あわと大嘗祭


日本人はどこから来たのか?


 日本人の起源に関しては昔から様々な議論が行われてきた。例えば、卑弥呼の治めた「邪馬台国」がどこにあったのかという問題については諸説あり、現在でもなお確実な場所は分からないし、各説を裏付ける決定的な証拠も得られていない。

 太古の日本がどのような状態であったかに関する史実資料はあまりなく、神話的な内容から、日本がどのように造られていったのかを現代人の我々は推測するしかない。日本には8世紀初めに成立した『日本書紀』,『古事記』というふたつの歴史書が存在しているが、どのように日本が始まったかについての説明は神話的な記述によってしか説明されていないので、『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究した津田左右吉そうきちのような学者は、「日本人の起源について」の歴史的な知見はそこからは得られないとする見方を取っている。

 しかし神話学者のジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell : 1904年3月26日 - 1987年10月30日)の以下の言葉を考慮するならば、いわゆる「神話」に含まれる情報にこそ、起源に関する真実性の高い情報が込められていることに気付かされるはずである。

【 神話の力 】 ジョーゼフ・キャンベル
 神話は絵空事ではありません。神話は詩です。隠喩ですよ。神話は究極の真理の一歩手前にあるとはよく言われますが、うまい表現だと思います。究極のものは言葉にできない、だから一歩手前なんです。究極は言葉を越えている。イメージを越えている。あの生成の輪の、意識を取り囲む外輪を越えている。神話は精神をその外輪の外へと、知ることはできるがしかし語ることはできない世界へと、放り投げるのです。だから、神話は究極の真理の一歩手前の真理なんです。


 ジョーゼフ・キャンベルは名著『千の顔をもつ英雄』(The Hero with a Thousand Faces)を記した神話学者で、彼の神話学の理論をジョージ・ルーカスが取り入れて、映画「スターウォーズ」が作られたのは有名な話である。『神話の力』はジョーゼフ・キャンベルとビル・モイヤーズの対談集で、インタビューの様子はビル・モイヤーズのサイト内の「JOSEPH CAMPBELL AND THE POWER OF MYTH」というページから実際の映像で見る事ができるので参考にして頂きたい。

 ここでジョーゼフ・キャンベル「神話は究極の真理の一歩手前である」と述べて、神話に込められた真理性や、過去からの貴重な情報を現代に伝えようとする究極的な手段であると説明している。

ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)

 こうしたジョーゼフ・キャンベルの見方を取るならば、『日本書紀』,『古事記』に含まれている記述には「日本人はどこから来たのか?」という質問に応え得ることが分かる。この項目ではそうした疑問についての検討を深めることで、我々、日本人そのものの存在やアイデンティティについて食の分野から紐解いて行きたい。


出雲と大和、あわと米


 『美味求真』というこのウェブサイトでは、今まで「食」の切り口から様々に歴史解釈を試みてきたが、今回の古代の日本においても、「食」という観点からどのように王朝が変化を遂げてきたのかを説明することにしたい。
 「食」の観点からそれを探るうえで重要な穀物となるのは、「米」と「粟」である。実は元々、日本は「粟」を主穀物とする地域であったのだが、時代の変遷と共にそれは「米」にとって代わられ、それに伴い権力者も変わっていったと考えられるからである。興味深い事に天皇の即位後に始めて行われる新嘗祭は大嘗祭とよばれ、その当代の天皇にとって最も重要な行事となる。その大嘗祭では米と粟が並列に扱われ、神饌として神々に捧げられることになる。米は我々、日本人の主食であり重要な穀物であることは明らかであるが、粟がそのように扱われるのは何故なのだろうか。この点についてはあまり深く研究が行われてこなかったように感じている。この記事では粟の意味について、その権力の推移と合わせて説明を行う事としたい。

大嘗祭でも供えられる「粟」

 最初に結論を述べておくと「粟 = 出雲」、「米 = 大和」という権力構造に紐付く穀物の関係があったはずである。つまりどのような主要穀物を産するかということが、支配権力と結びつき、相互が密接に関係していたと言えるだろう。こうした関係を整理すると以下のような表となる。

 縄文時代から、弥生時代にかけて、それまで狩猟が中心の生活を送っていた原始日本人は、野山を駆け回り獲物を追った移住を繰り返す生活を送っていたものと思われる。
 歴史の中ではこうした狩猟の縄文人が、稲作の弥生人になっていったように描かれているが、突如としてこうした変化が生じたはずはなく、当然ながらこうした変化はグラデーションを成しながら徐々に進行していったに違いない。
 縄文時代の狩猟から、弥生時代になってその主要穀物が米に変わる過渡期には、焼畑のような原始的な耕作方法が取られ、そこでは粟による農耕が行われてきたと考える方がごく自然であるように思えるのである。


出雲の支配者(大国主オオクニヌシ


 『日本書紀』,『古事記』には、出雲の支配者であった大国主オオクニヌシについて説明している。このオオクニヌシは主要な国津神である。国津神とは昔から国土を治めていたとされる土着の神(地神)のことである。このオオクニヌシに関する記述を見てゆくと、その国造りが「粟」を中心とした国作りであったことが分かってくる。

 まずはオオクニヌシという国津神クニツカミがどのような神であったのかを説明する事から始めたい。

 オオクニヌシは、素戔嗚(スサノオ)の六世の孫であるとされている。その名称は、大穴牟遅神、国作大己貴命、八千矛神、葦原醜男、大物主神、宇都志国玉神、大国魂神、伊和大神、所造天下大神、地津主大己貴神、国作大己貴神、幽世大神、幽冥主宰大神、杵築大神と様々であるが、ここではオオクニヌシで統一することにしたい。


大国主オオクニヌシの国造り


 オオクニヌシがどのように国造りを行ったのかが『日本書紀』,『古事記』では説明されている。そこでは国造りに重要なパートナーとなる神、少名毘古那神(スクナビコナ)がいたことが述べられている。以下は『古事記』にある記述である。

【 古事記 】
 オオクニヌシが出雲の御大の御埼においでになつた時に、波の上を蔓芋のさやを割って船にして蛾がの皮をはいで着物にしてよって来る神様があった。しかしその名を聞いても答えず。また従者の神々に尋ねても皆知らなかった。ところがヒキガエルが、「これは久延毘古(クエビコ)がきっと知っていることでしよう」と言うので、そのクエ彦を呼んで尋ねるたところ、「これはカムムスビの神の御子みこでスクナビコナの神です」と申し上げた。そこで神産巣日神(カムムスビ)の神にそのことを申し上げたところ、「これは本当にわたしの子である。子どもの中でも、わたしの手の間たからこぼれて落ちた子どもである。あなた(オオクニヌシ)と兄弟となつてこの国を作り堅めなさい」と仰せられたのである。それでそれからオオクニヌシはスクナビコナとお二人で一緒にこの国を造ったのである。後にスクナビコナは、海のあちらへ渡って行ってしまった。このスクナビコナの名前を申し上げた久延毘古(クエビコ)は、今いう山田の案山子(かかし)のことである。この神は足は歩あるきませんが、天下のことを知つている神樣である。


 少名毘古那神(スクナビコナ)が、オオクニヌシと共に国造りを行ったことが述べられている。このスクナビコナという神はまさに穀粒を思わせるような小さな神で、親である神産巣日神(カミムスビ)の指からこぼれ落ちてしまった神であると説明されているぐらいである。

 オオクニヌシとスクナビコナがどのように国造りを行ったかというと、それは「粟」を中心としたものであったはずてある。それはスクナビコナの名前を知っていたのが山田の案山子である久延毘古(クエビコ)だけであったことにも象徴的な表されていると言えるだろう。案山子であるクエビコは動き回る事はできないが、スクナビコナのことを知り得たのは、まさにスクナビコナが穀粒(粟)を象徴するような存在だったからではないだろうか。


スクナビコナと穀物


 またスクナビコナが神産巣日神(カミムスビ)の子供であることも象徴的である。『日本書紀』には口から食べ物を生み出す保食(ウケモチ)という神が登場する。また『古事記』には口、尻、鼻から食べ物を生み出す大宜津比売(オオゲツヒメ)という神が登場する。これらはいずれも食物神で、殺されてその死体から作物の種が得られたという点で共通している。実は、こうした話は「ハイヌヴォレ神話」として世界の各地に存在する類型化されているエピソードなのである。

 大宜津比売(オオゲツヒメ)が素戔嗚(スサノオ)をもてなすために、鼻や口や尻から、さまざまな食物を取り出して差し出した時に、 スサノオは、その様子をのぞき見て食べ物を穢けがして供したと思い込んでオオゲツヒメを殺してしまう。
 すると、殺された女神の身体の、頭に蚕がなり、二つの目に稲種がなり、二つの耳に粟がなり、鼻に小豆がなり、陰部に麦がなり、尻に大豆がなり。神産巣日(カミムスビ)が、これらを取らせて種としたと述べられている。

