八百比丘尼
『笈埃随筆 』にある記述
八百比丘尼とは、「人魚の肉」を食べたために、八百歳まで生存した尼の事である。まずは『美味求真』でも取り上げられている、百井塘雨が記した『笈埃随筆』の八百比丘尼についての引用を以下に掲載しておきたい。
【 笈埃随筆 】 百井塘雨
<前半>
万葉集に坂上大嬢贈家持云々、人者雖云、若狭道乃後瀬乃山乃、後毛将会君。枕草子に、山は三笠山後瀬山小倉山、是特其名を得て云々。此山の麓に八百比丘尼の洞有。空印寺といふ寺に又社有り。八百比丘尼の尊像は常に戸帳をひらく。花の帽子を着し手に玉と蓮華やうの物を持たる座像なり。又社家に重宝有り。比丘尼所持の鏡、正宗作の鉾太刀、駒角、天狗爪あり。比丘尼の父は秦道満といひし人のよし縁起に見へたり。初は千代姫と云し。今は八百姫明神と崇む也。越後柏崎町の十字街に大石仏有り。半は土に埋る。大同二年八百比丘尼建之と彫刻して今に文字鮮明なり。隠岐のすさびに云、岩井津といふ所に七抱の大杉あり。古へ若狭国より人魚を食したるといふ尼来りて植て八百歳を経て又来りて見んといふて去と云々。故に八百比丘尼の杉といふ。
<後半>
この事古老の語りしは此国今浜の洲崎村にいづくともなく漁者にひとしき人来り住り。人をして招きあるじ儲す。食を調る所を見ければ人の頭したる魚をさく。怪みて一座の友に囁き合ふさまして帰る。一人その魚の物したるを袖にして帰り棚の端に置て忘れけり。其事常のつとならんと取て食しけり。二三日経て夫間にしかじかの事いふに驚き怪みけり。妻いふ、初め食する時味ひ甘露のごとくなりしが食終りて身体とろけ死して夢のごとし。久しくして覚て気骨健かに目は遠きに委しく耳に密に聞、胸中明鏡のごとしと云。顔色殊に麗し。其後世散じて、夫を始め類族皆悉く生死を免かれずして七世の孫も又老たり。かの妻ひとり海仙となり。心の欲する処に随ひ山水に遊行し若狭の小浜に至りしとぞ。
『笈埃随筆』は
『笈埃随筆』の前半の部分は、八百比丘尼が祀られているという福井県の小浜にある「空印寺」の縁起について述べている。この部分は本文でも後で言及する。
『笈埃随筆』引用の後半部分は、八百比丘尼がどのようにして人魚を食べて800歳まで生きるようになったかの由来が説明されている。まずは後半の内容を以下、現代文で説明しておく。
【 笈埃随筆 】<後半>現代訳
昔の隠岐の今浜にある洲村にどこからか漁師らしい者が来て住み着いたが、ある日、里の者たちを招き調理をしてもてなしを行った。その時、人の頭のついた魚が料理されているのを見た一座の者たちは怪しんで、密かに申し合わせて皆帰ってしまった。中に一人の者はその魚を料理したものを袖に入れて持ち帰ったが、それを妻がどのようなものかを知らず食べてしまったのである。数日後、その事を知った夫は驚いて聞いたところ、妻が語るには、食べた時に味は甘露のように感じたが、食後に身体がとろけて夢のようであった。時間が経って醒めたところ、疲れが取れ、眼は良くなり遠くまで見えるようになり、耳はささやかな音が聞き取れるようになり、精神は澄み渡るようになった。その顔色も麗しさが加わった。その後、夫や親族ものたちが皆死んでこの世からいなくなり、7代目の孫の世代になっても、その妻は老化することなく、ついには海仙となって思うままに遊び、若州の小浜に移り住んだ。
このように「人の頭のついた魚」、つまり人魚を食べた女性が老化することなく800歳まで生きたと記してある。この話について、小野地 健の論文『八百比丘尼伝承の死生観』には以下のような註釈が述べられている。
【 八百比丘尼伝承の死生観 】小野地健
ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。
興味深いことに、人魚を食べて長寿を得たと言う話は、若狭や能登を中心に日本各地に広く見られる伝承となっており類型化されている。この事に関しては、柳田國男・折口信夫らと同時代に活躍した、民俗学者の中山太郎(後には柳田國男・折口信夫らとは断絶してしまうが...)が『日本巫女史』という著書の中の第二篇の第四章、第三節で「漂泊巫女の代表的人物 八百比丘尼」というタイトルのもとに取り上げている。ここで中山太郎は八百比丘尼について述べるとともに、それにまつわる異説も取りあげて説明を行っているのは興味深い。
『日本巫女史』に見る八百比丘尼
中山太郎は、八百比丘尼に関する記録の初出を、林羅山の『本朝神社考』巻六にある「
【 本朝神社考 】都良香の条:原文
余先考嘗語曰:傳聞,若狹國有號白比丘尼者。其父一旦入山遇異人。與倶到一處,殆一天地,而別世界也。其人與一物曰:是人魚也。食之延年不老。父携歸家。其女子, 迎歡而取衣帶,因得人魚于袖裏,乃食之。(蓋肉芝之類歟。)女子壽四百餘歳。所謂白比丘尼是也。余幼齡嘗聞此事而不忘。
【 本朝神社考 】訳文 - 引用:『日本巫女史』より
余が先考嘗て語りて曰く、伝へ聞く、若狭の国に白比丘尼と号するものあり、其父一旦山に入りて異人に遇ふ、与に倶に一処に到る殆ど一天地にして、別世界なり。其の人一物を与えて曰く、是れ人魚なり、之を食するときは年を延で老いずと、父携へて家に帰る、その女子、迎へ歓んで衣帯を取る、因りて人魚を袖に得て乃ち之を食ふ{蓋し肉芝/の類か}女子寿四百余歳、所謂る白比丘尼是なり、余幼齢にして此事を聞きて忘れず云々。
