川端道喜かわばたどうき


御ちまき司 川端道喜


 京都では、5月5日の節句に粽(ちまき)を食べる習慣がある。
 それに対して東京(江戸)では端午の節句には「柏餅」を食べるのが一般的である。柏餅は徳川九代将軍家重あるいは十代将軍家治の頃に江戸で生まれ、その時代からようやく広く食べられるようになったので、まだ250年程の歴史しかない。それに対して粽の方は、屈原に関係して中国で生まれ2000年以上前から食べられ始めた文化的にも歴史的にもより深い意味をもつ食べ物であると言える。

 日本での粽に関する記述は、931年-938年に編纂された 『倭名類聚鈔』に「チマキ」という項目があり、それが和名では「知萬木」であるとして説明されているのが初見である。その製法は「もち米を菰の葉で包み、これを灰汁で煮込む」とあり、さらには5月5日に食べることについても書かれている。この記述から、粽が平安時代の始めごろには、既に大陸から日本に伝えられ、食べられていたことが理解できる。
 粽は室町時代から、米を使ったものだけでなく、餅を葛餅に替えるなど様々に変化を遂げて進化を遂げることになる。今回取り上げる川端道喜は室町時代に創業した菓子店である。ここでは川端道喜という、現代まで続けられてきた、この御菓子店の歴史や企業理念を通して「粽」とそれを取り巻く文化の本質に迫ってみたいと思う。


川端道喜の粽


 現在の川端道喜は『水仙粽』と『羊羹粽』の2種類を販売している。
 『水仙粽』は吉野葛と砂糖のみで作られていてシンプル、『羊羹粽』は吉野葛に小豆こしあん、砂糖を合わせたものである。「半返し」の状態の葛生地を、一本につき4~5枚の笹の葉で包んで、藺草(イグサ)で束ねて茹でて作られている。茹でたときに発する笹の葉の香りも、粽を引き立てる重要な要素となっているが、良い笹の葉を手に入れるのも年々難しくなってきているようである。

川端道喜の粽


 川端道喜は、5本の粽をひとつに束ねて販売している。 単に粽といっても、川端道喜の粽は恐ろしいぐらい手間がかかっており、笹の葉の準備から、餡の練り方、粽の湯がき方、また湯がき方によって甘さを引き算してちょど良いところにもってゆく技術などを知ると、もともと安い粽ではないのにも関わらず、これほどの手間をへて作られる粽がこの値段(3.900円)であることに頭の下がる思いである。さらにまたそれを口にすると、今度はその香りと、喉越しと、美味さに再びひとり頷き頭を垂れてしまう。


京都の老舗、川端道喜


 京都の和菓子屋と言うと、間違えなく名前が挙がるのが「川端道喜」である。川端道喜の創業は今から500年以上前であり、室町時代の文亀三年(1503年)から粽などの菓子を作り続ける正に老舗中の老舗である。和菓子店ではあるが「御ちまき司 川端道喜」という店名が正式名称となっていることからも分かるように皇室御用達の粽をメインとして代々菓子を作り続けてきたという点で、他の和菓子店とは一線を画する存在となっている。皇室に納品する御菓子店は幾つかあるが、そのなかでも川端道喜を特別なものとしているのは、室町時代から天皇の住む御所に餅を毎日届け続け、それを明治時代になり天皇が京都から東京に移動するまでの約350年間以上に亘って続けてきたことにある。御〇〇司は、皇室御用達の業者だけが使える名称なのだが、その名前が表すように川端道喜は御ちまき司として、皇室との長い歴史と深い関係にある御菓子店なのである。

 なぜ川端道喜が、餅を毎日届けるようになったかと言うと、室町時代後期、応仁の乱によって都は荒れてしまい御所の財政もかなり逼迫していたことが理由である。この当時、困窮していた天皇に対して餅を毎朝献上することを川端道喜(その前身の餅屋渡辺)は始めたのである。
 こうした状況にあった天正5年(1577年)、織田信長が京に上洛すると資金を投じて御所の修復を命じたため、ここにきてようやく荒れ果てた御所の普請(建築工事)が行われる事になる。この時の御所修繕工事に六丁町という地域組織の一員として参加し、大きな働きをして貢献したのが、初代の川端道喜とその息子であった。京都御所には現在でも、道喜門(リンクから門を見ることが出来ます)と呼ばれる門が残されているが、この門は当時、川端道喜が、工事を監督する工事奉行として資材搬入の勝手口として使っていたものである。その様子の絵が「川端道喜文書:家の鏡」に残されているので、以下のその図を掲載しておく。

天正5年の改修工事の様子
中央の黒い服を着た二人が道喜と息子と思われる


 この道喜門は工事後も閉じられることなく、その後、代々の川端道喜が御所に餅を献上する為に使われるようになる。後柏原天皇の在位(1500年11月16日 - 1526年5月18日)の時代から、餅は御朝物おあさものとして、毎朝、御所に届けられていた。室町後期当時の御所は、財政的に苦しかったため後柏原天皇は「御朝は、まだか」と川端道喜が献上する餅を待ちわびていたそうである。献上の時の様子が描かれた絵が「川端道喜文書:家の鏡」に残されているが、御所は所々荒れていて手入れされていない様子も描かれている。

餅献上の様子:塀が壊れ草が生えている


 御所へ毎日献上されていた餅はどのようなものだったのか?
 当時は、砂糖などはまだ希少で高価なものだった為、餡は少しの塩で炊いた小豆餡が用いられたとされている。そしてその塩餡で餅を包んだものを6つ、毎日、御所まで行き川端道喜の当主が献上を行っていた。
 献上する際には、朱塗りの器に餅が入れられていた。さらにそれをもうひとまわり大きな朱塗りの器に入れ、今度はさらにそれは唐櫃に入れられた。この唐櫃は両端に晒布を輪にしたものがかけられ、その輪に青竹を通して、二人で御所の庭まで運んでいたとされている。その献上の様子は、描かれた絵を見て頂くと良く分かるだろう。
 御所に着くと、餅は長橋の局(勾当内侍こうとうないし)という女官の長に渡され、六個の中の二個が天皇の食卓に毎朝のぼることになっていた。

 しかし時代が下がり、後水尾天皇の時代になると献上された餅は食べられなくなり、朝食の前に餅を眺めるという「朝餉の儀あさがれいのぎ」という儀式だけが形式的に行われるようになっていった。

餅献上の様子:御所の屋根が傷んでいる


 江戸時代の「朝餉の儀」の記録を見ると、御朝物(餅)は土器の上に6つ並べられて三方にの上に置かれており、その餅には箸で縦と横に印がつけられている。これは献上された餅が人手ではなく清められた箸で持たれたということを表す印であるとされているが、あるいはこの印は饅頭の上には必ず十文字に印が付けられていた事とも関係しているのかもしれない。(詳細は何曾の項でも説明しているので興味のあるかたはご参照頂きたい。)

 だが後代になると、天皇は毎朝この餅を見るだけとなり、餅は天皇に食べられたという見立てが行われてから下げられるようになった。「朝餉の儀」は食べる目的ではなく儀式として行われ、天皇は「朝餉の儀」の後に別に朝食を取るようになっていったのである。こうした御所で行われる儀礼のために、約350年間にわたり、代々の川端道喜の当主が餅の献上を続けてきたというのは興味深い歴史であると言えるだろう。

献上されていた餅
『和菓子の京都』川端道喜著より

 献上されていた餅の味は、まだ砂糖のない時代に作られていたものであるので、現代の嗜好とはまったく異なっているので、現代人からはとても旨いと言えるものではなさそうである。
 明治天皇がこの餅を陪臣に餅を食べさせたことがあったそうだが、陪臣があまりに不味く目を白黒させて四苦八苦する姿を、明治天皇は笑って面白がり、それを汁粉にすると良いと言ったとも伝えられている程での味である。しかもこの御朝物は、餅を核にしてその周りを塩餡で包んだ野球のボールよりも少し大きいものだったらしいので結構なボリュームである。甘い餡に慣れた現代人にとっては、塩餡でこのボリュームを食べきるのはなかなか困難ではないだろうか。


川端道喜文書について


 川端家には『川端道喜文書』という川端道喜の歴史を裏付ける文書が保管されており、これらの文書から歴代の当主の様子や、室町・戦国時代の歴史を紐解くことが可能となっている。この文書には「豊臣秀吉朱印状」「正親町天皇女房奉書」「室町幕府奉行人奉書」等の貴重な文書も含まれており、川端道喜が天皇との深いつながりを有していたことが理解できるだけでなく、その働きや貢献に応じて、保護されたり特権を得ていたことが分かるようになっている。

  川端道喜の創業は、1503年であるとされているが、文献での初見は1512年の『室町幕府奉行人奉書』ということになる。ただここには創業時の餅屋渡辺(後の川端道喜)としてではなく、京餅座の権利を得た「餅座」という組合に対して保護を約束することを記した文書であり、当然ながらまだ川端道喜の名前は文章中にはない。しかし、この文書が川端家に残されていることから、後の川端道喜がこの頃からすでに餅屋として商いを始めていたことが確認できる。


『川端道喜 家の鏡』


 川端家の歴史書である『川端道喜 家の鏡』は、皆川淇園みながわきえんによって1804年(文化元年)に編纂された。皆川淇園は京都の人で、その門人は3,000人に及んだと言われている弘道館という学問所を開いた著名な国学者である。
 皆川淇園が『川端道喜 家の鏡』の巻頭の辞と全体のディレクションを行っているのだが、実際の文章は、門弟の一人で、皆川淇園の実弟であった富士谷成章の子の、富士谷御杖(成元)が書いており、挿絵は原在正という絵師が描いている。(先の掲載してある献上の様子や、改修の様子を描いたのが原在正の絵である)