 神産巣日(カミムスビ)は造化三神として『古事記』の中で始めに登場する格の高い神である。このカミムスビが大宜津比売(オオゲツヒメ)の死体から穀類を回収したこと。さらには其の子供がスクナビコナという神であったことは重要なポイントであると言えるだろう。つまり、穀物との高い関係性が、スクナビコナ、およびカミムスビにはその親子関係に紐付いて語られているのである。

 スクナビコナは国造りの協力神であるだけでなく、常世の神、医薬・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造など多様な性質を持った神として描かれれているが、古代のオオクニヌシの治める国において、ある種のテクノクラートのような立場で、共同支配者のような立場で国土の発展に寄与したのではないか。そしてそれは「粟」を主軸に据えた治世であったことだろう。


常世とこよの国に行くスクナビコナ


 スクナビコナはオオクニヌシと国造りを行ってきたが、その後、常世の国へと旅立ってしまう。その経緯は『日本書紀』に詳しく述べられているので以下に引用しておきたい。

【 日本書紀 】
 オオナムチ(オオクニヌシ)はスクナビコナに言いました。「私達が作った国は、善くなったと言えるのだろうか?」すると、スクナビコナは、このように答えた。「ある所は成り、ある所は成っていない」この会話には、とても深い意味があるのだろう。
 その後、スクナビコナは熊野の御崎に行き、そこから常世郷(トコヨノクニ)に行ってしまった。別伝によると、淡嶋(アワシマ)に行って粟の茎に昇った時に弾かれて、常世の国へ行ってしまったとも言わている。スクナビコナは居なくなったが、国には、まだ未完成の所がある。オオナムチは一人で国を巡り、出雲国に辿り着いた時にこう言った。「葦原中国(アシハラノナカツクニ)は以前は荒れ果てており、岩から草木まであらゆるものが酷い状態だった。しかし、私が打ち砕けば、従わないものは無い。」


 『日本書紀』によるとスクナビコナは、淡嶋(アワシマ)に行き、粟の茎に昇った時に弾かれて、常世の国へ行ってしまったとある。
 常世の国について神学者の折口信夫は「常世の国は、海の彼方・または海中にあるとされる理想郷であり、マレビトの来訪によって富や知識、命や長寿や不老不死がもたらされる[異郷]である」と述べている。
 スクナビコナは国造りの半ばにして、正に折口信夫が指摘するマレビトのような存在であったことを裏付けるかのようにして異郷にへと旅立ってしまうのである。しかしその旅立ち方は掘り下げて考慮する必要があるだろう。まず淡嶋(アワシマ)に行ったとある。この島は「阿波志麻」とも書かれ、伊耶那岐神・伊耶那美神が国産みの際に水蛭子の次に生んだ島であるとされている。

 またその後も伊耶那岐神・伊耶那美神は国産みを進めるが、その過程で次に淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)つまり淡路島を産みだす。その次に産まれるのが、伊予之二名島(いよのふたなのしま)つまり四国である。この伊予之二名島は胴体が1つで、顔が4つあるとされており、その各々の顔の名は『古事記』によると以下のようになっている。

・ 愛比売(えひめ):伊予国
・ 飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
・ 大宜都比売(おほげつひめ):阿波国
・ 建依別(たけよりわけ):土佐国


 ここで注目したいのは大宜都比売オオゲツヒメと阿波国が結びつけられていることである。なぜならオオゲツヒメとは「食」と関係性のある神として述べられており、その死体から穀類が生み出されることなったからである。そのオオゲツヒメと結びつけられているのが阿波国なのである。この阿波国(徳島)は「食」においても後に御食国として天皇に産物を献上する特殊な国として位置づけられるようになるが、その事は後に詳述する事にしたい。

 さてスクナビコナは「阿波」あるいは「淡」、さらには「粟」と関連性のある名称の付けられた場所へと赴き、そこで粟の茎に弾かれて、常世の国へと行ってしまうのである。このことはスクナビコナの神秘性と、食における「粟」との関連性を強く示唆するものであると考えられる。

 こうした関連性からもスクナビコナとオオクニヌシは、「粟」を中心に据えた国造りを行っていたと推測すべきだろう。


国譲くにゆず


 スクナビコナとオオクニヌシの粟による国造りが成功していたことは『日本書紀』,『古事記』にある他の記述からも裏付けられる。それはオオクニヌシの国津神に、高天原からの天津神が国譲りをするように働きかける一連の過程の記述から理解できる。

 この当時の日本は葦原中国(アシハラノナカツクニ)とよばれていたが、この地を平定するために、高御産巣日神(タカミムスビ)によって、高天原から数名の神々が遣わされオオクニヌシに国を譲るように交渉が行われる。その交渉の過程をここで考慮する事にしたい。


第一の使者


 まず天穂日命アメノホヒという神が遣わされる。この神は天照大神の子であり、出雲のオオクニヌシのもとに行ったが、オオクニヌシを説得するうちに心服して地上に住み着くようになってしまい、3年間経っても高天原に戻ろうとしなかった。


第二の使者


 アメノホヒが3年たっても戻ってこないので、その息子の武三熊之大人(タケミクマノウシ)が次に遣わされる。しかしタケミクマノウシもアメノホヒと同じく、高天原に帰ることはなかった。


第三の使者


 次に天稚彦(アメノワカヒコ)が遣わされた。しかしアメノワカヒコは、オオクニヌシの娘の下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。


第四の使者


 その後、無名雄雉(ナナシメノキギシ=名も無い雄のキジ)を地上に派遣するが、この雉も高天原に戻ってこなかった。その時の記述が『日本書紀』には以下のように記されている。

【 日本書紀 】
 遣無名雄雉、往候之。此雉降來、因見粟田・豆田、則留而不返


 無名雄雉(ナナシメノキギシ)が遣わされることになったが、空から粟や豆の田を見てそのまま引き返さなかったとある。ここからも葦原中国が非常に豊かで、住みやすい国として栄えていた様子がうかがえるのである。しかもナナシメノキギシが空中から見ることが出来たのは水田ではなく、粟田である。ここからもオオクニヌシが治める葦原中国は粟を主穀物としており、それが成功していたことが理解できる。
 また、葦原中国に遣わされたこれまでの神々が次々と居着いてしまい、高天原に戻ろうとしなかったことからも、オオクニヌシの治世が成功を収めていたことの証拠とする事も出来るだろう。


第五の使者


 その後、高御産巣日神(タカミムスビ)は雉の鳴女(ナキメ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせたが、天稚彦(アメノワカヒコ)が地上に来る時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天之麻迦古弓)で雉を射抜いてしまう。
 なお、この矢をタカミムスビが地上に落とすと、この返し矢がアメノワカヒコを射抜き死んでしまう。まさに返し矢恐るべしである。


第六の使者


 最後に經津主神(フツヌシ)、武甕槌神(タケミカヅチ)が遣わされる。これにオオクニヌシは従い、今後は死者の世界を治めることを受け入れる。これが出雲大社が建てられ、そこにオオクニヌシが祀られるようになった起源である。天津神による地上の支配が成功すると、天穂日命(アメノホヒ)はオオクニヌシに仕えるよう任じられる。以降、千家、あるいは北島という子孫が出雲の国造となり、祭祀を行い続けている。

 さて、国譲りの条件として、高御産巣日神(タカミムスビ)がオオクニヌシに約束しているのが以下の部分である。

【 日本書紀 】
 今者聞汝所言深有其理、故更條而勅之。夫汝所治顯露之事、宜是吾孫治之。汝則可以治神事。又汝應住天日隅宮者、今當供造、卽以千尋、繩結爲百八十紐、其造宮之制者、柱則高大、板則廣厚。又將田供佃。又爲汝往來遊海之具、高橋・浮橋及天鳥船、亦將供造。又於天安河、亦造打橋。又供造百八十縫之白楯。又當主汝祭祀者、天穗日命是也。

【 訳文 】
 あなたの言うことはもっともであり、言葉が足りなかった。あなたが治めている国を私の孫に任せ、あなたには神事を任せたいのである。また、あなたが住むために天日隅宮(アメノヒスミノミヤ)を造ります。千尋の繩を結って百八十紐(モモアマリヤソムスビ)とし、柱は高く大きく、板は広く厚くします。田を営田(つくだ)として提供します。また貴殿が行き来し、海に遊ぶ設備として、高橋、浮橋そして天鳥船(あめのとりふね)も造って提供します。また、天安河に打橋をつくります。百八十縫(モモアマリヤソヌイ)の白楯もつくります。そして、あなたのことは天穗日命(アメノホヒ)に祀らせます。


 オオクニヌシに国を司る政治を譲って死後の国を司るのであれば、そのために出雲大社を建ててオオクニヌシを祀る事をタカミムスビは約束している。しかもその中には、「田を営田(つくだ)として提供する」と述べており、水稲耕作を行うための場所が提供されると約束している。
 この部分からも、オオクニヌシが行ってきた「粟」を中心としてきた畑作農耕から、「米」のための水田農耕へと、政治権力の交代とともにシフトした様子が読み取れるのではないだろうか。高天原から下ってきた新権力 ~ 天皇と繋がる系譜は、その後、水稲による「米」をメインに据えることでその力を集約してきたことを見ると、オオクニヌシの事績、つまり「粟」による国造りを、「稲」による国作りで上書きすることで、あたかも無きものでもあるかのように塗り込めようとする意図があったようにも思える。

