大嘗祭だいじょうさい


大嘗祭とはどのような儀式か?


 大嘗祭は天皇が皇位継承に際して行う宮中儀式である。天皇は毎年新穀を神々に供える「新嘗祭」と呼ばれる儀式を行っているが、その中でも天皇が即位して最初に行われる新嘗祭は大嘗祭として行われる。つまり大嘗祭は、天皇がその即位の期間中に一回だけ行う最も重要な儀式ということになる。

令和の大嘗宮(一般公開)


 大嘗祭は、稲作農業を中心とした日本において古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざした儀式である。大嘗祭の儀式では、天皇が大嘗宮において新穀を皇祖(天照大神)及び天神地祇(すべての神々)の為に食事を供え、また天皇もみずからもその食事を共にお召し上がることで、皇祖及び天神地祇に対して安寧と五穀豊穣を感謝するとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などへの祈念が行われる。


大嘗祭の歴史


 大嘗祭の記録は、古事記(712年撰進)や日本書紀(720年撰進)が編纂された奈良時代以前にまで遡ることができる。そこには皇祖天照大神が新嘗の祭を行ったこと、上古の天皇が新嘗の祭を行われたことに関する記述があり、太古から大嘗あるいは新嘗という儀礼が行われていたことが分かっている。
 7世紀中頃までは、即位後に一度だけ行われる大嘗祭と毎年行われる新嘗祭との間に明確な区別はなかったが、第40代天武天皇(在位期間:673年~686年)の時代になって始めて大嘗祭と新嘗祭とが区別されるようになり、大嘗祭は一世に一度だけ行われる極めて重要な皇位継承儀式と定められ「践祚大嘗祭」と名付けられることになった。

 その後、大嘗祭の式次第など詳細が整備されることになり、967年(康保4年)から施行された『延喜式』七巻の「践祚大嘗祭」の項にその手順詳細が記されていることから、平安時代には基本的な形式が確立したと考えられる。
 しかし文正元年(1466)の後土御門天皇の大嘗祭以降、戦乱により約220年もの間、大嘗祭は中絶してしまう。これは時代が武士の時代となり、皇室は大嘗祭のための財源を確保することもままならなくなってしまった為である。この時代の困窮ぶりは川端道喜の項で記してあるのでご確認頂きたい。こうした皇室の困窮ぶりを案じて川端道喜は毎朝、「お朝物」と呼ばれる餅を御所に献上していたのだが、まさにこうした時代に大嘗祭は途絶えてしまっていたのである。
 しかしその後、江戸時代中期になると大嘗祭は再興され、元文3年(1738)桜町天皇の即位から正式に復活することになり現在まで途切れることなく行われ続けている。


大嘗祭の名称


 「大嘗祭」という名称はいくつかの変遷を経た後に定着するようになった。まず古事記や日本書紀では単に大嘗・新嘗とだけ記載されており「祭」についての記載は無い。その後、奈良時代になると大嘗会、新嘗会と呼ばれるようになり、平安時代になって始めて大嘗祭、新嘗祭と称されるようになる。公式には「祭」とはなっているが、実際には日記類のほとんどでは大嘗会、新嘗会という記載になっている。これについて小山田義夫は『一国平均役と中世社会』の「大嘗会役小考」で、大嘗祭の後には3日間にわたる節会(せちえ)が行われており、「会」とされているのは、これに由来するとしている。また神社本庁による監修の『神社のいろは用語集 祭祀編』では、大嘗・新嘗を構成する重要な要素の一つが「会」にあったことを述べている。
 大嘗祭を含む天皇の即位に関連した一連の儀式の中で節会が行われる。節会とは、天皇のもとに群臣を集めて行われる饗宴を伴う公式行事のことであるので、こうした要素を考えると「大嘗祭」には、やはり食べること、あるは食そのものの要素が強く関係した儀礼であることを理解できる。他にも使われている漢字の「嘗」も、「味をみる」「なめる」という意味があるので、ここからもやはり「食」についての要素が強く反映されていると言えるだろう。


大嘗祭の建物


 大嘗祭のために大嘗宮という建物が一時的に建てられ、その建物の中で大嘗祭の儀礼は執り行われる。そして祭祀が終われば、それらの建物は取り壊されるため、正に大嘗祭という祭祀のためだけに大嘗宮は建てられるということになる。
 この大嘗宮は主に二つの建物で構成され、それぞれ悠紀ゆき殿、主基すき殿と呼ばれる。悠紀殿と主基殿は、東西方向に並列に建てられ、時代によって変わることもあったが、基本的には悠紀殿は東側で、主基殿は西側となる。

令和の大嘗宮:主基殿(左)と悠紀殿(右)


 悠紀殿と主基殿には、屋根に千木が取り付けられ、千木の形状は、悠紀 殿が伊勢神宮内宮の正殿と同じ内削で、主基殿は伊勢神宮外宮の正殿と同じ外削である。また鰹木の本数は、悠紀殿も主基殿も8本である。ただし、両宮ともに北端と南端の2本を除いた6本は、それぞれ2本ずつまとめて3ヵ所に置かれている。

令和の大嘗宮


 また悠紀殿と主基殿の中間点の真北には、廻立殿かいりゅうでんと呼ばれる建物が建てられる。ここは大嘗会の際に、天皇が斎戒沐浴して祭服に着替える場所である。ここで沐浴して始めに悠紀殿での儀礼を行い、その後、廻立殿で再び沐浴して着替えをして主基殿で儀礼を行うというのが大嘗祭の大きな流れである。


悠紀ゆき国と主基すき


 大嘗祭に供えられる米は、悠紀国と主基国として選ばれた地域から献上されたものが用いられる。悠紀国と主基国は卜部氏の亀卜(亀の甲羅を炙って出来た割れ目で占う)によって東日本から悠紀国が、そして西日本から主基国が選ばれることになる。これを「斎田点定の儀」と言う。
 選定のための亀卜きぼくは、京都御所の紫宸殿の東階の下から宜陽殿へとつなぐ廊で行われていたことから「軒廊御卜こんろうのみうら」と呼ばれている。現在でも京都御所の廊の地面には方形の平石がはめ込まれているので、その場所でかつては軒廊御卜が行われていたことが分かるようになっている。
 ただ現在は、亀卜は東京の皇居内の 宮中三殿の神殿の前に斎舎を設け、そこで行われるようになっている。

 令和の大嘗祭では、悠紀国は栃木県で、悠紀斎田は栃木県塩谷郡高根沢町大谷下原145が定められ。主基国には京都府が選ばれ、主基斎田は京都府南丹市八木町氷所新東畑3番地が定められた。

 悠紀国と主基国の名称の由来は、『天武天皇紀』に「齊忌ゆき」と「すき」とある。「齊忌」とは言葉の通り神を迎えるために心身を清浄にし物忌みを行うという意味であり、「次」とあるのは同じことを続けて行うことから、かつてはこうした名称が付けられたのではないかと考えられていた。

 しかし本居宣長がこのような「次」への解釈が間違であると指摘したことが『即位礼大嘗祭大典講話』には記されている。その根拠は悠紀と主基はあくまでも並列で、そこには順序や序列は存在していないからである。よって本居宣長は「次」とは単なる借字であって、本来の主基は、禊を意味する「曾岐すき」や「湏岐すき」と同じくすすぎを意味するものであると述べている。つまり「悠紀・齊忌」も「主基・曾岐」も同じく濯ぎ清めることを意味しているのである。つまり悠紀国と主基国の名称の由来には本来は「清め」の意味が含まれているのである。


