何曾かそう



三国志の時代の美食家「何曾」



 何曾は三国志の時代の後、晋の宰相を務めた人物であり、また奢侈を極めた美食家としても記録されている人物でもある。始め何曾は魏に仕えていたが、途中から司馬昭とその子である司馬炎に肩入れするようになる。司馬炎が魏の最後の元帝から禅譲を受けて晋を建国してからは太宰となり、司馬昭および司馬炎から非常に重んじられた。

 『晋書』には何曾についての記録が残されている。特に何曾は食に対するこだわりが強かったようで、衣食住の豪奢は「王者を過ぐる」と記録されている。自分でも一日の食費に一万銭を費やしても「箸を下ろすところがない(食べるものがない)」とまで言っているくらいである。
 その事は『晋書』卷三十三 列傳第三に以下のように記録されている。

【 晉書 】
 然性奢豪,務在華侈。帷帳車服,窮極綺麗,廚膳滋味,過於王者。毎燕見,不食太官所設,帝輒命取其食。
 蒸餅上不坼作十字不食。食日萬錢,猶曰無下箸處。人以小紙爲書者,敕記室勿報。劉毅等數劾奏曾侈忲無度,帝以其重臣,一無所問

【 訳文 】
 その性格は贅沢で驕っており、務めも贅沢なところで行っていた。陣幕や車、服は美しく、食事も美味であり王者を越していた。宴に現れる度に、太官(宮中の食事を担当する官職)が用意した食事では摂ろうとしないので、司馬炎(武帝)は何曾に命じて食事を摂らせた。
 また何曾は蒸し餅の上に、十字の形をした裂け目ができていなければ食べようとしなかった。食事の費用は一日に一万銭、それでも箸は置くことはなかったという。人は何曾のこうした贅沢さを紙に書いて天子に送ったが、天子は書記にその返答をさせなかった。劉毅はしばしば何曾の贅沢は限度を越えていると弾劾し奏上したが、武帝(司馬炎)は何曾が重臣であるとの理由で不問とした。


 何曾がいかに豪奢な生活を送っていた事が分かる。その中でも特に、蒸餅が十字に割れていないと食べようとしなかったというエピソードは有名である。蒸餅は十字に割れていないと美味くないとされていたようで、美味でないものは口にしなかったという訳である。

 また一日に一万銭という食費はかなり高額であり、ここから何曾は日常的に贅沢な食事をしていたことがうかがえる。実際に王宮の食事でさえ、何曾の食事に比べると劣っていたに違いない。なぜなら武帝(司馬炎)の宴に参加しても何曾はそこで食事を摂ろうとしなかったからである。武帝は何曾に命じて食事をさせたとあるので、自宅での食事がいかに美味で豪華なものであったかが理解できるだろう。よって「過於王者」つまり王の食事を越えていたという説明は真実であると考えられる。


日本の蒸餅について


 何曾のこうした古事は日本にも伝えられ、饅頭について説明されるときには必ず引き合いに出されるエピソードとなった。
 1830年刊の嬉遊笑覽きゆうしょうらん十巻上 飮食には、以下のような饅頭についての記述がある。

 『東鑑』に十字とあるものは饅頭なり、『晉書』、「何曾、性奢豪、務在華侈云々、蒸餅上不坼作十字不食」、これを奢れる故事にいへり、こゝには榮曜に餅の皮をむくともいへり、今おぼろまんぢうといふは、上の皮をむきたるなり、是等は物の數ならず、えもいはれぬ美食、費を顧みざるもの枚擧しがたし、是を何とかいはむ、十字は蒸て坼たるをいふ、「職人盡の繪」に、饅頭の頭に朱點あり、是もと點にはあらじ、十字なるべし、〈高野山の或院に宿りしが、饅頭の頭に、紅にて印をおしたるを出せり、是も其遺風か、〉『萩原隨筆』に、智恩院の御忌法事に、衆僧へ引饅頭面に紅粉を點ずる、これ十字引の遺風なりと云と有り、坼たる状を畫るもいとおかしきわざなり、昔し饅頭は賞翫したる物なり、『貞順條々聞書』に、折の内にていち上りたるは、まんぢうの折にて候と有にても知るべし、堀河百首題狂歌、松まんぢうのかざりにさせる枝みれば遠きあこやの松は物かは、〈あこやは、今いふしんこ團子の小きなり、〉古畫に饅頭屋の體をかきたるに、手桶に草木の枝をさして、看板のやうにあるは、かいしきに用る故なり、〈食物は何によらず、むかしはみな然り、重箱などには四隅にいだしたり、〉


