布と大嘗祭 ①


大嘗祭儀式の布


 大嘗祭の儀式では二種類の布が主基殿、悠紀殿にそれぞれ置かれることになっている。そのひとつは麁服あらたえと呼ばれる麻で織られた布であり、そしてもうひとつは繪服にぎたえと呼ばれる絹で織られた布である。これらは神衣かみそと呼ばれ、神の依代よりしろとして神聖視されている。
 しかしこれらの布が大嘗祭の儀式でどのように用いられるのか等の詳細は秘儀であるとして公開されていない。ただ神殿内の内陣にこれらの布が置かれていることだけは確かであり、本文ではその意味を探ってみることにしたい。

麁服アラタエ(左)と 繪服ニギタエ(右)


神に捧げられる布


 神に奉納する物の総称を御手座みてぐらという。これは神が宿る依代よりしろのことであり、布帛,紙,金銭,器具,神饌といった神に奉献する物の総称の事を指す。本来は神様に捧げる食べ物を「神饌」、そして以外の供え物のことをを「幣帛へいはく」として分けていたのだが、いつしかこれらは一緒にされて御手座と呼ばれるようになっていったのである。

 布は神道では特別な神具として用いられ、神前に捧げられる布で麻や木綿ゆう(楮を材料とする繊維)は「ぬさ」と呼ばれている。実はこうした布が、幣から幣帛と呼ばれるようになり、最終的には御手座みてぐらとなって他の様々な供え物を総称するようになった。

 こうした経緯からも、布は神に供えるもののなかでも中核的な位置を占める、非常に重要なものであったことが理解できる。林兼明は『神に関する古語の研究』で、「みてぐら」の本義は神に奉納する「神衣かみそ」であったと説明している。 神衣とは、神のお召しになる衣服。あるいは神のお召しになるものとして神に捧げる布のことである。よって突き詰めれば御手座とは布こそが中心的なものを成す神への奉献物であると言えるだろう。

 宮内庁が令和の大嘗祭のために公表した『大嘗宮の儀関係 資料2』では、大嘗祭が行われる朝に、掌典長によって麁服と繪服が「神座」に置かれるとある。大嘗祭での神座は天皇が儀式中に向かい合って御饌を供える反対側の場所に据えられる。つまり神の座、神が儀式中に居る場所ということであるので、よってここからも麁服と繪服は、神々の依代として用いられるものであることが分かる。大嘗祭が終わった後、麁服と繪服は燃やされることになっており、これも布が依代となるからだと考えられる。


布が神聖視される理由


 アマテラスが「天の岩戸」に身を隠した時に、困った神々が集まり、思兼神が「八咫の鏡」や「八尺瓊勾玉」などを作らせてアマテラスを岩屋から引き出そうと計画した。この時にアマテラスを天岩屋から引き出すための道具として、八咫鏡や八尺瓊勾玉がつくられたが、それ以外にも作られたものがあった。それが何だったのかについての説明は『日本書紀』,『古事記』には無いが、『古語拾遺』にはその詳細が説明されており、それが布であったことが記されている。実際に『古語拾遺』を確認すると四種類の布がアマテラスの為に作られたことが書かれているので以下にその箇所を引用しておくことにしたい。

古語拾遺こごしゅうい
 兼神,深思遠慮,議曰,宜令太玉神,率諸部神造和幣,仍,令石凝姥神【天糠戸命之子 作鏡遠祖也】,取天香山銅,以鑄日像之鏡,令長白羽神,[伊勢國麻續祖。今俗,衣服謂之白羽,此緣也。] 種麻,以為青和幣。[古語爾伎弖にぎて。] 令天日鷲神與津咋見神穀木種殖之,以作白和幣。[是木綿也。巳上二物,一夜蕃茂也。] 令天羽槌雄神[倭文遠祖也。] 織文布。令天棚機姬神織神衣。所謂和衣。[古語爾伎多倍にぎたへ。]

【 訳文 】
 思兼神(オモイノカネノカミ)が考えを巡らせ、太玉神フトダマが諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせるべきだと言った。
 それで石凝姥神(イシコリドメノカミ)[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である]に天香山の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの事が始まりである。]に麻で青和幣(アオニギテ)[古語では爾伎弖にぎて]を作らせ、天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて白和幣(シロニギテ)を作らせ [是は木綿ゆうである。神の作物は一夜で茂る。]、天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖である。]に文布(あや)を織らせ、天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。所謂、和衣(ニギタエ)である。[古語では爾伎多倍にぎたへと言う。]


 このように『古語拾遺』には記紀にはない布に関する記述が含まれている。天の岩戸からアマテラスを引き出すために4種類の布が織られたことが説明されているので、以下にそれらの素材と布の名前を記しておく。

  :青和幣アオニギテ[古語では爾伎弖にぎて
 こうぞ :白和幣シロニギテ
 こうぞと麻とからむし :文布あや、あるいは倭文しず倭文布しずり
  :和衣ニギタエ[古語では爾伎多倍にぎたへ

 興味深い事に『古語拾遺』では太玉神フトダマが中心的な役割で天の岩戸で活躍する立場として描写されている。しかも4種類の布を含む和幣の作成において、それを指揮して重要な役割を担っていたことについて書かれている。
 このフトダマは、『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命、『古語拾遺』では天太玉命と表記されているが、本文では太玉神フトダマの表記で統一することにしたい。このフトダマは、祭祀を取り仕切る一族である忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされている。

 忌部氏は宮廷祭祀に関係した神具を供える氏族であり、この忌部氏の祖の太玉神がこうした布づくりに関係していたことは、先ほどから述べてきた「神事において布が非常に重要であった」ことを裏付けている。また白和幣(シロニギテ)は天日鷲神によって備えられており、この天日鷲神は阿波国忌部氏の祖神である。こうした神と祭祀を掌る氏族の関係からも布の有する神聖さというものが理解できるに違いない。


麁服あらたえ繪服にぎたえ


 大嘗祭の祭祀で用いられる布は麁服と繪服である。先にも説明したように布は神の依代として大きな意味をもっており、貴重な供物であると見做されている。では大嘗祭でなぜ麁服と繪服が供され、そこにはどのような意味が込められているのかを、麁服と繪服をそれぞれ取り上げて深く考察してみることにしたい。


麁服あらたえとは?


