進士流しんしりゅう

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大草流から分かれた進士流


 進士流は室町時代末期に、細川晴元(1514年~1563年)に仕えた進士次郎左衛門尉が 大草流 から分かれて創始した流派であるとされている。室町時代に入り、将軍家が京都に拠点を置くようになったことから、公家社会だけでなく武家社会内においても料理の重要性が高まっていった。こうした武家社会での応饗は新たな料理流派の需要を生むことになり、これまで公家に仕えてきた従来の庖丁家ではなく、武家出身の氏族がそれを担うようになっていったのである。
 室町時代から始まったその最たるものは大草氏であり、武士として戦に参加した歴史をもっているだけでなく、将軍家の料理を準備するという任務においても重要な役職を占めるようになった。また同じ武家の出身であり、大草流から派生した進士氏も、将軍家の料理に関係した役職を担うようになり、それが世襲的に行われることで室町時代後期になると、政治的にも重要な役職を担うようになった。

 こうした武家の料理流派が室町時代に起こるようになったことには理由がある。この後、時代は戦国時代の乱世に入ってゆくが、武家の台頭により、その勢力と利権の争いは激しさを増し、権力者は毒殺の可能性も考慮しなければならなくなる。そうなると信頼できる武家の部下の者が料理をすることが安心につながったと考えられる。毒殺の危険性に関しては 大草流 の項で詳しく述べているのでそちらを参考にして頂きたい。

 さて、広島大学文学部には「進士家世襲文書」が所蔵されている。
 基本的に進士氏は美濃を拠点とした氏族であったようであるが、その文書中には、将軍から預かっている御領地として、加賀比落村、越中三田杜、越中岩蔵、河内国伊香賀郷などの地頭職、三河大矢原、三河岩堀、近江国三宅上郷、近江国松原、近江国吉田庄、下野国足利庄山河郷などの、足利将軍ゆかりの地を任されていたことが記録されている。ここからも進士氏が、将軍と近い立場にあったことが伺える。
 また「進士家世襲文書」には、進士氏が、将軍の食膳の調理を行う「供御職」を世襲するようになった理由が述べられている。もともと畠山流としての庖丁流派は存在していたが、こうした庖丁道の仕立て方、庖丁式、食事作法など膳部一切が、その旗本であった進士次郎左衛門尉へと伝えられた為であるとしている。畠山家は非常な名門であり、そこから多くの料理に関する故実を受け継ぐことにより、進士氏は大草氏から別れて、ひとつの新しい料理における流派を打ち立てることが出来たという訳である。

 古代以来権力者の暗殺には毒が使われることが多かったため、足利将軍家の調理は特に信用できる譜代の家臣に任されていたのであろう。大草流を確立した大草氏は将軍の元服など儀式での料理を担当し、それに加えて進士流もまた、仁木、細川、畠山各氏に仕えて将軍のための饗応料理の準備を行うようになったとされている。


御成とは何か?


 将軍が、臣下の邸宅を訪問することを「御成おなり」といった。御成は、世間に主従関係を知らしめるための機会であり、家臣である大名たちは、訪問してくる将軍対するもてなしを盛大に行った。
 室町時代の足利義満の代から御成は始まり、時代の経過とともに儀礼として様式化され定着していった。室町時代の以降、豊臣秀吉の時代も、また江戸時代にも御成は行われ続け、こうした行事は単なる饗宴としてではなく、政治的に重要なもののであると見なされていったのである。

 時代が下がると「御成」は、高度に様式化されてゆくことになり、様々な故実がそれに絡んでくるようになる。故実とは昔の儀式・作法・服装などの、さだめ・ならわしである。こうした典拠を重んじる伝統主義的な要素が多く含まれているため、「御成」のような儀礼を司ることには、それを十分に理解していることが試されるようになり、それが教養や文化に通じているかどうかという評価にも繋がっていた。こうした高度に専門化された知識は、それを得意とする家によって受け継がれ、伊勢、大草、進士といった氏族が世襲で受け継いでいったのである。

 『在京大名細川京兆家の 政治史的研究』浜口誠至は、「御成」とはどのようなものであったかについて以下のように整理されている。

① 将軍の大名御成は、将軍が有力大名の館を訪れ、饗膳や猿楽による饗応を受ける幕府儀礼である。
② 大名邸御成は儀礼内容を記した別記が現存する特別の儀礼であった。
③ 別記の存在は儀礼的に挙行しようとする意志の現れであり、御成が室町幕府の重要な儀礼であったことを物語っている。
④ 応永年間(義満の代)に幕府の正月行事として管領邸への御成始めが成立し、以降、管領家や侍所頭人である四職を勤めた諸邸へも恒例の御成が行われるようになった。
⑤ 幕府の公式儀礼を滞りなく勤めることが、家門の名誉・面目に関わるものとして重視されていた。
⑥ 御成の対象となったのは、幕政に参加した有力大名であり、御成が幕政の政策的意図に基づいて行われていた。
⑦ 戦国期は正月の恒例御成が廃絶する一方で不定期に行われる臨時御成が増加し、幕府儀礼として機能した。
⑧ 大名邸御成は将軍交代後や大規模な合戦など、政局の転換期を中心に実施され、政治秩序を形成、維持する儀礼として用いられた。


 要約すると「将軍を招いて宴会をする」のが御成であるが、やはり単に食事を出してもてなす以上の深い意味があることを理解できる。こうした背景があるならば、御成を執り行うにおいて、それに通じた料理で饗応することに関する知識を持った人物も重要な役割を担うとして重要視されたであろうと推測できる。


