満漢全席まんかんぜんせき

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満漢全席(满汉全席:Mǎn Hàn quánxí)とは、清朝の食通であった乾隆帝けんりゅうて(1735年10月8日 - 1796年2月9日)の時代から始まった豪華な宴会様式のことである。

乾隆帝 (高宗)


この宴会料理は「満州族の料理」と「漢族の料理」で構成されている。
つまり満漢全席の「満」とは、満族の住む満州地方(清朝の根拠地。現在の東北地方にあたる)の料理のことであり、「漢」とは、漢民族の住む華北、華中、華南の料理のことを表している。(始めは、山東料理の影響が強かったが、後代になると、広東料理など、漢族の他の地方料理も加えるようになる)
盛大な宴では、途中で出し物を見ながら、数日間をかけて、料理からデザートまで合わせ、1人前108~158品、最少でも33品の料理を順に食べるという形式で行われていたようである。しかし、清朝が滅亡してしまうと宮廷内の料理人は四散してしまい、料理の伝統が途絶えてしまったとされている。


北京はどのように首都になったか


満漢全席の成り立ちを明らかにするのに、まずは「北京」が、いつ、どのように首都になったかについて背景の説明をする必要があるだろう。ここから少し、北京という都市について考えてみることにしたい。

実は、北京の歴史は新しく、中国4000年の歴史から見ると、まだ新興都市と言って良いくらいである。北京が首都になったのは、今からおよそ600余年前である。それまでの北京は荒涼とした古戦場でしかなかった。しかし1368年、明の建国の際に、北平府(後に北京)が首都に定められることになる。その時代から北京は首都として定められ、現代に至るまで中国の首都であり続けている。

北京に首都を移した明が滅んだ後、清が新たな次の支配国となる。清朝は1616年に満洲において満州族により建国されたが、その後、中国全土を支配するようになると、かつて明の首都であった北京に首都に移し、中国全土の漢民族に対する支配を行うようになった。
北京という都市にはこうした歴史的なバックグラウンドがあり、清朝の時代に、この満州族と漢民族の融合によって「満漢全席」は発展を遂げることになるのである。

上記のような歴史的な経緯を見ると、清朝の支配者層(満州族)は、もともと満州から侵入してきた遊牧を生業としていた民族だったことが分かる。こうした背景を理解すると、満漢全席は、先ずは清朝の支配者層である満州の料理があり、また征服された漢民族の料理が、そこに影響を与えることで融合されて生まれたものであることが見えてくる。清朝の6代皇帝の乾隆帝「廟号:高宗」(1735年10月8日~1796年2月9日)の時代になって満漢全席は始まったとされているが、この料理はこうした各民族と歴史と文化の交差と融合によって生まれたのである。

北京の漢民族の料理とはどのようなものであったのだろうか。明国の建国までは文化が存在していなかった現在の北京には、主たる料理文化も当然、存在してはいなかった。そこで北京が首都に定められると、山東省から多くの料理人が集められることになる。明朝が建国された時代から1949年に中華人民共和国が成立するまでの600年弱程の期間、ほとんどの料理に関係した仕事は山東人が専有しており、他の者がそこに加わることは認められなかったという。特に料亭の経営は、ほとんど山東料理によって独占的に行われていた。
山東省と云えば中国史上、最強の料理人「易牙」のホームグラウンドである。山東省はもともと斉国のあった場所であり、料理素材も豊かな土地である。こうした料理の先進国ともいえる、この地方の料理が、新興都市の北京の発展に伴って導入され、いわゆる北京料理と呼ばれるスタイルを形成するようになってゆくのである。

明代に編纂された著名な料理書に『易牙遺意』(韓奕撰)がある。易牙は明が北京に首都を置く2000年以上も昔の伝説的な料理人である。その易牙の名前を冠して、この書籍は編纂されているのである。
この時代(明代)に、この書籍が、易牙の名前を冠して編纂されたという事は、料理文化の乏しかった新興都市の北京において、いかに山東省の料理が重用されたかを示すひとつの証拠ともなっているのではないだろうか。