 麁服とは麻で織られた布である。この麻(カンナビス:Cannabis)は植物の大麻から取られた繊維であるが、大麻には花穂や葉に幻覚作用を引き起こすTHC(テトラヒドロカンナビノール)と呼ばれる物質が含まれているため、1948年に施行された大麻取締法によって厳格に規制されており、現在では許可を受けた者だけしか栽培できないようになっている。
 現在、麻として流通しているものの多くは、亜麻(リネン:Linen)、苧麻(カラムシ・ラミ―:Ramie)、洋麻(ケナフ:Kenaf)、黄麻(ジュート:Jute)などであり、これらは大麻と異なりテトラヒドロカンナビノールを含まない植物学的には別の種に分類されている。

 麁服は伝統的に大麻で織られた布であり、厳密に管理された状態で栽培され、得られた繊維から糸を取って織り、4反が奉納される。この麁服は阿波国の忌部氏が奉織することが昔から定められており、阿波国忌部氏たちが御衣御殿人(みぞみあらかんど)となって麁服が調製されてきた。御衣御殿人は大嘗祭で必要な麁服を調進し宮中に直接届けられる唯一の存在であり、これを行うのは阿波忌部直系の末裔の者たちだけである。忌部氏の子孫によって調進される麁服の詳細は以下のようになっている。

  布幅 9寸(鯨尺)=約34.1㎝
  長さ 2丈9尺(鯨尺)=約1,099.1㎝
  数量 4反

 かつては阿波国の木屋平こやだいらの御衣御殿人十三人衆で麁服調進は行われていたようだが、鎌倉時代頃からは三木家だけが御衣御殿人として調進を行い続けてきた。そういった意味においても、この御衣御殿人は特別な役割である。

 御殿人あらかんど → 麁服奉仕者で麁服と共に京師へ上る人
 御衣人みぞびと  → 麁服奉仕者で麁服を調製する人

 本来は上記のように役割が分かれているが、三木家はその両方を兼ねる御衣御殿人みぞあらかんどとして麁服を代々調進してきた家系である。しかし室町時代の戦乱によって大嘗祭が中断した為、麁服の調進も途絶えてしまった。大嘗祭が復興したのは江戸時代になってからであり、大正時代の大嘗祭の際に三木家が麁服の調進の再興を願い出て、以降から再び、三木家が御衣御殿人として麁服の調進を行うようになり、令和の大嘗祭においても三木家から麁服の調進が行われている。


天日鷲神あめのひわしのかみ


 先に述べたように、忌部氏の祖神は太玉神フトダマである。そのフトダマの子が天日鷲神あめのひわしのかみであり、この神が阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始したとされている。よって阿波国の忌部氏にとっては天日鷲神が一族の祖神であり、それゆえに大嘗祭では、阿波国の忌部氏の子孫(現在では三木家)によって大麻から麁服が織られて調進されるのである。

天日鷲神(あめのひわしのかみ)


 先に引用した古語拾遺こごしゅういには、天日鷲神は、太玉命に従う神であり、天岩戸の時には、穀(カジノキ:楮の一種)を植えて白和幣を作ったと記されている。こうした事績から天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神として祀られるようになっていった。

 『日本書紀』にも天日鷲神について説明があり、以下のように書かれている。

【 日本書紀 】神代上第七段 一書第三
 粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿

【 訳文 】
 粟国(阿波国)の忌部の遠祖である天日鷲が木綿ゆうを作った。


 ここでもアマテラスの天の岩戸にまつわる話のなかで、天日鷲が木綿ゆうを供えたことが述べられている。ここで言う「ゆう」とは、いわゆる綿花から作られる木綿もめんはではない。木綿は日本では、ずっと後代の江戸時代になって普及するようになった布であり、「ゆう」と混同してはならない。
 ここで言う木綿ゆうとは、楮の木の皮を剥いで蒸した後に、水にさらして白色にした繊維から織られた布のことなのである。そして神道で木綿(ゆう)は神事に用いられ重要な役割を果たす布でもある。

 さらに古語拾遺こごしゅういによれば、太玉命の孫である天富命が、神武東征において忌部氏を率いて紀伊国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原宮を造営したとある。さらに肥沃な土地を求めて阿波国の開拓し、穀(カジ)・麻種を植えたことからその地域は麻植郡の名が付けられたと記されている。2004年10月1日までは徳島県麻植郡という地名が残されていたが、現在は吉野川市となってしまい、歴史的な麻植の地名は消えてしまった。残念ではあるが、この麻植という地名こそがそうした太古の事績を裏付ける名称であったということになるだろう。

 さて天日鷲神が麻と共に植えたとされる「穀」とはクワ科カジノキ属の落葉高木であり、「梶」あるいは「栲」と同じ木の事である。楮(コウゾ)と混同されることが多いが、楮はクワ科コウゾ属で、「穀、梶、栲」はカジノキ属なので、厳密にいえば異なる植物ということであるが似ているためその識別は容易ではないという。


 木綿(ゆう)は基本的には楮から作られた布とすることができるが、それ以外にも穀、梶、栲からも作られていたようである。また木綿とは分けられて、麻を原料に麁妙、あるいは麁服が作られていたのは興味深い。

 天日鷲神は、阿波国(現在は徳島県吉野川市山川町忌部山)の忌部神社に祀られており、この忌部神社で天皇即位の大嘗祭に際に、阿波忌部の末裔の三木家が麁服を調進することなっている。このように天日鷲神は、木綿や麻とも関連した神であることが理解できるだろう。


忌部いんべ一族について


 忌部氏は広い地域に拠点を持ち、それぞれの地域の忌部氏がそれぞれの祖神を持ち、またそれぞれの役割を持っていた一族である。表にまとめると以下のような地域と役割となる。


 特に阿波国忌部に注目すると、阿波(徳島)から移動して、安房(千葉)に至り、拠点を広げていることが分かる。忌部氏の拡大については下図を参照して頂きたい。

『日本の建国と阿波忌部』より


 図にあるように阿波国忌部は各地に移動を行い、拠点を拡大させていることが分かる。その中でも安房(あわ)への進出と拡張に注目してみたい。それには忌部の天富命という神が大きな役割を果たしたとされている。


天富命あめのとみのみこと(阿波国から安房国へ)