進士晴舎しんじはるいえの饗応手配


 「御成」が重視されるバックグランドの中で、進士氏は庖丁流派として世襲された有職故実に関する知識を活かしながら、室町幕府内で重要な役目を果たすようになってゆく。
 足利義輝の時代に、『三好筑前守義長朝臣邸へ御成之記』『永禄四年三好亭御成記』によると「進士美作守晴舎」しんじみまさかのかみはるいえが御成において料理を司ったことが記録されている。ルイス・フロイスも進士晴舎を「内膳頭」として記録しているので、特に料理の「式法」における中心人物であったことは疑う余地がない。

 さてここから進士晴舎が、永禄四年(1561年)に三好長慶が将軍の足利義輝を招いて御成を行った宴席において、どのように十七献立を司り、料理を準備したのかを見ることにしたい。
 「永禄四年三好亭御成記」は『続群書類従. 第23輯ノ下』に記録されており、現代の我々もその日のメニューがどのようなものであったかを確認することが出来る。

【 永禄四年三好亭御成記 】

 進士美作守 請取調進献立次第

 式三献 

 まずは亭主の三好長慶と、将軍の足利義輝、側近数名だけ別室で「式三献」が行われた。始めに三食を食べ、三献の酒を飲む。

  初献 - とり、亀の甲  雑煮
  二献 - のしたスルメ、貝  鯛
  三献 - するめ、蛸を、醤(ひしお)で味付けしたもの


 七五三本膳料理 

 ここから場所を広間に移して、他の約10名以上の参加者も加わり食事となる。7つの膳が客の前に一度に並べられる。一の膳には7種類、二の膳、三の膳には5~7種類、そして四~七の膳には3種類の料理が盛られ、2種類や4種類の料理が盛られることはない。これは3,5,7が陽数であり、これらが目出度い数字だからである。これをもって「七五三本膳料理」という。

  御ゆづけ(7種類)
    塩引き
    焼き物
    桶
    和え混ぜ(和え物)
    香の物
    かまぼこ
    覆面鯛(鯛を焼いてほぐし摺って味付け)

  二の膳(5~7種類)
    蛸
    くらげ汁
    カラスミと辛螺ニシ
    海老
    集汁アツメ(魚、野菜の入った汁)

  三の膳(5種類)
    こさし(鶏の串焼き)
    カサメ(鮫)
    くぐい(ハクチョウ)
    鶏
    鯉


  よの膳(3種類)
    酒びて(塩を加えた酒、肉や野菜を浸し食す)
    貝鮑 鯨
    おちん

  五の膳(3種類)
    鮨
    うずら
    こち

  六の膳(3種類)
    鮦
    赤貝
    えい

  七の膳(3種類)
    くま引
    しぎ
    鮒


 御菓子 

  こんにゃく  麩  胡桃
  打栗  イモ  苔  結び昆布
  串柿  からはな  みかん


 献立 

 ここからお酒が出るので、料理はお酒に合わせた内容になる。主人と将軍は最初の「式三献」で三献まで進んでいるので、形式としては四献から始まる。他の客はここからお酒を飲み始め、それに対しての料理が出されるので「献立」という。

  よ献
    麦
    御そいもの橘焼

  五献
    おちん(干魚辛酢茹で)  イカ  いもここ

  六献
    饅頭  御そいもの(押物) れうさし

  七献
    はむ  青膾  鱏

  八献
    三方膳  御そいもの(押物) マナガツオ

  九献
    鱏  鮓  いるか

  十献
    羊羹  御そいもの(押物)赤貝

  十一献
    ごんぎり  ぱい  桜煎

  十二献
    魚羹  御そい物-フカのさしみ

  十三献
    削り物  酒浸  浮煎

  十四献
    巻するめ  栄螺サザエ  鯨

  十五献
    熊引クマビキ(シイラの塩焼き)   クラゲ   コチ

  十六献
    ツグミ  鯛の子  鴨

  十七献
    カラスミ  蛤  せいご


 このような17献にも及ぶ饗応は、朝から夜まで一日がかりで行われた。しきたりに従い、滞ることなく料理の手配を行う事はホストとして重要な務めであり、これを司った進士晴舎には、料理とそれにまつわる有職故実に関する豊富な知識が求められたであろう。


進士晴舎の地位


 さて御成において「内膳頭」として料理の手配を行っていた進士晴舎であるが、室町幕府では実際にはどのような地位にいたのだろうか。

 進士晴舎は、幕府の「奉公衆」という立場で足利義輝に仕えていた。奉公衆とは将軍に仕える御家人が任命される武官官僚である。将軍を軍事的に守りサポートするという任務であるので将軍とも近い立場にあった。
 しかも進士晴舎の娘「小侍従こじじゅう」は、足利義輝の側室となっており、進士家は将軍家と親族関係にあった。

 永禄8年5月19日(1565年6月17日)に「永禄の変」という事件が起こるが、これは室町幕府第13代将軍足利義輝が、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢が、京都二条御所を襲撃し、将軍を殺害した事件である。
 三好・松永の約1万の軍勢は清水寺参詣を名目にを結集。軍勢が京都二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありとして取次ぎを求めた。
 この訴状の取次ぎを務めたのが、進士晴舎である。しかし訴状の取次ぎに往復する間に三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始を始める。
 この取次の間に敵の侵入を許したことを詫び、進士晴舎は御前で切腹した。


