天正10年5月19日
安土饗応における能の不手際への考察②


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光秀、能手配の真意(天正10年)


 さてここで再び天正10年の饗応に話を戻そう。「御成」とは単なる料理を食べるだけの会食のようなものではない。君主が振舞いを行い、家臣が品々を献上し、その席で舞や能が行われる手順の全てがそこに含まれ、それら全体がひとつになった儀礼として成り立つ将軍だけが行える特権行為である。

 光秀はこうした構成要素を熟知しており、それらを考慮した上で、信長が越権的に行おうとした「御成」の成立をゆるやかに解体する方法を取ろうとしたのではないだろか。
 能の手配においては、敢えて大和四座をこの饗応から外し、かつその埋め合わせが出来る猿楽師として、梅若大夫という、信忠に指南を行った可能性もあり、かつ信忠ゆかりの道具を使い、さらに信忠とも能を通じた長期に渡る繋がりがあった人物を選択したとは考えられないだろうか。
 猿楽の格式をわざと下げて、真の意味での「御成」を成立させないようにしながらも、家康に対するもてなしとして猿楽を披露するという事になれば、梅若大夫という選択は、大和四座の代わりとしてはこれに勝る者がいないほど最適な人選であったに違いない。

 『信長公記』にある「此の時は餘り珍しからずとて、新に丹波の猿楽梅若大夫を召しぬ」というのは上手い言いようで、実のところはもっと異なったところにその真意があったとも推測できる。なぜならば珍しいというだけの理由で、大和四座以外の新興の二家(幸若、梅若)を選んでいること自体、「御成」という観点から見ると、正統性から逸脱してしまっているからである。

 このように光秀は、舞においては幸若大夫を起用することで信長の最も喜ぶ人選を行い、猿楽においては四座を外して梅若大夫を選んで「御成」を不成立にさせるという政治的な非常に細かい駆け引きを行ったのではないだろうか。このようにして内部から「御成」を緩やかに解体し、正統な意味での「御成」を不成立にすることにこそ光秀の真意はあったのではないかと推測できるのである。


光秀の饗応役解任


 こうした準備が進行しているなか、織田信長は突然、明智光秀の饗応役解任を行う。
 この突然の解任という経緯にこそ、何らかの意味があると考えるべきであろう。川角太閤記』によると、料理のさかなが傷んでいて臭気を発していた為、信長が怒って光秀の饗応役を解任したとある。しかし、それは真実なのかは疑問である。以下がその部分の引用である。

【 川角太閤記 】
 家康卿は駿河国御拝領の為御禮穴山殿を御同道被成御上洛之由被聞召付、御宿には明智日向守御宿に被仰付候處に御馳走のあまりにや肴なと用意の次第御覧可被成ために御見舞候處に夏故用意のなまさかな殊の外さかり申候故門へ御入被成候とひとしく風につれ悪しき匂い吹来候其かほり御聞付被成以之外御腹立にて料理の間へ直に御成被成候、此様子にては家康卿御馳走は成間敷と御腹立被成候て堀久太郎所へ御宿被仰付候


 魚が臭気を発していた為、信長が怒って、光秀の家康を饗応する役割を解任した事。さらには宿舎も明智光秀邸から、堀久太郎の所に移されたとある。
 しかし、京や堺から山海の珍味を集めて準備をするような料理の配慮を尽くしている光秀が、信長にも分かるほどの傷んだ食材を持ち込むようなミスを犯すことなどありえないだろうか。つまり魚が腐っていたというのはあくまでも後付けの理由でしかなく、後付けでこのような理由を述べなければならないような本当の理由がそこにはあったと考えるべきだろう。

 さらに『川角太閤記』には以下のような記述が続く

【 川角太閤記 】
 日向守面目を失ひ候とて木具さかなの臺其他用意のとり肴以下無残ほりへ打ちこみ申候其悪にほひ安土中へふきちらし申と相聞え申候事


 饗応役を解任された光秀(日向守)は、面目を失ったとして用意していた料理を掘りへ投げ捨てたとある。
 ここで注意を払いたいのは、料理だけが投げ捨てられたのではなく、「木具さかなの臺」とあるように料理の器や俎板のような料理道具も一緒に投げ捨てられているところである。魚が腐って臭気を発しているだけであれば、料理だけが捨てられれば良いが、それ以外の道具も捨てられているところに、料理そのものの成立を放棄する意図があるように感じられてならない。

 小林正信博士の説、明智光秀は進士藤延であるという説に基づいてこの件を考えてみたい。

 (明智光秀=進士藤延)であれば、当然、饗応の手配は進士流という武家の料理法で行われたことになるに違いない。永録4年の三好家が将軍を招いての「御成」を行っている記録が残されており、そこでの饗応料理の手配を行ったのが、進士藤延の父である進士晴舎である。よって当然、この「御成」は進士流の手配で進められたはずである。
 過去には、父・進士晴舎の采配を、当然、嫡男である進士藤延は近い立場で見ていたはずであるし、またその一部分を担当した可能性も十分にあるだろう。

 さてこの当時には幾つかの料理流派が存在していた。公家の四条家を基にした「四条流」、武家の料理流派としては「大草流」「進士流」があった。「四条流」には1489年に多治見備後守貞賢が書物にまとめた『四條流庖丁書』がある。また大草流に関係する書物は『大草家料理書』(天文19年 1550年)および『大草殿より相伝之聞書』が群書類従に収録されている。これらの書物が書かれた正確な時代は明らかでないが、室町時代ごろに成立したものと考えられている。他にも『式三献七五三膳部記』および『膳姫折寸法并色々之事』が大草流書として残されている。

 これらの書を見ると、料理のための俎板の寸法や庖丁、さらには盛りつけにまつわる皿や膳、そのための道具に関する詳細な決まり事(有職故実)が存在していることが分かる。つまりこうした儀礼的な手順や盛り方、さらには料理法に則って始めて「御成」は儀礼的な意味合を有するようになり、正統なものとして成立するようになると考えて良いだろう。
 こうした有職故実としての意味付けが「御成」の成立と関係していることを考えると、天正10年に信長が光秀を解任した時に、光秀が、料理だけでなく料理の器や俎板といった料理道具までも破棄したことには大きな意味があると言えるのではないだろうか。

 つまり光秀は、料理の器や俎板までも破棄することにより、「御成」を成立させるための進士流の料理におけるプラットフォーム(基盤)そのものを破棄したのではないだろうか。つまり光秀が解任されて、他の誰かが代役を務めることになっても、「御成」を成立させるための正統な料理は、このプラットフォーム(基盤)無しには作ることは出来ないようにしたとも考えられる。
 よってもし信長が「御成」を意図していたのであれば、料理そのものだけでなく、それを成立させるために最も必要なプラットフォームとしての料理の道具からすべて失われたことになる。これは料理そのもの以上に、「御成」の成立には不可欠かつ重要な要素であったと考えられる。これら無くしては正統な饗応料理の成立はあり得ないからである。つまり「木具さかなの臺」の破棄をもって、料理における御成そのものの成立は完全に無くなってしまったと言えるだろう。


なぜ信長は光秀を突然解任したのか?


 信長が光秀に家康の饗応を任せてから、信長は「御成」が行われるように手配は着実に進行しているものと考えていたと思われる。信長がそのように思っていたのは、光秀が表向きには信長の意向に従っているような行動を取りながらも、あくまで「御成」としての饗応を不成立にさせるために、内部から「御成」の儀礼としての要素を目立たない方法で解体していたからであると考えられる。
 それにも関わらず、光秀が途中で突然に解任されたということは、信長が「御成」が成立していないことに、どこかで気付いた可能性を示唆している。仮にもしも光秀が任命された最初の段階で、明確に「御成」を拒否する姿勢を示していたのであれば、もっと早い段階で光秀の解任は行われたことだろう。いやむしろ饗応役に始めから任命されることすらなかったに違いない。

 つまり光秀の突然の解任の理由は、饗応としては完璧な手配が進められていながら、その実は、御成としては成立し得ないものである事に信長が途中で気付いたからではないか。

 先にも述べたように、『川角太閤記』によると、光秀の解任が行われたのは、信長が厨房の事前視察を行ったところ魚から腐敗臭がした為とされている。その記述の通りであるとするならば、光秀の解任は、家康の到着間近のギリギリのタイミングあるいは饗応手配の途中であったということになるだろう。
 このような直前の解任は、それまでの手配がリセットされて、始めからその代わりの料理手配を急遽進めなければならなくなった事を意味するので、大きな混乱をもたらしたであろう事は間違いない。

 ただ光秀の準備した魚が腐っていたという表向きの理由は、信長にとっては苦しいながらも最もダメージの少ない言い訳であったと言える。なぜならば直前になって、信長の意図した「御成」が、光秀によって拒否されたということになれば、信長の面子は丸つぶれになっただろう。それに対して光秀の準備した料理に問題があったということであれば、全面的に光秀の不手際であるので、信長の面子を傷つける事無く解任することができたに違いない。逆に考えると、魚が腐っているという理由でしか、信長がその体面を守りつつ、光秀を急遽解任するための方法がなかったのではないか。


どのタイミングで信長は光秀を突然解任したのか?