 天富命は、忌部祖神である太玉命の孫である。
 天富命は、神武東征で讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作ったとされている。
 また天富命は、天日鷲命の子孫である阿波忌部を率いて阿波国に至り、そこに穀・麻種を植えたのでその郡名が麻殖となったことは先にも述べた通りである。
 更に天富命は、肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて阿波国から東国に向かい、そこに麻・穀を播いて殖えていった。そのなかでも良い麻が生育した国を総国(ふさのくに)と呼び、穀の木の生育したところをは結城郡と呼び、阿波忌部が住んだところは安房郡と呼んだとされている。

 総国(ふさのくに)は、後に上総と下総に分けられたが、この「総」という字もやはり麻とも関係していると考えられている。
 昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「天観上捄国道前」という木簡が発見された。(その木簡の情報は奈良文化財研究所のサイトから確認できる)この木簡の四文字目の「捄」は非常に判読しにくく、「狭」など様々な文字が当てはめられ、様々に論じられたが、天観という上総出身の僧侶がこの時代に実在していた事が明らかになったことや、「捄」という字の和訓は「総」と同じ“ふさ”であることから、この木簡は上捄国(上総国)と記述されていたのではないかと考えられるようになっていった。「捄」には「房をなして実る物」という意味があり、これが麻の実を表していることから天富命に由来する総国と麻の繋がりが再考されるようになったのである。

麻の実の房(シンセミア)


 太古この地域は「ふさ」と称され、捄国・上捄・下捄など「捄」の字が使われていたが、律令制が敷かれてからは総国・上総・下総と改められていったと思われる。これは、阿波国から天富命が東国に至り、麻・穀を播いて殖えたという『古語拾遺』にある記述内容にも合致するものである。


各地に残る忌部氏の痕跡


 忌部氏が進出した場所の地名には「アワ」の字が使われている。その理由は忌部氏が進出した地には粟が植えられ、粟が豊かに収穫されていたことに由来するからであろう。
 栃木県小山市には安房神社がある。神仏混淆の時代には「粟宮明神」とも呼ばれており、忌部との関係の強い神社である事が分かる。この神社の主祭神は忌部の祖神の太玉神である。

安房神社:例祭のアワガラ神輿


 この安房神社の例祭では必ず氏子が「粟の穂」を献上することになっており、祭りのハイライトでは「アワガラ神輿」が担がれることになっている。粟の穂は神輿の屋根の上に飾られ、神輿全体は紅白の「粟むすび」と呼ばれる紐で独特の飾り付けが施こされることになる。因みに神社の所在地は粟宮と云い粟の産地でもあったと考えられている。
 麻の栽培には法的な規制がかかっているが、また栃木は麻の産地(栃木県鹿沼市)としても品質の高いものを産することでも有名であり、伊勢神宮で使われる麻布は栃木産が用いられている。栃木では「とちぎしろ」と呼ばれる大麻の品種を栽培しているが、これは幻覚成分をほとんど含まない品種である。
 このように、粟や、麻に関係した神社や地名が残されていることや、麻の産業がこの地に残されていることからも、忌部 - 粟 - 阿波 - 安房の関係性を裏付けるものとなっているように思われる。

 『延喜式』神名帳によると、静岡県掛川市にある阿波々神社で祀られている祭神は阿波比売命とある。またこの神社が位置しているのは粟ヶ岳の山頂であることからもこの地域に進出してきた忌部氏がもたらした「阿波」が関係する祭神や地名、さらには「粟」についても関係が深い事を示している。

 東京都の沖合の神津島にある、神津島阿波命神社の祭神は阿波咩命であり、また静岡県沼津市の長濱神社の祭神も阿波咩命であることから、長濱神社は神津島阿波命神社の分祀ではないかと考えられている。この両社にもアワで繋がる関係が見られる。この長濱神社の前の駿河湾には淡島という孤島があり、その山頂には淡島神社があるということだが、ここにも忌部氏の進出した痕跡が残されていると言えるだろう。
 このように阿波国から出た忌部氏は、各地に広がったようであり、阿波国忌部にちなむ地名や神社が今でも数多く残されているのは大変興味深い事である。

 直接には忌部とは関係していないが、同じく阿波国(徳島県名西郡神山町)には上一宮大粟(かみいちのみやおおあわ)神社がある。この神社の祭神は大宜都比売命とされており、この神の別名は大粟比売命(おおあわひめのみこと)である。
 大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという社伝が残されているが、これもまた阿波国における粟とのつながりを示すものとなっている。
 上一宮大粟神社のある神山は、もともとは名西山分の諸山を総称して大粟山と呼ばれていた。またそこに含まれる各村は大粟谷、粟郷とも言われている。さらに上一宮大粟神社の氏子たちは、大宜都比売命の系譜を自負する「大粟氏」一族と、「粟国造粟凡直」の一統である神山「粟飯原氏」であり、ここでも粟との関係を強く裏付けるものとなっている。


忌部氏が調進する麁服の意味


 ここまでで阿波国忌部氏が東方へと進出していったこと、さらにはそれに伴い、進出先の地に麻を持ち込み植えていったことを説明した。また忌部氏の進出した先には、アワにまつわる地名や神社が残されていることや、そのアワには、阿波、粟、淡、安房などの字が密接に結びついていることも見てきた。
 こうした忌部氏に紐付いている「アワ」という要素から、麁服の意味するものが何であるのかを探ってみることにしたい。


忌部氏と中臣氏の勢力争い


 忌部氏はヤマト王権において中臣氏と共に宮中祭祀を任されていた一族であった。しかし大化改新後は中臣氏から藤原氏が出て政界で有力になると、祭祀における重要職を中臣氏に独占されていった。
 こうした中、『日本逸史』西暦803年(延暦22年)3月条によると、忌部宿禰浜成らの申請によって忌部は「斎部」と氏族名を改めている。忌部の「忌(いむ)」は「ケガレを忌む」ということから「斎戒」を意味していたが、忌むには「葬儀」という意味もあり、それを嫌って忌部 → 斎部に氏族名を変更したようである。
 こうした氏族名の変更の理由の裏には、中臣氏に祭祀における職掌が奪われつつある事への、忌部氏の焦燥感のようなものがあったからかもしれない。「忌」の字を使う事をやめることで負のイメージを取り払い、「斎」の字を使う事で清めや神事に携わる氏族であるという良いイメージへの強化を図るための氏族名変更であったと思われる。