 川端道喜の歴史を知るうえで『川端道喜 家の鏡』は重要な文書であるので、まずはその内容を以下に要約することから始めておきたい。

 川端道喜の始まりは、山城国紀伊郡鳥羽村の渡辺氏にある。渡辺進という者がおり、この進の娘に、同じ村に住む中村五郎左衛門を婿に取り、この五郎左衛門が入道して道喜と名乗ったことから始まる。この道喜が家業を始め、京の川端町に移り住むことになる。かつて道喜は久我氏に仕えていたことがあり、その縁のゆえあって笹りんどうの紋を賜り、それまで渡辺氏が使ってきた三つ星に一文字の紋から切り替えてられ、現在でも笹りんどうの紋が使われている。
 この時代、世の中は大いに乱れ、御所も荒れ果て、天皇の食事まで不自由な時代となった。道喜はそのことを憂慮して元祖道喜餅を作り、それを献上するようになった。この時、道喜は褐染(からぞめ)の素抱を着ていたので、宮中では餅のことを「かちん」というようになった。また道喜は餅を硯箱に入れて献上しており、後世にはこれに倣って硯蓋に入れられるようになったのもその起源は道喜にある。
 御所では正月二日に、御酒、鏡餅、蛤の三種を供えるがこれを道喜の家が準備を行った。また御所の火は、浄められた火が必要とされたが、その火は川端道喜のものが使われた。
 後柏原天皇の時代、永正8年(1511年)に餅を司るものとして認められ奉書を受けるが、食い物にも乏しく餅を盗み、狼藉をはたらく者があり、翌年の永正9年に道喜の家を保護するための『室町幕府奉行人奉書』が与えられ、制札を門に立てておくことで狼藉を抑えた。

『室町幕府奉行人奉書』


 道喜が鳥羽村から京に移ってきた年代は明らかでないが、人家は少なく、御所には門が無く、溝が掘られて道喜の家に沿って溝川が流れていた。こうした場所ゆえに「川はたの道喜」と呼ばれていたのが、それがやがて川端という姓に変わり、その町も川端町と言うようになったとされている。
 数年後、正親天皇の時代に御所がますます荒れ果て、修理する人もなかった為、道喜は私財を投げうって修理に取り掛かる。道喜は奉行に任ぜられ、朝夕に木材や竹を運び、職人を出入りさせるため、南門の横に穴門を作るが、この門は道喜門と名付けられる。

 こうした道喜の働きにに対して1577年(天正5年)に『正親町天皇女房奉書』が与えられている。女房奉書とは、御所の女官がかいたものであるが、実際は天皇が言ったことを書いているので、実質は天皇からの感謝状のようなものであると考えても良いだろう。

『正親町天皇女房奉書』


 またこの時代は信長の上洛に伴い、京都所司代は信長家臣の村井貞勝が任じられ、行政および治安維持にあたっていた。1577年(天正5年)道喜は、その働きによって村井貞勝から諸役免除のための文書を受け取っており、その文書は現在も残されている。

『村井貞勝折紙』


 天正12年には天下人となった豊臣秀吉の五奉行のひとり、前田玄から改めて許状を賜っている。

『前田玄知状』



明智光秀と川端道喜


 『川端道喜 家の鏡』には川端道喜が、豊臣秀吉と明智光秀が山崎の戦いで対陣していた時、陣中に粽を献上し、お茶を度々賜ったことや、明智光秀の陣にも同様に粽を送ったことを以下のように記している。

【 川端道喜 家の鏡 】
 秀吉公、光秀か罪をせめて山崎にて御対陣ありし比、御陣へちまきをまゐらせたりしことありき。さる由緒によりてにや、御茶もかくたひたひたまひしならん。又光秀か陣へも粽をおくりし事世にしる所となり。

【 現代訳 】
 秀吉が、光秀の反逆をせめて山崎で対陣した際に、秀吉の陣に粽を届けたことがあり、こうした由緒で、度々、秀吉にお茶をご馳走になったことがある。また光秀の陣にも粽を送ったことは世間でも知られている事であった。


 川端道喜は単なる餅屋ではない。天正5年(1577年)に京に上洛した織田信長が御所の修復を命じた工事において、地域をとりまとめて中心的な働きをした有力者でもあった。それゆえ織田の家臣たちとの関係も深く、こうした繋がりゆえに豊臣秀吉と明智光秀の両陣にちまきを届けたのではないだろうか。
 特に明智光秀は、信長が京都所司代に任じた村井貞勝と共に、信長が京都を完全支配下に置いた後の京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、京都馬揃えの準備などを行っており、京の町衆とは多くの接点を持っていたことであろう。こうした時期に、川端道喜が、村井貞勝から『村井貞勝折紙』を受け取って諸役免除されていた事は、織田家臣との関係性の深さを示していると言えるし、またその書状は、光秀との連名あるいは、光秀から発せられたものであったとしてもおかしくない位のものだったとも考えられる。

 実際に川端道喜とに同じく、その当時から餅屋を営んでいた菓子店の「塩瀬しおせ」には、光秀からの通達文書が発せられており、それらの文書は塩瀬の菩提寺である両足院に今でも残されている。かつては烏丸通りに、餅屋町という、塩瀬を含む餅屋が集結してギルドを形成しているようなエリアがあったようであるが、そこは光秀の管轄にあったと考えられる。

明智光秀


 このように明智光秀と、餅屋(菓子屋)には、様々なエピーソドが残されているのであるが、その理由には、明智光秀が茶にも通じた精錬された文化人であったからではないかと思われる。光秀は茶の席で、あるいは贈答品として川端道喜や塩瀬の粽や饅頭に親しんでいたのではなかろうか。


『閑際筆記』の粽エピソード


 明智光秀と粽に関する他のエピソードが『閑際筆記』にはあり、それは以下のような記載となっている。

【 閑際筆記 】 藤井懶斎
 日州光秀、既ニ織田公ヲ弑メ、桃花坊ニ在ス。洛人粽ヲ献ズ。光秀、菰葉ヲ脱セ不(ス)シテ之ヲ啖(クラ)ウ。一人、之ヲ望ミ見ニ曰ク、「斯人、大君ノ器ナシ。何ヲ以テ天ノ下を有也(タモタンヤ)」ト。不(フ)日ニシテ寇(アタ)至ル。

【 現代訳 】
 明智光秀は、既に織田信長を殺し、桃花坊(左京一条)にいた。京の人が明智光秀に粽を献上した。明智光秀は、笹の葉を取らずに食べた。これを見た人が、「この人は大君の器ではない。何を以って天下を保つことが出来るだろか」と言った。日を経ずして討ち取られてしまった。


 『閑際筆記』は正徳五年(1715年)に藤井懶斎によって書かれた書物で、光秀の死から133年も後になってから書かれている。当時までそうしたエピーソドが人々の間には伝えられていたのかもしれないが、史実としては認めにくく、また謀反人としての明智光秀をネガティブに表現するためのニュアンスがそこには込められているように私には感じられる。笹の葉を取らずに光秀が粽を食べてしまったのも、気が動転していた為で、そこから天下人の器がないという趣旨である。

 しかし実際のところはどうだったのだろうか?それを考慮するにあたり、まずは光秀のスケジュールを再検討してみたい。
 光秀は、6月2日の本能寺の変の後、京を離れて坂本城に戻り、4日に瀬田の仮橋を渡って、5日になってやっと安土城に入ることが出来た。安土城に入ると光秀は、信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して、それらを自分の家臣や味方に与えたと記録されている。またその後、6月8日に安土を発って9日に京に戻ってくる。これは昇殿して朝廷に銀500枚を贈る為であった。また同日、五山や大徳寺に銀各100枚、勅使の吉田兼見にも銀50枚を贈っている。(『兼見卿記』より)

吉田兼見よしだかねみ


 こうした献上金は当然、安土城の信長貯蔵の財宝から持ち出されたものであると予想される。この大盤振る舞いは光秀にとって、今後の自分を有利な立場にし朝廷を味方にするために必要な処置だったことは間違いないだろう。朝廷を味方につけるという点で、光秀と親しかった吉田兼見が大きな役割を果たしている。
 またこうした献金の過程のなかで、お返しや、今後の光秀に期待する、吉田兼見か他の公家、あるいは僧なども含めた誰かが、光秀への祝いの品や、もてなしの品として粽を贈った可能性は十分にあるのではないか。
 私は『閑際筆記』にあるエピソードが成立するような状況は、ピンポイントで6月9日以外にはありえなかったと考えている。なぜならば、同日晩に、光秀は秀吉の東上を察知してすぐに御所から離れ上鳥羽に出陣したからである。その後、6月13日に行われた「山崎の戦い」で敗戦し、いわゆる光秀の三日天下はその死をもって終わってしまった。討ち取られた光秀は、その首だけが京に戻ってくることになり、その首塚が京都白川沿いに残されている。

 さて、『閑際筆記』の粽に関するエピソードは、光秀が「桃花坊」にいた時であると述べている。桃花坊とは左京一条のことで、この時に光秀は御所のすぐ近くにいた事がわかる。ここからもこの出来事があったとすると、献金のために在京していた6月9日のことであったと考えられる。また川端道喜は御所の西側の左京区の正親町に店を構えて毎朝、御朝物を御所に納めていた。よって光秀に贈られた粽は、御所との関係も考えると、やはり近所にある川端道喜のものであったという事になるだろう。

 さて明智光秀が、気が動転して・・・・・・『閑際筆記』にあるように笹ごと粽を食べたかどうかについては、懐疑的な見方を私はしている。何故ならば、光秀は茶の湯に通じた文化人である。川端道喜の粽は当然、以前から何度も口にしていたはずである。
 興味深いことに川端道喜の側にも、光秀と粽に関する逸話が残されている。川端道喜では「茶の嗜みのあった光秀のこと故、笹を扇状に広げて口元を隠しながら召し上がったのではないか」と伝わっているそうだ。『閑際筆記』のバイアスがかかっているように思われるエピソードよりも、粽を収めた川端道喜に残された言い伝えの方が、私には信憑性があるように感じられるが如何だろうか?

