『美味求真』とは、貴族院議員、衆議院議員を務め、美食家としても知られた木下謙次郎が、1925年(大正14年)1月に啓成社から出した著書である。発売当時はベストセラーとして広く浸透していたようであるが、それから90年以上を経た現代では、文語体文章は理解しずらく、あまり読まれる機会が無くなっているようである。
しかしながら、そこに含まれる食文化に対する考察には、現代にも通用する鋭い洞察と、深い知識に裏打ちされた含蓄が含まれている。また、ここで語られている「食」についての情報は、流行や一時的にもてはやされた料理に関する知識やレシピではない。むしろ哲学や文学や歴史、および科学について語られており、時代の変遷に左右されることも、かつ色あせる事もない、高い価値のある知識が語られている。
『美味求真』 木下謙次郎 著
本サイトは、『美味求真』を読みやすく現代語化し、さらにそこに註釈を付すことで、より理解しやすいようにウェブサイト化したものである。本サイトにより食文化への理解と、「食」に対する知識を深めて頂ければ幸甚である。
こうした深い知識を有していながら、実生活では政治家を生業としていた木下謙次郎に対して、友人で医学者・細菌学者の北里柴三郎は次のような評価を述べている。
【 美味求真 】序文
幼少からこの方面への志を立てていたなら偉大な自然科学者になっていたに違いない。著者が政界に身を投じてしまったのは誠に惜しむべきことで、人物経済上の一大損失と言わねばならないだろう。それは兎に角、政界で老いた著者が余興としてなお、その造形の深さを有しているのは全く敬服に値する。
このように述べて木下謙次郎の「食」分野における豊富な知識に賛辞を送ると共に、政治家となってしまったことを惜しむ言葉を述べている。
木下謙次郎は『美味求真』を3冊記している。(その内の第3巻は、佐藤垢石が木下謙次郎に代わって書いたとされている) ここで述べられている知識は、より読み手の「食」における楽しみを広げてくれるものとなるであろう。またここで述べられているような食文化あるいは食哲学に対する理解無しには、真の意味で料理の前進や、それを理解するグルマンとしての成長はあり得ないに違いない。
木下謙次郎は所属政党を、国民党、立憲同志会・憲政会、立憲政友会、政友本党などに変え、政界の策士、明治・大正政界の一大惑星と謳われ、「木ノ謙」(キノケン)として知られていた。衆議院議員選挙に9回当選し、貴族議員、関東長官も務めている。
以下に記すのは、木下謙次郎の政治家としての記録である。
衆議院議員
第 7回 衆議院選挙(1902年[明治35年] 8月10日): 憲政本党議員として当選
第 8回 衆議院選挙(1903年[明治36年] 3月 1日) : 憲政本党議員として当選
第 9回 衆議院選挙(1904年[明治37年] 3月 1日) : 憲政本党議員として当選
第10回 衆議院選挙(1908年[明治41年] 5月15日) : 憲政本党議員として当選
第11回 衆議院選挙(1908年[明治45年] 5月15日) : 無所属議員として当選
第12回 衆議院選挙(1915年[大正 4年] 3月25日) : 立憲同志会議員として当選
第13回 衆議院選挙(1917年[大正 6年] 4月20日) : 立憲同志会議員として当選
第14回 衆議院選挙(1920年[大正 9年] 5月10日) : 立憲政友会議員として当選
第15回 衆議院選挙(1924年[大正13年] 5月10日) : 政友本党議員として当選
衆議院議員選挙は、すべて大分選挙区から立候補・当選。
関東長官
1927年[昭和2年]12月17日~1929年[昭和4年] 8月17日
貴族院議員(勅撰)
1946年[昭和21年] 7月8日~1947年[昭和22年] 3月28日迄
木下家は安心院を地元とする名家である。木下謙次郎は政治家として活動したが、他にも政治家として活動していた親族たちがいた。