 こうした氏族名変更の3年後、西暦806年(大同元年)に、斎部氏(忌部氏)は中臣氏によって「幣帛使へいはくし」の職が独占されていると朝廷に訴訟した。これに対して中臣氏も、忌部の祭祀職を疑問視する訴訟したことで相訴となった。これが「中臣・忌部相訴」である。幣帛使というのは天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献する、祭祀に関係した使いの役割のことである。当然であるが、祭祀を掌る両氏にとって「幣帛使」という職掌は、氏族の将来を左右する非常に重要な役割と見なしていたはずである。

 まず忌部氏が、忌部氏は幣帛を作るだけでなく、祈祷をこなう事もまた職掌に含まれており、幣帛使はむしろ忌部氏だけが務めるべきであること。さらに中臣氏は祓使のことだけを担当すべきであると訴えた。
 それに対して中臣氏は、忌部氏は祝詞を読み上げることではなく、幣帛を作るのだけが役割であるので、忌部氏が幣帛を捧げ祝詞を上げる幣帛使となることは出来ないと主張している。

 こうした両氏の言い分に対して、『日本後紀』大同元年(西暦806年)8月10日条には朝廷から下された裁定が記されている。その裁定は、忌部氏の主張の一部は受け入れられ、祈祷は中臣氏と忌部氏の双方がともに関与するというものであった。
 朝廷がそのような裁定をおこなった根拠は、『日本書紀』の天の岩戸で、中臣氏の祖神である天児屋命と、忌部氏の祖神の太玉命が共に祈祷を行っていたからである。ゆえに忌部氏と中臣氏の双方が幣帛使としての役割を担わなければならないと裁定が下されたのである。


斎部広成いんべひろなり


 裁定を受け、翌年の大同2年(807年)に、斎部広成いんべのひろなり が平城天皇の朝儀に関する召問に応えて、一族の長として伝承をまとめ、天皇に献上したのが、先にも引用している『古語拾遺』である。

斎部広成いんべひろなり 『前賢故実』より


 斎部広成いんべのひろなりは、忌部 → 斎部に氏族名を変更した忌部浜成の子である。『古語拾遺』を撰上した大同2年(807年)には既に80歳を超えており、中臣氏の勢力拡大に伴い、忌部氏の祭祀における役割が奪い取られてゆく経緯をつぶさに見ていただけに、一族の再興には人一倍強い思いがあったことだろう。

 斎部広成が『古語拾遺』を記したのは、歴史から忌部が祭祀における正当性を有していることを明らかにし、こうした氏族の保有する歴史をもって、台頭していた中臣氏に対して、忌部の勢力回復を図ろうとするためであった。

 またこの時代、平城天皇が、律令を補完するための「式」と「格」の編纂に着手していたことも理由として考えられる。律令の規定の施行細則は「式」と呼ばれ、補足し修正する法令のことは「格」と呼ばれる。すでに機能していた「律」と「令」に加えられる、「式」あるいは「格」のための編纂資料として『古語拾遺』を斎部広成は撰上することで、忌部氏の役割が「式」と「格」で新たに規定される祭祀でより重要視されるようになることを当然期待していたはずである。

 実際に840年には『弘仁式』と『弘仁格』が施行される。そして869年には『貞観格』が施行。その後、871年に『貞観式』が施行された。906年には『延喜格』が施行され、さらに967年に『延喜式』が施行されることになり、現代まで続く宮中祭祀が定められることになった。
 このような「式」あるいは「格」によって忌部氏の役割も定められ、ある一定の成果は得られたと言えるのだが、後年になると神祇官の地位は時代と共に低下して勢力は衰えてしまい、藤原氏の台頭と中臣氏の祭祀部門の独占支配によって、斎部広成の願いは適わず、やがて歴史上から宮中祭祀に関わる中央忌部氏はその姿を消してしまったのである。


阿波忌部の子孫:三木みき


 中央忌部氏は衰退したが、地方の忌部は存続し続けた。その中のひとつ阿波忌部の系統に三木家がある。現在でも三木家には、鎌倉時代の1260年(正元2年)に発せられた、亀山天皇の「大嘗祭」で「麁服」の調進をするように記された古文書を始めに、室町時代の1512年(永正9年)までの古文書(県文化財)が40数通保存されている。
 また後村上天皇がその尽忠を賞した薄墨の綸旨6通や、一族の重大事には2回の山﨑の忌部の市のとき会合して多数決で決める文書、さらには供物の麁服を献上するようにと太政官から忌部宿禰に当てられた文書が10通近くも存在しているという。

 昔から阿波国(徳島県)から麁服は調進されなければならなかったのは、宮中祭祀を掌る忌部氏の一部が阿波国を拠点としていたことが理由である。忌部氏の中でも阿波忌部氏が麁服を調進することは昔から決められていたのである。
 先ほど説明したように『延喜式』は、律令の施行細則として編纂され施行された。この『延喜式』が後代に至るまで祭祀の重要なガイドラインとして現代まで伝えられており、その中で阿波忌部氏が麁服を調進することがはっきりと定められている。

【 延喜式 】7巻30条
 阿波國忌部所織麁妙服

 阿波国の忌部氏が麁服を織る(調進する)


 上記は『延喜式』7巻にある践祚大嘗祭の取り決めであり、上記のように阿波国の忌部氏が麁服を調進することが明確に記されている。
 現在の三木家の当主の三木信夫氏は鎌倉時代から28代目である。その前のことは、はっきりしないが鎌倉時代までは95代であると伝えられているようであり、ここからも麁服が伝統的に阿波忌部氏によって備えられてきたと伝えられていることの片鱗がうかがえる。
 麁服の調進は応仁の乱などの戦乱の為に一時期途絶えていたが、大正時代の大嘗祭から復興され、それは令和の大嘗祭でも変わらず阿波忌部の子孫の三木家によって続けられている。


繪服にぎたえとは?