 もちろん「米」が時代のニーズや、趣向に合っていて、日本人にとっての食物として求められるものであったのかもしれない。あるいは高天原から降りてきた新権力の持つ集権的な力や組織力があってからこそ、共同体で農耕に携わることが必要な、水田による稲栽培が実現したとも言えるのかもしれない。いずれにせよ、こうした構造は、かつてブリア=サヴァランの語った名言である

 国々の命運はその食事によって左右される。
 La destinée des nations dépend de la manière dont elles se nourrissent.
 (Physiologie du goût, 1825, III)


 という言葉に底通するものであるように感じられる。つまりこれは単に「粟」→「稲」というようにその当時の日本人の食物が変わったというだけでなく、支配者そのものが変化した現れとして捉えるべきでなのである。


支配者の交代:粟から米へ


 国譲りが完了した後、天津神が日本の支配を行うようになる。これは単に支配者が変わったというだけでなく、どのような穀物をもって国を治め、その民が何を食べるようになったかという事にも直結するものであると考えるべきであろう。なぜならば、どのような食物を民に供給し養うことが出来るのかが太古の権力そのものの根底にはあったに違いないからである。

粟の穀粒

 また天津神の側が米による支配を進めたことは、これまでの農耕スタイルにも大きな変化をもたらす事になったに違いない。それまでは原始的な山を焼いて行う焼畑による農耕が行われていたと思われるが、「米」を得るために水田が作られるようになると完全な定住が行われるようになった。また共に同じ地域に住むようになることから協力体制が求められる共同農業体が確立して行くことになる。これは天津神、ひいてはその後に王権を取ってゆく、大和政権にとっては強力な基盤となったに違いない。つまり稲作を中心とした共同体が発展して国家を形成していったのである。


瓊瓊杵ニニギの天孫降臨


 オオクニヌシの国譲りを経て、その後、天照大神の命によって、高天原から天孫ニニギが葦原中国(地上)に降りてくることになるが、この時の記述にも注目しなければならない。まず天孫降臨にあたりアマテラスは孫にあたるニニギに三つの神勅(神からの命令)を与えた。それが「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉殿の神勅」「斎庭稲穂の神勅」である。神道界ではこの三つの神勅は三大神勅され非常に重要視されている。その命令の詳細は以下の通りである。

天壌無窮てんじょうむきゅうの神勅

【 日本書紀 】卷第二 神代下 第九段 一書第二
 葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之降、當與天壤無窮者矣。

【 訳文 】
 日本国は、我が子孫が王たるべき国である。さあ瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)よ、行って、しっかりと治めなさい。恙(つつが)なく行きなさい。天津日嗣(あまつひつぎ;寶祚=皇位)が、永遠に受け継がれ栄えること、それは天地が永遠につづくのと同じある。


宝鏡奉殿ほうきょうほうでんの神勅

【 日本書紀 】巻第二 神代下 第九段 一書第二
 吾兒視此寶鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以爲齋鏡。

【 訳文 】
 我が子よ、このみ宝の鏡を見る時は、まさに私を見るように(その鏡を)みなさい。御宝の鏡はいつも寝る時も殿にいる時も側において、お祀りする神聖な鏡としなさい。


斎庭稲穂ゆにわのいなほの神勅

【 日本書紀 】卷第二 神代下 第九段 一書第二
 以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒。

【 訳文 】
 我が子(直系の代々の天皇)に、斎庭ゆにわの稲穂(高天原にある神々へ捧げるための神聖な稲穂を作る田で出来た穂)を与える。これを地上で育て主食とさせ国民を養いなさい。


 「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉殿の神勅」「斎庭稲穂の神勅」はいずれも統治者としての天皇が日本を治めることの正統性と、その方法を示すものとなっており、ここではそれらが「稲」と密接に結びつけられていることが重要である。
 「天壌無窮の神勅」では日本を瑞穂国と呼び、この国が、稲、そして稲穂が瑞々しく実る豊かな土地であることを示そうとした呼び名であるように思われる。
 また「斎庭稲穂の神勅」では、アマテラスが高天原で育てられている神聖な稲穂をニニギに与え、その稲穂を撒いて地上で稲作をするようにと命じている。つまり、天皇がもたらした稲作こそが良い治政と繁栄につながり、それが引いては天皇の統治の正統性へと繋がることになるのである。

 こうしたアマテラスの神勅(命令)を携えて、オオクニヌシに代わって地上を治めるべく、高天原から降りてきた天津神のニニギが、同時に稲も携えて瑞穂国を統治するようになったことは非常に象徴的である。なぜならばこれを以って、国津神(地上の神々)が、粟のような畑による穀物を主として統治してきた方法は終わることになり、天津神(天上の神々)が降りて来て、稲を植えた水田で収穫される穀物「米」によって民を治める支配にへと変化することを示すものだからである。

 天孫降臨によってニニギが高天原から稲を持ち込むまで水田による稲作は行われていなかった可能性は高い。それほど稲作の始まりはエポックメーキングでインパクトのある出来事だったのである。


稲作はいつから?


 いつから稲作が始まったのかに関しては様々な意見がある。例えば、『日本書紀』,『古事記』では神代のかなり早い段階からオオゲツヒメやウケモチが稲の種を生み出し、高天原でアマテラスが天狭田(アマノサナダ)と長田(ナガタ)に稲を植えたとある。これを取上げて、稲作はもっと早い段階から始まっており、オオクニヌシも「粟」などではなく「米」を用いた国造りを行っていたのではないかと主張する人もあるかもしれない。実際に『出雲国風土記』,『播磨国風土記』にはオオクニヌシが地上に稲種と稲作を広めたという伝承が記されているので、まずはこうした記述から稲作開始に関する意見に答えることにしよう。

 まず天狭田・長田という水田であるが、これらは地上ではなく、天上の高天原に作られた水田のことであると『日本書紀』,『古事記』には記されている。よって高天原で育てられていた水稲が、必ずしも同じ時期に地上の葦原中国で栽培されていたとは言えない。やはり後代になり、ニニギが天孫降臨する際に、アマテラスはニニギに授け、それが地上にもたらされたと考える方が理にかなっていると言えるだろう。

 『出雲国風土記』,『播磨国風土記』にある、オオクニヌシの稲種と稲作に関連する記述についてはどうだろうか?
 これらはあくまでも伝承であり、正史として編纂された『古事記』,『日本書紀』の記述の中にはオオクニヌシが稲を広めたことを示す記述はどこにも記されていない。そこには稲や米ではなく、むしろ粟との関係性の強さを示唆するような記述だけがオオクニヌシには関連して述べられていることはすでに説明した通りである。

 特にオオクニヌシの国造りのパートナーであったスクナヒコナについては、「粟」の茎に弾かれて常世の国へと旅立ったというような、粟との強い関係性のみが示されている。さらに無名の雉は、高天原に帰る事すら忘れてしまう程、地上には粟と豆の畑が豊穣に実っていたことが示されている。こうした理由から考えると、やはりオオクニヌシは「粟」を推進した国造りを行っていたとしか考えられないのである。
 神話学者の大林太良は、その著書『日本神話の構造』のなかで、先に述べた二つの理由から、水稲ではなく、むしろオオクニヌシの時代には「粟」が広まっていたはずであると述べている。このような諸理由を鑑みるならば、オオクニヌシの時代は稲作が中心ではなかったという太古の状況を十分に理解できるに違いない。


大国主オオクニヌシの時代の稲の存在


オオクニヌシの時代には「粟」が中心穀物であったとしても、「稲」まったく存在していなかった訳ではない。この当時から「稲」は存在していたとは思われるが、実際には「粟」ほど沢山栽培されていなかっただろうし、また現在のように稲が水田で耕作されることは無かったことだろう。

 確かに正史である『古事記』,『日本書紀』の記述を見てもオオクニヌシが稲を広めたことを示す記述はどこにも存在していない。その理由が、天津神の側から見て、国津神のオオクニヌシが国譲りを行う前、またニニギが天孫降臨する以前に「稲」を植えていた事を記録に残したくなかったという意図があるとするならばどうだろう。

 高天原からきた天津神であるニニギが、稲を初めて葦原中国(アシハラノナカツクニ)と呼ばれていたかつての日本に持ち込み、それにより瑞穂稲国として稲作を背景とした統治を始めたことを考えると、こうした仮説も案外的外れとは言えないように思える。実際に、日本は国譲りと天孫降臨をもって「豊葦原千五百秋瑞穂国」(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)であるとアマテラスは呼んだのである。この時を境に、日本に稲が伝えられて定着して瑞穂国となった。瑞の字には水耕の意味が感じられ、また穂は稲穂のことであるので、まさに水田による稲作を表した国の呼び名がここで定まったのだと言える。

