一緒に豊臣秀吉の為に料理を作っており、さらに八條宮仁親王の前で鮟鱇釣庖丁を披露している。
 さらに朝鮮使節の料理を担当したり、徳川秀忠のための料理、および秀忠の娘の婚礼のため二条城での料理を務めたことも大きな仕事であった。


18代目 生間正秀


 『生間流式法秘書』には兼秀の息子、正秀に関する以下のような説明がある。

【 生間流式法秘書 生間家歴代塁賦 】

元和九年八月 家康公 将軍宣下ノ祝饌ヲ父 兼秀ト共ニ之ヲ奉仕ス 御祝トシテ白銀二十挺。単服。葛衣十六領ヲ賜ヒ台顔ヲ拝ス
寛永元年 徳川家ノ召ニ應ジ 東武ヘ下リ正月三日 秀忠公 紀伊殿ヘ 同月二十七日 家光公 紀伊殿ヘ 二月六日 秀忠公 水戸殿ヘ 同十日 家光公 水戸殿ヘ 四月五日 家光公 下野殿ヘ 同月十四日 秀忠公 下野殿ヘ 同二年二月五日 秀忠公 甲斐殿ヘ 同月十二日 家光公 甲斐殿ヘ 同月二十七日 家光公 尾張殿ヘ御成ノ節 毎時式法ノ盛饌ヲ調進シ式庖丁ヲ奉仕ス 御褒美トシテ白銀三百十九挺ヲ賜フ

御水尾院八條宮ヘ行幸ノ節 門人十余名ヲ率ヒ御簾外ニ於テ式庖丁ヲ 睿覧ニ供ス

寛永三年九月六日 秀忠公 上洛台命ニヨリ 饗饌ヲ掌ドル 父子へ白銀五十挺ヲ賜フ

後水尾院 二条城へ行幸 大相国“秀忠公”ノ命ニヨリ菊花ヲ剥キ之ヲ白銀ノ手桶三個“ひとつは紋ニ菊水。ひとつは葵丸。一ハ無地一尺五寸廻リ三尺”ニ挿シタルヲ献ゼラレシ所 大ニ 睿感アラセラレタリト伝

寛永二十年 及 明暦元年 朝鮮信使 来朝両度トモ 台命ニ依リ 式法ノ盛饌ヲ掌ル


 ここでは18代目の正秀が、父である兼秀ともに家康、秀忠、家光の徳川三代の為の料理を司どったことが記されている。また二条城に徳川秀忠を招いての宴では、菊の花を剥いたが、ひとつは菊、もうひとつは葵と、皇室と徳川家の家紋をあしらった演出で大いに喜ばれたことが記されている。
 他に朝鮮からの使節が来た際に、2度もそのための食事を準備したことも特筆すべき業績であろう。以降も生間流にはこうした大役が継続的に任されるようになったとみえ、20代目の正長、21代目の正次、23代目の正封が代々、朝鮮からの使節が来た際に饗宴料理を担当している。


お家騒動発生


 24代目の正鄰は、父の正封から家元を引き継ぐと、生間流にとって大きな事件が起こる。『生間流式法秘書』に記載されているその事件を引用する。

【 生間流式法秘書 生間家歴代塁賦 】

正封ノ手代同様ノモノニ 高橋又市正易トイフ者アリシガ 父正封死去後 屢次るじ 捨置キ難キ不埒アルヲ以テ 巳ヤムナク之ヲ 放逐ス 又市 身ヲ措ク所ナキヨリ 是适密ニ写取置シ生間家ノ式法ト竊取ぬすみとりセシ書類トヲ携ヘ傳ヲ求メ 自ラ生間ト詐称シ 四條家へ行キ甘言ヲ以テ正封以来ノ門人ヲ誘フ 之ニ応ズル者数名 之ヲ生間ノ高弟ト詐リ 四條家へ引入レ 其者等ト協謀シ 生間家ハ元四條隆重ノ門葉ニシテ 生間兼長ハ四條隆益ニ師事シ塩梅調味ノ事ヲ学ビシナド痕跡モナキ事ヲ世間ヘ言触シ 種々ノ悪計ヲ取組 諸国ヲ遍歴シ 生間家傳来ノ式法口傳書等ヲ 所々変造シ 之ニ四條流生間云々ト書セシノミナラズ 我先代ノ兼長ガ四條流ヨリ庖丁ノ免状ヲ受ケ居ル偽リ事ノ軸物ナドヲ拵ヘ 之ヲ巳レ門人ヘアタヘ 傳料ヲ取リ糊口ノ資トス 故ニ右等ノ物 今猶いまなお所々ニ散在ス 此ヨリ四條流大ニ世ニ弘マル 宮ニハ臨時ニ生間家ノ掛リヲ設ケラレ 生間ハ秀吉公ヨリ当宮ニ付ケラレシ家ニシテ 鎌倉右府公ヨリ足利。織田。豊臣氏ニ仕ヘ 往来ヨリ由緒アル家ナルニ 四條隆重ノ門葉ニシテ 隆益ニ師事セシナドト いうもってほかノ事也 捨置キ難シトシテ 寛政三年二月 宮ヨリ直ニ四條家へ御取調ニ相成シ所 四條家ヨリ右等ノ事ハ毛頭 之ナシトノ返答ニヨリ事済ト相成タリト雖モ 其後 宮ヨリ一層厳重ニ生間家ノ家業ヲ御保護 相成タリ是ノ 御厚思ハ永世忘却スベカラズ

安永七年十二月十五日 君命ニヨリ鶴ノ庖丁ヲ奉仕ス 御褒美トシテ各種ノ物ヲ賜フ

天明年間 門人 磯部嘉兵衛へ大津。石場。膳所邉ノ門人ノ師範代ヲ申付置キシ所 屢次るじ不都合ノ所為 之アリシユヘ 叚々申聞セタレドモあらためズ 遂ニ生間家ノ式法ヲ破リ 磯部流ト唱ヘ大津。膳所邉ノ門人ヲ押領ス 故ニムナク之ヲ破門ス 大津ニ於テ磯部流ノ起リシハ此ノ時ヨリ始マル


