イクテュオケンタウロス
幻想生物
イクテュオケンタウロス(英:Ichthyokentauros ギリシャ語:Ἰχθυοκένταυρος)は、ヘレニズム、グレコ・ロマンの彫刻に多く表現されている実在しない空想上の幻想生物である。
フランス文学者の澁澤龍彦は『黄金時代』のなかでイクテュオケンタウロスについて以下のように述べている。
【 黄金時代 】
16世紀スイスの高名な動物学者、コンラッド・ゲスナーの本に出てくるケンタウロスは、イクテュオケンタウロスと呼ばれ、下半身が魚で、上半身は角のある狼のような顔をした、何とも奇怪な生き物である。
澁澤龍彦の言及している、コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner, 1516年3月26日 – 1565年12月13日)は、スイスの博物学者、書誌学者。医学、神学をはじめとするあらゆる知識、古典語を含めた多言語に通じ、業績をあげた碩学者である。著書『動物誌』全5巻 (1551-1558) は、近代動物学の先駆けとされている。
このコンラート・ゲスナーの『動物誌』の中にイクテュオケンタウロスが図版入りで説明されている。(下図)
イクテュオケンタウロス:Ichthyokentauros
また澁澤龍彦は『幻想博物誌』のなかで以下のようにも説明している。
【 幻想博物誌 】
オノケンタウロスは半人半驢馬、レオントケンタウロスは半人半獅子、ドラコケンタウロスは半人半竜、イクテュオケンタウロスは半人半魚であるから、ようするにケンタウロスとは二つの部分から成る動物、合の子の別名であると解釈してよいかもしれない。とくに半人半馬を限定するために、ヒッポケンタウロスと称することさえある。
このように説明されているのでイクテュオケンタウロスは、いわゆるケンタウロスに属する種類であり、その中でも半身が魚になっているものであると説明している。
ボルヘス(Jorge Luis Borges)も『幻獣辞典』“Manual de zoología fantástica” の中でイクテュオケンタウロス項を設けて説明している。イクテュオケンタウロスについては根拠となるべき古典時代の文書は現存しないが、ギリシャ~ローマ時代の彫刻においてそのイメージが見られると述べている。またその形状が下半身はイルカの尾であり、馬あるいはライオンの足であるとある。
イクテュオケンタウロスのイメージはその後も18世紀に至るまでヨーロッパの陶器や金属製品の表面を彩っており、以下のような装飾としてその姿をとどめている。
装飾のモチーフ
ベルリンのバレスブリッジの欄干
ゲスナーについて
コンラート・ゲスナーは十六世紀の大博物学者である。チューリッヒの貧しい毛皮商人の家に生まれた彼は、医師として活躍するかたわら古典語の研究を行った。また旅を趣味としており、地中海沿岸部のアドリア海沿岸やアルプス地方の動植物を精力的に標本採集して歩いている。こうした各地に積極的に出向き、それを採取するという行動の成果として『植物学大全』2巻、『動物誌』5巻の出版である。こうした標本採集によってゲスナーは愛山家として有名になった人物である。
コンラート・ゲスナー:Conrad Gesner
1516年3月26日 – 1565年12月13日
この項でも引用してある『動物誌』 ‟Historiae animalium” は、フォリオ判で1551-1558年にチューリッヒで刊行された書籍である。全5巻で約4,500ページもあり、動物名がアルファベット順に掲載されている。
この時代はまだ未知の動物も多く、その存在が完全には否定されていなかったため、イクテュオケンタウロスを始めとして良く分からない動物も多く掲載されることになった。しかし生物学的にそうした動物の存在が否定されるようになった現代においては、むしろこうした幻想動物への憧憬が、澁澤龍彦やボルヘスのような碩学者の興味を強く引き付けるようになっている。
ヒドラ:Hydrā
上記の7つの頭に王冠を頂く2本足のドラゴン(ヒドラ:Hydrā)は、1530年にトルコからヴェネツィアに連れてこられ、フランソワ1世に献上されたと記録されたとある。また希少性のためにこの生物には2000ドゥカットの価値があると考えられている。 (Chronic. Chronicor. Politic. lib. 2. p. 349.)