実の兄の木下淳太郎の次男で、木下謙次郎からみて、甥にあたる「木下郁」は衆議院議員、大分市長、大分県知事として大きな功績を残している。さらに木下淳太郎の三男で「木下郁」の実弟の「木下哲」も2期、衆議院議員を務めている。また「木下哲」の息子の「木下敬之助」も衆議院議員、大分市長を務めており、やはり木下家は政治家としての一族であることがわかる。
・木下正比児:安心院町議員
・木下淳太郎:大分県会議員
・木下謙次郎:衆議院議員、関東長官、貴族院議員
・木下郁 :衆議院議員、大分市長、大分県知事
・木下哲 :衆議院議員
・木下敬之助:衆議院議員、大分市長
木下家は政治家としての顔と別に、いくつかの家業を営んでいたようである。そのひとつは病院経営、そしてもうひとつは惣菜・弁当販売である。
【 安心院町誌 】
山中病院(木裳)御許山挙兵の志士下村御鍬の兄木下耕十郎は家を嗣ぎ、旧里正(庄屋)木下雄吉とはかり私立山中病院を創設して院長に甲斐原益太を迎えた。耕十郎の長男豊太郎は医を志して明治二十年第三高等学校に入学したが病を得て中退した。のち大阪薬学校に変更し、内務省試験により薬剤師となった。大分病院薬局員、別府朝見鳥潟病院薬局長を勤め、嗣子(実弟)正比児と山中病院を復興した。
木下正比児は明治四十四年九大医学部を卒業した。山中部初の医学士とあって、患者が雲集した。その長男公大も日大医科を出たが大東亜戦争に応召し、海軍軍医として比島方面で陣没した。よって正比児の実弟別府市野田敏彦の子和一郎を迎えて娘とめあわせ、山中病院を継承させた。和一郎は京都帝大医学部を出て学位をとり、名医の評があって山中病院の名声は大いに挙ったが大志を抱き大分市に施設完備する大病院を建設し、山中病院は村上医師に貸与して大分で活躍していた。昭和三十三年四十六歳で急逝した。正比児も昭和二十二年六十三歳で没した。
『安心院町誌』には上記のように、木下耕十郎(謙次郎のいとこ)と木下雄吉(謙次郎の父)が動き、安心院村に私立の
木下謙次郎の実兄である、木下淳太郎 [妻のウメ] が、「
「梅乃屋」の創業は大正7年(1918年)ということなので89年間も弁当販売を行ってきたことになる。また『美味求真』が出版されたのは1925年であるので、飲食業を木下家はそれ以前から営んでいたということになる。
私も大分駅で売られていた「梅乃屋」の弁当を食べた記憶がある。
また小学生の頃の記憶であるが、家族で大分駅の待合室にいると、ちょっと恐いおじさんが「こんな弁当食えるか!」と文句を言いながら、弁当を床に投げつけていたのを見たことがあった。その時は選挙の時期だったので「反・木下派の人が梅乃屋の弁当に当たっているんじゃないか」と親からこっそり教えられたことを記憶している。今回の調査で、木下家と「梅乃屋」の繋がりがはっきりしたので、あの時の出来事は、まさにそのような意味があったんだと改めて納得した次第である。
「梅乃屋」は撤退したが、その時に、他の弁当会社に「じゃこめし」だけは引き継いでもらえないかと依頼したらしく、今でも大分駅では梅乃屋の魂を引き継ぐ「じゃこめし」が販売されており購入可能である。
1925年(大正14年)1月に啓成社から『美味求真』を上梓する。
木下謙次郎は、1928年[昭和3年] 1月21日迄は衆議院議員を努めているが、任期終了後に行われた、次の第16回衆議院選挙には出馬を行っていない。(『衆議院議員総選挙一覧. 第16回』の記録を見ると出馬をしていないのが分かる)
また関東長官の任期を終える1929年[昭和4年] 8月17日以降は、政治活動を行っていないようなので、北里柴三郎の嘆きにしたがい、一時的には政界から身を引いて、執筆活動を通して本格的な「食文化」の啓発に努めようとしたのかもしれない。
