高橋朝臣たかはしあそん


高橋朝臣について


 高橋朝臣とは、日本料理の神とされている磐鹿六雁命いわやむつかりのみことの子孫が名乗るようになったかばねである。かばねとは、大和王権において天皇から氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号のことであり、この姓を与えられた高橋朝臣の一族が天皇の料理において、代々主要な役割を果たしてきたことが記録に残されている。

 実際に文献を調べてみると、少々分かりにくいことに天皇の料理に関係した高橋という一族にはふたつの系統が存在していることが分かる。よって高橋氏を語る際には、この両家を混同しないようにしなければならない。そのふたつの系統とは、ひとつは内膳司奉膳を務めた磐鹿六雁命の子孫の高橋氏であり、もうひとつは御厨子所預を務めた武内宿禰の子孫の高橋氏である。

① 内膳司奉膳の高橋氏 (磐鹿六雁命の子孫でかばねは高橋朝臣)
② 御厨子所預の高橋氏 (武内宿禰の子孫でかばねは紀朝臣)


 本文では、まず最初に、①磐鹿六雁命の子孫であり内膳司奉膳を務めた高橋朝臣について述べることにしたい。この高橋朝臣こそが本タイトルに合致したものである。その後、もうひとつの系統である ②武内宿禰の子孫であり御厨子所預を務めた高橋氏について説明することにしたい。これは①の高橋朝臣と②の高橋氏とを区別するのに必要であるからだけでなく、宮廷内においてどのように「食」が整えられていたかを理解するうえでも価値ある情報だからである。こうした理由から後半ではもうひとつの高橋氏についても多くの資料を基にして説明してある。

(両氏の系統は高橋氏家系図から確認頂きたい)


① 内膳司奉膳:高橋朝臣の家系


 最初、磐鹿六雁命の子孫は、膳氏かしわでうじを名乗っていたが、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で、天武天皇が新たに制定した「朝臣あそん」のかばねを賜ることになった。以降、磐鹿六雁命の子孫は高橋朝臣と呼ばれるようになる。
 この朝臣(あそん、あるいは、あそみと読む)という姓は、その氏族の身分そのものを表しており、朝臣という姓は、真人まひとに次いで二番目の高い地位を表す姓であった。一番の高い地位である姓の真人は皇族だけに与えられた姓であったので、皇族以外の臣下の中では朝臣が一番上の地位にあったことになる。つまり高橋氏は、律令時代の始まりから高級官僚になるための資格を有する立場にあったのである。
 『日本書紀』には天武天皇の時代に「朝臣」の姓を賜った52氏が列挙されており、このリストから膳氏が朝臣になったことを確認することができる。ここから理解できることは、膳氏 → 高橋氏となったこの一族が単に天皇に料理を調進する者たちであったという訳ではないという事である。むしろ高橋朝臣の一族は、朝廷における他の重臣と並んで官位においても重要なポジションを占める一族であったということを理解していなくてはならない。

 高橋氏が料理の一族として天皇に仕えるようになった起源は、磐鹿六雁命が、景行天皇に料理を供したことであると記されている。この磐鹿六雁命の系図をたどると、曽祖父が孝元天皇になるので、天皇家と親族関係にある氏族であったことが分かる。

  孝元天皇
   ↓
  大彦命
   ↓
  大稲腰命:比古伊那許別命
   ↓
  磐鹿六雁命

 この時代の系図は誰が誰の子であるかの情報が入り混じっていてはっきりしない部分が多い。残された史書の『系図纂要』、『阿部家譜』、『本朝皇胤紹運録』、『新撰姓氏録』の記載には内容にブレがあり正確なことは分からないが、通説になっている上記を磐鹿六雁命につながる系図として記載しておく。

 磐鹿六雁命は料理の功績により、景行天皇から膳臣かしわでのおみの姓を賜り、以降は膳氏としての家系となる。以下、磐鹿六雁命から高橋朝臣の姓を賜った高橋国益までの系図を記しておく。

  磐鹿六雁命
   │
  宇遊命
   │
  佐白米命
   ├────────┐
  膳臣羽室    膳臣余磯あれし
   ├────────┐
  膳臣長野    膳臣斑鳩
   │
  膳臣久和
   │
  膳臣大麻呂
   ├────────┐
  膳臣傾子かたぶこ    膳臣巴提使はでし
   ├────────┐
  膳臣大伴  菩岐々美郎女ほききみのいらつめ(娘) = 聖徳太子
   │
  膳臣摩漏
   │
  高橋朝臣 国益(ここから高橋朝臣の姓)


 もともとは磐鹿六雁命が料理を司るようにと任じられた一族であったが、家系図に記された一族の事績をみてゆくと料理だけではなく、軍事や外交、政治への関係性を強めていったことが分かってくる。

 雄略天皇の時代には、膳臣斑鳩が任那日本府の将として高句麗軍を破ったと記録があり、軍事においても大きな役割を果たしていたことが分かる。

 さらに膳臣傾子かたぶこの時代になると、傾子の娘の菩岐々美郎女ほききみのいらつめ(膳大娘、高橋妃とも呼ばれた)は、聖徳太子の妃になり8人の子供をもうけている。また膳臣傾子のもうひとりの娘である膳比里古郎女も、聖徳太子の弟の久米王の夫人となっているので、ここからも天皇の一族との血縁関係に基づき強い政治的なつながりを築いていた事がうかがえる。

 菩岐々美郎女の膳氏は天皇の食事係という低い身分の出身であるとして、聖徳太子と菩岐々美郎女の結婚は身分違いという見解を述べている説があるが、それは完全な間違いである。そもそもおみというのは姓の中でむらじと並んで高位に位置する姓であり、膳臣は高い位にある氏族だったからである。
 聖徳太子が定めた有名な冠位十二階という制度があるが、この階層における最上位は大徳と小徳という位であった。これらは臣・連・君といった高い姓を持つ者だけに与えられる官位であったことからも、膳臣の置かれていた身分は低いものではなかったことは明らかである。また膳臣傾子にはもう一人の娘、比里古郎女(ひろこのいらつめ)がいたが、その娘は聖徳太子の弟である来目皇子(久米王)の妃となっている。このことからも膳臣と皇子は釣り合いの取れた身分同士の結婚であったことが分かる。この事については『太子伝玉林抄』でも詳しく説明されているので興味があればぜひ参照して頂きたい。

 さらに他の膳臣の一族の事績にも注目してみたい。
 欽明天皇の時代には、膳臣傾子の弟にあたる膳臣巴提使はすびが、天皇から百済に遣わされたという記録が残されており、ここからも膳臣の者が外交的な役割も担っていたこともうかがえる。
 さらに『前賢故実. 巻第1』には、百済駐在中に巴提使が息子を連れ去った虎を殺したことが記録されている。虎の口に左手を入れて舌を掴み、右手で虎に刀を差し込んだと述べられているので、かなり勇敢な人物だったのだろう。

膳臣巴提使『前賢故実. 巻第1』より


 このように、膳臣は料理だけではなく、軍事、外交などに活躍する一族にもなっていた。巴提使の子孫は下記のように続いていたとも考えられている。

巴提使 - 清国 ┬ 葉積 - 足綱 - 東人
       └ 百依 - 金持 - 倭 - 美造 - 彦公

 膳臣巴提使の系統は、信濃の膳臣氏へと繋がれたと推測されているが、他にも支流となる稚桜部臣という姓にも注目しておきたい。

 『日本書紀』持統天皇9年9月15日の記述によると、履中天皇の時に磐余市磯池での船遊びの際に、膳臣余磯が天皇に酒を献じたところ、盃に季節外れの桜の花びらが紛れ込んだところから、稚桜部臣(わかさべのおみ)と改氏姓したと記されている。この稚桜部臣という姓は、膳臣〜高橋にゆかりの深い、御食つ国である若狭国にちなむとも考えられている。後にも述べるが、高橋氏は若狭国(現在の福井県)において若狭守を数名が務めたりとかなり近しい関係にあった。

 また他にも支流(遠縁)とも考えられる膳臣の人物の記述も残されている。
 『日本霊異記』の上巻・第三十縁に、豊前国京都郡の次官だった膳臣広国という人物の記述があるが、この人物がどのように磐鹿六雁命につながる膳臣に属しているのかは分かっていない。ただ『日本霊異記』にある広国のエピソードは面白いので少し説明しておきたい。
 膳臣広国は慶雲二年(西暦705年)九月十五日に亡くなるが、三日後に蘇生し、その時の臨死体験を語りはじめる。蛇、犬に生まれ変わり家に戻ったが追い返され、猫(狸という漢字であるが猫のことである)になって正月一日に家に入りこんだ時になってやっと供養のため供えてあった肉やいろいろのご馳走を腹いっぱい食べて三年来の空腹を初めていやすことができたという。(これが猫についての日本での最初の文献に記された猫の記述である)

 さて話を膳臣の本流の系図にある人物に戻そう。
 『日本書紀』巻第二十二によると、推古天皇18年(610年)には、膳臣大伴が任那の使を迎える荘馬(かざりうま)の長を務めたとの記録がある。
 また大伴の息子の膳臣摩漏についての記録が『日本書紀』にはある。そこには天武天皇11年(682年)7月9日に摩漏が病となり、天武天皇が草壁皇子と高市皇子を遣わして見舞いさせたが18日に摩漏は死去してしまったこと。さらに壬申の乱の功績によって、天武天皇が摩漏に大紫の位と禄を摩漏に贈り、皇后(後の持統天皇)も贈り物をしたことが記録されている。

 このように膳臣の一族は、前述したような数々の事績によって西暦684年(天武天皇13年)に、上級階層に属する新しい姓(朝臣)を賜ることになり、その時代の当主であった国益から高橋朝臣の姓を名乗るようになったのである。