 このような興味深い記録が残されている。要約すると以下のような事件である。

 先代の門人のひとりであった 高橋又市正易という者がいたが、問題行動の為、追放したところ、生間家の秘伝を盗み、自ら生間であると偽って数名の門人を誘い、四條家に行ったとある。さらに又市は、諸国を周り「もともと生間兼長は四條隆重の門人でしかなく、兼長は四條隆重の息子、四條隆益に師事して調味等を学んだのだ」という偽りを言い触らしたと記してある。また四條家から免状を生間兼長はもらったいう軸物をこしらえて、それを他の門人にも傳料として金銭を取って与えた事、さらには、こうした偽文書が諸国に広まり、その為に四條流が広まったのであると説明している。

 こうした事態を重く見た、生間家の主人である宮家は、1791年2月に四條家に直接、この問題の真偽を問い合わせる。それに対して四條家から出てきた答えは「このような事実は全くない」というものであったので、これで問題は解決したと述べている。

 高橋又市の事件が終息した後、正鄰が安政7年(1778年)に鶴の庖丁を行った事が記録されているが、これには深い意味があると考えている。但しこれに関しては、ここでは語らず詳しく後述することにしたい。

 こうした大きな騒動のあった生間家の時代であったが、問題はそれだけで終わらなかった。それから数十年後の天保年間(1831年~1845年)に再び分派の問題が発生する。
 門人で師範代でもあった磯部嘉兵衛が、度々、不都合を起こすので注意を行っていたが改まらず、反って門人を引き連れて生間流を破って新しく磯部流を興したために、破門にしたと述べてある。こうした動きが見られるようになった原因として、高橋又市の問題がまだくすぶっていたのかもしれないし、生間家の方法を問題視する傾向が大きくなってきていたのか、あるいは生間家自体が、その求心力を失ないガバナンスが緩くなっていた為かもしれない。
 いずれにせよ24代目の正鄰の時代は、生間流において様々な問題が続いた時期だった。そしてこれは25代目でも同様に起こる問題となった。


お家騒動再び


 生間流の25代目は正芳である。父である先代の正鄰が死去して、同じような問題が再び発生する。その事態を引用する。

【 生間流式法秘書 生間家歴代塁賦 】

父 正鄰死去セシニ付 正鄰ノ門人 空木和七郎ナルモノ 又市ノ弐ノ舞ヲナサント企テ 四條家へ入込ミ 自ラ生間ト名乗リ 京阪間ニ奔走セシト雖モ 数年ナラズシテ死ス


 25代目の時代に、再び空木和七郎という門人が問題を起こしている。この空木和七郎も高橋又市と同様、四條家に入り込んだとしている。まったく同じ事態が起こっていることから構造的な問題は何ら解決されていなかったという事が理解できる。
 この高橋又市と空木和七郎が時期を前後して共に、四條家にコンタクトを取り、造反したという所に実は深い訳があるのではないかと考えている。こうなると「宮」が四條家に確認を行ったということも効力が問われるし、そもそもこうした確認が本当に行われたのか、あるいは、仮に確認が行われたとしても、四條家が本当に「右等ノ事ハ毛頭 之ナシ」という返事をしたのかも疑わしく感じられてしまう。

 ここまでは生間家の観点から、このお家騒動を見ているが、四條家の観点から、この事件を見ると、また違った利権が絡んだ深い内情が浮かび上がってくるに違いない。ではこの問題に関して、四條家はどのように述べているのかを次に、別角度から明らかにしておきたい。


四條家の生間家に対する記述


 先ほどは、生間家のサイドから一方的にお家騒動を見てきた。ここでは四條家のサイドから生間家をどのように見ていたのかを述べる。(四條流に関する詳細はこちらから)
 四條家の文書として『御家元庖丁道御縁記』という由緒書きが残されている。この文書は宮内庁書陵部蔵『四條家庖丁道入門関係書』のなかにあるとされており、この現代語訳が『宮中のシェフ鶴をさばく』西村慎太郎著に記載されているので、ここで生間流に対する四條家の見方をうかがい知れる。

【 御家元庖丁道御縁記 】

代々、高名な庖丁名人があり、数えられない。世間には小笠原流庖丁道があって、中興の名人、細川兵部大輔藤孝は当御殿の御家伝を受けて、その後、小笠原家へ譲り、天正年中(1578年~1593年)に上原豊前守・岡本信濃守、慶長年中(1596年~1615年)に園部和泉守・高橋五左衛門などが当御殿に従ってその流法を守り、御免許を授けられた。宝永年中(1704年~1710年)に岡本三左衛門重憲が岡本流を興した。福田左兵衛清春は福田流を開基した。そのほか、伊勢流、武田流、吉良流、曽我流というけども、みな当御殿の末流である。現在、生間流とあるものは二十六代隆重卿御門人だったが、流法に背いたため、破門させられた。


 このように四條流の『御家元庖丁道御縁記』には、各流派の情報が記されており、すべての流派の祖には四條流があると説明している。
 ただこの記録には衝撃的な一文がある。そこには「現在、生間流とあるものは二十六代隆重卿御門人だったが、流法に背いたため、破門した」とある。これに関して一言意見を言わせて頂くと「生間家の話と、全然、違うじゃねーか!」である。また同時にこれが昔から残されている歴史ある家系の私文を読んでいて、面白くワクワクする部分でもある。私にとって、こうした記述は、FRIDAYや週刊文春の下世話なお家騒動記事を読んでいる感すらある。

 『生間流式法秘書』は当然ながら生間家サイドのみの意見しか記述されていない。生間家の兼長が四條隆重に師事していたこと、さらには生間流が四條家から分派したという流言に対して、生間家の主人である宮家が1791年2月に四條家に直接、この問題の真偽を問い合わせた際に、四條家から出てきた回答は「このような事実は全くない」というのが生間派の見解である。
 しかし、この四條流サイドから書かれた『御家元庖丁道御縁記』を見ると驚くことに「四條隆重が生間を破門した」である。両家の述べている意見はまるで違っているのである。ではなぜこのような事が起こったのか、分析する事としたみたい。