大嘗祭で行われる儀式


 大嘗祭で行われる儀式は秘儀であるとされ、その詳細は公開されていない。特にその「秘儀」とされる部分は天皇およびそのごく限られた関係者しか知ることができず、特に大大嘗殿(悠紀殿・主基殿)の中での儀式の具体的な所作は、天皇自身でさえも口外することが許されてはいない。
 よって先に述べた『延喜式』『儀式』といった過去に書かれた書物。あるいは、平安時代後期の有職故実書で大江匡房が記した『江家次第』や、一条兼良の『江次第抄』、尾崎積興の『江家次第秘抄』や荷田春満の著作などが長年にわたって古典学者等によって研究され、大嘗祭そのものの意味について考えられてきた。

 近代においては、折口信夫が、大嘗祭に関して幾つかの著作を通してその真義を解き明かそうとした国学者として有名である。彼の著書である『大嘗祭の本義』では、大嘗祭で行われる儀式がどのように行われ、その儀式がどのような意味を持っているのかを説明しようとしている。

 例えば、真床追衾まとこおうふすまについて折口は、大嘗祭の夜に天皇はこれにくるまって寝ることで、邇邇芸尊ニニギノミコトが天孫降臨の際に真床追衾に包まれて高千穂に降った様を再現するのであるという説を述べている。つまり真床追衾に包まれて天皇は死と再生を擬似的に体験し、新しく天皇として生まれ変わるという考え方である。

 また悠紀殿と主基殿の両方で儀式を行う前に、天皇は廻立殿で風呂に入ることになっている。この時には古式に従い、天羽衣と呼ばれる湯浴み着を着たまま風呂に入り、その湯浴み着を脱いで風呂から上がることになっているが、折口はここにも死と再生のイメージをダブらせている。興味深いことにキリスト教にもバプテスマという神に対する献身行為があり、これも水に沈み、そこから引き上げられることで、過去の生き方の自分は死に、神に献身した新しい自分として再生することを表している。
 折口は天皇が風呂に入るところにも同じような死と再生を見ていると言える。さらに折口は、風呂から天皇が上がる際に「みづのをひもをとく」女性の存在にも注意を引いている。折口はこれを湯浴み着の紐を湯の中で解く女性がいること、そしてそれが天皇の妻となる(性関係をもつ)女性なのであるという説を述べている。

折口信夫おりぐちしのぶ
1887年2月11日 - 1953年9月3日)


 実際に大嘗祭の時に、宮殿に入れたのは天皇以外には10人の采女うねめという女性だけであったことから、大嘗祭における秘儀には様々な憶測や推測が語られる時代があった。特に折口は創造的イメージに富んだ国学者であった(こうした彼の持っている個性が、国学者としてだけではなく、その枠を超えて釈迢空というペンネームで小説までも書かせたのではないかと思う)折口の述べた特有な学説が大嘗祭においても逆に、その理解における歪みを生じさせるようなところもあったのではないだろうか。

 近年になり新しく見つけられた文書等によって、折口の説は否定されているものも少なくない。ただそれでも大嘗祭の詳細は古代から現代に至るまで依然として詳らかにはされてないので、折口を含めた他の学者の述べている諸説も、必ずしもそのすべてが間違いである、あるいはこれは正しいとは断定することはできない。繰り返しになるが大嘗祭で何が行われるのかの詳細は、唯一、天皇とごく少数の関係者だけが口伝で伝えられているだけの秘儀であるとされているのである。

 私はこの点に関して注目すべき発言が、2018年11月30日に文仁親王同妃(秋篠宮家)両殿下の誕生日に際した記者会見で行われたと思っている。秋篠宮文仁親王の口から大嘗祭について語られたのは以下である。

秋篠宮文仁親王 同妃両殿下の記者会見
【秋篠宮文仁親王のご発言】
 例えば,即位の礼は,これは国事行為で行われるわけです,その一連のものは。ただ,大嘗祭については,これは皇室の行事として行われるものですし,ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて,それを国費で賄うことが適当かどうか,これは平成のときの大嘗祭のときにもそうするべきではないという立場だったわけですけれども,その頃はうんと若かったですし,多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局,そのときを踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ,私として,やはりこのすっきりしない感じというのは,今でも持っています。整理の仕方としては,一つの代で一度きりのものであり,大切な儀式ということから,もちろん国もそれについての関心があり,公的性格が強い,ゆえに国の国費で賄うということだと。平成のときの整理はそうだったわけですね。ただ,今回もそうなわけですけれども,宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに,それは,私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。今でも。ただ,それをするためには相当な費用が掛かりますけれども。大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。ただ,そのできる範囲で,言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。少なくとも皇室の行事と言っていますし。そういう形で行うのが本来の姿ではないかなと思いますし,そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ,残念ながらそこを考えること,言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています。


 ここで秋篠宮文仁親王は、大嘗祭は宗教色が強いものであり、国費ではなく内廷会計で行うべきだと思っていると述べている。これは単に秋篠宮文仁親王が会計について述べたという事だけに留まらないと思う。第二位の皇位継承者(現在は第一位)の立場からの見解であるという意味においては、このご発言は非常に意味深い。つまり大嘗祭でどのような儀式が行われるのかを秋篠宮文仁親王は十分に知っていて、そのうえでこうした見解を述べているということである。大嘗祭でどのような秘儀が行われているかは全く分からないが、この発言からは非常に宗教色の強い儀式が行われていることの片鱗を垣間見れるのではないだろうか。
 この会見当時のマスコミは、眞子内親王の結婚相手についての発言だけをクローズアップしていたり、大嘗祭について触れてはいても予算についての話程度のものであったが、むしろ私は大嘗祭の秘儀を十分に知っている秋篠宮文仁親王の、大嘗祭に関する発言という観点から大変興味深く感じ、またその言の葉から大嘗祭の秘儀に関する氷山の一角のようなものを垣間見たように感じさせられた。


公表されている大嘗祭の内容


 秘儀の部分はまだ多く残されてはいるが、大嘗祭の式次第は宮内庁によって公開されているので、どのような手順で儀式が行われるのかを現代の我々はかなり理解できるようになっている。
 もしも大嘗祭が皇室の私的費用で賄われるのであればその詳細は公にする必要はないが、大嘗祭が国費つまり国民の税金で賄われることになっているが故に、ある程度の大嘗祭に関する情報が国民に公開されなければならなくなっているとするならば、国費(税金)による大嘗祭費用負担は。皇室および大嘗祭という儀礼にとって、その神秘性や神聖性が薄らいでしまうという弊害を生むことになってしまってはいないだろうか。
 大嘗祭後には、取り壊しまでの期間限定で大嘗宮の一般公開が行われ、誰もが大嘗宮内を観覧できるようになっているのも、国費で大嘗祭が執り行われたからだと言える。もしこれが皇室の費用によって賄われたのであれば、一般見学者がズカズカと大嘗宮内部に入り込めるような機会は無かったことだろう。
 大嘗祭を研究したりあるいは調査するという観点から、今回は私もこうした見学の機会を活用させて頂いたが、大嘗宮の見学は長蛇の列が出来ており、その周りでは写真を撮る人々の群れで通勤ラッシュの満員電車車両に乗っているかのような混雑ぶりであった。こうした現状は、天皇即位に伴う大嘗祭の秘儀性という観点から、それが安っぽいものに貶められてしまっているように思えなくもない。