進士藤延しんしふじのぶ

 進士晴舎の切腹後、足利義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出たとある。ルイス・フロイスは『日本史』の中で、進士晴舎の長男の「進士藤延」しんしふじのぶが最初に打って出て討死したと述べている。よってこの日に進士家の当主と、その跡継ぎの嫡男の二人が死んでしまったことになる。これは進士氏にとって大きな打撃であったに違いない。
 その後、多勢に無勢ではどうにもならず、足利義輝を始め、多数の武将が奮戦したが、結局は討死してしまったのである。これを「永禄の変」という。

 進士晴舎の娘の小侍従も足利義輝の寵愛を受けていたので京都二条御所にいたが、この日は無事に逃げ延びている。しかし後に発見され、殺害されてしまっているので、「永禄の変」で進士氏は3人の主要な人物を失うことになり、それ以降は進士氏は急速に力を失ってしまったとされている。


進士氏と明智光秀の関係


 小林正信の『明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』には、明智光秀と進士氏の関係が語られている。その中では、明智光秀は、実は「進士藤延」であると説明されている。「永禄の変」で実際には、進士藤延は討死してはおらず、信長に仕えたときに名前を織田信長に変えるように命じられたことにより「明智光秀」として世に出ることになったというのがその論旨である。
 この説には賛否両論あり、定説とはなっていないようであるが、明智光秀と、進士氏との関係を改めのて深く考えさせられる説となっている。

『明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』
小林正信 著




明智家と進士家のつながり


 小林正信の説だけでなく、他にも記録に出てくる進士氏を調べてゆくと、やはり進士氏は明智光秀との関係性が深いことが分かってくる。明智家と進士家は相互に婚姻関係を結び、数代前からかなり強い密接な血縁関係あったことが『明智氏一族宮城家相伝系図書』に記されているからである。そこには以下のような記述がある。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』
 光綱生得多病 而日頃身心不健也 因家督之一子設不 故ニ父宗善之命蒙 甥ノ光秀養 以テ家督為 光秀ハ光綱之妹婿進士勘解由左右衛門尉信周之次男也


 ここに書かれているように『明智氏一族宮城家相伝系図書』には、明智光秀の父である明智光綱には病気であり子どもが出来なかったため、進士勘解由左右衛門尉信周(進士信周)の次男を養子としてもらい受け、その養子を明智光秀として家督を継がせたことが記録されている。そうなると明智光秀はもともとは進士氏の出であったということになる。
 さらに記録を見ると、光秀の血縁上の父である進士信周は、光秀の養父である明智光綱の最初の妹を妻にするが、その妻が26歳で亡くなると、今度は光綱の2人目の妹と再婚したと記されてある。ここにも明智家と進士家の関係性の強さが伺える。

 他にも記録として熊本の安國寺に『土岐系圖』が残されており、そこには明智光秀は土岐系山岸氏の山岸信周(進士勘解由左右衛門尉信周)の次男ではなく四男だとしてある。
 小林正信説では、明智光秀は進士晴舎の長男(進士藤延)であるとしているが、『土岐系圖』では、明智光秀と進士晴舎が兄弟であると述べている。進士晴舎が嫡子で、明智光秀が四男ということである。以下、『土岐系圖』の該当文を引用する。

【 安國寺蔵「土岐系圖」 】
信周子多クアリ嫡子進士美作守晴舎ト云部屋住ニテ将軍家ニ直勤ス 次男岸勘解由信舎ト云 三男進士九郎三郎賢光ト云ウ 四男乃チ明智光秀也 以下ノ子略之 右各母ハ明智光隆ノ姉也 又信周ノ嫡子進士晴舎是ヲ山岸ノ総領トス 始終在洛セリ 数子アリ嫡子ヲ進士主女首輝舎ト云 次男を進士作左衛門貞連ト云 三ツ同六郎大夫貞則ト云 四ハ養子ト成テ安田作兵衛国継ト云ナリ 右各母ハ伊勢兵庫頭貞教女也



進士作左衛門貞連について

 幾つかの史書を見ると、明智光秀が山崎の戦いで敗れたあと、光秀と共に落ち延びて一時は死んだとされた進士作左衛門貞連は、進士美作守晴舎の二男であったと述べられている。
 そうなると、この光秀と貞連の二人は実際には叔父と甥にあたる関係ということになる。(小林説によると、明智光秀は実際は進士藤延と同一人物であるとしているので、明智光秀[兄]と、進士貞連[弟]は兄弟であるという事になる)

 この進士作左衛門は細川家記である『綿考輯録』によると、明智光秀が山崎の戦いに敗れ、勝竜寺城を出て最後まで光秀に従った七騎のうちの一人である。光秀と共に死んだとされたが、実は死んではおらず、後に細川家に仕え、忠興嫡子の忠隆付きになるのである。

 その後、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの時、細川藤孝 は田邊城で籠城を行ったが、籠城した味方のなかに、この明智光秀の側近だった進士作左衛門貞連の名前がある。
 沼田氏略系図からすると進士貞連は、細川藤孝の義理の甥にあたると示されている。(細川藤孝の正室であった沼田麝香の妹は、父の進士晴舎の正室(進士貞連の母)であった)
 また関ヶ原後の忠隆廃嫡時にも、進士貞連は、忠隆に従い加賀まで行き、後に前田家預かりの身となった。さらに進士貞連の息子が牛之助であることについても述べられている。
 こうした記録は細川家の記録である『綿考輯録』に含まれており、進士作左衛門貞連については次のように述べられている。