 上記の記述を見ると『吾妻鏡(東鑑)』の建久3年(1192)11月29日の項に、五十日百日いつかももかのお祝いに「十字」を贈ったとある。この「十字」と言うのは饅頭のことである。
 なぜ十字と呼ぶかというと『晉書』にある、何曾が蒸餅の表面が十字に割れていなければ食べなかったという事に由来すると書かれている。

 さらに『嬉遊笑覽』を読み込んで行くと、色々と面白い説明が記されている。今でも饅頭には赤い点が表面にあるが、それは本来は十字であったのが、高野山で饅頭に赤い点を付けるようになった。つまり十字の見立てとして、それが赤点に表されているという説明である。
 『萩原隨筆』に、高野山の智恩院の御忌法事に、饅頭に紅粉に点が付けられたとあり、それが十字の遺風であると説明されているのは大変に興味深い。
 「職人盡の繪」(職人尽絵)に赤い点があると書かれているように、江戸時代に書かれた饅頭売りや、厨房の絵を見ると確かに饅頭には赤点が印されている。

職人歌合画本 <クリックで拡大>

 『職人歌合画本』は江戸時代の様々な職業に従事する人々が描かれている。その中に饅頭売りの姿がある。絵のなかのコメントに「さたうまんぢう(砂糖饅頭)、さいまんぢう(菜饅頭)、いづれもよくむして候」とある。つまり2種類の饅頭を売っていたようであるが、蒸籠が2段になっているので1種類しか分からない。現代でもあんまんに赤点があることから、描かれている赤点が打ってある方が砂糖饅頭ではないだろうか。
 また饅頭売りの身なりが僧侶の身なりのようであることも、饅頭に赤点が付けられた起源と何か関係があるようにも推測される。

酒飯論 <クリックで拡大>

 『酒販論』には幾つかのヴァージョンが存在するが、その中にも饅頭が描かれている。絵を見ると同じ饅頭でも、赤点があるものと、そうでないもの、さらに皺のよっているものがある。中身の異なる数種の饅頭であると思われる。また円形の棚には蒸し器のようなものも描かれている。

酒飯論 <クリックで拡大>

 同じく『酒販論』である。この男性は「おはぎ」のようなものを作っている。その右側に蒸した饅頭がおかれており、表面に赤点が打ってある。果物も置かれており、他にも描かれている男性が料理を作っているようなので、この男性は今でいうデザート担当のパティシエのような役割と言えるかもしれない。


現代の饅頭


 現代の饅頭、特に餡饅あんまんには赤い点が付けられている。ちなみにピザまんにはオレンジの点がある。現代では一般的にそれぞれの色のついた点は、中身を見分ける為の実用的なものだと考えているが、その起源は実は十字の代わりであるという説に行き着くのである。
 『貞丈雜記』六巻 飮食には、同じく何曾が十字に割れていなければ蒸餅は口にしなかったというエピソードを引用しながら、「十字を作とは、餅の上に小刀めを十文字に入て、くひよき樣にしたゝめたるをいふ也」とも述べている。
 本来であれば、蒸す方法の良し悪しで十字に割れるかどうかが問われていたが、ここでは小刀で最初から十文字を入れて食べやすくしたとある。よって時代の変遷を考えると以下のようなプロセスが饅頭にはあったのではないだろうか。

  蒸餅の蒸し方が上手ければ十字に割れる。(何曾)
        ↓
  始めから小刀で十文字を付けておくようになる。(貞丈雜記)
        ↓
  代わりに赤い点を打つようになる。(嬉遊笑覽)

