易牙(えきが)


易牙とは


 春秋時代、斉の桓公に仕えた料理人である。中華料理の基礎を作ったとも言われる人物でその料理は非常に美味であったとされている。

易牙


桓公に気に入られた易牙


 春秋時代に斉国の桓公かんこうは、当時、勢力を失いつつあった周王朝にかわり、周辺諸国をまとめ覇王となった。桓公は、かなりの食通で、料理人の易牙に対して「私はこれまでさまざまな料理を食べてきたが、赤ん坊の蒸し焼きだけ食べたことはない」と言った。すると易牙は、早速、自分の息子を殺し、蒸し焼きにすると桓公へと献上したのである。桓公は易牙の行為を褒め、蒸し焼きにされた赤ん坊の味を堪能したという。
 この話は『管子』小稱 に記録されている。このような忠誠心によって易牙はますます桓公に取り立てられ、料理人の身としては破格の出世といえる大夫(領地を持った貴族)にまで出世を果たす。

 桓公が取り立てた人物には「豎刁けんちょう」「開方」そして「易牙」の三人がいたが、彼らはいずれも当時の宰相であった管仲から、三人の奸臣(三貴)であると名指しで批判され、易牙は管仲によって罷免されることになった。

 豎刁:最初の自宮宦官(自分で去勢して主君に取り入った)
 開方:元来衛国の公子であったが、父親に背いて斉に仕えることとなった。
 易牙:我が子を煮殺して主君に人肉料理を振る舞って、そのお気に入りとなった

 もともと易牙は、始めは桓公の夫人だった長衛妃のお気に入りの料理人だったのだが、宦官の豎刁のはからいで、斉桓公に料理の腕前を披露する機会に恵まれることになり、それを機会に権力の中枢に近づいていった。易牙始めとする三貴と呼ばれたこのような者たちが権力を持つことを宰相であった管仲は大変に危惧しており、死の間際まで桓公に彼らを重用しないように桓公に遺言したのである。しかし管仲の死後、年老いた桓公は、易牙ら三人を再び重用してしまう。他には誰も、易牙よりも美味い料理を作ることが出来なかったからである

 その結果は散々なものであった。
 もともと桓公と管仲は後継者は太子昭であると決めていた。しかし易牙は、桓公の夫人の長衛妃と共に、桓公と長衛妃の間に生まれた無詭むきを公太子にしようと暗躍を始める。
 桓公が没すると早速、後継者争いが始まる。本来の後継者である太子昭(後の孝公)と無詭の間での後継者争いは激化し、無詭の即位に反対する重臣達は、易牙らの暗躍により次々に殺されていった。激しい後継者争いの間、桓公の遺体は放置されたままとなり、その遺体は蛆がわいて完全に腐り果てたと記録されている。 こうした抗争を経て結局は、易牙の推す無詭が斉の後継者として擁立され、太子昭は宋に亡命しなければならなくなった。
 しかし、これで斉が安定した訳ではなかった。亡命した太子昭が、春秋五覇の一人とされる宋襄公に擁立されて斉に攻め込んできたのである。結局、無詭は斉の家臣から暗殺されてしまい、亡命していた太子昭が即位して孝公となり斉を治めることになった。こうした動乱の際に易牙は殺されたとも、魯に亡命したとも言われている。


料理人と外交・権力


 易牙に関するエピソードで面白いのは、絶大な権力者の背後に、なぜかいつも料理人の存在があるという事である。こうした事例は春秋時代の桓公だけのケースでない。例えば北朝鮮の金一族には日本人料理人の藤本健二氏がおり、北朝鮮から日本に働きかける数少ない政治的な外交チャンネルのひとつでもあるかのようになっている。

 またフランスの宰相であるタレイランはフランス料理史の中で重要な料理人とされるアントナン・カレームを抱えていた。彼はウィーン会議でアントナン・カレームの料理によるもてなしで、フランスに有利な交渉を進めようとしたと言われている。実際にウィーン会議は「会議は踊る」というタイトルで映画にもなっているように、外交交渉よりも連夜の舞踏会の方が目立った会議であった。そこでのカレームの料理は好評を得て交渉を優位に導いた要因の一つとなったと言われている。