引用元の『本朝神社考』が書かれた時代は不明であるが、これを記した林羅山(1583年-1657年)は、この話を幼齢の頃に聞いたとある。私は林羅山をサバン症候群のような抜群の記憶力の人物だと思っているので、これは幼齢に聴いた話であるとしても、まず間違いなく伝え聞いた通りの正確な内容だと考えている。中山太郎も、林羅山がその話を聴いたのは、室町末期の天正15年あるいは16年頃(1587年か1588年)の戦国時代頃であるだろうと推測している。よって先に引用した百井塘雨が江戸時代中期ごろに書いた『笈埃随筆』よりも200年ぐらいは昔から既に、八百比丘尼の伝説は確立していたという事になる。よって中山太郎が指摘するように、まずは『本朝神社考』が文字として記録された八百比丘尼伝説の本筋としてあると見ておくべきだろう。
次に中山太郎は『日本巫女史』のなかで、八百比丘尼に関する他の情報源の指摘も行っている。それは、① 『康富紀』及び、② 『臥雲日件録』の文安6年(1449年)の記事である。この書は双方同じ時期に京に現れた比丘尼について日記の中で述べているので大変興味深い。以下この二つの日記に注目してみたい。
①『
『康富紀』は室町時代の外記局官人を務めた中原康富の日記である。1408年(応永15年)から1455年(康正元年)の期間が日記としてつづられている。
ここで特に注目したいのは、文安6年(1449年)の5月26日の記録である。まずは以下に原文を引用しておく。
【 康富紀 】
廿六日乙巳 晴、或云、此廿日比、自若狭國、白比丘尼トテ、二百餘歳ノ比丘尼令上
洛、諸人成奇異之思、仍守護召上歟、於二條東洞院北頬大地蔵堂、結鼠戸、人別取料
足被一見云々、古老云、往年所聞之白比丘尼也云々、白髪之間白比丘尼ト號歟云々、
官務行向見之云々、而不可然之由有巷説之間、今日下向若狭國云々、
【 現代語 訳文 】
二十六日乙巳、晴れ。ある人が云うには、この二十日頃に、若狭国から白比丘尼と言い、二百余歳の比丘尼が上洛したという。皆が不思議に思っていたところ、守護が呼び寄せたのか、二条東洞院北頬の大地蔵堂に、鼠木戸を造り、人によって違う料金を取り、見物をさせたそうである。古老が言うには、これは昔に聞いた白比丘尼であるらしい。白髪のゆえ、白比丘尼と名乗っているようである。官務は白比丘尼を見に行ったようである。しかし、二百余歳を超えているはずはないという巷の噂があり、今日、白比丘尼は若狭国へ向かったそうである。
ここには文安6年(1449年)の5月20日頃に、若狭から200歳の白比丘尼が京に上洛してきたとある。この記録は先に述べた『本朝神社考』の記録よりも140年ほども古い。しかし、ここには白比丘尼については述べられていても「人魚」を食べたために長寿になったという説明がまだ語られてはいない。しかも800歳ではなく200歳とあり、年齢に関してもブレがあるところも、まだ八百比丘尼としてのキャラクター設定が確立していない事をうかがわせる内容となっている。
京にやってきた白比丘尼は二条東洞院北頬大地蔵堂に滞在しており、門内に入るには料金(見世物料)が徴取されていたとある。よってこの尼は八百比丘尼伝説を利用した芸能者であったとも考えられる。翌日、27日の記述では、尼としての布教活動が行われていたような記述があるので、単に見世物に対する入場料としてだけでなく、お布施や長生きへのご利益のような一面もあって人々の財布を開かせていたのではないかと考えられる。
『日本巫女史』で中山太郎は言及していないが、この出来事と連動していると思われる大きな事件が当時の京で起こっている。それは白比丘尼が京に現れる1ヶ月程前の、文安6年(1449年)の4月12日に京都で発生した大地震である。この地震により仙洞御所・東寺、清涼寺をはじめ寺社や民家が破損し、長坂口では山崩れによって死者も発生したと『康富紀』の4月13日の日記には書かれている。
現代の我々も東日本大震災を体験したことから十分に理解できることであるが、この当時の人々の、しかも日本の首都であった京都での大きな地震の発生は様々な人々の生活はもとより、その心情にも大きな影響を引き起こしたはずである。こうした出来事はその当時に生きる人の立場に立つならば、必ず見過ごすことは出来ない大事件であったに違いない。
しかも『康富紀』の作者である中原康富は、太政官外記を世襲する家系の者であり、その職務として地震に関する記録を調査・管理・報告する役割があった。こうした面からも『康富紀』は地震学者にとってもかなり重要な資料となっているようであり、多くの歴史地震学者が必ずこれを資料として取り上げている。文安の地震に関する中原康富が書いた記録を以下に示す。
【 康富紀 】文安6年(1449年)4月10日~4月17日の日記
【 4月10日 】
十日、今夜戌尅許大地震、[及両三度/有声] 近来之大動也、夜半許又地震両三度也
【 4月12日 】
十二日壬戌、晴、辰剋大地震、其後小動連々不休、終日動搖不知其数矣
【 4月13日 】