 令和の大嘗祭が国費からの捻出されること関して、様々な立場から様々な意見が述べられてきたが、そのほとんどが税金の使い道の是非についてや、尊皇の観点から述べられる意見であり、大嘗祭そのものがどのようなもので、どのような意義があるのかを深く知らずして主張する偏りのある意見が多かったように思えた。
 こうした中にあって、今後も国税を投入し続けるならば、情報を公開すべきという世論の風潮に晒されるために、大嘗祭が一種の見世物のようになってしまうのではないかとわたしは危惧している。確かに税金で大嘗祭が賄われるということであれば、その費用負担を行った国民が、どのように税金が使われているのかを知る権利はあると考えるのはごく普通の事だろう。実際にかつての大嘗祭と比較しても、令和の大嘗祭では多くの情報が開示されたことは間違いない。こうした情報公開は国民の税金が大嘗祭に使われたことに対して果たされた配慮、あるいは批判に対する緩和であったと捉えることも出来るだろう。
 歴史を見ると、即位の宮廷儀式に一般庶民も見物人としていたことが分かっている。実際に鎌倉時代頃になると、内裏に一般住民が入り込むことも普通だったようで、略装だと公家が群衆に紛れてしまうので、殿上人には略装の狩衣で儀式に参加しないようにという禁止令が出されていたほどである。確かにかつては公式儀式行事には一般庶民にも開かれたものであった。しかし大嘗祭は異なっており、「秘儀」は秘儀として長年にわたって天皇によって伝えられてきたものであった。

 国税の投入するということは、情報公開請求という観点からするならば、「秘儀」とされる大嘗祭の核心部分までを、それを金銭的な負担を担うすべての人に明らかにしなければならないという責務を負う事になるのではなるのではないだろうか。もし秋篠宮文仁親王がそうしたところも考えて、「国費に頼らない身の丈にあった大嘗祭」と言及されたとするならば、そに意味は非常に深いものがある。こうした秋篠宮文仁親王の発言は、三笠宮崇仁親王を思わせる姿勢でもあり、現代における皇室のありかたを問い続ける大変興味深い意見なのである。

 いずれにせよ、政国費から大嘗祭を捻出するという政府の決定によって、大嘗祭という秘儀であった多くの部分が白日のものに晒されるようになったということだけは動かしがたい事実である。実際に令和の大嘗祭では、マスコミを通して写真・動画を含め多くの情報が公開され、それらを実際に見ることが出来た。また宮内庁も大嘗祭に関する情報をウェブサイトで公表しており、そうした詳細情報に誰もがアクセスすることが可能となっていたのである。

 では大嘗祭はどのような手順で行われたのか。ここで以下に宮内庁が発表している、令和の大嘗祭で行われた手順と共に、それに解説を加えてして記しておくことにする。


11月14日「悠紀殿供饌の儀」


 令和の大嘗祭は以下のような手順で進行された。これは今までに行われた大嘗祭の手順を踏襲したものであり、基本的な部分は平安時代に記された『延喜式』,『儀式』,『江家次第』に基づいたものである。


廻立殿かいりゅうでん


【天皇の廻立殿入り】
時刻,天皇が廻立殿にお入りになる。
次に小忌御湯を供する(侍従が奉仕)。
次に御祭服を供する(侍従が奉仕)。
次に御手水を供する(侍従が奉仕)。
次に御笏を供する(侍従が奉仕)。

時刻,皇后が廻立殿にお入りになる。
次に御服を供する(女官が奉仕)。
次に御手水を供する(女官が奉仕)。
次に御檜扇を供する(女官が奉仕)。

 日が暮れると天皇は廻立殿に入る。そこで天羽衣あめのほごろもと呼ばれる湯浴み着に着替えて、服を着たまま入浴する。ここでの注目すべき点は「侍従が奉仕する」というところであろう。昔は折口の説明にあったように「みずのひもをとく」女が、奉仕する役割にあったが、令和の大嘗祭の式次第を見ると侍従(男性)が入浴の奉仕を行うことになっている。

御湯槽:『即位礼大嘗祭大典講話』


 廻立殿には二つのスペースがあり、天皇は東側に置かれた御湯槽に天羽衣を着たまま入り、そこに天羽衣を脱ぎ捨てて出ると、明衣あかはという湯上り着に着替えることになっている。この一連の儀礼を「小忌御湯」という。
 しかし『即位礼大嘗祭大典講話』によると中世の時代(平安時代~鎌倉時代ごろ)には、服の上から天羽衣を着て仮に空の御湯槽に入り、そこで天羽衣を脱いで明衣に着替えられるようになったとある。よって現代の大嘗祭の儀式でも廻立殿で湯の張られた御湯槽に浸かる事は実際には行われていないのではないだろうか。
 特に現代の御湯槽では、折口の指摘した御湯槽のなかで「みづのをひもをとく女」の存在が廃されている。式次第を確認すると、侍従が「小忌御湯」では奉仕することになっているので、この時間の廻立殿は完全な男所帯であると思われる。ここからも現代の大嘗祭でも実際にはお湯の張られた御湯槽に入って沐浴は行っていないのではないかと考えたのである。

令和の廻立殿と配管


 しかし大嘗宮公開の際に廻立殿を外側から見てみると、配管のようなものが廻立殿に付いていた。これが何の配管であるのかは分からないが、水道の配管であるとするならば、現代では御湯槽での入浴が行われているのかもしれない。

廻立殿の間取り:『御大礼図譜』


 東側のスペースにある御湯槽から出てからは、西側のスペースに移動し、そこに敷かれた畳の上で侍従の奉仕によって御祭服に着替えが行われ、手が洗われ、御笏を供されて、悠紀殿に向かう為の準備が整えられる。


膳屋かしわや


 その間、膳屋と呼ばれる建物の中では次のような儀式が同時進行することになる。

令和の膳屋:志比乃和恵しいのわえ(椎の和恵)が挿されている

主基の膳屋の出入り口


【稻舂歌 − 庭積の机代物】
式部官が前導して諸員が参進し,南神門外の幄舎に着床する。
次に膳屋に稻舂歌を発し(楽師が奉仕),稻舂を行い(采女が奉仕),
神饌を調理する(掌典が掌典補を率いて奉仕)。

次に本殿南庭の帳殿に庭積の机代物を置く(掌典が掌典補を率いて奉仕)。
次に掌典長が本殿に参進し,祝詞を奏する。

 膳屋で「稻舂歌いなつきうた」が歌われる。「稻舂歌」とは神前に供える稲をつく時にうたう歌のことである。悠紀(茨城県)や、主基(京都府)の地名をよみ入れて歌が歌われる。令和の大嘗祭ではまず悠紀の「稻舂歌」が以下の歌詞で歌われた。

 「年ごとに 稲田ひろごる高根沢 杵つく香り町をうるほす」

 高根沢とは悠紀国(茨城県)の斎田がある町名である。かつては造酒童女サカツコという女性の存在があり、その女性が最初に稲つきを行うことになっていたが、現在ではこのサカツコの存在は廃されている。本来は稲を舂いて脱穀して神饌を整えることになっていたが、現代では米はすでに脱穀・精米してあり、儀式の一環として形式上の稻舂が采女によって行われ、その際に「稻舂歌」が歌われる。

主基殿の膳屋内(左): 悠紀殿の膳屋内(右)


 またこの膳屋で大嘗祭で捧げられる神饌が調理され、本殿に運ばれる。


庭積の机代物つくえしろもの


 「稻舂歌」の後に、悠紀殿の南庭に「庭積の机代物つくえしろもの」が供えられる。「庭積の机代物」とは各都道府県から献上された様々な産物であり、これらが机に載せられて献上される。ただし「庭積の机代物」は明治時代の大嘗祭から始まったものであって、古来からあったものではない。(明治時代の「庭積の机代物」のリストは『昭和御大典講話』から確認できる)
 2019年(令和元年)の大嘗祭でも「庭積の机代物」は供えられ、各県が献上した食物は以下のようにリスト化されている。