『綿考輯録』第一巻藤孝公p251
 親を進士美作守と申候て、光寿院様御妹婿也、作左衛門は明智殿ニ奉公、最後まて供致したる七騎の内なり、其後忠興君被召仕候由此比ハ御奉公ハ不仕候而、幽齋君より少扶持を被下置候処、籠城仕、大手杉馬場口の受取にて相働申候、其後忠隆(忠興長男)之御供仕、北国に罷越、御牢人被成候節、加州ニ御預ヶ置数年罷在、江戸にてハ三齋君・忠利君へも御目見仕候由、三齋君御従弟の御続也、寛永の末比作左衛門は果、其子牛之助も忠利君江御目見仕、御脇差なと被為拝領候、牛之助加州にて弐百五拾石取候由、馬廻組なり、平野弥次右衛門、加州に居候時之組衆にて候由、其故を以、慶安元年弥次右衛門を尋候て、肥後に来候、右有増の次第、弥次右衛門より申上候、書付伝来いたし候、御家に御奉公候由に候得とも、被召出候哉もわかり不申候


 ここでも進士貞連は光秀と共に死んだのではなく、細川家(忠興、忠隆、忠利)に仕えたことが記されている。この当時の進士流の世襲者は、貞連であったはずであるが、記録を見ても料理に関することは特に述べられていない。大草氏と同様に、進士氏も戦国時代は武家として存続しつづけたが、料理との関係については特に取り上げられることは無くなっている。
 しかし、進士貞連について注目しておきたいのは、内膳頭として御成で料理手配を行っていた進士晴舎の息子であると示されていること。さらに進士貞連が明智光秀の死のその間際まで、側に仕え行動を共にしていたという事である。
 つぎに、進士貞連も家臣として仕えていた明智光秀が、料理と関係した天正十年の饗応の記録を取り上げてみたい。



明智家と料理


 明智光秀は、天正10年に織田信長に命じられ、徳川家康が安土城を訪問に備えて、饗応の準備を行うことになる。その際に明智光秀が備えた料理が『続群書類従. 第23輯ノ下』に記録として残されている『天正十年安土御献立』である。そのような料理だったのか以下(5月15日の到着時の料理と夕食)、を書き出すことにする。

『天正十年安土御献立』五月
 十五日おちつき膳

 本膳 
  たこ  鯛の焼物  菜汁
    なます
  香の物  鮒ずし  ごはん

 二膳 
  うるか  うちまる(宇治丸)  ほや冷汁
    ふとに(干ナマコにナガイモを入れて、すめ味噌で煮る)
  かいあわび  はむ(はも)  鯉の汁

 三膳 
  やきとり(雉)  つる汁・やまのいも
    かさめ(ワタリガニ)
  にし(螺)  鱸汁

 よ膳 
  巻するめ
    鴫つぼ  鮒汁
  しいたけ

 五膳 
  まな鰹の刺身
    生生姜酢  ごぼう  鴨の汁
  削り昆布

 御菓子 
  ようひもち(羊皮餅)  まめあめ
    美濃柿
  花に昆布  から花(飾り物)


『天正十年安土御献立』五月
 十五日晩御膳

 本膳 
  みつあえ  こまごま
    鮎のすし
  ひたい(干し鯛)  ごはん

 二膳 
  串あわび  こち汁
    奈良漬け
  かいあわび  はむ(はも)  鯉の汁

 三膳 
  角煮
    鯛の羹
  つぼ

 折二かう(木を折り曲げて箱にしたもの。足のついた台)
  角盛り(鰹を酢煎という煮物)
  ふくらいり(ナマコを、だし、たまりの中で煮る)
  きしませにどうふ
  つぼもり
 折二かう
  外いろいろ


 徳川家康の安土訪問のために、明智光秀が準備した献立が上記である。織田信長がなぜ明智光秀に命じたかというと、それは明智光秀が料理・饗応に通じていたからであろう。そう考えるとやはり進士氏とのつながりが意識されることになるのである。
 先に「永禄四年三好亭御成記」から、進士晴舎がどのような料理を「御成」で準備したかを説明したが、こうした知識が(明智光秀=進士藤延であると仮定して)受け継がれていたのであれば、徳川家康への饗応において、明智光秀が手配を行うことは確かに適任であったと言えるだろう。

 小林正信説に従うならば、明智光秀=進士藤延であるので、永禄四年三好亭御成の際に、父の進士晴舎に従い料理手配の仕事を側から見ていたと考えられるだろう。また進士流の嫡男であるので、当然、その知識が受け継がれるための何らかの教育が行われていてしかるべきである。
 明智光秀の生まれに関しては諸説あり、はっきりしていないが、それでもどのような家系図を見ても進士氏とは何らかの関係があることは否定できないように思われる。よって料理手配において、何らかの専門的な知識を明智光秀が有していたことは不自然ではなく、しかも、織田信長はそうしたバックグランドを知っているので、明智光秀に饗応を準備するように指示したのではないだろうか。

 さらにもう一点を挙げれば、明智光秀の家臣の「進士貞連」存在である。
 この進士貞連は、明智光秀が山崎の戦いに敗れて、落ち延びてゆく際に行動を共にしていた七騎のうちの一人であるので、明智光秀とはかなり近く、信頼のおける存在であったはずである。また進士貞連は、進士晴舎の次男である。よって小林正信説に従うならば、この兄弟(明智光秀=進士藤延と進士貞連)は最後まで行動を共にしていたことになる訳である。
 もし小林正信説を否定するとしても、進士貞連は進士晴舎の次男であるので、進士晴舎は、嫡子である進士藤延と共に、弟の進士貞連にも永禄四年三好亭御成のような御成を通して進士流の料理を学ばせていたのかもしれない。進士流の家に生まれた者のひとりとして、このような料理に関する教育は当然行われたものと考えるべきだろう。そのひとりが明智光秀の側にはいたのである。