十三日癸亥、陰、晩雨下、今日猶連々地震、(中略)同十二日大地震之故、(中略)嵯峨清凉寺之釈迦仏顛倒給、同五大尊内軍陀利一尊顛倒給<御手突/ 折云々>、其外東山西山在々所々大地裂破云々、若狹海道小野長坂之辺、山岸等崩懸、荷負馬多斃死、人亦数多被打殺云々、五六十老者、未知是程地動之由申之云々
【 4月15日 】
十五日乙丑 晴、今日又度々地震
【 4月17日 】
十七日丁卯 去十日以来毎日連々地震也
『康富紀』にある文安6年(1449年)4月10日~4月17日の日記を読むと、10日、12日に本震と思われるような特に大きな地震があったこと、さらにその後も余震が続いていることが分かる。13日には被害の状況が報告されており、建物が倒壊したり、人が亡くなっているので、そこから京都で起きた地震がどれほど大きいものだったかを理解できる。
こうした地震の為に、京都の人々には不安や今後の地震に対する大きな心配が広がっていたことであろう。こうしたさなか、地震から一か月後の5月10日に、200歳あるいは800歳であると名乗る長寿の白比丘尼が京に現れたのである。こうしたタイミングを考えると地震に対する不安も冷めやらぬ人々の不安に乗じて、宗教的な側面でもって入場料を取って人を集めたとも考えられなくもない。続いて述べる『臥雲日件録』には、『康富紀』では具体的に記されていなかったこの料金がいくらであったかについて記録されている。
②『
『臥雲日件録』とは相国寺の瑞渓周鳳の日記である。1446年から1473年までの出来事が書かれている。早速、以下に白比丘尼について文安6年(1449年)に述べられている7月26日の日記を引用する。
【 臥雲日件録 】
廿六日、赴清水定水庵点心、庵主曰、近時八百歳老尼、自若州入洛、々中争
覩、堅閉所居門戸、不使者容易看、故貴者出百銭、賤者出十銭、不然則不得入門也
【 現代語 訳文 】
七月二十六日、清水の定水庵を訪問する。定水庵の庵主が言うには、近頃八百歳の老尼が若狭国から入洛したらしく、洛中の人々は先を争って老尼を見ようとしたらしい。しかし老尼の居るところの門戸は堅く閉ざされていて、使者は容易に見ることができなかったようだ。身分の高い裕福なものは銭百文、身分の低い貧しいものは銭十文を出さなければ門内に入ることができなかった。
『臥雲日件録』の方は、文安6年(1449年)7月26日の日記であるので、先の『康富紀』に日記から2ヵ月後に書かれている。ただこれは伝え聞いた事を書いているので記述が遅れたのであろう、よって同じく5月に入洛した白比丘尼についての記述であることには間違いない。ただ『康富紀』になかった記録として、その入場料は身分の高い裕福なものは銭百文、身分の低い貧しいものは銭十文であったことが記してある。室町時代の貨幣価値については、1文≒100円位であるとされているので、身分の高い人は現代では約10万円、貧しい人でも1万円は支払ったという計算になる。何人が払ったのかは定かではないが、「入洛、々中争洛中」とあるように人々は先を争って老尼を見ようとしたので、大変な儲けだったと推測される。
また注目すべき点として『康富紀』では200歳となっていた白比丘尼が、ここでは800歳とあり年齢的な情報にはブレがある。
他にも『康富紀』でも、『臥雲日件録』でも「人魚」の肉を食べた事が長寿の原因となったとは言及されていない。むしろ正しくは言及されてないのではなく、まだ人魚を食べてから長寿を得たという設定が確立されていなかったのかもしれない。人魚を食べたからとはっきりと記されるようになるのは、これらの日記が書かれてから少なくとも140年以上も後の江戸時代初期になって『本朝神社考』に林羅山が書いてからという事になるだろう。
その他の記述
中山太郎が『日本巫女史』で取り上げている、八百比丘尼に関する伝説は、小浜のある福井県を中心に広範囲に分布している。他にも石川県、福島県、高知県、和歌山県、岐阜県、新潟県、鳥取県で似たような伝説が存在しているのは興味深い。これは八百比丘尼が様々な地域で行脚を行ったことを示唆するものであるのかもしれない。以下、その幾つかを紹介する。
【 新編会津風土記」巻五十五 】
秦勝道なるもの、元明朝の和銅元年に岩代国耶摩郡金川村に来て、里長の娘と相馴れて、養老二年元朝に一女を儲けた。勝道予て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を営むと、或日、駒形岩の辺りなる鶴淵から龍神が出て、大衆を饗応した。その中に九穴ノ貝(アワビ)あり、人怪んで食わず、道に棄てたのを、勝道拾って帰宅し、女それを食して長寿を保ち、八百比丘尼となった。
1803年~1809年にかけて編纂された『新編会津風土記』によると、福島県の会津にも八百比丘尼の伝説が残されていたことが分かる。ただし食べたのは人魚の肉ではなく、九穴ノ貝(アワビ)となっている。この伝説だと八百比丘尼は会津出身ということなる。
【 岐阜県益田郡誌 】
美濃国益田郡馬瀬村大字中切に治郎兵衛という酒屋があった。龍宮に至り「キキミミ」と称する虫鳥獣の物言うことを聴き分けるものを貰って来た所、その娘がこれを開き、中にあった人魚の肉を食い、八百年の長寿を得て、諸国を遍歴した。死ぬるときに、黄金の綱三把を埋め、杉を折って墓標とし、『漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日うつらふ其木の下に、黄金の綱三把あり』と記して死んだ。杉の木は枯れたが、根は今に残っている。