悠紀国

 北海道 小豆、馬鈴薯、小麦、干しホタテ貝柱、昆布
 青森 リンゴ、長芋、ゴボウ、鮭燻製、干しホタテ貝柱
 岩手 リンゴ、里芋、干ししいたけ、干し昆布、新巻き鮭
 宮城 大豆、リンゴ、白菜、干し椎茸、塩銀鮭
 秋田 大豆、芹、リンゴ、天然キノコ、ハタハタ一夜干し
 山形 ラ・フランス、シャインマスカット、柿、ぜんまい、スルメ
 福島 リンゴ、ナシ、生椎茸、干しマガレイ
 茨城 白菜、レンコン、シラス干し、ワカサギ煮干し、干し椎茸
 栃木 二条大麦、カボチャ、イチゴ、リンゴ、柚子
 群馬 リンゴ、コンニャク芋、大和芋、椎茸、小麦
 埼玉 小麦、大和芋、丸系八つ頭(里芋)、茶
 千葉 落花生、日本梨、ニンジン、海苔、サバ節
 東京 キャベツ、大根、ウド、椎茸、テングサ
 神奈川 茶、落花生、大根、キャベツ、海苔
 新潟 柿、里芋、レンコン、干し椎茸、塩引き鮭
 山梨 ブドウ、柿、トマト、あけぼの大豆、山梨夏っ子キノコ(黒あわび茸)
 長野 リンゴ、長芋、山葵、寒天、干し椎茸
 静岡 茶、ミカン、山葵、干し椎茸、塩引き鮭


主基国

 富山 大豆、里芋、リンゴ、白エビ(燻製)、イナダの天日干し
 石川 加賀棒茶、紋平柿、能登金糸瓜、能登原木干し椎茸、輪島海女採りアワビ
 福井 大豆、抜き実そば、里芋、干し椎茸、若狭グジ
 岐阜 富有柿、栗(ぽろたん)、リンゴ、干し椎茸、干し鮎
 愛知 フキ、レンコン、柿、ニンジン、海苔
 三重 茶、ミカン、のしあわび、乾燥ヒジキ、カツオ節
 滋賀 茶、山芋、焼きホンモロコ
 京都 長大根、ごぼ丹、椎茸、宇治茶、ササガレイ
 大阪 栗、ミカン、エビ芋、干し椎茸、ちりめんじゃこ
 兵庫 丹波黒大豆、丹波栗、作用もち大豆、兵庫海苔、干しダイ
 奈良 柿、緑茶、吉野葛
 和歌山 ミカン、富有柿、干しサバ、干し鮪、乾燥ヒジキ
 鳥取 あんぽ柿、ヤマノイモ(ねばりっこ)、梨(王秋)、干し椎茸、ハタハタ丸干し
 島根 西条柿、ワサビ、
 岡山 黒大豆、ブドウ、ナス、干し蝦、干しだこ
 広島 さやえんどう、西条柿、レモン
 山口 ダイダイ、レンコン、干し椎茸、するめ、ちりめんじゃこ
 徳島 スダチ、干し椎茸、ワカメ
 香川 小麦、キウイフルーツ、オリーブ、干し椎茸、煮干し鰯
 愛媛 温州みかん、里芋、はだか麦、干し椎茸、干し鯛
 高知 ブンタン、ユズ、干し椎茸、カツオ節
 福岡 柿、茶、干し椎茸、干し鯛、干し海苔
 佐賀 レンコン、ミカン、茶、キュウリ、海苔
 長崎 干し椎茸、ミカン、煮干し、長ヒジキ、アオサ
 熊本 デコポン、スイカ、トマト、干し椎茸、干し海苔
 大分 カボス、梨、サツマイモ、干し椎茸、ヒジキ
 宮崎 茶、干し椎茸、キンカン、サツマイモ、ちりめんじゃこ
 鹿児島 茶、サツマイモ、ピーマン、早堀りタケノコ、本枯れ節
 沖縄 ゴーヤ、クロアワビタケ、乾燥モズク、乾燥アーサ

 各県からこのような「庭積の机代物」が主基殿前の庭積帳殿に整えられた。こうした食品の献上物を古来の例から紐解くと、それは「百取の机代物」に近いものであるように思われ。しかしこれは女性が、天皇に贈ったものであったのでその根本的な意味は異なっていると言えるだろう。ただ各種の食物が天皇に贈られたという点では共通しているので、ここからも豊穣さを願う大嘗祭という儀礼の趣旨を読みとることが可能となっている。
 全ての県が、その地方の産物を献上しているが、幾つかの県は、ブランド化した農産物名を献上品に捻じ込んでいて、地域の農産品のブランド促進、あるいはPRの手段としても「庭積の机代物」を活用しようとしている感が否めない。そうした行為は大嘗祭のような儀礼の場にはそぐわないだけでなく、さもしく恥ずかしいので控えべきであると感じるのは私だけだろうか。


回廻殿から悠紀殿へ


 「庭積の机代物」が整えられ、悠紀殿に掌典長が参入して祝詞が奏上された後、天皇は回廻殿から悠紀殿にへと向かわれることになる。

【天皇が廻立殿から本殿(悠紀殿)前に進むまで】
次に天皇が本殿にお進みになる。
式部官長及び宮内庁長官が前行し(侍従左右各1人が脂燭を執る。),
御前侍従が剣璽を奉じ,御後侍従が御菅蓋を捧持し,御綱を張り,
侍従長,侍従が随従し,皇嗣及び親王が供奉され,大礼副委員長1人が随従する。
この時,掌典長が本殿南階の下に候し,式部官左右各1人が脂燭を執って南階の下に立つ。
次に侍従が剣璽を奉じて南階を昇り,外陣の幌内に参進し,剣璽を案上に奉安し,西面の幌外に退下し,簀子に候する。

午後6時30分,天皇が外陣の御座にお着きになり,侍従長及び掌典長が南階を昇り,簀子に候する。 この時,本殿南庭の小忌の幄舎に皇嗣及び親王が着床され,宮内庁長官以下の前行,随従の諸員が着床する。

 天皇が廻立殿から本殿(悠紀殿)に入る直前の手順である。大嘗祭の写真が公開されているが、其の時の写真が廻立殿から本殿に移動する時のものである。ここでも剣璽(草薙の剣と八尺瓊の勾玉)は天皇に同行している。またそれらが置かれるあんとは台のことである。

廻立殿から悠紀殿に向かう天皇

葉莚はごもが敷かれその上を天皇は歩く
絵には天皇は描かれていない。


【皇后および皇族の位置】
次に皇后が本殿南庭の帳殿にお進みになる。
式部副長及び侍従次長が前行し(侍従左右各1人が脂燭を執る。)
女官長及び女官が随従し,皇嗣妃,親王妃,内親王及び女王が供奉され,大礼副委員長1人が随従する。
次に皇后が帳殿の御座にお着きになり,女官長及び女官が殿外に候する。
この時,殿外の小忌の幄舎に皇嗣妃,親王妃,内親王及び女王が着床され,侍従次長以下の前行,随従の諸員が着床する。

 皇后は廻立殿から移動して帳殿の御座に向かう。つまり本殿には皇后が入る事はない。また平成の大嘗祭の記録によると、皇后が廻立殿に入るのも天皇の30分ほど後であり、大嘗祭の儀式の間、天皇と皇后が一緒になることは無いのではないかと考えられる。