明智光秀と進士貞連(天正十年安土御献立)

 天正十年安土での徳川家康の饗応を明智光秀は担当することになったが、織田信長は、明智光秀が適任であると考えた理由は、やはり進士氏とのつながりや関係性からではないだろうか。明智光秀が料理の整えるにおいては、以下の点から適任であったと考えることが出来る。

 ① 明智光秀=進士藤延であれば、自身が進士流の嫡男として知識と経験を有していた。
 ② 進士氏との親族関係から、進士流の知識、あるいは何らかの饗応の知識を有していた。
 ③ 進士貞連という側近から、進士流のアドバイスを得ることが出来た。

 こうした要素を考えると、織田信長が饗応を明智光秀に任せたのは、適任であったと結論づけることが出来るに違いない。

明智光秀

 しかし、話はそれだけで終わらなかった。
 『川角太閤記』によると、明智光秀は、織田信長の逆鱗に触れ、直前になって饗応役を解任されてしまう。さらに、中国地方で毛利を攻めていた豊臣秀吉をサポートするために、すぐさま軍をまとめて出兵するように申し付けられたのである。この十数日後に、その援軍を率いた明智光秀は京都に攻め込み、「本能寺の変」が起こり、織田信長は討ち取られてしまう。

 明智光秀が謀反に至った原因は「饗応役を外されたことが屈辱的であった」というのも理由のひとつであると考える歴史家は多い。確かにこの事件が明智光秀の謀反の引き金になったのかもしれない。その他にもさまざまな説があるが、進士流という料理流派と明智光秀との関係から考えると、小林正信説は非常に興味深い見方であるので紹介しておくことにしたい。

【 明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊 】P340
 『川角太閤記』が明智光秀邸から堀秀政邸へ徳川家康の宿舎が代わったとしているのは大変重要な意味を持ちます。『川角太閤記』には『信長公記』が大宝坊所を家康宿舎としていることを併記して、二説あることを明示しています。堀秀政は、十七日に秀吉の使者として備中に出発することから、家康宿舎は堀邸からさらに変更されて、最終的には大宝坊所に落ち着いたとも考えられます。
 宿舎が明智光秀邸であれば、当然の事ながら亭主は明智光秀ということになります。当初信長が意図した計画とは、安土城にある明智光秀邸に家康を招いて自身の「御成」であったではないか、と考える事が出来ます。亭主である光秀がこれを直前になって拒否したことは、前代未聞のことで信長の権威を大きく貶めるものであることは論を待たないところです。

 - 中略 -

 光秀が饗応を外された後、丹波長秀と安土三奉行の堀秀政・長谷川秀一・菅屋長頼に交替しますが、これでは織田家の饗応となってしまいます。


 ここでなぜ、明智光秀が饗応役を外されたかに関する、新しい見方での考察がなされている。つまり織田信長は、明智光秀に「御成」を行わせ、そこに自分(信長)と、徳川家康を招かせようとしたのではないか。さらに「御成」は将軍だけが行える行為であり、織田信長の「御成」は越権行為であるとして、明智光秀がそれを拒否したために、織田信長は激怒して、明智光秀を足蹴りし、饗応役を外したのではないか、という考察である。
 『川角太閤記』では明智光秀が準備した魚が腐っており、それが信長の逆鱗に触れたという理由を述べているが、それは対外的な理由付けとして、表向きにそのように語られただけなのかもしれない。だがもし、明智光秀が「御成」としての饗応を行うことを拒否したとするならばどうだろう。信長の面子を保つためには、明智光秀の準備した魚が腐っていたという事にすることで、徳川家康を饗応するという重要な任務を突然に解任するための言い訳にしたと考えられないだろうか。少なくとも明智光秀の方からそうした理由で断られたということが公になれば、織田信長の面子は丸つぶれとなった事であろう。


料理に込められた思惑

 ここで、『天正十年安土御献立』の明智光秀の料理で、私が気になっている点を挙げておきたい。それは5月15日のおちつき膳で準備された「よ膳」の料理である。数字で表せば4番目のお料理なので「四膳」とすべきであるが、「=死」に繋がるとしてか、こうした場合はすべて「よ膳」という表記で記す事になっている。この「よ膳」の料理構成は以下の通りである。

  巻するめ
    鴫つぼ  鮒汁
  しいたけ

 この料理構成が、私は非常に気になる。なぜならば本膳料理は、必ず陽数である奇数(7,5,3)で揃えられなければならず、陰数である偶数(2,4)が用いられることはないはずだからである。しかしこの膳では四品が並べられることになっている。しかも四膳目で、四品となっているので、そこがどうにも気にかかってしまうのである。
 様々な説を調べてみると、徳川家康への饗応は、毒殺による暗殺の意図もあったというような説も出てくる。
 有職故実に通じていたはずの明智光秀が、何故「よ膳」をこのような構成にしたのかについて述べられている説明はないが、間違い、あるいは無知ゆえこうした構成になったとはどうしても考えられない。よって、この「よ膳」に何らかの深い意図が込められていたのではないかと推測してしまうのである。それは極端に考えれば毒殺の可能性であり、そこまでとは言わないまでも、明智光秀は始めからこの饗応が失敗することを望んでいたのではないかとも考える事が出来るかもしれない。
 実際に、この徳川家康へのこの饗応はズタボロの結果に終わったようである。まず宿舎であるが、明智光秀邸から堀秀政邸へ変更され、堀秀政は17日に秀吉の使者として備中に出発することになり、家康宿舎は堀邸からさらに変更されて、最終的には大宝坊所に落ち着いたようである。ここでも手配が右往左往していて手際の悪さが見える。