岐阜県にも人魚を食べた八百比丘尼の伝説が残されている。そして八百比丘尼はこの地元の娘が化したという事を示唆している。
【 能州名跡志 】第一巻
羽咋郡富来より二里の間八百比丘尼の植し椿原といふあり。按ずるに若狭の白比丘尼の旧跡は所々にあり。是は伊勢国白子の産故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黒部の庄玉椿の産とも云へり(中略)。廻国して若狭の白椿山にありしとて今に絵像あり。手に椿の枝を持てり云々。土地の伝に、昔越中黒部川港に玉椿の里とて幽なる所あり、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地なりしが、ここの里長友と共に上洛の途中武士と道連れとなれり。此武士は越後国妙高山の麓に住む三越左衛門といふ千年経たる狐なり。馳走すべしとて長を伴ひ往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懐中して帰宅し、其女土産と思ひて食し八百比丘尼となる(中略)。又能登国鳳至郡縄又村の産れとも云ふ。
『能州名跡志』は安永年間(1771年~1781年)に、太田頼資こと、文聾斎によって書かれたとされる。ここでは比丘尼の出身が伊勢であるとされている。また人魚の料理を提供したのは狐であったとしている。他の様々な伝承はほとんどが外部から来たよそ者が人魚料理を提供したとあるように、何らかの異形の者が発端であることから、人に化身した狐という伝説が生まれたのかもしれない。
もう一点、この伝説が興味深いのは、八百比丘尼と椿の関係について語られているところである。若狭を中心とした日本海側に八百比丘尼に関する伝説が多いのは、この椿と八百比丘尼の関係にあると民俗学者の宮田登は以下のように述べている。
【 朝日日本歴史人物事典 】 宮田登
八百比丘尼像の特徴は、手に椿の花を持っていることである。北陸から東北地方にかけての沿岸部には、椿がまとまって茂る聖地が点在している。椿は、春の到来を告げる花とみなされ、椿の繁茂する森は信仰の対象となっていた。旅をする遍歴の巫女が、椿の花を依代にして神霊を招いたものと想像されている。八百比丘尼の別称は白比丘尼という。白のシラは、再生するという古語であり、シラ比丘尼の長寿は、巫女の特つ霊力とかかわるものであろう。
このように椿の茂る聖地の場所ゆえに、この地方に八百比丘尼の伝説が多いと宮田登は述べている。八百比丘尼に関する伝説で幾つかの例外は除き、以下の2点の要素においては、どの伝説も殆ど共通している。
① 人魚の肉を食べて不死を得た(貝という伝説も例外的に存在)
② 若狭の小浜で入定して生涯を終えた(空印寺)
①の人魚を食べて不死を得たという部分は『本朝神社考』および『笈埃随筆』を始め、それ以降の伝説に共通して繰り返し述べられている要素である。中には他のものを食べてしまう話が例外的にあるが、それはこの伝説の構造においてあまり重要でないと言えるかもしれない。小野地 健の論文『八百比丘尼伝承の死生観』には以下のように述べられている。
ここで重要なのは不老不死をもたらす要素の中で、歴史的にも地理的にも人魚の肉こそが特に広く受け入れられ語られ、分布していることである。八百比丘尼伝承のうち人魚の肉が不老不死の原因であると語るものは、『日本伝説大系』の事例だけでも北陸、関東、東海、山陽、山陰、四国に及び、他にこれだけ広範囲な分布をもつものはない。
と述べており、その構造において、歴史的にも地理的にも人魚の肉こそが特に広く受け入れられ語られ、分布していることが重要であると指摘している。この人魚を食べるということが何を意味するのかに関しては、本文の後の方で検証を行う事にする。
また八百比丘尼の出生地は様々であるが、②の終焉の地は必ず若狭の小浜、そして空印寺で帰結するという共通性はどの伝説にも見られる要素である。次項では空印寺について述べておきたい。
若狭国の空印寺
空印寺は福井県小浜市小浜男山にある曹洞宗の寺院である。現在でも八百比丘尼の入定した洞窟が残されており、その入り口には花を手にした八百比丘尼の石像が安置されている。
空印寺にある八百比丘尼入定の洞窟
これは『笈埃随筆』で百井塘雨が記述している通りである。本文の最初に引用した原文の現代訳を以下に記しておく。
【 笈埃随筆 】<前半>現代訳
『万葉集』には坂上大嬢が大伴家持に送った歌に「かにかくに人は言ふとも
『笈埃随筆』にもあるように空印寺の裏手にある後瀬山は、昔から歌に詠まれた名山である。万葉集には、坂上大嬢が大伴家持に送った
「かにかくに人は言ふとも
後瀬の山ののちも逢はむ君」
という歌と、それに対して大伴家持が返した
「後瀬山のちも会はむと思へこそ
死ぬべきものを今日まで生けれ」
という歌で、互いを愛する深い感情が詠まれている。
現在、ここで述べられている八百比丘尼の尊像は、「若狭歴史博物館」で公開されている。室町時代に造られた旧像と、江戸時代に造られた新像があり、百井塘雨が見たと記しているのは新像の方ではないかと思われる。