 突如として光秀の解任が行われたことが意味するものは、その段階になって初めて信長が「御成」が成立していないことに気付いたか、あるいは光秀が、時間的に代役で饗応する事が難しくなった頃に、直接、信長にそのことを告げたかのどちらかであると思われる。

 ルイス・フロイスは、光秀が「御成」としての饗応準備を進めていなかったことを、信長が知ったと推測される場面を記しており、光秀とのやりとりに激しい感情的な対立があった様子が描かれているのは非常に興味深い。
 そのことをルイス・フロイスは次のように記している。

【 回想の織田信長:フロイス「日本史」 】
 信長は…その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国王(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは秘かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したのかも知れぬし、あるいは[おそらくこの方がより確実だと思われるが]、その過度の利欲と野心が募り、ついにはそれが天下の主になることを彼(光秀)に望ませるまでになったのかもわからない。(ともかく)彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機をひたすら窺っていたのである。


 饗宴の手配に関して、信長が光秀に対して激高し足蹴りしたことがルイス・フロイスの記録に見られる。その理由が何かを具体的にフロイスは記していないが、この時に信長が期待したような「御成」を、実は光秀が手配しておらず、普通の饗応を準備していただけだったと見抜いたとしたならばどうだろう。もしそうであれば信長が足蹴にしたほど怒ったのも腑に落ちる気がする。
 不思議なことに信長が何時、光秀を解任したのかというタイミングについてどの文献にもはっきりとは論じられてはいない。
 『信長公記』には

 維任日向守に被仰付京都堺にて調珍物生便結構にて十五日より十七日迄三日之御事也

※ 維任日向守とは明智光秀のこと


とあり、光秀の饗応役は、家康が安土に到着した5月15日~5月17日の3日間であったことが記されている。しかし実際にはどのようなタイミングで解任されたのだろうか。残念ながら何日に解任されたという記録はないので、はっきりと何時であったのかは分からない。ただ『信長公記』には5月17日に光秀が安土から坂本に帰城したと記されている。よって坂本までの移動の為の時間も考えると、17日迄となる饗応の役目を、17日にも光秀が饗応を行ったとは考えにくい。

 光秀が手配したと考えられている饗応の献立は、『続群書類従. 第23輯ノ下 武家部』に記録が残されている。しかしここには5月15日と5月16日の献立だけで、5月17日の献立は含まれていないところを見ると、やはり17日の饗応に光秀はすでに関係していなかったと推測される。

 さらには『天正十年安土献立』には15日と16日の献立が記録としては残されているが、それが実際に光秀の供した食事そのものであったのかについても大いに疑念がある。なぜならその記録には、これらの献立が明智光秀の手配によるものかについての明確な言及がされていないからである。『信長公記』に光秀に饗応役が与えられたことと、『天正十年安土献立』が勝手にリンクされて、これが光秀の献立と考えられているだけである。

 通常「御成」として行わる饗応においては、別記としてどのような贈答品が献上されたのかについて、その品目と、それを贈った人物の名前、さらには能が行われた場合には役者名の一覧が併記される。 『続群書類従』には、この『天正十年安土献立』だけでなく、『浅井備前守宿所饗応記』『天正十八年毛利亭御成記』『文禄三年前田亭御成記』『永録四年三好亭御成記』『大永四年細川亭御成記』が記載されているが、これらの記録と比べると、『天正十年安土献立』は参列者やそれにまつわる情報が一切記録されておらず、「御成」として成立しなかったことが明確であるだけでなく、そもそも実際にそれらがきちんと供されたかどうかにおいてさえ現実感に非常に乏しい記載内容となっている。


安土での徳川家康の宿舎はどこだったのか


 『川角太閤記』には、家康一行の宿舎は、始めは明智光秀邸であったが、堀秀政邸に変更されたことが述べられているが、さらに同書では、最終的には『信長公記』で宿者が大宝坊となったということが記載してある。これは始め饗応役の明智光秀邸が、宿舎となっていたのだが、信長が饗応役を解任した為に堀秀政邸へと変更され、またその後、堀秀政邸も変更となり、結局は大宝坊となったという経緯だと理解すべきであろう。しかしながら、これは決定上の変遷だけであって、実際にどこが宿舎として使われたかという事とはまた別の話であると考えるべきであろう。

 まず考慮すべきなのは、5月15 日に安土に到着した家康の宿舎は、明智光秀邸だったのか、あるいは堀秀政邸だったのか、それとも始めから大宝坊に宿泊したのかという事である。もし 2カ所、あるいは3カ所も安土内で移動する必要が生じたとすると、その度に行う荷造りや荷解きも含めて面倒な手間を家康一行は強いられたことになるだろう。日にちを限定して考えると、光秀も堀秀政も17日には安土を離れているので、15日、16日で宿舎の移動があったのか、あるいは無かったのかということになる。
 『多聞院日記』は英俊によって奈良で書かれた日記であるが、15、16 日ともに雨であったと書いてある。また『家忠日記』は松平家忠によって岡崎で書かれたが、14~16 日に「雨降る」と書いている。また京都で勧修寺晴豊によって書かれた『天正十年夏記』にも 15、16日ともに雨であったと書かれている。

 旧暦の 5月は現代の6月にあたりは正に梅雨の真っただ中の時期である。そうなると安土も雨だったと考えられるので、このような時期の頻繁な移動があるならば、さぞ迷惑なことであったに違いない。
 よって 5月15日、家康は『信長公記』にあるように、その到着の始めから大宝坊が宿舎として定められ、家康一行は到着からずっとそこを宿舎として利用していたと考える方が理に適っているように思われる。なぜなら光秀邸は「御成」を行わないとして宿舎からは外され、堀秀政邸も西國への派遣という任務が下ることになるので、もし光秀邸と堀秀政邸のいずれかが宿舎として利用されたとすると 15日、 16日の 2日間の可能性しか残されていないことになる。その両日とも雨だったことや、頻繁に宿舎が変わることが煩雑な手間となることを考えても実際には 5月15 日に家康が安土に到着したその日から、宿舎はずっと大宝坊であったと考えるべきだろう。なぜなら遠路やってきた家康一行に対して度々の煩雑な移動を行わせないことが、よりもてなしには適っているに違いないからである。

 「御成」の不成立を知った信長は、光秀の饗応役解任を決めて、その役割を堀秀政に割り当てることにした。しかし堀秀政も光秀と同じスケジュールで西國進軍することになるので、そこから更に変更という決定が下され、家康一行は安土に到着した5月15日に大宝坊に入ったと考えられる。

 このように光秀の突然の解任に伴い、宿舎の手配においても不手際が生じた可能性があったと考えられないだろうか。もし家康が到着してから数日間でコロコロと宿舎が変わったとしたら、それは旅をしてやっと到着したそばから落ち着かないものとなっただろうし、煩雑な手間を強いるものとなったに違いない。また大宝坊だけが宿舎であったとしても、急な変更に伴い、急いで家康一行を受け入れなければなった事になるので、準備に余念がない状態という訳にはいかなかっただろう。ギリギリまで宿舎が変遷し定まっていなかったことは、万全な体制での「御成」という観点からみると、明らかに不手際として捉えられるべきものだろう。よってもし信長が「御成」を意図していたのであれば、「御成」とは、そもそも家臣が君主を自邸に招いて行われるものであるので、宿舎が家臣の館(明智光秀邸、堀秀政邸)ではなく、大宝坊となった時点で、その成立は完全に無くなってしまったと言える。


献立の料理は供されたのか?


