亀の尿
亀の尿とは何か?
『美味求真』に、亀の尿は浸透性が高く、墨と混ぜてると石にも入ってゆくので、石碑に文字を書くときにも使われると述べられている。ここでは亀尿がどのようなもので、なぜこのような事が行われるようになったのかの根拠を考えてみたい。
亀の尿は、亀の種類で異なったカタチで排出される。
地上で生活するリクガメの尿には尿酸が多く含まれており、白くてドロドロしたものとして排泄されるようである。草食動物の多くが、尿から有機酸が排泄され、それは「馬尿酸」(英:Hippuric acid)と呼ばれている。それと同じものがリクガメの尿からも排出されていると考えられる。またリクガメは体内に水分を保持する為、あまり尿を出さないためにドロドロした尿として排出されるが、こうした排尿によってリクガメは尿結石になりやすいという特徴がある。
さて馬尿酸(尿素)は、安息香酸やトルエンなどの芳香族炭化水素化合物が大量に体内へ取り込まれた際に肝臓で生成され尿中排泄されることになる。
このトルエンが肝臓のシトクロムP450によりメチル水酸化を受けてベンジルアルコールが生成され、そのベンジルアルコールが、今度はアルコールデヒドロゲナーゼにより酸化されて安息香酸が生成される。さらにその安息香酸がグリシン抱合を受けることで馬尿酸が生成されることになる。
トルエンから馬尿酸(英:Hippuric acid)に至る過程
もうひとつ取り上げておきたいのが淡水亀である。
カメは種類によって、尿酸が主な場合と尿素が主な場合とがあるようで、その配合の割合は種類によって異なる。淡水亀の尿はリクガメのようにドロドロしたものではなく液状である。また淡水亀は水棲ということから尿の頻度も高く、尿酸よりもむしろ尿素が多く含まれている。
結石になりやすい亀と、結石になりにくい亀とがいるが、その違いは尿の頻度や、尿酸あるいは尿素の含有量の差異によるものであると考えられる。つまり尿酸が多く含まれドロドロとした尿のリクガメは結石になりやすく、尿素の含有量が多くサラっとした液状の尿を出す淡水亀は結石にならないという訳である。
尿素の科学式:CO(NH2)2
ここで、『美味求真』で取り上げられている亀の尿は、どのような種類の亀から取られたものかという疑問が生じる。
どのような亀の種類なのか
『典籍便覧』には「亀尿を別名で石油腦と云う」とあり、石油腦とは中国語でナフサ「naphtha」のことである。ナフサとは原油から蒸留分離して得られるもので一種のガソリンである。先に述べた馬尿酸にはトルエンが変化したものであるが、トルエンもナフタリンも、ベンゼン環から成る物質であるが、ナフタリンとナフサは全く異なる物質である。
それに対して尿素は、ナフサと関連性のある物質のようである。よって亀の尿についての記載は、明らかにリクガメではなく、淡水亀の尿について語られたものであると考えるべきであろう。実際に過去の文献では、そのどれもが淡水亀を指示している。
李時珍が記した『本草網目』には「水龜」という項目があり、ここで亀の尿を取る方法が述べられている。この「水龜」は淡水亀である。日本の文献に眼を移すと『和漢三才図会』に「水龜」について述べられている。またここでは『本草網目』と同様に、亀の尿の取り方について述べられている。
また『大和本草』には「水龜」については記述されていないが、その代わりに「イシカメ」から尿を取る事が記述されている。このイシカメは、日本固有種であるニホンイシガメ(Mauremys japonica)であると考えられるが、これも淡水亀である。
中国と日本において亀の種類は異なっていたり、その名称が異なるために混乱させられるが、いずれにしても尿を取る亀の種類は、ウミガメや陸カメではなく、淡水亀であるというところにおいては一致している。
なぜ亀の尿なのか?