【音楽の演奏】
次に式部官が楽師を率いて本殿南庭の所定の位置に着く。
次に国栖の古風を奏する。
次に悠紀地方(栃木県)の風俗歌を奏する。

 国栖くずとは、吉野の国栖一族の事であり、大嘗祭では国栖の古歌が歌われる。『延喜式』では宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏したことが記されている。このように儀式においては平安時代から国栖一族が歌を唄ってきたのである。大嘗祭では「国栖の古風」(くずのいにしえぶり)が歌われた。応神天皇が吉野宮に行幸になった折り、国栖の人々が大御酒を醸して献上したとき歌った故事に由来するもので、一歌から四歌まであるが、大嘗祭では四歌が歌われている。その歌詞は以下のようになっている。

  橿かし
  横臼よくすを作り
  横臼に
  める大御酒おおみき
  うまらに
  こし
  まろが

 この歌は国栖奏と呼ばれ、毎年、毎年旧暦1月14日に奈良県吉野郡吉野町南国栖の浄見原神社で奉納されている。そこでもこの唄は歌われている。

 国栖人が始めに登場するのは『日本書紀』第三で、神武天皇が吉野に到着すと、泉の中から(古事記では岩の中から)光っていて尾がある人が出てきた。そしてこれが吉野国の国栖の祖先であると説明している。
 また時代が下がって応神天皇19年冬11月の出来事が『日本書紀』に書かれている。応神天皇が吉野行幸の際に、国栖の者たちが醴酒(一夜酒)と土毛くにつもの(根芹)を献じ、歌舞を奏じたことある。また壬申の乱の兵を挙げる前、大海人皇子(天武天皇)が吉野の宮に難を避けていた時に、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏している。皇子はこれをとても喜ばれて「国栖の翁よ」と呼ばれたので、この舞は翁舞と呼ばれるようになったとされている。その後、大海人皇子(天武天皇)は、天皇即位のあと大嘗祭などに国栖奏の奏奉を制定しており、ここから大嘗祭と国栖の古風が非常に深いつながりを有するようになったということである。

 また平安時代に記された『貞観儀式』には、大嘗会の時に吉野国栖十二人、笛工十二人が宮中に参内して国栖の古風を奏したことが記されており、天武天皇の後も吉野の国栖人が宮中において音楽に深く関係していたことが記録されている。

 このように国栖と皇室は太古から深い関係にあり、それゆえに大嘗祭では国栖の歌が奏されることが昔から続けられてきたのである。令和の大嘗祭においても国栖奏が含まれていることには、このような由来がある。

【皇后の拝礼と退出】
次に皇后が御拝礼になる。
次に皇嗣,皇嗣妃,親王,親王妃,内親王及び女王が拝礼される。
次に諸員が拝礼する。

次に皇后が廻立殿にお帰りになる。
前行,供奉及び随従はお出ましのときと同じである。

 皇后は拝礼してらから早々に帳殿から廻立殿に戻る。平成の大嘗祭のスケジュールでは廻立殿に戻った後に、一旦大嘗宮を出ることになる。このあと皇后は、天皇とは別に先に本宮に戻られる事になっており、これと同じスケジュールを令和の大嘗祭でも踏襲したものと思われる。


神饌行立しんせんぎょうりょう


【神饌が悠紀殿に運ばれる】
次に本殿南庭の回廊に神饌を行立する。

掌典補左右各1人が脂燭を執り,掌典1人が削木を執る。
掌典1人が海老鰭盥槽を執り,同1人が多志良加を執る。
陪膳の采女1人が御刀子筥を執り,後取の采女1人が御巾子筥を執る。
采女1人が神食薦を執り,同1人が御食薦を執る。
采女1人が御箸筥を執り,同1人が御枚手筥を執る。
采女1人が御飯筥を執り,同1人が鮮物筥を執る。
采女1人が干物筥を執り,同1人が御菓子筥を執る。
掌典1人が蚫汁漬を執り,同1人が海藻汁漬を執る。
掌典補2人が空盞を執り,同2人が御羹八足机を舁く。
掌典補2人が御酒八足机を舁き,
同2人が御粥八足机を舁き,
同2人が御直会八足机を舁く。

次に削木を執る掌典が本殿南階の下に立って警蹕をとなえる。
この時,神楽歌を奏する。

 悠紀殿に清めのための道具、および神饌が運ばれるが、それらを運ぶ順番、および誰が何を運ぶのかがはっきりと定められている。神饌と儀式のための道具を運ぶことを神饌行立と言う。これらは膳屋で準備され、そこから本殿に運ばれることになる。

明治時代の大嘗祭で道具と神饌が運ばれる様子


脂燭ししょく削木けずりぎ


 掌典補がもつ「脂燭」は20本の萱を束ねたものを蠟で固めた松明で、灯をともす役割である。掌典が持つ「削木」は木を削った三尺(90cm)ほどの杖のことで、神饌警護の役割を表す。この削木をもつ掌典が本殿階段下で「オーシー」と警蹕を発する役割を担う。


海老鰭盥槽えびはたふね多志良加たしらか


 続く掌典が持つ海老鰭盥槽(えびはたふね)は、天皇が手を洗う際のもので白木で作られている。その両端が海老の尾のような形をしているのでこのような名前がついている。
 もうひとりの掌典が持つ、多志良加(たしらか)は、天皇が御手水を使う際の水を入れる素焼きの壺でありこれには注ぎ口がついている。

御刀子筥、御巾子筥、多志良加、海老鰭盥槽


御刀子筥おんかたなばこ御巾子筥おんたなごいばこ


 つぎに采女が「御刀子筥」(おんかたなばこ)を捧持するが、この中には御刀子と楊枝と藁穂が何本か入っている。刀が入っているのは手水の具と一緒に運ばれる事から、祓えの太刀(断ち)として清める役割を果たすものと考えられている。
 またもう一人の采女は「御巾子筥」(おんたなごいばこ)を捧持しているが、この箱の中にはお手ふき用の布が入れられている。
 これらの箱はいずれも葛で拵えられたものであり、ここまでが御手水のための道具である。

御刀子筥にはいっている、楊枝と御刀子と藁穂


神食薦かみのけごも御食薦みけごも


 続いて采女1人が「神食薦」(かみのけごも)を持つ、これは。神への供撰用の薦(むしろ)である。『大饗雜事』には、薦は竹をすだれのように編み、白い生絹を裏につけ、白い縁のあると述べられている。大嘗祭では食薦の上に神饌が並べられることになる。さらに采女は「神食薦」の他にも御食薦(みけごも)も持っているがこれは天皇の直会用の薦である。

『徴古図録』にある食薦の図

 ただ明治時代の大嘗祭図を見ると、『大饗雜事』『徴古図録』にあるのとは異なった白い縁のない食薦が使われるようになっている。

御食薦(左)と神食薦(右)


御箸筥おんはしばこ御枚手筥おんひらてばこ


 つづいて采女が御箸筥を持つが、この箱の中には6つの竹製のピンセット型の箸が入っている。昔は箸はピンセット型で、食物を取り分けるのにこのような箸が使われていた。そして実際に食べる事には手で食べられていたのである。こうした理由から先に述べたような御手水の具が数種類含まれているのである。これに関しては後の「直会」で詳細を説明する事にしたい。
 続く采女は御枚手筥を持つ。枚手とは円形の平たい皿で、柏の葉で作られている。よってこの枚手は葉盤とも記載される。もともと料理は膳(かしわで)と言われていたが、これは料理が柏の葉に盛られていたからである。