衆議院議員生活の晩年である1927年[昭和2年] に出版された『木下謙次郎講演録』を見ると、政党に関する講演と、食に関する講演の両方が収められている。しかしながら、1/4が政治に関する講演内容、残りの3/4は食に関する講演内容が収められているので、この時期から、木下謙次郎の関心事は「食」における事柄に移行していたとも考えられる。『美味求真』が上梓された1925年(大正14年)1月~3月までの短期間の間に50版を重ねる大ベストセラーとなったことから、『美味求真』の人気に伴い、木下謙次郎への「食」に関するテーマでの講演依頼が増加したので、こうした割合いになったと考えられる。
1937年には『続美味求真』、1940年には『続々美味求真』の2冊も続編として刊行されたが、この期間は政治家としての活動期間に重なっておらず、美食家として、執筆にある程度は専念していた時期と言えるのかもしれない。只、三冊目の『続々美味求真』に関しては
『美味求真』は啓成社によって1925年1月8日に発行されている。『美味求真』の奥付を見ると、発行者として株式会社「啓成社」、そして代表者として
まず以下、『帝国大学出身名鑑』にある布津純一の経歴である。
【 帝国大学出身名鑑 】
大分県人布津紋吉の長男
明治二十年五月二十二日を以て生る
夙に中津中学第五高等学校等を経て
大正二年東京帝国大学法科大学独法科卒
大正四年帝国火災保険株式会社に入り
名古屋支店長に就任す。
同六年カブト麦酒会社に転じ販売課長
同十年日本マグネシウム株式会社取締役
同十五年之を辞し
国民新聞社取締役兼総務局長となり
啓成社専務取締役を兼て
以て今日に至る
布津純一は、東京帝国大学(現・東京大学)法科大学独法科を卒業し、国民新聞社取締役兼総務局長と啓成社専務取締役を兼任していた人物である。大分県出身であるが、その地元に関しては、父親の布津紋吉の項に詳しい説明が『宇佐郡人物大鑑. 上巻』にあるので、以下に引用する。
【 宇佐郡人物大鑑. 上巻 】
『一志能く貫かんと欲せば、須らく百折不撓の大精神を以て勇往邁進せよ、然らんには何物かを臝ちえむ』と是古哲の金言にして萬人の以て箴とする金科玉条にあらずして何ぞ君は宇佐郡天津村の人、布津家は父祖累代、布津部の名門として知られ、祖父甚右衛門翁の頃から専ら米穀を商ひ傍ら清酒、醤油の醸造を業とし傍ら質商を営んで繁昌近郷に並ぶものがなかった、祖父甚右衛門翁歿後は父甚蔵翁家業を継いで営々孜々家業を精励し家運彌が上にも富み栄えた。
君は年十五歳にして扇城に遊び碩儒大久保慶藏先生の門に入り漢学を修め、後十八歳の時笈を負ふて烏城(岡山)は赴き備前の洪儒の旦海先生の雲蒸学舎に入り漢籍の蘊奥を極め、詩文の才、超凡し旦海先生をして驚嘆せしめたほどの鬼才であった。君夙に天稟聡明、不屈不撓の大精神を以て一貫し胸奥才気煥発、稀に見る人物として春秋の将来を嘱望された、斯て雲蒸学舎に学ぶこと一年有餘学成り錦衣を郷關に飾って、翌十九歳、父甚蔵翁の後を承け家系を継いで名門布津家の當主となった。
― 略 ―
最後に尚逸することの出来ぬのは、君の令息純一君は曩に優等の成績を以て東京帝国大学法科を卒業し法学士の称号を臝ちえて大日本麦酒株式会社に入り枢要な位置を占めていたが後東京啓成社に轉し現に専務取締役に挙げられ同社経営の衝に當り超凡の手腕と卓抜せる経綸の才を揮って東都実業界に活躍し新進の花形として春秋の将来を有している、二男立一君及び三男の両令息は現に早稲田大学に在学し秀才の誉が高い。
まず名門の家に生まれた、父親の布津紋吉は非常に優秀な人物であったことが述べられている。さらには「米穀を商い、清酒、醤油の醸造を業とし傍ら質商を営んでいる」とある。こうした事業を経て富を築き、高額納税者となった人物として、父親の布津紋吉は紹介されており、布津家は非常に裕福であったことが分かる。
またここでは、長男の布津純一と、その家族についても言及されている。先の『帝国大学出身名鑑』もそうだが、現在の個人情報保護の観点から比べると、昔は個人情報の取扱いがとても開放的であり、家族の名前や立場迄公開されている事にびっくりする。