能における饗応の不手際

 さらに同年5月19日に安土御山総見寺で、家康を招いて舞と能が披露される。しかし『宗及他会記』でこの会に出席していた堺の茶人の津田宗及が、梅若太夫の猿楽に対して織田信長が折檻したと記してある。さらに太田牛一の記した『信長公記』にも同様に梅若太夫が舞があまりの不出来であったので信長が折檻したと記している。
 この猿楽師「梅若太夫」は、梅若家39世の梅若広長(別名:波多広長)である。
 この梅若太夫は、明智光秀の領国である丹波からきた猿楽集団の者であり、上林(現在の美山町宮脇)に住んでいた梅若家38世の梅若直久の子と言われているが、丹波の伝承によると梅若家久という人物の子であるとも言われている。また梅若広長は声が良く、妙音大夫と呼ばれた。織田信長からは、世木庄に五百石の領地を給わっている(現在の日吉町殿田)

 この梅若広長に関して、後代の子孫である52世梅若六郎(1828年~1909年)が書いた日記の中に非常に興味深い部分がある。以下、その日記を引用する。

【 梅若日記 5巻 】明治27年11月 P258

一、本日諸家ヨリ右能ニ付き紅葉館の座敷種々之品展覧会ニ付自家ヨリ出品之書付左之通。

「徳川家康公御黒印」
 慶長十四年家康公愛宕御登山之時吾祖三十三世梅若太夫氏盛陪従仕旧領之所領御問アリシカバ天安天慶之比ヨリ数百年間丹波ニ所領アリシモ又梅若広長天正十一年討死之後領地混乱シテ弁スヘカラス。サル旨言上セシニ家康公携フル所之杖頭ニテ山上ヨリ丹波地之一地域ヲ指画シ以来所領ニナスヘキ旨仰セラレ其証書ヲ作ラシメ氏盛ニ授ケ同年九月(且従臣権田小三郎ヲシテ)駿府城帰城之後御前ニ於テ黒印排領仕候也。


 これは梅若実(52世梅若六郎)が書いた明治27年11月3日の日記である。簡単に説明すると、紅葉館での展覧会のために梅若家が所有する書画を出品したことを述べているのだが、その中に「徳川家康公御黒印」が含まれ、その文書の内容も記されている。この家康が記した御黒印には「数百年間に渡り丹波に領地を所有していた梅若広長が天正11年に討死した」と述べてある。
 梅若広長は、明智光秀の家臣であり、明智光秀に加担し、山崎の戦いで傷つき後に戦死したのである。(没年天正11年 1583年)

 こうした史実に向き合うと、天正10年5月19日に安土御山総見寺で行われた信長と家康の宴で、信長が折檻したという、梅若太夫=梅若広長の能が生々しいものに思われてくる。



「御成」を拒否した光秀

 織田信長に対して光秀が「御成」を行うのを拒否したという説は、明智光秀が進士藤延であるとするならば、確かに腑に落ちる説であるように思う。小林説では、明智光秀は織田信長に仕えていたが、以下のような明智光秀の望みが阻まれた為に「本能寺の変」を起こしたのではないかと説明しているからである。

 ① 明智光秀はあくまでも足利将軍家の再興を目指していた(信長も同様であると思っていた)
 ② 明智光秀の息子とされる明智光慶は、実は足利義輝の落胤であった。
 ③ 足利将軍家を差し置いて、織田信長が、自ら将軍となろうとした。

 というポイントを小林説で述べている。これは進士藤延は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)の「永禄の変」で討ち死にしたとされていたが、実際には生き残り、足利義輝の側室であり、妹でもある小侍従と、その子を保護していたのではないかという仮説にも基づいている。
 小侍従は二条御所から逃げ延びることが出来たが、後日、捕らえられ斬首される。しかし斬首の時に最初の一撃目を首切り人(ナカジ・カンノジョウ)が失敗し、顔が潰れ判別が難しくなったことをルイス・フロイスが記述している点を小林説は指摘している。また、小侍従は、娘しか出産していないとみなされているが、『言継卿記』に記されている永禄8年4月21日の出産後の雰囲気を見ると、男子が生まれていてもおかしくないような記述が残されている。(※出産時に餅が振る舞われ祝賀ムードであった)
 こうした記録から推測して、小林説では、小侍従は生き延び、その息子の明智光慶は、実は足利義輝の落胤であること。さらに明智光秀は、明智光慶を将来には擁立して足利室町幕府を再興しようとしていたのではないかと結論付けたのである。

 さらにこうした理由として取り上げられていた幾つかの根拠のひとつである、『津田宗及茶湯日記:天王寺屋会記』からの引用も示しておきたい。

【 津田宗及茶湯日記 】
 同四月十二日之朝 長岡與一郎殿之振舞
一 御人数 惟任日向守殿父子 三人
  長岡兵部太夫殿父子 三人
  紹巴 宗及 宗二 道是
一 御酒半ニ 地蔵行平之太刀 従與一郎殿
  日向殿へ御進上候也
(天王寺屋会記)


 津田宗及茶湯の記録によると、天正九年四月十二日に、この場に招かれたのは10人である。明智光秀(惟任日向守)とその子供が2人、細川藤孝(幽斎:長岡兵部太夫) とその息子である細川忠興(長岡與一郎)ともう一人の子息である細川興元。里村紹巴 山上宗二、平野道是、そしてこの日記の作者である津田宗及である。
 この会の主催者は細川忠興であり、岳父(細川ガラシャの父)である明智光秀を宮津城に招待した内容である。そこでは七五三本膳料理で、もてなしが行われている。