豊葦原千五百秋瑞穂国とよあしはらのちいおあきのみずほのくに(日本)

 それを踏まえた上で、オオクニヌシと稲の関係性をうかがわせる記述が含まれている『播磨国風土記』を改めて注目してみる事にしよう。まずは次の引用を御覧頂きたい。

【 播磨国風土記 】
 オオクニヌシとスクナヒコナの二柱の神、神前の郡、塑岡の里の生野の岑に在して、此の山を望み見て、のりたまひしく、「彼の山は、稲種を置くべし」とのりたまひて、即ち、稲種を遣りて、此の山に積みましき。山の形も稲積に似たり。故、号けて稲種山といふ。


 ここではオオクニヌシとスクナヒコナが、稲種山に稲の種を置いた(植えた)と記されている。他にも「賀毛郡賀毛郡楢原里の条」には、オオクニヌシの御飯をこの嵩に盛ったことに因んでその場所が「飯盛嵩」と名付けられたともある。いずれも「稲」が岑(みね)、嵩(みね)といった場所と関連付けられて記されているのは無視できない要素である。
 こうした記録の存在から、オオクニヌシの時代に稲が存在しなかったとは完全には否定は出来ないだろう。何らかのカタチですでに稲は既に地上に持ち込まれており、粟のように大きな規模では無いまでも、小規模にではあるが稲の栽培は行われていたのではないだろうか。しかし、もしそうであるとするのであれば、一体何をもって稲作がニニギによって始まったとするべきなのかという疑問が生じることになる。

 この疑問に対する回答のひとつの可能性として、私は「陸稲」と「水稲」による稲耕作の違いで線引きが出来るのではないかと考えている。
 オオクニヌシが稲と関係付けられて述べられている場所は、岑、嵩として表現されている高地であり、ここからオオクニヌシの時代は、山あるいは山間地で稲が栽培されていたことがうかがえる。こうした山と稲の関係性を考えると、オオクニヌシの時代は水稲ではなく、まだ陸稲による耕作だけが限定的に行われていたとみなすべきだろう。また山での農業ということであれば、古代に粟の耕作のために行われていた「焼畑農業」によって栽培は行われていた可能性も高い。

 ニニギが高千穂に天孫降臨した様子が『日向風土記逸文』にはあり、その部分は次のような興味深い記述となっている。

【 日向風土記逸文 】
 日向國風土記曰,臼杵郡內,知鋪鄉,天津彥彥火瓊瓊杵尊,離天磐座,排天八重雲,稜威之道別道別而天降於日向之高千穗二上峰時,天暗冥,晝夜不別,人物失道,物色難別.於玆,有土蜘蛛,名曰-大鉗‧小鉗二人,奏言:「皇孫尊,以尊御手拔稻千穗為籾,投散四方,必得開晴」于時,如大鉗等所奏,搓千穗稻,為籾投散.即天開晴,日月照光.因曰-高千穗二上峰.後人改號-智鋪.

【 日向風土記逸文 】
 日向の国の風土記に曰く、臼杵の郡の内、知鋪の郷。天津彦々火瓊々杵尊が天の磐座を離れ、天の八重雲をおしわけて、稜威の道をかき分けて、日向の高千穂の二上の峯に天降り立った。その時、天は暗く、夜も昼も分からず、人物道を失い、物の色も見分けがつかない。ここに、土蜘蛛、名を大鉏(おおくわ)・小鉏(をくわ)と言う二人がおり、奏言するには、「ミコトが持っている稲千穂を籾にしてあたり一面にまかれると霧は必ず晴れるでしょう」と言うので、ニニギノミコトは言うとおりにするとたちまち霧が晴れ、無事地上界に降りることができた。そのため、高千穂の二上峰と呼ばれ、後の人は改めて智鋪(ちほ)と名付けた。


 『日向風土記逸文』の本本は失われているので、逸文を残すのみとなっている。上記はその中のニニギの降臨の際の記述で、ここでは『古事記』,『日本書紀』にはない、ニニギが、山上で持っていた稲千穂を籾にして辺り一面にまいた事が述べられている。そしてその事から高千穂の二上峰と呼ばれるようになったのだと説明されている。

 ここで念頭に置いて置きたいのは、なぜ天孫降臨したニニギは、稲を携えて高千穂の山に降り立ったのかという事である。天孫降臨した場所は諸説あるが、高千穂以外は海沿いを挙げているものが多い。それらの根拠は、稲作は海を渡ってきた大陸文化がもたらしたものだからである。
 科学的な視点から見ても、それまで日本に水稲は存在していなかったようであり、水稲は大陸からもたらされたという事で間違いなさそうである。実際に我々が好んで食べているジャポニカ米のDNAを調査すると、長江流域の米と同じDNAであることから、日本の米は、中国南部からもたらされたとする学説が近年では有力になっている。
 確かに普通であれば、海路で流れ着いた場所を天孫降臨の地とするのがごく自然であるように思えるが、それでもなぜ『古事記』,『日本書紀』も共に高千穂という山岳地を天孫降臨の場所に挙げたのかは大きな疑問点である。
 『日向風土記逸文』には、それに加えて、山上で持っていた稲千穂を籾にして辺り一面に蒔いたとまである。

 ここで思い出されるのは、先に述べた『播磨国風土記』にある、オオクニヌシの記述である。そこにはオオクニヌシが「彼の山は、稲種を置くべし」と言ったので、稲種をその山に積んだ為、山の形も稲積のようになり、その為に稲種山と呼ばれるようになった」とある。
 これらの共通点は、神が山の上で稲に関する何らかの行動を取ることで、その場所に「稲」に因んだ名前が付けられたというところである。しかもこの共通した同じ構造の内容は、『古事記』,『日本書紀』には記載されておらず、ほぼ同じ時代に成立した『風土記』にのみ残されているというのも見過ごすべきではない共通点として挙げておくべきであろう。


大国主オオクニヌシ瓊瓊杵ニニギの稲


 先に提起した『播磨国風土記』と『日向風土記逸文』の山における稲と地名の共通した話の構造についての論文を探したが、詳しく触れたものや、定説がないようなので、ここからは私の推測・仮説に基づいた説明になる。
 ただこの共通点には何かオオクニヌシとニニギの稲についての関係を理解するための意味深いヒントを与えてくれる部分であることには間違いないだろう。

 さて、先にニニギ以前にも、稲は栽培されており、それは陸稲だったのではないかと述べた。『播磨国風土記』でオオクニヌシが稲種山で栽培した稲も、もちろん陸稲であり、それは畑での栽培であったはずである。こうした国津神の過去の事績は、天津神として表される、稲をもって新しい体制で国土を治めようとする新興力にとっては好ましいものではなかったに違いない。なぜならばこうした新興勢力は、水稲を瑞穂国である日本に導入して、水田栽培という新しい集団農耕という方法でもって中央主権的な組織を確立してゆく必要があったからである。

 よってニニギが天孫降臨して降り立つ場所は、かつて国譲り前にオオクニヌシが陸稲を栽培していた象徴的な場所である「山」という場所でなければならなかったのではないだろうか。かつ他の国津神によって手がつけられていない山であることが好ましかったとも推測できる。これが高千穂にニニギが降臨した理由ではないか。
 そしてその場所、つまりその「山」は『日向風土記逸文』によると、闇にあり、色さえ見分けがつかない不明瞭な場所であったと説明されている。よってそこに明瞭さ・霧を晴らす目的のために、ニニギによって稲千穂(水稲の稲穂)が籾にされ辺り一面に撒かれる必要があった。つまりこれは、国譲り前からオオクニヌシを含む国津神が山で陸稲栽培を行っていたことの否定であり、籾を蒔くことで上書きして、陸稲による国津神の事績を無きものとする行為であるようにも思えるのである。またこの行為はある種、清めの行為であったとも言える。

 陸稲と水稲の違いはあるものの、各地方の『風土記』で言及されているオオクニヌシと稲に関する記述は、すでに何度も述べたように『古事記』,『日本書紀』には一切見られない。その理由は、このような天津神の系譜にとって好ましくない、ニニギの天孫降臨以前の、つまりオオクニヌシに関係した稲に関する情報は意図的に正史から省こうとした為だったからではないか。
 このように水稲を導入し、水を引き、水田が作られる事で、焼畑による陸稲栽培を中心としたオオクニヌシに代表される旧勢力は権力を失っていったものと思われる。こうした観点から見ると、焼畑から水田への変化は、間違いなく大きな権力構造の転換、あるいは産業におけるイノベーションであったに違いない。

 後でも詳しく述べるが、高天原において、国津神の祖であるスサノオが、天狹田と長田の畝を壊し水田を荒らしたのは、こうした新しい新しい農耕技術に対する抵抗であったというようにも読める。実際にその後、国津神の勢力は、水田を基調とした天津神に国を譲らなければならなくなってしまった。記紀のなかで象徴的に語られた稲に関する記述は、それが実際には何を表していたのかを読み解く為のヒントを私たちに与えるものとなっている。