 繪服とは絹で織られた織物である。『古事記』や『日本書紀』と絹織物の関係や、大嘗祭における絹織物については養蚕の項で詳細を説明してあるので、そちらも参考にして頂きたい。
 大嘗祭の儀式では、先に説明した麻織物の麁服と並んで、絹織物の繪服も重要なものとして神聖視され、神殿の内陣に安置されている。
 令和の大嘗祭で調進された繪服は以下のような形式で調進された。

  布幅 1尺(鯨尺)=約37.9㎝
  長さ 5丈(鯨尺)=約1,895㎝
  数量 4匹(1匹=2反)

 「繒服」は、純白で良質な生糸の産地の三河国(現在の愛知県)より納められることになっていて、令和の大嘗祭では、豊田市稲武町の有志により奉製され、一般財団法人古橋会より皇居へ調進されている。ではなぜ三河なのだろうか?
 古くから三河地方は気候風土が養蚕に適しているとされ、特に平安期に三河国は代表的な養蚕、製糸の上糸国として『延喜式』で位置づけられていた。こうした上質な糸を産する地域であるという理由から繪服の生糸は三河からと定められたのだと考えられる。平安時代から三河には赤引糸と犬頭白糸という二種類のブランド化された生糸が存在しており、その各々を取上げて説明しておくことにしたい。


赤引糸あかひきのいと


 三河から届けられる、二種類の上質生糸の記録が『延喜式』に残されている。そのひとつが赤い色を帯びて光沢がある「赤引糸」と呼ばれる生糸である。

【 延喜式 】四巻六月月次祭
 大神宮赤引絲汗綏... 度會宮赤引絲卅綏


 ここには「赤引糸」が伊勢神宮の六月月次祭で用いられたことが述べられている。赤引糸とは三河で産する上質の生糸であり、この糸が「はた」で織られ、和妙(にぎたえ)として神事で用いられていた。伊勢神宮ではこの糸を使った機織を服部はっとりという一族が行っていた。「令集解」には以下のような記述がある。

【 令集解 】七巻孟夏条
 伊勢大神祭也 其国有神服部等 斎戒浄清 以参河赤引調糸 御衣織作


 伊勢神宮では神服部が身を清めてから、三河の赤引糸を使って神御衣を織っていたと述べられている。神服部とは服部連のことであり、もともと機織部(はたおりべ・はとりべ)という機織りの技能を持つ一族や渡来人である。後代に「部」(ベ)が黙字化し「服部」(はっとり)になったと考えられている。
 現在でも伊勢神宮で行われる神御衣祭かんみそさいの際には、神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)で、三河(愛知県)から献上された「赤引糸」を使って和妙が織られることになっている。このようにその高い品質ゆえに古来から赤犬糸は価値あるものとして扱われてきたのである。


犬頭白糸けんとうしらいと


 もうひとつの三河で産する上質生糸が「犬頭白糸」であり、この生糸は雪のように白かったので天皇の衣服を織るために用いられていた。『延喜式』には犬頭白糸についての以下のような記述がある。

【 延喜式 】二十四巻
 伊賀三百絇 伊勢八百八十絇 [白糸] 参河二千絇 [犬頭糸] 越前一百絇 安芸五百絇 阿波千五百絇


 上記は各地から納められた糸の記録であり、三河からは2000絇(絇はってある糸を数える単位)の生糸が朝廷に調(地方の特産物)として納められている。『延喜式』には6つの調糸国(伊賀、伊勢、三河、越前、安芸、阿波)について言及されているが、三河からは圧倒的に多くの絹糸が納められており、ここからも犬頭白糸が上質で高い評価を得ていたことが分かる。

 平安時代末期に成立したと見られる説話集の『今昔物語集』には、犬頭白糸の起源に関する伝承説話が述べられている。こうした伝承が存在していること自体が、犬頭白糸が価値あるものだったことを証していると言えるのかもしれない。『今昔物語集』の犬頭白糸の由来は以下の通りである。

【 今昔物語集 】二十六巻
 今は昔、参河国某□郡に一人の郡司がいた。妻を二人持ち、それに蚕を飼わせて、糸をたくさん作らせていた。ところが、本妻のところの蚕が、どうしたことか全部死んでしまい、蚕を育てられなくなってしまったので、夫は妻に冷淡になって寄り付かなくなってしまった。そうすると従者たちも、主人が行かないため誰も行かなくなり、本妻の家は貧しくなって、周りにも人がいなくなってしまった。 そのため本妻はたった一人となり、使用人もわずか二人ばかりになってしまった。心細く、悲しいことこの上なかった。
 家で飼っていた蚕がみな死んでしまったので、養蚕の仕事は途絶えていたが、たまたま一匹の蚕が桑の上で葉を食べているのを見たので、これを捕まえて飼ったところ、この蚕はたちまち大きくなった。桑の葉を取ってきて与えると、見る見るうちに食ってしまう。これを見ていると可愛くなり、大切に育てたのである。「これ一匹だけを飼っていてもどうにもならない」と思うものの、長年飼い慣れていたのにこの三、四年飼っていなかったので、思いがけず飼うようになったことが嬉しく、大切にして飼っていたのである。
 この家では白い犬を飼っていた。その犬がそばにすわって尾を振っている前で、この蚕を何かの蓋に入れて桑を食べるのを見ていたところ、突然、この犬が立ち上がって走り寄ってきて、この蚕を食べてしまったのである。本妻は大変に驚いて悔しくて仕方なかったが、蚕を一匹食ったからといって、犬を打ち殺すわけにもいかなかった。
 さて、犬は蚕を食べてしまって、こちらの方を向いている。 「蚕一匹さえ飼えないとは、これも前世からの因縁なのだ」と思うと哀れで悲しくなって、犬に向かって泣いていると、その犬がくしゃみをした。すると、鼻の二つの穴から白い糸が二筋、一寸ばかり出て来たのである。これを見て不思議に思って、その糸を掴んで引いてみると、二筋とも次々と長く出て来たので、それを糸枠に巻きつけていった。一杯になると次の糸枠に巻き、さらに次の糸枠に巻き取った。
 こうして、二、三百の糸枠に巻き取っていったがまだ終わらず、竹の竿を渡して繰り返し懸けたが、それでも終わらず桶などにも巻き取った。全部で四、五千両ほど巻き取った後、糸の端が繰り出されると、犬は倒れて死んでしまった。その時に本妻は、「きっと、仏神が犬になって助けてくださったのだ」と思い、屋敷の後ろにある畠の桑の木の根元にその犬を埋めた。
 さて、本妻がこの糸を持て余している頃、夫の郡司が、その門前を通りかかると、家の中に人気もなく、さすがに可哀想に思って、「ここにいた妻は、今どうしているのだろう」と馬より降りて家に入ったが誰もいない。唯一本妻だけが一人でたくさんの糸を持て余していた。見てみると、我が家で飼っている蚕から取る糸は黒く、節があって粗悪であったが、この糸は雪のように白くて光沢がありこの世にまたとない素晴らしさである。これを見て大いに驚いて、「一体どういう事だ」と尋ねると、妻は事の次第を隠すことなく話した。これを聞いて郡司は、「仏神がお助けになる人を、私はおろそかにしていたのだ」と悔やみ、そのまま家に留まって、後妻のもとには行かず、本妻と暮らすようになった。
 その犬を埋めた桑の木には、蚕がびっしりと繭を作るようになった。そこで、またそれを取って糸にすると非常に上質である。郡司は、この糸の出来た次第を国司の□に語ったところ、国司は朝廷にこの事を申し上げたので、後に「犬頭」というこの糸を国から献上することとなった。この郡司の子孫がこれを受け継いで、今でもその糸を献上する家として存在しているそうである。この糸は、蔵人所に納められ、天皇の御服に織られることになったのである。天皇の御服の材料としてこの糸は現れたのだと人々は語り伝えている。
 また、後妻が本妻の蚕を策をもって殺したのだ、と語る人もあるが、確かなことは分からない。これを思うに、前世の因縁によって、夫婦の仲ももとに戻り、糸も現れてきたのであろうと語り伝へられたのかもしれない。