名刀:地蔵行平

 さらに注目したいのは、酒宴の半ばに名物「地蔵行平」という刀が贈られたことである。この刀は平安時代末期から鎌倉時代前期の豊後の刀工、後鳥羽院御番鍛冶の一人であった「紀新大夫行平きしんだゆうゆきひら」の作である。刃長79.9cm、反り2.9cm。鎬造。鎺元に地蔵が彫り込んであるのが特徴である。現在は国宝として指定されており、細川家所蔵品の博物館である永青文庫に収められている。

国宝:地蔵行平

 地蔵行平は細川家の家宝である。小林説では、この刀は実際は「明智光慶」に贈られたものではないかとしている。細川家は家の格式は、明智よりもかなり上であるにも関わらず、家宝の地蔵行平を送るのは、例えそれが舅であったとしても不自然であると言えるかもしれない。
 しかし、明智光秀が、実際は進士藤延であり、小侍従の兄として、足利義輝の落胤を保護していたとすれば、その可能性もあると考えられる。
 しかも本能寺の変の後、明智光秀が、細川藤孝 に援軍を要請した手紙のなかで、天下を取った後は、自分の息子(明智光慶)と細川忠興にそれを譲るとまで言っており、その真意は、確かに足利幕府の再興にあったのかもしれない。その手紙の内容が細川家史記である『緜考輯録』に残されているので、以下に引用する。

【 緜考輯録 】天正十年(1582)六月九日「細川藤孝宛明智光秀覚状」

一、 細川藤孝と息子の忠興が、髷(まげ)を切って信長の喪にふくしていることを聞いて、非常に腹をたてたけれど、2人の立場を考えたら仕方ないかと怒りを静めた。でも、今からは、自分の味方をしてもらいたい。

一、 自分の味方をしてくれたら、新たに摂津国(大阪府)をやろうと考えている。摂津国より若狭国(福井県の一部)をもらいたい、というのであれば、そのようにしてもよい。

一、 我々が信長を倒したのは、細川忠興などをりっぱな大名に取り立てたいと思ったからだ。 50日から100日の内には、周辺の国々は平定してしまうつもりなので、その後は、それらの国々は、自分の息子や忠興にやるつもりでいる。


 小林説では、明智光秀は細川藤孝への、この説得するための書面(細川藤孝宛明智光秀覚状)に「地蔵行平」を添えて返したのではないかとしている。自分の決定と覚悟が決死のものであることを伝える意味で、「地蔵行平」を返すことは非常に重要な意味があったと考えられる。そして、それによって明智光秀の要望が非常に強いものである事を細川藤孝は理解した事だろう。
 しかし、それでも細川藤孝は、明智光秀の側には加わらなかった。しかしながらこうした経緯で「地蔵行平」は細川藤孝の手元に戻ってきたのではないだろうか。

 この「地蔵行平」は数年後に再び歴史の重要なポイントで現れる。
 それは一連の関ヶ原の戦いに関係した田辺城籠城である。慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)まで約50日間、細川藤孝は田辺城に籠城し、石田三成の率いる西軍の攻撃に耐えなければならなかった。
 この時、主力の息子、細川忠興の軍勢は、上杉討伐軍に参加していた為に、田辺城にいなかった。
 よって攻めてきた西軍の小野木重次・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、丹波・但馬の諸大名を中心とする1万5000の軍勢に対して、たった500人の兵だけで田辺城を守らなければならなかったのである。
 この時田辺城を守っていたのは、細川藤孝(幽斎)と息子の細川幸隆、および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)であった。さらにこの文脈のなかで特に注目すべきなのは、明智光秀に最後まで従っていた、進士晴舎の次男の「進士貞連」もこの田辺城にいたという事である。1/30の兵力だけで立て籠り50日間も持ちこたえたのである。

 細川藤孝は「古今伝授」の唯一の相伝者であった。(※古今伝授の詳細に関しては 細川藤孝 の項を参照 ) 実は西軍の攻めている側にも細川藤孝の弟子がおり、その攻撃は積極的なものではなかったようである。また、朝廷も「古今伝授」の唯一の相伝者の死により、この知識が失われてしまう事を非常に恐れていた。よって籠城中、細川藤孝の弟子の一人だった八条宮智仁親王が7月と8月の2度にわたって講和を働きかけ、細川藤孝が討死にすることがないように説得が行われた。
 しかし細川藤孝はこれを謝絶して籠城戦を継続したのである。
 さらに使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上することで籠城戦を継続し討死の覚悟をアピールしている。この時に『古今集証明状』という貴重な書とともに、「地蔵行平」が烏丸光広に託されたされており、そこからも細川藤孝の決死の意思表示を理解できる。

 田辺籠城で、『古今集証明状』や「地蔵行平」を安全なところに移して守ることで、自分はここで命を落としても降伏しないという決意表明をした細川藤孝であるが、ここで過去に「地蔵行平」を贈った他のケースにも立ち戻って考えてみたい。