『即位礼大嘗祭大典講話』にある御箸と枚手


御飯筥おんいいのはこ鮮物筥なまものばこ


 つぎの采女が御飯筥を持つがこれは神饌で、箱の中には米の御飯と粟の御飯の二種類が収められている。米の飯は、悠紀・主基から供された斎田から収穫された新米が用いられている。さらに粟の御飯が共に供えられることには非常に深い意味があると考えれるが、その詳細については多くが語られていない。ここで粟も供えられることにこそ秘儀が含まれていると考えている人もいるが、なぜ粟が供えられる必要があるのかについては、説明がなされていない。この点に関しては、『古事記』,『日本書紀』から読み解く私見があるので、今後、公開したいと考えている。
 つづいて采女が鮮物筥を持つ。この箱の中には四種鮮魚が入れられている。令和の大嘗祭では具体的にどのような鮮魚が入っていたのかは分からないが、大正時代の記録を見ると、甘塩鯛、鮨鰒、烏賊、鮭の記載がある。この他にも時代によっては鮒が含まれている記録もある。

『御大礼図譜』にある御飯筥と鮮物筥と


干物筥からものばこ御菓子筥おんくだものばこ


 つぎに采女人が干物筥を持つ。この箱の中には四種の干物が入れられている。大正時代の大嘗祭の記録では、蒸蚫、干鯛、堅魚、雑魚腊の記載がある。この他にも時代によっては鯵の干物が含まれている記録もある。
 つぎに采女人が御菓子筥を持っているが、その中にあるのは干棗、搗栗、生栗、干柿といった四種の菓子である。もともと菓子とは果物のことであり、こうした木の実が菓子として供えられている。


蚫汁漬あわびのしるつけ海藻汁漬めのしるつけ


 続いて掌典が蚫汁漬を持つ。これは調理されたアワビの羹である。また続いての掌典が海藻汁漬を持つ。これも調理されたものでワカメの羹である。
 律令制度が整い大宝律令制が定時された西暦701年から、蚫汁漬は磐鹿六雁命の子孫の高橋朝臣の一族が、そして海藻汁漬は安曇氏の一族が持って運ぶことになっていた。しかしこの運ぶ並びの順番はどちらが先かで争いが生じることになる。結果的には高橋氏が先に並び、安曇氏はこの役割から外されることになるのだが、この辺りの論争に関しては庖丁人の「高橋家と安曇家の確執」に書いておいたので詳細は確認して頂きたい。

『御大礼図譜』にある蚫汁漬と海藻汁漬


空盞こうさん御羹八足机あつもののやあしのつくえ


 掌典補2人が空盞を持つ。空盞とは、からのさかずき(空盃)のことで、この盃は次の御羹八足机に載せられた羹を供するために用いられる。また先の蚫汁漬と海藻汁漬の汁もこの盃を用いて供される。この後に酒が出てくるが、この為に用いるとする記述もあるが、酒のための別に盃は準備されているので空盞が用いられるとするのは誤りである。
 続いて掌典補2人が御羹八足机を運ぶ。八足机とは脚の八本ある机のことで、このうえに御羹が載せられている。

御羹八足机


御酒八足机みきやあしのつくえ


 掌典補が2人で御酒八足机を持って運ぶ。酒は平居瓶ひらいかめと呼ばれる入れ物にはいっており、机の上にはそれら酒のはいった瓶と、杯がのせられている。
 酒は白酒しろき黒酒くろきの二種類の酒が供される。これらの酒は悠紀・主基から供された斎田から収穫された新米から醸された酒である。白酒は甘酒のようなにごり酒であったが、後には澄んだ清酒が用いられるようになった。黒酒にはかつては「常山くさぎ」という植物の灰がが混ぜられていたが、近世では黒ゴマが加えられて色が付けられている。

御酒八足机


御粥八足机おかゆやあしのつくえ


 次に掌典補が2人で御粥八足机を持って運んでくる。この上には炊かれた米と粟の粥が窪手にいれて載せられている。昔は米の炊き方といっても何種類もの炊き方があり、現代の我々が電気炊飯器で炊く一般的な炊き方だけしか考えていないとそれがどのようなものかを見誤る恐れがある。
 昔の「めし」というのは、蒸して調理される強飯のことであった。昔の粥とは米を煮たものであり、これは現在の御飯のことである。昔は別に「しる粥」と呼ばれる調理があり、これが現在でいうところの粥に当たる。よって大嘗祭で供される「粥」とは、現代人の我々が普通に食べている飯の状態のことである。

御粥八足机


御直会八足机おんなおらいやあしのつくえ


 最後に掌典補が2人で御直会八足机を持って運んでくる。平居瓶に入った白酒と黒酒、および盃が机に載せられており、これらは直会で用いられる。またこの机の上には盃も載せられており、これを用いて酒は飲まれる。

御直会八足机

 こうした神饌の行立が本殿南階の下に到着すると、削木を持つ掌典が「オーシー」という警蹕けいひつを唱え、神楽歌の演奏が始まる。
 かつてはこの警蹕は時を告げることが目的であった。『御即位及大嘗祭』には元文の大嘗祭では高橋宗直が削木を持つ役割を務めたと記されているが、その時に発したのは「亥一ゐひとつ」という言葉であった。これは時刻の事であり、亥一つは現在では午後9時のことである。昔は今よりももっと遅い時間に大嘗祭は始められていたのである。ちなみに昔は悠紀の儀式は「亥四つ」、つまり現代の夜11時には終わらなければならないと規定された時代もあった。


神楽歌


 警蹕を合図に神楽歌が歌われる。令和の大嘗祭の演目は以下のようになっている。

「悠紀殿の儀」神楽歌演目
 音取ねとり(笛、篳篥)
 阿知女作法あじめさほう(本歌、末歌、和琴のみ)
 採物とりもの
  ・榊
  ・幣
 韓神からかみ
  ・閑韓神
  ・早韓神

「主基殿の儀」神楽歌演目
 音取ねとり(笛、篳篥)

 阿知女作法あじめさほう(本歌、末歌、和琴のみ)
 小前張こさいばり
  ・薦枕
  ・志都也
  ・磯等
  ・篠波
  ・早歌
  ・朝倉
  ・其駒
  ・千歳 (入御のとき)

 神楽歌は祭儀が行われている間、途絶えることなく1時間半から2時間程、天皇が廻立殿に戻られるまで歌い続けられる。その間、天皇が御告文を読まれるが、その間も途絶えることなく神楽歌は歌い続けられる。


悠紀殿 内陣の儀式


【天皇が悠紀殿内で行う儀式】
次に天皇が内陣の御座にお着きになり,
侍従長及び掌典長が外陣の幌内に参入し,奉侍する。
次に御手水を供する(陪膳の采女が奉仕する。)。
次に神饌を御親供になる。※ 最重要部分
次に御拝礼の上,御告文をお奏しになる。


 外陣に座していた天皇が、神楽歌と共に内陣に入り儀式を執り行う。この時に、内陣に入る事ができるのは天皇の他には、陪膳の采女と後取の采女の三人だけである。この内陣で儀式は執り行われ、天皇は神と向き合うかたちで座ることになる。天皇が座る向きは伊勢神宮の方向に座ることになっており、大正時代までの内陣の配置は、京都から伊勢神宮を向いた方向となっていたが、昭和以降は東京で大嘗祭が行われるようになった為、京都から伊勢神宮の方向に向く座り方に変わっている。
 内陣・外陣の配置は以下のようになっている。

本殿の間取り


御手水おてみず


 最初に行うのは御手水を使い清めることからである。まずは海老鰭盥槽、多志良加、御刀子筥、御巾子筥といった水用器具が、悠紀殿の内陣の後取の采女に渡され、これが陪膳の采女に渡され、陪膳の采女は天皇の介添役をして御手水での清めが行なわれる。


神饌の御親供


 その後、大嘗祭でも最も重要で核心部分であるとされる、神饌の御親供が始まる。ここで何を行うかと言うと、ピンセット型の箸を使って天皇が窪手くぼてに盛られた食べ物(米、粟、魚、果実など)を、32枚の枚手ひらてに各供え物を3つづつ盛り付けて神々の食事を準備するのである。