【 註釈 - 生間家が仕えた宮家について 】

 ちなみにこの時期(1791年2月)生間流が仕えてきた桂宮家は空位であった。さらに『御家元庖丁道御縁記』の中では「宮」としか記されておらず、誰が四條家への確認を問い合わせを行ったかがはっきり示されていない。(もしかするとこの辺りにも何らかの思惑が関係しているのかもしれない)
 生間派は豊臣秀吉の命により陽光院皇子八篠に仕え、以来、八条宮家 - 京極宮家 - 桂宮家とこの系統の宮家に仕えてきた。しかし京極宮公仁親王きょうごくのみや きんひとしんのうが明和7年(1770年)に亡くなる。次の桂宮盛仁親王かつらのみや たけひとしんのうが文化7年(1810年)に京極宮を継承するが、その間40年は空位であり1791年2月はその期間中にあたる。ではどの宮家が四條家に確認を行ったのだろうか?
 現代の生間派の継承者である「萬亀樓」からの情報によると、有栖川宮家にも仕えたとある。1791年に有栖川宮家の当主は6代目の有栖川宮織仁親王ありすがわのみやおりひとしんのうであり、この空位の時期に有栖川宮家に仕えていたとすると、四條家に対する問い合わせを行ったのはこの人物であったのではないかと考えられる。(本来であれば長年仕えてきた八條桂宮家が、四條家に問い合わせたのであれば、もっと価値が高まったに違いないと思われる)
 この明確にされていない「宮」による確認が、私には意図的にぼかされているように感じる。詳しい分析はまた別の機会に譲る事としたい。

 有栖川宮の系譜は「ココ」からご確認頂きたい。



四條隆重しじょうたかしげという人物


 『御家元庖丁道御縁記』で生間流を破門したとされる四條家の26代目にあたる四條隆重とは一体どのような人物だったのか。『尊卑文脈』によると隆重の生没年は1507年~1539年である。この時代の日本は正に戦後時代であり、公家の立場も不安定で安泰とは言えない状況にあった。
 こうした中、四條隆重は1536年に31歳で駿河の今川義元いまがわよしもとのもとに下向する。この理由は明らかになっていないが戦国乱世による収入激減のため、戦国大名を頼ったものと考えられる。しかし翌年、父の隆永たかながが死去したため、5月に急いで上洛する。しかし都にもどると狂気に陥り出仕できなくなり、1539年11月19日に死亡する。
 西村慎太郎は『宮中のシェフ、鶴をさばく』の中で、四條隆重に関して「弱々しい公家が戦国大名を頼って逃れて来て、父親が亡くなってしまったことで、無常観や社会への不安に耐えかね、精神錯乱に陥ってしまったという哀れなイメージが想起されるかもしれない」と述べているが、私も同様のイメージを四條隆重には感じる。
 またこの当時、四條隆重が伝授したという『武家調味故実』が残されているが、なぜこの書物の制作に関与し、またなぜ隆重が駿河に下向したかについて西村慎太郎は以下の様に分析している。その部分を同書『宮中のシェフ、鶴をさばく』の中から引用する。

【 宮中のシェフ、鶴をさばく p187 】

 四條隆重は先祖の技である庖丁を生かして、各地で営業を展開しようとする。そのためには伝授する秘伝が不可欠であり、『武家調味故実』の原型を作り上げる(そこには本物の庖丁人とのタッグが必要であろう)。秘伝と由緒を創出して、いざ、駿河国へ下向。乱世を「庖丁一本」で渡り歩こうとした。『武家調味故実』が伝来していることから、隆重の思惑は成功したといえよう。ただし、隆重の狂気と急逝によって、若干九歳で四條家を相続した隆益たかますやその養子の隆昌たかまさは「庖丁一本」で生き抜くことはしなかった。その理由は判然とはしないものの、大名領国への下向は多くの危険を伴うことも原因であろうが、やはり家職として意識化されるほどではなかったためであろう。


 このように述べて、四條隆重の行動を推測している。西村慎太郎は四條隆重の行おうとしていた事は「家職としての庖丁道、創出と再発見」であるとしている。つまり過去に庖丁で技をもっていた4代目の四條隆成のような祖先がおり(隆成の庖丁の事績は『古今著聞集』六二六段に記されている)こうした記録を見ると、庖丁で身を立てていた先祖が確かに過去にいたという意識が、四條家には代々あったはずであると説明している。
 さらに次のようにも述べている。

【 宮中のシェフ、鶴をさばく p185 】

 技に対する認識が継承され、秘伝を作り、文書化され、相伝されたものが家職である。しかし、四條家の場合、家職になっているようには思えない(少なくとも、そのような資料は皆無である)。おそらく、鎌倉・室町時代の四條家は大臣を輩出するほどの最高級の貴族であり、技を伝えて身を立てていたわけではなく、あくまで「最も古い時期の祖先が持っていた技」という意識に過ぎなかったものと思われる。しかし自己の存在が脅かされ、何とかして生き抜こうとする時、先祖の技という伝説が役立つなら、使わない手はあるまい。戦国時代真っ只中の四條隆重はそんな状況下にいた。


 このように述べて四條隆重の行おうとしていた事は「家職としての庖丁道、創出と再発見」であるとしている。

 さてここで、当初の疑問に立ち返ってみたい。つまり「四條隆重が生間流を破門したのは事実かどうか」という問題である。もしそれが事実があるとするならば、これまで積極的に庖丁の技に携わってこなかった四條家が、突然、四條隆重の代になって、庖丁で身を立てようとし始めた事と、この破門の原因に何らかの因果関係があると考えられないだろうか。

 その原因として『武家調味故実』の成立が、深く関係しているのではないかと私は考えてる。そもそも『武家調味故実』は、割く事、つまり庖丁使いの技についてだけでなく調味の仕方についても語られている書である。後で引用するが、四條流の秘伝の中には庖丁人と料理人は異なると説明している。つまり庖丁式で鯉や鶴をさばいて見せるのが身分の高い公家などであり、それらが庖丁人であって料理人はそれに含まれないとしてある。そして料理人とは、庖丁人に従い、文字通り調理を行う者たちであるというような事が記されている。