奈良〜平安時代の高橋氏


 高橋朝臣国益から以降は高橋の姓を名乗るようになり、それ以降は高橋朝臣として天皇の食事を司る役割である、内膳司奉膳という役職を世襲しながら代々果たすことになった。さらに内膳司奉膳という職務に加えて、若狭、志摩の国司(長官)を世襲的に独占することになるが、これも重要なポイントである。なぜならば若狭(福井県)、志摩(三重県)は海産物に富んだ御食国とされており、その国司の職に高橋氏が任じられたことは、高橋氏が内膳司奉膳という役職にあったことと深く関係していることが推測されるからである。律令制度下の8世紀以降の記録を見ると、少なくとも3名(高橋人足、高橋子老、高橋安雄)が若狭国守を務めているので、この地における高橋氏の影響力は長年に渡り非常に大きいものであったと言える。

 平安時代に入りそれ以降になると、残された高橋氏に関する記録はどうもハッキリしなくなってくる。名前や官位が分かっている人物であっても、それが高橋氏の家系のなかのどこに位置付けられるのかが不明瞭なのである。以下に高橋朝臣国益〜高橋朝臣秋雄まで(おおよそ西暦700年〜900年まで)の系図を示しておくが、これも抜けている箇所や、実際のつながりが分かりにくいところがあり必ずしも正確な記述とは言えないだろう。ただ一応の参考にはなるのと思うので記しておくことにしたい。

  国益
  ├────────────┐
  呼具須比         笠間
  ├─────┐      │
  男河    三綱     安麻呂
  │     │      │
  ?     波麻呂    五百足
  │     │      │
  ?     ?      犬養
  │     │      │
  ?     ?      祖麻呂
  │     │
  ?     ?
  │     ├──────┐
  枝並    藤野    浄野
  │
  秋雄



歴史書に見られる高橋朝臣


 奈良時代から平安時代にかけて記録のなかで、高橋朝臣の一族が言及されている部分を年代順に歴史書から抜粋し、8世紀〜9世紀にかけての記録から高橋氏の動向や官位をまとめておく。また同時に家系図のなかで位置づけすることができなかった高橋朝臣の一族メンバーの存在もここで示しておきたい。

 今回取り上げるのは奈良時代から平安時代の歴史書である。『日本書紀』と、以下に挙げた五書を加えた歴史書は六国史と呼ばれている。『日本書紀』はすでに磐鹿六雁命いわやむつかりのみことのなかで十分に取り上げてあるので、以降はその他の五書から高橋氏の記録を抜粋し引用しておくことにする。

  ① 『続日本紀』
  ② 『日本後紀』
  ③ 『続日本後紀』
  ④ 『日本文徳天皇實録』
  ⑤ 『日本三代實録』

 単に該当箇所を引用するだけでなく、書物の出典先にもリンクを付してあるので、文脈からも高橋氏の動向を確認して頂くこともできるだろう。



①『続日本紀』


 『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された全40巻から成る勅撰史書である。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)までの95年間が記録されており、延暦16年(797年)に編纂が終わっている。高橋氏に関する記録の多くは官位について言及されているだけのものがほとんどであるが、それでも家系のつながりを示す情報も含まれているので、これらの情報を基にして高橋氏の家系図をある程度は作成することが可能になっている。

 『続日本紀』で扱われている期間が95年間と他の書と比べて長いこともあるが、『続日本紀』には高橋氏について数多く言及されている。ここに登場する高橋氏の者の名前は、嶋麻呂、笠間、若麻呂、上麻呂、毛人、男足、安麻呂、広嶋、嶋主、首名、国足、男河、三綱、子老、老麻呂、人足、広人、祖麻呂、船麻呂、三坂(御坂)である。

【 続日本紀 】

『続日本紀』巻一文武二年(六九八)七月癸未廿五
 高橋朝臣嶋麻呂を伊勢守に任ずる。
『続日本紀』巻二大宝元年(七〇一)正月丁酉廿三
 粟田朝臣真人を遣唐執節使に、
  左大弁直広参の高橋朝臣笠間を大使とする。
『続日本紀』巻二大宝二年(七〇二)八月己亥四
 正五位上の高橋朝臣笠間を造大安寺司に任じる。
『続日本紀』巻三大宝三年(七〇三)十月丁夘己未朔九
 持統上皇の葬儀において正五位上の高橋朝臣笠間が
  造御竈副司を務めた。
『続日本紀』巻三慶雲元年(七〇四)正月癸巳七
 従六位上の高橋朝臣若麻呂は、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻三慶雲四年(七〇七)二月甲午廿五
 正七位下の高橋朝臣上麻呂は、授従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻五和銅三年(七一〇)正月壬戌十一
 散位従四位下であった高橋朝臣笠間が亡くなる。
『続日本紀』巻五和銅四年(七一一)四月壬午七
 正七位上の高橋朝臣毛人が、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻五和銅四年(七一一)十一月辛夘廿一
 正七位上の高橋朝臣男足が、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻八養老二年(七一八)正月庚子丙申朔五
 正六位上の高橋朝臣安麻呂が、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻八養老四年(七二〇)十月戊子庚辰朔九
 従五位下の高橋朝臣安麻呂が、宮内少輔になる。
『続日本紀』巻八養老五年(七二一)三月辛未廿五
 以従五位下の高橋朝臣広嶋為が、刑部少輔になる。
『続日本紀』巻九養老七年(七二三)正月丙子丁夘朔十
 正六位上の高橋朝臣嶋主が、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻九神亀元年(七二四)二月壬子廿二
 従五位下の高橋朝臣安麻呂は、従五位上に任じられた。
『続日本紀』巻九神亀元年(七二四)四月丙申七
 宮内大輔従五位上の高橋朝臣安麻呂が副将軍となり蝦夷に出征。
『続日本紀』巻九神亀二年(七二五)閏正月丁未廿二
 従五位上の高橋朝臣安麻呂は、正五位下勳五等に任じられた。
『続日本紀』巻十神亀五年(七二八)五月丙辰廿一
 正六位上の高橋朝臣首名は、外従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻十天平元年(七二九)八月癸亥己未朔五
 外従五位下の高橋朝臣首名は、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻十一天平三年(七三〇)正月丙子廿七
 従五位下の高橋朝臣嶋主は、従五位上に任じられた。
『続日本紀』巻十一天平四年(七三二)九月乙巳五
 正五位下の高橋朝臣安麻呂を右中弁とする。
『続日本紀』巻十二天平七年(七三五)九月庚辰癸丑朔廿八
 美作守従五位下の阿部朝臣帯麻呂が四人を殺害、
  中弁正五位下の高橋朝臣安麻呂ら六人が審理を行わず放置した為
  処罰されたが、後に赦免された。
『続日本紀』巻十二天平九年(七三七)九月己亥廿八
 正五位下の高橋朝臣安麻呂は、正五位上に任じられた。
『続日本紀』巻十三天平十年(七三八)正月壬午十三
 正五位上の高橋朝臣安麻呂は、従四位下に任じられた。
『続日本紀』巻十三天平十年(七三八)十二月丁夘甲子朔四
 従四位下の高橋朝臣安麻呂が、大宰大貳となる。
『続日本紀』巻十五天平十五年(七四三)五月癸夘五
 正六位上の高橋朝臣国足が、外従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻十六天平十八年(七四六)四月癸夘廿二
 外従五位下の高橋朝臣国足が、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻十六天平十八年(七四六)閏九月戊子十
 従五位下の高橋朝臣国足は、越後守となる。
『続日本紀』巻十七天平勝宝元年(七四九)十一月丙辰廿六
 正六位上の高橋朝臣男河と高橋朝臣三綱は従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻廿天平宝字元年(七五七)五月丁夘二十
 正六位上の高橋朝臣子老は、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻廿天平宝字元年(七五七)八月庚辰四
 正六位上の高橋朝臣人足は、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻廿一天平宝字二年(七五八)十月丁夘廿八
 授遣渤海の副使の正六位下の高橋朝臣老麻呂を従五位下に任ずる。
『続日本紀』巻廿二天平宝字三年(七五九)正月戊寅十一
 従五位下の高橋朝臣人足を上野守とする。
『続日本紀』巻廿二天平宝字三年(七五九)十一月丁夘五
 従五位下の高橋朝臣子老を、内膳奉膳とする。
『続日本紀』巻廿三天平宝字五年(七六一)正月壬寅十六
 従五位下の高橋朝臣人足を、若狹守とする。
『続日本紀』巻廿四天平宝字六年(七六二)四月庚戌朔
 従五位下の高橋朝臣子老を、大膳亮とする。
 従五位下の高橋朝臣老麻呂を、内膳奉膳とする。
『続日本紀』巻廿四天平宝字七年(七六三)正月壬子九
 従五位下の高橋朝臣子老を、若狹守とする。
『続日本紀』巻廿五天平宝字八年(七六四)正月乙巳己亥朔七
 正六位上の高橋朝臣広人は、従五位下に任じられる。
『続日本紀』巻廿五天平宝字八年(七六四)十月辛未八
 従五位下の高橋朝臣広人は、従五位上に任じられる。
『続日本紀』巻廿九神護景雲二年(七六八)二月癸巳十八
 従五位下の高橋朝臣広人を、散位助とする。
 高橋と安曇の二氏を、内膳司の奉膳とする。
『続日本紀』巻卅四宝亀八年(七七七)正月庚申七
 正六位上の高橋朝臣祖麻呂は、従五位下に任じられる。
 正六位上の膳臣大丘を外従五位下に任じる。
『続日本紀』巻卅五宝亀十年(七七九)六月辛亥己亥朔十三
 従五位下の高橋朝臣祖麻呂を、内膳奉膳とする。
『続日本紀』巻卅七延暦二年(七八三)正月癸巳十六
 正六位上の高橋朝臣船麻呂は、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻卅八延暦四年(七八五)正月癸夘七
 正六位上の高橋朝臣三坂(御坂)は、従五位下に任じられた。
『続日本紀』巻卅八延暦四年(七八五)正月辛亥十五
 従五位下の高橋朝臣御坂を、陰陽頭とする。
『続日本紀』巻四十延暦九年(七九〇)三月丙午十
 従五位下の高橋朝臣祖麻呂を、介とする。
『続日本紀』巻四十延暦十年(七九一)七月辛巳廿二
 介従五位下の高橋朝臣祖麻呂は、従五位上に任じられた。