枚手と窪手

 枚手ひらてとは天皇が取り分けるための柏の葉でつくられた皿である。竹を芯にして数枚の柏の葉を編んで作られ丸い形をしている。
 窪手くぼても竹を芯にして四角い形に柏の葉が整えられて作られている。窪手には膳屋で整えられた神饌が最初から入れられ本殿に運ばれてくる。

 神饌が盛り付けられた後、酒が供される。平居瓶に入った神酒を後取の采女が運び、陪膳の采女は本柏もとかしわで受けてそれを天皇に渡す。天皇は本柏に入れられた酒を神饌に注ぎ掛けることを四回繰り返す。御酒八足机には4つの平居瓶が準備されているが、これはそれぞれの平居瓶から酒が本柏に注がれ、それを神饌に注ぐからである。その後、本柏は神食薦のうえに置かれる。

本柏と平居瓶

 こうした儀式にまつわる秘儀については詳細は公開されていない。しかし天皇は444回におよぶ手続きを行い、陪膳の采女も天皇のサポート役として60回におよぶ手続きを進める。つまりこの儀式のために504回の手順が踏まれ、神饌が神に捧げられるということは分かっている。この神饌御親供には最も時間がかけられており大嘗祭でも最も重要な部分となっている。


御告文


 神饌御親供が終了すると、天皇は拝礼を行い、御告文をお奏しになる。その御告文の内容は以下のようなもので、伊勢神宮の天照大神に豊穣と国家大安の祈りとなっている。

〔御告文〕建暦二年(1212年)の順徳天皇大嘗祭での御告文
伊勢の五十鈴の河上に坐す天照大神、また天神地祇諸の神に明らけく曰さく、朕皇神の廣き護りに因り、國中平らけく安らけく、年穀豐かに稔り、上下を覆い壽ぎ、諸の民を救ひ濟さん、仍りて今年新たに得たる所の新飯を奉ること此の如し、又朕が躬に於て犯すべき諸の災難を未だ萌さざるに攘ひ除き、不祥惡事を遂に犯し來ること莫からん、又高き山深き谷所々の社々大海小川に名を記して厭ひ祭らん者、皆盡に銷し滅さんのみ、


直会なおらいから退出まで


【天皇が悠紀殿内で行う儀礼】
次に御直会
次に神饌を撤下する(陪膳の采女が奉仕する。)。
次に御手水を供する(陪膳の采女が奉仕する。)。
次に神饌を膳舎に退下する。
その儀は,行立のときと同じである。

次に廻立殿にお帰りになる。
前行,供奉及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に各退出する。



直会なおらい


 直会とは、捧げられた神饌を口にすることで、神と共に食事をすることである。天皇は神饌の盛り付けを行った後、神々の前で、神々と同じ神饌を食し、御酒を口にして直会を行う。


撤下神饌てっかしんせん


 次に撤下神饌が行われるが、これは供えられた神饌が下げられることである。陪膳の采女によって神饌は下げられるが、このときに「唱え詞」があるという。神饌は後取の采女に渡され、後取の采女が御殿入口の掌典・掌典補に渡して本殿からさげられる。
 この際に神饌は食薦の中にそのままくるまれ、下記の図のようなかたちで下げられるものと思われる。神食薦には紐が取り付けられているが、これは神饌撤下の際に両端を縛るためと考えられる。

撤下神饌の神食薦


御手水おてみず


 次に最初と同様に御手水を供される。清めの意味で御手水が供されるのであることは間違いないが、もうひとつ最後に御手水が供される理由として、天皇が直会で神饌を食する時に手で食しているのが別の理由であると考えられる。実際に大嘗祭で用いられる道具の中に、取り分け用のピンセット型の箸は含まれているが、現代の我々が使っているような箸は含まれていない。昔は取り分けは箸で行われていたが、食事は手で食べられていたことを考えると、大嘗祭でもそのような方法で直会が行われているのではないだろうか。よって最後に御手水が必要とされるとも考えられる。


退出


 次に神饌は膳舎にさげられることになる。その後、天皇は悠紀殿を出て、再び廻立殿にお帰りになられ「悠紀殿供饌の儀」は終了となる。



11月14日「主基殿供饌の儀」


 悠紀殿で行われたのと同じ儀式が「主基殿供饌の儀」でも日をまたいだ深夜に繰り返されることになる。主基殿での最終的な大嘗祭の終了は翌日の朝3時頃である。



大嘗祭の財源


 令和の大嘗祭に対して政府は27億円の支出を行ったことから、大嘗祭そのものに対しても様々な反対意見が述べられるようになっている。先にも述べたが、大嘗祭の費用を税金で賄うことに賛否両論があるにもかかわらず、なぜ政府が巨額の支出を行うのかについての根拠と、それについての明確な説明が国民に対して十分になされていない印象がある。

 私は一般的な税金の無駄遣いという意見とは全く意見を異にした観点から、大嘗祭に国民の税金が投入される事には反対の立場を取っている。私が国費の投入に対して反対するのは、国民の税金の投入によって大嘗祭という制度が白日の基に晒され、大嘗祭のもつ意味やその制度そのものの価値が減じるようになるのではという懸念の故である。
 税金が投入されるのであれば、その税金がどのように使われているのかを情報公開する必要があり、それは本来であれば大嘗祭にも例外なく適応されるべきことになるだろう。大嘗祭の儀式の中には秘儀として公にされていない事柄がまだ多く含まれているのだが、そうした天皇の神聖性の裏付けとなるような祭祀そのものが詳らかにされることによって、将来にその価値が減じるようなこともあり得るかもしれないと考えられないだろうか。

 こうした背景を考慮すると、秋篠宮文仁親王の「大嘗祭は国費ではなく内廷会計で行うべきだ」という発言は、大嘗祭の秘儀を知る者の意見として非常に深いものがある。そもそも大嘗祭は皇室の行事として行われるものであり、規模を小さくして「身の丈に合った」仕方で大嘗祭を行えば良いのではないかという秋篠宮文仁親王の意見は、単に国民に負担をかけさせないようにしようとか、節約しようという以上に、今後も秘儀を有する大嘗祭を長きに渡って守り続けてゆくための重要な意見であったのではないかと私は考えている。

令和の大嘗宮


 そもそもなぜ、これほど大嘗祭が大規模にコストをかけて行われるようになったのかを遡ると、やはり「国家神道」にその原因を求めることになってしまうだろう。明治維新以後、現人神(あらひとがみ)としての天皇の神聖性を高めるために、様々な施策が取られてきた。そうした機運のなかで「国家神道」は宗教ではないというスタンスから、一種の国教制度として日本の政策の根幹に取り入れられるようになっていったのである。
 それは国体論に繋がり、万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、忠孝一致によって国家の進運を扶持するというある種の信仰のようなものまでも生み出すことになった。またこうした思想は、明治の帝国憲法と教育勅語により定式化され、天皇は永久に統治権を総攬する、不可侵のものであるとして近代日本を呪縛することになっていったのである。
 現代においても国費によって大嘗祭が賄われていること、およびそのために歴史的に見てもかつては行われなかったほど過剰なコストをかけて践祚ごとに大嘗宮が建設されていることの背景には、このような「国家神道」がその根底に燻り続けているからであると思われる。