 そなると四條隆重が『武家調味故実』を記すことには矛盾が生じることになる。つまり割くこと、切ることにおいては何らかの庖丁人としての秘伝を四條家は有していたかもしれないが、調味に関しては全くの素人であったに違いないからである。それだけでない。四條隆重が庖丁の事で身を立てようとしたのは、乱世を生き抜くため過去の先祖の歴史に乗っかっただけの処世術でしかなかった事は先に明らかにした通りである。そうであるならば一層、『武家調味故実』を記すことなど四條隆重には出来るはずもなかったに違いなく、この記述の作成に当たっては、料理人の誰かが介在していることは間違いないのである。
 そこで考えられるのが生間流との関係である。『武家調味故実』の成立の過程において、生間流は四條隆重と何らかの関係を持ち、それ故に、『武家調味故実』が出来上がったと私は考えている。そうなると生間流が、四條隆重に破門されたと考えられる理由は以下の2パターンのどちらかであろう。

 ① 『武家調味故実』の作成に関与することを断り破門。
 ② 『武家調味故実』に関与したが、それが原因で四條隆重とトラブルになり破門。

 実際はどうだったかは不明であるが、②を前提として破門の原因を推測する事としてみたい。
 まず四條家は庖丁人の家系である。つまり庖丁人とは、高橋家や大隅家そして四條家のような庖丁式を執り行う歴史と伝統のある家系に属する者によって占められていた。一方の生間家は、この当時は単なる料理人としての位置づけでしかなく、実際に厨房で料理を作るだけの者であったと考えられる。
 もちろん鯉や鶴を使っての式庖丁は行っていない。10代目、兼隆の時代に足利義満の前で鮟鱇釣庖丁を披露したということが記されているだけである。また四條隆重の門人であり、破門されたと考えられる16代目の生間兼長も天正16年に秀吉の前で鮟鱇釣庖丁を披露したとされ、その息子の17代目の兼秀も慶長2年に八條宮智仁親王の前で鮟鱇釣庖丁を披露している。
 ここで気になるのは、鮟鱇釣庖丁ばかりを披露しているところである。本来ならば、庖丁式では三鳥五魚と言って 鳥は鶴・雉・雁、そして魚は鯉・鱸・真鰹・鯛・鮒だけが使われることになっている。しかも魚は鯉が最上とされており、一般的に庖丁式では鯉が用いられるのが通常である。しかし、初期の生間家では、鯉の庖丁式ではなく、何度となく鮟鱇釣庖丁の披露を行っているだけなのである。

 私は、ここに庖丁における家の格式が出ているのではないかと考えている。つまり生間家は鯉の庖丁式を行わなかったのではなく、行えなかった●●●●●●のではないか。
 鮟鱇は非常にグロテスクな外見の魚である。しかも深海魚で骨がないのでブヨブヨしているため、俎板にあげることが出来ないの為に、吊るして口から水を大量に注ぎ込んで安定させてから、吊るし切りにするのである。
 この当時、上流階級の食卓には鰯でさえ「いわし」という名前が「いやし」に通じるとして敬遠された時代である。鮟鱇釣庖丁はどちらかというと、怖いもの見たさ的なイカモノ料理、あるいは奇妙な見世物的な要素だけが強かったと考えられる。
 一方、鯉や鶴の庖丁式は神事として行われ奉納されたり、天皇の前でお祝いの席で行われる技術であった。こうした対比を考えると、庖丁人である四條家と、料理人でしかない生間家の格式には歴然とした開きがあったことは間違いない。いわゆる庖丁式という公的な庖丁の見せ場は、庖丁人と呼ばれる格式の高い家系には許されていたが、単なる料理人でしかない生間家には許されていなかったと推測される。こうした格式の開きのゆえに、鯉や鶴で庖丁の技を披露することが出来なかった彼らが、唯一行うことが出来たのが、下等な魚類とされている鮟鱇を使った釣庖丁だったのではないか。

 しかしながら生間家は実際の料理においては、高い技術を有していたであろうことは間違いない。なぜなら時の権力者に代々仕えては、度々、重要な宴席の料理を担当してその都度、褒美を頂いているからである。格式は無いものの料理おける間違いのない技術を有していたと言えるだろう。

 四條隆重は、料理に関して、特に調味の事にも触れた『武家調味故実』なる料理書を作り、戦乱の世における収入の立て直しを決めると、まずは生間家を含む料理人に声をかけて協力を要請した可能性が非常に高いと思われる。四條隆重が生間流の秘伝の公開を迫ったか、あるいは勝手に秘伝とされているような情報の一部を勝手に公開してしまい、生間家とゴタゴタがあったかもしれない。もっと酷いことを推測すると、生間家の料理に関する情報を、そっくりそのまま四條家に取り込もうとしたとも考えられなくもない。
 この時、四條隆重は必死であったはずである。今まで料理に関してはズブのド素人であるにも関わらず収入激減の為に、背に腹は代えられない状況であったのかもしれない。何とかして見出した家職としての庖丁を、駿河に下向してまで、何としても収入源としなければならなかったのである。四條隆重はその後、狂気に陥ったとあるので、メンタルが弱いタイプの人物であったのかもしれない。このように、当時から何らかの切迫した状況に追い込まれていて、庖丁に関する知識を手段を選ばずに、ものにしなければならない立場に置かれていたのかもしれない。

 こうした一連の流れのなかで、何らかのトラブルが起こり、破門という結果に至ったのかもしれない。


生間家24代目、生間正鄰の時代


 四條隆重の時代から約250年後。生間家では正鄰が家元になると、門人のひとりであった高橋又市の造反により混乱が始まる。そこで寛政3年(1791年)に生間家の主人である宮家が、四條家にこうした騒動の原因の事実確認を行う。その確認内容は「先祖の生間兼長が、四條隆重の門人であり、その息子である四條隆益に師事した事実があったかどうか」という事である。