 現代でも料理や飲み物の選択は、外交や政治と結びついた重要な事項である。その事は西川恵の著『ワインと外交』の中にあるいくつものエピソードから知ることが出来る。ここでそのうちのひとつを紹介したい。

 2004年5月1日、アイルランドが主催したEUの拡大式典饗宴。その場で、アイルランド側は、EU新加盟国スロベニア産の白ワイン、「テオドール・ベロ・レゼルヴ 01」と、赤ワインはボルドーの「シャトー・ランシュ・バージュ 97」を提供した。前者のスロベニア産の白ワインは、新加盟国を歓迎する意味が込められているが、それ以上にアイルランドとスロベニアはケルト民族が定住した地域で、その祖先を同じくする国同士として高い親和性があるから。
 後者のフランスワインは、1690年、ボイン川の戦いでジェームズ2世が英国ウィリアム3世に大敗した際、フランスに逃げ延びたアイルランド貴族ジョン・リンチに由来しているワインである。当時のフランスは、ヨーロッパの覇権を争う英国に対抗するスコットランドやアイルランドを人的・財政的に支援した。そんな縁もあり、アイルランド人のリンチはそのままボルドーに定着し毛皮と羊毛の商売で成功。そして、息子トーマスが地元のワイナリーの娘と結婚し、1740年義父の死に伴い、広大なワイナリーを相続することになる。トーマスは、地元の集落の名前をとって「バージュ」と呼ばれていたワイナリーにさらに「ランシュ」(Lynch)、すなわち英語読みでは「リンチ:アイルランド系の苗字」を加えて現在に至っている。
 アイルランドが首都ダブリンで主催した晩餐会において供したワインの意味は明白で、この2本のワインは、共にアイルランドの苦難と離散、そしてそれでも現在に至るまで持続する文化的遺産のたくましさを含蓄豊かに物語っている。
 ここでワインの選択は、「様々な文化と人々の行き来の中で築かれてきたヨーロッパの大きな骨格」をアイルランドの歴史を通じて表象していると『ワインと外交』では明らかにしている。

 他にも最近の報道で、外交とワインが関係していることを考えさせられる面白い事例があった。それは2015年10月に習近平主席がイギリスを訪問した際のエリザベス女王との晩餐会のメニューである。
 この日の赤ワインは「シャトー・オー・ブリオン 1989,グラーヴ」であった。この1989年という年は天安門事件の年にあたり、中国としては一番触れてほしくない事件の年である。またこのワインはボルドー地方のグラーヴ(Graves)という地域のワインであるが、このグラーヴは英語読みだと「グレイブス」つまり墓である。
 この習近平主席の訪英に関しては、エリザベス女王との面会に対して中国側からのゴリ押し等があり、その無礼さにエリザベス女王は始めから良い感情を持っていなかったとされている。しかしながら新興の経済大国である中国を軽んずる訳にはいかない。このワインはボルドーのグランクリュワインで最もランクの高い5本のワインのなかの一本である。こうした方法で、ラベル(表面)の上においては礼を尽くし、その副次的な意味において中国を軽く扱うというシニカルさはとってもイギリス的であり、かつ彼らの得意とする手法である。
 たまたまこのワインになったと思う人もあるかもしれないが、外交の席においては書籍「ワインと外交」にも示されているように、国々はその歴史的背景やそれが意味するものも含めて、かなり慎重に慎重を期して選択するのが普通である。そこにたまたまは存在する余地が無いし、もしこうした凡ミスでこうしたものが提供されたとすると、それは一国の国益を損ないかねない重大事に発展する恐れすらある。
 『美味礼賛』ブリア=サヴァランの項でも述べたが、「国々の命運はその食事の仕方によって左右される」という言葉は、まさにこの事を意味すると言っても良いだろう。
 そう考えると、このワインの選択が偶然や凡ミスでないことは明らかである。実際にその意図は、習近平とエリザベス女王との会談でより明らかになった。面会に際してエリザベス女王は習近平との握手の時も手袋を脱がずに、そのまま握手をしたのである。普通であれば最低の礼儀として、少なくとも手袋は脱いで握手をするはずである。こうした行為を見ても、イギリスの中国に対するこのワインの選択は明らかな意図があるもので、それは成り上がり者の中国を婉曲的な方法で軽視していることを、理解できる者だけに示す為のものだったのである。
 中国側は、大きな歓迎を受けたとして訪英が成功裏に終わったと報道しているのだか、そう思わせるところがイギリスの外交の巧みさに通じているのだろう。