 『今昔物語』では、蚕を食べた白犬から生糸が得られ、桑の木下に埋められた白犬の屍体から繭を得て上質の生糸を得て、それが蔵人所に納められ、天皇の御服となったと述べられている。こうした犬頭白糸の起源とされる説話は、三河で産するこの生糸の価値を裏付けるものとして取り上げられたのだと考えるべきだろう。『今昔物語』は平安時代末期にすでに成立しているので、この時代、犬頭白糸は貴重な糸として天皇の御服として用いられており、そのことも良く知られていたということになるだろう

 犬頭白糸について『今昔物語』が語るエピソードは、東晋時代の中国(4世紀)に書かれたとされる『捜神記』と共通した要素があると指摘する声もある。(『捜神記』の内容については「養蚕」の項を参照)
 獣から蚕が生まれたという『捜神記』との共通性はあるが、本来は馬なのに、犬から蚕が産まれるなど主要な要素が必ずしも合致しているとは言えず、『今昔物語』が語るエピソードは様々な伝承が結合して生み出されたものあるという見方が取られている。

 中国文化学者の伊藤清司は『日本神話と中国神話』(121ページ)で、この『今昔物語』が語るエピソードは、「養蚕起源神話のうち、異質で、その位置付けがもっとも難解である」と評している。
 また「オオゲツヒメ殺しなどと同じ系統の有用物を口・耳・鼻などの身体の穴より出して人類に与える説話と、「花咲爺」、つまり中国の「耕田狗」型の、死んでもつぎつぎに奇瑞を示す犬の奇蹟譚との複合形態」、また、徭族や舎民などの伝えられた槃瓠伝説と「死と再生」の養蚕起源伝承との複合によって生まれた可能性が強いのではないかとも述べている。

 南方熊楠も『十二支考』のなかで、『今昔物語』のこのエピソードは、「すこぶる怪しい話だがとにかく三河に昔犬頭という好糸を産し、こんな伝説もあったので、犬頭社はもとはその伝説の白犬を祀った...」と述べており、三河(愛知県豊川市千両町糸宅107)にある犬頭神社との関係を指摘している。よってここで愛知県豊川市に現存する犬頭神社についても少し考察を加えておきたい。


犬頭けんとう神社


 この犬頭神社の御祭神は保食神うけもちである。また古くから養蚕の神として信仰されており、神社の由来として『今昔物語』のエピソードが伝わっている。そして、その白犬の頭を葬った所に社を創建したのが犬頭神社であり、犬の尾は大崎町に葬り、足は一宮町の足山田に葬ったと伝えられている。

 犬頭神社の御祭神である保食神は『日本書紀』に登場する体の穴から食物を取り出す食物神として登場しているが、『古事記』の中では大宜津比売神オオゲツヒメという女神になっている。
 そのオオゲツヒメの項でも記したが、これはハイヌヴォレ型と呼ばれている神話に分類されており、こうした類型化された神話は世界各地でも見ることが出来る。食物神であるハイヌヴォレは殺されてバラバラにされて埋められ、そこから穀物や蚕が生まれたが、それと同じようにこの犬も、蚕を産した頭を筆頭に、各部が別々の場所に葬られたというのは興味深い。ハイヌヴォレ型神話との関連性が指摘されている土偶も必ずと言って良いほど意図的に破壊されており、その破片がバラバラな場所に埋められているが、それと同様の趣旨がこの事には暗示されているようにも思われる。

 しかし残念ながら犬頭神社の歴史は十六世紀中頃までは遡れるが、それ以前の歴史は不明であるとされている。こうした歴史の浅さから、体の各部がバラバラに埋葬された等の話は後から付け加えられた縁起なのかもしれない。しかしながら、蚕との関係やハイヌヴォレ型神話の保食神との関係など、犬頭神社は興味深い縁起を持つ神社であると言えるだろう。


羽田野敬雄はたのたかお


 犬頭神社に関する縁起は、羽田八幡宮の神主であった羽田野敬雄によって編纂されており、『三河国官社私考 下』のP29にその詳細を見ることが出来る。この羽田野敬雄は、愛知県豊橋市の人物であるが知的、精神的に多くの影響を残した人物であり、地域の養蚕とも深く関わっているので、ここでこの人物について詳しく取り上げておく事にしたい。

羽田野敬雄はたのたかお(1798年 - 1882年)


 羽田野敬雄は羽田八幡宮および羽田明神宮の神主であったが、国学だけでなく、天文学、医学、文学、芸術、言語、自然科学など様々な知識に通じ、自身でも多くの著作を残している。現在でも豊橋市図書館には羽田八幡宮文庫として羽田野敬雄の蔵書が保管されており、私もこれらの著書や蔵書をざっと確認してみたが、かなり広範囲に関心や研究対象が及んでおり、あまり知られていないが、もっと高く評価されるべき、豊橋の知の巨人であったと認めざる得ない人物である。
 羽田野敬雄は、嘉永元年(1848年)に自らの蔵書を核とした羽田文庫を設立し、学問を志す者に広く公開した。羽田文庫に収蔵されていた蔵書は、現在では豊橋市図書館に収蔵されており、蔵書の内の200冊が「羽田八幡宮文庫」としてデジタルアーカイブ化され公開されている。