 庖丁を家職とし一旗上げようとした四條隆重と生間兼長は同じ戦国時代に生きており、先にも述べたように『武家調味故実』の制作において、生間家も何らかのかたちで関係した可能性もある。そうなると四條家に残されていた『御家元庖丁道御縁記』にある「四條隆重が生間流を破門にした」という記述には多少の信憑性が生じるのである。
 この『御家元庖丁道御縁記』、西村慎太郎の説によれば19世紀初期に作られたものであるという事である。
 つまり時系列で言うと、まず18世紀の後半に「先祖の生間兼長が、四條隆重の門人であり、その息子である四條隆益に師事した」という生間の評判を落とす説が、造反した門人から出てくる。
 それを確認するために1791年に、生間流が仕える宮家が四條家に「このような事実があったのかを確認する」が、四條家からは「そのような事は全くなかった」という返事が返ってくる。ここまでは生間流からのソースによる言い分である。
 しかしそれから程なくして、19世紀に入ると四條家の主張は「四條隆重が生間流を破門にした」と言う主張に変わり『御家元庖丁道御縁記』にその事が記される。

 ここで起こる疑問は、なぜ18世紀後半に、四條家は、四條隆重の門人が生間兼長であるという事を否定したにも関わらず、19世紀前半になると「四條隆重が生間家を破門した」という見解に180度変化したのだろうかという事である。
 この変化の原因のヒントは、この時期に『御家元庖丁道御縁記』が作られたという事にありそうである。つまり四條隆重の生きた戦国時代に『武家調味故実』を作ったのと同様に、それから約250年後の19世紀前半においても『御家元庖丁道御縁記』を作ることで、四條家の庖丁道としての権威を家職として利用しようという動きがあったのではないだろうか。その為には、先祖が生間流を破門にしたという事績は、権威を高めるためには外せない部分だったに違いない。
 こうした動きに該当する可能性のある四條家の人物は、以下の人物たちがである。

 33代目 四条隆叙(1730年 - 1801年)71歳
 34代目 四条隆師(1756年 - 1811年)55歳
 35代目 四条隆考(1781年 - 1801年)21歳
 36代目 四条隆生(1793年 - 1857年)64歳
 37代目 四条隆美(1815年 - 1834年)20歳
 38代目 四条隆謌(1828年 - 1898年)70歳

 宮家からの事実確認(1791年)に対して、四條家として「生間流は門人であったことは無い」と答えたのは、時代的にみると隆叙あるいは隆師のあたりであろうと予想される。
 さらにこのリストを見ると隆考と隆美は早死にしてしまっているので、彼らが庖丁の再家職化を促進する動きを行った可能性は低い。また宮家からの事実確認にも年齢的にも関係できてはいない。

 こうした要素から、私はまず四条隆生が、庖丁による家職化を始めた可能性があると考えている。なぜなら四條隆生は、先代の早世とその息子の早世も経験しており、今後の四條家の不先行きを憂慮したはずである。よって何らかの方法で四條家を活性化するために庖丁とその家職化に向けた何らかの動きをした可能性があるのではないかと私は考えている。またそれは19世紀の初期に『御家元庖丁道御縁記』が成立したという説とも、その生存年代的にも結びつけることが可能である。
 このように四条隆生が当主であった期間は、四條家にとって不安定な時期であったが、こうした時期に庖丁を家職化しようという動きは、過去の祖先である四條隆重が行った動きとシンクロしているように思われる。

 さらに四条隆生の次男で、早死にした四條隆美の弟の四條隆謌しじょうたかうたも、庖丁道を再興させようとした人物である可能性はある。四條隆謌は明治維新において活躍した人物で、庖丁に関する記録は特に残されていないため、あまりこの件には関係が無いように考えられるかもしれない。確かに人生の後半は、明治維新の立役者として主要な働きをした人物となり、記録も庖丁とは無関係であったが、それはあくまでも結果であって、そこに至るまでには紆余曲折の時期もあったはずである。
 四條隆謌にとっての困難な時期は、文久3年(1863)に「八月十八日の変」が起こったことに始まる。この当時、四條隆謌は35歳である。この政変により攘夷を進めていた四條隆謌を含む7人の公家が、この政変により都を離れ、長州藩を頼って西に逃れなければならなかった。これが「七卿落ち」と言われている事件であった。そして彼らは慶応3年(1867年)迄、約5年間に渡って都に帰る事が出来なかった。
 この「七卿落ち」の時期こそが四條隆謌にとって最も不安定な時期であったに違いない。さらに言うと、300年以上前に先祖の四條隆重が駿河に下向していた時期と似ていると言えるかもしれない。この5年間の間に四條隆謌は、先行き不透明な今後の事を憂慮して、過去の四條隆重と同じように庖丁道で一旗揚げようと考え始めたという可能性もあるかもしれない。

 松平容保が藩主であった、会津藩の御台所頭の細谷栄吾が弘化四年(1847年)1月17日に四條家から免状を得た際の記録が『弘化四丁未正月十七日会津藩中細谷栄吾庖丁道御免許為拝授参殿之一巻』に残されている。この免許発行の儀式を四條隆謌が、父、隆生が体調不良のため、代わりに執り行っている。これに対して免許を受けた細谷栄吾は、「太刀・馬代」として四條家に金一両、隆謌に金100疋、四條家の家臣2名にも金100疋づつ、近習衆にも銀3匁づつ、下部へ銀2匁と多くの金を渡している。また嘉永5年(1852年)にも楯野喜兵衛に、さらに慶應元年(1865年)美濃国関の門人に免許が発行されている。こうした発行には見返りとしての金銭授受があったはずであるので、四條家としては庖丁道を家業として推進して行くことのメリットは大きかったはずである。