 このように十字に割れる蒸し方によるテクニックが簡略化して、最終的に現在のように赤い点が打たれるようになったと言えるのかもしれない。

現代の饅頭

 現在ではピザまんや、カレーまんのような昔にはなかった饅頭の種類が増えており、中の餡は多様化している。それらには色付きの点が打たれているが、もともとは中身を見分ける為の実用的目的にではなく、何曾の贅沢から始まった十字が刻される事に対する要望が謂れなのである。


蒸餅をさらに深読みする


 饅頭の起源は、「饅頭」の項で説明したように、その起源に諸葛孔明が関係しているとされている。また元々は饅頭は人身御供の代替であったことから、肉を中に餡として詰めたものであった。つまり食事としての饅頭がもともとあり、その後に所謂スイーツとしての甘い餡がはいった饅頭へと変化したようである。

 ここで少し検討を加えると、何曾の時代は三国志の時代の終わりであるの、諸葛孔明の時代より、少し後の時代である。つまり、何曾の生きた時代は饅頭が発明された時代とほとんど同じ時代である。つまり何曾の食べていた蒸餅とは、現代でいうところの「肉まん」あるいは「中華まん」のようなものだろう。

 実は、この種の肉饅頭には、赤い印、あるいは何らかの色の付いた印は付けられていない。なぜなら肉餡が入ったものは、皮にヒダがつけられていて、一目見てそれと分かるようになっているからである。

現代の肉まん

 これは推測であるが、何曾が理想としたように饅頭の表面が十文字に割れていることの代わりとして、肉饅頭にはヒダがつけられるようになったのではないだろうか。蒸して熱が入りやすくなるという実用的なメリットは勿論であるが、それ以上に十文字に割れていたことにこそ、その起源があり、こうした何曾が理想とした肉饅頭にスタイルが形を変えて、コードのように現代でも肉饅頭にはヒダを付けることが行われているように思われる。


理想の肉まん


 何曾は、蒸餅が十字に割れていなければ食さなかったという『晋書』の部分を読んだ時、私はロンドンのチャイナタウンにある、よく行くお店の饅頭を思い出した。
 イギリスに棲んでいた時に、シンガポール人に教えられてからそのお店で肉饅頭を買って良く食べていたが、その饅頭は表面が十文字に割れているのである。

 お店の場所は、チャイナタウンの裏通りにある。表通りは中国料理店がひしめき観光客が押し寄せるエリアであるのだが、入り口も分かりにくく、その裏通りに観光客は絶対に誰も入ってこない。中国人の魚屋があり、雑然としているので、ちょっとヤバいところに足を踏み入れてしまったかのような感がする。饅頭店の入り口も、何屋かわからず、入るにはちょっと勇気がいる。しかも中国人は外国に住んでいてもコミュニティで成り立っているので、英語は話さなくても生きていける。しかも闇ブローカーを通して大陸から中国人はパスポートすらなかったりすると聞いた事がある…。そんな感じのする場所で、御多分に漏れず、この店でもあまり英語は通じない。ただ、6個入りの饅頭が£2なので、リーズナブルであり、しかも饅頭が旨い。それだけでない、なんと何曾が理想としたように表面が蒸して十文字に割れているのである。

ロンドンの蒸餅

 今でもロンドンに行くと、この店に寄って饅頭を買う。そして買って食べる度に何曾の事を思い出すのである。

店の名前
  河粉廠( Lo’s Noodle Factory )

店の住所
  6 Dansey Pl, London W1D 6EZ(リンクで地図表示)


 この店は本当は饅頭屋ではなく、河粉という米で作る麺の製麺所で、チャイナタウンのレストランの95%の麺を作っている。甘い餡饅と豆餡の饅頭もあり、餡饅には赤、豆餡の方には黄色い点が打ってある。こちらもお勧めなので、ロンドン在住者は訪ねてみて欲しい。

店の入口:階段手前を右側に入ると製麺所でそこで販売している



何曾の人となりとその子孫


 何曾は「性奢豪」とあり、贅沢を好む性格の人物だったと記録されている。その半面、非常にまじめで厳格な性格も持ち合わせていた。『晋書』には、何曾の一面をうかがわせるエピソードが記されている。