 『天王寺屋会記』によると、本能寺の変の1年前、天正九年四月十二日に、細川家は、「地蔵行平」を明智光秀に差し出している。この時に、「地蔵行平」を渡したのは、父である細川藤孝ではなく、息子の細川忠興であったこと、そしてそれを受け取ったのは明智光秀であったことから、明智光秀は取次をしただけで、そこにはもっと意味のある重要な人物がおり、その人物に対して決死の忠誠を誓う為に「地蔵行平」を渡したのではないか、そしてその人物は足利義輝の落胤である明智光慶であるというのが小林説である。
 後年、田辺籠城で細川藤孝が決死の覚悟を示すための「地蔵行平」を手放したことを考えると、この会において、細川藤孝が、明智光慶に「地蔵行平」を贈ったと推測できる記述はかなり意味深い。もしそうであれば、この時点では細川藤孝はかなり明智光秀側にいて、あくまでも明智光秀と協働して足利幕府再興を目指していたと言えるからである。しかもそれは命を懸けて行うことの誓いであり、その時はその意思があったのかもしれない。いずれにしても細川藤孝は、決死の意思表明をし、相手にそれを伝えるために二度、「地蔵行平」を手放したと考えられるのである。


進士流と明智光秀


 進士流は、室町時代に始まったが、進士晴舎およびその嫡男の進士藤延の死と共に、衰退してしまった。その当時からであるが、進士流は実際にその当人が料理をしたり、あるいは庖丁式を行うというようなものではなく、「御成」などの饗応において料理を司るための、しきたり、あるいは有職故実の知識を有する氏族あるいは流派であったことが分かる。大草流 から分かれ、畠山家からその知識を受け継ぎ、それを世襲という方法で伝える事で、饗応料理を伝統に則った仕方で司ってきたのであろう。
 こうした知識は、「永禄の変」の時に、進士晴舎およびその嫡男の進士藤延の突然の死で失われてしまった。進士晴舎の次男である進士貞連は、その後も生き残っていたが、その知識に関しては引き継がれて現代には残っていない。
 小林説では進士藤延=明智光秀である。もしこの仮説の通り、明智光秀が進士藤延であり料理に関する有職故実に通じていたとしたら、天正十年の饗応の料理構成は最後の進士流によるものであったということになるだろう。こう考えると明智光秀は「本能寺の変」後、大きく目論見が外れた為に、死に至ってしまったことが、「永録の変」の時と同様に、進士流の最終的な消滅(その知識を継承できなかったという意味において)に繋がったとも考えられるのである。

 現代の解釈で、明智光秀は、この時代の戦国武将である細川藤孝と並び称される程、非常に洗練された人物であったことが分かってきている。歴史的には「本能寺の変」だけが大きく取り上げられるために、裏切り者の象徴のように捉えられているが、自己満足や自己欲求の為だけに「本能寺の変」を起こしたとは考えにくい人物像しか浮かび上がってこない。
 明智光秀は、歌をよく読み、饗応の故実ににも通じており、洗練された文化を身に着けていた人物であった。ルイス・フロイスも、明智光秀の子息・子女のことを非常に美しく優雅でヨーロッパの王族を思わせるようだったと伝えているが、その事も明智光秀自体が、そもそも優雅で育ちの良い家系の出であったことを裏付ているように感じさせられる。こうした本来的な資質があるがゆえに、細川藤孝も明智光秀を認め、同じ志をもつ同志として、足利幕府再興の為に交流を深めていたのではないだろうか。さらに明智光秀は、織田信長が京において朝廷や、幕府官僚との折衝するにおいて欠かすことのできない重要な働きをした人物であった。それはやはりこうした身分の人々にも認められる資質を持ち合わせていたからに他ならないだろう。

 しかし、明智光秀はその出生が明らかでないために様々な憶測が述べられている。例えば『明智光秀軍規定書』で明智光秀が自身の事を、「私は瓦礫沈淪のような低い身分から取り立てられ、信長公からこのような莫大な軍勢を預けられるに至った」述べていることから、低い身分の出であったとする説もある。しかし瓦礫沈淪という表現も「永録八年の変」の後、将軍の側室である妹とその落胤を守りながら、身分を公に出来ずに何とか生き延びていた数年間の事を述べているようにも考えられはしないだろうか。

 「食は三代」という言葉があるように、人には一朝一石には身につかないものがある。特に「食」はその顕著なもののひとつであると言えるかもしれない。今回は進士流について語ることで、結果的には明智光秀に関する説明にへと繋がって行くことになったように思う。こうした背景を踏まえて、明智光秀のもつ洗練された文化人としての資質を考えると、食における洗練さや文化的なものを理解する資質は、所謂、成り上がり者には簡単には身に着ける事の出来ない要素であることを改めて意識させられたように思う。
 歴史的には様々な説があるだろうが、こと「食」という観点から見るならば、明智光秀は洗練された資質をその育ちの中から身に着けている人物であるように思われてならない。またそうした観点から考えると、小林説で述べられているような、進士流と明智光秀との関連が非常に強いものがある事を意識させられてならない。
 現代にはもう進士流は絶えてしまっているが、戦国時代の激動の時代にあって、この流派の辿ってきた歴史は非常に深いものであった。こうした歴史の面からも「料理」や文化について深い理解を得て頂けるようであれば幸いである。







関連項目


 庖丁人      四條流      大草流      四條園流      生間流 






参考資料


『室町幕府御教書の紹介』 井上幸治

『日本料理の歴史』 熊倉功夫

『炎と食II 第1章 日本の食文化の歴史』 筒井紘一

『続群書類従. 第19輯』山内料理書 塙保己一 編

『明智光秀ムック』 新小児科医のつぶやき

『明智氏一族宮城家相伝系図書』  東京大学史料編纂所

『明智光秀の出自と系譜』 宝賀寿男

『津々堂のたわごと日録』 

『明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』 小林正信

『饗応膳 天正十年安土御献立』 信長の館

『信長公 安土城での家康公へのおちつき献立を再現!』 長良川温泉 ホテルパーク