②『日本後紀』


『日本後紀』は平安時代初期に編纂され、承和7年(840年)に完成した全40巻からなる勅撰史書である。ここでは延暦11年(792年)から天長10年(833年)までの42年間が記録されている。

 ここで登場する高橋氏の名前は、祖麻呂、三浦麻呂、菅守、廣野、清階である。

【 日本後紀 】

『日本後紀』卷一逸文延暦十一年(七九二)三月壬申
 安曇宿禰繼が島流しになり、高橋氏のみ神事で仕えるようになる。
『日本後紀』卷五延暦十六年(七九七)正月庚子
 從五位上高橋朝臣祖麻呂爲駿河守
『日本後紀』卷九逸文 延暦十九年(八〇〇)十二月癸未
 駿河守の從五位上、高橋朝臣祖麻呂が不当な主張をして
  前司に与えるべき解由をあたえなかったので免職とする。
『日本後紀』卷十逸文 延暦二十年(八〇一)七月戊寅
 七月戊寅。賜故高橋王度二人
『日本後紀』卷十七大同三年(八〇八)九月甲申【五】
 從五位上高橋朝臣祖麻呂爲大膳大夫。
『日本後紀』卷十七大同三年(八〇八)十一月甲午
 從五位上高橋朝臣祖麻呂、正五位下
『日本後紀』卷十八逸文 大同四年(八〇九)七月丁卯
 正六位上高橋朝臣三浦麻呂、授從五位下
『日本後紀』卷十八逸文 大同四年(八〇九)十一月辛亥
 正七位上高橋朝臣朝臣菅守授從五位下
『日本後紀』卷廿四弘仁六年(八一五)九月辛未
 俗姓高橋朝臣。京兆人也。
『日本後紀』卷卅六逸文 天長五年(八二八)正月甲子
 高橋朝臣廣野、從五位下
『日本後紀』卷卅九逸文 天長八年(八三一)正月癸卯
 從四位下高橋眞人清階・從四位上




③『続日本後紀』


『続日本後紀』は、仁明天皇の代である天長10年(833年)から嘉祥3年(850年)までの18年間を扱う歴史書である。全20巻で構成されており、貞観11年(869年)に完成している。

ここで登場する高橋氏の名前は、安雄、清野、祖繼である。

【 続日本後紀 】

『續日本後紀』卷十四承和十一年(八四四)正月庚寅
 高橋朝臣安雄を從五位下に任じる。
『續日本後紀』卷十五承和十二年(八四五)正月甲寅
 高橋朝臣清野を從五位下に任じる。
『續日本後紀』卷十五承和十二年(八四五)正月戊午
 從五位下の高橋朝臣清野を長門守とする。
『續日本後紀』卷十七十承和十四年(八四七)正月甲辰
 高橋朝臣祖繼を從五位下に任じる。




④『日本文徳天皇實録』


『日本文徳天皇實録』は、元慶3年(879年)に完成成立した平安時代の歴史書である。嘉祥3年(850年)から天安2年(858年)までの8年間が全10巻に記録されている。。

ここで登場する高橋氏の名前は、安雄、安野、淨野である。

【 日本文徳天皇實録 】

『日本文徳天皇實録』卷三仁寿元年(八五一)四月癸卯朔
 高橋朝臣安雄を次侍從とする。
『日本文徳天皇實録』卷五仁寿三年(八五三)正月戊戌
 高橋朝臣安野を從五位下に任じる。
『日本文徳天皇實録』卷六齊衡元年(八五四)正月辛丑
 從五位下の高橋朝臣淨野を駿河守とする。
『日本文徳天皇實録』卷八齊衡三年(八五六)正月丙辰
 從五位下の高橋朝臣淨野を内膳奉膳とする。
 高橋朝臣安雄を若狹守とする。
『日本文徳天皇實録』卷八天安元年(八五七)正月丙午
 高橋朝臣文室麻呂を外從五位下に任じる。
『日本文徳天皇實録』卷十天安二年(八五八)四月壬寅
 百濟王安宗の死にともない高橋朝臣淨野は大神社に。
『日本文徳天皇實録』卷十天安二年(八五八)五月辛未
 高橋朝臣淨野を宮内少輔とする。




⑤『日本三代實録』


『日本三代實録』は、平安時代に編纂され延喜元年(901年)に編纂された歴史書である。天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間が扱われおり、全50巻で構成されている。

 ここで登場する高橋氏の名前は、淨野、文室麻呂、藤野、宅子、枝並、繼善、秋雄である。また貞觀六年(八六四)二月二日の記事には、高橋朝臣文室麻呂が死亡したことから、高橋家の代々の名前と関係性が説明されている部分がある。ここから、元来、文室麻呂の家系が信濃の膳臣の出であり、金持 → 倭 → 美造 → 彦公 → 文室麻呂、という世代の関係にあることが分かる。ただこの系列の人物たちは膳司奉膳の職にだれも就任しておらず、本筋の高橋氏ではなく、支流であると位置付けるべきであるように思われる。

【 日本三代實録 】

『日本三代實録』卷一天安二年(八五八)十一月廿五日壬午
 從五位下の高橋朝臣淨野を内膳奉膳とする。
『日本三代實録』卷三貞觀元年(八五九)十一月十九日庚午
 散位の高橋朝臣文室麻呂を從五位下に任ずる。
『日本三代實録』卷五貞觀三年(八六一)正月十三日戊子
 散位從五位下の高橋朝臣文室麻呂を越後介とする。
『日本三代實録』卷六貞觀四年(八六二)二月廿八日丁卯
 攝津國川邊郡の人で正六位上行内膳の典膳である
  高橋朝臣藤野ら二人が、改本居貫左京職に任じられた。
『日本三代實録』卷六貞觀四年(八六二)四月七日乙巳
 從五位下で行内膳奉膳の高橋朝臣淨野を筑前權守とする。
『日本三代實録』卷七貞觀五年(八六三)三月廿八日庚寅
 在原朝臣業平、藤原朝臣山陰、高橋朝臣文室麻呂を次侍從とする。
『日本三代實録』卷七貞觀五年(八六三)七月十六日丙午
 高橋王の子、豐江王が68歳で死亡。
『日本三代實録』卷八貞觀六年(八六四)正月八日乙未
 高橋朝臣宅子が從五位下に任じられる。
『日本三代實録』卷八貞觀六年(八六四)二月二日己未
 從五位下行越後介であった高橋朝臣文室麻呂が死亡。
  もとは膳臣。あるいは錦部と称し、信濃國人である。
  五代前の膳臣金持が信濃國人錦部氏の女と結婚し倭が生まれた。
  倭は母方の錦部を名乗り、息子の美造がそれを継いだが病死。
  美造の五男の彦公が、高橋朝臣の姓に戻す。
  この彦公が、文室麻呂の父である。
  文室麻呂は、琴が上手く天皇にも教えていた。
『日本三代實録』卷十二貞觀八年(八六六)正月七日甲申
 内膳奉膳の高橋朝臣枝並は、從五位下に任じられる。
『日本三代實録』卷十五貞觀十年(八六八)十月廿八日戊子
 前志摩守で正六位上の高橋朝臣繼善が貢納物の横領を行う。
『日本三代實録』卷四十五元慶八年(八八四)五月廿六日乙酉
 從五位下行で内膳奉膳の高橋朝臣秋雄を相模權介とする。
『日本三代實録』卷卅九元慶五年(八八一)四月廿八日乙巳
 税徴収に関する不正で從六位下の膳臣常道を降格し伊豆の史生とする。





高橋から濱島への名称変更


 平安時代から中世にかけての高橋氏の家系的な繋がりを示す明確な記録は残されていない。それでも磐鹿六雁命から続く高橋氏の系統は内膳司奉膳という官職を代々務めていたと考えられ、室町時代になると内膳司としての役割は、濱島を名乗る高橋朝臣の子孫にへと引き継がれて行った。
 高橋朝臣の一族が濱島を名乗るようになったのは、まずこの一族が志摩国の濱島村に住んでいたことに由来すると言えるだろう。さらに高橋朝臣の一族は、昔から志摩国濱志御厨を任されていた。よってこれらが濱島と名乗るようになったことに起因すると考えられる。実際に高橋氏は志摩守を世襲的に務めており、昔から志摩国とは強いつながりを持っていた一族である。
 これらの理由からの濱島を名乗るようになったと考えられる。ただ高橋が濱島を名乗るようになった年代や正確な経緯、また家系的な変遷については記録がなく詳細は明らかになってはいないので部分があり推測に頼る部分が多い。

 ここで改めて高橋と濱島の関係を説明しておくと、高橋は本姓であり、濱島は苗字である。つまりこの一族は濱島を名乗るようになっていったが、本姓の高橋と、かばねの朝臣は引き続き同じままなのである。よって濱島家の当主の内膳司奉膳という官職における記載がなされる際は、引き続き本姓の高橋朝臣○○(名前)が用いられている。本姓、姓、苗字にはそれぞれ違いがあるため、それらをすべて記すならば高橋朝臣濱島○○というのが正式な名称ということになる。つまり本姓が高橋、かばねが朝臣、苗字が濱島、そして名前が○○というようになる。


濱島家の歴史


 『地下家伝』20巻には濱島家に関する記録があり、ここに初代・濱島家当主となった濱島清実の名前が書かれている。以後、清茂・清信・清貞と三代続き、四代目の清貞になってからはじめて、享徳四年(1455年)4月29日に従四位下という官位が記載されることになる。
 濱島家の最初の当主であった清実から始まる初期の記録においてその官位は明らかではないが、濱島家は世襲的に内膳司奉膳を担ってきたはずであり、内膳司奉膳は、正六位上の官位に相当するものであったので、少なくともそれ位の地位を世襲してきたものと推測される。
『日本料理法大成』の系図には、初代・清実から奉膳という役職にあったと書かれている)