Bishopfish
『動物誌』には「ビショップフィッシュ」または「シーモンク」と呼ばれる魚を掲載している。体は人間と同じサイズ。形状は魚のようだが、尾びれにあたる部分が人間の足のようで二足歩行も可能である。胸びれは発達して人間の手のようになっており、カギヅメのような指を持っている。頭部は司教の冠のように円すい状であり、体表はうろこで覆われている
この魚はドイツ〜ポーランド付近の岸に打ち上げられ王に献上された。その際にビショップフィッシュが「逃がしてほしい」とジェスチャーで伝えた、海に返してもらった時にカギヅメで十字を切った、食べ物を与えようとしたが断って死んだ等のエピソードが残されている。
こうした奇異な動物までもゲスナーは収録しており、現代では博物学者だけだなく、文学者や思想家を含む様々な分野の人々の興味を掻き立てている。澁澤龍彦は『プリニウスと怪物たち』のなかでこうした幻想動物が収録された背景について以下のように言及している。
【プリニウスと怪物たち】
幻想的な動物誌が、最も完全かつ組織的な形で完成されたのは、かように十六世紀の中葉、スイスにおいてであった。バーゼルとチューリッヒで、相呼応するかのように、学者たちが木版画入りの書物を次々に出版した。ベルギーのアントワープでは、このころ幻想的な画家たちの関心は、もっぱら中世的な「誘惑」図や「地獄」図に向けられていたのに、スイスでは、画家たちの幻想が近代の実験的知識の体系に組み込まれていたのである。スイスでは奇妙な方向に外れて行ったらしい。
コンラート・ゲスナーの本が出版される一年前の1557年には、コンラドゥス・リュコステネス(Conradus Lycosthenes)が、奇書として取り上げられることの多い『Prodigiorum Ac Ostentorum Chronicon』をバーゼルで出版するなど、まさに澁澤龍彦が指摘するように、幻想博物学ともいえるものが、スイスにおいては動物学者たちによって大真面目に論じられていた時代だったのである。
南方熊楠とゲスナー
南方熊楠は日本の粘菌学者であるが、それだけでなく枠に捉われないあらゆる学問に通じた碩学の人物である。アメリカに滞在中に南方熊楠はゲスナーの著書に出会う事になるが、それが彼に大きな影響を与えたことが日記から解る。南方熊楠の1889年に書かれた日記には以下のように書かれている。
十月甘一日(月)晴夜感有り、コンラード・ゲスネルの伝を読む。吾れ欲くは日本のゲスネルとならん。比夜寒甚し。夜五時過に至り駄すつもりの所駄ず、エンサイクロペチア・ブリタンニカを読む
ゲスネルとあるが、これはゲスナーの事である。日本のゲスナーになるという決意がこの日記には綴られている。もともと南方熊楠は、日本の百科事典である『和漢三才図会』を全て読破し12歳までにすべて模写していたとされる。こうした膨大な博物学的な教養を持つ南方熊楠が、『植物学大全』2巻、『動物誌』5巻のような西洋社会の視点から書かれた生物に関する膨大な情報・挿絵に感動したのは当然のことだろう。
1891年 アメリカ時代の南方熊楠
それだけでなく南方熊楠は、コンラート・ゲスナーの伝記に特に大きな感銘を受けている。「乞食ごとき態で諸国を走り廻り、牧童の話、漁婦の言すら蔑まずに記し留めて実否を試した」と評価している。これは南方熊楠の人生の後半において、アカデミズムに染まらずに田辺に棲み自身の研究に没頭したその姿と重なるところがある。
その後、南方熊楠は1892年からロンドンに滞在し8年間過ごすことになる。5年半を大英博物館の嘱託をしながら膨大な書物に没頭し、「ロンドン抜書」と呼ばれるノートを作成する。この当時の日記にも以下のようなゲスナーに関する言及がある。
大節倹のこと。 日夜一刻も勇気なくては成ぬものなり。 ゲスネノレの如くなるべし。 大事を思立しもの他にかまふ勿れ。 厳禁喫畑。 往時不追来持不説 爵は寸陰を惜む。 学問と決死すベし。 晩学如夜灯尚勝無之
困窮のなかで学問に没頭する決意を、「学問との決死すべし」と述べているように、南方熊楠はゲスナーを模範としていたと考えられる。
他にも南方熊楠は日記の中で、アリストテレス、プリニウス、ライプニッツ、ゲスナー、リンネ、ダーウィン、スベンセル、新井白石、滝沢馬琴の9人を挙げて自分の学問の模範としたが、この内にもゲスナーが入っていることからも南方熊楠が受けた影響の大きさを理解できるのである。
現代人の視点からは、ゲスナーの示した幾つかの生物は奇異に映るが、現代の動植物学が確立してゆく過程においてゲスナーの果たした役割は非常に大きかったのである。
参考文献
『黄金時代』 澁澤龍彦
『幻想博物誌』 澁澤龍彦
『プリニウスと怪物たち』 澁澤龍彦
『幻獣辞典“Manual de zoología fantástica” 』 ボルヘス(Jorge Luis Borges)
『動物誌』 コンラート・ゲスナー
『植物学大全』 コンラート・ゲスナー
『南方熊楠日記』 八坂書房