この八百比丘尼の尊像は、寄せ木造りの座像で高さは約50cm。17世紀後半に制作されたと考えられ、小浜市青井の神明神社が所蔵している。衣装は神式風で、白い頭巾をかぶっている。右手に願いをかなえる宝珠、左手に白玉椿(しらたまつばき)の枝を持っているというのが、やはり宮田登の言及した椿との関連性を暗示させている。
八百比丘尼の尊像 17世紀後半作
後瀬山は別名で「白椿山」とも呼ばれるほどの椿の名所であるそうだが、これも八百比丘尼と椿の関係が深い相関関係にあることを表すものとなっているのである。八百比丘尼が詠んだとされる詩が残されている。
「若狭路や白玉椿八千代へて、またも越しなむ矢田坂かは」
人魚をたべるというタブー
人魚を食べることにより八百比丘尼は年老いて死ぬことが無くなったとされるが、それは異界の食べ物を食べることにより、八百比丘尼が人間界の者ではなく、異界に属する者となったことを意味する。つまりタブーを犯すことで、社会から疎外されたどちらつかずの不安定な立場に八百比丘尼が置かれることである。その点を『八百比丘尼伝承の死生観』で小野地 健が以下のように指摘している。
魚のようでありながら人間のようでもあり、人間のようでありながら食物としてあつかわれている人魚は、食べることが気持ちが悪い、気味が悪いものとして嫌悪され忌避されている。それは人魚が人と魚の両義性を帯びていることによって両者のカテゴリー一を撹乱する不可解なものであるばかりでなく、食べてはいけないもの(人間)と食べてよいもの(魚)という食物の基本的分類すらも脅かすからだ。食物の分類は人々の生活感覚に根を下ろしているだけに、その撹乱は前論理的な嫌悪感を引き起こす。特に自分と同じ人間というカテゴリーの属性を持つものを食べるということは、カニバリズムのタブーの侵犯として、社会秩序の根本を脅かす。
<中略>
彼女はカニバリズムのタブーを犯してしまったわけであり、くわえて、本来は皆が捨てるつもりであったり、しまっていたものを、自分だけが食べてしまったという点でも、共同体の規範からはみ出してしまったものとして語られ、他の村人から差異化される。
<中略>
八百比丘尼はタブーを犯し社会から逸脱した存在であるがゆえに、社会的規範としての時間の流れからはみ出して無時聞性を帯びるのに適した存在であるということができる。逆にいうと八百比丘尼が異常な長寿を持つとされることは、それだけ彼女の犯したタブーが重大であったということなのだ。
人間社会の中では、食べるものでその者がどの社会に属する者かを明らかにするということが行われる。食におけるタブーは、その者がどの社会的な集団に属するか示すものとなる。
例えば日本人ならば正月にはおせち料理や雑煮を食べるが、ある意味、これは我々が日本人の一員であることを再確認するための行為であると言い換えることが出来るのかもしれない。また逆の例をあげると、日本には鯨を食べる文化があるが、西洋社会からみたこうした食文化は彼らのタブーを甚だしく犯す行為なのである。
また古代のヘブライ人は、旧約聖書のレビ記11章の中で「反芻留して蹄の割れたものは食べてはならない」ことになっており、その他にも様々な食に関しての様々なタブーが定められていた。これは彼らが神から選ばれた民であり、その民の神聖さゆえに、異邦人から自分たちを区別するための尺度としても機能していたとも考えられる。
さらにヒンズー教徒は牛を食べないが、これは牛を神の使いであると見なす宗教上の理由からである。同様の理由からイスラム教徒の人々は豚を食べられない。またイスラム教徒は肉を食べる場合でもハラールに従った決められた処理で行われたものしか食べられないのである。他にもこうした食のタブーは世界中に存在している。
文化人類学者のエドマンド・リーチ(Edmund Leach)は『言語の人類学的側面』のなかで「可食カテゴリー」を論じており、食とタブーの関係が性や婚姻におけるタブーともつながっているとしたうえで食べ物は以下の3つのカテゴリーに分類出来るとしている。
① 食物として認識 され、正常な食事の一部として摂取される食用可能なもの。
② 食物とは認められるが、禁止されているか、もしくは特別な(儀礼的)条件のもとでのみ食べることが許されている食用可能なもの。これらは意識的に忌避される。
③ 文化と言語の両方によって、まったく食物とは認められていない食用可能なもの。これらは無意識のうちに忌避される。
リーチはこのような①可食、②限定的可食、③不可食の区分けこそが、他の様々な分野でのタブーに重なっていると論じている。属している集団では可食されていない、つまり②③に属するようなものを①のような常食しているような集団に遭遇する時、それに接した人はこうした集団を自分たちとは他者であると認識するという訳である。
具体的に言えば、イスラム教徒が豚を食べる西洋人の食事を見て自分たちとは異なる他者であると感じるように、西洋人は鯨を食べる日本人を、自分たちの集団とは異なる他者であると考えるであろう。これはある文化圏から見ると、他の文化圏は食のタブーを甚だしく侵している行為だからということに他ならない。
黄泉戸喫