 このように料理には、政治的な意図や、外交上の駆け引き、政治権力と結びつきが古来から連綿として存在している。易牙の事例は、そうした事を裏書きするような、かなり古い部類に属する興味深いエピソードであると言えるだろう。


易牙とカニバリズム


 中国の食について語るには、カニバリズム(食人)について語らなければ片手落ちである。易牙が、斉の王である桓公の為に、自分の息子を料理して出したというエピソードは、中国においては特異なものではなく、むしろ中国では美談として捉えられても可笑しくないような時代があった。
 桑原隲藏くわばら じつぞう(1871-1931)は『支那人間に於ける食人肉の風習』において中国におけるカニバリズムの事例を紹介している。その中では中国におけるカニバリズムが以下の5つのパターンに分類されている。

 ① 凶作などによる飢餓によって
 ② 兵糧が尽きたため
 ③ 人肉嗜食、人肉を好んで食べる嗜好のため
 ④ 怨恨の感情から
 ⑤ 病気の治療ため、薬として

 これを見ると易牙と桓公のエピソードは③に分類されると言えるだろう。こうした話は中国の歴史ではいくつも記録されている。桑原隲藏の『支那人間に於ける食人肉の風習』には当然、易牙が桓公のために自分の子供を料理したエピソードも含まれているが、他にも以下のようなエピソードも含まれている。

 第一春秋の霸者を代表する齊桓晉文、何れも人肉を食用した。齊の桓公が魯國に對して、その仇敵たる管仲の引渡しを要求した時の口上を、『左傳』の莊公九年の條に、「管仲讎也。請受而甘心焉」と記してある。『史記』の齊世家に同一事を、「請得而醢レ之」と記して居る。怨ある人若くは罪ある人の肉を醢にすることは、春秋戰國時代を通じて、支那では決して稀有でなかつた。


 桑原隲藏は、春秋時代には人肉を食することが良く行われていたことを指摘している。齊桓晉文とあり、これは、斉の桓公と晋の文公のふたりを指しているが、まずは始めに桓公の話から取り上げるものとする。( ※晋の文公の事例に関しても後ほど言及する )


斉の桓公のカニバリズム


 ここでとりあげるのは、斉の桓公が魯國に対して、管仲を「かい」にするために引き渡すように要請をした時の話である。この「醢」とは人肉の塩漬けを意味する言葉である。
 この管仲は、後に斉の桓公の宰相として大きな働きを見せる人物である。管仲の助言は桓公にとって的確な意見として重要視され、桓公のお気に入りの料理人であった易牙ですら、その助言によって一時は遠ざけられた程である。
 なぜ桓公が管仲を「醢」にしようとしたかと言うと、もともと管仲は桓公とは別の後継者の側に付いており、その後継者争いの過程において、桓公を暗殺しようとしたからである。なんとか暗殺から逃げ延びた桓公は、今度は管仲を引き渡すように迫ったのである。しかし、桓公の元宰相で、管仲の親友でもある鮑叔が「覇者となるためには管仲を宰相に迎えなければならない」と進言し、それが受け入れられて、管仲は一転して宰相として迎えられることになる。鮑叔が親友の管仲の命を救い、さらに宰相にまで引き上げた。この管仲と鮑叔の友情を後世の人は称えて「管鮑の交わり」と呼んだ。

 さてここで注目すべきは、後に斉の、その後は天下の覇権国の名宰相となる管仲も、あやうく桓公に食われるところだったという点である。桓公は易牙が子供を料理して差し出す経緯として「私はこれまでさまざまな料理を食べてきたが、赤ん坊の蒸し焼きだけ食べたことはない」と言っている。深読みすると「人間は大人であれば食べたことがある」という事になるのではないか。当然「醢」にされた管仲を、桓公は食べようとしたと考えられる。なぜなら桑原隲藏が指摘する「④ 怨恨の感情から」に合致するように、恨みを晴らす目的でのカニバリズムが中国では行われていたからである。
 実際に桓公は人肉を好んで食べていたのは間違いない。またそこからさらに深読みすると「大人が美味かったので、赤子もまた美味いに違いない」と考えていたのかもしれず、実際に易牙がそれを実現させてしまったということになる。