 ちなみに41代目の現在の当主は四條隆彦である。四條隆謌から数代、四條家の38代目~40代目までは庖丁に取り立てて特に何も関係していなかったが41代目になってから突如、再び庖丁家としての四條家=庖丁が家職である事が押しだされ活動するようになった。元々、四條隆彦には2人の兄がいるが、その兄たちは既にサラリーマンとして仕事に就いていた為、その当時、ロックドラマー(ある意味、見方によっては不安定な仕事をしている立場)であった隆彦が、41代目を継ぐことになったということがNHKのドキュメンタリー番組「日本の旧家 四條流料理道を守って1200年 - 東京都・四條家」で兄の口から語られていた。
 このように四條家の過去からの経緯を見ると、家系の中で、何らかの不安定で先行きが不透明な状態が生じた場合にも、救済策として過去から受け継いできた庖丁の事が取り上げられ、それにより食ってゆけるような仕組が機能しているように思われてならない。言い換えると家系に組み込まれたセーフーティーネットとでも言えるだろうか。


秘伝書の類似


 生間家の秘伝は高橋又市の造反により四條家に持ち込まれ、四条流生間として諸国に広がってしまったと『生間流式法秘書』には書かれている。庖丁家としての格式は四條家の方が圧倒的に高く、生間家は格下である。こうした格下の秘伝書を、四條家が盗むとはとても思えないのであるが、四條家そのものは庖丁を家職とするとしていても、実質的に料理を作ってきた訳ではなく、さらには代々、すべての当主が庖丁式などで鶴や鯉を捌いて来たという訳でもない。
 実際に四條隆重も自分だけで『武家調味故実』を記することは出来なかっただろうと前にも述べたように、実践的な料理に関する知識というものは四條家は、ほとんど持って無かったに違いないと考えられる。そうであるならば、四條家と言えども、残された文書は、他の実践的な庖丁流派から流用が行われたのではないかという疑惑も払拭出来ない。
 ここに四條家と生間家に伝わるとされる秘伝を引用する。ますは四條流のひとつの流派「清和四條流」から以下引用である。

【 四條流秘伝抄 】

 現今庖丁人と料理人とは古来両者の間には厳然たる区別のあるものなり。庖丁人は庖丁式から料理義礼式一切を弁へ司り、板元料理人の教導訓育の任に当たる役なり。
 古来料理人は板元に配属し、板元は庖丁人の教示により調膳を司る者にして、更に料理人は板元の指図に従い料理の雑事に専念するものなり。
 古来より庖丁人は貴顕高位の方、殿上人の是を学びたるなり。 庖丁の由来には料理流派の差別なく同一の伝えあり。 庖は庖犠氏の庖にして、丁は刃の韻を云うなり。 料理否食物を司る事は、直接間接に生命を司るの業にして、 内に省み謹厳の態度を以て最新留意し事に当たるべきなり。 爼に向ふにもその理法を心得、爼上の所作を弁へその理法に従ひ形、 配置、配色の理法を知る要なからんや。即ち庖丁せしものは、朝拝の座に、荒切りせしものは宴酔に、残宵は五行の座に置き、庖丁刀は常に四徳の座に置くべきなり。


 つづいて生間流の秘伝書からの引用である。

【 生間流式法秘書 四巻 】庖丁人と料理人との区別の事

 庖丁人を料理人というものあり、古人も庖丁人と料理人の階級あるを知らずして刀を取り魚鳥を切るものを料理人と同一視し、これがせんさくをなさず杜撰にかかげし書あり、これによりて世人も同様に会得し者あり。これらは門外漢の知る所にあらざるゆえ、深くとが免ず。元来庖丁人は庖丁式、禮法、庖厨の規矩、塩梅の事を司り。板元、料理人の泰斗となりて教授す故に、むかしより料理人は板元に隷属し、板元は庖丁人の教えを受けて調膳の事を司るものなり。
 庖丁人のことは古より貴顕の人々これを学び、又、天道を掌どり叡覧あらせられし事は、我朝に於いて未だこれあるを聞かず、これを以て庖丁人と料理人との階級に大差ある事は火を見るよりも明らかなり。庖丁人は世に多くならざるゆえ、板元、庖丁人の事を学びてこれを兼ね、料理人は板元に学びて庖丁人の事秘をなす。これより庖丁人と料理人との階級をみだしたるゆえ門外漢の同一視するも無理ならぬ事也。
 甚だしきに至りては庖はくりやと読て台所の事也、丁は仕丁の丁の字にて、めしつかひし事也。台所のめしつかひというなどと得たわがほに云いえることのあえれども、これらは文字になづけたる牽強附會の説にて取るにたらず。庖丁と云う事は志さい秘することにて門外漢の知る所にあらず口伝。


 引用箇所は庖丁人と料理人との違いについて書かれている部分である。双方、秘伝、秘書を謳いながら、内容は実質、まったく同じである。しかも所々明らかに転用したと言える部分も含まれている。
 清和四條流は「四條流秘伝抄」からの引用としているが、この引用元文献を私は見つけることが出来ていない。ひょっとすると、この「四條流秘伝抄」なるものは、生間流に造反した、高橋又市が四條家に持ち込み、そこから作られてたとされる偽書の可能性もあると考えている。これにより「生間流式法秘書」と「四條流秘伝抄」なるものが類似している事の説明がつくのではないだろうか。

 四条流は庖丁式では特殊な庖丁刀を使う。これは1489年に多治見備後守貞賢の記した「四条流庖丁書」で説明されている通りである。しかし清和四條流では現代と同じ型に近い庖丁刀を用いており、実は、これは生間流の庖丁式で使う庖丁刀と同じである。こうした点からも、この流派が高橋又市や、空木和七郎といった生間派に造反した者たちの残した秘伝を基にして、始められた分派ではないかと推測されるのである。
 四條流には分派が沢山あり、それが独自に四條流に乗っかって、伝統を傘に独自の方式で推し進めているので混乱をきたさないよう注意が必要であるのかもしれない。


庖丁人(生間流)


 先ほど引用した【 生間流式法秘書 四巻 】庖丁人と料理人との区別の事では

「庖丁人のことは古より貴顕の人々これを学び、又、天道を掌どり叡覧あらせられし事は、我朝に於いて未だこれあるを聞かず、これを以て庖丁人と料理人との階級に大差ある事は火を見るよりも明らかなり。」