 先の犬頭神社に関する縁起についても、羽田野敬雄は『三河国官社私考 下』のP29に書き残しており、これもアーカイブで閲覧することが出来るので確認してみて頂きたい。

 文政10年(1827年)、羽田野敬雄は29歳の時に平田篤胤の門人となった記録が『平田先生授業門人録上』に残されている。平田篤胤の思想に強い影響を受けた羽田野敬雄は、以降、三河地方で神主の神葬祭の実施に尽力しながら、篤胤の思想の普及に努め多くの門人を増やしていった。そしてその中のひとりに古橋暉皃がいたのである。


古橋暉皃ふるはしてるのり


 同じく平田篤胤の門人であり、羽田野敬雄の盟友でもあったのが古橋暉皃ふるはしてるのりである。古橋家は、もともとは美濃国中津川の出であったが、享保二年(1717年)に初代の古橋義次が稲橋村に移り、酒造業などを営み庄屋となった一族である。
 天保2年(1831年)に古橋暉皃が18歳で古橋家6代当主となったが、まず行わなければならなかったのは、商いを広げすぎた為に借金がかさみ破たん寸前にまで追い込まれていた古橋家の家政再建であった。
 古橋暉皃は、赤字を出していた鉄店(鍋・釜・鍬・鋤を販売)を閉じ、白木・油類の販売をやめ、資本のいる酒・味噌の醸造も縮小するなどの商業経営改革を断行し借金を完済している。

古橋暉皃ふるはしてるのり(1813年 - 1892年)


 後年、古橋暉皃は国学に傾倒するようになり、文久3年(1863年)に江戸へ行き、50歳で平田鐵胤(平田篤胤の養子)の門下生となる。この時に紹介状を書いたのが羽田野敬雄であり、盟友として古橋暉皃はその後、羽田野敬雄からも多くの影響を受けることになる。『平田先生授業門人録中』には、羽田野敬雄の紹介として古橋暉皃の名前が門人に登録されたことが記録されている。

 羽田野敬雄は、古橋暉皃を国学において平田門下生に導いただけでなく、稲橋村の殖産に取り組んでいた古橋暉皃に養蚕への取り組みを推奨している。羽田野敬雄は、『三河蚕糸考』を記しており、養蚕の歴史的意義について詳しいだけでなく、地元の神社に残る養蚕との関連性を知り尽くしていたのだろう。 古橋暉皃は、羽田野敬雄から『三河蚕糸考』を渡され、稲橋村で養蚕を産業として進め大きな成功を収めることが出来たのである。
 実際に養蚕は明治時代から国家的な主要産業にへと成長してゆくことになって行ったが、こうしたビジネス的な情報や先見性を、羽田野敬雄は平田門下生としてのネットワークから、また資産家でもあった為に有していたのかもしれない
 羽田野敬雄は、様々な書籍からの抜書き、随筆、記録等を含む『栄樹園類集』を記したが、その中に数百三十件以上の海外情報が含まれており、常に海外動向にも注意を払っていたことがうかがえる。羽田野敬雄はこうした動向からも、養蚕・製糸産業がビジネスとしても重要なものとなることを予測していたと考えられる。

 一方の古橋暉皃は、地元の稲橋村のための産業殖産に努めた人物であり、養蚕を始め、地元にお茶という産業も生み出し、その為の技術指導を熱心に行っている。また古橋暉皃は産業による富の獲得だけを追い求めたのではない。「豊村なくして豊家なし」という言葉を残しているように、貧民を救済し、飢饉に備えて米の貯蔵を行うなど公共公助にも力を入れている。地元の産業育成もこうした精神から進められ、共存共栄、さらには富の再配分を念頭に置かれたものであったに違いない。
 羽田野敬雄も飢饉のために対策として『飢饉の時乃食物の大畧』という著書を記しており、こうした書籍も古橋暉皃に影響を与えたものと考えられる。

 また古橋暉皃は「百年の計は山に木を植え、国家千年の大計は人物を養成するにあり」と述べて、稲橋村の産業振興に力を入れると共に、新しい時代に対処するためには教育が必要だと考えて「名月清風校」という学校も創設している。
 これも羽田野敬雄の学問の重要性を説き、学ぼうとする者に羽田文庫を解放した姿勢とも共通するものであったのであろう。

 このように古橋暉皃と羽田野敬雄は、平田門下生として互いに協力しないながら、それぞれの立場から平田思想の実現に向けて生きた人物たちであったことが分かってくる。先に述べたように、古橋暉皃は地元の産業振興のために実践的にビジネスマネジメントを押しすすめ養蚕を始めとした山村に種々の産業導入を行い成功している。
 また羽田野敬雄は、文化面から平田国学を普及させるために、平田文庫を一般に開放することを行った。また実践者である古橋暉皃にとっては良きアドバイザーとして、知識の面においても、あるいは精神的な面において羽田野敬雄は重要な支柱となっていたのではないだろうか。

 大正時代の大嘗祭に関する記録として『悠紀斎田記録』が出版されており、そのなかには大嘗祭で繪服を納めた古橋家の記録がある。大嘗祭が行われた大正4年には、古橋暉皃は既に亡くっており、孫の8代目の古橋道紀が献糸会長を務めて調進が完了している。
 注目すべき点として、『悠紀斎田記録』には、8代目の古橋道紀が献糸を完了した後に、羽田野敬雄の墓に行って報告を行ったことが書かれている。なぜなら羽田野敬雄が『三河蚕糸考』を通して養蚕の重要性を伝え、それを古橋暉皃が産業化するとともに、伊勢神宮の麁妙、および大嘗祭の麁服においても調進するという大役を担うようになったからである。このように羽田野敬雄が、その後の古橋家に果たした役割は非常に大きく、確かに精神的な支柱であったと言えるだろう。

 ちなみに豊橋市図書館の羽田八幡宮文庫デジタルアーカイブには、どういう訳かこの『三河蚕糸考』が公開本200冊のなかに選ばれておらず未公開である。この本は養蚕の歴史だけでなく、豊橋や愛知県全般、いや国の深い歴史を学ぼうという人々の公益のためにも何としてもデジタル公開してして欲しい一冊である。そしてそれこそが、学問を志す者に羽田文庫を公開した、羽田野敬雄の意志に合致するものであることは間違いないだろう。また知の巨人としての羽田野敬雄の一端を理解する機会を得た私としては、こうした重要書籍の公開を通して、今後、羽田野敬雄の再評価が一層進むことを心から願ってやまない。