 それでも6月9日の出来事を詳細に調べると、光秀が取り乱したと考えられる要素が全く無かったという訳ではない。そのひとつは、先に述べた秀吉が毛利との和平交渉をまとめて、驚くべきスピードで東上を始めたという知らせが入ったはずだからである。これを受けて光秀は同9日晩に上鳥羽に出陣している。この秀吉の「中国大返し」には光秀もそのスピードに驚き、急な対応を迫られることになっただろう。

 そして二つ目は、9日に、最も頼みにしていたであろう細川藤孝と忠興の親子が、光秀の側に付かないことを知ったことである。それを知った光秀は、同9日に細川藤孝に以下の書状を送っている。

『明智光秀覚条々』(天正10年6月9日)
東京永青文庫蔵


【 明智光秀覚条々 】

一 細川藤孝と息子の忠興が、髷を切って信長の喪にふくしている ことを聞いて、非常に腹をたてたけれど、二人の立場を考えたら仕方ないかと怒りを静めた。でも今からは、自分の味方をしてもらいたい。
一 自分の味方をしてくれたら、新たに摂津国をやろうと考えている。摂津国より若狭国をもらいたい、というのであればそのようにしてもよい。
一 我々が信長を倒したのは、細川忠興などをりっぱな大名に取り立てたいと思ったからだ。五十日から百日の内には、周辺の国々は平定してしまうつもりなので、その後は、それらの国々は、自分の息子や忠興にやるつもりでいる。
以上

  六月九日    光秀(花押)


 6月9日、この文書を光秀は細川藤孝に送り、細川親子を何とか懐柔し味方にしようと努めている。光秀にとって6月9日という日は非常に多忙であったことだろう。当日、安土から京都入りして吉田兼見に会い、その手引きで御所での献金を行い、さらには五山に対しても献金するが、その後、秀吉の東上の知らせを受けて上鳥羽まで陣を進めなければならなくなった。こうした目まぐるしく状況が変化するなかで、この手紙が書かれたことを考えると、その時の光秀の感情の上がり下がりまでもが垣間見えるように思える。
 こうした状況の中で、怒りに任せて、あるいは悔しさからか粽を笹ごと噛み切ろうとする光秀の姿をイメージすることは出来るように気がする。事実はどうだか分からないが、これに川端道喜の粽が関係していたのではないかと考えると、歴史の太い縦糸に、様々な細い横糸が絡んで一枚の布が織られてゆく感があり感慨深いものがある。

『林鐘談』~ 頼山陽の粽エピソード


 書かれた年代ははっきりしていない『林鐘談』という俗書にも同じような光秀と粽に関するエピソードがある。そこでは光秀が粽を葉ごと食べたのは、本能寺へ出陣する前、愛宕神社を参詣した時のことだとしてある。
 この『林鐘談』を出典元にして、さらに江戸時代後期の学者・頼山陽は、明智光秀が愛宕神社で笹ごと粽を食べてしまったことを「本能寺」という漢詩のなかで言及している。以下に頼山陽の漢詩を引用しておく。

【 本能寺 】
 本能寺、溝幾尺  本能寺、溝は幾尺ぞ
 吾就大事在今夕  吾、大事を就すは今夕に在り
 茭粽在手併茭食  茭粽手に在あり 茭を併せて食ふ
 四簷楳雨天如墨  四簷の楳雨 天墨みの如し
 老阪西去備中道  老の阪 西へ去れば 備中の道
 揚鞭東指天猶早  鞭を揚げて東に指せば 天猶ほ早し
 吾敵正在本能寺  吾が敵は正に本能寺に在り
 敵在備中汝能備  敵は備中に在り 汝能く備へよ


【 現代訳 】
 本能寺の溝はどれほどの深さか
 大事を行なうのは今夜しか無いであろう
 笹粽を手にして、笹ごと食べてしまった。
 あたりには梅雨が降りしきり、
 天は墨のように真っ黒である。
 老ノ坂から西へ向かえば備中に出られる。
 逆に東に向かって鞭を上げれば
 早朝であり、空はまだ薄暗い。
 「我が敵は本能寺にあり」
 だが本当の敵は備中にあり、備えをすべきなのだ。


 頼山陽は「茭粽こうそう手に在あり 茭を併せて食ふ」(笹粽を手にして、笹ごと食べてしまった)と述べ、光秀が思わず笹ごと粽を食べてしまう様を描写している。ただここで頼山陽が描写しようとしたのは、光秀の取り乱した様子ではなく、思索と決断に没頭するあまり笹ごと粽を食べてしまったという深い決断の苦悩の表れとしてである。


里村紹巴さとむらじょうはという人物


 この愛宕山での粽エピソードは「愛宕百韻」として記録されている。「愛宕百韻」とは、本能寺の変の数日前、天正十年(1582年)5月24日(あるいは28日ともされている)に、明智光秀が愛宕山の西坊威徳院で催した連歌会のことである。

 「ときは今 あめが下しる 五月かな」

これは愛宕山の連歌会での光秀の発句であるが、これを光秀謀反の決意表明であると考える人もある。私はその説には否定的で語る事は多いのだが、ここではあくまでも粽にクローズアップして語る必要があるので、ここではその事について深く言及することは控えたい。
 さて、この連歌会「愛宕百韻」に参加したのは以下の9人である。

 1. 明智光秀
 2. 明智光慶 - 光秀の長子
 3. 東六郎兵衛行澄 - 光秀の家臣
 4. 里村紹巴 - 連歌師
 5. 昌叱 - 里村紹巴門の連歌師
 6. 心前 - 里村紹巴門の連歌師
 7. 行祐 - 愛宕西之坊威徳院住職
 8. 宥源 - 愛宕上之坊大善院住職
 9. 兼如 - 猪名代家の連歌師

里村紹巴さとむらじょうは


 参加者で注目しておきたいのはである。紹巴は単なる連歌師というだけでなく、織田信長、豊臣秀吉、三好長慶、細川幽斎などの武将とも交流を持ち、ネットワーカーとしての役割を果たした人物である。特に古今伝授を相伝されていた細川幽斎とは長い交流があり、そこには洗練されたテイストを理解する者同士の奥深い付き合いがあったに違いないと推測される。
 また里村紹巴は、先にも登場した公家の吉田兼見とも深い交流があったことが分かっている。実際に里村紹巴は、吉田兼見の日記である『兼見卿記』に何度も登場しており、そこから里村紹巴が吉田兼見を通じ、明智光秀や細川藤孝とも深く繋がっていることがうかがえる。

 さらには里村紹巴が、商人であり文化人でもある津田宗及、林宗二といった人々と交流していたことも注目すべきだろう。

 津田宗及は堺の豪商・天王寺屋の当主であったが、茶の湯にも精通した人物で、千利休と並んで、天下三宗匠として挙げられているほどの数寄者であった。
 また権力者との交流も盛んで、天正2年(1574年)2月3日には、岐阜城での茶会の後に織田信長からもてなしを受け、津田宗及の膳を、信長が自ら運んできたことが『宗及他会記』には書かれている。ここから宗及は、その経済力と審美眼のゆえに信長でさえ一目置く人物であったことが分かるだろう。さらに信長亡きは、豊臣秀吉にも信頼を得て茶湯者八人衆の一人として数えられ厚遇されている。豊臣秀吉が北野天満宮で開催した大茶湯(北野大茶湯)では、津田宗及は、今井宗久、千利休とともに茶頭として茶会を行っている。

 また林宗二(1497~1581)は先に述べた饅頭屋の塩瀬の当主で、饅頭屋宗二まんじゅうやそうじと呼ばれた人物である。彼は家業の菓子にも精通しているだけなく、歌や文学に通じていた文化的な人物であった。川端道喜もそうだが、この塩瀬もただの菓子屋ではない。この店があつかう饅頭の起源は、室町時代に中国から渡ってきた林浄因によって日本で始めて作られたものである。三代目の浄印の時代に応仁の乱がおこり、京が焼け野原になったため、一時期、妻の実家だった三河の国・塩瀬(現在の愛知県新城市塩瀬)に疎開したが、その移住先の地名から塩瀬を名乗るようになった。
 こうした三河との繋がりの故か、饅頭の創始者である林浄因から数えて七代目、里村紹巴とも交流のあった林宗二が、天正三年の長篠の戦の際に、徳川家康の陣中に「本饅頭」を献上している。
 この本饅頭とは、小豆こし餡に蜜付けした大納言を入れ、ごく薄い皮で包み蒸しあげたもので、家康が出陣の際に、本饅頭を兜に盛って軍神に供えて勝利を祈願したことから兜饅頭とも呼ばれるようになった。この「本饅頭」は塩瀬総本家の御菓子として現在でも作り続けられている。

 元来、御菓子というものは、縁起物であったり、儀礼の際に用いられたりするものであった。よって、それを扱う者たちは、それなりにそうした故実や儀礼に通じている必要があったし、また菓子を贈る事、あるいは供えることそのものが権威や儀礼に関係していたのである。
 現代でも贈答用の菓子が、どのような時に、どのように贈られているのかを考えると、現代人の我々も経験的に、室町時代に御菓子の持っていた意義を容易に理解できるのではないかと思う。
 ここで挙げた室町時代にまで創業をさかのぼることが出来る「川端道喜」および「塩瀬」のような御菓子店は、その家業の御菓子屋であるがゆえに、豊富な人脈を持つネットワークのノード(結び目)のような存在となることが出来ていたと考えられる。このような御菓子屋は、人と人を結ぶ重要な役割を果たしていたので、彼らを単なる御菓子屋の当主でしかないと見なすべきではないだろう。歴史的観点からこうした御菓子店を軸にした人と人の関係性を紐解くことで、新たな解釈を得たり、あるいは違った角度から再確認するための新たな資料が掘り起こせるのではないかと私は考えているくらいである。

 さてこうした人的交流や、洗練されたテイストを考えると「愛宕百韻」で出されたのかもしれない粽の存在が、俄然気になってくるのではないだろうか。光秀や里村紹巴を始めとした連歌師たちが集う席ということであれば、御所に納められる程のクオリティーの川端道喜の粽が選ばれた可能性も十分に考えられる。
 もともと光秀が愛宕山に登ったのも、毛利・四国攻めの出陣の為の戦勝祈願が主旨であった。さらにこの当時の愛宕山には、愛宕神社と五坊六院の寺院が共存していた。よって戦勝祈願は神社で、そして連歌会は寺(西坊威徳院)で行われたのである。こうした戦勝祈願の供え物として粽が準備されたという事であれば、いい加減なものは選ばれなかっただろう。その主旨を考えても、また、もし直会(なおらい)のようなかたちで粽が食べられたということであれば、選ばれた粽は川端道喜のものであったと、やはり私は期待したい。



『川端道喜 家の鏡』のその先


 かなり明智光秀と粽で話がそれてしまった感があるが、ここから『川端道喜 家の鏡』で言及されている以上の、川端道喜の歴史についてのさらなる註釈を加えてみたいと思う。

 ① 山科言継との関係について
 ② 千利休との関係について
 ③ 川端道喜と御所の鏡餅

 上記にさらなる註釈を加えることで、さらに川端道喜の歴史に迫ってみたいと思う。


① 山科言継との関係について


 川端道喜十五代目の川端道喜道夫が書いた『和菓子の京都』という本では、渡辺進の存在と、皆川淇園の監修した『川端道喜 家の鏡』について以下のように述べている。

【 和菓子の京都 P169 】
 皆川淇園がとんでもないまちがいを書いてしまった。つまり創業年数はできるだけ前にもっていき、おまけに創業者 渡辺進を抹殺しておいて、渡辺の業績も実は初代道喜のものであったというふうに書き直してしまったのです。そうしますと、日本の天皇の中には百何十歳という人がいるのと同じような記述になっていて、年齢的にも計算が合わなくなる。