と述べられているように、庖丁人と料理人は異なり、格式の違いがあることが説明されている。
 ここで述べられている生間流の視点は、もちろん庖丁人としての視点であり、自分たちは庖丁人として、料理人を指導するという意味でこれが書かれていることは間違いない。しかもこの言い回しには庖丁人として、料理人を見下すようなニュアンスがあり違和感を感じるのは私だけだろうか。
 ここで私は、根源的な部分に疑問を投げかけておきたい。つまりそれは「そもそもこうした事を言う生間流は、本質的に庖丁人と言えるのか?」という事である。

 かつて生間流は鮟鱇釣庖丁を何度も行って来たことは先にも述べた通りである。記録にある鮟鱇釣庖丁を記載しておくと

  1400年頃  兼隆が足利義光の前で披露
  1582年   兼長が聚楽台で秀吉の前で披露
  1597年   兼秀が八條宮智仁親王のために披露


 このように生間流が最も華々しい時代には、普通の鯉を使った庖丁式ではなく、鮟鱇釣庖丁しか披露されていない。この理由として、庖丁式を行わなかったのではなく、行えなかった●●●●●からであると先に述べたが、こうした歴史を見ても、それまでの庖丁を家職としてきた四條家や高橋家との格式の違いがあったことが読み取れる。

 しかし、江戸時代に入ると生間流も庖丁式を行い始める。その記録を挙げておくと。

  1624年  正秀が徳川家光の前で庖丁式を披露
  1624年  正秀が後水尾院八條宮に庖丁式を披露
  1778年  正鄰が「鶴の庖丁式」を君主のために披露


 このように以前は鮟鱇釣庖丁しか披露していなかったが、後代になり庖丁式の披露を行うようになる。その中でも最も注目しておきたいのが、1778年の「鶴の庖丁式」である。
 それまでは下等な鮟鱇しか用いることしか許されなかった生間流が、最上の食材である鶴を、庖丁式で披露できるということは、生間流がそれまでの料理人ではなく、庖丁人として昇りつめたことを証するためのものであったに違いない。
 「鶴の庖丁式」を行ったのは生間正鄰であったが、正にこの時代は、高橋又市の問題で大いに揺れているた時期である。この問題解決を図る為、君主が四條家に直接問い合わせて生間流の正しさが証明されたが(その後、四條家は生間派は破門したとその見解を変える)その直後に、君主のために「鶴の庖丁式」を行っている。
 実は、四條家ですら「鶴の庖丁式」を行ったということは記録には残されていない。にもかかわらず生間正鄰が、このタイミングで「鶴の庖丁式」を行ったという事は、四條家から「先祖の兼長は四條隆重の門人ではない」というお墨付きを得たことで、それまでの家の格式から生間派がロック解除されたことを意味していたのではないだろうか。それは四條家に対する引け目のようなものか、格式からくる遠慮のようなものだったのかもしれない。
 それがこの時代になり、お家騒動も経過して、さらなる生間派としての求心力を高めるためにも「鶴の庖丁式」は行われなければならなかったのだろう。またそれを主君である宮家もそれを後押ししていた事は明らかである。
 つまり「鶴の庖丁式」を通して、ある意味、生間派は自分たちが庖丁人であることを知らしめたと言う事もできるかもしれない。

 こうした経緯を注視すると、庖丁人とは云々...と述べる『生間流式法秘書』には頭を捻らざるを得ない。かつての料理人であった自分たちの立場はさておき、こうした庖丁人と料理人の格式が違う事を「階級に大差ある事は火を見るよりも明らか」とか「庖丁人と料理人との階級をみだしたる」と表現していることには大きな違和感がある。
 「庖丁人」の項でも述べたように、こうした日本料理に潜在的にあるヒエラルキーは、将来の日本料理のありかたにおいて一考すべき点であるかもしれない。


有職料理:萬亀樓まんかめろう


 生間流の家元は現在30代目、小西将清となっている。この生間流の有職料理は京都にある「萬亀樓」で味わう事ができる。ただこの萬亀樓がずっと続く生間流を後継してきたという訳ではない。萬亀樓は、明治37に生間派を買い取り、その後、生間流家元を名乗るようになったのである。
 よって現在の生間流30代目は、萬亀樓の10代目でもある。
 萬亀樓は丹後から杜氏として京の街に出てきた初代によって、享保7年(1722年)「萬屋」の屋号で造り酒屋として創業している。その後、1780年代の天明飢饉の際、原料となる米の入荷が困難となったことに危機感を覚え、茶店を営んで料理を出すようになった。1788年の天明の大火に遇って全焼し再建。5代目萬亀造の時に屋号を「萬亀樓」として料理を専業とするようになり、現在に至っている。

 「萬亀樓」の8代目から生間流を継承することになった。明治に入って桂宮家が絶家となり、生間家は扶持を離れることとなり、その家元としての権利を「萬亀樓」が買ったのである。
 この辺りの経緯を詳しく記した記録は、まだ見つけられていないが、「日本料理の歴史」のなかで熊倉功夫が次のように述べている。

 京都に萬亀楼という料理屋がございますが、そこの主人であります小西さんという人が 29代目の生間流包丁家元と称しているんです。あれは後から買ったものですから、古くからあるわけじゃないんですけれども、それはともかくとして、29代目の当主。もう引退されましたんで現当主は息子さんがやっておりますけれども、これが生間流の包丁式の様子でございます。


 このように説明されており、萬亀樓は生間流の家元の権利を買って継承するようになったことが分かる。こうなると有職料理と謳ってはいても、有難味が薄れるような気がするかもしれないが、生間流の文書が萬亀樓には引き継がれ保管されており、それらは非常に貴重な記録であることは間違いない。多分、生間派を買ったときにそのまま引き継がれた文書であろう。こうした文書については萬亀樓の家業とも合わせて以下のような説明が『史料京都の歴史7上京区』に説明が述べられている。以下、その中にある萬亀樓の説明である。