『美味求真』には、「斐郡内の白野にある親鸞の名號石、また同じく甲斐の生澤川の日蓮の題目石など、これらすべては亀尿によって書かれた」と記されている。つまり石碑に文字を記す際に、墨に混ぜて亀尿が使われたという事であり、これは昔の中国の文献に基づいたものである。
さてここで何故、亀尿なのかを改めて考えてみたい。先ほど述べたように、成分から考えると亀尿には尿素や馬尿酸が含まれており、この科学的な成分が浸透するので、石碑に書き込むには適している事になる。しかし、亀尿の量は、非常にわずかで希少価値である。『食物本草』でも漆塗りの盆の上に亀を乗せて、盆に写る自分の姿に驚いて尿を出させるという方法で得られると述べている位である。またさらに調べると『食物本草』には亀尿を出させるための別の方法も記してあった。その方法は『本綱目』から引用した方法のようで「紙燭で亀の尻を点ずれば尿が出る」とある。さらに「猪の毛や松の葉で鼻を刺せば尿が出る」ともある。このように亀に尿を出させるのにも様々な工夫と苦労が必要だったようだ。
同じ浸透の為の物質を得る為であれば、亀でなくても、他の動物の尿からも同じものが取れるはずである。馬の尿は大量であるし、鮫は尿素によって浸透圧をコントロールするので、こうした動物から簡単に集められたに違いない。それでも必ず亀の尿が使われたことに何らかの重要な理由があったと考えるべきであろう。
亀卜
昔から亀は、
この亀卜は、対馬の卜部氏によって代々執り行われてきた。京都御所の紫宸殿から、
この亀卜に関しては、様々な文献を調べれば調べる程、そのような種類の亀を使うべきだったのか、あるいは亀卜には、腹甲を用いるべきか、それとも背甲かについて様々な記録がありはっきりしていないが、また他の機会に調査結果をぜひお伝えできればと考えている。
いずれにしても、昔から人々は亀には特別な霊力のようなものがあると考えていたのかもしれない。「鶴は千年、亀は万年」というように亀は長寿であると考えられていたが、それも亀の霊力を暗示しているようにも思われる。石碑に文字を残すという行為も、その不偏性を獲得するために、墨には亀の尿が混ぜられる必要があったのではないかと考えられるのである。
竜生九子と亀
石碑には台座になっているのは部分があるが、その台座になっているものを
石碑の台座としてある亀趺(贔屓)
この亀趺は亀の形をしているが、実際には亀ではない。実際は「
さて竜生九子という伝説上の生物は9種類おり、それぞれが特徴的な性格をもっている。以下に『升庵外集』で楊慎が述べている9種類を挙げておく。
【 竜生九子 】
形状は亀に似ている。重きを負うことを好む。
形状は獣に似ている。遠きを望むことを好む。
形状は竜に似ている。吼えることを好む。
形状は虎に似ている。力を好む。
形状は獣に似ている。飲食を好む。
形状は魚に似ている。水を好む。
形状は竜に似ている。殺すことを好む。
形状は獅子に似ている。煙や火を好む。
形状は貝にも蛙にも似ている。閉じることを好む。
少し脱線するが、
亀尿を用いる意味
改めて亀尿の意味を考えてみたい。石碑に墨と亀尿を混ぜる目的は長期に渡ってその文字が消えないようにするためである。もしかすると亀尿にそうした効果がるのかもしれないが、亀趺が石碑の台座にあることを考えると、亀尿にこそこうした効果があると信じられていたのは納得できる。
先に述べたように、「馬尿酸」を得る為であれば、馬の尿からも亀尿と同じ効果を期待できるものが取れたし、亀からごく少量の尿を取るよりは楽だったに違いない。
こうした楽な方法はあるかもしれないが、亀趺を台座としているのであれば、やはりどうしても亀尿でなければという事になるのではないだろうか。簡単には得られない亀尿が、石碑に使われた理由は、ここにあると推測する自説を述べて置くにとどめておきたい。
中国では、竜生九子として挙げられている贔屓に、亀は近い生物でと見なされているし、亀は古来から「麟鳳亀龍」といって四霊の中のひとつとして数えられていたことを考えると、亀尿を取上げてみても、そこから亀の持つ何らかの不思議なパワーのようなものを古来の人は感じていたのであろうと思いを馳せるのみである。
参考文献
『草木子』 (明)葉子奇
『大和本草. 附録2巻』 貝原益軒
『升菴外集』 楊慎
『珍獣の医学』 田向健一
『亀の中国思想史-その起源をめぐって-』 永谷 恵
『亀卜―歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす』 東アジア恠異学会
『正卜考 1巻』 伴信友
『正卜考 2巻』 伴信友
『正卜考 3巻』 伴信友