 室町時代の濱島家の記録は、はっきりしていない部分が多いのだが、幸いなことに濱島家の子孫たちは『内膳司濱島文書』という文献資料を残したので、ここから詳細な歴史を紐解くことができるようになっている。ただし『内膳司濱島文書』の最も古い記録は、寛永元年11月28日に中宮殿において奉じた濱島家6代目の内膳司従五位上清秀からの記録なので、実際に情報の内容が充実しているのは江戸時代初期以降からという事になる。

 濱島家の家系は『地下家伝』および『内膳司濱島文書』から把握できるので、代々の当主を以下に記しておく。

【 濱島家家系図 】

 ①清実(生年・死亡年不明)
 ②清茂(生年・死亡年不明)
 ③清信(生年・死亡年不明)
 ④清貞(生年・死亡年不明)従四位下(1456年)
 ⑤清定(生年・死亡年不明)従五位上(1458年)
 ⑥清秀(生年・死亡年不明)従五位下(不明)
 ⑦清康(生年・死亡年不明)従五位下(1463)
 ⑧清兼(生年・死亡年不明)従四位下(1544年)
 ⑨清景(生年・死亡年不明)正五位下 民部大輔(1559年)
 ⑩清房(生年・死亡年不明)従五位下(1577) 播磨守
 ⑪清秀(生年・死亡年不明)従五位上(1620年)
 ⑫清廉(1617-1683)66歳 従四位上(1679)
 ⑬清長(1646-1684)38歳 正五位上(1677年)
 ⑭清定(1677-1734)58歳 従四位下(1544年) 志摩守
 ⑮等清(1717-1788)71歳 従四位上(1781年) 淡路守 播磨守
 ⑯等庭(1747-1821)75歳 正四位下(1820年) 志摩守
 ⑰清章(1773-1828)56歳 従四位下(1824年) 志摩守 駿河守
 ⑱清平(1804-1848)44歳 従四位下(1845年) 志摩守
 ⑲実庭(1834-1869)35歳 正五位下(1862年) 志摩守
 ⑳康平(1859- 不明)?
 ◎康一(1971年に学習院大学に内膳司濱島文書を寄贈)


 『地下家伝』および『内膳司濱島文書』からだけでは得られない情報は、石井泰次郎の著した『日本料理法大成』の内膳司濱島家についての項を参照にして補足してある。例えば20代目の濱島(高橋)康平については、『日本料理法大成』の記述を参考とした。
 この『日本料理法大成』によると、⑲実庭は、⑱清平が内膳渡邉出雲守の三男(鐡之助)を養子として迎えた人物であることが記されている。また、⑳康平も養子で、この人物は、⑱清平の実の娘の息子であり、甥を養子として迎えたとも記されている。

 また濱島康一については正確に何代目かは分からないが、1971年に学習院大学に内膳司濱島文書を寄贈した人物であるので、濱島家当主、あるいは継承者であると思われる。ただ年代的にみても⑳康平〜康一の間には、ひとり、ないしはふたりの人物が間にいたのではないかと推測される。

 年代的な言及が無いので、初代の①清実の生きた時代がいつ頃だったのかについては推測するしかない。『宮内庁書陵部桂宮家文書一・二号』には、永徳元年(1381年)5月に奉膳の②清茂が、内膳司の所管する供御料所の三国湊の廻船交易関所を、深町という人物らが押妨した為に収納が滞ってると訴えた記録が残されている。このことから、①清実の活動していた時代は14世紀中頃ではないかと推測できる。


濱島を名乗りはじめた時代


 当時の時代背景を考えることで、なぜ初代・清実の時代頃から「濱島」という新たな苗字を名乗るようになったのかを推測してみたい。

 室町時代は1336年、足利尊氏による統治開始をもって始まったとされる。しかし足利尊氏が、新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対して、後醍醐天皇(南朝側)は京都を脱出して吉野で南朝を樹立したため対立関係が生じることなる。ここから56年間に渡って南北朝時代に入ることになるのである。
 この南朝と北朝の分裂は最終的に南朝が北朝に統一されるかたちとなり、北朝の後小松天皇に天皇の象徴である三種の神器が譲られた1392年に終わることになった。

後醍醐天皇 (1288年 - 1339年)


 ここで注目すべきは、南北朝時代に南朝についた一族もいれば、北朝についた一族もいただろうということである。最終的には南朝が解消されるかたちで北朝に統一された為、南朝に属していた公家は官職に就こうとしても、既に官職は従来からの北朝の公家で占められていたために公家社会への復帰はすぐには適わなかったとされている。
 このようなことが磐鹿六雁命の子孫である内膳司として天皇の料理を司ってきた高橋朝臣の一族にも起きたのではないだろうか。こうした歴史的な背景や官位の記録から推測して、私は内膳司奉膳の高橋氏は南朝の後醍醐天皇の側についた一族だったのではないかと考えている。その推測の4つの根拠を以下に示しておきたい。


1⃣ 後醍醐天皇との近さから

 高橋氏は、代々、内膳職奉膳という、天皇に最も身近な生活に関係した料理を司る役職にある一族であった。こうした後醍醐天皇との緊密性を考えると、後醍醐天皇が南朝を始めると共に、吉野へと移動した可能性は十分に考えられる。
 また高橋氏の拠点のひとつに御食つ国の志摩国がある。この志摩国(現在の三重県)には、南北朝時代の南朝の拠点であったと伝えられている一之瀬城址があり、その高台には後醍醐天皇の皇子である宗良親王の御遺跡も残されている。南朝を支持していた北畠親房の拠点は伊勢であり、こうした背景から南朝は、伊勢・志摩国といった地域との深い関係があったことが明らかである。
 また一之瀬城址は、現在の三重県度会郡度会町にあるのだが、度会わたらいとは伊勢神宮外宮の神職を世襲で務めてきた一族の本姓でもあり、土地は伊勢神宮とも遠からざる距離にある。また先の北畠親房は『神皇正統記』を執筆して南朝の正当性を主張しているが、それには伊勢神宮外宮の度会家行からの強い影響があったとされている。伊勢神宮は、吉野、伊勢、志摩をベースとした南朝と、地理的にも、また思想的に近しい関係性があったことがうかがえるのである。

 さらに高橋氏は南北朝の時代から濱島を苗字としたと思われるが、これは志摩国の濱島(現在の三重県志摩市浜島町)の地名を根拠とするのではないかとされており、南朝が志摩に行宮を定めた期間に濱島を名乗るようになった可能性も推測されるのである。

 このように伊勢国が北畠親房の勢力下にあったこと、および、志摩国との深い関係を有していた高橋氏の存在は、南北朝の時代に、高橋氏が後醍醐天皇を支持して南朝に組し、その後、濱島と名乗るようになったという推測の根拠とすることが出来るのではないだろうか。


2⃣ 濱島という苗字を名乗るようになったことから

 もうひとつの理由は、濱島家のその始まりにある。先にも述べた通り、濱島家の初代であった濱島清実の生きた時代は西暦14世紀中期に当たると思われる。よって濱島清実は南北朝分裂の開始、および分裂した混乱期を経験したことだろう。
 また南北朝時代の解消後に、南朝側の立場であった濱島家は、北朝を支持してきた公家によって既に占められた官職に割って入ることは難しかったに違いない。それは現代でもM&A(企業合併)によって二つの企業が合併する際に、買収する企業と、買収される側の企業のどちらに属していたかで、役職が大きく左右したり、また降格人事、さらには退職勧告、解雇といった処遇に置かれるようになるのとまったく同じである。

 ここで改めて濱島家の家系図を見て頂きたい。初代から三代目までの官位は明確ではなく、四代目の清定が1456年になって始めて官位(従四位下)の記録がある。こうした記録から考えると、南北朝の期間、南朝についていた可能性のある高橋氏は何十年か干されている期間があったかのようにも思われる。

 内膳司奉膳の職は、正六位上相当であるとされているので、官位の記録は記載されていないが、濱島家の初代から三代目までは内膳司奉膳として、最低でも正六位上ぐらいの官位にはあったのではないかと思われる。あるいは高橋氏の者が内膳司ではない場合は、他家の者が内膳司と務めることがあったが、その際には、奉膳という役職ではなく、内膳正と呼ばれる役職が高橋氏以外の者に与えられることになっていた。つまり、奉膳が途切れたり、務めを果たせず、膳内正がその職務に当てられたりしていた時期があったのかもしれない。少なくともその当時の高橋氏の世襲による奉膳は困難を極めた時期にあったと想像されるのである。

 こうした経緯の故に、それまで高橋を名乗っていたが濱島の姓を名乗り始めたのではないだろうか。その経緯は記録されていないので推測するしかないが、南朝に属していたことから受けていた不遇を「濱島」の苗字にすることでリセットするような意味もあったのではないかと私は思う。


3⃣ 濱島家の官職から

 さらに注目したいのは官職である。平安時代の高橋氏は、御食つ国の若狭国と志摩国の国司の職を世襲で得ていた。しかし、濱島となって以降、この一族は若狭守を任されていない。江戸時代中期以降になってからやっと5人の者が志摩守の職につくようになっているが、かつて高橋氏の拠点であった若狭においては再び国司に任じられることは無かった。

 磐鹿六雁命 → 膳臣 → 高橋 → 濱島の一族は内膳司奉膳という、いわゆる内膳司としての長官職を世襲で務めていたのだが、これとは別に、内膳司の組織には御厨子所みずしどころというセクションがあり、ここのあずかりという役職を世襲していたのが、もうひとつ別の高橋氏であった。この高橋氏は、磐鹿六雁命の系統ではなく、武内宿禰=紀氏=高橋という系統であり、家系図を見て頂くと分かるがその根本から異なる別の一族となっている。 (家系図はここから参照のこと)