 こうした桓公の嗜好と、それに応える料理人としての易牙の存在は現代の我々には異常としか言いようが無いが、その当時の中国ではそのようなことは無く、むしろ忠誠心を示す美談でとして扱われる場合もある。


晋の文公のカニバリズム


 先に桑原隲藏が「第一春秋の霸者を代表する齊桓晉文、何れも人肉を食用した」と述べていると指摘した。斉の桓公については先に述べたが、彼と並んで晋の文王は「斉桓晋文」と称され、春秋五覇の代表格とされるている人物である。この覇者である晋の文公もまた食人を行っており、それはどちらかと言うと家臣の行った行為が美談であるとして取り上げられている。『十八史略』には以下のように記録されている。

『十八史略』
 十九年將復支國蒿餒輕畫蘇千推割股酬衾地及輔賞從己者狐偃趙衰顛頡魏讓而不及事推子推

【 訳 文 】
 十九年後に故国に戻る。流浪中に曹の国にいて飢えた時、従者の介子推が股の肉を割いて重耳に食わせたことがあった。放浪を共にした狐偃、趙衰、顛頡、魏讓らには恩賞に与ったが、介子推には何の音沙汰も無かった。


 ここでは晋の文公が逃亡途中、飢餓に苦しんでいたとき、随行していた介子推かい しすいが自分の腿の肉を切り取りスープにして文公に与えたことが記録されている。これにより文公は危難を救われうのであるが、これが君主に忠実に仕えることを意味する「割股奉君」の故事の起源である。この話は普通ならばゾッとする話であるが、中国においてはむしろ美談として扱われている。

 「割股」という習慣について桑原隲藏は「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」の中で詳しく述べている。まず中国では「割股」によって得られる人肉は薬とされており、その為に中国ではある種の習慣として行われるようになったとしている。その根拠は唐の開元時代の名醫であった陳藏器の「本草拾遺」であり、そこで人肉を羸疾の藥劑として紹介したことに始まる。また「新唐書」《列傳第一百二十 孝友》の中にも「唐時陳藏器著《本草拾遺》,謂人肉治羸疾,自是民間以父母疾,多刲股肉而進」として、その出典が陳藏器の著した「本草拾遺」であり、人肉には羸疾を治す効果がある事や、子供が両親の病を治すために「割股」を行っていることが記されている。よって中国においては「割股」つまり食人はある意味において、親孝行の表現であり、やはり美談に属する行為として認識されているのである。

 このように介子推が、晋の文公に自分の肉を与えた行為は「忠」とか「孝」という美徳的な行為として中国では取り上げられている。さてその介子推は最終的にどのようになったのだろう?
 文公が苦しい時に「割股奉君」を行ってまで従ってきたが、褒美が与えられなかったため、介子推は母親と共に山に籠もって隠者の生活を送り、山から出こなくなってしまった。後に介子推に褒美が与えられなかったことに気づいた文公は、介子推が隠遁生活を送る山を所領として与え、山の名を介山と改めた。
 しかし文公は、介子推にどうしても再び会いたくなる。そこで逃げ道ひとつを残して介子推の籠もる山に火を放ち、介子推が現れるのを待った。しかし3日3晩の間燃え続けても介子推は現れず、後に、古木の中で老母と抱き合って焼死している介子推の遺体が発見された。
 文公はこの愚行を恥じて、人々は自らの信義を貫いた介子推を讃えて清明節の前日に火を使わずに冷たい食事のみをとった事が寒食節の起源になったと言われている。

