明智光秀と汁講:「あつめ汁」がどのような料理だったのかを歴史文献から解説
明智光秀が行った汁講とは?
昔は汁講というものが盛んに行われていたようである。汁講とは、主宰者が汁(具材含む)と酒を用意し、客人がごはんを持参して、鍋を囲んで酒を酌み交わす宴のことである。かつて一種の同好団体のグループやサロンのような集まりを講や連と呼んだ。汁講とは汁を介した集まりという訳である。
明智光秀には、汁講にまつわる有名な話が残されている。『名将言行録』にその記述があるので、以下に引用しておきたい。
【名将言行録】
光秀貴賎なりした時、朋友打集まり輪番に汁事して談話せしことあり。光秀の順に成りければ其由妻に告ぐ。朝夕の営みすら調わざるに汁事杯は思ひも寄らざるに、其妻甲斐々々敷受合ひ、️頓て朋友打集まりければ、諸所の会席にも勝りし酒肴を調出しけり、朋友散じて後、光秀怪しみて尋ねければ、妻髪髻を剪り、市に鬻ぎて杯酒の料とせし由を答ふ。光秀大に感激し身を立て家を興し、妻の恩にも報ばやと思ひ、頓て其由曲に妻に語り、身を立し後再開を約束し、暇乞して立ち出、細川藤孝に仕へるが、僅に八十石なり。殊に石田なれば、老臣の米田堅物入道宗鑑に肥饒に地に代へて賜はれ、と度々頼みしかど、許容なかりしかば、光秀大いに憤り、細川の家を立去れり。頓て身を立てし後、妻を迎え不便を加えたり。此妻残せし時、昔しの髪剪りし恩を報せんとて、自ら葬送の供をしたりしぞ。
まだ光秀が貧しかった時に、汁講でもてなす順番が回ってきた。まだ貧しかった明智光秀は妻に相談したところ、妻は自分の髪の毛を売ってお金を工面し汁講を行うことが出来のである。その時に光秀が出した汁がどのようなものか『名将言行録』には記述されていない。しかし「諸所の会席にも勝りし酒肴を調出しけり」とあるので、かなり豪華で美味な汁でもてなしたことは間違いないだろう。そうなるとこの時に出されたのは、やはり具の多いあつめ汁の一種だったと考えられるのである。
あつめ汁は、数種類の具材が集められて入っていることからそう呼ばれた料理である。よって文献によっては「集汁」というように漢字で記載されることもある。この名称からも具材が多いことがこの汁の大きな特徴である事が明らかである。熱い汁だからというのは明らかな間違いである。
あつめ汁の文献による初見は、1504年(永正元年)に書かれた『食物服用之巻』である。この書は公家の口伝故実を、武家の礼法をつかさどる小笠原家が取り入れ、小笠原政清によって伝えられた文書である。
後にこの小笠原家が武家における有職故実を伝える役割を担っていくことになるが、その中には弓馬、服装、儀礼、折紙、所作、料理が含まれている。こうした有職故実に料理が含まれているのは、儀礼的な場で行われる饗応(将軍を招いて行われる最もフォーマルな饗応は御成と呼ばれる)においては、こうした有職故実の知識が必要だからである。よって上級武士たちは、共通の知識(プロトコル)として料理におけるしきたりにある程度は通じていたことであろう。
つまりこの時代に饗応でもてなすことは、単に食事をするだけでなく、自身の地位や身分の裏付けともなる儀礼的な意味合いを含んでいたことを理解しておかなければならない。こうした食事は、主従関係を確かなものとして確認し合う場でもあったのである。つまり料理に通じている事は上級武士のたしなみ、あるいは必要な儀礼的な知識だったのである。こうした当時の背景から、明智光秀について考えてみることにしたい。
明智光秀の出自と前半生
明智光秀の出自については、はっきしたことが分かっておらず、よってその出自には様々な説がある。そのなかのひとつに光秀は包丁流派「進士流」に関係した出自とする説を『明智光秀の乱』で小林正信は述べている。もしそうであれば、出された「あつめ汁」が「諸所の会席にも勝りし酒肴」であったとしても納得の行く事であり、料理の故実やセオリーを踏まえた豪勢なものだったことが推測される。
いずれにせよ、妻の内助の功によって汁講を成功させることができ、やがて光秀は出世して、信長に仕えるようになったという方向性が『名将言行録』からは汲み取れる。
『名将言行録』は史実性には乏しいとされている資料であるが、こうした記述を単なる汁講での出来事、あるいは光秀の妻の美談としてではなく、光秀の出自にまつわる様々な可能性を示すものとして捉えてみるのであれば、料理に通じた人物という側面から新たに明智光秀の人物像を推測することができるのかもしれない。