【晉書】
 曾性至孝,閨門整肅,自少及長,無聲樂嬖幸之好。年老之後,與妻相見,皆正衣冠,相待如賓。己南向,妻北面,再拜上酒,酬酢既畢便出。一歳如此者不過再三焉

【 訳文 】
 何曾の孝にすぐれた性格であり、女性関係にも厳格であった。若い頃から年を重ねるに至っても、音楽や妾を好むことは無かった。年老いて後、妻と会うのにも、衣冠を正し、客人を接待するかのようであった。何曾は南に向き、妻は北面し、二度お辞儀をして酒を奉って杯を交わし、すべて終わってから出かけた。一年中このように行い、誤らなかった。


 とあるように、真面目というか、厳格で厳しい人物というのが何曾の印象である。こうした性格である。竹林の七賢人のひとり阮籍とは当然ながら馬が合わなかっただろう。『晋書』には以下のように記されている。

【 晉書 】
 時歩兵校尉阮籍負才放誕,居喪無禮。曾面質籍於文帝座曰:「卿縱情背禮,敗俗之人,今忠賢執政,綜核名實,若卿之曹,不可長也。」因言於帝曰:「公方以孝治天下,而聽阮籍以重哀飮酒食肉於公座。宜擯四裔,無令汚染華夏。」

【 訳文 】
 歩兵校尉の阮籍は才能に頼って自由に振る舞い、喪中でも礼に従うことはなかった。何曾は文帝(司馬昭)の前で阮籍を問いただした「あなたは勝手気ままに振る舞い、礼にも背き、風俗を乱す人である。今忠義に篤く賢明な者が政治を執り行い、名称と実際を総合的に検討している。あなたは官職に長くいるべきではない。」さらに文帝(司馬昭)に対して言った。「閣下は今や孝を以て天下を治めておられます。ところが聞くところによると、阮籍は公の地位にありながらしばしば悲しんでは酒を飲み、肉を食べているとのことです。阮籍は遠方へ追放するのが良いでしょう。中華を汚させることはありません。」


 阮籍は、魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をした人物であったと言われている。俗物で礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。
 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉伶と酒を飲んでいたという。このように阮籍は既成の枠に捉われない人物であったと言える。
 個人的には、父親の本棚にあった阮籍の本で「竹林の七賢」のひとりであった彼の存在を知り、そこに載せられていた以下の詩に大きく心動かされた思い出がある。

【 詠懐詩 】
 夜中不能寐  夜中寐ぬる能わず
 起坐弾鳴琴  起き坐して鳴琴を弾ず
 薄帷鑒明月  薄き帳に名月の鑑(て)り
 清風吹我襟  清風は我が襟を吹く
 孤鴻號外野  孤鴻は外野に号(さけ)び
 朔鳥鳴北林  朔鳥は北の林に鳴く
 徘徊将何見  徘徊して将(は)た何をか見る
 憂思独傷心  憂思して独り心を傷ましむ


 阮籍は常に酔っていた。それは当時の偽善と詐術に満ちた社会に憂思して独り心を傷めていたからである。そして酔いながら常に冷め切っていた、それは当時の偽善と詐術に満ちた者たちが権勢をふるい驕り高ぶっていたからである。

 こうした阮籍であったので、当然、何曾とはまったく性格が合わず、何曾は司馬昭に、阮籍の左遷を諫言している。何曾にとって阮籍のような人物はもっとも嫌いなタイプであったと考えられる。それは阮籍が、礼を重んじる何曾とは真逆の性格だからである。

 不思議なことに美食を追及する者たちに共通して見られる特徴がある。それは「食は追及するものの酒はあまり飲まない」という相関関係である。実際に随園袁枚も酒はあまり飲まず、美食の大家として知られている蘇軾も酒が弱かったことが知られている。日本でも『詩本草』を記した柏木如亭も酒には弱いと記してある。