 このように焼畑の神(旧勢力、国津神、出雲系)は力を失い、水田の神(新興勢力、天津神、高天原系)が力を持つようになって、瑞々しく稲穂の茂る「瑞穂の国」としての日本を治めるようになっていったのである。


山と焼畑農業


 先に述べたオオゲツヒメに関する『古事記』の逸話には、焼畑農業の要素が込められていると考えられている。そのエピソードでは、死からの再生が穀物における豊饒さと結びつけられて象徴的に語られているが、それは焼畑農業という農法が関係しているからと考えて良いだろう。
 焼畑農業とは「ある土地の現存植生を伐採・焼却等の方法を用いることによって整地し、作物栽培を短期間おこなった後、放棄し、自然の遷移によってその土地を回復させる休閑期間をへて再度利用する、循環的な農耕である」という定義と照らし合わせても、火に焼かれる(死)を通して、土地が再生して穀類の豊穣さをもたらすというイメージが喚起される。

焼畑農業(Slash-and-burn)

 オオゲツヒメはこの焼畑という農法とも結びつきが強い神であると考えられている。基本的に焼畑が行われるのは山間部に於いてであり、オオゲツヒメは「山」との繋がりが強い。さらにはオオゲツヒメの死体から種を取り、地上に下ろしたカミムスヒは「火」との繋がりが強い神でもある。以降この「山」および「火」とオオゲツヒメの関係について説明を加える事としたい。


大宜津比売オオゲツヒメと「山」のつながり


 オオゲツヒメはオオトシカミ(大年神)の系譜が記されている条に再び現れる。この大年神の系譜の神々は、原始的な神に分類されることになるだろう。日本人は昔から山の向こうや海の向こうに神と死者の国があると考えていて、そこの穀物神が、里にやってきて、田畑に宿って作物を実らせると考え、民間ではこうした原始的な神々を祀る行事が行われてきた。
 こうした民俗信仰に基づいた、素朴な存在の神に関する伝承は各地にあり、そうした背景であるがゆえに、『古事記』や『日本書紀』で語られる神々のような複雑な物語はこれらのプリミティブな神々には存在していない。

 奥能登には、ユネスコの無形文化遺産にもなっている「アエノコト」という祭礼があるが、これもそうした民俗信仰に基づいている。この祭礼は一年間の収穫の感謝と次年度の五穀豊穣を祈願するため田の神を祭る行事である。田の神は姿が見えないので、あたかも目の前に神がいるように演じ、もてなしを行うところにこの祭礼の珍しさがある。
 さてこの田の神は、山の神でもある。なぜなら稲作農耕民の間には山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ下って田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらし、また山へと帰って行く考えられているからである。つまり、オオトシカミ(大年神)は、山の神、田の神、穀類の神との関連性が非常に強い存在なのである。

 古事記の研究を行っていた国学者の本居宣長は、年神について以下のような興味深い解説を行っている。

【 古事記伝 】本居宣長
 登志としとは穀のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり


 このように本居宣長は、オオトシカミ(大年神=登志神)が穀物と関係している事を指摘している。こうした神は太古からの民俗信仰に基づいた神であり、オオトシカミの子どもの神々には、いずれもそうした要素を感じさせる部分がある。
例えば、このオオトシカミは、天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)も娶り、その子らは、奥津日子(オキツヒコ)と、奥津比売命(オキツヒメ)という「竈(カマド)神」である。竈神はやはり原始的な神であり、孔子もあまり竈神を重要視していなかったようで、「竈神妻子は老婦の祭りだから、正式にやる必要はない」と『禮記』の中で述べている。ここからも竈神が、原始的で民俗的な信仰に根差したものであることが理解できる。

 『古事記』で述べられているオオトシカミ(大年神)の系譜には、こうしたニュアンスがあることを理解して頂いた上で、ここで再び、オオゲツヒメに関する記述に戻ることにしたい。
 オオトシカミは先にのべた竈神の二柱の奥津日子(オキツヒコ)と、奥津比売命(オキツヒメ)の他にも8人の子どもを儲けている。その兄弟の中の一人が羽山戸神(ハヤマトの神)であり、この神がオオゲツヒメを妻にして、多くの子どもたちを儲けたことが次のように記されている。

【 古事記 】
 羽山戸神、娶大氣都比賣神、生子、若山咋神。次若年神。次妹若沙那賣神。次彌豆麻岐神。次夏高津日神、亦名、夏之賣神。次秋毘賣神。次久久年神。次久久紀若室葛根神。

【 訳文 】
 羽山戸神(ハヤマトノカミ)、大気都比売(オオゲツヒメ)を娶して生める子は、若山咋神(ワカヤマクイノカミ)。次に若年神(ワカトシノカミ)。次に妹(いも)若沙那売神(ワカサナメノカミ)。次に彌豆麻岐神(ミズマキノカミ)。次に夏高津日神(ナツタカヒノカミ)、亦の名は夏之売神(ナツノメノカミ)。次に秋毘売神(アキビメノカミ)。次に久々年神(ククトシノカミ)。次に久々紀若室葛根神(ククキワカムロツナネノカミ)。


 このようにオオトシカミ(大年神)の子孫の系譜には、「山」との関連性が非常に色濃く現れている。オオトシカミ自身、山の神であり、穀物の神であるが、その子で、オオゲツヒメと結婚した羽山戸神(ハヤマトノカミ)も名前に「山」の字が入り、さらにまた、その子どもである若山咋神(ワカヤマクイノカミ)にも「山」との関連性を表す名前が付いている。名前だけではなく、実際に羽山戸神(ハヤマトノカミ)は、「山麓の神」であり、山と里の中間にある、耕作地=山麓を意味する農耕神としての性格を備えているとされている。

 こうした「山」や「穀」との関連性を強く持つ、オオトシカミ(大年神)の子孫の系譜に、結婚を通してオオゲツヒメが組み込まれていったことは、やはり自然なことであり、またオオゲツヒメについて語る際には、「山」の強い関連性は常に意識されなければならないだろう。


大宜津比売オオゲツヒメと「火」のつながり


 多くの神話学者や民俗学学者が指摘している様に、オオゲツヒメは「火」との繋がりも強い神である。それはオオゲツヒメの誕生の過程におても現れている。オオゲツヒメの母親は、イザナキであり、『古事記』には次のように出産の様子が語られている。

【 古事記 】
 次生神名、鳥之石楠船神、亦名謂天鳥船。次生大宜都比賣神。次生火之夜藝速男神、亦名謂火之炫毘古神、亦名謂火之迦具土神。因生此子、美蕃登、見炙而病臥在。多具理邇、生神名、金山毘古神、次金山毘賣神。次於屎成神名、波邇夜須毘古神、次波邇夜須毘賣神。次於尿成神名、彌都波能賣神、次和久產巢日神、此神之子、謂豐宇氣毘賣神。故、伊邪那美神者、因生火神、遂神避坐也。凡伊邪那岐、伊邪那美二神、共所生嶋壹拾肆嶋、神參拾伍神。

【 訳文 】
 次に生んだ神の名は、鳥之石楠船神、またの名は天鳥船という。次に大宜都比売神(オオゲツヒメ)を生み、次に火之夜芸速男神を生んだ。またの名は火之炫毘古神といい、またの名は火之迦具土神という。この御子神を生んだため、伊邪那美命は女陰を焼かれて病に伏した。その時、吐瀉物に成った神の名は金山毘古神、次に金山毘売神。次に、糞に成った神の名は波邇夜須毘古神、次に波邇夜須毘売神。次に、尿に成った神の名は彌都波能売神、次に和久産巣日神。この神の子を豊宇気毘売神という。そして伊邪那美神は、火の神を生んだことで、ついに神避ってしまった。天鳥船から豊宇気毘売神まで合わせて八はしらの神。全部で、伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神が共に生んだ島は十四島、神は三十五柱である。


 ここではイザナミの神産みによってオオゲツヒメが誕生した様子が語られている。更にオオゲツヒメの誕生の直後に産まれたのが、火之夜芸速男神(ヒノハギヤオノカミ)である。
 この神は別名があり他にも、火之炫毘古神(ヒノカガビコノカミ)・火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(カグツチ)、火産霊(ホムスビ)と表記されているが、ここではこの神をカグツチという名称で表記する。

 さてこのカグツチは火の神であったので、その誕生の際に、イザナミは女陰(女性器)を焼けどしながら出産することになり、それがもとでイザナミは死んでしまう。イザナギは妻を失って怒り狂い、子供であるはずのカグツチを十拳剣(トツカノツルギ)で切り殺してしまう。この火の神が殺されてその体の各部位から以下の9柱の山の神々が誕生する。

 頭 : 正鹿津見神(マサカヤマツミノカミ)
 胸 : 淤縢津見神(オドヤマツミノカミ)
 腹 : 奥津見神(オクヤマツミノカミ)
 陰部: 闇津見神(クラヤマツミノカミ)
 左手: 志芸津見神(シギヤマツミノカミ)
 右手: 羽津見神(ハヤマツミノカミ)
 左足: 原津見神(ハラヤマツミノカミ)
 右足: 戸津見神(トヤマツミノカミ)