 こうした宿舎のスケジュールから考えると、光秀が用意したと考えられている饗応料理の献立を本当に光秀が供することが出来たのかすら疑わしく思えるようになってくる。なぜなら『川角太閤記』に準じて考えるならば、饗応料理を手配する役割と、宿舎の役割はリンクしているからである。つまり明智邸が宿舎でないのであれば、既に、光秀は饗応役から外されて料理を供することも出来なかったことになる。よって家康一行が15日に大宝坊に入ったということであるならば、光秀は饗応料理の提供に携われなかったということになるのではないだろうか。

 以下4回の献立が残されており、一般的には明智光秀が手配した饗応の献立であると思われているが、記録にはこの献立が光秀によるものであるとのはっきりとした記載はない。

  十五日おちつき膳
  十五日晩御膳
  十六日御あさめし
  十六日之夕

 ただこのような献立が残されているところに何らかの意味があると考えられる。
 光秀解任に伴う宿舎の変更や、解任のタイミングがいつだったのかという事を検討するならば、この 献立を光秀が手掛けはしたが、実際の料理提供においては光秀がそれに関与できなかったと推測できるのではないだろうか。よって以降、この推測を基に献立を読み解いて行くこととしたい。

 まず献立は五膳の料理で、本膳料理の正統な形式を踏襲したものである。(ただし七五三本膳料理よりも格式を落としてあるところが光秀の狙いであると思われる)さらには京や堺から山海の珍味を集めて準備したとあり、その構成を探る事から始めることにしたい。


海産物


 料理に使われている鯛やハモといった海の魚は、瀬戸内海産のものが堺を経由して海の無い安土まで送られてきたのかもしれない。現代でも徳島の沼島のハモ、鳴門の鯛は高級品として京都の割烹料亭で消費されているが、それが安土での献立に含まれているのは興味深い。

 京は海のない都市であるので、古くは若狭から所謂、鯖街道のような輸送ルートを通して運ばれてきたものが食べられていた。現代のように物流が発達していない昔の時代でも、日中、夜を通して人が走って魚は運ばれていたのである。しかしこうした流通の手間の為、昔の京や安土のような内陸都市で海の魚は必然的に非常に高価なものであり、簡単に庶民の口に入らないものとなっていた。つまり安土という海から離れた地で行われる饗応においては、海の魚が用いられることが、ある種の豪華さに通じていたと考えられる。
 献立には、鯛、ハモ、スズキ、カザメ(ワタリガニ)、カレイ、タコ、エビ、アワビ、ばい貝、マナガツオ、クジラなどの海産物が含まれている。瀬戸内海のものは堺を経由して、日本海のものは若狭国などから集められ運ばれたと考えられる。実際に残された献立を見ると、安土という海から離れた土地であるにも関わらず、海産物が多く含まれているので、当時の人(特に京の饗応料理という観点)にとってはかなり豪華な料理が準備されていた事は間違いないだろう。また広域からの食材が使われていることは支配地域の大きさを示唆することでもあった。

 中国の戦国時代末期に編纂された『呂氏春秋』では、殷の宰相で、元々は料理人でもあった伊尹が湯王に様々な各地の珍味について言及しながらその統治の方法を諭すエピソードが含まれている。天下の至味が得られるというのは、単に、その味を楽しむ為だけのものではない事。こうした珍味は各地からの貢物によってのみ得られるものであるので、この事は、広い範囲の国々を治めるという事とも直結していると述べている。つまり珍味を得ることは、天下を治めることに繋がっているという訳である。

 よって政治的な意味合いの含まれた饗応においては、広域からの珍味が集められ供される必要があるのである。天正十年安土の光秀の献立にもそうした部分が意識的に盛り込まれているのを感じる事が出来る。信長は「魚が腐っている」と激怒したのが、それが本当の光秀解任の原因ではないとしても、あえて信長がそう言ったと仮定して考えるならば、その根拠は信長が昔から食べてきた尾張の魚に比べて、魚に新鮮さが無かったという一点だけの理由に尽きるだろう。尾張から美濃、安土へと京都に近づくにつれて海から離れた内陸地域に拠点を移してきた信長がそのように感じるということもあったのかもしれない。しかし地産地消のような、その土地だけのもので新鮮さだけを追求する料理では、先に述べたような支配地域の広さを誇示するという政治的な意味合いにおける饗応料理においては不十分でしかなく、郷土料理や田舎料理のようなものになってしまうのである。


加工食品


 鮮魚は広域から集められたが、加工された食材の多くは主に京から取り寄せられたと考えられる。これにはやっとこの時代から現れるようになった最新の調味料「醤油」が含まれている。
 献立をみると「うじまる」(宇治丸)とあるが、これは鰻の料理である。はじめは宇治川産のウナギを指したが,やがてウナギの異名となり、蒲焼のようなウナギ料理もこの名で呼ばれるようになった。室町時代に書かれた『大草家料理書』には「宇治丸かばやきの事,丸にあぶりて後に切也,醬油と酒と交て付る也,又,山椒味噌付て出しても吉也」とあるように、料理流派の書に取り上げられていることからも京の饗応料理では献立に含められ食されてきたものであったことが伺える。しかも蒲焼を作るには、まだやっと京か堺で使われるようになった最先端の珍しい調味料である醤油が使われる必要があった。「15日のおちつき膳」、および「16日の御あさめし」と2回も「うじまる」が出されていることも注目すべき点である。ここからも蒲焼はこの当時においては非常に珍しい料理だったと言えるだろう。

 また献立には奈良漬けが含まれている。奈良漬けは1492 年(明応元年)に書かれた『山科家礼記』に宇治の土産として「ミヤゲ、ナラツケオケ一、マススシ一桶、御コワ一器」と記してあるのが初見であるとされている。奈良漬けはもともと奈良で「かす漬け」として始まった香の物であり、奈良あるいは京都のものが中心であったようで、それは現代においても変わらない。天正十年の饗応でも京か奈良から取り寄せられたものが使われたと考えるべきだろう。

 さらにデザートに含まれている「うすかわまんちう:薄皮饅頭」は特に注目に値する。饅頭は室町時代になって始めて、中国から渡ってきた林浄因によって作られるようになった御菓子である。この林浄因の子孫はその後も饅頭をつくり続け、八代将軍の足利義政から直筆の大看板が授けられている。その後、塩瀬という姓を名乗って京都で饅頭を売り始めるようになる。天正年間の記録によると、現在の京都市烏丸三条には饅頭屋町(戦後の区画整理で現在は無くなった)という町があり、そこで塩瀬は饅頭を商っていたことが分かっている。
 実は、この京都・饅頭屋町は明智光秀の管轄地であり、制度が発せられるたびに届けられる「信長布告」、「銭ノ制度」、「明日光秀ヨリ三日以内ニ田地差出スベシ」といった通達文書を、饅頭屋町の町衆であった塩瀬は受け取っており、これらの布告文は塩瀬の菩提寺である両足院に現在でも収められている。よって光秀が献立のなかに塩瀬の饅頭を入れようとした可能性があると言えるだろう。

 さらにもうひとつ、この薄皮饅頭が塩瀬のものであると考えられる根拠を挙げておきたい。三代目の林紹絆の時代に応仁の乱がおこり、京が焼け野原になったため、この饅頭屋が一時期、三河国設楽郡塩瀬村に移住したのだが、そこから塩瀬を名乗るようになっている。こうした三河との繋がりがあった為かは定かではないのだが、饅頭の創始者である林浄因から数えて七代目の林宗二(1497~1581)が、天正三年の長篠の戦の際に、徳川家康の陣中に「本饅頭」を献上している。この本饅頭とは、小豆こし餡に蜜付けした大納言を入れ、ごく薄い皮で包み蒸しあげたものである。家康は出陣の際に、本饅頭を兜に盛って軍神に供えて勝利を祈願したことから、兜饅頭とも呼ばれている。この「本饅頭」は京都から東京に移った御菓子老舗:塩瀬総本家の御菓子として作り続けられており、現代でも我々はそれを食べることが出来る。