満漢全席の宴会形式


満漢全席は、最初に満席(満州料理)、次に漢席(中国本来の漢民族の料理)が供されるとういう順番が定められている。

最初の満席は、体裁にはあまりこだわらない料理が多いが、点心類には優れていた。この時代、清朝の支配層はみな満州人であった。つまり、元々は遊牧を行い、牛や羊の肉類をよく食べていた民族である。こうした満州民族が北京に移動したことで、生活習慣・食習慣は、山東料理人の影響を受けることになる。また生活水準の向上とも相まって、羊肉や豚肉の料理は精錬され改良されてゆき、満州スタイルの料理は、全猪席、全羊席と呼ばれる豪華な料理にへと変わっていったのである。


「満席」


全猪席および全羊席は以下の4種類の料理法を用いて提供される。

 焼 シャオ : 直火であぶり焼く
 燎 リャオ : 肉を火であぶって焦げ目をつける
 白 バイ : 味をつけずに材料本来の自然の色に仕上げる
 煮 ジュウ : スープや湯の中で白煮する


こうした料理法で、1頭の豚あるいは羊の各部位を調理し、36品の料理に仕上げられ、こうした料理が「満席」と呼ばれるのである。また料理だけでなく、満席の時には調度と用具、さらには服装までも満州様式のものを身に着け、作法も満州の方法に則って進められる。


「漢席」


次の「漢席」に移るときは、漢民族の風習に従って行われることになるので、調度品その他もがらりと変えた宴になる。当然、服装も着替えて各自席に着くことになり、満州スタイルよりも、よりフォーマルな感じになる。
満漢全席は短くても1回に3時間、長いものだと1回に5~6時間もかかる。これが3晩以上にも亘って延々と繰り広げられるのである。そのため、用事のある場合には自由に席をはずしたり、途中で返帰ったりすることも問われない。

満漢全席は、「満席」と「漢席」のふたつで構成されるのが一般的なのであるが、さらにこれに「蒙古席」(蒙古料理)が加えられる場合もある。こうした場合は、やはり蒙古族の風習に従って宴会は行われなければならない事になっている。蒙古席の特徴は、野餐と呼ばれる、庭などの野外で調理しながら食する方法である。

満漢全席では、それぞれの席と席との合間に休憩をはさみ、遊び(エンターテイメント)に興じることになる。以下、どのような遊びが行われるかを挙げておきたい。

 観劇
 詩歌創作
 酒令 - できない者が罰として酒を飲む遊戯
 投壺 - 壺に矢を投げ入れて競う。敗者が酒を飲む遊戯
 博奕 - 双六、囲碁


満漢全席の料理内容


満漢全席の正式名称は「満漢燕翅焼烤全席」と云う。この満漢全席の料理が始まった由来に関しては、諸説存在しており定まっていないようだが、以下の3つが有力とされている。

 ① 各地から献上された有名料理のうち,乾隆帝が百八品選定して組み合わせた。
 ②『隋園食単』と『調鼎集』から満席,漢席をもとにして作り出した。
 ③ 乾隆帝が南方巡視の際に、揚州で出されたものが最初。

いずれにせよ、乾隆帝の時代に飛躍的に発達したことは間違いないようである。乾隆帝は清の6代目皇帝であり、その統治期間は、清王朝が誕生してから既に120年が経過した頃である。よって満漢全席という料理の存在そのものが、満州族と、漢民族の融合・共存がうまく行われていたことを象徴してはいないだろうか。ラストエンペラーである愛新覚羅 溥儀アイシンカクラフギが1912年に退位するまで、清王朝は226年にわたり中国を支配したが、それはこうした民族や文化の融合による統治が効果的に行われたことの証であったのではないだろうか。

その辺りを理解しておくと、日本が満州国に傀儡政権を設立するときに、溥儀を担いでその国王としたが、この満州族の王である溥儀が、その当時の日本においていかに重要な人物だったことが分かるだろう。こうした時代に翻弄される溥儀の姿が、ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画:ラストエンペラーには描かれている。こうした満州族とその王の子孫である溥儀の関係を理解しておくと、この映画はより理解し易い。そして満漢全席という料理がどのようなものであったかにも、そのことには深く関係しているのである。

映画:The Last Emperor


さて、まずは満漢全席1日のメニューの概要を説明しておきたい。
メニューの構成は、前菜(冷菜と熱炒)8品、大皿6品、小皿6品、碗4品、季節に応じた点心、デザート4品、新鮮な果物と乾燥させた果物を各4品ずつ、その他茶が2種類以上である。