明智光秀
明智光秀が料理にも通じていたという観点から汁講のエピソードを見るならば、この時の汁講の成功が何らかのかたちで将来の光秀の出世を助けたと考えることも出来るのかもしれない。その後、光秀は信長に使えるようになって急速に出世してゆくことになるが、こうした料理におけるもてなしの技量があったこともその出世のひとつの要素だったのではないだろうか。
こうした推測の根拠は、信長の上洛後、京の管轄を村井貞勝と共に任された光秀が、有職故実におけるしきたりや慣習の強い公家と対等に渡り合い、かつ彼らをコントロールしていることにも求めることが出来る。また信長がそのような役割を光秀与えたことも、光秀が料理に基づく有職故実はもとより、京における様々な故実に通じていたことが理由ではないだろうか。
実際に天下人となった織田信長は、明智光秀に重要な饗応手配をするように命じている。武家の饗応手配には、武家独自の様々な故実(古くから決まりごとや知識)があり、それらについて熟知していないとそのような饗応手配を行う事は出来なかったはすである。そこから考えても明智光秀が饗応料理に通じていた事は間違いないように思える。
こうした前提を踏まえて、改めて明智光秀のあつめ汁に関する記録に注目してみることにしたい。1582年(天正10年)5月、織田信長は武田を破ったことから徳川家康を安土に招き、明智光秀に饗応の手配を命じている。その時の献立の記録が『続群書類従』に残されている。(この時の饗応の詳細については「天正10年5月19日 安土饗応における能の不手際への考察」を参照して頂きたい)
・ 五月十五日おちつき膳
・ 五月十五日晩御膳
・ 五月十六日御あさめし
・ 五月十六日之夕
『続群書類従』には1582年(天正10年)5月16日の夕、明智光秀が手配したとされる献立のなかに「あつめ汁」が含まれている。光秀が手配した「あつめ汁」は以下のような内容になっている。
【続群書類従】
あつめ汁
・ いりこ(煎海鼠:干しナマコ)
・ くしあわび
・ ふ
・ しいたけ
・ 大まめ
・ あまのり
光秀の手配した「あつめ汁」にはかなり多くの具が含まれている。このあつめ汁が安土での夕食として供され、それを織田信長と徳川家康は共に食したのである。イリコやアワビにはグルタミン酸と、椎茸のグアニル酸が含まれ、旨味のある美味なあつめ汁が供されたものと推測できる。もしこれが光秀の定番レシピであったのならば、過去の汁講の際にも、これと同じようなあつめ汁が出されたのではないかと想像する。
興味深いことにこの献立が供されてから17日後の6月2日に「本能寺の変」が起きるのである。その経緯に関しては様々に憶測されており、ある説では光秀の手配した料理が腐っており(『川角太閤記』にはそのような記述がある)、そうした光秀の不手際を信長が厳しく叱責したことが謀反の引き金となったとしている。
しかし、もし天正10年5月16日の晩に供されたあつめ汁が、髪を売って汁講の費用を賄った妻との思い出深いレシピだったとするのならば、このすぐ後に起きた「本能寺の変」のことを思うと、そこに何か深い意味があるように思えてくるのではないだろうか。
前田利家のあつめ汁
加賀藩百万石の祖である前田利家にも「あつめ汁」による饗応の記録が『群書類従』武家部408にある。それは1594年(文禄3年)、天下人となった豊臣秀吉を前田利家が自宅に招いてもてなした御成の時のことであった。御成とは、家臣が将軍を自宅に招いて接待することであり、饗応料理と能鑑賞、さらにそれぞれに贈答品を贈ることから構成されたもてなしで武家のなかでは最もフォーマルな料理が供されることになっていた。
前田利家の御成の記録は『文禄三年卯月八日加賀之中納言殿江御成事』として詳細に献立から贈答品の種類まで残されている。4月8日に行われた御成では、式三献から始まり、続いて五膳からなる本膳料理が出された後、13献まで酒杯と料理が続けられた。