 しかしこの当時、砂糖はまだ非常に貴重なものであった。よってどこでも饅頭をつくることは叶わなかっただろうし、珍しさと高価さの故にそれを食べる事の出来る人も少なかったに違いない。
 光秀は自分の管轄地にある貴重な饅頭屋のものを自身で口にしたり、これを贈物としたりしたことは想像に難くない。織田・徳川連合軍は、天正三年の長篠の戦いで武田軍に勝利をしたことから始まり、最終的に天正十年に武田軍を崩壊させることになる。光秀の献立はその為の家康饗応であったので、家康ともゆかりのある縁起の良い薄皮饅頭を、もてなしの為にあえて塩瀬饅頭屋から取り寄せたと考えてまず間違いないだろう。

 以上のように献立を詳しく見れば見る程、その献立が緻密に考え抜かれた構成になっており、ホスト役としての饗応手配が非常に良く行われていたことを理解できる。よって明智光秀=進士藤延とするならば、進士流としての技量が遺憾なく発揮された饗応料理となったはずである。また逆に考えると、こうした献立による饗応が行えるところに、明智光秀=進士藤延であるとする根拠も求めることも出来るのではないだろうか。

 しかし、光秀が饗応役を解任され、宿舎も明智邸から大宝坊となった15日前の時点で、遠方から、特に京や堺から集められて緻密に構成されていたこれらの準備されていた料理はすべてキャンセルされてしまった。光秀が料理を「堀に打ち捨てた」という記述が事実かどうかはさておき、こうした記述の真意は、光秀の解任にまつわる出来事を、過剰で極端な表現でもって表現したものであったとするならば納得できるのものとなる。つまり、残されている「天正十年安土家康饗応献立」は、明智光秀が手配したものであったのだが、この献立に基づいて料理が行われる前、あるいは料理準備の途中で解任となった為、実際に家康に提供された料理には関われなかったという事を意味しているのではないだろうか。

 しかし、明智光秀(進士藤延)に代わって饗応料理を手配できる者など、安土の信長の元には誰も居なかったに違いない。よって出された料理は、総監督としてのマネジメント機能を失い、鳥瞰的に料理・素材・珍味を見渡して構成されたものではなく、身近なところ(安土近郊)で手に入れられるような食材を中心とした田舎料理へと様変わりしてしまったのではないだろうか。あるいは光秀の献立をベースにしながらも内容を落としたり、代用品を用いたりしながら料理が行われたとも考えられる。よって先に述べたような政治的な意味合いを込めた饗応料理という観点から見るならば、代役が監修した料理は完全に崩壊して成り立たっていない、本来の饗応から見ると体をなさないものとなってしまった可能性がある。それ故に、あくまでも光秀の立てた献立(記録には光秀による献立とも書かれていない)をもって「天正十年安土家康饗応」は成功したように見せかけることが行われたのではないだろうか。またその為に、この献立は記録に残される必要があったのではないかとも推測されるのである。


光秀の狙いと、解任のタイミング再考


 光秀の目的が「御成」の成立を阻むことであれば、そのまま光秀が饗応手配を続けていたとしても、あるいは途中で解任されたとしても、その目的は達せられたことになるだろう。ただ後者の場合は、直前になって解任されることによって、その代役者が再び「御成」の準備を行うには時間的に不可能なスケジュールでなければならなかったはずである。なぜならばその時には安土の織田家臣のなかに、光秀のように「御成」にまつわる有職故実を理解し把握している家臣などはいなかったに違いなく、もし他からそれに通じた者が急遽呼ばれてきたとしても、時間的に「御成」を再手配することが出来ない状況が必要だったからである。実際に家康の饗応は丹波長秀と安土三奉行の堀秀政・長谷川秀一・菅屋長頼に交替となったが、彼らはいずれも尾張時代からのプロパーな織田家臣であり、武闘派としての功績で地位を築いた面々である。緊急であてがわれた人選がこのようなものであれば、その料理は明らかに「御成」としての饗応の体をなさない(ここで梅若大夫の猿楽にも使った表現であえて記しておきたい)ものであったに違いない。

 家康の饗応料理は、光秀が手配したと考えられる献立が残されているだけで、その後、光秀の跡を引き継いだ武将の料理献立については何の記録も残されていない。最初の2日だけで、その後の17日~21日までにどのような献立がなされたのかは記録に無いのである。解任された側の光秀の料理の献立記録が残されているにも関わらず、後任者の家康をもてなした献立記録が無いことは、有職故実に通じた光秀の献立記録だけをあえて残すことによって「御成」がおこなわれたことを何とか既成事実化しようとする中途半端な試みがあったのではないだろうか。


御成不成立の発覚


 「御成」の不成立に関しては信長が自分で気付いたか、あるいは光秀が自分で告げたのかは確かめようがないが、家康が安土に到着する比較的直前になって始めて、信長は自分が望む形でので「御成」が行われないことを理解したのは間違いないように思われる。

 「御成」とは「饗膳や猿楽による饗応を受ける儀礼」であるという定義に従うならば、光秀の手配は舞と猿楽にまで及んでいたと考えられないだろうか。あるいは直接の手配に関与していなかったとしても、光秀の意向が反映されるような何らかのプロセスが能の準備段階でもあったはずである。なぜならば信長の家臣のなかでも安土にいて「御成」に関する有職故実を深く理解していたのは光秀だけであり、さらに実際に、光秀の息のかかっていた丹波の梅若大夫が、大和四座を差し置いて猿楽を総見寺で披露することになっていたことを見てもその影響が伺えるからである。
 このようなプロセスを経て5月19日の総見寺の能舞台は整えられたのである。
 では19日にはどのような個々の感情がその舞台を取り巻く空間には存在したのか、それを梅若大夫の立場の心境、および信長の心境に焦点を絞り、なぜ信長が梅若大夫を折檻するという事態に至ったのかの背景を考察してみる事にしたい。


19日、安土 総見寺における舞と猿楽



梅若大夫の心境


 明智光秀は「御成」を成立させないために、自分の領内から大和四座の猿楽師でない梅若を呼び寄せ、信長の前で能を見せるという段取りで手配を行っていたのではないかという仮説は、すでに先に説明した通りである。

 しかし光秀は饗応役を急遽解任されることになる。

 梅若広長は光秀という後ろ盾を失い、舞台に立つことになったとするならどうだろう。当然、大和四座を差し置いて能を披露するということであれば、四座を上回るものを披露することが期待されるだろうし、またそうでなければ大和四座を呼ばずに、梅若が能を披露することの必然性は薄れてしまうであろう。
 しかも信長の息子、信忠への能の手ほどきを行っていたとするのであれば、信長の憤懣は梅若大夫にも向けられていたのかもしれない。こうしたアウェイな緊張感のもと、舞台に立つことになった梅若大夫の心境には複雑かつ心に重くのしかかるものがあったのではないかと思われる。

 さらに『信長公記』には19日ではなく、本来は翌日に能が行われることになっていたが、幸若舞に続き19日にそのまま梅若大夫も能を披露することになった経緯が記されている。舞台に臨む精神的な準備も含めて、こうした段取りは如何なものだったのだろう。こうした点も含めて、饗応の進行やスケジュ ールに場当たり的な不手際のようなものを感じさせられる。こうした外的な要因もまた実際に舞台に上がることになった梅若大夫にも大きなプレッシャーとなったとも考えられはしないだろうか。


信長の心境


 「信長は能狂いであった」と書いてある記述を見かけることがあるが、これは間違いである。信長が好んでいたのは幸若舞という「舞」であって「能」ではない。むしろ能に対して信長はあまり好意的でない印象を持っていた。それは先にも述べたように、能に入れ込んでいた信忠に、能を辞めさせたことや、武将が能を好むべきではないと信長が考えていた事に表されている通りである。

 また永禄11 年に京に上洛した際に、細川藤孝宅に将軍・足利義昭と信長が招かれ能が披露されている。この時は大和四座の観世が招かれて能が上演されている。しかしながらこの時に信長が、まだ戦時下にあるとして通常の 13 演目を削って5 演目だけを上演させたとある事に注目すべきである。さらにこの席で信長は足利義昭から鼓を所望されたが、それも辞退している。ここに信長の能に対する心境が読み取れるのではないだろうか。
 まず五演目に短縮させたことに、実際は能を好んではいなかったことの現れであると捉えることが出来るかもしれない。さらに鼓を辞退したことも、「武将が能を好むべきではない」とする信長の考えの表明であり、それが息子・信忠が能を行う事を許さなかったことにも通じているように思われる。