 これは推測であるが、何曾もまた酒を飲まず、好まなかったのではないだろうか。贅沢で奢侈を極めた殷の紂王が「酒池肉林」を実行したことは歴史に有名であるが、何曾の奢侈はそれとはまったく性格が異なったものであった。何曾については「女性関係にも厳格であり、音楽や妾を好むことは無かった」と述べられている。「食」に関しては極上の贅沢を尽くしていたが、酒についての言及は特にない。よってどちらかというと、何曾は酒を飲んで酔うことや、それによって礼を怠ることを嫌っていたのではないか。
 そう考えると、何曾が、礼に失している阮籍を嫌うその理由の根底には、阮籍が酒飲みであるという理由が大きいとのではないかと私は考えている。

 記録には無いが、当然、阮籍の方も何曾の礼を重んじる性格を軽蔑していたに違いなく、何曾に対しては青眼でなく白眼を向けていたはずである。なぜならば晋という新しい国を設立した立役者である、何曾こそが禅譲という一見すると穏健な方法で、その実は魏から偽善と詐術によって帝位を奪いとった中心人物のひとりだからである。またそれだけでなく、自分は驕り高ぶり華美な生活を行いながら、人には厳格な礼を強いる何曾のような人物は、阮籍がもっとも毛嫌いする鼻持ちならない人物であったに違い。

 こうした記録を見ると、何曾は、人に厳しく自分に甘い男であったことが理解できる。何曾には政治的な才能があったに違いないが、決して大人物ではなく、人間としての度量が小さい狭量な印象を受ける。これは私が阮籍を好み、贔屓しているからというだけでない。人には厳しい要求をしながらも、自分に対しては贅沢三昧の生活を送っていた何曾という人物に関しては、私も白眼でもって彼のことを記したいと思うのである。

 こうした贅沢を好む傾向は、当然ながらその子供にも引き継がれる。何曾の息子である何劭がその跡を継ぐことになったが、その息子も非常に優秀でありながら、父の何曾に似て、驕り高ぶりまた豪奢を好む者となった。『晋書』は以下のように説明している。

【 晉書 】
 而驕奢簡貴,亦有父風。衣裘服翫,新故巨積。食必盡四方珍異,一日之供以錢二萬爲限。時論以爲太官御膳,無以加之。

【 訳文 】
 驕り高ぶり横柄なところは父である何曾と同じであった。衣服や身の回りの品々は新しいものから古いものまで膨大に積まれていた。食事は必ず四方の珍味を尽くして、一日の食事は二万銭を限度としていた。太官(宮中の食事を担当する官職)が料理を供するとしても、何劭の為の食事には何も出すものがないと論じられていた。


 このように息子の何劭について伝えている。驕り高ぶり横柄なところも鼻持ちならないが、加えて食費が一日二万銭とある! 父親の何曾の時は万銭とあったので、二倍の食費である。これは父親を上回る豪奢さである。

 何曾亡き後、何氏には、息子の何劭や、孫の何岐。そして何曾の妾が生んだ子に何遵がおり、その何遵の息子たち何嵩・何綏・何機・何羨についての記録が残されている。しかしそのいずれの者たちも贅沢好みで、かつ驕っており横柄であったことが記され、民の尊敬が得られず、何氏は途絶えてしまったと述べられている。
 一般に「食は三代」と言われ、食を極めるには三代に渡り美食を重ねなければ身に付くものでないとされているが、その三代目が身に染み付いた贅沢で身代を潰すというのも良くある話である。この何氏一族のエピソードもまさにそれを地で行く話であると言えるだろう。

 何曾は贅沢で美食を尽くした人物として、現代でもなお、饅頭にまつわる部分で名を残しているというのは大変興味深い。皆さんも、これからアンマンの赤点を見る度に、何曾が豪奢で、十字に割れてなければ食べようとしなかったという故事を蘊蓄として語ってみて頂きたい。
 まことに「食」とはかくも深き洞察を要する分野なのである。





参考資料



『美味求真』饅頭 河田容英

『晋書』  房玄齢・李延寿

『嬉遊笑覽』 喜多村信節

『吾妻鏡(東鑑)』 

『萩原隨筆』 喜多村信節

『本の万華鏡』 第1章 駆け足でたどる和菓子の歴史

『貞順條々聞書』 

『CHINA TOWN LONDON』 Website