とある本に前田利家の御成について書いてあったのだが13膳の料理が出されたと誤った説明がなされていた。これは13献の間違いである。武家の御成では、まず酒と肴で式三献が行われ、それから本膳料理が出されることになっている。その料理の数は、7膳,5膳,3膳と様々であり、七五三本膳料理と言われる。この御飯を中心とした本膳料理を食べる間は酒を飲まないことになっていたのである。この時の前田利家の御成は5膳であったので、その後に菓子膳が出されている。そして食事が終ってから4献目が始まり、ここからまた酒を飲み始める。そして4献~13献まで酒宴が続けられたという記録になっているのである。この13献を13膳と間違えたのだろうが、その理由は、この本の著者が本膳料理と献の関係を理解していかったからか、あるいは御成というものについてよく理解していなかったことが原因であるように思われる。
さて話が逸れたが、前田利家の御成にある本膳料理の二の膳に「集汁」という記載が『群書類従』にある。これがあつめ汁のことである。しかし残念なことに、この汁にはどのような具材が入っていたのかまでは書かれていない。
他にも「次之御供衆弐百人前」とある。つまり御供衆に対しても200人前の3膳の料理が出され、その内容も記録されている。ここでも二の膳で「集汁」が出されている。
さらに下の位の「惣通弐百五十人」、つまり他に250人にも料理が供されており、ここでも二の膳で「集汁」が出されている。
最後に「御女房衆五十人前」とあり、女性50人にも料理が振る舞われ、「このうち20人に金銀すなこ」とあるので、身分の高い女性にも料理が出されたことが分かる。前田利家と正室の「まつ」の間に生まれた、四女・豪姫は豊臣秀吉の養女となっており、まつは、秀吉の養女の実際の母であったので、この御成にある女房衆の内20人には当然まつも含まれていたと考えるべきだろう。
御女房にも三膳の料理が出され、やはりここでも二の膳で「集汁」が出されている。
他の御成に見られる「あつめ汁」
御成の記録は多数残されており、その時にどのような献立で料理が出されたのかが分かるようになっている。多くの御成の記録も見てゆくと、ほぼ間違いなく二の膳には「あつめ汁」が載せられている。室町・戦国時代の武家のフォーマルな料理において、「あつめ汁」はある種の重要なポジションを占めていたように思われる。以下、年代を追って献立に記された「あつめ汁」を取上げてみたい。
最初は1534年(天文3年)8月20日に浅井亮政が京極高清とその子の京極高広を招いて饗応を行った時の献立が『天文三年浅井備前守宿所饗応記』である。これは将軍に対するもてなしではないので、御成の記録とは言えないが、それでも二の膳には「あつめしる」とある。この頃から武家の饗応においては「あつめ汁」が出されたことが分かるようになっている。
1561年(永禄4年)1月23日に京都の三好邸で、三好長慶の子の三好義興が13代将軍の将軍足利義輝をもてなした御成の記録が『三好亭御成記』である。二の膳で「あつめ汁」が供されている。この時の二の膳には「鯛汁」と「あつめ汁」とふたつの汁が載せられているのは興味深い。「鯛汁」は供膳に華を添えるものであったと考えられるが、「あつめ汁」もまた二の膳には欠かせないものだったのではないだろうか。
興味深いことにこの献立は「進士流」の進士晴舎が取り仕切っている。この進士晴舎の息子が進士藤延であり、この親子は永禄8年に起きた「永禄の変」で13代将軍の足利義輝と共に討死している。この時に死んだとされる進士藤延を明智光秀でないかとする説もある。詳しくは「進士流」を参考にして頂きたい。
同じく1561年(永禄4年)5月17日に三好義長が、13代将軍の足利義輝に対して御成を行った『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』の記録でも、二の膳には「あつめ」と記載があり、あつめ汁が供されていることが分かる。
他にも1568年(永禄11年)5月17日に朝倉義景が、14代将軍の足利義昭に行った御成の記録が『朝倉亭御成記』であり、二の膳には「同あつめ」と記述されている。よってこの御成でも「あつめ汁」が供されていることになる。
1590年(天正18年)9月18日に毛利輝元が京に建てた毛利邸で行った御成の記録が『天正十八年毛利亭御成記』にある。ここでも二の膳には「御汁。アツメ。」と記述されているので「あつめ汁」が供されたことが分かる。