 さて話を天正10年に戻すと、この一連の饗応において、信長から常に何かに対してイライラしているニュアンスのようなものが感じ取れる。料理においては光秀を折檻して解任し、能においては梅若大夫を折檻して舞台を止めている。これと対称的に思えるのが、14年前の永禄11年の美濃で秋山信友に対して行われた饗応である。この時の信長からは饗応することそのものに対する喜びのようなものが感じられ、それが返って政治的な立場のバランスが取れていないズレた歓待となってしまっている印象があるのだが、いずれにせよ永禄11年の饗応には、天正10年の饗応で感じられるようなイラつきは微塵も感じられない。両方の饗応を比較すると以下のようになる。


 もし当初、信長が「御成」を行おうと考えていたとするならばどうだろう。14年前の饗応と比較にして、光秀が五膳本膳料理の献立しか考えていなかったとすると、過去のものより劣っていることになってしまう。また能においても「御成」であれば大和四座の猿楽師が務めるところであろうが、それも実現されていない。14年前は天下人としての思いはあっても、まだそのヴィジョンは明確でなかった信長であったが、天正10年の時は天下取りが目前に迫っており、将軍をも凌ぐような存在である。よって信長の立場から考えると、能においてはいまだに同じ猿楽師が舞台を務めていることや、料理の献立が過去の饗応と比べてダウングレードされていることは、許すことができない不満要因となったのではないだろうか。

 この天正10年の饗応を支配する信長のイライラ感の原因は、どうもこうした部分すべてに原因があるような気がしてならない。もしこれが、信長の梅若大夫への折檻の原因であるとするならば、梅若大夫の演じた能そのものについても、再考しておく必要があるように思える。つまり「そもそも梅若大夫の能は体を為さない程の不出来であったのか」という疑問に対する検証である。


この日の梅若大夫は本当に不出来だったのか?


 この日の梅若大夫の能は、本当に不出来だったのか。『信長公記』には「梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず」とある。この文章を見るとあくまでも信長の主観のみで梅若大夫が不出来であるとして折檻した様にも読み取れなくもない。
 また『宗及他会記』には「めくらさたといふ能いたし候、其時、上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候」とあり、宗及自身は、その能がひどかったという感想は述べていないので、ここからも信長の主観だけで梅若大夫を折檻したように読める。

 先の二つよりも更に積極的に梅若大夫の能がひどかったとしているのは『川角太閤記』の記述で、「梅若能不出来故重而どふわすれなと仕候其頸を可被成御刎と後に宿へ御使被立候」述べて、梅若大夫が重ねて度忘れしたことや、後に信長からわざわざ首を刎ねると伝える使が送られた事まで説明してある。
 まずは、どの記述がより現実に近いものかを見極める必要があると思う。
 『川角太閤記』は、作者の川角三郎右衛門が、秀吉と同時代の当時の武士から聞いた話をまとめた「聞書」や覚書を元にして書かれたものであり、本人は秀吉の毛利攻めで現場には居なかったと考えるべきである。しかも光秀の饗応解任の際にも「日向守面目を失ひ候とて木具さかなの臺其他用意のとり肴以下無残ほりへ打ちこみ申候其悪にほひ安土中へふきちらし申と相聞え申候事」と述べているように、その様を過剰でかつ極端な表現でもって述べようとする傾向があることを念頭に置くのであれば、能における梅若大夫の出来栄えについても再考を要するべきかもしれない。

 個人的には、一般的な梅若大夫の能の出来についての捉え方が、『川角太閤記』の陳述に引っ張られ過ぎていると感じている。
 その影響は大きく、例えば『近代四座役者目録:近代観世方連師手之事』という能関係の書には梅若大夫について以下のように述べられている。

 梅若大夫は「黒雪ノツレモスル。京ニテ再々勧進能ヲスル。塩ノ辛キ能ト也。昔カラ、丹波ガカリト云テ、塩カラキ能ハ悪也。・・・・声ヨシ、妙音大夫トツキタル由、玄詳申候。梅若座ニ、当時ハ、役者多有。上手ハナキ也」


 この書には39世・梅若広長は声が良く、妙音大夫と呼ばれていたが、丹波衆の能は上手でなかった(塩辛き能)と酷評を述べてある。こうした解説を参考にすると、この日の梅若大夫は不出来で、その為に信長に折檻されたという事もあったのではないかと考えられなくもない。
 しかしこの説明は、大和四座の視点から書かれたものであるので要注意である。室町時代になり、能が行われ始められるようになった当初から、大和四座はヨーロッパで言うところの強力なギルドのような結びつきで自分たちの芸能を守っていたと考えられる。よって丹波で始まった新興の梅若に対して大和四座は自分たちとは同格ではない、むしろ格下の存在と考えていたのではないだろうか。

 現代の能流派の構成は四座一流と言われている。古来に大和で始まった、観世、金春、金剛、宝条の四座に加えて喜多の一流だけが能楽を務めており、現在、梅若は観世のなかに含まれていて独立した流派にはなっていない。かつて、梅若万三郎(1869~1946)らが免状の発行にからみ観世流から破門・除名され、独立して梅若流を大正 10年(1921年)に新たに興したことがあったが、結局は昭和 8年(1933年)にはまた再び観世流に吸収されている。こうした除名・独立・再吸収の一連の問題は観梅問題と呼ばれていたが、こうした近代の能界における力関係を見ても現代に至るまで続く大和四座の強い拘束力や他流派を生まないための圧力のようなものを感じさせられる。

 こうした能楽におけるバックグランドを理解すると39世・梅若広長に対する評価をどのように捉えるべきかについて再考すべきではないかと気づかされる。山崎の戦いで明智光秀の側についた梅若大夫は、後の光秀の逆賊として歴史的な評価が形作られるのに合わせて、能における評価においても歪められた可能性もあったのではないだろうか。また大和四座にとしては昔から、丹波猿楽は認められないという意識があり、39世・梅若広長に対しても良くない評価が附された可能性も否定は出来ない。
 天正10年5月19日の能舞台で、なぜ梅若大夫が体をなさないとまで評される能を演じたとされているのか、いくつかの可能性を改めて再び考慮されるべきではないかと思う。よって以下の4点の可能性を仮説として立て検討してみる事としたい。

 ①信長は、能そのものに対する嫌悪感から不機嫌になり折檻した。
 ②信長は、演目に対する不満から不機嫌になり折檻した。
 ③信長は、御成の不実現が不満で、不機嫌になり折檻した。
 ④信長は、梅若大夫が実際に不出来であったので不機嫌になり折檻した

 一般的に④が最も受け入れられている説であり、これには『川角太閤記』の記述が大きく影響しているように思う。
 しかし①~③も再考してみるべきだと考えた発端は、『宗及他会記』の記述にある。この事件に関する作者・津田宗及は、自分の視点からは能の感想を一切述べられておらず、信長の機嫌が悪くなり折檻したとだけ述べている。この時、津田宗及は『信長公記』、『川角太閤記』の作者と違い、この事件現場におり、また能に対する正統な評価を行えるだけの文化的な素養を持っていた人物である。その津田宗及が、梅若大夫の能そのものの酷さには一切言及していないことが疑問の起点である。よってそれを足掛かりに①~③、そして④の可能性も含めて再検証することとしてみたい。


① 信長は、能そのものに対する嫌悪感から不機嫌になり折檻した。


 信長が能を好んでいなかったことは先に既に説明した通りである。幸若舞では機嫌が良かったが、一変して行われた梅若大夫への折檻は能そのものに対する嫌悪感が関係していたとも考えられないだろうか。
 信長は幸若舞を好んでおり、梅若大夫を折檻した後には、また幸若大夫に舞をまわせている。本来であれば舞の後に能が演じられ、その順番が逆転することはあり得ないのであるが、信長の命令によってこうしたあり得ない順番で演じられることになった。