 これら9柱の神々は名前に表されているように、いずれも山が関係している神々である。こうした山が関係した神々が、火の神から産まれたことも農耕との関係から考えれると、焼畑のような方法が必然的に導き出されるのではないか。
 大林太良は『稲作の神話』のなかで、イザナミの病臥後にその吐瀉物・糞・尿、イザナキの涙、殺されたカグツチの体の各部分からも神々を産むが、それがオオゲツヒメやウケモチに見られる死体化生型作物神話と同じものであるとしている。
 また、吉田敦彦も、『豊穣と不死の神話』の中で、イザナミのような地母神的女神が体を火に焼かれることで人間の生活に必要なものを生み出してくれるという物語はまさに火で焼かれた地面から作物を生じさせる焼畑の神話化だとしている。

 こうした関係性を見てゆくと、オオゲツヒメによって表される穀類が、「火」と「山」の要素と密接な関係があり、これらが焼畑を示唆するものとなっていることを理解できるのではないだろうか。そこで取られていた農法が焼畑であるとするならば、それによって収穫されていた穀物は「粟」であると考えるのが自然であろう。


素戔嗚スサノオあわ


 ここで改めて国津神と天津神を対比させて、それれぞれの権力がどのような穀類に結び付けられていたのかを明らかにしておきたい。国津神を代表する神として挙げておきたいのはスサノオである。また天津国を代表する神は、天照大神(アマテラス)ということになるだろう。この二柱の神は、伊弉諾イザナギの禊によって生まれた兄弟神である。

 スサノオは粗暴な行動故に高天原から追放されてしまうが、その原因となった記述が『日本書紀』には次のようにある。

【 日本書紀 】
 是後、素戔鳴尊之爲行也、甚無狀。何則、天照大神以天狹田・長田爲御田、時素戔鳴尊、春則重播種子(重播種子、此云璽枳磨枳) 且毀其畔(毀、此云波那豆)、秋則放天斑駒使伏田中、復見天照大神當新嘗時、則陰放屎於新宮、又見天照大神・方織神衣・居齋服殿、則剥天斑駒、穿殿甍而投納。是時、天照大神、驚動、以梭傷身、由此發慍、乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。故六合之內常闇而不知晝夜之相代。

【 訳文 】
 誓約の後のスサノオの行いは酷いものであった。それがどのようなものであったかというと、アマテラスは天狹田・長田を自分の田としていたが、スサノオは春に、その田に重播種子シキマキ(種子を蒔いた上から、重ねて種子を蒔くこと)したり、畦を壊した。
 秋には天斑駒アメノブチゴマ(マダラ模様の馬)を田に放し、アマテラスの新嘗祭では神殿で糞を垂れ、衣服を織る齋服殿イミハタドノにアマテラスが居るを見ると、天斑駒の皮を剥いで、建物の屋根に穴を空けてそこから投げ入れたのである。アマテラス驚いて、機織りの梭で傷を負ってしまった。
 ついにアマテラスは怒って天岩屋に入り、岩戸を閉じて隠れてしまった。それで国は常闇となり昼も夜も分からない状態となった。


 アマテラスはウケモチ(古事記ではオオゲツヒメに該当)の死体から得られた五穀を高天原にもってこさせ、その内の稲を取り分けて(陸田種子はたつもの水田種子たなつもの)とした。アマテラスが特に水田種子を重要視していたことは、高天原に天狹田・長田という水田を作ったことに表されている。このようにアマテラスが重要視してた水田に対して、スサノオは度々妨害を加える。

 このスサノオの行動は何を意味しているのだろう。これは国津神を代表する事になるスサノオの、天津神に対する抵抗(旧テクノロジーと新テクノロジーの対立)と考えることができるのかもしれない。言い換えると最新のテクノロジーである水田での稲作に対して、スサノオが抵抗している姿が描写されており、それが引いては国津神と天津神の対立のようなものを浮き彫りにすることになっているのである。


素戔嗚スサノオの暴虐(春)


 まず春に、スサノオは種子を蒔いた上から、重ねて種子を蒔くことで妨害したり、また畦を壊して妨害している。天狹田・長田には当然、稲の種子が蒔かれていたはずであるが、その上からスサノオが蒔いたとされる種子は何だったのだろうか。同じ稲の種を蒔いたとするならば害もないので何の問題もなかったはずである。よって当然、スサノオが蒔く種子は違う穀物のものであったに違いない。『日本書紀』には何の種であるのかを記載していないが、私はそれが「粟」であったに違いないと考えている。つまりここにも「粟」と「米」の権力対立の図式を推測することか出来るのである。

 また畦を壊したという記述も象徴的である。畦は水田に水を貯めておくために重要な役割を果たしている。畦を壊された水田からは、水が流れ出てしまったことだろう。しかし、なぜスサノオは畦を壊したのだろうか。先に推測したように、もしスサノオが「粟」の種子を蒔いていたとするならばどうだろうか。粟の栽培には、稲ほどの水が必要ないので、スサノオは畦を崩す事で「粟」にとって良い環境をつくろうとしていたと考えられないだろうか。
 こうしたスサノオの行為は、稲を否定し、むしろ粟を貴重なものとみなす国津神の考え方が表れていると言えるだろう。


素戔嗚スサノオの暴虐(秋)


 また秋にもスサノオは暴虐をはたらいている。
 マダラ模様の馬を田に放したとあるが、秋は収穫の重要な時期である、この時期に田に馬を放すのは、稲にダメージを与えて収穫物を駄目にする明らかな妨害行為である。(稲の収穫時期に頻発する台風にその行為は投影されるかもしれない)
 またスサノオは、アマテラスの新嘗祭で神殿で糞を垂れたとある。このタイミングが新嘗祭であったことも重要である。収穫された米が供えられて毎年、新嘗祭は行われるが、こうした稲にまつわる重要で神聖視される儀式を汚すことで、スサノオは稲作そのものを否定しようしたのではないだろうか。ここからも米や稲に対する、スサノオの否定的な感情や意図を読み取れるに違いない。

 またスサノオは、衣服を織る齋服殿に天斑駒の皮を剥いで、天井から投げ込むという暴虐を行っている。これによりアマテラスは機織りの梭で傷を負ってしまう。『古事記』の方にはそれとは少し異なる以下のような記述になっている。

【 古事記 】
 天照大御神、坐忌服屋而、令織神御衣之時、穿其服屋之頂、逆剥天斑馬剥而、所墮入時、天服織女見驚而、於梭衝陰上而死

【 訳文 】
 アマテラスは忌服屋で神にささげる服を織らせていたが、スサノオはその屋根に穴を開けて、逆に皮を剥いだ斑の馬を放り込んだ。するとそれを見た服織女は驚き、女性器を機織りの部品の梭で突いて死んでしまった。


 『日本書紀』ではアマテラスがで怪我を負うが、『古事記』では服織女が梭で女性器を突いて死んでしまう。いずれも機織りの梭という部品が象徴的に使われており、それによって怪我あるいは死がもたらされている。梭という部品は英語で「シャトル:Shattle」という。機織りの際には張られた縦糸に対して、横糸を通す必要があるが、その横糸を通すための道具が「梭」である。

 シャトル:Shattle

 梭は、その形状および同じ場所を何度も行き来する(piston)という意味において、男性器を象徴するものであるように思える。よってその梭に女性器を突かれて死ぬということもまた象徴的である。実際には女性器は生命を産み出すことから、豊穣や多産の象徴とされているが、それが死によって閉ざされるところにも何らかの意味が込められていると考えるべきだろう。またアマテラスは死にこそしなかったが、それによって怪我を負っている。そしてこの出来事以降、女神アマテラスは神を産み出してはいない。

 このことは、稲作と結び付けられた文脈の中で行われたスサノオの暴虐により、天津神の女神たちが死や怪我を負うことで豊穣さや多産から断絶されてしまったということを意味すると捉えられないだろうか。つまりこうした記述にも、スサノオの稲作に対する抵抗や妨害を見ることが可能である。また天津神の女神たちの豊穣さを失わせることは、引いては彼女たちが育てる稲の豊穣さを妨害しようとする行為としても捉えることができるのではないか。

 さらに古代、布は神聖なものとされており、布を織ることは神聖で、これも最新のテクノロジーであった。つまり「稲」と「機織り」という最新の技術を否定するかのようなスサノオのこうした行為にこそ、粟に紐付いた国津神のアイデンティティのようなものが透けて見えるような気がするのである。


素戔嗚スサノオと酒


 先に述べたような暴虐な振る舞いゆえに、スサノオは高天原から追放されて出雲にへと降りてくる。スサノオの出雲での有名なエピソードは八岐大蛇を退治した話ではないだろうか。スサノオは奇稻田姫(クシイナダヒメ)を救うために、両親の脚摩乳(アシナヅチ)と手摩乳(テナヅチ)に酒を造らせ、八岐大蛇を酔わせて退治する。その酒がどのようなものか『日本書紀』には以下のようにある。