人魚を食べるとは食のタブーを犯す行為であった。なぜなら人魚は、魚に属しているようでありながら、その半分は人間に属しており、これを食べることはある種のカニバリズムへの関与を意味するからである。そして村人を招いて人魚の料理を供した者は、よその世界の異形の者たちとして描かれる。伝説の幾つかでは他所からやってきた部外者というだけでなく、狐と眷属に属するもの、あるいは龍宮の住人であると説明されている。
こうしたよそ者からの招待によって他領域の食べ物が供されるということは、地域社会として結束している集団に不安定さを持ち込もうとする意図のようなものを感じる。それがタブーを犯すということであり、それは象徴的に異世界の食べ物をその社会に持ち込み、食べさせるという事によって表されているのである。
「人魚を食べた」八百比丘尼の伝説は、『古事記』にあるイザナギ(伊邪那岐命)がイザナミ(伊邪那美命)を黄泉の国を迎えにいく話にある食物を思い出させる。それが「
【 古事記 】
於是、欲相見其妹伊邪那美命、追往黃泉國。爾自殿騰戸出向之時、伊邪那岐命語詔之「愛我那邇妹命、吾與汝所作之國、未作竟。故、可還。」爾伊邪那美命答白「悔哉、不速來、吾者爲 黃泉戸喫 。
死んでしまったイザナミを、夫であるイザナギは迎えに行くと、イザナミは「黄泉戸喫」つまり、黄泉の食物を食べてしまったので、もう帰ることは叶わぬかもしれませんと答えている。つまり異界の食べ物を食べたために、その世界に属する者となってしまったというのである。
これと同じ出来事はギリシャ神話にも見られる。冥府の王であるハーデースが、ペルセポネーを略奪して冥府に連れてゆき妻にしようとするが、ハーデースのアプローチに対してペルセポネーは絶対にそれを受け入れる事はなかった。その後、ゼウスの介入によりハーデースはペルセポネーを開放することになるが、その際、ハーデースがザクロの実を差し出と、それまで拒み続けていたペルセポネーはザクロの実の中にあった12粒のうちの4粒(または6粒)を食べてしまう。実は、冥界の食べ物を食べた者は、冥界に属するという神々の取り決めがあった為、ペルセポネーは食べたザクロの分だけ(一年の1/4あるいは半分)は冥界に属さなければならなくなるのである。
東洋、西洋、まったくどこでも同じような話があるものだとつくづく感心させられるが、これを構造という観点からみると至極当然な当たり前なのである。それはジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)の『千の顔を持つ英雄』(The Hero with a Thousand Faces)で指摘されている通りである。神話学によると、世界の多くの神話は類型化されており、その構造における本質的な部分には、世界の地域を問わずどれにも共通点が見いだせるのである。古事記とギリシャ神話が共通しているのにはこうした理由で説明ができるだろう。つまり「食」として口にするものが、所属する世界を決めるということを象徴的に表している。イザナミもペルセポネーも死者の世界の食べ物を食べた為にこうした異界に囚われ、つまりその集団に属する者となったのである。
これは宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」の中でも扱われた要素となっている。主人公の少女である千尋の両親が異界のものを食べて豚に変わり、戻れなくなってしまうのは、こうしたコードを下敷きにして、それを現代的な神話とも言えるような新たなストーリーに盛り込んでいるからである。ただこうしたストーリーに向き合う受け手である我々も、それにスッと入って行けるのは、こうした神話的な要素にどこかで身近に触れている故なのかもしれない。宮崎駿監督は、こうした現実世界に存在する文化的なコードを常に変換させながら作品にも取り込んで行くのが非常に上手い。他にも「千と千尋の神隠し」では自分の本当の名前を知られることが、他者に支配されることを許してしまうことに関係する文化的なコードを持ち込んでおり、そこも大変興味深い。
八百比丘尼も、異界の食べ物を食した故に、年も取らず死ぬこともない異形の者になったのである。こうした伝説は、我々にとっても意外に身近なストーリーとして現代に至るまで脈々と息づいているのである。
現代における異世界の者となる話
異界の食により、異界の者と同化するという伝説は様々に形を変えて『古事記』のイザナミの頃から、連綿として我々の身近に存在し続けている。先ほど取り上げた「千と千尋の神隠し」もそうだが、八百比丘尼伝説に接した時に、私は萩尾望都の漫画「ポーの一族」にも、ある共通点があるのを感じさせられた。
ポーの一族:萩尾望都
「ポーの一族」の主人公はエドガーとアランのふたりで、彼らは吸血鬼(バンパネラ)であり、200年以上を少年の姿で生き続ける異界の者である。彼らがどのように吸血鬼になったかというと、吸血鬼から血を授けられそれを飲むことによってである。これも異界の者から与えられたものを口にすることによって、それに属することになり不死を得る話に分類できるだろう。