 先に「御成」を望んだ信長に対して、光秀が大和四座の能楽師ではない、梅若大夫を起用することで正統な「御成」の形式をゆるやかに解体したのではないかという仮説を述べたが、結局は、信長は自身の手でその成立をぶち壊しにしてしまったと言える。舞と能の順番を逆転させることで、自らの手で正統なスタイルから逸脱させてしまったのである。
 こうなることを光秀は画策していて、信長の折檻による能舞台の中断という結果となったとするのはあまりも深読みし過ぎの創作説となってしまうかもしれないが、梅若大夫を起用することで「御成」が成立しないようにしたという点においては確信犯的なキャスティングがあったと捉えるべきだろう。光秀は当然、信長の好み(能は舞ほど好きでない)を知っていただろうし、息子たちが能狂いであったことを快く思っていなかったことも熟知していたはずである。


② 信長は、演目に対する不満から不機嫌になり折檻した。


 信長は、梅若大夫が「めくら沙汰」という演目を行っている時に機嫌を悪くしたとある。となると、梅若大夫の能に不手際があったのではなく、この「めくら沙汰」という演目自体に信長は気に入らない所があったとは考えられないだろうか。

 この日の能の演目に関して考察された諸説を読んでみると『多聞院日記』の記述からその舞台が18日、あるいは26日であったとするものや、その演目は「張良」と「鞍馬天狗」であったとしたものがあるが、これらは根本的に間違いである。

 まず『多聞院日記』の作者、英俊は奈良興福寺の塔頭多聞院の僧である。興福寺では僧坊酒が量産されており、この時代の奈良酒、天野酒は世を席捲し、酒・清酒と言えば奈良であった。
 『多聞院日記』によると、5月12日に安土で行われる家康への饗応のために、大乗院と従學侶がそれぞれ酒臺や酒樽および、各種料理も送ったことが記してある。その際に、装飾された彩色のあやつり「張良」[三尺五寸ノ臺]を従學侶は贈っている。

 5月18日の記述では、信長は大乗院からの贈り物を非常に喜んだが、従學侶の方の盃臺(張良)は信長の「御意に入らず」と述べられている。その理由として英俊は個人的な分析として、張良は能の「鞍馬天狗」という演目の登場人物であり、この鞍馬天狗は牛若丸が主人公(ツレ)で、平家を討つ話となっているところが信長の気に障ったのではないかと日記の中で分析している。(間違っている諸説は、別に能に「張良」という演目があるので、それと混同しているのかもしれない。
 19日の梅若大夫の能の演目として「張良」あるいは「鞍馬天狗」は全く演じられていない。よってこの演目を持って梅若大夫が折檻されたとする意見の全ては根本的な部分で完全な誤りである。よってこの時の梅若大夫の演目は『信長公記』および『宗及他会記』の記述の通り「めくら沙汰」であったとして考えるべきである。
 贈られた品々に対しての返信が、18日に届き、その時の事を英俊は『多聞院日記』のなかで述べ、なぜ従學侶からの品物が喜ばれなかったのかを分析している文脈で「張良」あるいは「鞍馬天狗」が言及されているだけなのである。多分、品物は15日前に安土に届いたはずであり、それに対する信長側からの感想が単に18日に興福寺側に伝えられたと捉えるべきである。

 『多聞院日記』の記述は、19日に梅若大夫が演じた能とは無関係であるが、それでもひとつのヒントを与えてくれているように思われる。もし英俊の分析した通り、信長が酒台である「張良」という品物と、張良が出てくる「鞍馬天狗」という能の演目の文脈までを鑑みて、それを気に入らなかったのであれば、19日に梅若大夫によって演じられた「めくら沙汰」にも、何らかの信長の気に障る部分があった可能性もあったのかもしれない。つまりこの時期の信長は、ネガティブな方向で深読みして、それを不服として受け入れないといった否定的なモードに入っていたのかもしれないと考えられるからである。これを別の表現で言うならば「荒さがし」である。こうなると信長の気に入らない者は、何をやっても否定される結果になってしまうであろう。

 信長の機嫌が悪くなった「めくら沙汰」とはどのような演目なのだろうか?
 既に現代では演じられなくなった番外謡曲として、『版本番外謡曲集 2 五百番本』には「めくら沙汰」(盲目沙汰)が掲載されている。内容は、兄の六郎、と弟の菊若の家督相続に関する物語で、最後は盲目の兄が家督をつぐという話で、しかもこれは源氏の話となっている。
 こうした内容が信長の怒りに触れた可能性もあるのかもしれない。ただどうしてこのタイミングで源氏の兄弟の家督争いについての能などが披露されたのか。その選択に関しては今となっては知る由もないが、そこには何か意図的なものがあったのかもしれないと疑う余地はありそうである。


③ 信長は、御成の不実現が不満で、不機嫌になり折檻した。


 饗応をセットとして捉えるならば、関係する要素は「宿・食・舞」である。これらの宿と食において、既にゴタゴタがあり上手くいっていなかった過程は既に考察した通りである。このようにスムーズに行かない状況のなかで総見寺での舞台が始まる。
 事前に信長は、光秀に「御成」を言いつけていたとするとどうだろうか。舞は自分の好みの幸若舞であるので良いとしても、能はやはり四座の者であることが王道である。しかし実際の舞台には丹波の梅若大夫が上がって「めくら沙汰」を演じている。ここにおいても光秀がゆるやかに「御成」を阻もうとしたその意図に改めて気づかされることとなった信長を思うと、能を見ながらイライラさせられている信長の心境を容易に推し量ることが出来る。

 饗応において光秀を外したにも関らず、ここにおいてもなお「御成」を成立させないための、光秀の手配の影響(影)を信長は感じたのではないだろうか。そうなるとその怒りは舞台に上がっている梅若大夫に向けられ、能は中断させられることになったという推測も可能であるように思える。そしてその後、幸若大夫が呼び戻されて再び舞が舞われるが、こうして結果的に、信長は舞→能という正統な順番を乱し、自らの手で「御成」の成立を、能においても不成立としてしまったことになる。

 さてここから後の信長の行動は、さらに迷走しているように思える。幸若大夫に褒美を与え、また同じく梅若大夫にも、褒美をケチったと思われないためにも褒美を取らせている。褒美をケチったと思われたくないのは誰に対してだったのか? 梅若大夫か、あるいはその座にいた盟友である家康か、あるいはその家臣たちだったのか。信長はその場にいたすべての者に対して体面を保って梅若大夫に褒美を取らせたのかもしれない。ただそれでも不自然さを感じる。もし梅若大夫が体をなさないほどの大失態を犯していたのであれば、褒美を与えないことの絶対的な理由を持っていたはずであるし、酷い能を演じたのであれば、その座にいたすべての参加者は、褒美が与えられない事に納得したはずである。

 またどの記録を見ても、この梅若大夫の能を鑑賞していた、能に通じた家康と信忠の意見が含まれていない。この両者の感想がどこにも述べられていないところに、むしろ信長の折檻に対しての、彼らの興醒め感というか、白けたムードのようなものを感じさせられる。彼らはこの日の梅若大夫の能に批判的批評を抱いてはいなかったのでないか。そしてこの興を削いだ能鑑賞の楽しみを取り戻すかのように、 信長がまだ京に到着していない、5月26日の清水での能鑑賞を共に楽しんだようにすら思われる。

 もし梅若大夫の能が行われている時に、信長が、先に述べた理由(光秀に「御成」が阻まれた)から癇癪を起して梅若大夫を折檻したとするならどうだろう。能を見ていた他の者たちは、なぜ信長が突如、梅若大夫を折檻したかその理由すら良く分からなかったという事態も考えられる。その場にいた津田宗及も「上様御気色あやしく候て直ニしからしられ候」と述べているだけで、梅若大夫が失敗したとは一言も述べていない。
 信長の衝動的な怒りが、梅若大夫に向けられたとするならば、何故、幸若大夫と一緒に、梅若大夫にも褒美を取らせたのかの真意が曖昧である。つまり梅若大夫は体を為さない程の失態を演じたのではなく、むしろ褒美に相当するような能を見せていたのではないだろうか。能を中断させ、折檻をした信長であるが、それは家康を始め、能に通じた者達の前であった。こうした能、というよりもむしろ、能も含めた饗応全体の進行が体を為さなくなったのを埋め合わせるかのように、イレギュラーな仕方で幸若大夫が再び舞を演じ、褒美が与えられ、梅若大夫にも褒美が与えられたのである。
 さらに『川角太閤記』には、あとから信長は梅若大夫のもとに使いを送り、今度首を刎ねるとまで伝えたとある。これもまた全体のストーリーから整合性を得ない突飛な話であるように思われる。この19日の総見寺の舞台は、すべてにおいてギクシャクとした歯車が常に噛みあっていない饗宴となった印象がある。それは梅若大夫に褒美を取らせていながら、わざわざ首を刎ねると使者まで送った中途半端さにも表れているし、褒美を与えながらその後にこのようなことを伝えたのでは、むしろ信長は自身の狭量さを露呈してしまっていることにならないだろうか。
 この場に居合わせなかった『川角太閤記』の作者の記述がどこまで真実かは定かでないが、やはり信長が梅若大夫を折檻したという紛れもない事実に基づいて、その原因を埋めるために梅若大夫は度々、間違えたという一文を入れたとも推測できないだろうか。