さて、ここで注目すべき点は、布津純一の出身地が宇佐郡天津村であるという事である。実は木下謙次郎の地元の安心院も、布津純一の地元の天津村も現在は宇佐市に組み込まれており、この双方の場所は車で20分位しか離れていない。
木下家も、布津家も双方とも地元では名士の家であった。しかも同郷ということから木下謙次郎と、布津純一は郷里を介して何らかの繋がりがあったとも考えられる。あるいは同郷ということから、東京で親しくなったのかもしれない。いずれにせよこうしたコネクションが存在し、布津純一が取締役を務める啓成社から『美味求真』が出版されることになった経緯を容易に推測できる。
啓成社は『大字典』(この書籍は昭和9年まで初版から1700版も刊行)という漢字辞典を軸とした出版社で、どちらかというと堅い内容の出版物を中心とした出版社であった。現在とは異なり、これまで一般的なグルメ本というジャンルは出版界に存在していなかったので『美味求真』の出版は、ある意味において啓成社にとっては挑戦的で新しい試みであったに違いないと推測できる。
こうした先例のない、新たな試みにも関わらず、『美味求真』が出版された理由には、啓成社に布津純一という、同郷の士がおり、その力添えがあったことが理由として挙げられるのではないだろうか。結局は『美味求真』はベストセラーとなり、利益を啓成社にもたらしたに違いないのだが、これは布津純一が優秀な編集者でもあり、彼に先見の明があったことを示すものに他ならない。
布津純一が単なる同郷のよしみだけで『美味求真』を出版したのでは無い事は、他の手がけた出版物からも分かる。
布津純一は釣りが趣味であった。彼は釣友同友会の指導者として活動していた。また啓成社として、元々、国民新聞で勤務していた竹内始萬を支援して釣雑誌の「水之趣味」を編集させ、昭和8年11月号創刊として発売する。編集兼発行人は布津純一、編集者として竹内始萬、佐宗恵輔、青山浩が携わっている。それまでは「釣り」をテーマにした趣味的な雑誌は存在していなかったらしい。
その後、
まだ裏が取れていないが、三冊目の『続々美味求真』のゴーストライターを佐藤垢石が務めたという話も、この辺の人脈から浮かんできた話なのかもしれない。この点に関しては何としても正確な調査を進めたいと考えている。
もう一点、布津純一について指摘しておきたいのは『帝国大学出身名鑑』にある、家族についての記述である。
妻 キワ 明治二七生、大分、帆足恒雄長女 大分県立高女出身
とあり、よもやと思い調べてみると、妻キワの父親である帆足恒雄は医師であり、また豊後三賢人(
この帆足万里は、多くの門下生を抱えていたが、木下謙次郎の父親の木下雄吉も帆足万里の高弟子であった。さらに後年には弟子の一人に下村
下村御鍬は、最晩年の万里の門下生として学んだひとりであったが、万里からの強い思想的影響を受けたことが勤王の志士としての行動につながったと考えられている。
この下村(木下)御鍬は、安心院の木下家の本家の人間であり、木下謙次郎とは従弟の関係にある。(家系図参照)
こうした関連性を見ても、木下家と布津家は、地元の名家として、どこかで元々繋がっていたのではないだろうか。
さらにまだ根拠の調査中であるが、日出藩の領主は関ケ原以降、代々、木下家が治めてきた。この日出藩藩主の家系と、安心院の木下家は繋がっているのではないかとも考えられる。そうなると帆足万里との関連性もかなり濃くなってくるので、木下および布津の両家の繋がりもさらに濃いものとなるのかもしれない。
いずれにせよ、こうした大分をバックグランドにした人間関係をベースに『美味求真』は出版物として世に出ることになったと考えることが出来る。
出版からすでに90年以上が経過し、木下謙次郎に関する情報も、またその著書である『美味求真』の出版における経緯に関しても十分とはいえないが、こうしたバックグランドを記録することで、より立体的に著者と、『美味求真』そのものに対する理解を深めて頂く一助となれば幸いである。