「ポーの一族」では、200年以上を生きるために、同じ場所に住み続ける事が出来ずに、住処を転々としながらひっそりと生きる様子も描かれているが、この部分が特に八百比丘尼の人生とも共通するものを感じさせられる。初めは千代姫という名であったが名前を変え、一説によると39回も嫁入りをしたとされている。こうして立場を変えながら諸国を転々としたその人生は「ポーの一族」の主人公たちにも重なるものがある。
八百比丘尼も「ポーの一族」も共に長寿で生き続ける事の悲哀のようなものが描かれているように感じる。人は誰でも若くあり続けたいとか、長く生き続けたいと願うものだが、実際にそうなってみると、愛する人を常に亡くさなければならないことや、同じ場所に長くは住めず、放浪し続けなければならない生活を送る寂しさのようなものを体験することになるのかもしれない。
もしかすると人は自分に与えられた寿命のなかで精一杯生きる事にこそ喜びがあり、それに不自然に、あるいは過度に抗う事は自分を異界の者にへと貶めることになるのではないかとも考えてしまう。近年、中高年であっても若さと美貌を保ち続けている女性のことを「美魔女」と呼ぶが、これも異界の者としての様を象徴的に言い表しているようにすら思えるのである。若さと美貌を得ようとして過度な整形手術を繰り返して逆にバランスが崩れたような容貌になる者もいて、人ならざる者の顔になってしまったようなケースもある。
古代ローマの思索家セネカは、人生の短さについて「人生は短いのではない、人間がそれを短くしてしまっているのだ」と述べている。長寿は誰もが普通に求めるものだが、その限られた人生の期間をどう生きるかで、人は人生を長くも短くもできるのである。つまり人生における期間とは絶対的なものではなく相対的なものであると言えるのだろう。
800年という八百比丘尼の人生の終わりは、自ら命を絶った(入定)であったことを考えると、不老不死として生き続ける事が果たして幸福に直結しているのかどうかは疑問である。
火の鳥
手塚治虫の漫画『火の鳥・異形編』の中にも八百比丘尼のエピソードが取り上げられている。以下、そのエピソードの概略を引用しておく。
【 手塚プロダクション 】
7世紀末の日本。残忍な領主・八儀家正の娘に生まれた左近介は、男として育てられました。ある嵐の夜、左近介は従者の可平とともに、蓬莱寺の八百比丘尼という尼を殺しに出かけます。その理由は、重い病にかかっている父が、どんな病でも癒すと評判の八百比丘尼に治療を頼んだからでした。父から男として生きることを強制されていた左近介は、父を憎んでいました。そして父が死ななければ、自分は女に戻ることができない。そう考えたのです。
そして左近介は八百比丘尼を殺しましたが、そのあと城に戻ろうとすると、不思議な力が働いて寺に戻されてしまいます。寺の周りには見えない壁があるようで、どうしても寺を出られないのでした。
そうしているところへ村人が病気を癒してもらおうとやってきました。左近介は八百比丘尼に変装し、本尊の中にあった光る羽根を使って病人たちを癒してあげました。実は、この寺は時の閉ざされた世界であり、八百比丘尼は、未来の左近介自身だったのです。やがて、寺には、戦で傷ついた妖怪や化け物たちが続々と治療に訪れるようになったのでした。
「火の鳥」は手塚治虫のライフワークともいえる作品で、因果応報、天正輪廻やそれにまつわる
『火の鳥・異形編』には、左近介が八百比丘尼となると、妖怪や化け物たちが続々と治療に訪れ、寝床を取り巻いているコマがあるが、これを起点に八百比丘尼と異形の物怪との関係を考察してみる事にしたい。
八百比丘尼と異形の物怪
『新編会津風土記』によると八百比丘尼は秦勝道なるもの娘とある。また『笈埃随筆』には「比丘尼の父は秦道満といひし人のよし縁起に見へたり」とあり、八百比丘尼を秦道満の娘であるとしている。このようにいずれの説も、秦氏との関係性を強くうかがわせる内容となっている。
秦氏は有力な渡来系氏族である。もともと秦氏の本拠地は、京都の
太秦の地名の由来は、雄略天皇の治世中に、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が、絹をうず高く積んだことから、「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記が当てられたことが起源である。つまりその始まりから秦氏が関係した縁起となっているのである。
また秦河勝の時代には聖徳太子に仕え、推古11年(603年)、聖徳太子から現在は国宝となっている弥勒菩薩半跏思惟像を拝受したことから、この地に広隆寺を建立している。また松尾大社や伏見稲荷も秦氏が創建した社であり、秦氏の末裔はこれらの社家となったとされている。また秦氏は音楽・芸能においても東儀家や世阿弥、金春家へと分岐しており、雅楽や能といった文化をになう一族になっていった。
広隆寺の牛祭
京の三大奇祭の一つに太秦の広隆寺の牛祭(うしまつり)がある。この祭りでは仮面を着けた「摩吒羅(またら/まだら)神」(摩多羅神)が牛に乗り、四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼が松明を持ってそれに従って四周を巡行し、広隆寺の薬師堂前で祭文を独特の調子で読んで参拝者がこれに悪口雑言を浴びせる。祭文を読み終わると摩吒羅神と四天王は堂内に駆け込む。確かに奇祭であり、この祭りには秦氏の持つ異界・異形との関係をうかがわせるものがある。