 さて南北朝が始まり、朝廷が二つに割れた辺りを境にして、内膳司奉膳の高橋氏に代わって、この紀氏系の御厨子所預の高橋氏が、世襲で若狭守に代々就任するようになる。紀氏高橋(以降、御厨子所預:高橋氏と記載する)の者は、それまでは誰も若狭守になったことなかったのだが、1382年-1392年まで橋宗藤が若狭守を務めたのをきっかけに、以降、御厨子所預:高橋氏の中から11名の者が若狭守に就任している。つまり若狭守の役職は、内膳司奉膳の高橋氏から、御厨子所預の高橋氏にへと完全にスイッチされたということである。

 こうした官職における就任人事から、内膳司奉膳の高橋氏が南朝に、それに対して御厨子所預の高橋氏が北朝についていたという可能性を推測できないだろうか。


4⃣ 濱島家に残された故実文書から

 この推測については、内膳司奉膳の高橋氏だけではなく、御厨子所預の高橋氏に関する説明の中で明らかにしてゆきたい。なぜならばこの両家が保有していた文書を比較・対照することで、その関係性と出典元がうかがい知れるからである。このことを内膳司奉膳の高橋氏は南朝側についていたという説の根拠としたいのであるが、それにはまず御厨子所預の高橋氏がどのような一族であったかの説明から始める必要があるだろう。

 よってまずは御厨子所預の高橋氏について説明し、そこから内膳司奉膳の高橋氏は南朝側についていた根拠である4⃣を示す事にしたい。
 その理由の4⃣について、御厨子所預・高橋氏の言及を読み飛ばしたい場合は、「内膳司奉膳は南朝側だったか?」をクリックして下さい。



御厨子所預みずしどころあずかり の高橋氏


 天皇の料理に関係する高橋氏にはふたつの系統があり、それぞれは全く異なった氏族である。先に説明した高橋氏は、磐鹿六雁命を先祖とした高橋氏であるが、もうひとつの高橋氏は武内宿禰を先祖とした家系である。

 また双方の一族は天皇の料理に関係した官職を共に世襲したきたが、そのポジションは異なっている。磐鹿六雁命を祖先とする高橋氏は、内膳司の奉膳を任されていた。この職務は、内膳司を管理し、天皇に出される食事の味見をすること、さらに祭祀においてその役割を果たす事にあった。
 武内宿禰を先祖とした高橋氏は御厨子所預を世襲していたが、その役割は、朝夕の食事の支度や、儀式などでの酒肴の用意である。
 内膳司奉膳も御厨子所預も双方が同じく天皇の料理に関係した役職であったが、内膳司奉膳が内膳全体の管理を行う役職であったのに対し、御厨子所預はより実務的に料理を準備するというのが主な役割のように分かれていたように思われる。
 以下に組織図を掲載しておく。

右弁官局 → 宮内省 → 大膳職
             木工寮
             大炊寮
             主殿寮
             典薬寮
             掃部寮
             正親司
             内膳司 → 進物所
                  御厨子所
                  贄殿
             造酒司
             采女司
             主水司


 御厨子所の組織は、別当(兼任職)→ 預 → 膳部 → 滝口(鵜飼・江人・網代)という構成になっているが、長官にあたる別当は名目上の兼任の管理職なので、実質は御厨子所のトップは預であり、その役職を高橋氏は代々世襲していた。
 組織的に見ると御厨子所は、内膳司の下部に位置しているのだが、内膳司にも別当がおり、また御厨子所にもさらに別当が配置されている。また御厨子所の別当は、内蔵頭も兼任しており、それらの職は山科家あるいは高倉家が世襲していたようである。それだからか組織の構成から見ると内膳司奉膳が御厨子所預を管理しているようにも見えるが、実質的にはその双方に主従関係のようなものはあまり感じられない。

 先に記したように、この高橋氏は武内宿禰の子孫であり、最初は紀朝臣を名乗っていた。しかし、康平2年(1059年)に御厨子所預となった高橋宗成の代から高橋氏を名乗り始める。以下、御厨子所預を務め高橋を名乗り始めた高橋宗成からの家系を記しておく。

【 御厨子所預 高橋家家系図 】

①宗成(生死年不明)(1059年) 御厨子所預
②宗政(生死年不明)(1081年) 御厨子所預
③宗兼(生死年不明)(1096年) 御厨子所預
④重宗(生死年不明)(1166年) 御厨子所預
⑤宗季(生死年不明)(1189年) 御厨子所預
⑥宗尚(生死年不明)(1211年) 従五位下 預は不任
⑦宗親(生死年不明)(1211年) 御厨子所預
⑧宗光(生死年不明)(1210年) 御厨子所預 肥後守
⑨宗隆(生死年不明)(1232年) 御厨子所預
⑩宗信(生死年不明)(____年) 御厨子所預
⑪宗茂(生死年不明)(1246年) 御厨子所預
⑫宗長(生死年不明)(1282年) 御厨子所預 安藝守 豊前守
⑬宗俊(生死年不明)(1301年) 御厨子所預 安藝守
⑭宗基(生死年不明)(1313年) 御厨子所預
⑮宗藤(生死年不明)(1346年) 御厨子所預 若狭守
⑯宗顕(生死年不明)(1351年) 従五位下 預は不任
⑰宗定(生死年不明)(1398年) 御厨子所預 若狭守 備前守
⑱季弘(生死年不明)(1459年) 御厨子所預 若狭守 越前守
⑲宗興(生死年不明)御厨子所預 (1471年) 若狭守
⑳宗国(生死年不明)(1510年) 御厨子所預 若狭守
㉑宗頼(1493-1546)53歳 (1465年) 御厨子所預 若狭守
㉒宗衡(____-1542) (1533年) 御厨子所預 若狭守
㉓宗冶(1564-1589)25歳 (1576年) 御厨子所預
㉔宗好(1589-1647)59歳 (1596年) 御厨子所預
㉕宗定(1610-1653)44歳 (1627年) 御厨子所預 若狭守
㉖宗恒(1634-1706)67歳 (1648年) 御厨子所預 備前守
㉗親宗(1673-1729)57歳 (1683年) 御厨子所預 若狭守
㉘中正(1698-1711)11歳 (1683年) 御厨子所預
宗直(1703-1785)81歳 (1720年) 御厨子所預 若狭守
㉚宗澄(1736-1754)19歳 (1746年) 御厨子所預
㉛宗之(1743-1782)40歳 (1755年) 御厨子所預 備前守
㉜宗孝(1761-1815)54歳 (1778年) 御厨子所預 備前守
㉝宗芳(1795-1843)50歳 (1801年) 御厨子所預 若狭守
㉞宗愛(1819-1874)55歳 (1826年) 御厨子所預 薩摩守
㉟宗謙(1852-1896)43歳 (1859年) 御厨子所預 備前守


 上記を見ると、高橋家が御厨子所預を独占的に世襲していたことが明らかである。以下、この高橋家の幾人かを取り上げて注目する事にしたい。


① 高橋宗成むねしげ

 まず初代の①宗成に関する記録はあまりなく、どのような経緯で高橋を名乗るようになったのかは定かでない。この初代・高橋宗成は康平2年(1059年)3月11日に御厨子所預に任じられており、ここから高橋氏のこの役職の世襲が始まることになる。それは脈々と明治時代前に至るまで続けられることになり、それはこの高橋一族を特別な存在とする一要因になっていると言えるだろう。

 しかし、初代①宗成が御厨子所預の任期中の、延久元年(1069年)7月18日に、後三条天皇は内膳司からの饌を中止させ、その代わりに7月22日から御厨子所領の御厨子に命じて御菜を供進させるよう指示する。つまり、この時から御厨子所でも天皇のための朝夕の料理が作られるよう変更になったということになる。奥野高廣の著書『戦国時代の宮廷生活』P106によると、これは節約のための方針転換であったであろうとしている。
 いずれにしてもここから、内膳司は天皇のために日常料理を作る仕事から外され、その役割は供御米を炊くことと、朝儀の場合の食膳(朝餉)を準備することだけになっていった。

 こうして内膳司に代わり、御厨子所が新たに朝夕の天皇の朝夕の食事を準備することに携わるようになり、御厨子所の「あずかり」という管理職にある、紀氏高橋が食事の準備を管理するようになる。
 それまでは内膳司を通して、地方の御厨みくりやから食材を納める方法が取られていたが、食材の入手ルートにも変更が生じ、寛治5年(1091年)2月17日に、中宮職が、指定された生産者である供御人が、御厨子所に直接、食材を納めるのを認めるよう奏上しており、すでにその頃には、料理における入手経路は御厨子所の主導にになっていったと考えられる。

 この組織上の変更は、食材の物流・サプライチェーンにおいても大きな変化があったことを物語っている。それまで内膳司奉膳が主導で行ってきた食材調達が中止され、新たに御厨子所預に委ねられたというように読めるからである。後三条天皇がこの制度に変更したのは、節約のためであったとするならば、内膳司はそれまでこの権利から大きな利益を得ていた可能性も考えられる。またこの変更により、食材を納入していた各地の拠点も大きな影響を受けたと考えられる。当然、それまで内膳司との繋がりによって食材を禁裏に納入していた産地は、御厨子所と繋がる産地へと切り替えられていったに違いないからである。

 御厨子所の別当(長官)は、内蔵頭を兼任する山科家が世襲で務めていた。よって山科家は御厨子所に食材を納める供御人を管理し、自身の領地から様々な食材を調達していたようである。これによる税収を取得したりする特権が得られていたので、山科家にとっては、この変更は大きなメリットを得たと言えるだろう。

 ただそこに利権的なものがからみ、内膳司と御厨子所に対立が生じたというようなことは無かったようである。内膳司奉膳の高橋氏と、御厨子所預の高橋氏、また御厨子の子預を世襲した大隅氏と「御仲間」というグループで、日々の調進を助け合っていたことが記録されているし、有職故実における知識においても互いに日記や、家伝の書物を貸し合って共有しているので良好な関係が続けられていたものと思われる。