1595年(文禄4年)には徳川家康が豊臣秀吉に対して御成を行っている。その記録は『文禄四年御成記』にあるが、この中でも二の膳で「あつめ汁」が供されている。ここでも「鯛汁」と「あつめ汁」とふたつの汁が二の膳で供されていることも注目すべきところだろう。
二の膳に載せられる「あつめ汁」
このように室町・戦国時代の武家のフォーマルな饗応料理では、必ずと言って良いほど二の膳には「あつめ汁」が供されている。ここまで定番化してくると二の膳に「あつめ汁」があることは、ある意味この時代の武家の饗応料理におけるセオリーのようなものだったと考えられる。
ここまで様々な「あつめ汁」が饗応料理のなかに含まれている記載を取り上げてきた、しかし残念ながらどのような具が汁のかなに入れられていたのかの詳細までは記されていない。ただ唯一、1582年(天正10年)5月16日に、織田信長が徳川家康を招いてもてなすために明智光秀が采配した『天正十年安土御献立』にある「あつめ汁」にだけは、どのような種類の具が汁に入っているのかが記載されている。
先に述べた明智光秀の「汁講」のエピソードを思い出して頂きたい。光秀が、この汁講でどのような具材のものをだしたのかは定かでないが、『天正十年安土御献立』にあるあつめ汁から考えると、ある程度はそこから光秀のレシピを読み解けるように思える。
既に再現されている他の方々の光秀の汁講レシピを見ると、イノシシなどの獣肉を用いたレシピ等になっているが、これには大いに疑問がある。武士であることや豪勢さを獣肉で再現しようと考えたのだと思うが、この当時は獣肉を食する事はあまり一般的ではなく、しかもその後の光秀の故実に基づいた饗応料理への手配や理解度から考えるとイノシシのような獣肉を用いたとは考えにくい。
この時代の光秀の所在地がどこだったのかは分からないが、光秀が土岐一族の出であるとする説から考えると、それが現在の岐阜県辺りだったということになる。海から離れた内陸地であれば、何らかの海産物が含まれていることが豪華なもてなし料理には求められたに違いない。
「天正十年安土御献立」で光秀が献立てた「あつめ汁」には、イリコ、串鮑、海海苔といった海産物が使われている。しかし海産物であると言っても鮮魚ではない。イリコ(煎海鼠)は乾燥させた干しナマコのことで、串鮑(くしあわび)とは、アワビを串にさして天日で乾燥させたものである。また海海苔も生海苔ではなく乾燥させたものが使われたことだろう。このように内陸地でも十分に入手でき、保存も出来る食材ばかりが「天正十年安土御献立」のあつめ汁で使われていることは意味深い。
他にも光秀が出した他の海産物の汁物を見ると、ほやの汁、鯉の汁、すずきの汁、鮒汁、こち汁、鯛の汁、くじら汁がある。ここには鮮度・流通の面から見てもこの時代には容易には入手しにくい食材が含まれているが、それが逆にこの饗応料理の価値を高めることになったであろう。しかし「あつめ汁」に関しては海のものは乾物だけが用いられている。
明智光秀は、包丁流派:進士流の進士氏の出自であるとする説があり、その線から考えると、光秀は若い頃から料理の有職故実に通じていた可能性も考えられる。実際に光秀の配下には進士貞連(作左衛門)という人物がいた。この人物は進士流の本家の進士晴舎(永禄の変で討死)の次男である。この進士貞連は、細川家記である『綿考輯録』によると、明智光秀が山崎の戦いに敗れ、勝竜寺城を出て最後まで光秀に従った七騎のうちの一人であると説明されている。明智光秀が進士氏の出自かどうかはさておき、光秀の側にはその死の直前まで進士氏の者がいたことは史実として残っているのである。
そうした背景から推測してゆくと、若き光秀が準備した汁講も、また本能寺の変を起こす数日前の饗応料理でも、同じレシピの「あつめ汁」を提供した可能性があるのではないか。明智光秀は愛妻家であったとされているが、汁講で妻が髪を売ってまで工面した汁講のレシピが、その後の「天正十年安土御献立」であつめ汁として再現されたということであれば、それはそれで非常に興味深い出来事ということになるのだろう。
参考資料
『評註名将言行録. 中』 菊池寛
『食物服用之巻』 小笠原政清
『明智光秀の乱』 小林正信
『続群書類従』 塙保己一 編
『天正10年5月19日 安土饗応における能の不手際への考察』 河田容英