 このように述べて、実際の創業者で業績を残したのは渡辺進からだったのではないかという見解を示している。道喜が死亡したのは1592年(天正20年)7月26日であるが、生年月日は不明となっている。『川端道喜 家の鏡』では、後柏原天皇の時代(永正年間:1504-1521)に餅を献上し始め、『室町幕府奉行人奉書』が永正9年(1511年)に与えられたことも初代の道喜の功績のように書かれているが、仮に道喜が二十歳の時にその奉書を受けたとしても、死亡年から計算すると百歳以上は道喜が生きた事になってしまうので、そこには無理があるように思われる。よって実際の創業者は渡辺進であり、餅の献上を始めたのも渡辺進からであったと考えた方が良さそうである。

 十五代目の川端道喜・道夫は『和菓子の京都』の中で、渡辺進と道喜の間にもう一代いた可能性もあると述べている。15代目はその理由を明確に著書では述べておられなかったが、先に述べた年代的な齟齬は勿論、他の理由もあったからだろう。
 『山科言継卿記』には山科言継と餅屋渡辺(後の川端道喜)との交流に関する記録が含まれており、そこには道喜の父ではないかと思われる四郎左衛門という人物についての言及が含まれている。私はここにも、その理由を求める事が出来ると考えている。
 公家でかつ医師でもあった山科言継やましなときつぐの日記である『山科言継卿記』には、餅屋渡辺とのつながり、およびその家族の様子の幾つか記述されている。以下、その部分を取り上げてみることにしたい。


天文21年(1552)6月13日【原文】

【 山科言継卿記 】
 自薄所取次,正親町町人餅屋四郎左衛門,自去年六月所労,腰不立云々 ,脈之事申候間, 薄令同道, 近所於山国所(禁裏仕丁), 脈取之, 脚気之様也,則帰宅,薬の事申候間,令思案可遣之由返答。


 ここでは公家の薄以緒の紹介により(渡辺)餅屋四郎左衛門が言継に診察を依頼したことが記されている。言継は、近所で禁裏に仕える山国宅で診察を行い、餅屋四郎左衛門の病気は脚気であるとして薬を処方している。

 ※ この餅屋四郎左衛門が道喜とどのような関係性にあるかについては後述する。


天文21年(1552)6月21日【原文】

【 山科言継卿記 】
 餅屋四郎左衛門薬佛底之由申候, 同薬七包遣之,同愛洲薬廿服遣。


 餅屋四郎左衛門が薬が底をついたと言って、前と同じ薬を7包と、愛洲薬を20包渡したとある。興味深いのは同じ日に勸修寺父子が訪問してきて、ちまきで一杯飲んでおり「ちまきにて一盃有之」とある。医者としての報酬は食べ物などが多かったことから、この時の粽は間違いなく餅屋渡辺が当日に持ってきたものと考えてまず間違いないだろう。

 同年7月2日にも「餅屋へ薬共令調合, 獨寄十包, 愛洲薬卅服等遣之」とあり、四郎左衛門のために追加で薬を調合しているのが分かる。続く16日にも「正親町餅屋へ, 同薬十三包遣之了」とあるので薬は引き続き投与されているようである。

 病気が良くなったからなのか、以降、四郎左衛門への薬の処方については記されていない。しかし医師である言継に対する感謝からか、同年8月1日には「正親町餅屋より鈴一對」とあり、当時は正親町にあった餅屋渡辺が、言継のコレクションしている鈴を一対で贈ったことが分かる。言継が好きなものを贈っているので、ここからも言継への感謝の気持ちが見て取れる。

 ここまでが『山科言継卿記』に記されている渡辺四郎左衛門についての記述である。この後、渡辺家の者が登場する記述は11年後の永禄6年の以下のものとなる。


永禄6年(1563)6月9日【原文】

【 山科言継卿記 】
 渡辺餅屋後室依薬本服とて,得利,糉一折,干鮭一,送之。


 ここには後室(未亡人)とあるので、既にこの年には先に述べた四郎左衛門は死去しており、今回は未亡人となった四郎左衛門の妻が言継の薬の処方を受けている。そのお礼として糉や干鮭が贈られているが、その中に含まれている糉とは粽(ちまき)の事であり、やはり渡辺家のスペシャリテが贈られているのは興味深い。

 『山科言継卿記』に、後室(未亡人)とあることから、渡辺四郎左衛門は、天文21年(1552)~永禄6年(1563)の間には既に亡くなっていたことが分かる。『川端道喜 家の鏡』と照らし合わせて鵜呑みにすると、年代的にはこの渡辺四郎左衛門が渡辺進という可能性もある。

 だが『川端道喜 家の鏡』では、渡辺進が、婿養子として渡辺五郎左衛門(道喜)を次の当主としたとある。つまり、渡辺進と道喜は実際の親子関係には無い訳だが、四郎~五郎という数字の繋がる名前からは、そこに実際の親子関係があったのでは?という疑問も感じられる。こうなると渡辺四郎左衛門と渡辺五郎左衛門は実の親子という見方も出来なくもない。

 そうなると、先に述べた四郎左衛門が、渡辺進によって山城国鳥羽村から婿として呼ばれて渡辺家に入り、一代おいた四郎左衛門の息子の渡辺五郎左衛門が入道して道喜となったという可能性も考えられそうである。実際に十五代目の川端道喜・道夫は、「渡辺進と道喜の間にもう一代(四郎左衛門と推測される)がいた可能性もある」と述べている。十五代目がそう述べた理由は、年代計算的なところや、この辺の世代間の繋がりを考えてのことだったのかもしれない。
 実際に『川端道喜 家の鏡』は、渡辺進と道喜の功績を明らかに混同し、間違えて説明しているのだが、それだけでなく、実父の四郎左衛門と、息子の渡辺五郎左衛門(道喜)を一緒くたにして、あたかも道喜一人の事績のようにして記述してしまっているようである。



永禄7年(1564)11月【原文】

【 山科言継卿記 】
 (10日)正親町餅屋渡辺子長鶴明日元服云々, 強飯鈴等送之云々
 (24日)一昨日東寺塔作事始に大工冠袍借用, 近所之餅屋渡辺取次
 (27日)渡辺弥七郎餅屋, 長鶴丸・千代松等来


 『言継卿記』には、『川端道喜 家の鏡』で登場する渡辺五郎左衛門という人物の名前は出てこない。その代わりに『言継卿記』では、この時代の餅屋渡辺家の当主が弥七郎であると記している。
 『川端道喜 家の鏡』で渡辺五郎左衛門として記述されている人物は、『言継卿記』にある弥七郎と同じ人物のことなのだろう。生きた時代から見ても、また山科言継との交流の深さから見ても、この弥七郎こそが、後に道喜を名乗るようになる人物であることは間違いないようである。

 『言継卿記』からは弥七郎(道喜)には少なくとも二人の息子がいたことが分かる。永禄7年(1564)11月11日に元服を迎えた長鶴丸。またもうひとり千代松という子供である。長鶴丸が長男と考えられるが、そうなるとこれが後の二代目当主となる「道初」であろう。この道初は、始め久我氏に仕えたことから川端道喜の紋が笹りんどうとなったという事績があるので、この道初も川端道喜の初期における主要人物として数えられるべきであろう。
(『川端道喜 家の鏡』は、道喜が久我氏に仕えたとしてあるが、家系図をみると道初が久我氏に仕えたとあり、ここにも記述内容に齟齬がある)

 さてその後も、餅屋渡辺・弥七郎(道喜)は、山科言継との交流を盛んに続けている。
 永禄8年(1565)1月8日には「渡辺弥七郎到, 一盃勸了」とあり、言継は新年に訪問してきた餅屋渡辺・弥七郎(道喜)と一緒に酒を飲んでいる。
 また同年7月6日には「渡辺弥七郎以下各来, 碁将基等有之」ともあり、山科言継は渡辺弥七郎と将棋や囲碁をしている。その他にも、永禄10年1月2日、永禄11年1月2日、永禄13年1月28日、元亀2年1月24日と、新年の挨拶のために渡辺弥七郎が言継を定期的に年始の訪問していることからもお互いの関係性の近さを理解できる。


元亀年間の餅屋渡辺

 『言継卿記』に渡辺弥七郎としての名前が最後に出ているのは、元亀2年12月4日の日記で、そこには「愚亭月次和歌会有之...渡辺弥七郎等也」とあり、渡辺弥七郎が定例の和歌の会に参加したことを記録している。
 その後、道喜の名前が初めて登場するのは、翌年の元亀3年8月3日付の室町幕府奉行人連署奉書であり、この奉書は『川端道喜文書』に収められているので以下に転写しておく。

【 室町幕府奉行人連署奉書 】
 佐子上臈局被官人中村五郎左衛門入道 道喜 居屋敷地子井諸商売諸公事役、同關兵士見入役以下事、被免除畢、向後不可有相違、若違反之族在之者、可被所厳科候條、宜存知之由、所被仰下也、仍下知如件

 元亀三年八月三日

     散位平朝臣 判 (松田秀雄)
     佐兵衛尉神 判 (諏訪晴畏)


 ここ文書から渡辺弥七郎が出家して入道となり、道喜を名乗るようになったのは、、渡辺弥七郎の名前が最後に記録されている元亀2年(1572年)12月4日から、道喜の名前が初めて出てくる元亀3年(1573年)8月3日までの約8ヶ月の間のどこかであったと考えられる。つまり渡辺弥七郎は、中村五郎左衛門と同じ人物であり、最終的には道喜を名乗るようになったと考えるべきだろう。

 疑問が残るのが、渡辺四郎左衛門が渡辺進であるのか、あるいは渡辺進の後のもう一代いる人物であるのかというところである。解りにくいところもあるが、間に一代あるかもしれないという説を採用すると以下のような名前の関係性が見えてくる。

  渡辺進
   ↓
  ※ 四郎左衛門(『家の鏡』には無いが『言継卿記』で言及)
   ↓
  中村五郎左衛門 = 渡辺弥七郎 = 道喜(初代)
   ↓
  長鶴丸 = 渡辺又七 = 道初(二代目)  