 実際のところ利権による大きな利益があったのかという点については一考を要するように思われる。御厨子所の別当(長官)を務めた山科家は、南北朝時代の山科教言(1328年 - 1411年)以後、代々内蔵頭として朝廷財政を運営していた一族である。しかし『言継卿記』などのこの一族が残した日記を見ると財政難のなかで色々苦労する記述も多くみられ、必ずしもその利権が莫大な富につながったという見方は出来ないようにも思える。
 むしろ知行地からの年貢が滞ったりして十分な税収があげられない、あるいは家に降りかかる災難など様々な苦労がうかがえる深い内容であり、御厨子所の組織を理解するのに大きな助けになる資料である。


⑮ 高橋宗藤むねふじ

 高橋宗藤は15代目の人物であり、この高橋一族で最初に若狭守を任じられた人物である。この高橋宗藤を始めに、以降、他10名が若狭守に任じられることになる。宗藤は貞和2年(1346年)に 御厨子所預となり、最終的には従四位上の官位を得て、若狭守民部大輔にもなっている。
 注目しておきたいのは、宗藤が御厨子所預を務めている期間中(1336年~1392年)に、南北朝に分断していた事である。さらにこの南北朝分断期から、御厨子所預の高橋氏が若狭守に就任し始めたことである。
 若狭国はもともと御食国であり、志摩国などと同様に、海産物を朝廷に納める国であった。奈良時代には内膳司奉膳の高橋氏が、若狭守(国司)を務めていたのは先に述べた通りである。ただ西暦10世紀になるとほとんど高橋氏の名前が若狭守として登場しなくなるが、それでも内膳司奉膳の高橋氏は若狭国に領土があった為に、多少の影響力や、その土地からの食材を調達してはいたようである。

 9世紀から14世紀までの内膳司奉膳の高橋氏に関する記録はかなり少なく、あまり確かなことは分からない。
 しかしこの一族が濱島家と苗字を名乗るようになってから、再び内膳司奉膳としての系譜が明確になってくる。興味深い事に『宮内庁書陵部桂宮家文書一・二号』には、2代目の濱島清茂が永徳元年(1381年)5月に、内膳司の所管する供御料所の三国湊の廻船交易関所を、深町という人物らが押妨した為に収納が滞ってると訴えている記録がある。ここから内膳司奉膳の高橋:濱島家が、依然として若狭国に領土を有していたことは分かるのだが、そこでは押妨によって収納の滞りが生じているなど、若狭において彼らのガバナンスが効かなくなっており、内膳司奉膳としての影響力は南北朝時代を境にかなり薄まっている様子がうかがえる。

 こうした時代背景や高橋氏を取り巻く状況を考えると、若狭守となった高橋宗藤の存在は、ある意味、御厨子所預の高橋氏にとってある種の基点になっているように思われるのである。仮説として先に述べたように、内膳司奉膳の高橋氏が南朝を支持したのに対して、御厨子所預の高橋氏が北朝を支持していたとするならどうだろう。内膳司奉膳の高橋(濱島)氏の若狭国における影響力の低下は、南朝についたことが理由であると考えられ、それを境に若狭守に御厨子所預の高橋氏が任じられるようになったのは、この一族が北朝を支持した事が背景にあったからではないだろうか。

 実際に、御厨子所預の高橋宗藤が、南朝か北朝のどちらに付いたかは分からないが、この時代の御厨子所の別当(長官)は山科教言(1328-1411)であった。高橋宗藤は預という二番目のポジションで仕えていたが、その管理者ともいえる、山科教言は足利氏と近い関係にあり、北朝を支持する人物であった。こうした背景を考えると、御厨子所預の高橋宗藤は北朝を支持する側にいたと考えるべきではなかろうか。

 そうなると御厨子所預の高橋氏が、南北朝の時代に若狭国において若狭守に任じられるようになった経緯には、何らかの深い意味合いが読みとれるように思われるのである。


㉖ 高橋宗恒むねつね

 高橋宗恒は、寛永17年(1634年)生まれ、9才で御厨子所預になり家職を相続した。12才で雅楽頭となり、寛文10年(1670年)31才で備前守に任官している。延宝4年(1676年)に幸治から宗恒と改名し、同年6月に正五位下に昇叙された。
 さらに高橋宗恒は有職故実の専門家として名を遺した人物でもあった。その類まれな有職故実の知識ゆえに、その当時の関白だった一条兼輝の知遇と後援を得て、家職とする餐膳調度の故実だけでなく、殿舎の室礼、装束の故実といった他のジャンルにについても故実の専門知識を有するまでになる。さらに遺品、古書、古画を文献などを広範囲にわたって探し求めて検討することで、文献の理解と実技の復活につとめた人物でもあった。
 当時、有職故実の専門家の四天王として、東園基量、平松時方、野宮定基、滋野井公澄が知られていたが、宗恒は群を抜いた有職故実の識者であり、これらの人物に教えたり影響を与えるほどの別格であったので、一人武者と讃えられていたという。

 故実に通じていた宗恒は多くの著作を残している。以下、その一覧を示しておく。


正月三節會御膳供進之次第


 国立国会図書館のデジタルアーカイブでは、高橋宗恒が著した『正月三節會御膳供進之次第』を見ることが出来る。この巻物は正月に行われる三節會での料理を図で示したものであり、かつ、どのような料理を内膳司と御厨子所が個別に役割分担するのかが明示されており大変興味深い。
 挿絵を見ても分かるが、三節會で出される料理は食べる為の料理ではない。こうした料理は儀礼的な捧げものとして、故実に基づいて飾られるためのものだった。こうした料理を準備するためには過去から積みあげられてきた知識が必要とされ、こうした知的アーカイブを高橋氏は有していた為に重用されたのである。

 また宗恒は、自分で執筆するのとは別に、過去の文献編纂も行っており、宗恒の編纂した『類聚雑要抄彩色図』,『禁秘抄中調度器物之図』が、東京国立博物館に所蔵されている。東京国立博物館のウェブでは『類聚雑要抄』巻第三を見ることができるが、その内容は料理ではなく、しつらえに関する故実である。このように高橋宗恒の故実の知識は多岐にわたっており、残された文献からも故実家としていかに高く評価されていたのかが分かる。

 またベルリンにある図書館のデジタルアーカイブでは、宗恒が写した、『釈奠之図』を見ることが出来る。
 釋奠とは、孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式のことであり、別名で孔子祭ともいう。日本では701年に最初に行われており、大学寮を中心として行う儀式であるが、平安時代には、饋享といって、孔子及び孔子十哲の画像に幣帛及び酒食を供え、参列者には神人共食のための三献が振舞われることから、高橋宗恒もこの儀式の記録を写したと考えられる。

 また高橋宗恒は、女性の神に挿すこうがいを広めた人物でもある。笄とは、髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具であり、頭が痒い時に髪型を崩さずに掻くためにも使われ、女性の身だしなみに欠かせない装身具である。もとは中国から伝えられたものであるが、故実に通じていた高橋宗恒は、笄を紹介し江戸時代の女性からこの笄を、櫛、簪と共に使うようになったとされている。  笄は、高橋宗恒が『類聚雑要抄』の編纂の過程で工人に伝え、それによって女性に広がったとされている。また簪に関しても、高橋宗恒が発明したという説と、孫の高橋宗直が発明したとい説があり、いずれにしても故実家の大家の2人が関係しているところも興味深いポイントであると言えるだろう。

 高橋宗恒についての詳細は、「高橋宗恒」の項でお読み下さい。


㉘ 高橋宗直むねなお

 高橋宗直むねなおは、先の故実学者であった高橋宗恒の孫にあたる。父親は高橋親宗で、宗直はその次男であった(長男は11歳で死亡)。祖父の宗恒と同様に、宗直は故実家としても良く知られた存在で、かなり多くの書物を残しており、国文学研究資料館のデータベースには59冊もの高橋宗直の書籍が登録されている。他にも調査すると、データベースに登録されている書籍もいくつか存在していることが分かったので、以下に、64タイトルの高橋宗直の著作をリストアップしておく。

高橋宗直むねなお 著作 】
 1 『朝餉大床子等御膳図』
 2 『御祠堂御膳之書』
 3 『紀宗直詠歌留』
 4 『紀宗藤記』
 5 『婚礼床飾』
 6 『清紫両殿別勘』
 7 『大嘗会神饌調度之図』
 8 『莛響録』
 9 『寶石類書』
 10 『舞楽図』
 11 『定基卿問答記』
 12 『清涼殿之図』
 13 『太政官廳圖考證』
 14 『熊野新宮神寳図』
 15 『白川家秘記 : 神祇部類』

 ここからの著作は書籍案内のみ

 16 『曲水宴肴物調進図』
 17 『九条殿亭御幸御膳図』
 18 『巻纓之事』
 19 『見聞雑録』
 20 『元文二年/凶事御膳次第』
 21 『桜町天皇御即位礼服紋図』
 22 『紫宸清涼及太政官図』
 23 『紫清両殿図別勘』
 24 『祠堂供膳図』
 25 『正月三節御膳之図次第』
 26 『清紫図考』
 27 『清紫両殿考』
 28 『清紫両殿図考証』
 30 『節会御膳内々御覧之記』
 31 『大床子御膳供進記』
 32 『大嘗会鮮味図』
 33 『大嘗会新嘗会御再興記』
 34 『大嘗会本柏之図』
 35 『大嘗会悠紀主基御次第』
 36 『太政官庁図考証』
 37 『内裏御殿図』
 38 『厨具図』
 39 『厨具類纂』
 40 『厨署類琳』
 41 『桃華蘂葉中八条之辨』
 42 『唐菓子作り様』
 43 『当家年中行事』
 44 『床飾正誤』
 45 『白烏御祝の記』
 46 『伯鯉抄』
 47 『八種唐菓子之事』
 48 『晴庖丁極秘五ケ条』
 49 『晴庖丁次第』
 50 『冠装官器図識』
 51 『庖丁簡要抄』
 52 『庖丁譜類聚』
 53 『御厨子所預家記目録』
 54 『御厨子所預蔵書雑文書』
 55 『御厨子所門弟連名』
 56 『礼服着用記』
 57 『礼服着用故実抄』
 58 『諒闇類聚并関東之儀』
 59 『大床子朝餉等御膳之図』
 60 『戴餅之図』
 61 『市之餅供進図』
 62 『旧内裏殿舎考』
 63 『京極宮姫宮有馬家へ御婚礼御膳』
 64 『凶事御膳次第』