【 日本書紀 】
 乃使脚摩乳・手摩乳釀八醞酒

【 訳文 】
 脚摩乳(アシナヅチ)と手摩乳(テナヅチ)に八醞酒を造らせた。


 ここにはスサノオが八醞酒やしおりのさけを造らせたとある。同じ記述が『古事記』にもあり、古事記の方は八鹽折之酒と八醞酒の万葉仮名で書かれている。この八醞酒とはどのようなものであったのか、本居宣長は『古事記伝』の中で八回酒で酒を醸したものであると書いているが、醸造でこのような手法が可能なのかは疑問である。
 『日本書紀』には、八醞酒がどのようなものなのか続けて以下のような記述がある。

【 日本書紀 】
 素戔嗚尊乃教之曰「汝、可以衆このみ釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。」二神隨教設酒。

【 訳文 】
 スサノオが「果実から八つの甕に酒を醸しなさい」と言い。二人の神々は酒を準備した。


 ここから八醞酒とは米のお酒でなく、果実の酒であったことが分かる。これが日本で始めて酒について言及された箇所であるが、その酒がワインのような果実酒であったというのは大変興味深い。日本人の古代の酒と言うとお米で作った、いわゆる日本酒のようなものを想像してしまうが、実際の太古の酒とは果実酒だったのである。


果実の酒


 日本の正史に残された最初の酒とは果実酒だった。ではなぜ果実酒だったのかというと、理由は簡単でその当時はまだ日本酒そのものが造られていなかったからである。なぜ日本酒がなかったかというと、まだ稲作が行われておらず、米で酒をつくること自体が行われていなかったからである。そもそも酒を造るほど米自体がなかったので、今で言うような日本酒は作りようがなかったということである。
 このように米で造られた酒がこの時代になかったという事実そのものが、国津神の国である出雲において、まだ稲作は行われていなかった様子を伝えるものとなっていないだろうか。

 スサノオの後、オオクニヌシが出雲国を治めるが、その時代になっても「粟」を中心とした穀物が中心であったのもスサノオの影響、あるいは国津神のもつ固有の価値観がそうさせたものと思える。いずれにせよ、この権力が「粟」でもって国を治める方法を取っていたことは明らかである。よって米による酒、つまり日本酒のようなものはまだ造られておらず、オオクニヌシが妻のスセリビメと杯を交わす記述が『古事記』にはあるが、その酒もまた果実酒だったであろうと推測されるのである。


最初の米の酒


 ちなみに『日本書紀』にある最初の米の酒は、ニニギの妻となったコノハナサクヤヒメが作ったとされる酒である。以下のようにその記述がある。

【 日本書紀 】
 吾田鹿葦津姫、以卜定田、號曰狹名田。以其田稻、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稻、爲飯嘗之。

【 訳文 】
 コノハナサクヤヒメこと吾田鹿葦津姫は、占いで定めた神に供えるための「卜定田(ウラヘタ)」を狹名田(サナダ)と名付けた。その狭名田の稲で天甜酒(アメノタムサケ)を醸造して収穫の新嘗祭で奉納した。また、渟浪田(ヌナタ)の稲を炊いて新嘗祭で奉納した。


 コノハナサクヤヒメが狭名田の稲で天甜酒(アメノタムサケ)を醸造したこと。また渟浪田の米を炊いて新嘗祭を行ったとある。これが最初の米酒の記述であり、また最初に行われた新嘗祭でもある。コノハナサクヤヒメはニニギの妻で、ニニギが高千穂に天孫降臨してから、その後、見初めて結婚した土着の女神である。つまり稲がニニギによって高天原から持ち込まれ、それを渟浪田で栽培して得られた米が醸されて、最初の日本酒である「天甜酒」がやっと出来たのである。こうした酒が、元々は国津神であったコノハナサクヤビメが、天津神のニニギと結婚して、双方の権力や文化が融合した関係から生まれたというところも重要なポイントである。


出雲と大和


 ここまで『日本書紀』,『古事記』に見られる「粟」の存在について考えてきた。国津神、特に出雲においてスサノオやオオクニヌシといった神々が米よりもむしろ「粟」と関係が強い事や、彼らの権力が「粟」に根差したものであることを理解していただけたのでないかと思う。そして「粟」を栽培するためには、原始的な焼畑による農業が行われたことだろう。つまりそれまでの狩猟による移動を繰り返す生活から、農耕によるある一定の定住生活が行われるようになり、コミュニティが形成され国々が起り始めた時代であったとも推測される。これが出雲王朝であったと思う。

 もう一方の天津神である高天原から降りてきた、天孫ニニギは、アマテラスの神勅を受けて、稲に基づいた国造りを進め、また稲作を権力の拠り所とした。このグループは水田による稲作を進め、定住による農耕をより一層推進した。また水田による稲作はコミュニティによる共同作業が必要とされることから、次々とコミュニティが束ねられて行き、小さな国々が集合体となり国家を形成するようになった。この延長線上に大和朝廷が形成されたと考えられている。

 出雲と大和をまとめると上記のような表であらわされるだろう。このようにして見ると、それぞれの権力基盤が、それぞれの穀物や耕作方法に基づいたものであったことが明らかになるのではないか。


粟と大嘗祭


 大嘗祭において神饌が供されるが、その主要なものは米である。しかし米だけでなく、粟も一緒に供えられており、その意味についてはあまり語られることがない。令和の大嘗祭が行われた際にも粟が供えらる事について、国学者の岡田壮司は以下のように述べている。

「大嘗祭」の本質を探る
 さらに、庶民の食べ物である粟が含まれることに注目したい。米は天照大神からの頂き物で大切なものとして供えられるが、災害対応や国民の食料を守るため「粟も順調に育ててください」との祈りがもう一つ入っていると思われる。中世の祝詞に見られる禍を鎮めるための祈りも含め、災害が多い列島で共同体を維持するための「想い」が組み込まれているのではないか。


 このように粟に対する位置付けについて、いまひとつ明確であるとは思えない説明が行われている。この位置付けだと粟はあくまでも補助的なサブとしてのものであるような説明である。しかし実際の大嘗祭の行事で行われる詳細を見るならば、粟はあくまでも米と平行した位置付けであり、その間には優劣が無いように扱われている。また大嘗祭で行われる神饌御供の儀礼そのものも、すべてが対になるパラレルな形態で構成されている。つまり大嘗祭の重要部分の構成を詳しく検討するならば、米と粟の間に何らかの上下関係があるようにはとても思えない。

大嘗祭で供えられる米と粟

 このパラレルな形態は、米と粟だけでなく、本殿で供えられる他の供え物にも見てとれる。それは白酒と黒酒であったり、絹織物の「繪服(にぎたえ)」と麻織物の「麁服(あらたえ)」も同様である。以下、これら他の供え物を比較することで米と粟がパラレルな関係にあること、さらにはそれらの供え物がなぜパラレルに扱われ供えられるのかを説明してみることにしたい。


白酒しろき黒酒くろき


 大嘗祭では白酒と黒酒の二種類が供される。これらの酒は悠紀・主基から供された斎田から収穫された新米から醸された酒である。白酒は甘酒のようなにごり酒であったが、後には澄んだ清酒が用いられるようになっている。黒酒にはかつては「常山木くさぎ」あるいは「久佐木くさぎ」と書かれる植物の灰がが混ぜられ色が付けられていたが、近世になると黒ゴマを加えられて色付けが行われるようになっている。

白酒しろき黒酒くろき

 この白酒と黒酒の間にも上下は無い。だがなぜ黒酒にはわざわざ灰が混ぜられて色付けされていたのだろうか。そのことを考慮するにおいて、先に述べたスサノオが八岐大蛇退治で準備させた酒がどのようなものだったのかを思い出して頂きたい。そこで準備された酒は、『日本書紀』にあるように、ワインのような果実酒であった。太古の酒は、米の酒ではなく果実の酒であったということは重要である。つまり黒酒は、かつて果実で醸されていた酒を表現したものではないだろうかというのが私の仮説である。

 また果実酒は、スサノオに表される国津神のものであり、これらは出雲王朝との結びつきが強い。つまり大嘗祭で黒酒が供されることは、白酒が米の酒としての天津神つまり大和朝廷を表されることと平行して、出雲王朝が祀られることを示唆するものではないだろうか。そのために清酒にわざわざ色を付けてまでそれが供されているのだと考えている。例えば、赤ワインの色を想像して頂きたい、つまり色を付けられた黒酒は果実酒であることの再現になっているのではないだろうか。

 神饌が盛り付けられた後、酒が供されることになる。平居瓶に入った神酒を後取の采女が運び、陪膳の采女は本柏で受けてそれを天皇に渡す。御酒八足机には白酒の入れられた二つの平居瓶と、黒酒が入れられた二つの平居瓶が準備されているが、そこから本柏に注がれ、それが神饌の上に注がれることになっている。天皇は本柏に入れられた酒を神饌に注ぎ掛けることを四回繰り返す。白酒を二回、黒酒を二回、神饌に注ぎかけると思われるが、ここにもパラレルな形態が存在している。白酒と黒酒の間には優劣はないのである。