初代:川端道喜 肖像画 『家の鏡』より 


 『言継卿記』の記録をみると、初代道喜(渡辺弥七郎)は公家を含む様々な人物と交流していた事がうかがえる。また『川端道喜文書』を見ても、天皇家はもとより、織田信長の命により奉行職を務めていた村井貞勝や、豊臣秀吉の代になると前田玄知からの奉書が残されているので実務的なつながりがあったことも分かる。
 こうした活発な交友関係は、文化人との交流にも広げられている。ではそのことを次項の「 ② 利休との関係について 」から明らかにする事としたい。


② 千利休との関係について


 天皇や武将だけでなく、文化的な分野においても道喜は、様々な人物と交流を広げていたことが分かっており、先に述べた公家の山科言継との交流もその一つの表れであると言えるだろう。川端道喜は商売人でもあるが、連歌会などに参加しており、文化人とのつながりも強かったことをうかがわせる。こうした文化人とのつながりのその中でも、初代の道喜と二代目が、千利休とも交流があった事は最も注目すべきポイントであろう。

千利休(1522年 - 1591年)


 利休には最晩年の天正18(1590)年8月17日から19年閏1月24日にかけての6ヶ月間に百回(正確には96回)に及ぶ茶会記の記録、『利休百会記』を残している。
 『川端道喜 家の鏡』にはこの百会記が天正10年の出来事であると書かれているが、これは明らかな間違いである。正確には利休が切腹する天正19年2月28日の前年、つまり天正18年の11月15日、および12月24日に道喜は利休の茶会に招かれているというのが正しい。
 以下、『利休百会記』にある、2回の茶会で使われた茶器とメニューを挙げておく。

【 天正18年11月15日(霜月十五 夜) 】

        餅屋道喜
        同 又七

 茶室二畳敷
  一、桐の小釜  一、はけ物水差し  一、小棗
  一、薬師堂天目 一、茶杓折ため   一、めんつう
    焼物 鯛 くろめ 汁 みそやき
    菓子 ふのやき めし


【 天正18年12月24日(極月廿四 昼) 】

        松田庄右衛門
        尾池清左衛門
        道喜

 茶室四畳半
  一、四方釜   一、瀬戸水差   一、大棗
  一、木守茶碗  一、折ため    一、備前つぼ
  一、欲于庵墨跡     麩油上々酢 みそ焼汁
    午房けしみそ
    菓子 ふのやき くり
  以上


 上記の記録にあるように、千利休はその死の前まで茶会を開いていたが、そのうちの2回の茶会に道喜は招かれている。
 特に天正18年11月15日では、道喜だけでなく、息子の又七、後の道初(二代目道喜)も招かれているのが興味深い。これは道喜親子が、利休からその文化的な技量を認められていたからと考えるべきだろう。道喜は、利休と同じく武野紹鴎を師としていたと考えられており、ふたりは兄弟弟子という関係にあった可能性も考えられる。ただ利休は紹鴎の茶を受け継いだとは必ずしも言えず、また一方、『川端道喜 家の鏡』では、道喜が利休の弟子であったという異なった記述になっている。よって必ずしも兄弟弟子あるいは師弟関係にあったかどうかは定かではない。
 ただ、そうではあっても道喜と利休との間には、センスやテイストにおいて高いレベルで共有できるような、何らかの共通した感性が存在していたと推測できる。
 特にこの日の茶会は、二畳の茶室で行われている。この空間に男が3名、膝を詰めて相対している様子を想像してみて頂きたい。もともと茶道とはそのようなものではあるが、この日は、感性を研ぎ澄ます緊張感の中にも、兄弟弟子ならではのある種の親密さや、気のおけない関係故の、リラックスした雰囲気があったのではなかろうか。
 その事は茶釜の選択にも表れているように思える。全96回の茶会で使われた茶釜のうち、最も使われたのは、「四方釜」という銘をもつ茶釜で、48回も使われている。続いて「霰釜」という銘の茶釜が11回と続く。道喜親子が招かれた11月15日の茶会では、「桐の小釜」が使われたが、これは道喜親子を茶室に招いたときの1回限りで他の茶会には使われてはいない。
 この茶釜の選択は、ありきたりではないもので道喜をもてなそうという利休の配慮だと考えられる。利休は、道喜のセンスを高く評価していたに違いなく、その日に使われた他の茶器からも、それを読み取ることが可能である。利休が道喜を認めていたことの根拠として、その日に使われなかった「橋立壺」という利休愛用の茶壺についても言及しておかなければならないだろう。


橋立壺はしたてのつぼ


 「橋立壺」は利休百会でも23回と最も良く使われた利休好みの茶壺である。だが道喜親子が参加した11月15日の茶会では、茶壺そのものが用いられず、12月24日の茶会では備前壺が使われており、道喜の前に橋立壺は現れていない。
 利休好みでありながら、橋立壺が道喜の前では使われなかったのには理由があると私は考えている。その理由は、利休は橋立壺を、過去、道喜に貸し出していたからである。もしかすると利休から借り受けていた時に、道喜も橋立壺を床に置き、茶会を主催したのかもしれない。つまり利休は、道喜が見慣れた茶壺を用いるよりは、目新しいもので道喜をもてなそうとしたのではないだろうか。その意図は、道喜親子の茶会にだけ「桐の小釜」が茶釜として用いられたことにも表されているように思われる。こうして、侘(わび)の中にも新鮮さや驚き、期待感を利休は演出しようとしたのではないだろうか。

 『千利休筆消息』という利休直筆の手紙が残されているが、これは初代・川端道喜に宛てて利休が書いたものである。その文面は以下である。

『千利休筆消息』道喜への手紙


【 千利休筆消息 】
 はしたてのつほせん元に御
 わたしあるへく候昨日の
 もち一たんにてわすれかたく
 そんし候かねくらしゆへ御礼
 を折々申たく候さい/\にて候
 まゝたひ/\御礼をわすれ申候
           かしく
  三月十八日     宗易(花押)

 川道喜老へ    宗易
       人々御中


 この手紙の中で利休は、「道喜に貸していた茶壺(はしたてのつほ)を、せん元(人名)に受け取りに遣わしたこと、昨日贈られた餅が忘れがたい味であったことなど」を道喜に書き送っている。ここから、橋立壺は道喜に貸し出されていた間、暫く道喜の手元にあったのだということが明らかになっている。
 この手紙に、利休百会で、利休が道喜に対して橋立壺を使わなかった理由を求めることが出来るのではないだろうか。つまり利休は、まだ道喜にまだ見せていない茶器でもてなそうとしたので、道喜にとっては見慣れた橋立壺は使わなかったのではないか。さらにそれ故にこそ茶釜は桐の小釜のような、あまり用いていないものを揃えた茶会を道喜親子の為に行ったと考えることも出来る。

 橋立壺を利休が道喜に貸与していたというのはかなり意味深い事である。それは利休がいかに道喜を信頼し、茶の湯においても道喜のセンスを認めていたかを示す証拠となっているからである。

 この橋立壺は将軍足利義政の遺愛と伝えられる品で、織田信長の手に渡り、それから利休が所有するようになった名物である。利休は名物や唐物偏重の道具立てを行うこうことはなかったが、この橋立壺はかなり愛用しており、様々な茶会記にもしばしば登場する、利休にとっても思い入れの強い茶壺であった。
 山上宗二も『宗二記』のなかでこの橋立壺について、「名人の一世所持の壺なれば、御茶の事ならびに御壺の形、土、クスリ、いずれも言語を絶し候」と述べ絶賛している。
 橋立壺の存在を知った秀吉はこの壺を所望したというが、利休はこの申し入れを決して受入れなかった。天正19年以降は急速に利休と秀吉の関係性は緊張を帯びたものになっていったが、利休が橋立壺を譲らなかったことが、利休切腹の一要因ともなったのではないかとも考えられているほどである。
 最終的に秀吉の逆鱗に触れた利休は、堺に蟄居を命じられ、その後、京都に呼び戻された後に聚楽屋敷内で切腹を命じられることになり、享年70歳の生涯を閉じたのである。

 利休は2月28日に切腹したが、その死の前の2月5日に、大徳寺・聚光院に宛てて手紙を出している。これは手紙の中に歌が詠まれていることから『横雲の文』と呼ばれ、現在では五島美術館に所蔵されている。以下、手紙の内容である。

横雲よこぐもの文


【 横雲の文 】
 此の壺預け申し候。我々が判にて御座無く候わば、自然取りに参り候とも御渡しなさる間敷候。一日の壺、三つの其の分にて御座候。以上。

 二月五日     利休(花押)

 よこ雲の霞渡れる
  むらさきの 踏み
 とどろかす
  あまのはしたて

 聚光院 様 玉床下


【 訳文 】
 「この壺(橋立の壺)をお預け申します。みずからの判を加えた書状なしには、誰が取りに参ろうとも、お渡しにならないでください。先日お預けした茶壺三つも同様にお願いいたします。以上。

 二月五日     利休(花押)
 横雲の霞渡れる紫の 踏み轟かす天の橋立
 聚光院 様 玉床下


 この手紙からは、死を目前にした利休が、何としてでも秀吉には橋立壺を渡さまいとする不退転の決意のようなものが感じられる。それは橋立壺という名物を手放したくないという物欲や執着のようなものではなく、利休の茶人としての矜持のなせるものであったことは明らかである。橋立壺はその象徴として捉えられるべきであり、利休は死をかけて、茶人としてのその矜持を貫いたと言える。

 さて、そうした謂れのある橋立壺であるが、こうしたバックグランドを考えると、命を賭して迄、利休が守り抜こうとしていた橋立壺が、川端道喜に貸与されていたという事実に、利休と道喜の間にあった信頼関係や、茶への感性におけるリスペクトのようなものを互いに抱いていたと感じざるを得ない。


吉野秀雄と寒食帖かんじきじょう


 ちょっと脱線するが、この話と合わせて触れておきたいのが、吉野秀雄が『やわらかな心』に書いている一文である。

【 やわらかな心 】吉野秀雄
 わたしはかつて東坡の「黄州寒食詩巻」の原本をK家から借り受け、二三日起居をともにしたことがあつたが、この巻に関する限り、東坡本文の書と山谷跋文の書とでは、だんぜん東坡の方が上で、ほぼ問題はない。