現代の三河養蚕


 ここまでで、過去の繪服の説明を行ってきたが、現代の養蚕はどのようになっているのだろうか。
 実は過去に天皇の御衣とされた犬頭白糸は、現在では生産されておらず、絶えてしまっている。これは戦乱によって献上が途絶えたり、三河での養蚕自体が一時期衰退してしまった為だろう。現在、大嘗祭で用いられているのは赤引糸の方であり、この糸で織られた繪服が令和の大嘗祭では神殿に安置された。

 しかし赤引糸も古来から継続的に三河で作り続けられていた訳ではなく、養蚕そのものが一時期は断絶していた時期があった。特に江戸時代は綿が主流であった為に、三河でも養蚕はさほど行われなくなっていたようである。

 だが先にも述べたように、明治7年(1874年)に古橋暉皃が、羽田野敬雄から「貴方は敬神尊王の士であるから、伊勢神宮献糸の古典を復活しては」と、102代後花園天皇(室町時代)以来途絶えていた伊勢神宮献糸の古典復興を勧められ、養蚕業の奨励に取り組むようになる。
 古橋暉皃の養蚕奨励によって、愛知県稲武町では養蚕が盛んになり、最盛期には稲武地域全体で400軒ほどの養蚕農家に増加した。これには国を挙げて養蚕に取り組んでいた明治という時代の後押しが大きく影響しているのだろう。養蚕は国の主要産業にまで成長し、外貨の獲得に大きく貢献したが、やがて科学繊維が主流となった昭和40年代あたりから稲武の養蚕農家も減少し、大嘗祭が行われた令和二年に稲武には養蚕農家は存在していない。

 現在では古橋暉皃の意志を引き継いだ、一般財団法人古橋会(暉皃の孫である古橋道紀の遺言により設立)と、有志団体「まゆっこクラブ」が、桑畑の整備、蚕の飼育、糸取りなどの技能継承や、伝統文化の継承に取り組むことで、赤引糸の生産から機織りまでを行い、伊勢神宮での御神衣祭りのための繪妙だけでなく、大嘗祭での繪服の調進も行っている。


なぜ阿波国と三河国なのか?


 ここまでで、大嘗祭のために調進される以下のふたつの布について説明してきた。

 麁服 - 阿波国(徳島県)で忌部氏により調進される麻布。
 繪服 - 三河国(愛知県)で調進される絹布。

 ここで改めて何故これらの布が、阿波国と三河国で調進されているのかを考慮することにしたい。麁服と繪服の生産地の理由を対比させて考えると、麁服の方は、阿波国忌部氏によって調進されなければならないと『延喜式』に定められており、古来から調進者が決められていたことが顕著な点である。それに対して、繪服は古来から三河の生糸(赤引糸や犬頭白糸)の品質が優れており、それが理由で三河から調進されてきたことが分かる。

 つまり麁服の方は「調進者が誰なのか」ということが重要な要素として選ばれているのに対して、繪服の方は「品質が良いこと」が重視されて選ばれているのである。
 またこの二国の調進の方法にも違いがある。麁服の方は大麻から糸を紡ぎ機を織って阿波国から忌部氏が直接、大嘗祭を行う神殿まで届けて調進していたが、繪服の方は昔は単に赤引糸や犬頭白糸といった生糸だけが三河から調進され、別途、他で機織りが行われて繪服は仕立てられて大嘗祭で用いられていた。つまり三河で産する生糸は質が良い事が重要で、誰が生産するとか、誰がそれを織るかということは特に問われてはいなかったのである。この違いは些細なように思えるかもしれないが非常に大きい。しかしなぜこうした違いがあるのだろうか。

 本来であれば繪服のように品質の高さのみが問われ、そうしたものだけが調進されれることが重要なはずである。しかし麁服の方は、忌部氏が調進することに意味があるとされているので、当然、そこには忌部氏でなければならない特別な理由が存在するに違いない。もともと忌部氏は祭祀を職掌としていた一族であるので、忌部氏が麁服を調進する意味には、祭祀的な意味が関係していると見て間違いないだろう。

 そこで改めて、歴史の中に見られる忌部氏について考察することで、その理由を次回には述べることにしたい。

 今回、奈良・飛鳥時代の忌部氏とその歴史に関する調査を行ったところ、本稿だけでは収まりそうもなくなってしまい、都合上、2回に分けて公開することにしたい。「布と大嘗祭 ②」は2020年4月20日(月)に公開する予定である。







参考資料


『古語拾遺』 斎部広成

『古語拾遺節解』全4巻 高田白翁 著

『神に関する古語の研究』 林兼明

『古事記伝』 本居宣長

『日本の建国と阿波忌部』  林博章 編著

『延喜式』  皇典講究所, 全国神職会 校訂

『今昔物語』26巻11  経済雑誌社 編

『日本神話と中国神話』  伊藤清司

『十二支考』犬に関する伝説  南方熊楠

「羽田八幡宮文庫」  豊橋市図書館デジタルアーカイブ

『三河国官社私考 下』  羽田野敬雄

『三河蚕糸考』  羽田野敬雄

『飢饉の時乃食物の大畧』  羽田野敬雄

『吉田のおんぞ祭』 三河蚕糸考の出版  豊田珍彦 著

『悠紀斎田記録』  愛知県 編

『羽田野敬雄の神葬祭実践と平田国学素描』  久米昭次郎

『幕末に百年先の未来を考えた 古橋六郎暉皃』  豊田市近代の産業とくらし発見館

『稲武地域の養蚕業と大嘗祭繒服調進について』  一般財団法人古橋会

『古代参河国と犬頭糸・白絹』   西宮秀紀

『玉類研究から古墳時代像を見直す』  菅谷文則

『宗祖生国の先住者安房に移住した阿波忌部族の動向について』  石川修道

『天皇即位の大嘗祭と阿波忌部氏』  林博章

『なつそひく-麻 -』  式年遷宮記念 せんぐう館

『南曽我遺跡』  発掘調査報告書平成20年度

『古墳時代の玉飾りの世界』  第3回古代歴史文化協議会講演会

『麁服と繪服 : 天皇即位の秘儀践祚大嘗祭と二つの布』 中谷比佐子ほか

『大嘗会図抄』  宮内庁区内公文書館

『大嘗宮の儀関係資料』資料2  宮内庁