【 萬亀樓文書 】

 生間流の包丁道家元である万亀楼は、猪熊通出水上る蛭子町の西側に所在する京都きっての老舗を誇る料亭である。家伝によると、享保年間の中ごろに開業したといわれ、屋号を万屋と称した。現在地に移ったのは天保年間といわれるが、生間流包丁道の免許をうけたのは明治37年になってからである。
 創業以来、しばらくは魚店であり、のち席貸の免許をうけて料理屋としての不動の地位を得ることになった。したがって万亀楼の叙上の由緒によってみるとおり、当家文書群は大別して料理関係文書と上之魚店関係文書にわけられる。それを子細にみてみると、さらに免許類5点、料理書および諸記録59点、魚問屋仲間関係文書8点などに類別される。このなかで注目すべきは、生間流京包丁人が残した献立次第である。
 これらの諸記録は7点に達するが、なかでも元和~寛永初年における将軍上洛に伴う献立次第は京都に残されている貴重な史料の一つである。とくに、寛永3年、菊と葵の親和を示した二条行幸の盛儀における献立記録は圧巻である。
 このほか珍しいものとしては、天和~正徳期における朝鮮人来聘使の上洛に際しての御饗応御献立があるが、この二つの記録はともに生間出雲守の筆になるものである。
 当家文書のもう一つの性格を示す魚問屋関係文書では、上之店の魚問屋仲間の掟法を示した明和6年の上之店の魚問屋恵美須講定書なる全19か条の文書があり、また生洲仲間の設立願書がある。いずれも仲間関係文書として貴重なものであり、京の生業の一端を示してくれる。


 このように萬亀樓に残されている文書について説明している。要約すると2種類の文書があることになっている。

 ① 生間流から引き継いだ文書
 ② 萬亀樓に代々残されている文書


 ①の文書については『生間流式法秘書』に書かれている事を裏付けるような文書である。寛永3年の菊と葵の親和を示した二条行幸の盛儀における献立記録があると述べられているが、これも記録にある通りである。
 また『生間流式法秘書』には朝鮮使信の饗応を生間派が担当した事が記されている。記録は以下の5回である。

  慶長十二年(1607年)兼長が担当
  寛永二十年(1643年)正秀が担当
  明暦 元年(1655年)正秀が担当
  天和 二年(1682年)正重が担当 <萬亀樓が記録文書所有>
  正徳 元年(1711年)正次が担当 <萬亀樓に記録文書所有>
  享保 四年(1719年)正次が担当
  寛延 元年(1748年)正封が担当

 こうした朝鮮人来聘使の上洛に際しての御饗応御献立。正重が担当した天和と、正次が担当した正徳の朝鮮使信の饗応献立が萬亀樓には保存されているという事である。

 ②の文書に関しても興味深い内容である。もともと萬亀樓は造り酒屋ということだったが、この文書が示すように魚屋も営んでいたという事が分かる。明和6年の文書ということなので1769年には萬亀樓は魚屋であったことになる。これは1788年に萬亀樓として料理店を始める前である。造り酒屋であった事に関しては萬亀樓が言及しているが、魚屋も営んでいた事はあまり伝えられていない。この文書の存在から萬亀樓は魚屋も家業として行っていたことが理解できる。造り酒屋としての創業は知られているが、こうした貴重な文書がありながら、あまり魚屋家業やその文書が公開されていないのが非常に残念である。


萬亀樓の歴史


 他の書籍からも萬亀樓の歴史を知ることが出来る。1982年に出版された駒敏郎の『東京の老舗 京都の老舗』には以下のような説明がある。

『東京の老舗 京都の老舗』 駒敏郎

 猪熊通り出水上ル蛭子町、このあたりは西陣もはずれに近く組紐を作る家が多い。この町に、元禄の頃から萬屋よろずやという大きな酒屋があって、料理屋を兼営していたが、天明の大火に遇って全焼し、再建したあとは料理を専業とした。当時のあるじの名が萬屋亀七、「萬亀楼」はこの人の通称から採った名前である。幕末には長州藩の侍も来たし、近くの所司代の侍も来た。長州侍は若いがみな金回りがよいので、料理屋にはよい客だった。刀箪笥が用意してあって、腰の物は預かるしきたりだったが、酔っぱらった長州侍は、抜身をぶら下げてはいって来る。通ると畳の表がすうっと切れていったりする。恐ろしかったが騒ぎ立てずに迎えておくと、帰りぎわに畳を新調しておつりが来るだけの金を置いていったそうである。職人の町の中にあるこの料亭に、有職生間流の式庖丁が伝わっている。あるじの小西重義さんが、その二十九代正保を名乗る家元なのである。

 <中略>

 明治十九年に有栖川宮家が絶えたあとは、この古式典雅な庖丁式の伝統も廃絶しそうになったので、京都の料亭のあるじたち二十人ほどが集まって、二十七代生間正起から庖丁式を習う会を持った。そして、とくに熱心だった「萬亀樓」の先代が、正起から作法・伝書・道具一式を伝授されて家元を継いだのだった。


 萬亀樓はこうした歴史をもつ料理店である。しかし生間流に関しては、当初からその後継者として家系的に繋がっている訳ではなく、生間正起の死後、明治37に「萬亀樓」の8代目が(熊倉功夫の発言によると)買い取り、その継承者となったという事である。
 最後に「萬亀樓」当主について記しておく。

生間流29代目、萬亀樓9代目
 小西 重義こにし しげよし
 1935年(昭和10年) 京都に生まれる。
 1953年(昭和28年) 高校卒業とともに調理の修業に入る。
 1967年(昭和42年) 父の死去により萬亀楼を継承。
 1971年(昭和46年) 生間流式庖丁二十九代家元襲名。

生間流30代目、萬亀樓10代目
 小西 将清こにし まさきよ
 1958年(昭和33年) 佐賀県有田市生まれ。
 1980年(昭和55年) 「京料理 伊勢長」に入社し修業を積む。
 1988年(昭和63年) 「萬亀樓」入社。
 生間流式包丁三十代目継承者。






参考資料


『宮中のシェフ、鶴をさばく: 江戸時代の朝廷と庖丁道』 西村慎太郎にしむらしんたろう

『武家調味故実』 四條隆重編

『生間流式法秘書』 生間正起

『史料京都の歴史7(上京区)』 京都市 編

『東京の老舗 京都の老舗』 駒敏郎