 現在は台湾の故宮博物館に所蔵されている「黄州寒食詩巻」(通称「寒食帖」)の原本が、2、3日ではあるが、俳人の吉野秀雄の自宅にあって、それを眺めて過ごしたことを語っている。私も故宮博物館で、東坡の「寒食帖」の原本を見ることが出来たが、それはガラスの展示ケース越しであった。開館してすぐに見に行ったので、ほぼ独占状態でじっくり見ることが出来たのだが、その東洋の宝とも言える「寒食帖」が吉野秀雄の自宅に置かれていたというのは驚きである。
 なぜそのような貴重な書が、吉野秀雄の自宅にあったかと言うと、この当時、「寒食帖」は佐野屋という商家の当主であった菊池惺堂が所有していたからである。菊池惺堂が、関東大震災の時に火事から「寒食帖」を命がけで救った逸話は台湾で有名であるらしい。実際に「寒食帖」には下部が少し焼け焦げているが、これは「寒食帖」が関東大震災の大火をギリギリで生き残った証である。

 さて吉野秀雄は単に俳人であるというだけでなく、書にも非常に通じた人物であった。よって菊池惺堂は、その眼力を見込んで「寒食帖」を吉野秀雄に貸し出したのだろう。
 他にも、小林秀雄が書いた『真贋』の中には、偽の良寛の書をつかまされて、それを偽と分かったとたんに一文字助光の名刀で縦横十文字に切ってバラバラに切り捨てた話が書かれている。実はその鑑定を行ったのが吉野秀雄である。
 良寛の書にも通じていた吉野秀雄の鑑定眼・審美眼を、小林秀雄は深く信頼し認めていたのだろう。そうでなければ良寛の書かもしれない軸を切り捨てることなど、とてもできなかったに違いない。

 このエピソードは、吉野秀雄が如何に「書」を見るということにおいて、並々ならぬ力量を有していたかを我々に理解させるものであるが、それと同様のことが、利休が橋立壺を、道喜に貸し出したこととも表れているのではないかと私は考えている。そもそも物事や、物の価値の分からぬものには、どんなに素晴らしいものを与えても、何の意味もなさないという事を意味する「猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏」ということわざは正に云い得て妙である。利休が命に代えてでも秀吉に渡そうとしなかった橋立壺を、川端道喜には貸与した事は、利休が間違いなく、道喜の審美眼や、物事の価値を見抜く力のある人物であったことを理解し、認めていたことの表われに他ならないのである。

橋立壺はしだてのつぼ(渡し壺)


 現存する橋立壺には、底に利休の花押が墨書きされている。また壺蓋裏の「橋立」の文字は小堀遠州の筆によって書かれている。この橋立壺は、利休と道喜の関係を今に伝えるという点においても重要な壺であると言えるだろう。ただし現存するこの壺は渡し壺と呼ばれるもので、本来の橋立壺と比べると小ぶりなものである。
 渡し壺とは、本来の茶壺に入りきれなった茶葉を入れるための壺である。山上宗二の『宗二記』には、橋立壺は7斤(約4.5Kg)の容量であるとしているが、現存している橋立壺の容量は3,4斤ほどであるので、明らかに橋立壺そのものとは異なる。本壺は最終的には秀吉に召し上げられ、前田利長に伝わったそうであるが、金沢で消失してしまったとされている。


利休の手紙から


 切腹する前に利休が送った手紙が数通残されている。その中でも、細川忠興(三斎)に宛てた手紙に「引木鞘の文」というものがある。これは天正19年閏正月の22日に書かれた手紙である。

【 引木鞘の文 】
 只今、大徳寺より帰宅いたしました。ほとほと疲労困憊し、すぐに横になってしまいました。遅くなりましたが「引木の鞘」を進上します。万事お目にかかり、ご挨拶、お礼を申します。

  閏(壬)二十二日
  羽与様    休
  人々御中


 大徳寺の山門に置かれた利休の木像が秀吉の逆鱗に触れ、この問題に対処する為に、この日、利休は大徳寺を訪れたと考えられる。利休はこうした疲労困憊のなか、「引木の鞘」を細川忠興(羽与)に譲る旨を伝えている。ゆえにこの手紙は「引木鞘の文」と呼ばれている。引木の鞘」とは、高麗茶碗雲鶴狂言袴「挽木鞘」とも書かれる朝鮮茶碗の事である。

 大徳寺の山門の問題がかなり気になっていたのだろう。同日の22日、利休は再び筆をとり、細川忠興に以下の手紙を書いている。

【 念封書裏上書 】
 〆 羽与様 回答
  中々に住れすハ又住てわたらん
   浮世の事ハとてもかくても
御床しく存處二尊礼過當々々扔雨故御普請相延御執著たるへきと奉察候
昨日者大徳寺へ小用御さ候て参候けふハ内にさひしく
もちや道喜なと放申候夜に入候て御入逢の時分伺申ちと放申度候
恐惶かしく
  二十二日    易 (花押)


【 訳文 】
 〆 羽与様 回答
  なかなかに 住まれずばまた住みてわたらん
   浮き世のことはとてもかくても
昨日は大徳寺へ少用があって行ったが、今日は内心さびしく感じ
餅屋道喜と話していた。少し話したい事があり、夜になってから伺います。
敬白
  二十二日    易 (花押)


 「引木鞘の文」のすぐ後に、利休が忠興に宛てた手紙は唄から始まっている。その意味は「浮き世のことは色々あるけど、何とか辻褄を合わせて生きて行こう」というもので、まだ切腹による死を覚悟したものではないが、それでも大徳寺の山門問題に絡んだ切迫感のようなものがそこにはある。一通目では足りなかったのか、同じ日に又、手紙を送り、それだけでも足りず夜にも会いに行くというのである。利休の慌ただしさに、不穏な心境を読み取れるのではないだろうか。
 さてこの手紙で注目すべきは、こうした心境にあった利休が、その日に川端道喜と会って話していることである。そのことからも道喜に対する、利休の信頼度の様なものを感じ取れるのではないか。当然、道喜はこの日、大徳寺の山門問題について利休から聞かされたことであろう。また細川忠興の手紙のなかで道喜について言及していることも注目すべきである。個人的に宛てた手紙に道喜の名前が書かれているくらいである、細川忠興も道喜のことを良く知っていたに違いない。

 この手紙は、「利休百会記」以降、利休の死が近づいている最中でも、道喜とは深い親交があったことを垣間見せてくれる貴重な資料である。


宛先不明の利休の手紙


 日付と宛先が削除された利休の書簡が一通現存しているという。
 いつ誰に宛てて書かれたのかは不明だが、その内容は「橋立壺で今生の限りとして一服差し上げたいのでせめて午の刻、否早朝にお出かけ下さい」というものである。
 この内容から推測すると、この手紙が書かれたのは、大徳寺山門を機に利休が困難な状況に置かれることになった天正19年閏正月22日から、利休が大徳寺に橋立壺を預けその手元から離れた2月4日の間に書かれた手紙である事は間違いないだろう。
 この2週間弱の期間のどこかで、橋立壺の茶会を利休は行ったと思われるが、その茶会の客が道喜であったとしてもおかしくないと私は思う。実際に利休切腹の一カ月前の閏正月22日に道喜は利休と会っており、そこではこの問題に関する話し合いが行われたに違いない。また同22日に忠興に利休が送った手紙から察するに、この問題に関して利休は酷くナーバスになっていたことがうかがえる。しかもこの問題は自分の生死がかかっているだけでなく、秀吉の権力にも抵触する政治的な要素も含んでおり、他言することが憚られるような内容である。おいそれとは誰でも招いて茶を振る舞うというような心境と状況にはとてもなかったことだろう。

 こうしたバックグランドを検討すると、この橋立壺の茶会に招かれた可能性があるのは3人である。最初のふたりは、細川忠興と古田織部である。彼らは、利休が橋立壺を大徳寺に預けてから9日後の2月13日に、蟄居する為に京を離れて堺に下る利休を見送っている。それだけでなく彼らは利休救済のために奔走しており、当然、この問題について利休から相談されていたであろう。ゆえに利休は彼らのために自ら茶杓を削り、細川忠興には「ゆがみ」を渡し、古田織部に「泪」を渡す。こうした彼らのために、利休が最後に橋立壺の茶会を行ったと想像することは難しくない。秀吉に仕える彼らの武将としての立場故に、招待の手紙からは日付と宛先が削除されたと考える事も出来るのではないだろうか。

 そしてもう一人、橋立壺の茶会に招かれた可能性のある人物として、先に述べた道喜の可能性もあげておきたい。なぜなら道喜は利休から他言が出来ないような複雑な問題について閏正月22日に既に語りあったと思われるふしがある。
 また利休が橋立壺を道喜に一時貸していたというのも重要である。手元においてつくづく眺めることができた橋立壺である、道喜は橋立壺に対する思いがあったに違いなく、利休もよき理解者であるが故に橋立壺を道喜に貸与したのであろう。最後の別れに、橋立壺を交じえて一服する相手としては道喜は最も最適者であるように思えるのである。

 川端道喜の家には茶掛け(掛物)になっているふたつの利休の文書が残されていた。ひとつは「今朝...」から始まる手紙、そしてもうひとつが「夜前...」という手紙で一対になっていたそうである。しかし「今朝...」の方は江戸時代に消失してしまい今は残っていないという。そして「夜前...」の方は現在でも川端道喜に残されているが判読不可能とのことである。
 さて橋立壺の茶会の手紙であるが、この手紙の書き出しも「夜前到来...」から始まっていて、道喜に宛てて書かれた手紙を思わせるものである。こうした諸要素も考慮してみると、橋立壺の茶会に道喜が招かれた可能性も捨てきれないように思えるのである。



あさがおの茶会


 藤村庸軒が師の元伯宗旦の茶話を聞き書きしたものを、久須美疏安が編纂した茶書の『茶話指月集』には「朝顔の茶会」のエピソードが収められている。

【 茶話指月集 】
 ある時、利休の屋敷の庭一面に朝顔が咲き、たいそう見事であるとの太閤に申しあげた人があったので、それを見ようと朝の茶会に出向いたところ、朝顔の庭を見回したがどこにもない。不機嫌になったが招じられるまま茶室に入ると、そこに、たった一輪の色鮮やかな朝顔が床に活けてあった。
 太閤をはじめとした参加者は、眼が覚めるような心地がし、利休はたいそうな褒美に預かった。これを世にいう利休のあさがおの茶の湯である。


 このように利休は秀吉を、無数に咲く朝顔にはみられない、ただ一輪の美しさでもてなしている。これと同じ茶会を、利休は道喜のためにも行ったことが、徳川美術館に残された利休の手紙から分かる。それが以下の手紙である。