 また秋篠宮文仁親王の「宮内庁長官に言ったが聞く耳をもたない」という発言があったのも、宮内庁長官もまた官僚組織のひとりであることを考えると腑に落ちる事であるように思える。官僚は予算の確保が業績であり、それまで獲得していた予算を失うことは手落ちであると見なされる。平成の大嘗祭の予算は22億円余りであった。これを下回るようなことは当然受け入れられるものではなく、それが秋篠宮文仁親王の意見を封じることにもなったのではないだろうか。
 令和の大嘗祭では費用が27億に増額されることになったが、これは大嘗祭と言う儀式そのものにとって必要というよりは宮内庁として絶対に譲れない必要なことだったはずである。宮内庁もまた官僚によって運営される組織である事も、今後の大嘗祭のありかたに関して検討すべき要素であるように思われる。


荷田在満かだのありまろによる秘儀公開事件


 私が大嘗祭への国費投入に反対するひとつの根拠として、元文3年(1738)桜町天皇の大嘗祭で起きた事件を取上げておく事にしたい。桜町天皇はそれまで220年間途絶えていた大嘗祭を行った天皇であり、桜町天皇から大嘗祭は再興され、その時再び集積された知識に基づいて現代でも大嘗祭は行われるようになっている。

 この江戸時代中期の国学者、荷田在満かだのありまろという人物に注目しておくことにしたい。江戸時代の四大国学者には、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤・荷田春満が挙げられるが、荷田在満は荷田春満の弟の羽倉高惟の息子で、後に荷田春満の養子となっている。元は羽倉家の人間だったが、荷田に入り、荷田在満と名乗るようになった。通称は東之進。字は持之。号は仁良斎である。

 さて、その荷田在満は国学者として、桜町天皇の大嘗祭の記録を行うために幕府の任を受けて上洛し、大嘗祭に関する幾つかの書物を書き残している。荷田在満は、徳川吉宗の次男で有職故実の研究家の田安宗武に仕えていたからである。その中に『大嘗会便蒙』という元文四年(1739年)に出版された書籍があるのだが、ここには当時まだ一般的に明かされていない大嘗祭に関する詳細が記されており、この書籍を幕府に無断刊行し世に出てしまったことが大いに問題視されることになった。

 この書籍が出版された翌年の元文五年(1740年)9月6日。町奉行所から『大嘗会便蒙』を回収するための町触が出され、もし本を他人に送った者がいるならば、その者は送り先から取り返して町奉行所に提出するようにとまで命じている。また、江戸全町に対して町内に本があるかの有無を回答させており、徹底的に『大嘗会便蒙』をすべて回収し発禁本として根絶しようという意図があったことが分かる。
 ここまでして『大嘗会便蒙』の回収を進めた理由は、この書物の出版により、秘されるべきであった大嘗祭の詳細が流出することになったからである。この問題によって著者の荷田在満は三ヶ月半の謹慎処分を受けることになるのだが、荷田在満は今度はその経緯を『大嘗会便蒙御咎顛末』にわざわざ書き残している。

 この問題は、そもそも荷田在満が、幕府の御用によって集めた大嘗祭に関する将軍に提出すべき情報をを、書肆の小川彦九郎を通じて一般庶民に流したのがまずかったのであるが、ここで注目すべきことは幕府側の人間である荷田在満が大嘗祭についてここまでの詳細を知り得ることができた理由である。それは荷田在満が江戸幕府から大嘗祭を記録・報告するという役割が与えられたからに他ならないが、なぜそのようなことが行われたかというと、この大嘗祭復興のための財源が江戸幕府から支給されているからである。大嘗祭再興を願う朝廷の意見を聞き入れて、幕府がその資金を出すスポンサーとなったということであれば、当然、幕府はそれがどのような目的で、実際に何が行われており、その費用とはどのようなものであったのかを知る必要があったことだろう。

 つまりこうした経緯を背景にして荷田在満は大嘗祭で行われる詳細を見聞きすることが出来、それを『大嘗会便蒙』に書いたのである。実際に『大嘗会便蒙』を見てみると、天皇が本殿の内陣でどのような事を行うのか様々に記してあるだけでなく、その内部の様子も図で説明されている。この記事も同じ本殿の間取り図を掲載してあるが、こうした内陣の詳細は『大嘗会便蒙』を通して世の中に公開されてしまった情報なのである。

 結局、大嘗祭の詳細が一般庶民に知られるようになったのは、朝廷が独自に大嘗祭を催行することが出来ず、その財源を幕府(行政機関)に頼ったことに原因があるという事もできるのではないか。つまり秘儀は非常に限定された人にだけ伝えられるものでなければならなかったにも関わらず、財源の捻出という経済的な理由から、知ってはならない人にまでそれが広げられざるを得なくなったということに問題の根幹があったと見なすべきだろう。

 それと同じ事が現代にも適応して考えると、国税の大嘗祭への支出を政府が承認し、27億円の費用が大嘗祭に投じられた事は、まさにかつての江戸幕府が大嘗祭の再興に資金提供したことによって荷田在満が大嘗祭の詳細を白日のもとに晒してしまった事と共通したものがあるとも言えるだろう。昔と異なり情報量とスピードが増大した現代にあって、今後も資金を出している者(国民全体)からの情報公開請求に対して、大嘗祭が秘儀性を保ち続けることが出来るのかどうかは非常に疑問である。

 こうした背景を考慮するならば、単に大嘗祭へ税金が使われる事へ反対する意見や、妄信的に政府の決定を正しいとする考え、尊皇に傾倒するあまり分別なく全てを肯定する意見とは異なる観点として、大嘗祭の国費投入を疑問視する秋篠宮文仁親王のような意見があっても良いのではないかと私は思う。むしろ今後はそのような選択をしなければ、大嘗祭そのものが形骸化し、そのための建設される大嘗宮も人を呼び込むためのアトラクション施設のような観光場所にへと堕してしまうのではないかと危惧してしまうのである。


大嘗宮の一般公開


 実際に私も大嘗祭後に公開された大嘗宮を訪れてみたが、そこに詰めかける大勢の人々の長蛇の列と、写真を撮るためにもみくちゃになる群衆を制御するためにハンドスピーカーで「押さないでください」,「写真は一枚で」,「前で写真を撮った人は直ぐに下がってください」を連呼する大きな音声が喧騒と混じり合う中を、通勤ラッシュにも似た群衆をかき分けて進まなければならない状況に何となく今後の大嘗祭のありかたに一抹の不安を覚えた日となったことを最後に付けくわえておきたい。

令和の大嘗宮一般公開






参考資料



『延喜式』 藤原時平[他]

『一国平均役と中世社会』 小山田義夫

『神社のいろは用語集 祭祀編』 神社本庁 監修

『即位礼大嘗祭大典講話』 関根正直 著

『江家次第』 大江匡房

『大嘗祭の本義』 折口信夫

『御大礼図譜』 池辺義象, 今泉定介 共編

『昭和御大典講話』 栗山周一 著

『貞観儀式』

『明治大嘗祭図 上』  編修局・編修委員会

『明治大嘗祭図 下』  編修局・編修委員会

『御即位及大嘗祭』  赤堀又次郎 著

『大嘗会便蒙』  荷田在満

『大嘗会便蒙御咎顛末』  荷田在満

『大嘗会儀式俱釋』  荷田在満

『大嘗会図式』  荷田在満

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』  工藤隆

『桜町天皇の大嘗祭 : 『元文聖代 大嘗会拝見私記 御調度品略図』の考証』  佐野 真人

『大嘗宮の儀関係資料』  宮内庁

『江戸時代前期の江戸における町奉行所出版許可制の存在について  ─ 荷田在満の『大嘗会便蒙』による奇禍を通じて ─』  山本 秀樹

『埼玉県神社庁報』  埼玉県神社庁

『精粟はかく献上された ──大嘗祭「米と粟の祭り」の舞台裏』  「神社新報」平成7年12月11日号