実際、秦氏は陰陽師としての性格も持ち合わせており、八百比丘尼の父とされている秦道満とは「蘆屋道満」である。この時代の陰陽師と言えば安倍晴明であるが、蘆屋道満と安倍晴明はライバル関係にある強力な陰陽師であったとされている。
海女が身に着ける印
伊勢・志摩では海女漁が盛んであり、海女は上記のセーマンとドーマンと呼ばれる印を身に着けて海に潜る。セーマンは安倍晴明を、そしてドーマンは蘆屋道満のことを表わしているとされている。これらは厄除けのお守りであり、海女達が恐れるトモカヅキ(海女の分身)、山椒ビラシ(身体をチクチクとさす生物とされる)、尻コボシ(肛門から生き肝を引き抜く魔性といわれる)、ボーシン(船幽霊)、引モーレン(海の亡者霊)、龍宮からのおむかえ、から身を守る為である。こうした魔から身を守るために強力な陰陽師の二人をシンボル化して身に着けていた。
海女のセーマンドーマンを引き合いに出したのには訳がある。八百比丘尼の伝説の幾つかを照らし合わせてみると、以下のような要素が引き出せることになるからである。
・ 八百比丘尼の父は蘆屋道満 『笈埃随筆』
・ 人魚の肉は竜宮みやげ 『岐阜県益田郡誌』
・ 人魚ならぬ九穴ノ貝(アワビ)を食べて不死 『新編会津風土記』
・ 人魚の肉を供したのは狐である 『能州名跡志』
八百比丘尼伝説を陰陽師との関係性から紐解いてみると、海での漁、特に海女が潜って行う漁に何らかの関係性が見いだせるように思われる。八百比丘尼になってしまう食べ物とは、人魚やアワビのようにいずれも陸生の食物ではなく、海生の食物だからである。
『笈埃随筆』では、外部のよそ者によって蘆屋道満が宴に招かれたとある。これは蘆屋道満と異形のものとの対立関係にありながらも近い関係性をも感じさせられる話である。こうした異形の者との関係があるところが蘆屋道満の陰陽師としての日常であると言えるのかもしれない。
『岐阜県益田郡誌』の伝説では、龍宮にまねかれその土産に人魚の肉をもらって帰ってくる話になっている。漁をする海女たちは龍宮に引き込まれることを恐れてセーマンドーマンを身に着けているが、海中にある魑魅魍魎とした世界を恐れることからこうした習慣が始まったのであろう。また漁で海中にいると様々な不思議な経験をするらしく、海中世界はまさに異界であると言えるだろう。龍宮を含むあらゆる魔から身を守るため陰陽師の印が必要とされるというのも何か象徴的であるように感じられる。
『新編会津風土記』で供されている食べ物、九穴ノ貝とはアワビの事である。人魚の肉ではなく、例外的にアワビを食べて八百比丘尼になったとする伝説があるのも興味深い。セーマンドーマンを身に着ける志摩の海女たちはアワビを主に取って漁を行うからである。また伊勢神宮には御食としてアワビが納められ熨斗アワビも盛ん作られている。八百比丘尼伝説に人魚以外にもアワビが供されたというところにも、陰陽師と海女の関係性を暗示するものであるように思われる。
陰陽師、安倍晴明の母親は白狐(葛ノ葉)であるという伝説がある。『能州名跡志』では千年を経た狐が人魚の肉を供したとある。この伝説について山中太郎は「人魚を食わせたものを、非類の狐にするとは、伝説を合理化しようとした、昔の人の苦心するところである」とだけ述べているが、セーマンドーマンや陰陽師そして海女漁との関係から考えると、そこにも何らかの意味が存在しているようにも感じられる。もしかすると、これには安倍晴明と蘆屋道満の対立を暗示するような意味合いが残されているのかもしれない。
さいごに
八百比丘尼に関して様々と書いてきたが、『美味求真』でクローズアップされているのは、人魚の肉を食べるという事である。人魚はそもそも実在の生物ではないのだが、中国では「本草学」つまり現在の植物学や生物学、さらには博物学の分野では必ず、人魚に関する項目が立てられ、それは主に「鱗部」といって魚類に分類されて説明がなされてきた。
中国の本草学にならい、日本の本草においても、人魚は取り上げられており、その生態については様々な見解が述べられている。
生態だけでなく、それが食べられるのか、そのような食効があるのかが論じられており、人魚を「食」の観点から捉えていると言うのも非常に東洋的であるといえる。さらに人魚にまつわる文化的な関係性も非常に広範にわたり、かつ複雑に絡み合っていて、ある種の文化的なバックグランドが形成されているという事は、先に述べた事から理解して頂けたのではないだろうか。
まことに「食」とはかくも深き洞察を要する分野なのである。
参考文献
『笈埃随筆』 百井塘雨:八百比丘は5巻に収録
『日本巫女史』 中山太郎
『本朝神社考』 林道春
『康富紀』 中原康富
『臥雲日件録』 瑞渓周鳳
『文安6年(1449)京都地震の被害実態と地震直後の動静』 西山昭仁
『鎌倉期から江戸初期における地震災害情報-畿内で書かれた日記にみる地震の記録-』 下川雅弘
『越前・若狭の歴史地震・津波 ~年表と史料 』 外岡慎一郎
『言語の人類学的側面』 エドマンド・リーチ:Edmund Leach
『ポーの一族』 萩尾望都
『火の鳥』 手塚治虫