 この整合性を欠いた信長の折檻の原因を考えると、表沙汰に出来ない信長の怒りの原因が別に存在していたとも考えられなくない。その理由を考えると、光秀が「御成」を回避すべく、様々な饗応手配の細かな部分で手を回していた事が浮かび上がってくるのである。


④ 信長は、梅若大夫が実際に不出来であったので不機嫌になり折檻した。


 一番、分かり易くてシンプルな理由である。一般的にこの説が受け入れており、その折檻の理由は梅若大夫の能が不出来であったからとしている。しかし、先に述べてきた他の3つの可能性を考慮すると、簡単に梅若大夫の能を単に不出来であったからとかたづけてしまうのは、いささか早計であるように思われる。

 本来は翌日の20日に梅若大夫は能を行うはずだったが、19日に変更されたという経緯を見ると、この急なスケジュールの変更が能の出来に大きく影響したとも考えられなくもない。また信長の前で演じることには大きなプレッシャーがあった事も考慮すべき点だろう。能に興ずる息子たちを信長は好ましからざると思っていたし、その手ほどきに梅若大夫が関係していた可能性があるならば、信長の梅若大夫を見る目は厳しいものであったに違いない。こうした圧力を梅若大夫は感じて、本来の能を演じる事が難しかったとも考えられる。

 さらにもうひとつ検討を要する要素がある。先にも述べたように『猿楽伝記下』には「梅若大夫は其家一流にて先祖信玄の大夫也」という説明がある。信玄が家督を継いでからの年代的な観点から、39世・梅若広長が信玄からの庇護を受けていた可能性はある。その武田家を打倒したことに対するいわば祝勝会が、天正10年安土での饗応であったことを考えると、その時の梅若大夫の心境には複雑なものがあったのではないかと推測される。かつて自分が仕えていた武田家の滅亡を祝う場で、能を舞わなければならないというのは、何とも皮肉な話ではあるが、こうしたことも不手際(梅若大夫の心境)に何らかの影響があったとも考えることが出来るのかもしれない。

 『猿楽伝記下』は随筆雑著集である『燕石十種』に収められており、岩本佐七が編纂して文久3年(1863年)成立した書籍である。梅若大夫が信玄に仕えていたという記述の出典元を探しているが、まだそれを確認できていないので、これが史実に基づいたものであるかどうかは定かとは言えない。
 ただ応仁の乱からの戦国時代に都が荒廃すると、足利将軍家の庇護を受けていた能も窮地に追い込まれた為、畿内を本拠としていた能役者たちは、一座を維持するため、新たなパトロンを求めて地方に下ったことは確かである。例えば、京で人気の高かった三世・観世十郎大夫や、七世・観世大夫(元忠)は、浜松に下り徳川家康の保護を得ていたと記録されている。家康が、自身でも能を舞い、その故実に通じていたのは三河にいた観世元忠を師としていた為である。他にも金春禅鳳は九州の大友氏を頼り、宝生家は小田原の北條氏に仕えたとされている。またツレではないが大鼓方の大蔵二助虎家は、上杉謙信の贔屓を受けて越後に滞在した後、京へ戻って名を上げたとあり、多くの猿楽師たちが地方と中央を行き来しながら戦国大名による援助を受けていたことが分かっている。

 戦国時代は能だけでなく、和歌においても同じことが行われていた。三条西実枝は公家・歌人であり古今伝授の伝承者であったが、『甲信紀行の歌』によれば、実枝は天文16年(1547年)に甲斐国へ下向し、武田一族の武田信繁や大井信常らと歌会を行い。天文21年(1552年)以降京都を離れ、駿河国の今川氏を頼って移住しており、12年間、今川家の庇護を受けた後の永禄12年(1569年)に帰洛している。また庖丁式の公家であった四條隆重も1536年に31歳で『武家調味故実』という料理の書物の編纂を行い、庖丁式を家職化し、四条家再興のために駿河の今川義元のもとに下向している。

 このように戦国時代に京で足利家の求心力が減退した為に、様々な文化的なジャンルの芸能・伝統の継承者たちはパトロンを求めて、諸国の有力な戦国大名の元に下ることを一般的に行っていたのである。こうした時代的な背景を考えるならば、梅若大夫も支援を求めて、武田信玄に仕えたり、信長に仕えたりしたということも自然な流れであったと考える事は出来るだろう。
 もし梅若大夫が武田家に何らかの恩義を感じており、現在、仕えている信長には不満を持っていたとするならば、梅若大夫の失態には、こうした要素がどこか関係している可能性は簡単に切り捨てられない要素であるようにも思えるのである。


梅若家の天正10年饗応での能に関する扱い


 以上のように4つの可能性を考慮したが梅若大夫が実際に不出来であったのか、あるいは不出来にならざるを得ない仕方で舞台を務めなければならなかったのかについて史実は十分ではなく、現代の我々は断片的な情報から推測するしかない。ただ一般的な歴史観では、梅若大夫の失態および信長の折檻という、いわば氷山の一角のような部分だけが伝えられており、それが深く考慮される事無く定説となってしまっているというのが現状である。
 また梅若家においても、この件に関する言及は積極的なものではない。無理からぬことではあると思うが、対外的な梅若家の紹介文を読んでもこの件については一切言及されていない。信長および家康の前で能を披露したというのは歴史的にはかなり大きな事跡であったに違いないはずであるが、その結果が不名誉なものであった為、梅若家はあまり触れたくない部分であるのだろう。

 先に、信長の前で能を披露したのは誰だったのかを考慮したが、能を演じたのは単に「梅若大夫」とだけ記されているだけで、それが39 世・梅若広長(妙音大夫)であったことについてもあまり明確には述べられていない。もちろん現代の梅若家からもそうした情報の発信は行われておらず、これも分かりにくさの要因になっているように思われる。
 しかも直久という、系図には登場しない人物がこの饗応で能を演じたという説があったり、38世と同じ名前の家久(実際は広長の別名)が能を演じたという説もあったりと、梅若家に関する郷土史の記述を調べても非常に混乱させられることが多い。こうした背景を見ると、梅若信長が折檻した人物がどの梅若大夫であったのかをあえて名指ししないようにしている、あるいは敢えてそこは曖昧にしているように思われる。

 ただ光秀の饗応解任によって歪を起こすように、宿舎、料理、そして能において不手際が生じたことを考えると、能における信長による折檻の原因が単に39 世・梅若広長の不手際だけでは説明不足であるように思われてならない。ただそれを理論的に支える文献等に基づく根拠は、今後の能研究、あるいは料理における研究の進展が待たれるところである。この点、梅若家による文献公開や、能や饗応料理に関する新たな文献の今後の発見にも期待したい。


天正10年の安土饗応は成功したか?