千利休書状 川端道喜宛


(端裏切封上書)
「道喜老貴報    易」

芳墨拝受、忝候かたじけなく。あさがほの
一服に付而、面白様おもしろきようにに被仰候由
本望存候。先以、朝霧おひて
咲ものとは、定て彼法師の
御賛歌にて候か。我等も大慶存候。
猶、面上に筆をのこし申候。
       恐惶敬白

即刻     易(花押)


 道喜は、利休の朝顔の茶事について、手紙で感想をしたためたのだろう。その初代道喜の手紙に対し、利休は即刻その返事を書いている。これも道喜は、利休と同じセンスを有しており、それを共有し合う仲であったことを裏付けるものとなっている。
 また朝顔の茶会について、利休はつぎのような手紙を道喜に書き送っている。

あさがほ明朝御めにかけ候べく候。
然は、げんじよみの法師も御
同道あるべく候。立阿みへは
従此方人を可被遣候。恐々
          かしく。

   八□十三日
(封)道喜老人机下    易


 こちらは利休が道喜に宛てた、朝顔の茶会への招待状である。ここで登場する源氏読みの法師もお誘いくださいとあるが、この法師は、道喜と親しい関係にあり、朝顔の茶会について歌を詠んだのであろう。その歌を、道喜は手紙にしたためて利休に送ったものと思われ、その返事で利休は「彼法師」として述べているが、この法師が、二通目では源氏読みの法師として言及されている。そしてこの法師も、明朝の朝顔の茶会に誘うようにと道喜に伝えているのである。
 もうひとり立阿弥りゅうあみという人物も登場しているが、これは川端道喜十五代目の道夫氏が指摘するように、堺の「伊勢屋立阿弥」のことであると思われ、彼は利休とも親しい関係にあるので、利休が自分で誘うと伝えてある。

 ここで注目しておきたいのは、利休が道喜を「朝顔の茶会」への招待したことの意味である。「朝顔の茶会」は、他の朝顔の花を落として、床に一凛だけ残したところが利休の凄さのように言われているが(秀吉もそれをもって褒美を与えているが...)果たして利休の本当の真意がそこにあったかは検討する必要があるだろう。『茶話指月集』では、「朝顔の茶会」につていの言及した後に、「附」として次のような記述がある。

【 茶話指月集 】
「附」
 かかるように咲きたる花を皆はらひ捨て、一輪床にいけて人をおもしろがらすのは、休(利休)が本意にあらず、いかにという説あれども、朝かほを興にて茶湯つかうまつれと仰せられるるうえは、一輪床にいけたるが休の物すきのすぐれたる所なり。その後、遠州公の比より露地に花をうえられず、是も茶湯の花を一段賞翫の義なり。


 ここでは、利休が朝顔の花をすべて落として、床に一凛だけ飾ったのは、朝顔で茶の湯を準備するようにと命じられたからやったまでで、これは利休の本意ではないと述べている。また利休の孫弟子(古田織部の弟子)だった小堀遠州は、露地に花の咲く木を避け植えることがなかったと『茶窓閑話』にはある。この露地とは路地、路次あるいは廬地とも記されており、茶庭とも呼ばれる。茶室に付随する庭園の通称であり、茶会に招かれた客は、その通り庭を抜けて茶室に入る事になる。まずはその露地についての考え方を以下に記しておきたい。

【 茶窓閑話 】
 紹鴎が利休へ路次の事をしへるとて
 ‟心とめて 見ればこそあれ 秋の野の 生にまじる 花のいろいろ”
 此歌にて得心せよとありしとかや。しかればそのかみは路次にも花咲く木草をきらはざりしが。小堀遠江守(政一)其座敷の花を賞鑑させんとて。路次に花ある木をうえられざりしより。今はなべてうゑぬ事となりし。


 ここで小堀遠州は、座敷に飾られた花を観賞するため露地には花の咲く木は植えなかったとある。小堀遠州は、席中の花と庭園の花が重複することは興を削ぐとして禁止し、以後の茶道界の大部分でそれが慣習となったようであるが、そのもっと深いその本質部分はここで引用されている歌から理解する必要があるように私には思える。
 この歌は野の花について述べているが、それは利休が残したという「利休七則しちそく」に含まれる「花は野にあるように」という言葉と明らかに低通している。つまり茶の湯においては、花とは茶の湯を引きたてるものであり、花そのものが目立つ存在であるべきではないこと。しかしながら野の花のように控えめでありながらも、剰余を取り除いた少ない要素だけで野原を想起させるものでなければならないことにこそ、その本質が存在するのではないだろうか。

 つまり、露地に花が咲いていては、本来は「秋の野の 生にまじる 花のいろいろ」をイマジネーションさせなければならないのに、露地で花を見せてしまう事で、招待客の、どこまでも拡張できるはずの野の草花や原野に対するイマジネーションを限定的で偏りのあるものとしてしまい、広がりを見せない事を嫌ってのことであると理解するべきではないかと思う。

 こうした背景を考えると、庭に咲く多くの朝顔の花を落としての「朝顔の茶会」は利休の目指す本質から離れている様に感じられてしまうのである。つまり床に飾られる花は、その一輪の朝顔(細部)を通して満開に咲き誇る朝顔の花々(本質)を起想させなければならないのに、その本質の方を一掃してしまったという事になるだろう。

 よって利休の「朝顔の茶会」の本質は、それを見事だとした秀吉の解釈とは全く異なったところにあったに違いないと私は考える。そこには利休の権力者の秀吉に対する、俗物的な見方に対する批判や、抵抗感の表れではないかとも思える。

 ここから先は私の個人的な推測にしかならないが、一応の見解を述べておきたい。まず朝顔とは朝に咲きすぐに萎れてしまう儚い花である。朝の茶会ということであれば、多くの朝顔は、朝日の登る前の、まだ咲ききらぬうちに全て摘花されたのであろう。その内のひとつが床に飾られたとしても、それもまた昼には儚く萎れてしまう存在である。
 戦国の世には、多くの者が戦によって命を落としてきたが、乱世の戦いを生き抜き、太閤にまでのし上がってきた秀吉は、多くの死者の屍のうえにその地位を築いてきたという意味においては、正に、選ばれて床に飾られた一輪の朝顔のようであったことだろう。
 つまり摘花された多くの朝顔のような人々の犠牲の上に、秀吉の権力と繁栄は成り立っていたのである。ただしそれは一時的なものでしかなく、朝顔が日が昇るとすぐに萎れてしまうかのように、繁栄や権力というものは永続的なものではなく、儚く、一時的なものでしかないのである。
 もしかすると、このような隠喩を利休は「朝顔の茶会」には込めたのではないかと思われるふしがある。なぜならば「朝顔の茶会」は、利休が七則として定めた「花は野にあるように」というコンセプトから逸脱したものだからである。細部あるいは象徴するもの(床の朝顔)を貴んで、その本質(庭の多くの朝顔)を駄目にするのは、本質のはき違えだからである。

 「朝顔の茶会」とは何だったのか?
 つまりこれは利休なりの秀吉に対する批判、あるいは文化における戦いにおける秀吉に対する当てつけのようなものであったのではないかと私は考えている。そして俗物である秀吉は、利休の予想した通りに「朝顔の茶会」の本質を見誤り、それを見事として褒美を与えたのである。この婉曲的な表現は、一流の文化人だけが分かりうる究極的な権力者批判であったに違いない。利休がこうした婉曲的な表現をする人物であったことは「千鳥の香炉」にまつわるエピソードなどからも容易に推測できる事である。(千鳥の香炉に関するエピソードは『茶話指月集』に出典があり、興味のある方は参照されると良いだろう)

 こうしたバックグランドを検討した上で、後日、道喜を招いて利休が行った「朝顔の茶会」には、秀吉のそれとは全く異なった意味合いがあったと思われる。参加者は、利休と道喜、それに利休と親しい立阿弥、さらに道喜と親しいと考えられる源氏読みの法師である。

http://www.hikariyugao.com/musubohoru.html

『茶窓閑話』 「」とあり、遠州が露地に花の咲く木を嫌い、これは以後露地に花の咲く木を避けるようになったとある。



ふの焼


 『利休百会記』の全96回中69回(菓子に「ふ」としかない記述を含めると72回)の茶会で「ふの焼」という菓子を利休は出している。茶菓子のなかでは最多であるので、「ふの焼」は正に利休好みであった事が分かる。この「ふの焼」は、水で溶いた小麦粉を薄く焼き、味噌を塗ってクレープのように巻いたお菓子であるとされている。また味噌の替わりに山椒味噌か砕いた胡桃を巻いたものもある。

ふの焼


 川端道喜が参加した2回の茶会、天正18年11月15日および天正18年12月24日の両方の茶会で「ふの焼」は出されている。御菓子を商売にする道喜に対して2回も出されている事から、利休はかなり「ふの焼」に自信があり、気に入っていたことが分かる。あるいは利休は「ふの焼」をつくって茶会で提供するにあたり、御菓子屋であり、また茶会に招くような関係にあった川端道喜に何らかのアドバイスを求めたとも考えられなくもない。
 ただ先に述べた橋立壺を道喜のための茶会で用いなかったことを考えると、天正18年11月15日および天正18年12月24日の両方の茶会で「ふの焼」が出たという事は、「ふの焼」は利休のオリジナルであったと考える方が理にかなっているように思われる。


③ 川端道喜と御所の鏡餅


 川端道喜には、正月から師走までの宮中行事の御用品を記録した、『御定式御用品雛形』という絵巻物が残されている。これは明治天皇が東京に遷都した際、他の菓子店のように東京に移っていかなかった十二代目の川端道喜が、東京御所においても、過去と同様に正月の備え物を準備する事ができるよう大膳所に伝えるためのものであった。
 塩瀬や、黒川(虎屋)などの御菓子店が江戸に拠点を移す中、なぜ川端道喜は東京に移らなかったのかについて、15代目の川端道喜・道夫は、「天皇は一時的に東京に移ったが、また京都に戻ってくると考えたからだろう」としている。いずれにしても、天皇の東遷を機に、文書として川端道喜の正月鏡餅の記録は後世に残されたのは間違いの無い事のようである。