 高橋宗直むねなおは、数多くの書籍を書き残していることからも分かるように、祖父にあたる高橋宗恒と同様、有職故実の専門家として認められていた人物であった。

 『国学者伝記集成』には、高橋宗直が、高橋宗恒の子であると説明されているが、これは間違っており、高橋宗直は高橋宗恒の孫であるというのが正しい説明である。こうした間違いもあるが、この本には幾つかの高橋宗直についての興味深いエピソードも載せられており、その幾つかを紹介しておきたい。
 まずは高橋宗直が六人のひとのために、鯉を六当分したことについて述べている。すると、それぞれが寸分違わず同じ分量だったことから、御厨子所預であるので包丁さばきにおいても勝っていたと説明している。
 また宝暦13年に高橋宗直が白鳥包丁(白鳥を捌く包丁式)を披露して禄を賜る際に、笏がなかったので、懐にたたんであった紙を笏にみたてて使ったことから、学に通じた人はそれを見て感じ入ったとあり、これも高橋宗直が故実に通じていたことの証であると言えるだろう。小笠原家にも折形と言い、紙を折ることの儀礼が定められていた。また料理においても紙立(こうたて、あるいは、かみたてと読む)と言い、料理の盛り付けに用いる、紙で折った懐敷(料理の下に引くもの)が用いられていたが、これが後代に折形あるいは折り紙にへと発展していったとする見方もある。よって高橋宗直が紙を折って笏としたというのも、折形に関する故実に基づいたものであった可能性もあり、ここからも高橋宗直の造詣の深さがうかがえるのである。

 他にも意外なところで高橋宗直の残したものがある。それはかんざしである。もともと簪とは、こうがいに耳掻きをつけたことから始まったものである。簪になぜ耳掻きをつけるようになったのかについては諸説あるが、そのひとつに元禄時代に贅沢禁止令から逃れるためというものがある。つまり金をかけたきらびやかな簪であっても、耳かきを着けることで、贅沢品ではなく、実用品であると言い訳するためであったとされている。
 これには高橋宗直も関係していて、宗直がある商人に耳掻きをつけると簪が流行すると助言し、それを試しに作ってみたところ大流行したとされている。

簪(かんざし)には耳かきが付いている


 簪については、祖父の高橋宗恒が発明したとしている説もあるが、いずれにしても御厨子所預の高橋氏がそれを発案したことには間違いなく、故実家の持つ知識が女性の美容にも関係したことは興味深い。これも高橋宗恒・宗直が、故実のジャンルとして、食事だけにとどまらず、装束や道具に至るまで調査し、図画として記録に留めるという試みがもたらしたものであろう。

 高橋宗直についての詳細は、「高橋宗直むねなお」の項でお読み下さい。


大嘗祭の復興と高橋氏

 高橋宗恒および宗直の有職故実の知識が重要視された背景には、大嘗祭の復興という流れがある。霊元天皇は院政をしき、自身が退位した後に、東山天皇を天皇へと即位させるにあたって、貞享4年(1687年)8月13日に240年間も断絶していた大嘗祭を簡略形式ではあるが復興させた。こうした古式儀礼を復興する過程において、高橋宗恒の有職故実の知識が大きな役割を果たすことになったのである。

 その後、次の中御門天皇の代には大嘗祭は行われなかったが、さらにその次の桜町天皇の元文3年(1738年)には再び大嘗祭が行われている。この桜町天皇の大嘗祭は、関白の一条兼香が推進者となって再興することが出来たが、この一条兼香は、前時代の同じく関白であった一条兼輝の息子(養子)である。先の東山天皇の時代、この養父の一条兼輝は、高橋宗恒の有職故実の知識を評価し、東山天皇の大嘗祭を復興させた人物である。それと同じように、息子の一条兼香も高橋宗恒の孫である高橋宗直の有職故実を重要視し、それが桜町天皇の大嘗祭復興に繋がったことは大変興味深い。このような背景をみても、高橋家の持つ有職故実の知識が宮廷の多くの断絶していた儀礼の再興に大きな役割を果たしたと言えるだろう。また、こうした背景のゆえに、高橋宗恒と高橋宗直は多くの書籍を通して、故実に関する知識を書き残すことを行ったとも考えられる。

 さらに先にも述べたように一条兼香は、一条兼輝の養子であるが、その実父は鷹司房輔、実母は山科言行の娘であった。つまり一条兼輝は山科家とも深いつながりがあり、しかもその山科家は、高橋家の世襲する御厨子所の預というポジションの上司に当たる別当を世襲している家である。ここにも山科家と高橋家の強い繋がりを見る事も可能であろう。

 さらにもう一つ、先に、内膳司奉膳の高橋家は南朝に、そして御厨子所預の高橋家は北朝に付いたのではないかと述べたが、その理由をここで示しておきたいと思う。
 それは多くの有職故実の知識が、内膳司奉膳の高橋家よりは、御厨子所預の高橋家の方に多く残されているところにその根拠を求める事ができる。宗恒・宗直は禁裏の敷地や間取り図、さらには装束や調度に関する多くの故実の情報を有し、それを実際に書物に編纂している。
 こうした故実の知識は、南北朝の頃から濱島と名乗るようになる内膳司奉膳の高橋(以降、濱島と記載する)には引き継がれなかったようで、『濱島家文書』に納められている記録を見ると、御厨子所預の紀氏高橋に関連する史料が散見される。
 濱島家で転写をおこなった膳次第や書物、絵巻物の元本の多くは、公家の所持本であり、その出所のいくつかは、御厨子所預の高橋家(紀氏)の所蔵であることが分かっている。例えば現在、学習院大学に所蔵されている濱島家の所持していた『豊明節会御膳図』は貴重書であるが、その作者は御厨子所預の高橋宗恒である。

『豊明節会御膳図』濱島家文書


 しかしながら、この『豊明節会御膳図』は、国立国会図書館のデジタルアーカイブに収蔵されている高橋宗恒が著した『正月三節會御膳供進之次第』とほとんど同じ内容であり、御厨子所預の高橋家(紀氏)にある有職故実を参考にしながら、内膳司奉膳を濱島家(高橋氏)は職務を務めていたとも思われる。つまり有職故実に関する知識は、その知識の原典をたどると、内膳司奉膳よりは、御厨子所預の家に保存されていたものから引用されたものであることを見て取れる。
 濱島家文書には、供膳に特定せず、儀式全般についての図や書物の写しの類が多く含まれており、特に図絵・写本の作成は、16代当主の濱島等庭から、17代の濱島清章、18代の濱島清平、19代目の濱島実庭の時代に特に顕著になっている。だがこれらは御厨子所預の宗恒・宗直が残したものを転写したものなのである。ここからも宗恒・宗直が有職故実の大家であったことと、こうした知識が御厨子所預の高橋家を中心にアーカイブされていたことが理解出来るだろう。

 随筆の『桜の林』には、高橋宗直の遺言として「京都は火事になるだろうから、その時には家を捨てて、内裏の云々の場所に記録の箱があるので、それを持ち出すように。家が焼けてもそれがあれば高橋家は生き続けるだろう」とある。その後、残念ながら高橋家は、1788年3月7日に発生した天明の大火で多くの蔵書を失う事になってしまう。(これによる情報や知識の損失は計り知れないだろう)
 それでも当時の当主である高橋宗考は、御厨子所子預の大隅家などの文書を転写するなどして、知識集積の回復を図っており、料理に関係した、内膳司奉膳・濱島家、御厨子所預・高橋家、御厨子所子預・大隅家などで相互に有職故実の巻物や書籍の写本を転写し合い、知識共有が行われていた様子がうかがえる。



内膳司奉膳は南朝側だったか?


 さてここで先に述べた、内膳司奉膳は南朝側だっとという仮説に対する4⃣の根拠を示しておきたい。
 1⃣ 内膳司奉膳の濱島家は南朝側に属する志摩が領地だったことや、2⃣ 南北朝時代を境にして高橋→濱島を名乗るようになったタイミングから、さらに、3⃣ 若狭守という官位の変遷からから、内膳司奉膳の濱島家は南朝側ではなかったのではないかという仮説を述べてきた。

 先にも述べたような内膳司奉膳が南朝側にいたことを示す間接的な理由は幾つか存在しており、ここでもうひとつ、保留としておいたその仮説に対する根拠の4⃣を、御厨子所預・高橋氏について説明し終えた今ここで挙げることにしておきたい。

 内膳司奉膳は南朝側だっとという仮説の根拠4⃣は、有職故実に関するアーカイブが、内膳司奉膳・濱島家よりは、御厨子所預・高橋家の方にしっかりと存在していたということである。その理由は南北朝時代に、御厨子所預・高橋家は京に留まったのに対して、内膳司奉膳・濱島家は南朝と共に、吉野・伊勢・志摩へと移っていったことが影響している為ではないかと私は考えている。
 料理に関する多くの故実は、京の宮廷で実践される儀礼に関係したものであった為、都を離れた南朝の宮廷の定まらない状況では、伝統的に行われてきた儀礼や、儀礼的な調進の継続というものは困難であったと思われる。こうした流動的な南北朝時代に、内膳司奉膳の有職故実に関する知識は継承されずに、その幾らかが失われてしまったと推測するのは難くない。

 それに対して、御厨子所預・高橋家は北朝側を支持して都に留まっていた為に、有職故実における知識は御厨子所の一族に継承されたのかもしれない。このようにして御厨子所が過去から残してきたものを、江戸時代になり、高橋宗恒・宗直が編纂し、改めて書き残すことで彼らは有職故実の大家として名を残すことが出来たのである。