次に食事の流れを説明する。
客人は席に着くと卓上には食器が準備され、あらかじめそこには京果が供卓されている。また、美しい切り花も飾られている。そして主人は酒壺を持ち、主客に酒をすすめて注ぐ。それから全員に着席を求め、陪客へも酒をすすめる。酒が行き渡ったところで冷菜(冷たい前菜)が供され、この冷菜を食べ終えた頃に熱炒(温かい前菜)が供される。このとき、京果と花が下げられる。

ここからがメインに入っていくのであるが、「満漢燕翅焼烤全席」という正式名称が示すように、満漢全席の中には欠かすことが出来ない代表的な料理素材が含まれている。それはツバメの巣、フカヒレ、仔豚の丸焼き、熊掌(熊の掌)、鹿尾巴(鹿の尾)、駝峯炙(駱駝のコブ)などの珍味とされる素材である。

満漢全席では、熱炒が出された後、つばめの巣を用いた料理(燕)、フカヒレを用いた料理(翅)、仔豚の丸焼き(焼烤)という順に供されることになっている。また、仔豚の丸焼きが供される頃が宴の最高潮となり、酒も高粱酒に代えられ、主人は再び客に酒をすすめる。
この後は点心2品が供されて一息つき、その後にアヒルの丸焼きや、駝峯炙(ラクダのコブ)などの珍味な材料を用いたこってりとした煮物が供されることになる。
終わり近くになり、魚料理、湯菜(スープ)、乾飯か稀飯が順に供される。

以上の様に「燕」「翅」「焼烤」が必ず入るのが定番である。よってこれらをすべて含んでおり、かつ満族スタイルと、漢族のスタイルを融合させた「満漢燕翅焼烤全席」という正式名称にかなう料理こそが、いわゆる「満漢全席」の正式なものなのである。
中国には昔から 八珍 と呼ばれる、さまざまな珍味が定められ、珍重されてきた。この八珍に含まれる料理素材は、時代と共に変化しているが、清の時代はこうした八珍をさらに種類を拡張し、四八珍よんはちちんを定めて満漢全席に含めている。
四八珍とは、四組の八珍で構成されていて、山八珍、海八珍、禽八珍、草八珍からなる。八珍が四組となるので合計で三十二種類の材料となる。

【 山八珍 】
 駝峯 - ラクダの瘤(こぶ)
 熊掌 - クマの掌
 猴脳 - サルの脳ミソ(現在はサルの頭に似たキノコ)
 猩唇…オランウータンの唇
 象攏(象鼻) - ゾウの鼻の先
 豹胎 - ヒョウの胎子
 犀尾 - サイのペニス
 鹿筋 - シカのアキレス腱


【 海八珍 】
 燕窩 - ツバメの巣
 魚翅 - フカのヒレ
 大烏参 - 黒ナマコ
 魚肚 - 魚の浮き袋
 魚骨 - チョウザメの軟骨
 鮑魚 - アワビ
 海豹 - アザラシ
 狗魚(大鯢) - オオサンショウウオ


【 禽八珍 】
 紅燕 -
 飛龍 -
 鵪鶉 - ウズラ
 天鵝 - ハクチョウ
 鷓鴣 - シャコ
 彩雀 - クジャク
 斑鳩 - キジバト
 紅頭鷹 -


【 草八珍 】
 猴頭 - ヤマブシタケ
 銀耳 - 白キクラゲ
 竹蓀 - キヌガサタケ
 驢窩菌 -
 羊肚菌 - アミガサダケ
 花茹 - シイタケ
 黄花菜 - 金針菜(野萱草の蕾)
 雲香信 - キノコの一種


中国の歴代の 八珍 に関しては、リンク先を参照して頂きたい。


日本で食べることのできる満漢全席


清王朝の崩壊後、毛沢東の文化革命により、宮廷料理である満漢全席は途絶えてしまい作られなくなってしまった。残念ながらこの時に失われてしまった料理レシピもあるようだ。しかし、現代では、こうした食文化が改めて見直されるようになり、その研究と復元が進んでいるようである。
日本でも何店かの中華料理店で満漢全席を再現しており、数日にわたって食べることが出来るようになっている。満漢全席のバックグランドを理解して、かつての清朝の栄華を味わってみては如何であろうか。






参考文献


『北京料理と宮廷料理について』 松本,睦子

『北京の宮廷料理と博物館についての一考察』 賈蕙萱