 山ごと焼き払い、介子推を焼死に至らしめたという、この文公のエピソードで、私は『美味しんぼ』にある次のエピソードを思い出してしまう。

『美味しんぼ 八巻 SALT PEANUTS後編』
「私は革命前の中国の富豪や将軍の家で、お抱えの料理人が作る最高の中華料理を嫌というほど食べてきた。 ある将軍は私に旨い鹿肉を食べさせるために山を焼き払った。 火に包まれて何千頭という鹿が焼け死ぬ訳だが、その中に一頭かニ頭ちょうど頃合いに焼けた鹿がいる、その鹿肉こそ最高の味だったな、云々」


 結果的に文公は、介子推の股肉によって飢えを凌ぐことが出来ただけではなく、山を焼き払う事で、介子推自身をも食らう(死に至らしめる)事になってしまった。実際に文公は介子推の内股の肉を食べたが、象徴的な意味において結果的には彼の全ても食らったとも言えるのではないだろうか?

 さてこの文公であるが、覇王となるまでは19年間も各地を放浪していた。介子推の股肉によって飢えを凌いだのもこの時期である。このエピソードは曹の国に居た時の事であるが、実はその前、文公たちは易牙の仕える斉の桓公のもとに身を寄せていた時期があった。
 桓公はみすぼらしい亡命公子に過ぎない文公に戦車20乗の馬を贈り、また娘「斉姜」を文公に娶わせ大いに歓待している。居心地が良かったのか文公は斉に5年間も滞在した。
 さて、ここからが記録が無いので推測の域を出ないが、斉の桓公のもとに身を寄せ居ている5年間の間に、文公は易牙と会っていたかもしれないし、易牙の料理を食べたことも十分に可能性としてありうる。桓公の娘と結婚しているので、婚礼・宴会や、義理の父である桓公との会食があったはずである事を思うと、やはり易牙の料理を経験していると考えざるを得ないだろう。
 さらにここから想像を広げると、こうした宴において易牙の料理する人肉も提供されていたかもしれないのは否定できないだろう。こうしたカニバリズム経験が、その後の、介子推の股肉を食べるということにもスムーズに繋がっていくように思われるのである。

 人によってはこの関係性を飛躍し過ぎと捉えるかもしれない。しかし、桓公が亡き後に斉から出国する際に起こった、文公に関する次のエピソードを見てみると、必ずしも飛躍的とは言えないように思えるのではないか。

 斉に着いてから5年が経ち、その間に桓公は薨去し、その後継を巡って激しい内乱が起きていた。その中で文公は既に斉で妻を持ったこともあり、斉を離れようとは思わなくなっていた。これに対して狐偃・趙衰らは文公を連れて斉を出ることを計画する。この計画を斉姜の侍女が盗み聞きして斉姜に告げるが、斉姜は漏洩を恐れて侍女を殺し、文公に早く斉を出るように促した。しかし文公は聞く耳を持たなかった。そこで斉姜は狐偃たちと図り、文公が酔ってしまった所を車に乗せ、無理やり斉から連れ出した。

 酔いがさめた文公は激怒して狐偃を殺そうとした。狐偃は「私を殺してあなたの大業が成るのなら望む所です。」と答えた。文公が「事が成らなかったら殺して肉を食うぞ」と言うと、狐偃は「事が成らなかったら私の肉は生臭くて食べられたものではないでしょう(手を下される前に責任を取って自殺します、という意味)」と答えた。

『史記』晋世家
重耳曰:「事不成,我食舅氏之肉。」咎犯曰:「事不成,犯肉腥臊,何足食!」


 文公が言う「事が成らなかったら殺して肉を食うぞ」とは、半分は脅しかもしれないが、もう半分は本気だったのかもしれないと思わせる程の凄みがある。怒りのあまりの文句で食べてしまうぞ!が出る辺りは流石は中国と思わざる得ない。一方の狐偃の返答を見ても、やはり食人が普通に行われている文化圏でなければすぐには返せないような気の利いている返し(経験ありか?)が絶妙である。