 御厨子所預・高橋家が北朝側に従ったかどうかを直接語る文献は見つかっておらず、現在まだ調査中なのであるが、それでも御厨子所預・高橋家が北朝側にいたであろうことは容易に推測できる。何故ならば、御厨子所には高橋家が世襲していた預という役職の上には別当(長官)があり、その別当を世襲的に務めてきたのは山科氏であったからである。しかもその当時の山科家の当主は、山科教言で、その教言は、足利義満からかなりの寵遇を受けた人物であった。公家であるにも関わらず山科教言は将軍・足利義満と緊密な関係を築いていたようで、その事は山科教言が残した『教言卿記』から良く把握できる。つまりこうした関係性から、御厨子所という部署はかなり北朝側と近しい関係にあったのではないかと推測できる。

 こうした南北朝時代の両家のスタンスの違いが、南北朝終了後に両家に何らかの異なる影響を残したであろうことは想像に難くない。実際に残された節会などの膳を準備する役割分担を見ると、御厨子所預・高橋家と、内膳司奉膳・濱島家は50:50ぐらいであり、おおよそ均等に役割分担されているように思える。しかしそれは江戸時代になって儀礼の内容が書物化されることにより固定化されて生じるようになった役割分担である。
 かつて内膳司奉膳として天皇の料理を独占的に務めてきたのは磐鹿六雁命→膳臣→高橋朝臣→濱島という系統の一族である。しかし後年になるとこの一族が担ってきた役割は減らされ(均等に分けられ)、それまで特権的に務めたきた多くの役割を、南北朝分断という過程を通して御厨子所預の紀氏高橋家が担うようになったとも読める。

 かつて奈良時代の高橋朝臣は、安曇氏とどちらが先に並ぶかという役割分担においての論争を通して独占的なポジションを獲得してきたが、後代になって料理を担当するようになった御厨子所預・高橋家のような家々との間には、かつてあったような役割における目立った闘争や、激しい主張のようなものは見られなくなっている。むしろ内膳司奉膳の濱島家、御厨子所預の高橋家、御厨子所小預の大隅家、御厨子所番衆の大隅家は「仲ヶ間なかま」を形成して、病気や喪によって儀式を務められない場合は仲ヶ間のものが代理を務めることで、相互の協力関係を築くようになっていた。

 本来であれば絶対的な歴史と有職故実の知識を持っているのは内膳司奉膳の濱島家であるはずなのだが、室町時代南北朝のあたりを境にして、御厨子所預の高橋家の方にその役割が分割、あるいは譲られたり、新しい役割が任されることになっていった。こうした変化の過程にはやはり南北朝分断がターニングポイントとしてあり、この両家が南朝・北朝のどちらに付いたかという事は、その後の両氏に有職故実に関する知識アーカイブへの差異を生じさせたという意味においても非常に注目すべきポイントであったように思われるのである。

 室町時代後期から江戸時代まで、朝廷の力は弱まり、経済的にも困窮していた為に大嘗祭を含む儀礼的なものの多くは一時的に失われてしまった。実際に大嘗祭は240年もの間、途絶えてしまっていたが、それでも江戸時代中期から再び、儀礼的なものに注意が向けられるようになる。こうした時代背景のなかで御厨子所預の高橋宗恒・宗直が有職故実の知識の大家として活躍するようになったのは必然的であったと言えるだろう。

 また高橋宗恒・宗直が編纂した故実を、後の時代に内膳司奉膳の濱島家の16代:等庭、17代:清章、18代:清平、19代:実庭が転写しながら故実の知識を高め、逆輸入のようにして故実の知識を内に取り込んでいったことは興味深い。濱島家のオリジナルのテクストではなく、御厨子所預の観点から編纂された宗恒・宗直のテクストが転写されることにより、内膳司奉膳にとっても、そのテクストがスタンダード化していったのだとも考えられる。
 こうした過程を経て御厨子所預の高橋は、有職故実の知識においても、また門人を抱える包丁流派としても拡大を見ることになったのである。興味深い事に高橋宗直の『包丁故実門人』には「濱島奉膳」という記載も含まれている。年代からこの時代に奉膳を務めていた人物は濱島等庭に該当するように思われる。本来であれば内膳司奉膳がより多くの有職故実の知識を有していて、それらを教授する立場であるはずなのだが、逆に御厨子所預の高橋に教えられる立場になってしまっているのところに立場の逆転を見ることが出来るように思う。

 しかし濱島等庭も後年、有職故実の有識者としても知られている人物となる。つまり濱島等庭は、高橋宗直の門人として学び、そこから多くの知識を吸収していたものと考えられる。濱島家文書中には高橋家関係の史料が散見されるのは、こうした関係性があったことにその理由を求める事が出来るだろう。



その後の高橋家


 江戸時代終わりまで、天皇の日々の料理は御厨子所預の高橋家によって備えられてきたが明治時代になり大きな変化の時期となる。明治維新により、明治天皇は京都を離れ、東京に遷都されることになったからである。

 それに伴い御厨子所預の高橋家も、皇室の料理番として天皇に従って東京に移住することになる。これは高橋宗愛と、その息子の宗謙の頃であると思われる。  高橋宗愛は故実家としても優れていたようであり、『徙移并嫁娶饗膳図』,『九条家元服饗饌図』,『当時強供御之図』といった宗愛秘書の写本が残されている。

 しかし宗愛・宗謙は体が弱かった為、その役目は、明治3年(1870年)になり、旧江戸幕府の料理方頭取を勤め、将軍の料理長であった石井治兵衛家に譲られることになった。これによって高橋家の料理伝書は石井家に譲られ、現代に残ることとなったのである。
 高橋宗愛は明治7年(1874年)に死亡、健康に恵まれず、息子の宗謙も明治29年(1896年)に亡くなり紀氏高橋家は断絶となってしまった。

 ちなみに、御厨子所預の高橋家から天皇の料理番を譲られた石井家も料理における中心的存在であり、徳川幕府の料理長(料理頭取)を世襲していた家柄であった。天皇の料理番を譲られたのは8代目の石井治兵衛で、『日本料理大全』 という大書を著述している。この本は息子の9代目の石井泰次郎との共著であり、日本における料理研究の集大成であると言えよう。
 江戸時代から石井家は四條流宗家として全国の大名の料理番に君臨しており、同時に四條流の家元としても権勢を誇っていた。もともと石井家は高橋家に師事していて高橋家の料理道を伝えて来たのだが、高橋家の子孫が絶えてしまった為、名実共に石井家が四條流家元を務めるということになったのである。
 しかし石井泰次郎氏の一人娘が16才で亡くなってしまい、石井家もまた断絶してしまっている。その後、庖丁家としての系譜は四條流門人会に引き継がれて存続している。

 御厨子所預の高橋家が残した文書は石井家も断家により存続できなくなったことで、田村魚菜に売却されたが、田村魚菜の亡き後には慶應大学に譲渡されることになった。現在はそれらが魚菜文庫として慶應義塾図書館に残されている。その目録は『魚菜文庫 (旧称石泰文庫) 目録』から確認することが出来るようになっているので、このように残されてる文書群に対する今後の料理研究が進むことで、新たな歴史的な糸口が見えてくるのではないかと私は考えている。



最後に


 天皇に料理における高橋家の系譜は、かなり昔にまで遡ることが可能だが、系図も繋がりが分かりにくいところもあり、かつ二つの高橋家の存在の故に混乱する場合がある。こうした混乱を避けるためにも、磐鹿六雁命の子孫である高橋氏濱島と、武内宿禰の子孫である紀氏高橋の違いをクリアに理解しておく必要があるだろう。(両氏の系統は高橋氏家系図から確認頂きたい)

 それぞれの一族は、内膳司奉膳と、御厨子所預の職を世襲で受け継いできたが、それによって宮廷料理における儀礼や文化というものは形成され、継承されてきたことは間違いないだろう。

 こうした日本料理を担ってきた氏族の研究が進むことで、より一層の日本文化理解が深まり、その本質が料理の研究分野においてもさらに明らかになってゆくことを期待したい。またそうした理解の促進と、新たな情報の発見において、この拙文が何らかの一助となれば幸甚である。






参考資料



『高橋氏文』群書類従. 第五輯  塙保己一 編


六国史

  『続日本紀』  佐伯有義・朝日新聞社本

  『日本後紀』  佐伯有義・朝日新聞社本

  『續日本後紀』  佐伯有義・朝日新聞社本

  『日本文徳天皇實録』  佐伯有義・朝日新聞社本

  『日本三代實録』  佐伯有義・朝日新聞社本


『新撰姓氏録』 高橋朝臣

『新撰姓氏録考証』巻之二 高橋朝臣  栗田寛

『新撰姓氏録』 膳臣

『新撰姓氏録考証』巻之二 膳臣  栗田寛

『魚菜文庫(旧称石泰文庫)目録』  慶應義塾図書館

『太子伝玉林抄. 第1巻』  訓海

『日本霊異記』  景戒

『紀氏系図』  宮内庁書陵部

『大日本地名辞書』大和国、伊賀国、伊勢国、志摩国、紀伊国、淡路国  吉田東伍

『日本料理法大成』  石井泰次郎

『姓氏家系大辞典. 第2巻:膳』  太田亮

『姓氏家系大辞典. 第3巻:高橋』  太田亮

『紀氏系図』  宮内庁書陵部

『百家系譜』 紀蘇我二氏系譜  経済雑誌社

『埼玉苗字辞典』高橋の項  茂木和平

『福井県史』  福井県文書館

『高橋宗恒・高橋宗直 笄と簪を発案した有職故実の学者たち』  鈴木昌子

『災害による朝廷儀式記録の消失と高御座の再生』  西村慎太郎 

『近世後期における地下官人の存在形態について_内膳司濱島家文書を事例として』  西村慎太郎

『宮廷の食事様式(幕末・用治)』  児玉定子

『桜町天皇の大嘗祭』  佐野真人

『天皇・幕府の料理集』  山下光雄, 野口孝則 監修

『浜島家文書』  学習院大学

『魚菜文庫 (旧称石泰文庫) 目録』  慶應義塾図書館