 さて「御定式御用品雛形」には、道喜が毎年末に御所にお納めした正式な鏡餅の図が含まれており、「正月御居御鏡餅」として以下のように描写されている。

『御定式御用品雛形』:鏡餅


 御所に納められた鏡餅は、白木の三宝に据えられている。三宝には柚子、橙、みかん、かち栗、ころ柿などの果実が配置され、うらじろやゆずり葉で装飾される。その三宝の上に紅白の大きな鏡餅は乗せられることになる。さらにその上に円形の白い餅が12枚、それからその上に紅色の菱形の12枚の餅が重ねられる。
 餅の上には「ほんだわら」という海藻、昆布、串柿2本を重ねて置き、頂点には砂金餅・伊勢海老を「くれない」という水引で括ったものが重ねられている。
 これが御所での正式な鏡餅で、この鏡餅を川端道喜は、明治天皇が東京に遷都するまで毎年これを準備してきたのである。

 だがこの鏡餅は、川端道喜が御菓子屋となった室町時代から供えられていたという訳ではなく、江戸時代になってから定着したスタイルである。
 平安時代から、宮中では正月に「歯固めの儀」という行事が行われてきた。この儀式は、長寿を願って天皇に固いものを謙譲するというもので、その儀式が時代の変遷と共に鏡餅に転化されていったという経緯がある。

 久安2年(1146年)頃に作成したと考えられている『類聚雑要抄』には、宮中行事や調度の詳細が記録されているが、その中に「歯固めの儀」についての言及がある。この記録を見ると、確かに平安時代から正月には硬いものが供されていたことが確認できるだろう。元来、こうした儀礼的な食は、箸を手にして前にするだけで食べたというように見立てられ、実際に食する料理ではなかったのだが、この「歯固めの儀」で供されていた鏡餅を含む、様々な食品は、時代が下がると共に変化を遂げて、食品として宮中では振る舞われるようになってくる。

 15代目道喜の書いた『和菓子の京都』には、正月に、はなびら餅や菱餅、ゴボウ、味噌などが大量にそれぞれ別の桶に入れて、禁中(=御所)に納められていたと述べて、これらが禁中にお勤めの方々ひとりひとりに、花びら餅に菱餅、ゴボウ、味噌をのせて配られたこと、さらにそれらはふたつに折ってその場で食べたり持ち帰ったとしている。ゴボウは元々は鮎の塩漬けだったらしく、江戸時代になって鮎の代わりに午房が使われるようになった。
 こうして振る舞われたものを、公卿は「宮中雑煮」と呼んで慣わしていたそうである。これは平安時代の新年行事「歯固めの儀式」を簡略化したもので、江戸時代の初めごろから、宮中のおせち料理の一つとして定着する事になったようである。


菱葩餅ひしはなびらもち


 菱葩餅は、通称で花びら餅とも呼ばれる、ごぼうと白味噌餡とピンク色の餅を、餅もしくは求肥で包んだ和菓子である。この和菓子の起源が、先に述べた鏡餅や、宮中で正月に配られた「宮中雑煮」なのである。
 菱葩餅はかつて正月の「歯固めの儀」で供されていたものを簡略化したものであり、菱葩餅を構成する各要素には、その要素の名残を見ることができる。
 『高橋大隅兩家祕傳供御式目』という絵巻物が江戸時代中期に作成されている。ここには『類聚雑要抄』,『山槐記』等に記録されている、宮中行事の際に天皇に差し上げられていた御膳を復元したものが描かれている。

『高橋大隅兩家祕傳供御式目』 御歯固


 ここでは、「歯固めの儀」で供されていたものとして、蕪や大根、魚や雉肉、塩鮎などが描かれている。もともとこうしたものが正月には宮中で準備され、並べられていたのである。この中には鏡餅の膳も含まれており、その膳だけを以下に拡大表示しておく。

『高橋大隅兩家祕傳供御式目』 鏡餅


 説明書きを見ると、鏡餅の上にはユズリ葉(杠葉)が2枚敷かれ、その上には大根1本と二匹(一双)の鮎、さらには橘三成(江戸時代になると一成)を載せるとある。「歯固めの儀」では鮎が重要な位置を占めているが、こうした鮎と餅の組み合わせにも、その傾向を見ることが出来るのである。図によっては鮎が一匹しか描かれていないものがあるが、『類聚雑要抄』には一双とあるので二匹が描かれていないものは正しくはない。鮎は「年魚」とも言い、一年でその生涯を終える魚で、年ごとの再生や、あるいは占いと関係する魚であることから、正月は生のものが手に入らないが、押鮎(塩漬け鮎)を準備しておき、それが鏡餅に用いられていたようである。後年になると、この押鮎の見立てとしてゴボウが入れられるようになったのである。

 「若あゆ」と呼ばれる和菓子が全国で販売されているが、これは楕円形に焼き上げたカステラ生地で求肥、若しくは小豆餡をつつみ、半月形に整形し、焼印で目とひれの印をつけた菓子のことを言う。興味深い事にこの菓子は鮎のカタチに作られる。
 よく目にする菓子なのであまり意識しなかったが、ふとよく考えてみると菓子なのに魚のカタチとは何だか違和感を感じないだろうか。原型は租庸調として布を納めていたという故事にあやかり作られたそうであり、求肥を包んで成形した調布(ちょうふ)と呼ばれる菓子のようである。これがいつ頃か鮎に似せて作られるようになったようだが、なぜそのようなカタチになったのかについては詳しくは分かっていないようである。

菓子:若あゆ


 だが「歯固めの儀」で供されていた鏡餅や、それが菱葩餅へと変化していった過程を考えると、こうした影響が、「若あゆ」という菓子のカタチに何らかの影響を与えたのではないかと思わざるを得ない。もともと鏡餅には鮎が添えられていたし、その後の菱葩餅もゴボウに代わる前には鮎の塩漬けが挟まれていた。このような経緯が「若あゆ」のカタチに影響しているのではないだろうか。この変遷については、いずれ機会があればその理由について調査を行い公開してみたいと思う。


川端道喜の菱葩餅ひしはなびらもち


 川端道喜に伝わる文書で、先にも述べた『御定式御用品雛形』には鏡餅に続いて、正月二日に準備される「御買物始」という図絵が描かれている。この図では、三宝の上に12枚の、紅色の餅と丸い白餅を重ねたものが並べられ、各々その上にカチ栗、榧の実、飴、押し味噌、二匹の鮎といったものを様々並べて載せて調進し、鏡餅とともに宮中で飾られていたということである。
 ここでも鮎を二匹を餅の上に載せているので、平安時代から続く鏡餅のスタイルが保持されている。さらに鏡餅の構成要素であった積み上げられていた各12枚の紅菱餅と白丸餅は、二日の「御買物始」では一枚づつ紅白対になって並べられている。これは正月一日に飾られた鏡餅が、歯固として食することが出来るように解体された状態になったものであるように思える。

『御定式御用品雛形』:御買物始


 先にも述べたように、これが「宮中雑煮」として宮中で配られたとも考えられる。丸餅と紅菱餅を味噌を塗り、塩鮎を挟んで折りたたんだものが渡されたのであろう。こうした「御買物始」の餅が、菱葩餅の原型になったようである。現在では鮎の代わりにゴボウになっているが、その源流には宮中での「鏡餅」あるいは「歯固」で出されていたものであることが理解できる。


 菱葩餅は、餅を二つ折りにして、押鮎(塩漬け鮎)を挟んで出されていたという起源も、どこか菓子の「若あゆ」の起源とも繋がっているように感じられる。また餅を二つ折りにした形も「若あゆ」と類似しているように感じる。正月から始まる「菱葩餅」、そして年のなかばの6月頃から出回り始める「若あゆ」は、そのお菓子のシースンも表裏の関係にあり、相互のつながりを感じさせる菓子となっている。


川端道喜の御菱葩

 現在の川端道喜の御菱葩は、白い丸餅の葩餅と、紅い菱形の餅の菱餅を重ねていたことにちなみ、外側の白い餅生地の中に、紅い菱形の餅を隠して淡くぼかしてある。「宮中雑煮」と言われていた餅が、現在のようなスタイルの菱葩餅になったのは、12代目道喜の正興が試行錯誤の上に創り出してからであると言われている。

 この御菱葩の誕生は、茶道の裏千家と深い関りがある。明治維新の頃、裏千家の11代目・千宗室(玄々斎)(1810 - 1877)は、初代の利休が正親町天皇に献茶した実績を踏まえ、この献茶行事が自分の時代においても再興されることを願っていた。やがてそれが認められ、実現する事になり、実際に慶應2年(1866年)の正月に献茶を行うことが出来たのである。千宗室はこの喜びを流儀一門で分かち合う為に、御所から持ち帰った恩賜の「御菱葩」(川端道喜が毎年まかなっていた餅)を砕いて寿饅頭に混ぜ、初釜用の菓子として祝っている。
 だがその翌年、天皇は東遷して東京に拠点を移す事になり、通例行事としての献茶は早くも潰えてしまう。それでも11代目・千宗室は、12代目・川端道喜(正興)に宮中献茶を記念して「御菱葩」の創作を依頼したのである。こうして創り出されたのが「御菱葩」であり、それが一般的に広くつくられ知られるようになったのが「はなびら餅」である。

 現在でも、裏千家の初釜で御菱葩は供されていて、川端道喜は一月の間は御葩餅ばかりをつくるため、他の菓子の注文は受けられない。御菱葩は裏千家のために作られている御菓子であるけれども、一般の人でも12月に御菱葩をはばかり、「こころみの餅」という名称になったものを分けて頂くことが出来るようになっている。



川端道喜の系譜


 『川端道喜 家の鏡』には、代々の川端道喜の当主の記録も収められている。これをもとに、代々の川端道喜の系譜も記す。

【 歴代の川端道喜 】

  創業   渡辺進
       :
      四郎左衛門
       :
  1代目  道喜(   - 1592)
       ↓
  2代目  道初(   - 1608)
       ↓
  3代目  宗柳(   - 1628)
       ↓
  4代目  道怡(   - 1686)
       ↓
  5代目  常悦(1646 - 1690)
       ↓
  6代目  温勝(1654 - 1718)
       ↓
  7代目  義知(   - 1717)
       ↓
  8代目  有蕃(1711 - 1772)
       ↓
  9代目  愼政(1751 - 1816)
       ↓
  10代目  正珍(1781 - 1836)
       ↓
  11代目  正秀(1812 - 1850)
       ↓
  12代目  正興(1852 - 1886)
       ↓
  13代目  正路(   -   )
       ↓
  14代目  正房(1908 -   )
       ↓
  15代目  道夫(1930 - 1990)
       ↓
  16代目  伸政(1955 - 2000)代行:知嘉子
       ↓
  17代目  安里人(1988 -   )   






参考文献


『川端道喜 家の鏡』  皆川淇園 編纂

『利休百日記』  〇

『天下統一期年譜 』  〇