 昔、子供のころに『オバケのQ太郎』を読んだ、国際オバケ連合の会議で各国のオバケが集う話が特に強く印象に残っている。その中でウラネシア代表のボンガというオバケ食いオバケが登場するのだが、会議が紛糾すると解決策として「食べてしまえ!」と言うシーンがある。実はこれが差別表現にあたると批判され(黒人を思わせるオバケがこのようなカニバリズムを思わせる発言をした)長年、絶版になっていた藤子・F・不二雄の漫画のひとつである。まあ堂々と出版されているカニバリズム事例の豊富な中国の史書に比べれば「オバケのQ太郎」なんてかわいいものである...。
 余談だが、この文公の発言を読んで、オバケ食いオバケが言う「たべてしまえ!」を思い出してしまった。まあ乱暴な話ではあるが、これも文公が日常的に食人をしていた可能性を伺わせるエピソードとして挙げておきたい。


易牙を伝説の料理人とした要素


 ここまでで春秋時代のふたりの覇者、斉の桓公と晋の文公と易牙との関係を浮き彫りにしてみた。易牙を最高の料理人にしたのは、こうした時代の風潮も理由として挙げられるだろう。もちろん、その時代の風潮とは、中国でその当時にカニバリズムが一般的行われていたという事実である。
 実際に、自分の息子を桓公に料理として差し出したことにより、それが記録として現代の我々まで伝えられているが、伝えられていない易牙の料理の歴史を考えると、易牙は人肉の料理においても巧みであったと想像せざるを得ない。

 しかしながら易牙は、その味においては抜群の才能を持っていたことは疑う余地はないだろう。それは後年の明代に編纂された著名な料理書が彼の名にちなんで『易牙遺意』(韓奕撰)と名付けられていることからも、料理の腕は後代においても尊敬され続けた。

 前漢時代に編集された『淮南子』では「易牙は二つの川の水を混ぜられても、嘗め分けることができた」とある。こうした味覚に対する鋭い感覚は、間違いなく易牙の料理に反映されたことだろう。

 また『孟子』告子上でも「靴の形状が似ているのは、世間の人々の足が似かよっているからである。口の味わいも同様に、その嗜好は人はみな似ている。易牙は我々が美味しいとする味を最初に会得した料理人である。犬や馬と同類の味覚を持っている者までいるとしたら、世間の人がみな易牙の味が旨いといってそれを好むだろうか?味覚に関しては、天下は易牙の味を望むのは、世間の人々の味覚が似ているからである」と述べて、易牙の料理の味が優れていたことを際立たせている。

 春秋時代以来魯や斉など多くの諸侯国が成立した現在の山東省は、中原の農村地帯と黄海の漁村を控え食材も豊富な地域である。こうした背景から山東料理も春秋戦国時代以来不断の発達をとげてきたとされている。また易牙のような優れた料理人が現れたことも、その料理の質の向上に大きく影響を与えたのだろう。

 北魏の時代に賈思勰かしきょうによって記された「斉民要術」は当時の山東料理の全体を整理してまとめたもので、焼く、煮る、炒める、蒸すなどの調理法が詳しく書かれ、多くのレシピも記載されている。『斉民要術』はその後の山東料理の発展に大きく寄与することになり、山東料理は北方料理の代表となってゆく。
 さらに元、明、清の時代に下ってくると、山東料理は宮廷料理に取り入れられ、その料理方法が宮廷料理の中心を為すようになる。その理由は都が移動して北京におかれるようになったことにある。北京には皇帝を満足させる料理人が少なかったために、山東省から多くの料理人が呼び寄せられることになった。こうした人的な流動によって、山東料理を基盤として北京の宮廷料理は発展を遂げて行ったのである。
 現代では北京料理は、中国四大料理(北京、上海、広東、四川)に数えられているが、実際は山東料理の延長線上に存在しているのが北京料理なのである。このような中華料理のプロセスを知り、それを食べる時。我々は今なお易牙の料理人としての感性が、そこに連綿と息づいているのを感じることが出来るのではないだろうか。




参考文献


「支那人間に於ける食人肉の風習」 桑原隲藏くわばら じつぞう 

「支那人の食人肉風習」 桑原隲蔵 

「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」 桑原隲蔵

「人喰いの民俗学」 礫川全次こいしかわ ぜんじ

「ワイン外交の舞台裏 ―メニューを見れば、すべてがわかる!―」

「元から清初への食譜に於ける二つの系統(上)」 中村 喬なかむらたかし

「元から清初への食譜に於ける二つの系統(下)」 中村 喬なかむらたかし