 家康に対する饗応について見てきたが、様々な要素を検討すれば、この饗応は失敗だったという事が明らかになってくる。特に信長が行わせようとしたと推測される「御成」については、完全な失敗であり、その為か、信長が「御成」を行おうとしたのではないかという痕跡すら、残された献立や能の構成および文脈から何とか汲み取るしかない。しかしそれこそが足利幕府の再興を願う光秀の望んだことであり、その為に「御成」としての饗応が成立しないための、「御成としての本質の解体」を光秀が非常に巧妙に行ったのではないかという点は、既に重ねて説明した通りである。

 食事の献立は残されていないが、5月20日にも家康を招いての食事が行われたことが分かっている。ただ20日の食事の席では、信長が自らお膳を自ら運んできて家康に供したことが『信長公記』には述べられている。

【 信長公記 】
 信長公御自身御膳を据えさせられ、御崇敬斜ならず。御食過候て、家康公、御伴衆、上下残さず、安土城山に召し寄せられ、御帷下され、御馳走申すばかりなし。


 主人が自ら膳を運ぶというのは、かなり異例のことであるが、文献によると信長は何度となく、自らお膳を運んで供することを行っている。以下に信長が行ったその幾つかの例を紹介しておきたい。


ルイス・フロイス


 1569年に訪れた、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイス一行に対して信長はもてなしを行い、信長は自らフロイスのお膳を運んできたことが『日本史』に書かれている。

【日本史】ルイス・フロイス
 思いがけなくも、彼(信長)自身が私のために食膳を持って戻って来て、彼の二男がロレンソのためにもう一つの膳を持って来ました。そうして、彼は「其方たちは突然のおいでであったから、供すべきものもない」と言いました。それから私がその膳を彼の手から受け取って、彼が私に示した手厚いもてなしを謝してその膳を押し頂くと、信長は「汁(飯に添えて食するスープ)をこぼさないように、まっすぐに持たれよ」と言いました。そうして、まだ少年であった彼自身の息子たちは、彼がこんな異常なことをするのを見て、不思議がって、じっと彼を見つめていました。


 ここではフロイス一行の為に、信長と息子が共に膳を運んできて給仕したと述べられている。


津田宗及


 天正2年(1574年)2月3日、堺の茶人・津田宗及も信長からの同様のもてなしを受けている。信長は岐阜城に宗及を招き名器の数々を揃えて茶会を催す。やがて茶会が終わり、宴となると、信長みずから、ご飯の「おかわり」を運んできたので大いに感じ入ったことが『宗及他会記』に述べられている。

【宗及他会記】
 御飯之再進 殿様御自身被下候其外 忝仕合大かたならぬ躰ニ候也

【現代語】
 おかわりを殿様自身が下された。その他にも並大抵でない、かたじけないことがあった。


と、宗及は日記に記している。

※私は子供の頃に三国志演義を愛読していた。その中で劉備玄徳が捕虜として連れてこられた豪傑があると、必ず王座を降りて、自ら縄を解いて上座に座らせて礼を拝することで敵であった者の人心掌握を行っており、始めは感心して読んでいたが、このパターンが何度か出てくると、子供ながらこれは劉備玄徳の必殺技だなと思うようになった記憶がある。信長のお膳運びもそれと同じで、信長の人心掌握の必殺技であると私は考えている。

 フロイスに対して、信長は異国の文化を吸収するには必要な人物であった。食事後「美濃には何度も訪れるように」とフロイスに述べており、信長はイエズス会の外国人を自分にとって役に立つ存在であると認識していた事を示している。また津田宗及は茶人であるが堺の豪商でもあり、信長の経済基盤を支える重要な人物として必ずや取り込んでおきたい人物であったに違いない。
 主人が給仕を行うとはかなりのイレギュラーであるが、信長はあえてこうしたパフォーマンスを行う事で、相手の心を掴む術を身に着けていたように思える。それは既存のしきたりのようなものを打ち破る手法でもあり、それ故にこそインパクトがあるので、いかにも信長らしい方法だったと言える。


徳川家康


 天正10年5月20日。この日の宴会で信長は家康のお膳を自ら「運んで据えた」ことは先に述べた通りである。翌21日に家康一行は安土を離れて京・堺に向かう事になっており、20日は安土での最後の饗応という事から信長はこのような歓待の意を示したと考えられる。
 しかし最終日の20日に、信長がこうした行動を取った背景には、やはり15日の家康到着から始まった饗応がことごとく不首尾に終わったことに対する、信長の取り繕いのようなものが、お膳を運んでくるという行為によって象徴されているとは考えられないだろうか。逆に言えば、信長自らがお膳を運んで来なければならない程に、饗応全体はまとまりのないもので、ギクシャクとした不首尾ともいえる手配で進められたと推測されるのである。

 信長が膳を運んできたことは、家康とその家臣の心を掴むのに効果的であったに違ない。それでも一連の家康への饗応が、もし「御成」として企画されていたとすると、ここでも信長は自らの手で、その成立を打ち壊したことになる。
 信長が考えた「御成」の成立は、光秀によってその本質が解体されたことで実質的に意味のないものとされ、そのことを知った信長は、光秀を解任することで、別の家臣によって「御成」を成立させようとしたのかもしれないが、もとより光秀の匹敵するような故実に通じた家臣がいるはずもなく、中途半端で結果的には「おふるまい」となって迷走した饗応が行われることになったものと思われる。またそれだけでなく、信長自身も、①能と舞の順番を変える事によって、さらには②主人が自らお膳を運んで給仕することによって、信長は自分の手で正統な「御成」の成立を結果的には潰してしまったのである。


最後に(今後の研究余地とその可能性)


 本文においては天正10年の饗応を主に能の観点から考察してみた。もし信長が「御成」を実現させようとしており、それを命じられた明智光秀が、緩やかな仕方で「御成」の要素を解体しながらも、それと同時に饗応役においてはパーフェクトに手配をこなしていたという観点から眺めると、あらゆること(明智光秀=進士藤延)が腑に落ちるように思える。

 またあらゆる有職故実に通じつつ、こうした高度な手配を進めることが出来た明智光秀とは、一体何者であったのかという疑問に対しても、ここで見せた饗応における政治的な駆け引きはある種のヒントを与えるものとなっているのではないだろうか。奉公衆として京の人脈に通じ、同時に文化や故実に通じた洗練された人物ということになれば、必然的に明智光秀とは誰だったかという選択肢は狭められてくるものと思われる。

 明智光秀=進士藤延という、小林正信博士の説は非常に興味深く、この説に基づいた観点から、能や料理において調査を行うならば、裏付けとなる証拠がまだ集められる可能性が感じられる。今回は「能」を中心に考察を進めたが、他にも永録 4年の三好邸で行われた「御成」の献立と、天正10 年に安土で行われた饗応料理の献立の比較を進めている。素材調達、加工品の扱いに共通点も多く、ここからも父:進士晴舎→子:進士藤延の関係性を導き出すヒントが得られるのではないかと考えている。今後はこうした食文化サイドからの調査を進め、補強を行うことで明智光秀像の解明に貢献できれば幸甚である。

終了




梅若家について


 梅若家の丹波の本拠地は京都府南丹市日吉町であり、この地を本拠地にして活動を行っていた。「京都府南丹市日吉町殿田イチバ79」の場所に曹源寺があるが、この曹源寺は1535 年に創始された曹洞宗の寺であり、ここが梅若家の菩提寺であった。この曹源寺には梅若家の代々の位牌と過去帳があり、歿年月の順に計十九名分が残されている。 以下のリストは女性位牌は省略してある。


梅若家の代々の位牌


徳称院梅永若賜景久大居士 享禄元戊子七月十三日(景久:1528 年卒)
春応院梅真静雲浄源居士 天文十三甲辰正月十三日(家久:1544 年卒)
宝岸院梅応治慶音大居士 天正十一癸未六月二日(広長:1583 年卒)
馨春院梅瑞玄祥居士 寛文三癸卯七月十三日(氏盛:1663 年卒)
嶺仙院梅岩玄智居士 延宝八庚申八月廿二日(氏久:1680 年卒)
南窓院梅覚利圓居士 元緑二己巳九月廿六日(氏重:1689 年卒)
鳳仙院梅翁禅蕊居士 宝永元甲申九月廿二日(氏興:1704 年)
霊運院梅心良香居士 宝永庚寅二月廿四日(氏知:1710 年)
春香院梅園宗友居士 享保癸卯七月廿五日(氏教:1723 年卒)
洞雲院梅岳玄有居士 延享四丁卯九月二日(氏喜:1747 年)
智芳院梅顔元端居士 賓暦十二壬午正月十三日 (氏頼:1762 年)
涼雲院梅岸白亀居士 文政元戊寅六月十一日(氏好:1818 年)
智徳院梅津宗寿居士 文政元戊寅十二月十二日(氏軽:1818 年)





参考資料



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