繪服にぎたえ麁服あらたえ


 大嘗祭では本殿に繪服と麁服という神御衣(かむみそ)と呼ばれる布が準備される。神御衣は服ではなく、実際は巻物のように長い一枚の織物のことである。
 繪服は絹織物である。アマテラスが高天原で蚕から始めて糸を紡いだとされており、絹織物は天津神と非常に関係の深い。
 それに対して麁服は麻織物で、古代から阿波国の阿波忌部氏によって調進されてきた。現代でも麁服は必ず阿波国(徳島県)から調進されることになっており、令和の大嘗祭でも徳島県の麻が、阿波忌部氏の子孫の三木家により調進されている。
 繪服と麁服は、大嘗祭の時には「籠目の容器」と共に本殿に据えられる。

麁服アラタエ(左)と 繪服ニギタエ(右)

 これら繪服にぎたえ麁服あらたえにも優劣の関係はなく、パラレルな配置である。
 ただ絹織物の繪服は大和朝廷を、そして大麻のようなプリミティブな素材で織られた麁服は出雲朝廷を象徴しているように思われる。つまりここでも天津神と国津神がパラレルな関係に置かれ儀式が行われるのである。

 さらに大麻で織られた麁服が、阿波で織られなければならないと定められているのも象徴的である。阿波は、淡島、淡路島、そして「粟」にも通じ、国津神のオオクニヌシが共に国造りを行った、スクナビコナが常世に旅立った場所でもある。また穀類を生み出すことになったオオゲツヒメは阿波を象徴する神でもあった。こうした神話における細部を見ても、阿波国で織られる麁服の存在が「粟」、そして出雲朝廷を象徴する物として本殿に置かれているように思われてならない。


大嘗祭における粟の位置付け


 ここまでで大嘗祭で用いられる神饌や捧げ物がパラレルな形態であることを示した。本来であれば大嘗祭は、新嘗祭でもあるという性格上、米の収穫を最も重視する儀式であるにもかかわらず、実際はその中で扱われる「粟」の位置付けは、米と同じように優劣がなく同等の扱いである。

 大嘗祭における粟は、明らかに補助的なものではない。大嘗祭における神事には、当然、作物の収穫における感謝の意味が含まれていると思うが、それと同時に、自然災害などの禍を鎮めるための祈りの意味も含まれている。

 平成天皇が退位し譲善を決められたのも、東日本大災害などの自然災害の頻発などによる、天皇としての霊力の減少を憂いての意味もあったという考え方がある。実際に過去に元号が変わったり、天皇が交代させられたりすることは、そうした自然災害や疫病などが契機になっており、新しい元号、あるいは新しい天皇はそうした災悪を払拭するためのシステムでもあった。そのように考えると、天皇の即位後に行われる、最も重要とされる大嘗祭という儀式には、自然災害や疫病などを回避するために祈りを捧げるという天皇に課せられている別のタスクが見えてくるのである。

大嘗宮

 世界的な事例として、新しい支配者が来て、その土地の支配者が変わった場合には、最初に支配者だった子孫が祭祀を司る役割を与えられ、それに従事させられるというのは文化人類学的には類型化されたものとして認められている。その理由として、最初に大地を開拓した者(傷つけた者)は、呪いや業(カルマ)がかけられており、その後もそうしたものを、その一族が担うことになるからであると説明されている。
 実際に日本の歴史においても、それと同じことが起きたと言えないだろうか。現在の天皇の祖である大和朝廷の前に、出雲朝廷が存在したのであれば、先の支配者としての出雲存在は祭祀・儀礼のうえでも重要な存在となるだろう。実際に国譲りのエピソードの中では、オオクニヌシは権力を天津神に譲った後は、冥界を治める役割を担うことになっている。こうした出雲から大和への権力移譲の歴史が、大嘗祭の儀式には含まれているのではないだろうか。

 鎌倉時代以降、武士の治める世になり、天皇や公家の政治的な権力は弱まっていった。これにより天皇もまた、祭祀を行う役割が中心となり、豊饒さの祈りと災害回避の祈りを司る、祭司のような存在にへと変化していった。実際に大嘗祭で天皇が担う儀式的な行為は祭司としての行為でもあり、大嘗祭は非常に宗教色の強い儀式となっていることは、現在の皇位継承者第一位の秋篠宮文仁親王も認め公的に発言している通りである。

 本来であれば、天皇は稲をもって国を治めることをアマテラスの神勅によって命じられているので、稲だけを重視した祭祀を行えば良いはずである。しかしながら大嘗祭の儀式内を詳細に見て行くと、実際は必ずもそうなってはおらず、むしろ粟と稲はパラレルなものとして取り扱われている。
 これは粟と稲だけに当てはまるのではなく、先にも説明した通り、白酒と黒酒、さらには繪服と麁服といった他の供え物も同様の位置関係であることが分かる。こうした位置関係を考察すると、やはり大嘗祭には、国津神や出雲王朝の要素が含まれており、そうした太古の前王朝(出雲)に対するリスペクト、あるいは恐れと畏れ(たたられることへの恐れ)こそがその祈りには含まれているのだと考えるべきである。そしてそれこそが大嘗祭における秘儀と深く関わっているのではないかと私は推測するのである。

 「大嘗祭と粟」について考察を加えてきたが、帰結するところ、粟とは出雲王朝:国津神。そして米とは大和王朝:天津神を意味するものであり、それが大嘗祭の深層部分には存在しているがゆえに、大嘗祭はあのようなパラレルな仕方で執り行われる儀式として昔から成立したのではないかと私は考えるのである。


日本人はどこからきたのか?


 日本人の好んで食べている粘り気のあるジャポニカ米のDNAは長江流域、つまり中国大陸南部の米と祖を同じくするものであることが明らかになっている。そこから考えても、稲作を携えて日本にやってきたと考えられる天津神として表される人々は、やはり中国南部にその起源を求めることが出来るのではないかと思う。

 また太古から既に日本に土着していた国津神として表されている人々はどうだろうか。粟を主とした国造りを行っていたことから、中国北方系の人々が、朝鮮半島を経由して日本に到達した可能性が検討される。中国大陸では、北部は粟、南部では米という穀類が生産されており、こうした主要な穀物の違いが、古代の日本に二つの王朝(出雲と大和)をもたらしたのではないかと考えられる。

 日本人は現在でもふたつの相反する要素を内在させてバランスを取るのが上手い国民性を持っていると言われている。確かに日本人は海外の習慣や文化をたくみに旧来から存在する日本の感覚に合わせて取り込んで行くことが上手い。それはクリスマスやハロウィン、バレンタインデーなどにも現れているといえるかもしれない。あるいは朝と夜で、パンとご飯を食べ分けたり、神道と仏教の行事のどちらも違和感なく行ったりすることにも現れているとも言える。

 我々、日本人が、こうした両極の要素を違和感なく取り込んでしまえる感覚を持っていることの理由を遡るならば「出雲と大和」のようなところにまで行き着くのかもしれない。大嘗祭における粟の存在について考えてきたが、単に儀式に「粟」が用いられているというだけでなく、その深層には、我々日本人が潜在的に持っている文化的な「CODE」のようなものが存在しており、その目に見えない感覚的な部分を、大嘗祭で扱われる粟にまつわる儀式は思い起こさせるものとなっている。そうした意味においても、大嘗祭は今後も継承されて行かなければならない大事なものであるように思われるのである。

 本記事では、冒頭に神話学者のジョーゼフ・キャンベルの言葉である「神話は究極の真理の一歩手前の真理」を取り上げたが、大嘗祭という神話的な儀式には、正に我々、日本人の持つ、究極の真理の一歩手前の真理が格納されていることに間違いはない。そして我々はこうした神話に込められた隠喩を見逃すべきではないし、こうした神話から我々の歴史や本質を見極めること、さらにはそれをごく自然に感じ取れることが出来ること、それが我々、日本人を、日本人たらしめる重要な要素となっているのではないかと私は思うのである。






参考文献


『即位礼と大嘗祭』 三浦周行 著

『殺された女神』  アードルフ・E・イェンゼン

『日本神話における稲作と焼畑』 吉田敦彦

『記紀神話における性器の描写 : 描かれたホトと描かれなかったハゼ』  深沢佳那子

『豊穣と不死の神話』  吉田敦彦

『出雲国風土記』  

『播磨国風土記』  

『日本神話の構造』  大林太良

『稲作の神話』  大林太良

『葬られた王朝――古代出雲の謎を解く』  梅原猛

『延喜式』 藤原時平[他]

『即位礼大嘗祭大典講話』 関根正直 著

『大嘗祭の本義』 折口信夫

『御大礼図譜』 池辺義象, 今泉定介 共編

『明治大嘗祭図 上』  編修局・編修委員会

『明治大嘗祭図 下』  編修局・編修委員会

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』  工藤隆

『精粟はかく献上された ──大嘗祭「米と粟の祭り」の舞台裏』  「神社新報」平成7年12月11日号